報 恩 法 要 な ら び に 、 青 山 俊 董 老 師 講 演 会 - 曹洞宗 深見山 龍源寺

龍源寺、本堂裏の
松の樹たおれる
四月上旬に日本列島を襲った強風
により、龍源寺も被害を受けました
ので皆さまにご報告申し上げます。
しゃきょう え
ま す。参 加 さ れ た 方 々、お 疲 れ さ ま
郡市青年僧侶の会による写 経 会開催
、十日町市クロステンに
七月八し日
ゃ きょう え
お い て 写 経 会 を 行 い ま し た。総 勢
でした。
壊 さ れ る と こ ろ で し た。そ の 他、大
キがなかったら本堂が部分的に破
の被害はありませんでしたが、ケヤ
れかかるような状態になり、伽藍へ
ております。皆様も十分に自然の脅
しさを痛感させられることが続い
り、豪 雪、強 風 と 自 然 の 強 さ と 恐 ろ
様 で す。長 野 県 北 部 地 震 に は じ ま
区いたるところで被害を受けた模
大瞬間風速が確認され、この中津地
う目的と一つになっていかなくては
するという手段が、写経をするとい
中野老師の法話の中で「写経をし
て何かを求めるのではなく、写経を
ありました。
半 の 写 経、納 経 諷 経 と い う 内 容 で
中 野 尚 之 老 師 に よ る 法 話、一 時 間
てん
りました。今回の写経会に設けられ
と し て 写 経 を 実 践 す る の で は な く、
写経をしているなかに写経をすると
いうこと自体が目的でなければなら
な い、い ろ い ろ な 考え・思 い を持ち
込むのではなく、ただひたすらに写
経を行として実践していく、その写
経三昧になっている瞬間が大切なん
だ、というような意味合いを込めた
テーマでありました。
皆さまから預かった写経は今年の
とく すい げん しょう
じゃくしつしんじょう
第 十 八 世・ 徳 水 原 松 大 和 尚 百 五 十
ごん しゅう
回忌、同じく第十九世・寂 室 真 静 大
和 尚 百 回 忌 を 厳 修 い た し ま し た。あ
わせて青山老師による講演会も開催
させていただきました。
五分に青山老師
当日午前七時ご四け十
い さん ぱい
御 到 着 の 儀 式 五 鏧 三 拝、八 時 半 よ り
青 山 老 師 に よ る 講 演 会、十 時 半 よ り
報恩法要という流れで執り行いまし
た。当日は九十名の檀家の皆様、五十
名の龍源寺・智泉寺梅花講の皆様が
駆 け つ け て 下 さ い ま し た。こ の 行 事
のためにご協力してくださった近隣
寺院の皆様、龍源寺出入りの皆様、お
手 伝 い を し て く だ さ っ た 皆 様、あ り
がとうございました。
ださい。
無料です。道具をもってきてく
クロス テンの写 経会参加の 方は
参加費 千円
※道具はこちらで全て用意い
たします。
期 日 九月三〇日(日曜日)
午後三時~五時
場 所 深見山 龍源寺
寺まで御一報ください。
龍源寺 において も写経会を 行
います。参加されたい方は龍源
十二月に大本山総持寺におさめられ
二 四 〇 名 ほ ど の 方 に 来 場 い た だ き、
般若心経の写経をしていただきまし
小様々な木が折れ屋根も一部分が
威に気をつけていただきたいと思
ならない」という印象深いお話があ
しょう し
た。開 会 法 要、見 附 市 天 徳 寺 住 職・
破損したりと、今までにないような
うところであります。
た テ ー マ は「 た だ、ひ た す ら に 」
。癒
龍源寺本堂裏にある大きな松の
樹が倒れました。幸いケヤキにもた
風による被害がでる状態となりま
松の樹の伐採は、雪が消えた五月
