山 田 村 写 真 集

山
写
田
真
村
集
目
大杦観音
大杦山椙福寺版木
小杦観音
鰐口(わにぐち)
毘沙門堂
茶臼(ちゃうす)
観音堂
御不動
堂山
山神社
権現様
虚空蔵堂
梵鐘
半鐘
大黒天
天王様
道標
阿弥陀如来
番田郎の墓
大日如来
揚技(ようじ)井戸
子育て地蔵
子育て地蔵と地蔵菩薩
次
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馬頭観音
馬頭観音及び大日如来
稲荷様
三王様
不明(俗にホーソー神という)
金毘羅様
三峰権現
六人地蔵と不明の地蔵
石尊様
恵比須様
愛宕権現
青竜権現
浅間神社
石塔山
奉納経
納経塔
御岳山
神楽櫃
手洗石(手水石)
狛犬(御神犬像)
征精記念碑
奉納経その他
山田村写真集
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大杦観音
山田1446番地字大杦境内内五段一畝十五歩国礼十五番、大杦山椙福寺にあった観音である。
天長二丙午年(825年)境内の大樹を以って七堂茄藍(ななどうがらん)を建てたという。
七堂茄藍とは金堂、講堂、塔、経蔵、鐘楼、僧房、食堂の建物のある事である。
延喜二十一年(922年)火を失して全部を焼失。
健長二年(1250年)再建し寺領百七十石の御朱印を附せられた。
然し永禄三年(1560年)霜月十七日近火の為、焼失、仮堂の儘となる。
その後、本尊は小杦へ移され、仮堂は乞食が寝泊まりして失火。
現在に残る建物なし。
大杦山椙福寺版木
版木とは文字や絵図を彫刻した木片で、
これに墨を塗り御札等を作ったものである。
山田村写真集 1
小杦観音
立派な墓場の中に、寛政六甲寅年より嘉永三成年迄、六基の七僧塔(坊さんの墓)があった。
小杦観音のあった下の台に小杦寺があり、1.5メートル×1.2メートルの大きな敷石は今も残っている。
他国から来る大杦山椙福寺へお詣りの山伏達は、日暮迄には小杦寺へと足を急ぎここに泊った。
そのためか、この小杦寺を山伏寺とも云った。
鰐口(わにぐち)
奉懸御宝、正徳五未七月、新しく建った石原上屋
敷に薬師寺があった。
その薬師堂の鰐口である。
現在、又左エ門にある石原組の半鐘も、
この薬師堂の半鐘である。
薬師とは、薬師瑠璃光といい、万病を治し、
人の寿命を延ばす事を本願とする仏である。
毘沙門堂
この毘沙門堂は、明治33年に焼失した堂である。
写真の石は、その6年後、明治39年8月21日に建てた石で、
他に手洗石と納経塔がある。
天保十一年三月
願主友吉
山田村写真集 2
茶臼(ちゃうす)
金ヶ塚の裏に十何枚かの田の跡がある。この田の上から2枚目に、山居寺
があった。
年代等は不明であるが、この田は竹中下より新屋(石原下屋敷)へ婿入り
した人が持って行き、その後田は荒れ、足袋屋に渡った。
そして、甚九郎で再び田にして、林の下、戸倉絳三郎さんが耕作した。
その頃この田から、茶碗のかけらなどが出てきたという。
昭和初期から耕作した脇の川名秀一さんの話では、その様な形跡はなく、
山に水仙が多く咲いていたという。
星田、川名義高さんは親代々、山居寺の茶臼と言い伝えられ、茶臼の上の
石を持っていた。向坂に豊左衛門という人がおり、その人が下の石を持っ
ており、高照寺に寄付したといわれ、この度高照寺間からそれが現われ、
義高さんの寄付により元の姿に返った。
現在に残る山居寺の唯一の品である。
観音堂
この観音堂は、御屋敷下の石田裏、竹山の中にあったものが、
ここに移されたものである。
言い伝えによれば、この観音堂は山居寺の分かれだといわれる。
山田村写真集 3
御不動
亡僧塔(坊さんの墓)三基あり、内二基文字不明。
明治三年二月七日 了恱法師
この御不動は草屋根の大きな建物だったが、改修されたのだという。
不動明王とは、右手に剣、左手に捕縄を持ち、常に大火焔の中にあって石上に坐しているの
が、その姿である。
堂山
この山の中腹に堂があったと伝えられ、今も堂山と呼ぶ。
しかし堂があった形跡は何一つ見当たらない。
