年の変化 年 の 間 に、 ず い ぶ ん 大 谷 貴 子 さ ん が、 名 古 屋 で ﹁ 東 海 骨 髄 バ ン ク ﹂ を 立 ち 上 げ て か ら、 丸 年 に な る。 そ の い ろ ん な こ と が 前 進 し た。 ド ナ ー の 登 万 人 を 超 え、 計 算 上 は、 患 者 の 半 数 ま で 移 植 可 能 に な っ た。 国 録がようやく 内の骨髄移植が1万例を超えた。 大 谷 さ ん 自 身、 大 学 院 生 だ っ た 歳 の 時 に、 慢 性 骨 髄 性 白 血 病 と 診 断 さ れ、 奇 跡 的 に 白 血 球 の 型 が 合 っ て い た 母 か ら 骨 髄 移 植 を 受 け、 九 死 に 一 生 を 得 た 経 験 を 持 っ て い る。 す っ か り 元 気 に な っ た い ま は、 全 国 骨 髄 バ ン ク 推 進 連 絡 協 議 会 会 長 と し て、 白 血 病 の 患 者 の命を救うために奔走している。 講演は、年間300 回に及ぶ。都道 府 県 で 訪 れ て い な い 場 所 は な い。 白 血 村 上 信 夫 万 事 休 す か と 思 っ た 矢 先、 万 に 一 つ の 確 率 で と、 母 が 再 検 査 を 受 け た ら、 な っ た。 妹 が 病 気 と 聞 き、 住 ん で い が、適合者は現れなかった。 な ん と 適 合 し た。 し か し、 喜 び も つ 周 囲 が 沈 み が ち な 中 に あ っ て、 姉 の深い愛情と叱咤激励は大きな支えに だ。 会 議 所 の 専 務 理 事 主催の講演がきっかけ をしていた関口隆さん た ア メ リ カ か ら、 急 遽 帰 国 し て く れ 通信販売 地図の専門店 に 及 ぶ 長 い 離 婚 調 停 の 後、 発 病 と 時 を 同じくして、離婚していた。 一昨年6 月、父は胃がんで死去した が、 そ の 半 年 前 に、 両 親 は 復 縁 し た。 亡 く な る 半 年 前、 父 が 自 ら 母 に 看 病 を 頼 ん だ の だ。 父 の 病 床 に 家 族 が 全 員 顔 を揃え、家族がまた一つになれた。 内 科 医 だ っ た 父 は、 大 谷 さ ん が 白 血 病 と わ か っ た と き は、 わ が 娘 を 救 え な い 絶 望 感 か ら 泣 い て ば か り い た。 し か し 自 分 の 発 病 後 は ﹃ 自 分 が、 子 ど も よ り 先 に 死 ね る と わ か っ て 良 か っ た ﹄ と、 穏やかに語っていた。 父に反感を抱いていた時期もあった が、﹁父がいるからこそ、自分がいる﹂ と 気 づ け た。 病 気 を 経 験 し て 多 く の 感 情 に 出 会 っ た こ と が、 大 谷 さ ん を 成 長 させてくれた。 ﹁生きているそのこと自体が人の役 に 立 つ。 小 さ な 積 み 重 ね が 誰 か の た め た。 姉 は ﹁ 親 が 泣 い て ば か り だ っ た か に な る ﹂。 大 谷 さ ん 自 身 が、 誰 か の た か の 間、 病 状 は 進 行 し、 細 胞 の ほ と ん めに生き続けたいのだ。 どがガンに侵された状態だった。7 人 と、 後 に パ ワ フ ル な 言 動 や 行 動 の 理 由 明 け て 年、 1 並 び の 1 月 日 に、 移 植 手 術 は 行 わ れ た。 大 谷 さ ん は こ の 語った。 きた値打ちがあるよ﹂とこともなげに な く て も、 誰 か の 命 に 間 に 合 え ば、 生 事 情 も 調 べ た 上 で、﹁ 貴 子 に 間 に 合 わ ﹁ 骨 髄 バ ン ク 作 っ た ら ?﹂ と 言 っ た の も 姉 だ っ た。 ア メ リ カ の 骨 髄 バ ン ク はできない﹂と思った。 の 立 場 だ っ た ら、 決 し て、 あ そ こ ま で の医師団のうち6 人が移植に反対した。 言った。それを聞いた姉が﹁1% もあ る や ん ﹂ と あ っ け ら か ん と 言 い 放 っ た。 そ の 言 葉 が、 慎 重 な 医 師 団 の 決 意 を 促 した。 日 を 第2 の 誕 生 日 と 呼 ん で い る 。 去 年 2 度目の成人を迎えた。 フルート奏者として活躍中。 俳画家。 