下旬頃に無事終えることができまし
しや安らぎ、願いや祈りごとを目的
せ
い て 大 雄 山 最 乗 寺 独 住 第 四 世・ 天
どく じゅう だい し
六 月 二 十 四 日、愛 知 県 専 門 尼 僧 堂
どう ちょう
堂 長・ 長 野 県 無 量 寺 住 職 で お ら れ、
かい こう げつ
海 皎 月 大 和 尚 百 回 忌、深 見 山 龍 源 寺
あお やま しゅん どう
のう きょう ふ ぎん
した。津南町は新潟県内で一番の最
た。関わってくださった業者のみな
さん、ありがとうございました。
報恩法要ならびに、
☎(025)7 6 5 - 3 0 5 5
龍 源 寺
深見山
老 師 に お い で い た だ き、龍 源 寺 に お
青山俊董老師講演会
〒949-8311
新潟県中魚沼郡津南町中深見
8
1
◎編集発行◎
全国で活躍なさっている青山 俊 董
青山老師、ご到着
大勢の僧侶でお迎え
お迎えの儀式、五鏧三拝
伐採作業の様子
http://www.shinkenzan.com
青山俊董老師
危機一髪、奥のケヤキに支えられている状態です
平成 24 年 8 月 1 日
龍 源 寺 報
64 号
第
平成 24 年 8 月 1 日
龍 源 寺 報
64 号
第
方 で あ り ま し た。こ こ に 講 演 の 一 部
うのない今、ここにいる自分は今ま
で あ り、出 発 点 で あ る。ご ま か し よ
余生なんていう言葉はない。人の
一生は円相の如く。いつでも終着点
という結果は変わっていきます。
じ取るアンテナ次第で花を咲かせる
敗にこだわらなくなるとなおよい。
な れ る と な お よ い。さ ら に 成 功・ 失
し、より高く。そしてまわりに優しく
い の が 恥 な の だ。た だ 転 ば ず に ま っ
で は な く、こ だ わ っ て 起 き 上 が れ な
禅 師 さ ま み た い だ っ た 」。い ま、こ こ
変 わ っ た よ う に 感 じ ま し た。ま る で
五年前に会った時とはまた雰囲気が
こ の よ う に お っ し ゃ い ま し た。
「 四、
お 方 で あ り ま し た。あ る 尼 僧 さ ま が
拶 の 中 で 申 し ま し た が、そ の 通 り の
住職が最も尊敬しているお方だと挨
蓮華は泥の中から咲きます。きれ
い な 水 で は 蓮 華 は 育 た な い。人 間 も
とアンテナは立ちません。
アンテナは立ちますが、幸せすぎる
ん。悲しみ苦しみを経験することで
取るアンテナがなければ成立しませ
思うには自分自身に出会いを感じ
「あのことに
「あの方に出会えた」
出会えた」
「あの教えに出会えた」と
にも地獄にもなる。
り。自分の心次第でその環境は浄土
その人のいくところ、とどまると
こ ろ が 浄 土 に な る。そ の 逆 も し か
ていることと同義である。
時間は、つまらない命の使い方をし
る。つまらないつまらないと過ごす
か。時間の使い方は命の使い方であ
・現在・未来の三世通貫。前
ご過さ去
い だん
後 裁 断。今 日、た だ 今 を ど う 生 き る
光に照らされて自らの暗さに気付く
「松影の暗きは月の光なり」月光が
明るいほど暗さは増す。教えという
大丈夫。私が瀬戸物と気づく柔らか
瀬戸物と瀬戸物がぶつかると割れ
てしまう。どちらかが柔らかければ
である。
たところをにらむ人格の高さが大切
す ぐ に 行 く よ り も、失 敗 を 踏 み 台 に
内容を御紹介させていただきます。
での人生の総決算の自分である。
出会いは人生の宝
講 演 出 会 い は 人 生 の 宝。ま さ に こ の 度
