絶対的関与と現前 Sep 28. 2015 itabashi 1.絶対的重視から関与へ

絶対的関与と現前
Sep 28. 2015 itabashi
1.絶対的重視から関与へ
アドルノは教育者ティリッヒについて、以下のように語った。──「彼は一緒にいる人
の話を絶対的に重視しました。それはティリッヒ後期の神学において、人間に絶対的にか
かわるものという概念が決定的な役割をはたしていることを思わせます。彼とともにいる
と、彼に対するすべての人間が彼と絶対的にかかわっているのだ、と感じられてきます。
反省によるものではなく、まったく自然発生的なこのパウロ的行動様式のなかに、彼の思
想をひらく鍵があると思います」。
(1)絶対的重視の姿勢
「ゼミナールを指導しているときなど、彼は、最も劣った学生のなかからでも学生自身
の思考内容をはるかに越えたものを引き出す術を心得ていました。彼にとっては愚鈍は存
在せず、ただ真実というイデーがあるだけでした。つまり、真実のイデーは人間にとって
多かれ少なかれ明瞭であるか、あるいは多かれ少なかれ覆い隠されているというのです」。
彼は学生の思考越しにイデアに接近していただけでなく、学生の思考内容をその暗さのま
まに、暗さとともに、絶対的に重視したのである。
さらにこのことはハイデガーの真理論を連想させる。「現前するとは、明るくされて自
らを隠すことである」「恥じらいとそれに類したすべての気高さとは、隠れたままである
ことの光のもとで思索されなければならない」「明るめは、たんに明るくすることや光を
あてることではない。なぜなら、現前するとは、隠しから顕わしのうちへ出て存続するこ
とであり、それゆえに顕わしつつ隠す明るめが現前するものの現前に関わるからである」。
そして現前へとそのように決定されて送付される真理の在り方を《顕わしつつ隠し保つ定
まり(entbergend-bergender Austrag)》という決定句を用いて、神秘的に両項に二つの
襞の働きを見ている。
学生は真理を運ぶ媒介者ではない。彼は端的な他者であり、そのように現前するものと
して学生に関わるところに、現前への臨床的態度がある。彼の聴くことができるという能
力は、「他者は私と同様に真実であるがゆえに他者の話に真摯に耳を傾ける」という真実
の尊重のなかにあった。そして「彼のなかにはライプニッツ的契機(表出のモナド的調和)
が生きており、そこに、どんな人間にも精神の潜在的能力の存在を信ずる彼のすぐれた啓
蒙性(啓発力)」があった。「事実彼の影響によって、相手のなかに精神が目覚めてくる」
のであった。こうして〈学生を教育的にあしらわない〉という態度こそが、彼の「希有な
教育的影響力の源泉」であった。こうした非権威的態度によって学生は彼に感謝し、また
彼から多くを学んだという。
アドルノは述懐する。「私は彼の講義を聴いてみようと思い、目立たないように満員の
広い講義室の最後列に座りました。…翌日、私たちはたまたま知識人のサロンに昼食に招
かれていました。紹介が終わると彼はすぐさま、前日の講義に対する私の反応を微に入り
細に入り穿って話しはじめ、私を立ち往生させてしまいました。彼は最後列に座っていた
私の姿を認め、私がどこで賛成しどこで反対であるかを読み取っていたのです。こうして
彼は私の前日の無言の反応を再現してみせた」という。アドルノはティリッヒの〈ほとん
ど無限の感受性、つまり自己を忘れてまで他者の影響を受け入れる彼の能力〉を絶賛して
いる。「彼はいわば動くアンテナ装置でした。しかし、最も独特なのは、そうした彼の行
動形式が軟体動物的不定形(環境からの影響に対して敏感に自らを変形させて環境に順応
する軟らかな可撓性)ではなく、むしろヘーゲルの外化の概念、あるいは神学の理想であ
る自己放棄(「得るためには棄てよ」という信条の実践)に相応するものであるというこ
とです」。
──他者の話の絶対的重視とは、他者の話の実在に現前するためにまずおのれを外化す
ることであり、そこで文字通り自分を捨てることである。そうして得られた十全たる現前
において、純粋に在るものは絶対的関与と観照である。
(2)関与と現前
ティリッヒの他者に対する絶対的重視の姿勢が、一緒にいる人をして、「彼に対するす
べての人間が彼と絶対的にかかわっているのだ」という、絶対的関与の領域への関心を目
覚めさせた。絶対的関与とは根源的関与のことであり、関与そのもののなかに真実底を確
