『存在と時間』第30節 情態性の一つの様態としての恐れ 要約 1.恐れの

『存在と時間』第30節 情態性の一つの様態としての恐れ
要約
1.恐れの分析の意図:この節では、情態性(Befindlichkeit)の一つの実例として恐れ(Furcht)が取り上げられ、情
態性の構造が明らかにされる。ただしここで恐れが取り上げられたのは偶然ではない。恐れと似た気分である
不安を第40節で恐れと対比させて根本情態性として論ずるための前置きにもなっている。
2.恐れを分析する際の三つの観点:恐れという現象は、三つの観点から考察できる。我々は、何にを恐れる
のか(das Wovor der Furcht)、恐れることそのこと(das Fürchten)、そして何のために(das Worum der Furcht)恐れる
のかを分析する。この三つの観点は、偶然提出されたものではなく、これらの観点とともに情態性一般の構造
が現れてくるのである。
3.何を恐れるのか(das Wovor der Furcht):恐れが、それに対して恐れるもの、つまり「脅かしてくるもの」は、
その都度手元にあるものであり、目の前にあるものであり、共現存在という存在様態で世界内部的に出会って
くるものである。恐れがそれに対して恐れているものは、有害で脅かすという性格を持っている。有害なもの
は、脅かすものとして近づいてくる。そのように近づいてくるものは、現れず通り過ぎることもあるが、この
ことが、恐れを減らしたり、消し去ったりするのではなく、恐れをかえって生み出すのである。
4.恐れることそのこと(das Fürchten):恐れること自身は、そのような脅かすものを自ら襲わせ開き示す。
恐れることは、何か将来の災いがまず確認され、次に恐れるというのではない。また、恐れはこちらに近づい
てくるものを最初に確認するのではなく、それを予めその恐ろしさのうちで発見しているのであり、次にはっ
きりとそれを見やりつつ恐ろしいものを自分に「明らかにする」ことができるのである。恐れつつある見廻し
(Umsicht)が、恐ろしいものを見てとるのは、それが恐れという情態性の内にすでにあるからである。気分付け
られた世界-内-存在のまどろんでいる可能性としての恐れは、世界をそこから恐ろしいものが近づいてくること
ができるような場面としてすでに開示してしまっている。しかも、近づくことができること自身は、世界-内-存
在の本質的実存論的空間性によってすでに開け渡されているのである。
5.そして何のために恐れるのか(das Worum der Furcht):恐れがそれに関して恐れているものは、恐れている存
在者それ自身、すなわち、現存在である。 現存在は、その存在者において、その存在に関して存在それ自身が
問題となる存在者であるが、そのような存在者のみが、恐れることができるのである。現存在を危険にさらす
ことは、なにかのもとにあること(Sein bei …)の脅かしである。恐れは、混乱させ、狼狽させる。何かを恐れる
こととしての何かのために恐れることは、世界内部的存在者をその脅かす性格において開示し、内-存在(現存
在)をその脅かされている性格において開示している。こうして、恐れは、現存在をもっぱら混乱させ、狼狽
させるという欠如的な仕方で開示しているのである。
6.他者のために恐れること:しかし、何かのために恐れることは、他者にも係わる。そして、我々は、他者
のために恐れるという言い方をする。誰か他の人のために恐れることは、その他者から恐れを除去しない。
我々が、他者のために恐れるのは、たいていの場合まさしく、その人が恐れておらず、脅かすものに無鉄砲に
進んでいく場合である。その際、ある人から奪い去られるかもしれない他者との共存在が「恐れられて」いる
のである。誰かにかに関して恐れることは、何らかの仕方で自分は襲われていないことを知っているが、恐れ
がそのために恐れている共現存在が襲われていることのうちで自分ともに襲われているのである。
7.恐れの様々な形:恐れの現象全体を構成する諸要素は変容し、これによって様々形の恐れが現れてくる。
脅かすものが出会ってくる構造には、近みに近づいてくるということが属している。脅かすものが、「確かに
まだだが、あらゆる瞬間に」それ自身突然に配慮しつつある世界-内-存在へと侵入する限りで、恐れは、驚愕と
なる。したがって、脅かすものの元では以下のことが区別される、すなわち、脅かすものが最も身近に近づい
てくること、および近づくこと自身の出会い方、即ち突然性である。それに直面して驚愕するものは、さしあ
たって何かよく知られたものであり、何か慣れ親しんだものである。これに対して脅かすものが、完全に全く
慣れ親しんでいないという性格を持つ場合には、恐れは、恐怖となる。そしてさらに、脅かす者が、恐怖とい
う性格のうちで出会ってくるのと同時に、驚愕の出会い性格、すなわち突然性という性格を持つ場合、恐れは、
戦慄となる。恐れのさらなる変様態を我々は、ものおじ、臆病、心配、当惑として知っている。恐れの変様態
のすべては、気分づけられてあることの可能性として、現存在が世界-内-存在として「恐れをなしている」とい
うことを指示している。この「恐れをなしていること」は、一つの事実的で「個別の」素質という存在的意味
で理解されてはならず、現存在一般の本質的情態性の実存論的可能性の一つとして理解されなければならない。