絵画を幼少より日展画家の︵故︶川村行雄氏に師 事。俳画を華道彩生会家元︵故︶村松一平氏に師 事。俳画の描法をもとに、少女、猫等を独自のやさ しいタッチで描いている。 個展多数。 助 け ら れ た 命 を 生 か し て、 白 血 病 の た め に 役 立 ち た い と、 退 院 後、 骨 髄 バ ン ク 設 立 に 向 け た 活 動 を 開 始 し た。 患 フルート奏者 イネ・セイミ 一音一音 いとおしむよ うに 奏 でる音 色 貴 方に幸せを 届けま す 常滑屋 月二回 第二・第三金曜日 午後一時∼三時 一回 二、二五〇円︵三ヶ月分前納制︶ ☎〇五六九︵三五︶〇四七〇 俳画教室開講中 今 日 寝 た ら、 明 日 が 今 日 に な っ て、 そ の 今 日 を 信 じ て ほ し い ﹂ と、 自 ら が そ う思い続けて生還した体験に裏打ちさ れ た 言 葉 で 励 ま す。 医 師 と 患 者 の 架 け 年 に は、 初 級 橋 に な る に は、 プ ロ の 知 識 を 身 に つ け る 必 要 が あ る と 考 え、 年 に は、 精 神 対 話 士 ところ と き 会 費 問合せ 者たちには、﹁今日を信じてください。 ■イネ・セイミプロフィール を 教 え て く れ た が、 大 谷 さ ん は、﹁ 逆 年7 月 と 交 際 の 末、 に結婚した。 バンクにどっぷり浸 かっていた自分に新し 1 % も あ る や ん 月、 発 病 し た。 治 療 に は、 骨 残る1 人も﹁成功の可能性は1%﹂と ら、 私 が や ら な け れ ば ﹂ と 思 っ た か ら 県加須市の青年会議所 ︵アナウンサー︶ 127 ∼ 大 谷 貴 子 さん ∼ い 世 界 を 教 え て く れ た 人 だ。﹁ こ の 万 本 減 り、 私 の 体 重 キロ増えた﹂と大阪人のノリで話 年で夫の頭髪は は 姉の愛ある叱咤 す。 年 千葉大学の大学院で英語の研究者を 目 指 し て い た。 修 士 論 文 の 提 出 を 控 え た の 型 が 適 合 し な け れ ば な ら な い。 親 髄 移 植 し か な か っ た が、 提 供 者 と 患 者 も知ってほしい一心で全国行脚をして 子 で は 可 能 性 が 低 い。 他 人 同 士 で も、 病 の こ と、 骨 髄 移 植 の こ と を、 少 し で いる。まだ残る﹁遺伝する、伝染する﹂ 500 人から10000 人に1 人の確 率 と 言 わ れ る。 た だ 兄 弟 姉 妹 で は、4 カ ウ ン セ ラ ー、 の資格を取得した。 実 は 大 谷 さ ん の 両 親 は、 最 高 裁 ま で ☎0563(32)0583 といった偏見をときたいという思いも ある。 分の1 の確率で適合する。姉との一致 に 望 み を 託 し た が 合 わ な か っ た。 卒 業 ア ル バ ム を 手 が か り に、 同 級 生 一 人 一 11 97 人 に 電 話 し て、 必 死 の 思 い で 依 頼 し た (セイミオフィス) 88 好評 発売中 コンサート依頼はこちらへ 10 20 30 年 間 の 変 化 と 言 え ば、 な ん と い っ て も、 大 谷 さ ん が ﹁ 魚 屋 さ ん の 女 将 さ 年2 月、 埼 玉 92 10 20 20 ■村上信夫プロフィ−ル NHKチーフアナウンサー 1953年、京都生まれ。 明治学院大学卒業後、 1977年、 NHK 入局。 富山、山口、 名古屋、 東京、大阪に勤務。 現在は、 『ラジオビタミン』担当。 (ラジオ 第一 8:30 ∼ 11:50) これまで、 『おはよう日本』 『 ニュース7』 「育児カレンダー」などを担当。 教育や育児に関する問題に関心を持ち 続け、横浜市で父親たちの社会活動グ ループ『おやじの腕まくり』を結成。 趣味は、将棋。 著書に『元気のでてくることばたち!』 (近 代文芸社) 『おやじの腕まくり』 (JULA出版局) 『いの ちの対話(共著)』 ( 集 英社) 『 いのちと ユーモア (共著)』 (集英社) 94 12 企画・制作:株式会社 新聞ビル ん ﹂ に な っ た こ と だ。 95 俳画/イネ・セイミ 10 86 20 25 <発行所>あかい新聞店 武豊店/ 知多郡武豊町字金下37番地 ☎<0569>72-0356 常滑店/常滑市市場町4丁目167番地 ☎<0569>35-2861 わが町、 わが店、 この道一筋。 