立することである。被関与者すなわち我々も相互的に彼に関与している、それも絶対的に
関与しているという直観は、我々の経験世界の根底に浸透し自己意識を触発する。呼応す
るように、我々に外化という自己疎外が立ち現れ、そうして主体内容を離れた疎外自己に
しばらくの世界遍歴を要求する。
こうした理性実践によってあらためて外部世界に自己を確立し、それへの自己還帰(逆
流出)を通して自己の完全なる一者性を直観する(それ自身の方を振り返る)という図式
もあり得る。だがこれでは他者は見えなくなる。他者と外化は発展体系の一契機に過ぎず、
体系の全体は夢想になりかねない。このようにおのれに限定される自我意識は放棄されな
ければならない。そして契機となった他者と絶対的関与について考えなければならない。
ここには絶対者の措定と、それへの自己の合一が無批判的に志向されている。そして我々
は絶対者の立場で越権的に他者と関わり得るのであろうか?そもそもが〈他者と関わる絶
対者〉は形容矛盾なのである。他者との関わりは他者からの限定を意味し、絶対者の絶対
性が損なわれる。〈限定は否定であるdeterminatio negatio est(デカルト、スピノザ)〉。a
bsolutus「絶対」はabsolvo「解き放す・自由になる・終わる・完成する」の完了分詞である。
「絶対」には自己解放と根源との物語が含まれている。同様に「絶対的関与」という宣伝
文句の図像には、限定からの解放という自己側面と、絶対者からの触発という世界側面と
の、宥和的全体の夢想が拡がっている。それゆえ〈他者と関わる絶対者〉といったお題目
は棚に上げて、それも自己実践という効利になければ、他者と関わる他者で十分といえる。
しかし敢えて絶対者の途上にあろうとする者は、ただ根源的絶対者への意識を触発され
た者である。彼は他者に依存せず、他者から隔絶し、遠く離れて完結するまっすぐな者で
ある。しかし同時的に彼は他者の支えとなる在り方を示してもいる。彼が有する特殊から
一般へと帰納する端的な真理への志向性は、本来的に他者と世界に通底しているからであ
る。
敢えて絶対者の途上にある者は、徹底して相対するもの、狭義の「自我」など持たない。
「自我」は放棄される。彼に在るのは〈今何が起きているか?〉と熟考するまなざしのみ
である。これは純粋認識であり、純粋観照である。彼は今ここで目の前の人に起きている
ことの証人(Zeuge, witness)として現前するものに現前する。証人は法廷に呼ばれ、ドイ
ツ語のZeugeではどう目撃したのかという経験的側面が、英語のwitnessではどう理解したの
かという知的側面が強調される。いずれも現前に生起する出来事(Ereignis;字義通りには、
見えるようにすること)に対する態度である。これらは関与における現前の臨床の二特徴、
すなわち〈経験し理解する〉という現前主義(現場主義)を与えている。
2.絶対的自我(das absolute Ich)
フィヒテの主観的観念論は、自我の三原則の提示によって果敢に開始される。敢えて絶
対者の途上にあろうとする者がそれを自らに自覚する絶対自我について、以下の三原則を
援用できるであろうか。これらは原則であり証明するものではない。
(1)第一原則「自我は絶対的に無限定である」Erster, schlechthin unbedingter Grundsatz
「自我は根源的かつ絶対的におのれ自身の存在を定立する(Das Ich setzt ursprünglich sch
lechthin sein eigenes Sein)」。
──ここでの自我は絶対的自我である。それは経験的意識の根底に働く純粋活動である。
「自我は行為するものであると同時に、行為の産物である。
(Das Ich ist zugleich das Handelnde, und das Produkt der Handlung.)
自我は能動的なものであると同時に、能動性によって生み出されるものである。
(Das Ich ist zugleich das Tätige, und das, was durch die Tätigkeit hervorgebracht wird.)
行為と事は一にしてまさに同一である。」
(Handlung und Tat sind Eins und eben dasselbe.)