の 講 演 に よ る 青 山 老 師 と の 出 会 い は、
私の人生の中において限りなく大き
「 勝 っ て 騒 が れ る よ り、負 け て 騒
がれる力士になれ」勝ち負けを超え
を大事にしながら生きられているか
同 じ。悲 し み 苦 し み と い う 泥 を 肥 料
見つけ、仏の目は自分の非を見つけ
ぜん
ら こ そ、年 齢 を 重 ね て な お 輝 き を 増
に か え、自 ら の 人 生 に 花 を 咲 か せ て
「うしろをひくおどろ
幽霊の絵は、
髪は過去をひきずる象徴」
「両手が前
る。自 分 の 目 で は わ か ら な い。仏 の
さん ぜ つう かん
し て お ら れ る の だ な と 感 じ ま し た。
いかなくてはならない。よき出会い、
にあるのはまだこない未来を求める
心の目ならわかる。
「気づく」という
く、大切な宝物となりました。龍源寺
お 話 は た い へ ん 素 晴 ら し く、な お か
よき教えという縁を加えて花を咲か
象徴」
「 足 が な い の は、今・ こ こ、と
きていない象
いう現在を生
闇から光へ。光に照らされて自ら
に気づき、軌道修正をしながら生き
ことが大切。
ことが大事。凡夫の目は他人の非を
い心をもつ。
つそこに在るという雰囲気だけでこ
せ て い か な く て は な ら な い。縁 を 感
徴」幽霊の絵の
て い く。懺 悔 し な が ら 誓 願 を 立 て、
せい がん
ような自分に
いま・ここを生きていく。
さん げ
なっていない
皆さま、この青山老師との出会い
と い う 縁 で、自 ら の 中 の 泥 か ら、自
し
「投げられた
ところで起き
ぼ
分なりの美しい花を咲かせていただ
こ
る小法師かな」
天保四年
天保十三年
嘉永四年
嘉永六年
安政六年
二十年
十九年
明治三年
同 十七年
同 十八年
同
遺
三十五年
偈
出生。
福勝寺十八世に就いて得度。
駒込吉祥寺栴檀林越後寮に入寮在学。
ペリー黒船来航により江戸で学ぶことが困
難になり、龍源寺に安居。赤山義塾で学ぶ。
龍 源 寺 末、割 野 薬 師 堂 寒 坐 中、耳 を 患 う。療
養後、加州天徳院に掛塔。奕堂門下の人とな
り本懐を遂げる。後の永平寺森田悟由禅師が
維那を勤める。奕堂門下に悟由・天海の二龍
有りと称せられる。この時、二十七歳。
福勝寺第十九世に就く。この時、三十八歳。
永平寺、単頭に就く。
大雄山最乗寺独住第三世滝谷琢宗大和尚、永
平寺の禅師に就く。永平寺滝谷琢宗禅師、総
持寺畔上楳仙禅師両名の懇篤なる勧諭に最
乗寺後席を内諾する。
大雄山最乗寺晋山祝国開堂。独住第四世。こ
の時五十三歳。
曹洞宗大学林総監に就くが九ヶ月で依願退
職。大雄山内の大営繕に従事。
「 八 十 春 秋 弄 風 煙 今 歳 方 堪 謝 諸 縁 閻 王 猛
声問世寿 雖卑与釈尊同年」
同 四 〇 年 総持寺鶴見移転認可。
同 四十一年 鶴見新山拝登。
大正二年
五月十三日午後九時、示寂。世寿八十一。
同
同 三十三年 総持寺再建副総裁となる
同 三十四年 三月、畔上禅師退院上堂白槌師を勤める。続
いて総持寺新命西有禅師へ内賀。更に石川素
童監院と最乗寺住職交代の内諾をする。
四月十一日午後八時、最乗寺退院式挙行。住
山十七年。開山了庵慧明禅師と同年なり。時
に六十九歳。十二日午前一時、随伴一名を従
え下峰。十五日、無事福勝寺に到着。
七月、総持寺西堂職の辞令到着。
永平寺にて道元禅師六五〇回大遠忌。西堂と
総持寺専使代香を勤める。
同 二十五年 最 乗 寺 開 山 了 庵 慧 明 禅 師 五 百 回 遠 忌 に 因 み 道 了