出逢いとコミュニケーション あかい新聞店ホームページ http://www.akai-shinbunten.net 第 249 号 平成21年5月1日 ●地形図、空中写真、海図、 いたします 地質図の販売 ●特注地図、地図データベースの製作販売 国土交通省国土地理院特定販売店 名古屋市中区東桜二丁目21-11(CBC筋向) 電話 (052) 931-1005(代)FAX (052)932-1312 http://www.alpspublishing.co.jp/ 良寛とミレー ︵その ︶ 偉 大な農 民 画 家 ミレーは こんな人でした。 動くところ、 みな歌なり﹂︵大 かたず、朝夕、物にふれ、心の ない︶ としても、どうなるものでも ければ、どんなに多く作った の 影 響 で、ミ レ ー も 日 本 美 第に買い集めていました。そ 世 絵 に 夢 中で、手 当 た り 次 家のテオドール・ルソーが浮 帰った ら、ちゃんと赤 ちゃん 羊に ﹁心配しなくてもいいよ。 かけている様 子。少 女は、母 ば して、子 羊 に 何 か 言 葉 を していま す。母 羊 も 首 を 伸 羊は前 足を母 羊の方に伸 ば う気持ちの方が大切です。そ 笑うのも歌である。歌の心と ドはよく知られています。 う と か、面 白い歌 を 詠 も う 素晴らしい歌を詠も 術に興 味をもったのです。ミ │ 意 歳のミレーが大 都 市の パリを去って、荒涼とした寒 を渡 すからね﹂とでも言って の気 持 ちの程 度によって、仕 杉 本 武 之 としてはいけない。心の動く ものではなく、広重や春信の レーは、きらびやかな色彩の で、どん底の生活をしていた れは静 寂と沈 黙です﹂。また、 られました。まだ無名の時代 いう 特 別 な ものが あるので ある日、ミレーはパリを散 歩していて、ある画廊の飾り 生 じるのです﹂。またこ う も と か 田 舎 と か を 問 わ ず、だ 窓の前に立ち止まり、自分の 人 がこんなにも ミレーの絵 品 を 好 んでいま し た。日 本 がよく出ています。良寛がこ るものに対 する 無 限の愛 情 しい 気 持 ち、生 き と し 生 け 村のバルビゾンへ移り住むこ 頃です。長男だったミレーは、 事にこめられた 力の程 度 が いるみたいです。ミレーの優 と を 決 意 し た 次のエピソー こうも書いています。﹁私は、 自 分の分 け前である家 屋と よ う な﹁ 自 然 と 人 間 に 対 す 切である。だ か ら、泣 くのも どんなことがあろうとも、冬 しょう。 の絵を見たら、何と言ったで る 誠 実 さ﹂が 感 じ ら れる 作 ままに、素直に詠むことが大 を被り、足には重い木靴を履 て、ぐにゃぐにゃの麦 藁 帽 子 は 失いた くない。あ あ、野 や 中に ﹁ 自 然 と 人 間に対 する が好きなのも、ミレーの絵の はない。賢愚を問わず、都会 いていた。 た。通 り が か りの人 が その 土 地の権 利 を 放 棄 し、何 冊 それがいつでも歌になるので かの本と 古い樫の食 器 棚 だ れでも、物を見て心が動けば、 作 品の複 製 を 眺 めていまし 森の悲 しみよ。もし、お 前 を 書いています。﹁私の理想は、 見なかったら、どんなに大き 1 8 7 5 年 1 月 日、ミ レーは 年の生 涯を終 えま 高くありさえすれば、見るも その目 的 が 自 分の心の中で て好 んで詩 を 題 す。古 風 は ﹁憐れむ可し好丈夫、間居し 次のような漢詩があります。 詩においても、やはり﹁心﹂ が大切だと考えていました。 ちの生活は、今よりももっと あ ん な 絵 は 描 かない。私 た えよければ、私はもう決して と、妻に言いました。﹁お前さ かない﹂。ミ レーは 家に帰る だ。あの男は裸体の女しか描 感じるのだと思います。 国を越 えた 深い懐かしさを 誠実に描き続けたミレーに、 額に汗 して働 く農 民の姿 を 良 寛に限 りない懐 かしさを が早すぎる﹂と言ったという らなければならない。死ぬの 感じます。それと同じように、 かけた時に、もうこの世を去 べてを 捨てて誠 実に生 き た ことです。 やっと 自 然 や 芸 術 が分 かり した。