私の歩んだ道

な屋根のない貨車積みであった。車上で息を引き取る
ひとえに満州在住同胞救済のための、多くの人々の祈
りのおかげであったと思うのである。
私の歩んだ道
平 成 七 年 九 月 、 戦 後 五 十 年 に あ た り﹃大陸の花嫁﹂
岩手県 折居ミツ 老人や、幼い子供も少なくなかった。停車のわずかの
間に、線路の横に寝かせて手を合わせ、発車とともに
永久のお別れであった。
壺盧島で順番待ちの数日を過ごした。いよいよ引揚
げの日、港に整列した。迎えの引揚船LSTの船上に
て船上の人となったとき、密航潜行九カ月の危機感が
という本を見まして、もう一度五十年前を振り返って
掲げられた日の丸の旗は輝いて見えた。タラップを渡っ
一挙に去った。このとき日本の国力の中に抱擁されて
みました。
大陸の花嫁は、多くの人は写真だけで、なかには挙
いる我が身を強く感じたのであった。
祖国、日本
なぐための一片の糧となりえたように思う。また、私
胞の心の支えとなり、祖国日本への引揚げに希望をつ
情勢伝達のための日本から満州への逆密航は、在満同
かの三人も、それぞれ無事に帰国した。私どもの日本
の間どれほどの女性が大陸の花嫁として満州に渡った
大陸の花嫁たちが登場した期間はおよそ十年間で、そ
﹁国策の 花 嫁 ﹂ と い う べ き も の で し た 。 昭 和 の 初 期 、
﹁拓士の花嫁﹂などともてはやされましたが、実際は
いました。彼女たちは、﹁大陸の花嫁﹂﹁土の花嫁﹂
式の日まで相手の顔も知らないまま結婚を決めた人も
ども密使の役目を務めた四人の冒険的潜行が、めまぐ
のか、残念ながらその数字は残されておりません。
結局、祖国は日本であった。密使として渡満したほ
るしく変転する戦後の満州の中で、一人の犠牲者もだ
すことなく、目的を果たして、無事帰還しえたことは、
私は昔の女学校にも入れず、百姓になるなら満州に
行きたいと決心しました。
らずに、ただただ満州に行きたくて、昭和十六年、十
び、長期訓練を受けました。退場してから、六原に残
三人と入場、そして満州花嫁の人たちと同じ学科を学
で農場は見たことがありません。朝、プラウ ︵ 犂 。 特
騎兵隊の除隊兵の集まりで、機械農場でした。遠いの
私たちの開拓団は興安北省免渡河ホロンバイル開拓
八歳であこがれの満州に行ったのです。
り事務をやっていた友達が、私が満州に行きたいとい
に洋式のものをさす。唐鋤︶でおこしたところから帰っ
昭和十五年、十七歳の私は岩手県立六原道場に友達
う希望を持っていることを先生に話して、今の主人と
てくれば、日が暮れるという話でした。
開拓団は、哈爾浜から満洲里にゆく途中の免渡河と
見合いをし、横川目で結婚式を挙げていただき、満州
に行きました。
くな﹂とみんなで泣いてとりすがり、ただ母だけが
集まりでした。お正月とお盆にはみんなで集まってご
軒、三通りで三十軒ありました。開拓民は全国からの
いうところにあり、住宅は赤レンガ作りで、一通り十
﹁もらってくれるなら、行きなさい﹂と言ってくれま
ちそうを作り、踊ったり歌ったり楽しいものでした。
年寄りたちは ﹁ 知 ら な い 人 と 一 緒 に 行 け る か ⋮ ⋮ 行
した。気丈夫な女だと年寄りたちや父にも言われた母
全国の踊りや歌が出るのですから。
昭和二十年八月十日、満洲里から知らせがあり、
らしていました。
二家族が一つの家に入り、女と子供たちで固まって暮
の人たちは現地召集で次から次へといなくなるので、
近くに兵舎がありましたが、戦争も激しくなり、男