尊大祭御開帳挙行。大祭中、総持寺分離宣言書到
着。永 平 寺 森 田 禅 師 よ り 総 持 寺 分 離 大 事 件 に つ
き来議を乞うとの特命有るも大祭中を以て辞す。
同 二十六年 曹洞宗事務取扱の辞令を受ける。
同 二十七年 両本山大葛藤を根蔕より載断。
同 二十八年 両本山復旧
同 三十一年 総持寺大火。貫首禅師、石川監院とともに焼跡巡視。
同
略 歴
きたいと思います。
の時の龍源寺住職に恩義を感じて下さり、自らの自
伝 に「 温 恭、篤 実、厚 道 の 尊 宿 」と 述 べ て お り ま す。
龍源寺に嘉永六年にきてから安政六年までの七年
せき ざん ぎ じゅく
間、龍 源 寺 を 基 点 と し て こ の 地 方 で 過 ご さ れ ま し
た。安政三年に龍源寺では 赤 山 義 塾 が開講されま
したので、赤山先生にも学んでいたようです。無理
が た た り、体 を 患 っ て し ま う こ と も あ り ま し た が、
龍 源 寺 で 過 ご し て の ち 念 願 で あ っ た 金 沢・ 天 徳 院
えきどうぜん じ
の奕堂 禅師(のちの大本山総持寺独住第一世の禅師
さま)の門下に入り懸命に修行され、天海老師の活
躍が始まっていくことになります。
そ の 後、龍 源 寺 に 来 山 さ れ た の は 明 治
十九年。大雄山最乗寺独住第四世に就任
された年のことでありました。修行時代
にお世話になったということで御挨拶
に参られたようであります。そして明治
三 十 四 年 に 最 乗 寺 の 住 職 を 退 董 さ れ、そ
れからお亡くなりになるまでの約十年間
の間に何回か龍源寺を訪ねてくれまし
た。龍源寺にある赤山先生顕彰碑も天海老師の筆
によるものであります。そして松之山温泉にも何
度か来訪し、その度に龍源寺第十九世・寂室真静
老師を誘い、親しくお会いしていたようでありま
す。このことからもわかるように龍源寺住職三世
代 に わ た り お 付 き 合 い を い た だ き ま し た。明 治
四十四年十一月四日、横浜鶴見で大本山総持寺御
移転の式が挙行され、七十九歳の天海老師は出席
せん
されました。翌年二月に発病され、大正二年に遷
げ
化されますのでまさに命の続く限り宗門のため
に活躍なさった生涯でありました。
星見天海老師
失敗が恥なの
でしょうか?
講演会の様子
世・ 頓 定 恵 参 老師でありましたが、天海老師はこ
とん じょう え さん
ちらに影響を与えてくれるようなお
老師でありました。龍源寺の当時の住職は第 十 七
じゅう しち
か と 誘 っ た の が の ち の 龍 源 寺 第 十 八 世・ 徳 水 原 松
会い、一緒に学んでおり、うちのほうで修行しない
る こ と が 難 し く な り ま し た。そ の 時 に 栴 檀 林 で 出
勢不安・経済基盤不安定により、江戸に滞在し続け
んでおられた天海さまでしたが、黒船来航による情
駒込の吉祥寺 栴 檀 林(駒澤大学の前身)で勉学に励
せん だん りん
そのような天海老師と龍源寺の関係には、意外に
もペリーの黒船来航が関わってきます。当時、江戸
な重要な法要の導師もたくさん勤められました。
山最乗寺の住職をつとめ、授戒会の戒師やさまざま
れました。宗門の名刹、大雄
本 山 移 転・ 復 興 に も 尽 力 さ
の大火による横浜鶴見への
おさめ、能登の大本山総持寺
の曹洞宗両本山分裂騒動を
残 さ れ ま し た。そ し て 明 治
おいても文化的にも功績を
代に残された御方で、宗門に
る観 音 懺 法の独特の節を現