ただ、この山の北東に坊主座敷という所があり、この山は堂なき後、高照寺で管理し、それ
を谷下で買ったものという言い伝えがあるだけである。
山田村写真集 4
山神社
年代不明。祭神は大山祇命。
現在も旧暦6月15日、庭なぎをし、籠りを行っている。
この神社は山田区の山神社より年代は古いと伝えられ、何時の世か釜湯を沸かし熱湯を榊につけて、
全身に浴び修行したという。
区の山神社にある鈴は、この神社の前にあった井戸の中から出てきたものという言い伝えもある。
権現様
文政6年、戸倉半右衛門建立、徳川家康を祀る。
管理者、戸倉英一氏宅に棟札が保存されている。
元和2年(1616年)家康は死して、東照宮大権現の号が
与えられ、神として祀られた。
虚空蔵堂
廃屋、堂守の墓4基、亡僧塔1基、亡僧塔
寛政七卯年九月廿一日 伊豆加茂郡
本尊は東星田集会所に移されている。
虚空とは、人々にこれを与え満足せしめるという菩薩。
形象は肉色で頭に五仏の冠をいただき、右手に剣を持ち剣に光炎があり、
左手に蓮華を持ち、その上に緑珠がある。
山田村写真集 5
梵鐘
国重要文化財、弘安九年九月十二日
永禄三年霜月十七日、大杦山椙福寺は近火のため堂塔全部を焼失し、その時、鐘楼堂より鐘がなくなり何時の世か小網寺
に現れたという言い伝えがあり、この鐘の余韻が、大杦山に帰りたい…帰りたい…と泣くように聞こえていたという。
確かにこの鐘には小網という文字はない。池の間の教文ははっきりしているが、写真向かって左側の池に消えたような文
字らしき跡がある。
半鐘
半鐘
文久四甲子年二月
房州平群山田村不動堂什物
願主 壇中
世話人 小平
西村 和泉 守作
山田村写真集 6
享和三発亥二月吉日
房州平群山田村虚空蔵堂什
願主 浄心
世話人 上台中 若者
半鐘
天保十四発卯二月吉日
房州平群山田村薬師堂
この鐘には薬師堂と書いてある。今の石原上の裏にあった薬師堂の鐘である。
半鐘
謹惟今茲値当高祖承陽大師六百五十回久大遠諱矣子時小衲初住於是山斯何幸哉單大師之天恩旦開祖歴世之厚恩
也因卜本目茲日而請大本山特派布教師豫修聊遠忘之寸喪欲酧一〇分然当山従来無報鐘幸此際合議外護檀信以鋳
造個新鐘復是最幸中之最幸歟予堪歡喜踊躍之至云。大嶺山高照禅寺
十五世 小 住
明治世六年三月廿九日
国生祥謔誌焉
「今ここに曹洞宗の開祖承陽大師の六百五十回忌を向えるにあたり、此の寺の住職としてここに居合わせる私
は何よりの幸である。本日この日、大本山より特派布教師をむかえお念仏をし、十分の一でも御礼としたい。
然し此の寺には従来鐘が無く此の祭壇家信者と話し合って新しく鐘を造り、最も幸に思い喜びにたえない」
大体以上のような文である。
山田村写真集 7
大黒天
川辺台では、現在も真野大黒縁日の日、その大黒とこの大黒様に御詣りし籠りを行っている。
高さ60センチ、横巾40センチ
大黒天
年代不明、身長53センチ。
この大黒様は台石三段あり上一段は大黒様についているが、二段目との間が動き、此の大黒様の向いている方向の家は
栄えると伝えられ、時折誰となくこの山へ登り向きを自分の家の方向に直しに行ったという。
他に大杦下旧崖ノ下宅地に石宮の大黒がある。
山田村写真集 8
天王様
この御輿は明治33年まで吉尾村八丁で吉保八幡神社の祭りに出していたもので、
翌年八丁で新しい御輿に作りかえた折、石原組で買い入れたものである。
世話人以外は15才未満の者だけで出した。
道標
嘉永元年六丑年八月祖忌日
国札所十五番大杦山
大杦山椙福寺 当浄光院
発願主 先住 亮範
現住 亮鄚
世話人 白石幸右エ門
この道標は源兵エの下、小杦寺入口にあったが、ここに移されたものである。
亮範、亮鄚は小杦寺の住職であり、白石幸右エ門は当時店を出していた細入りの先祖である。
この石は上台新屋の前の畑から出たもので、この道標と一緒に荒川山神社の鳥居が作られ、
残る石は上台新屋の軒下石に並べてある。
山田村写真集 9
阿弥陀如来
阿弥陀様ほど形像の種々ある如来も少ない。この仏を信ずる者は必ず極楽浄土に住生し、ただ
一向専念に仏名を唱えれば仏は大悲の光明を照らし、念仏の行者をお迎え下さるという仏であ