でした。六人兄弟の長女だった私を、母からすれば女
四人もいるので一人ぐらい片づけたかったのかもしれ
ません。
満 州 に 行 く と き は 、 皆﹁行くな﹂と言ってくれまし
た。それでも私は、みんなを泣かせながらも満州に知
らない人と渡ったのです。結婚とか、男というのも知
暑さと水でお腹をこわし亡くなった子供も数人いま
みんなで探した最初の出来事で、 大騒ぎとなりました。
長い長い無蓋車には、奥地からの日本人がびっしり
した。隣の男の子二人も亡くなったのですが、なんと
﹁最後の列車だ、乗れ!﹂の命令が入りました。満人
乗っており、哈爾浜めざして出発しました。もうその
しよう、慰めようもないのです。次から次へと死人が
夕方だれかに連れられてきて、みんなで泣いて喜んだ
ときは兵舎が空っぽだったと聞きました。興安嶺のト
出るのですから。そのうち兵隊に行っていた小原辰三
に馬車を駆けてもらい、駅に走らせました。これが最
ンネルは抜けるのに一時間もかかるといわれ、ねんね
さんが帰ってきましたが、あとはだれも帰ってきませ
ものでした。このころはまだ涙もありましたが、次々
こ を か ぶ っ て も 煙 が ひ ど く 、 あ の と き は﹁ こ こ で 子 供
んでした。そのころ兵隊さんは、シベリアに捕虜とし
後だとも知らず、真夏だというのに、綿入れねんねこ
たちは最期か﹂と思いました。それでもみんな元気で
て送られたといいます。主人も自分の住んでいた免渡
と恐ろしいことが続いて、涙もでなくなりました。
トンネルを抜けました。斉斉哈爾まで来る途中、何度
河を、シベリアに行く途中、汽車の中から見ていった
とおむつを持っただけで無蓋車に乗り込みました。
か空襲があり、列車から避難するよう命令がありまし
そうです。
した。そしてあの﹁ダワイ ︵ 早 く ︶ 、 ダ ワ イ ﹂ と 腕 を
いましたが、午後からガラリとソ連の兵隊に変わりま
哈爾浜の街は、午前中は日本の兵隊さんが警備して
ていました。
をかけた汽車が、構内いっぱい、ホームいっぱい止まっ
哈爾浜に着いたのは八月十五日、駅には網をかけ草
たが、二人の子供を連れての汽車からの乗り降りは大
変だったので、 だ れ か が 持 っ て き て い た布団をかぶり、
降りませんでした。
斉斉哈爾の開拓会館に収容され、大きなおにぎりを
いただきましたが、そのころはまだ落ち着きを見せて
いました。
九 州 の 中 村 紀 子 ち ゃ ん︵九歳︶がいなくなったのが、
だせないまま見ていたのです。
組んで連れてゆかれる恐ろしい光景を、男も女も手を
を持っておらず、みんなもんぺでした。
朝帰ってきました。私たちの開拓団は一枚も長い着物
そこは開拓団やら義勇軍の食糧や衣料の分配をする大
避難民として哈爾浜の満拓公社に落ち着きました。
もおらず、一致団結して日本に帰るまで共同体をくず
しました。日本に帰るまで、連れていかれた人は一人
のだれかが連れていかれたのではないだろうかと話を
みんなで、五河林の女の人が来なかったら、私たち
きな建物で、避難民がぎっしり入っていました。兵隊
しませんでした。
昭和十九年七月ごろ、現地召集があり、男の人たち
に行かない若い男の人が十人ぐらい事務所にいて、リュッ
クサック一つの私たちに、てきぱきと指図をしてくれ
ました。三階建ての二階にある大きな部屋が、私たち
夜になるとソ連の兵隊が見張りに来ます。少しでも
くらのお金かは分かりませんが、そのまま満拓公社に
ておりました。馬の多い人も少ない人も全部売り、い