かん のん せん ぽう
「漢字天海・仮字良寛」と書にお
星見天海老師は、
てんかいぶし
いてあの良寛さまと並び称され、
「天海節」と言われ
け じ
龍源寺の現住職が晋山結制の折に出版した『龍
源の玉をばえても』に龍源寺と天海老師の関係が
詳しくのっていますので、この紙面では簡単な説
明にしたいと思います。なお、天海老師がどのよ
うなことをなさったかについては以下の略歴を
見ていただきたいと思います。
龍源寺と星見天海老師について
講演をする青山老師
2
3
平成 24 年 8 月 1 日
龍 源 寺 報
64 号
第
し ょ う と
う
ご
じ
け
ん
ぐ
ふ
ぎ
ん
(天海老師百回忌法要)
ろ
とまります。宗門において最も敬意
を表する時に行われます。禅宗独特
の儀礼です。
せんしょ き
■宣 疏 跪 炉
せん しょ き ろ
とい
出 班 焼 香 が 終 わ る と 宣 疏い跪の炉
う
しょ
う儀礼に入っていきます。維 那 老師が
導師に代わり疏というものを読み、そ
のあいだ導師が香を焚きます。この儀
し ろくべんれいたい
礼も大般若会など特別な時に行われま
ひょうびゃくもん
す。禅宗における疏は四六 駢 儷体を用
いた表 白 文
(佛祖に法会を執行するこ
と、そ の 目 的 な ど を 申 し 上 げ る 文 )の
え ごう ろ
ちょう き
ことをいい、維那が疏を宣読するあい
だ、
導師が柄香炉をもって長跪します。
経 行道
ど っ きょうぎょう ど う
■読
そして、僧侶たち全員で観音経を
読み、皆様からご焼香をしていただ
当日の光景
この日を迎えるまで、様々な準備を
し、たくさんの方々からご協力をいた
だきました。その様子を伝えます。
受付会場の様子。お手伝いありがとうございました
正當午時献供諷経
ぐ
供
しん きん
講演会を終え、いよいよ天海老師
百回忌法要がはじまります。導師は
講演をしてくださった青山老師につ
とめていただきました。
けん
■献
みっ とう
ま ず、蜜 湯・ 御 飯・ 嚫 金( 僧 侶 た
ち か ら の 布 施 )・ お 菓 子 を 仏 さ ま へ
供え、そのあとお茶を祖師であり供
養の対象である天海さま、原松さま、
真 静 さ ま に 丁 寧 に 供 え ら れ ま し た。
あわせて導師が十八回もお拝をつと
めるものであります。
班焼香
しゅつ ば ん しょう こ う
■出
ねん
緊張の面持ちの若い僧侶たち
打 合 わ せ。法 要 は 事 前 の 確 認 が 必
須です
お供えが終わり、導師が香を拈じ
法語を述べた後、導師はじめ東西の
りょう ばん
しょう
両 班にいらっしゃる方丈様方に焼
こう らい はい
しゅっ ばん しょう こう
香礼拝していただく出班 焼 香がつ
だ い しゅう い ち に ょ
大 衆 一如
近隣寺院の皆様方にも当日まで
に 法 要 の な ら し、打 ち 合 せ な ど で
たいへんお世話になりました。こ
ち ら は「 な ら し 」と い っ て 法 要 を
実際に行いながらの確認・打合せ
の様子です。
青山老師の代わりを龍源寺住職がつとめ
ています
ねんこうほう ご
導師、入堂
じゃはい
ぎょう どう
きました。読経中に行道といって堂
内 を 巡 り ま す が、元 来、釈 尊 に 敬 意
を表するために行われた進退であり
ました。現在は僧侶の数がそろって
いれば供養の法要の時に御経を読み
ながら行道をします。供養の対象者
に対する敬意になるのではないかと
思います。
え こう
■ 回 向・謝 拝
み終わると維那老師に
御 経 がえ読
こう
よって回向が読まれます。回向はい
あまね
めぐ