フィヒテは、自我の純粋活動と自我の能動的定立の同時的結合を《事行(Tathandlung)》
という造語によって表現した。これは循環的な自己原因が一挙同時に無根拠から出現する
という先験的自我の純粋自己措定であり、ひとえに自己意識に見られる本質であるといえ
る。フィヒテはこうした定立の消息の必然的連関を、取り敢えずXと名づけている。(滝田
はXを〈世界がメタ化運動をするという構造〉として解説するが、冪としての図像化もあり
得る)。
フィヒテはA=Aという同一性命題を、A=Bという命題と対比させる。後者ではAは形式的
主語(Subjekt)の位置に立つ自我そのもの、Bは述語(Prädikat)の位置に置かれるすでに
存在する自我を意味する。Aは能動的にいま定立したものであり、Bはあらかじめ定立して
いたもの(前もって言われたもの)という反省材料である。結局のところXが確実であれば
自我の定立作用「Aは存在する(A ist)」も確実であり、そこから定立されたものへの自我
の反省「AはAである(A ist A)」への移行も意味できると追加解説している。
しかしこの同一性命題を「それぞれのAはそれ自らと同じである(Mit ihm selbst ist jedes
A selber dasselbe)」と読んできた西洋的思考は、すでにその根底に《自同性(Selbigkeit)》
の存在を捉えていた。ハイデガーによれば、ここでは媒介、連結、総合を与えるmitが存在
している点が重要となる。つまり媒介者によって「統一性への合一(die Einigung in eine E
inheit)」という性格が存在している。同一性は、あらかじめそれ自らに総合的なる本質を
基礎づけている。自我に自同性があるがゆえにA=Aという同一性命題は、AがAとして限定
されているという限定的存在者の存在を示すことを越えて、Aは無限定なるものとして存在
するということを示している。そもそも自我が絶対的に無限定であり、おのれ自身の存在
を定立するという自我の純粋措定によって、世界の〈メタ化運動〉という構造が定立して
いるからである。
(2)第二原則「自我は内容に関して限定される」Zweiter, seinem Gehalte nach bedingter G
rundsatz.
「自我そのものに対して非我なるものが反定立される(Wird dem Ich schlechthin entgege
ngesetzt ein Nicht-Ich)」。
──これは絶対自我の定立行為に対する根源的な反定立行為の提示である。
「根源的反定立は形式に関しては無限定的だが、質料に関しては限定される(Das ursprü
ngliche Entgegensetzen ist also der Form nach schlechthin unbedingt, der Materie nach aber be
dingt)」。これにより非我すなわち対象世界が定立され、質料的規定を受けて事実化され
得る。一見すると自明の理である命題〈-A nicht = A〉つまり〈非AはAではない〉について、
反定立(-A)から非存在(nicht = A)への推論の形式のみに着目するならば、《否定性》
という先験的カテゴリーが得られる。
(3)第三原則「自我は形式に関して限定される」Dritter, seiner Form nach bedingter Grund
satz.
「自我は自我の中において、可分的な自我に対して可分的な非我なるものを反定立する
(Ich setze im Ich dem teilbaren Ich ein teilbares Nicht-Ich entgegen)」。
──これは第一原則と第二原則の矛盾を現実のなかに可分的に解決し総合することで現
れる原則であり、可分的自我すなわち有限的自我の現実の姿であるといえる。
有限的自我と対象世界の両者は相互に制限し合う。そこには部分廃棄や分割があり、量
化する力の一般概念が把握できる。そして自我が非我を限定する働きは実践的であり、理
想的なものの系列が成立する。非我が自我を限定する働きは理論的もしくは知性であり、
現実的なるものの系列が成立する。
3.肯定と否定
(1)絶対矛盾的自己同一
敢えて絶対者の途上にあろうとする者の心底は、むしろ西田の絶対矛盾的自己同一に近
いと思える。これはフィヒテの第三原則にも示された可分的自我すなわち実践的自我が、
第二原則と第一原則との矛楯のなかを果敢に進行する際に、そこに在る《場所》の働きの
本質特徴を結合させた決定句であると思える。それは事行という自己原因的作動性をも包
摂し、定立と反定立あるいは個と多の相互補完的な絶対的矛盾を作り出す本質であるとこ
ろの絶対的媒介者すなわち絶対無の謂々であり、それの自己限定をかく呼ぶのである。こ
れは「Aは非AであるがゆえにAである」とする即非の論理と同じように思える。そして進
行過程に表現される折々の概念は、第三原則に現れた理論的自我の働きが作り出した限界
概念の系列と見なし得る。
西田は、「フィヒテの事行といえども、なお真の無の場所における自由意志ではない」
という。「真に自由なる意志は無限なる反省の方向、無限なる潜在の意義に対して自由な
るものでなければならぬ、即ちこれを内に含むものでなければならぬ、斯くして始めて無