がいなくなったので、馬百頭ぐらいを売り、現金を持っ
すきのある人は、連れていかれるので、子供のない人
落ち着きました。一人で持っているのは危ないという
の寝起きするところとなりました。
は、子供を借りて抱いて寝ました。寝ているところを
し・にんにく ・ 味 噌 の お じ や を 一 斗 樽 三 個 作 り 、 二 階
ことで、小さい子供にも持たせました。一人当たり四
五河林という開拓団の数人が、私たちの部屋の入口
に並べてみんなで食べました。一人の人からお金をも
けとばしたり、軍靴のままカッカッと音をたてながら
で一緒に寝るようになりました。夜になると長い着物
らい、なくなれば次の人からというようにしました。
百 円 だ っ た と 思 い ま す 。 お 米・ か ぼ ち ゃ・ と う も ろ こ
を着て寝るのですが、ある夜、ソ連兵に連れて行かれ、
落としたとか、なくなったとかいう人もでてきたり、
ローソクを持って回ってきました。
帰ってこないかと思っていたらヨレヨレになって次の
その一冬のうちにお産があり、死人もでました。
ゆく。お父ちゃんを知っているんだろうかと ﹁ 隆 ち ゃ
ました。お父ちゃんのいないところでこの子が死んで
願っても、門を開けてくれません。飛び上がる子を一
旦那さんが召集になり、そのときは分からなかった
んお父ちゃんは⋮⋮﹂と聞いたら、
﹁お父ちゃんなん
それでもどうにか続きました。子供にも三時のおやつ
お腹が大きくなり﹁私もらしい﹂﹁ 私 も ⋮ ⋮ ﹂ と 言 っ
かいないよ、母ちゃんのバカ、バカ﹂と叫んだのです。
晩中抱いて朝になったら、唇は真っ青になっていまし
ているうちにお産が始まり、みんなもんぺの中に産み
どこからこの声が出るのだろうと思う声で叫んで、そ
をもらえるようになり、みんな仲良くその満拓公社に
ました。年とった人が一人いて、赤チン、麻糸、ハサ
れが最後でした。なんと言えばよいのか、あの夜どう
た。病院におんぶして行ったら、もうだめだと言われ
ミで、みんなその人がとり上げてくれました。自分の
にかしてやれなかったのか⋮⋮と今も責めてしまいま
七カ月おりました。
産んだ子供を ﹁ 起 こ し て ち ょ う だ い ﹂ と 言 っ て お さ え
昭 和 二 十 年 十 二 月 六 日・九日と、二人の子供がいな
す。三日後、二男の正二も後を追うように逝ってしま
集めて囲いを作り、子供たちには見せないようにしま
くなったのです。腕の中が広く感じるというか、悲し
てもらい、もんぺの 中の赤ん坊のへそ の 緒 を 切 る の で
したが、ハサミのチョキンチョキンという音は聞こえ
いというか、とても眠れず吉田栄子さん親子のところ
いました。
てきました。旦那さんのいないところでお産をする女
にしがみついて寝ました。お母さんと九歳の女の子で
す。そのうち難産の人もいて、そのへんにあった戸を
の気持ち、何と言っていいのか、身の縮む心地でした。
公社のどこかに埋めてくださいと、男の人たちに頼ん
した。一晩だけで死んだ子供を手放せないから、満拓
あ る 日 、 急 に 、 痛 い 痛 い と 長 男 の 隆 一 ︵四歳︶が胸
で埋めてもらいました。二男は霊柩車に乗せました。
そして親が死ねば、赤ん坊も助かりませんでした。
を押さえて飛び上がります。お医者さんに見せたいと
小さい子供の上に男の人が、女の人の上に男の人が、
ぽんぽんと投げられてどこにゆくのか分からず、時間
になれば霊柩車がくるのです。お線香をたいてゆくの
ですけれど、だれも泣いておりません。涙がでないの