る。
御屋敷より分家の際、この仏を先祖と思い信心せよと、この如来を貰って分家したという。
番田郎の墓
江戸時代の自身番に所属した小使い。
火の用心の見廻り、行き倒れのあと始末、村人の悪事の取締り等に当っていた。
番田の多くは村に籍も無い他国者が雇われていた。そして、そのほとんどが自身番の近くでゾ
ウリ、駄菓子等の販売に内職していた。
正徳二年十二月廿四日
享保十七年正月九日
宝厂十二年正月十一日
宝永三年二月七日
貞享三年七月廿一日
白岩西入口に石造地蔵菩薩がある。全く素人の作であるが白岩西先祖の喜三郎という人が病気
の子供を助けたいため、一心不乱に刻みこんだものだという。
山田村写真集 10
大日如来
年代不明。
この仏像がある事を知る人は少ない。形像からして大日如来であるが、御屋敷分家の八兵衛屋敷跡に大日如来
のある事は、何か意味がありそうに思える。
全長30センチ、座高24.5センチ。
揚技(ようじ)井戸
治承四年八月、相州石場山の戦いに敗れた源頼朝が安房国竜島へ上陸し長狭氏との合戦に行く途中、この地を通り、
ここで食事をとり揚技を使った。
そしてその揚技をここに突きさすと泉が湧き出た。以来この水をつけると眼病が治り、この水を飲むと胃病が治る
と伝えられ、今も水を貰いに行った竹筒が下がっている。
山田村写真集 11
子育て地蔵
安産子育ての神。
その祭神を「小花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)」としている。
この神が猛火の中にあった三柱の御子神を産んで無事であったという伝説から、安産の神として祀るの
である。
縁日は、十七日、十九日、廿三日である。
子育て地蔵
年代不明。
以前は道行く人、行商人などが時々お参りする姿
を見かけたが、今はその姿もなく見られない。
子育て地蔵と地蔵菩薩
今の生稲商店の場所に、乙沢の隠居の店があった。その隠居の子で、おはるという娘がいた。
おはるは軍人と結婚したが、間もなく離婚し暫く店にいて、時折高照寺へ遊びに来ていた。
そのおはるは若くして死んだ。力を落とした老夫婦は、おはるの地蔵菩薩をここに建てた。
一名おはる地蔵という。
時の住職は三浦梅渓だった。
山田村写真集 12
馬頭観音
文化十二年正月
仏教の六観音の一つ。馬頭観音、馬頭大士、馬頭明王などともいわれる。
形像は人身頭上馬頭が多い。
馬頭は宝馬が四方の悪魔をくじき伏すといわれる。
馬頭観音
このように文字だけの馬頭観世音は、他に
も全々塚山頂、上組林の中、石原天王様裏、
清水上、市平下など数多く見る事が出来る。
馬頭観音及び大日如来
写真右、馬頭観音 左、大日如来
平安時代初期弘法大師が唐国から真言密教という宗派を持ち帰り、
ここに大日如来が大きく浮び出してきた。
大日如来は智慧の光明を何の片寄る事がなく平等に法界全体を照らすという。
馬頭観音
安政二年一月
大日如来
天保七申年四月吉日
山田村写真集 13
稲荷様
年代不明。
稲荷様の本殿は京都伏見稲荷である。元明天皇の和銅年間、伊奈利山に稲の神を祀り、これが稲荷神社の始まりだとい
う。祭神は倉稲魂命である。
この倉稲魂命は食物の神で御饌神といい、それをみけつかみと読み、萬葉仮名で三狐神と書く。
この狐という字にちなみ、狐をお稲荷様の使者と考えるようになったという事である。
稲荷様は他に宮桹涯ノ下入口、ゴルフ場、喜平治山(伊平、稲荷松)等にもある。
三王様
他に手洗石があり、昔はここに登る数段の石段が
あったという。
比叡山の麓にある日枝神社の祭神。猿を神使いとす
る事で知られ、安産、縁結びに霊験があるとして信
仰されている。
年代不明。
不明(俗にホーソー神という)
年代不明。
この近くに火葬場があり、昔天然痘で死ぬとこの火葬場で焼かれた。
そして天然痘にかからぬ様この石宮に赤いヘイソクをあげてお祈りしたという。
ここは街道より大杉山椙福寺への参道の近くでもある。
山田村写真集 14
金毘羅様
現在二段の石段と手洗い石だけで、石宮は裏山の涯から何十メートルも下へ落とされ、今はない。