から有を作るということができる」。「我々が世界の外から働くのでなく、その時既に我々
は世界の中にいるのでなければならない」という。ついに実践的行為と直観的認識の同時
的結合を《行為的直観》と呼ぶに至る。これは心身一如といった類いの神秘的結合の謂々
ではない。これは「全体が無媒介的に一時に現前するという如きではない。直観とは唯我々
の自己が世界の形成作用として、世界の中に含まれているということでなければならない」。
そもそも一者への還帰は、「それ自身の方を振り返って完全に見る」(プロティノス)こ
とであった。それ自身すなわち自己自身への還帰の方向において、世界のメタ化運動とい
う創造行為はすでに自己を含んでいる、それゆえ絶対的同一であるとして、それの本質で
ある場所という一般者の自己限定に大きな自由を与えるのである。
どうも西田は絶対と即非の直観に脅されつつ、否定の一覧を蹴り飛ばしながら、あるい
はそれらに補完されながら、自己の真実底における自己そのものへと練り込んでいったよ
うである。
(2)臨床的弁証法
我々も観念的にかつ純粋に、臨床作業に絶対を形容することができるだろうか。こうし
た臨床が取り扱う自己は、当然ながら実践的自我である。ここでも自我の三原則を遡行す
る方向を採る。
まず想像的世界における夢想者は、非我という現実を前にして、煩悶しつつ目を覚ます
ことで、いわゆる《転移抵抗》の箇所を突破しようとするだろう。そして、「同時的連想
にしたがってしつらえられている知覚指標」(フロイト)の組織化された構造によって、
現実に対して周期的に目を配っている〈安全システム〉の存在を垣間見るだろう。この働
きのおかげで、生物たる我々は過度の欲動に際して安全に分割(解離)されるが、失った
自己の一部は不可視の対象物となって自己世界を運動しているだろう。遠く環界的揺籃性
が染み込んだ言葉の記憶をトポロジカルに聴き込むこともあるだろう。時折我々は喪失物
や記憶物などを回収することで補完される必要がある。そして意識の根底で他者の言説を
聴くだろう。他者こそが同一性の媒介であり、真実であるからだ。それらとともに、絶対
的他者(絶対的自我)の領域から出現する否定のシニフィアンあるいは空白そして無のシ
ニフィアンを織り込んだ老婆心のような「言説」に愕然とするだろう。ここにおいて実践
的自我の観照は、断然、絶対矛盾の手前すなわち第二原則の場所に到達している。
ここに岐路がある。第一の道は理想系列を突き抜ける同一夢想の道であり、いわば想像
世界から憩室の如くに飛び出し延長したものの行程の道である。第二の道は現実系列を回
収する徹底した非同一としての自己疎外の道である。第一の道は肯定的弁証法であり、第
二の道は否定的弁証法と呼ばれ得る。「ヘーゲルの弁証法が、否定の否定は肯定であると
いう形で同一性の体系と化し、理性と現実との早まった宥和をはかったことで肯定弁証法
と呼ばれるとすれば、アドルノは概念化されない非同一的なものを言い表す技法として、
否定弁証法を一貫させようとする。それは体系や肯定に至ることはないが、(形式主義的
な抽象的否定と異なり)《限定された否定(bestimmte Negation)》の立場に立つことによ
って(一般的)懐疑主義に陥ることもない」。
臨床的弁証法における第一の対話の道は、想像と現実の宥和の道である。それは絶対を
睨みつつ、人生行程の難所に対して「虚偽の言説に可能な限り留まる」という、すなわち
〈誘い、嘘をつき、切り抜ける〉という柔軟な解を与えるだろう。つまり絶対を響かせつ
つ、その人の歴史および人生=身体に対して宥和的に取りなす進み方といえる。
第二の対話の道は宥和の拒否の道のである。それは同一性を擬装し主張する類いのasser
tive(代行的かつ断言的)な解決を敢えて採らず、絶対者を描いてはならないという《図像
化禁止(Bilderverbot)要求》を遵守する。ひたすらその人の実相に沿い続ける限界者の忍
耐強い姿を矻矻と伝える足取りであるだろう。
文献
・保坂一夫訳「ティリッヒを語る」(ティリッヒ著作集第3巻付録月報第10号)白水社197
9
・ハイデッガー著、宇都宮芳明訳「ロゴス・モイラ・アレーテイア」理想社1983
・Fichte. Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre. 1794
・フィヒテ著、木村素衛訳「全知識学の基礎」岩波書店1949
・フィヒテ著、隈元忠敬他訳「初期知識学」(フィヒテ全集第4巻) 晢書房1997
・岩崎武雄責任編集「フィヒテ・シェリング」(世界の名著43)中央公論社1980
・田中美知太郎責任編集「プロティノス・ポルピュリオス・プロクロス」(世界の名著15)
中央公論社1980
・滝紀夫のサイト「ドイツ観念論のページ」2015
・ハイデッガー著、大江精志郎訳「同一性と差異性」理想社1961
・西田幾多郞著「場所」(西田幾多郞哲学論集Ⅰ)岩波書店1987
・西田幾多郞著「絶対矛楯的自己同一」(西田幾多郞哲学論集Ⅲ)岩波書店1989
・フロイト著、小此木啓吾訳「科学的心理学草稿」(フロイト著作集第七巻)人文書院197
4
・廣松渉他編集「岩波哲学・思想事典」岩波書店1998
・ホルクハイマー・アドルノ著、徳永恂訳「啓蒙の弁証法」岩波書店1990
・若森栄樹著「精神分析の空間」弘文堂 1989