さい、ごめんなさい。
薬も飲まず、注射もしないで、元気になったのでし
た。
一冬のうちに生き残った人は、二分の一になりまし
識不明になりました。胸が苦しい苦しいと言ったらし
二人の子供を亡くしたあとすぐ発疹チフスとなり意
した。しらみがうつるからとのことでした。それでも
て行くときは、ひざまでズボンを上げて持って行きま
みんなのいる所から離れて寝かされました。ご飯を持っ
た。おもに発疹チフスで亡くなりました。枕を並べて、
く、岩手の伊香チョさんがどのようにして手に入れた
ご飯を運んでくれるだけ有り難いことでした。
です。
のか、三センチ厚さの馬肉を胸いっぱい当ててくれた
母親⋮⋮ごめんなさい。隆一、ごめんなさい。正二、
たちの亡くなったことも忘れていられました。薄情な
るで生まれ変わったみたいに、新しい気持ちで、子供
たり下ったり歩く練習をしたことを覚えています。ま
か分かりませんが、階段の手すりにもたれながら、上っ
い﹂と冷やかされたことも覚えています。幾日寝たの
も ら い 、 男 の 人 た ち に﹁足より顔 を 洗 っ て も ら い な さ
いのです。足が冷たい冷たいと言ってはお湯で洗って
た。
に集合するのです。二人ずつ歩くことに決められまし
と割り当てられ、それを売りさばき、決められた場所
びんに詰められた醤油を男の人は九本、女の人は五本
男の人たちが三人、女の人たちが七人いました。一升
私たちが買って満人に売る仕事をしました。そのとき
いうことになり、 日本の兵舎から満人がとった醤油を、
た。そろそろ馬のお金もなくなるから働きに出ようと
春とともに哈爾浜の街にも平和らしい日々がきまし
ということでした。私はその人のお陰で助かったらし
子供を二人も亡くしたのに自分は死ねない、ごめんな
といいます。
はりここでも匪賊が恐ろしくて門をひとつにしたのだ
人の家族で約三千人住んでいるということでした。や
パートが二十棟あり、その一つのアパートに、三、四
した。二十道街には満人らしい作りの、満人だけのア
ロータリーを越えるまで、私は二本だけ持ってあげま
は、九本持つというのはとても無理でしたので、その
かなければなりませんでした。男の人でも小さい人に
車に乗り、馬車のはげしく通るロータリーを渡って行
満人だけが住んでいる二十道街というところは、電
あの人たちはどうなっているのでしょう。
いたみなさんのお陰と感謝しています。 それにしても、
一人ならどうなっていたことでしょう。改めて周りに
生活をしていればこそ強いことも言えるのです。自分
いでしょう﹂と私は叫びました。考えてみれば、共同
すか。そんな大きなお腹をして、日本の話などできな
れるまで、どうして自分の力で生きてこなかったので
を言っていました。﹁ 私 た ち み た い に い つ か 日 本 に 帰
服を着せられた若い女性⋮⋮。何人もの人が同じこと
ついたときにはこうなっていたという、クーニャンの
るようになりました。人の顔を見て出し分のお金より
になりました。危ないからというので二人のコンビを
今度は哈爾浜市内の街角に立ち、日本酒を売ること
そのうち自分のお得意先も決まり、結構売りさばけ
二十円もうけて、油まんじゅうを二個買って松花江の
ア人の女の兵隊さん、頭に白い布を巻きつけたインド
作り、私はいつも吉田さんとでした。ここは一番人通
そうして歩いているうちに、日本人の女の人が大き
人、日本人が通ります。毎日五、六本のうち、二、三
ほとりで、吉田栄子さんと楽しみながら食べるのが日