数年前まで東星田組に金毘羅様という籠りがあった。香川県仲多度郡琴平町金毘羅宮の信仰。
三峰権現
安政六末年二月吉日埼玉県秩父の三峰山にまつられた三峰権現山岳崇拝に
由来するものと言われ、盗難災難よけとして信仰された。
この神社の御札を門戸に貼れば盗難を免れるという。
この石宮は安政六年二月石原上、下、宮ノ沢台の神楽中間が三峰山にお詣
りし記念に建てたもので、明治頃までこの場所で籠りがあった。
高さ80センチ、巾62センチ。
六人地蔵と不明の地蔵
左の六人地蔵と他に不明の地蔵二躯、間一躯は首がない。年代等も不明。
イボが出来るとこの地蔵の石でこすると不思議に治ると伝えられ、現在でもこの付近の人はイボが出来る
とこの石で治すという。
山田村写真集 15
石尊様
年代不明。石尊様とは雨乞いの神である。
この御殿山ほど伝説の多い所はない。一説には里見氏に仕えた御屋敷の先祖が、ここに仮屋建て鷹狩りをした
という。
又、一説には、丸子の王子と称する神がこの地方を平定するおり根城とし、そのため御子神に王子神社があり、
旧丸村の地名や姓はこれに由来している。
そして大名がこのあたりで鷹狩りをしたと伝えられている。
恵比須様
年代等不明だが、同じ様な石宮が三基別々の方向を向けて建てられてある。
管理者は助左衛門で、この宮の上に八畳間位の広場があった。
愛宕権現
京都市の北西、愛宕山の愛宕権現の信仰。祭神は火の神という。
勝軍地蔵、泰澄大師、不動明王、毘沙門を祀り、総称して愛宕権現と称した。
となりに大日如来(明治十七年申八月)の石碑がある。
山田村写真集 15
青竜権現
年代不明。
この涯の中腹に石宮がある。近寄れない場所である。
そしてこの涯の下に清水の湧き出る井戸がある。
何時の頃かこの井戸から水を汲み、この涯の上から石宮に向って流し雨乞いをしたという。
浅間神社
浅間様とは初め富士山の活火山を神とし崇拝したが、後にその山の神を祭る社が造られその神を木花咲耶姫命と説
定するに至った。
もともと富士山を拝むための神で、富士山の四方はもちろん全国に千五百社もある浅間神社にその御神体はないと
いう。
ここには手洗い石があり、昔は三の鳥居まであったという。
石塔山
年代不明。
軍茶利夜叉明神の文字あり。
この山は色々な呼び名で呼ばれており、よろい塚、
かぶと山、石塔塚等々、ここは御屋敷の裏山であり、
鎧、甲が埋めてあると伝えられている。
山田村写真集 17
納経塔
奉納経
三界萬霊塔
西国 法卯隆広 川名久右衛門
坂本 川名八郎兵
秩父 川名藤吉 川名市右エ門
天保二卯年四月 天下泰平村中安全
御岳山
ここの石は裏のゴルフ場へ落ちて、今はなく台石のみが残っている。
荒川村 山田村 中村 講中
明治十六年五月十八日
山田村写真集 18
町道際坂東。
秩父のお経を埋められたものと
いう。
年代等不明。
神楽櫃
安政の頃山田村に神楽舞いがあった。
石原上、下、宮ノ沢台の仲間である。
明治になってから籠りだけとなり、神楽は区で保管した。
その後、払い下げたものである。
手洗石(手水石)
嘉永二年四月奉納 氏子
現在山田にこのような手洗石は山中に埋
もれたものなど含めて十二石ある。
狛犬(御神犬像)
天保十亥年二月吉日
左 願主孫修繕
川名丈右衛門
山田村写真集 19
征精記念碑
東京鎮 室兵卒
生稲夘之助墓(宮ノ沢)
従軍者
壱等卒
高梨善次
川名瀧蔵
川名友次郎
奉納経その他
奉納経。元治二年四月
羽黒山、湯殿山、月山。五基
羽黒山、湯殿山、月山は山形県の有名な出羽三山で磐梯朝日国立
公園になっている。
これらは古来東北随一の霊場として有名であり江戸時代は信仰と
称し、物見遊山をかね幾月もかけて出かける事が流行り、その記
念に石に刻んだものである。
山田村写真集 20
以上、ここにあげた写真集は文化財からもれたもの、伝説の残るものばかりを集めたものである。
この外、合戸山山頂、大杦岩崩れ山頂など幾つか不明の石碑は残っている。それらは再び世に出る時が来るのであろうか…
昭和51年10月 1日
平成27年 6月 1日
山田村写真集
初版編集・発行 富山町山田 川名克巳
再編集
山田区青年会 ©