ま 読 ん だ 御 経 の 功 徳 を 普く 回 ら す た
めに読まれます。
師
最後に龍源寺住職と副住職じゃがは導
い
をつとめられた青山老師に 謝拝とい
う御礼の意味を込めたお拝をし て法
要は終了となりました。
4
5
行道の様子
住職、東堂と青山老師
参列者の皆様
蜜湯、菓子、お茶などを供える献供の光景
拈香法語
最も丁寧な敬意を表す儀礼にて行われる出班焼香
宣疏跪炉
講演会にのぞむ青山老師
平成 24 年 8 月 1 日
龍 源 寺 報
64 号
第
りゅう ぎ ん
こ
しょう
■ 龍吟虎嘯
■
うそぶ
「龍吟ずれば雲起こり、虎嘯けば風
生ず」ともいいます。なんとも勇まし
く 強 い 言 葉 で あ り ま す。越 後 の 龍・
上 杉 謙 信、甲 斐 の 虎・ 武 田 信 玄 の ラ
イ バ ル 関 係 が い い 例 で す が、龍 や 虎
りゅう こ そ う は く りゅう こ あい う
は英雄の二つ名としてもよく使われ
る も の で 龍 虎 相 搏( 龍 虎 相 搏 つ と 訓
りゅう じょう こ はく
読 み、力 の 伯 仲 し た 者 の 全 力 勝 負 の
こと)
、龍 攘 虎 搏 な ど な ど 龍 虎 に ま
つ わ る 言 葉 は た く さ ん あ り ま す。龍
吟・虎嘯ともに朗々たる大音声のた
と え で、力 の あ る 禅 僧 同 士 の や り と
り の 形 容 に も つ か わ れ ま す が、こ の
場 合 の 龍 や 虎 の 存 在 と い う の は、膨
大なる自然のエネルギーを形にした
も の と も い え る の で し ょ う。中 国 の
四神(青龍・白虎・玄武・朱雀)にも
みえるように古来人間は強大すぎる
自然の力を龍や虎に形作ってたとえ
て き ま し た。大 人 物 に は こ れ ら の 人
慧可とは達磨大師のお弟子さんのこ
とです。このように達磨大師が語っ
た言葉として禅宗に継承されてき
た、禅宗を象徴する言葉の一つとい
えます。
禅語としても有名で御存じの方も
お お い の で は な い か と 思 い ま す。親
子 関 係、師 弟 関 係 な ど 次 世 代 へ と 引
でなければならないのではないかな
とこの言葉は教えてくれている気が
くるようでなければならないという
間の人智を超える自然の力がついて
しかわからない世界に二人はいたの
実力が拮抗し、戦いあった者同士に
したと言われています。高い次元で
去ったら上杉謙信を頼るように遺言
玄も武田勝頼に、自分がこの世から
た と 伝 わ っ て い ま す。一 方、武 田 信
上杉謙信は武田信玄が亡くなっ
た時非常に悲しみ、数日間喪に服し
ことで伝わるかどうかは受け取る相
伝わっていくものです。しかし、この
心のともなった行動や行為で相手に
は言葉で相手に伝える行為ではなく、
する通りにはなる」などなど、これら
親 の 言 う 通 り に は な ら な い が、親 の
講 演 会 で お っ し ゃ っ て い た「 子 供 は
「目は口ほどに
「男は背中で語る」、
ものをいう」
、この度青山俊董老師が
■
ス ケ ー ル の 大 き い 意 味 も あ り ま す。
ではないでしょうか。まさに龍吟虎
し ん で ん し ん
運を味方につけるとはまた意味が異
嘯といえるような関係でありながら
い
な り ま す が、精 進 し て 培 っ て き た 実
しかも領土が隣り合い、同時代を生
■ 以心伝心
力に縁や運がついてくるということ
きた、天の采配とでもいえるような
します。
は あ る よ う に 思 い ま す し、そ う い う
関係に見えて仕方ありません。