なお腹をして ﹁ い つ 日 本 に 帰 れ そ う で す か ﹂ と 涙 を 浮
本は売れました。いつものようにお酒を五、六本並べ
りの多いところで、満人、ロシア人、兵隊さん、ロシ
かべて問いかけてきました。 夫は召集されたとのこと。
て立っていると、ソ連の兵隊が靴音も勇ましくカツカ
課となりました。
発疹チフスで倒れていたところを満人に拾われ、気が
中に消えて行きました。栓も抜かれていないそのまま
かないで、カツカツと軍靴の音を響かせて、人混みの
を置きました。見ると先程の兵隊がまたも後を振り向
なりません。しばらくして、誰かがドカンと一升びん
どうしよう、どうしようと二人で話しても、どうにも
かないでカツカツと角を曲がって行ってしまいました。
ツときました。とたんにお酒を一本とり、後も振り向
同士でも胸をえぐられる思いが今もします。
どんなにお父ちゃんを思って死んでいったことか、女
うめくことなく、 わめくことなく死んでいったあの人。
な人でした。故郷を思い出す歌を口ずさんだその夜、
い声を出し、お父ちゃんなしでは生きてゆけないよう
した。﹁ お 父 ち ゃ ん 、 お 父 ち ゃ ん ﹂ と 言 っ て 甘 っ た る
故郷を思う歌を厚いレンガにもたれながら歌っていま
何という歌だったか忘れましたが、夕日の沈むころ、
飛び上がるほど嬉しい反面、後ろ髪をひかれる思い
いよいよ日本行きの引揚げ命令がきました。
の一升びんに、狐につままれたようで、吉田さんはニ
ヤッと笑いました。
赤い夕日の沈むころ、品のある日本人の老夫婦が、
人通りの少なくなった街角を散歩していました。 ああ、
二人で、いつか私たちもこのようなときがくるかしら
けれど、見えなくなるまで見送りました。吉田さんと
ころもなく、雨も降ってきます。老爺嶺という所にき
投げられ、こっちに投げられ、そして無蓋車で座ると
壺蘆島に着くまで四十数日かかりました。あっちに
がしました。自分だけ帰る悲しさ。子供を残し、自分
と、 主人やら日本の人たちを思い浮かべて話しました。
たとき歩かされ、途中で野宿しました。木と木の枝に
この姿こそ人間の幸せでなくて、なんであろう。この
醤油売りから帰ってきたら、沢柳今千代さんが玄関
風呂敷をしばりつけ、頭だけ霜がかからないようにし
だけ哈爾浜をたちました。
の所に立っていて﹁ 折 居 さ ん 、 私 に あ ん た の 肉 を ち ょ
ました。四十数日間の食料 ︵ カ ン パ ン な ど ︶ を 持 ち 、
どさくさの中によく無事で⋮⋮声はかけられなかった
うだい﹂と言って、私の腕を引っ張ります。そして、
クにつめて、その上に高橋さんの末の子を乗せて歩き
私は高橋タケさんの四人分と自分の分をリュックサッ
一度はお母さんに取りすがるだろうと思っていたのに。
言って私に飛びつきました。いくら死んだとはいえ、
は 死 ん だ 母 親 に は 取 り す が ら な い で﹁ お ば ち ゃ ん ﹂ と
子供と一緒に自分たちの部屋に帰ってみると、吉田
暮らしました。
私はただぼう然としていました。そのときから一緒に
ました。
あるとき、機関士らしい人が女をださないと汽車を
動 か さ な い と 言 っ た の で 、 あ る 女 の 人 が﹁ ど う せ 汚 れ
た身だから、皆さんのお役にたてば﹂と言ってでたそ
さん︵ 二 十 歳 ︶ も そ の 一 人 。 走 っ て い る 無 蓋 車 か ら 、
そのうちにも死人が出ました。山形県の勝田ヨシ子
人のリュックサック の中の 物 が 欲 し い の で し ょ う 。 め