第五回
人物にこそ人々はついていくもので
はないでしょうか。
実力の拮抗し
た龍虎のような
間 柄 で あ れ ば、
ぞれにはそのよ
が、私 た ち そ れ
には含まれます
意味もこの言葉
通じ合うという
いう書物に「慧可進みて曰く、和尚、
ることという意味です。
『祖堂集』と
わるのではなく、心から心へと伝わ
以心伝心という言葉は本来、仏法
が師から弟子へと文字や経論で伝
がなければ難しいといえます。
手に心の力量の深さというべきもの
お互い気持ちが
うな相手はいる
此の法は文字の記録有りや。達磨曰
か
で し ょ う か? 真
く、我 が 法 は 心 を 以 て 心 に 伝 え、文
え
の意味でわかり
字を立てず」という記述があります。
だる ま
あ う こ と は、龍
釈迦様の舎利ではなく、僧侶自身の舎
ぞれが仏舎利塔を建立しましたが、お
仏舎利は八つの部族が分け合いそれ
こ
虎の関係のよう
どくじゅ
曹洞宗において読誦される御経
利に対する信仰が日本で本格的にな
禅宗が鎌倉時代に流入してからその
るのは、得道の禅者を仏と同一視する
都東山高台寺の旧記にありますの
は私たち僧侶と一緒に読誦する光景
しゃ り らいもん
御経というよりは偈 文の部類に入
るものですが、一般の方々には般若
内容は、舎利に対する礼拝を通し
て 菩 提 心( 悟 り を 求 め る 心、志 に 生
も 見 受 け ら れ ま す。親 し み や す い も
傾向が強くなっていったようです。
心経の次によく耳にするのでないか
きる心)を起こし、菩薩行(菩薩は悟
のですので、読めるようになったら一
で、鎌倉時代である当時から読誦さ
土地よりも先人の心が次の時代へと
な と 思 い ま す。と い う の は、葬 儀 や
りを求める衆生の意。上求菩提・下
緒にお唱えしたい偈文の一つです。
■舎利礼文
引き継がれるかどうかのほうがよほ
納骨の時に必ずといってよいほど読
化 衆 生 の 行 動 )を 実 践 し、智 慧( 一
れていたことがうかがえます。
ど 大 事 で あ る の で は な い で し ょ う か。
まれているからです。舎利とは御骨
切の現象や現象の背後にある道理を
いずれにしても、般若心経以上に短
く覚えやすいものですので、読める方
縦 の 関 係 だ け で な く、夫 婦 や 仲 間 な
の こ と で、題 の 如 く、仏 舎 利 を 礼 拝
見極める心作用)を完成していこう
げ
ど横の関係にも同じことがいえます
供養する時に唱えることが多い偈文
というものです。
ぼ だい
が、そ れ に は 心 の 奥 底 で 手 を つ な ぐ
です。曹洞宗では開祖道元禅師の荼
じょう ぐ
よ う な、語 ら ず と も 伝 わ る と い う 深
お釈迦様がお亡くなりになり、その
け しょう じょう
み が な け れ ば な り ま せ ん。現 代 人 に
毘に際して唱えられたとの記載が京
げ もん
←
■龍源寺ホームページ URL
http://www.shinkenzan.com
坐禅会と寺子屋塾
龍源寺
てくれば、よりよい心の豊かさをもっ
た世界になっ て い く 気 が し ま す 。
天坐禅会
ぎょうてん
■暁
期 日 第一・第三日曜日 朝五時より
■寺子屋塾
期 日 八月十八~二十四日 午後二時より
内 容 坐禅、英語など
対 象 今年から小学生
詳しくは龍源寺ホームページまで
深見山
この以心伝心の姿勢がもっと生まれ
き 継 い で い く 間 柄 に は 物 品 や お 金、
その 2
6
7
←
平成 24 年 8 月 1 日
龍 源 寺 報
64 号
第