夢にまで見た日本、故郷には親もいます。なぜ死んだ
んなでもらったのだということでした。海を越えれば
さんのリュックサックが空っぽになっていました。み
亡くなってすぐ、まだ温もりが残っている遺体を毛布
ぼしい物は何にもありません。洗いざらしの下着、靴
うです。
にくるみ、一、二、三とかけ声をかけ、外に投げられ
民かも知れないけれど、かつては ﹁ 奥 さ ん ﹂ と呼 ば れ
下、そんな物しかないのに⋮⋮。今はおちぶれた避難
大の仲良しだった宮城県の吉田栄子さんが、防寒ず
﹁そうでございますわ﹂などと言っていた人々が。人
ました。
きんを敷いても何をあてても出血がひどくて、壺蘆島
の心のあさはかさ。﹁ 子 供 も い る こ と だ し 、 返 し て く
船に四泊五日目。昭和二十一年十月中ごろ佐世保に
に着くなり、男の人たちがいろいろな手続きをしてい
にたどりつき、診ていただいたら ﹁ 会 わ せ る 人 が い た
つきました。しかし、何か信じられない気分でした。
ださい﹂と私は言いました。
ら今のうちに会わせなさい﹂と言います。子供を連れ
生き残った人は三十八人。免渡河を出るときは六十
るうちに、病院に肩を組んで連れて行きました。病院
て走ってきたときにはもう亡くなっていました。子供
七人でした。大人八人、子供二十一人が帰れませんで
した。
そこで一週間いろいろと調べられ、その間は船にい
ました。船の食事はおじやで、皮をむいていない赤い
佐世保でお金とお米を支給されましたが、そのお米
と生節を交換してむしゃむしゃ食べたことを忘れませ
ん。仙台に来たら白い駅弁でしたが、途中は赤い皮の
ある小麦の弁当でした。
の茎が入っていました。それでもおいしく感じられ、
﹁お母さんは死んでも、お星さんになって、いいこと
てから私の側を離れず、船の甲板で星を見ながら、
吉田玲子ちゃんは七歳でした。お母さんが亡くなっ
五十二年たった今でも開拓者である私は、サツマイモ
をしても悪いことをしても、玲子ちゃんを見ているの
大粒の小麦に、大きな煮干しがそのまま、サツマイモ
の茎を見るとあのころを思い出し、おじやを食べたく
を見守っていてちょうだい﹂と、子供二人の顔を思い
よ﹂と話しました。自分自身も﹁ 星 に な っ て 母 ち ゃ ん
無蓋車では見かけませんでしたが、船の甲板に出て
浮かべて、最後の船の上から大陸との別れを叫びまし
なり作って食べています。
いる人を見ると、ロシア人の女性と結婚した男性が三
た。
岩手の家に帰る前に、宮城の玲子ちゃんのお父さん
人いました。故郷に近づくにつれて心配もあるのか、
ひそひそと話をしていました。その人たちには子供も
れました。そしていよいよ品川まで汽車に乗り、品川
ンをベタベタとつけられ、やはり一週間ぐらい検査さ
ようやく船からあがったその日から、DDTや赤チ
れない⋮⋮と言われました。そのうち玲子ちゃんのお
きましたが、そのお兄さんが帰らないうちには家に入
聞いて探して歩き、やっとお兄さんの家までたどり着
んと私と玲子ちゃんが古川駅に降りました。いろいろ
の実家を探し求め、小原辰三さんと奥さんのかつ子さ
で解散し、それぞれの故郷に帰りました。岩手に帰る
母さんの実家からも人がきました。
いました。
のは五人でした。
した。日本に帰ってきた実感はなく、自分たちだけ生
一晩泊めてもらうことになり、いろいろと話をしま
さんが亡くなったこと、子供を亡くしたことを返信し
るという便りをもらいました。二度便りがあり、お母
主人からシベリアで捕虜として通訳をして元気でい
昭和二十三年三月、主人が帰ってきました。落ち着
きてきたのが申し訳なくて、亡くなった人たちのおわ
朝になると玲子ちゃんは、私の側を離れず、トイレ
く暇もなく、満州で一緒だった人たちが、開拓者とし
ました。
に行くにもあとをついて歩きました。そこのおじいさ
て立ちあがろうと岩手に来ていました。 二十四年から、
びをしなければならない苦しいものでした。
んはしばらく泊まってくれと言ってくれましたが、兄
当地後藤野に住みつきました。
平成二年六月二十三日、ホロンバイル慰霊の旅に行
の人と結婚して、次女が家におります。
こちらにきてからは女の子が二人生まれ、長女は東京
任せられ働きました。満州では男の子二人でしたが、
主人は組合長として出歩き、私は牛二十頭と子供を
嫁 さ ん は し っ か り お さ え こ み﹁ お ば ち ゃ ん 、 お ば ち ゃ
ん﹂と泣き叫ぶ玲子ちゃんに負けそうになり、涙を流
していました。 私は逃げるようにして別れてきました。
主人の実家に着いたら、 お 母 さ ん は 七 月 に 亡 く な り 、
お兄さんと妹とがおりました。子供はどうしたと言わ
れました。何と返事をしてよいのか、苦しいものでし
供だった。子供をだせ﹂と言われました。だれもが言
実 家 に 行 っ た ら 、 本 家 の お じ い さ ん に ﹁かわいい子
場所も主人に見てもらいましたが、子供を埋葬した場
くことができ、自分の入っていた部屋も、寝起きした
したが、学校が始まる前だったので全部見せていただ
きました。満拓公社 は今は 学 校 と し て 使 わ れ て お り ま
いたい、叫びたい言葉ではなかったでしょうか。くや
所は分かりませんでした。私は大きな声を出して泣き
た。
しいのです。私がいたらなかったばっかりに⋮⋮。
ず大きな声で泣きました。仲間と一緒にお念仏を唱え
だしました。申し訳なさと悲しさに、人の迷惑も考え
なのです。
と改めて感じました。世界の人はみな仲良くあるべき
しんだのか⋮⋮。﹁ 二 度 と 戦 争 は す る も の で は な い ﹂
岩手県 竹内嗣欣 大陸にて戦闘をして、昭和十四年秋ごろ除隊帰還して
昭和十二年の暮れ、父が支那事変に召集され、支那
沼に生まれた。
昭和三年二月十五日、私は長野県下伊那郡上郷村飯
海外居住の動機
地獄から這い上がって故郷へ
ました。
自分たちの住んでいた所にも行きましたが、山の墓
地だったけれど分からず、見当をつけてお念仏を唱え
ました。野菊の咲くころ、子供の手をひいて何度か来
たのに、何十年もたってしまって ぜ ん ぜ ん 分 か り ま せ
んでした。
すべては変わっておりました。立ち直ってみんな明
るい顔をして働いておりました。大陸はカラリと晴れ
わたり、街も今では何事もなかったような落ち着きを
みせ、皆さんは笑顔で迎えてくれました。
平成九年四月二十日、地元北上市の慶昌寺において
ただきました。引揚げ後から七回目の供養会となり、
時国策により満州開拓移民が盛んに行われていて、大
自作地が少ないので、小作にて農業をしていた。当
きた。
引き揚げてくるときは、六歳から八歳だった子供たち
陸を見てきた父は、 狭い日本の小作農業では物足りず、
供養会を行い、全国から十四人参加、お勤めをしてい
も六十歳前後、私は七十三歳、主人は八十一歳となり
満州へ行くことを思いたち、昭和十五年満州国吉林省
舒蘭県水曲柳開拓団の第三次移民団要員として、一年
皆高齢となりました。
何のために戦争をしたのか、何のためにあんなに苦