死ぬ数カ月前に ﹁ああ、 誠 実 さ﹂を 感 じ 取 る か らで 形に自 分の性 格 を 与 えるこ 4 日、フランス北 西 部、ノル とです。だ か ら、美のあると さて、ジャン・フランソワ・ 中背よりやや高く、がっし ミ レーは、1 8 1 4 年 月 りした 体 格。牛のよ う な 首 と肩、そして農夫の手をもっ けを貰いました。 友 人にこう 言いました。﹁あ な損失であろう﹂ ある︶ マンディー 地 方の小 さ な 村 のは十 分 その高 さに適 用 す 漢 魏 と 凝 め、近 体 は 唐 を 師 ひ ど く なる だ ろ う し、お 前 ん ば、多 し と 雖 も 何 を か 為 いものを 描 ける よ うになる は自由になり、自分の描きた くなるだろ う。けれども、私 羊﹂です ︵ 写 真 参 照︶ 。 これは 好きなのは﹁生まれたての子 しょう。私たち日本人は、す るのです﹂ と 作 す。斐 然 と して其 れ 章 あわれなも 1 8 6 6 年、ミ レー が れは ミレーという 画 家の絵 良寛も、芸術において最も 大 切 なものは﹁心 中の物﹂を 以てす。心 中の物 を 写 さ ず を 成 し、之 に 加 ふる 新 寄 を ころはいつも手 近です。ただ ていた。ちぢれた黒い髪は後 この清 貧の画 家 ミレーは で農 家の長 男として生 まれ 表 出 すこと だと 考 えていま さん﹂︵大意 だ ろ う﹂。妻 は﹁ 覚 悟 してい たもので、ボストン美術館に の時に、紙にパステルで描い ました。ジャンという名は父 し た。良 寛の歌 論﹁ 歌の辞﹂ のだ、今 ど きの詩 人 た ちは。 ました。お好きなようになさ よく知られているように、 ろへなでつけられていた。眉 親の名からとられ、 フランソ 困 生 活を象 徴しているよ う とは、死ぬまで続いた彼の貧 ひまにまかせて題 を 出 して いまし﹂とだけ答えました。 がよ く 顰 め ら れた。濃い青 ワという名はアッシジの聖フ ランチェスコを崇めて付けら し く、時 には や や 皮 肉 味 を 帯 び る こ と も あった。まっ れました。ミレーの守護聖人 い 眼 は、し ば し ば 憂 鬱 で 厳 す ぐな鼻には別に特 徴はな ふっくらとした頬を覆ってい かった。非常に濃い黒い髭が、 がフランチェスコであったこ た。顎は頑丈で少し張ってい ﹁よき歌よまむとするはわ ろし。おもしろき歌よまんと 詩を作っている。古詩は漢や ど、ミレーも日本の浮世絵に 死ぬまで日 本に憧れ続 け 詩は唐の時 代を手 本とする。 た ゴッホ ほ どでは ないけ れ 女。そのす ぐ後ろを、母 羊が 優 し く抱 きかかえている少 ての子羊をエプロンで包んで 1939 年 碧南市に生ま れる。 京都大学文学部卒業。翻訳業 を経て、小学校教師になるた めに愛知教育大学に入学。 年間、西尾市の小中学校に勤 務。定 年 退 職 後、名 古 屋 大 学 教育学部の大学院で学ぶ。 ︿趣味﹀ 読書と競馬 ︿杉本武之プロフィール﹀ も もっと 苦 しまね ばな らな ミレーの作 品 は すべて好 き で す が、そ の 中 で も 特 に するもわろし。︵中略︶人の心 魏の時代を良いと決め、近体 う た ふ ものな り。近 く 言 は 見た 目が美し くなるよ うに 関 心 が あ り ま し た。一緒 に を読んでみましょう。 字にあはせて、 こころやりに のう ごく心のはし ばしを 文 に思 わ れま す。ミ レーは、フ フランチェスコと 良 寛 は 同 いて大切なものは、どうして も 描 きたいという 画 家の心 ば、泣 くは歌なり、笑ふは歌 詩 句 を工 夫 し、新 味 を 出 そ │ 忍耐強かったばかりか、悲し 清 貧と 慈 愛。ミレーも、 この じよ うな生 き方をしました。 でしょうか。彼は、美 術にお 二 人の聖 者に負 けない純 真 だと 考 えていました。﹁美 を う としている。しかし、作 者 動作はのろく、少し吃った。 ランチェスコと 同 じよ うに、 清 貧 を 貴 び、苦 難 に 対 して 知 らない人の前ではひ ど く みや苦しみに魅 力さえ感じ 歳 遠 慮 し、慎 み 深 く 誠 実 な 話 ていました。彼はこう書いて いま す。﹁私 は 喜 びという も さ を一生 貫いた 芸 術 家でし なり。歌の心とて別にあるも 所蔵されています。生まれた いる時には、生き生きとした のが どんな ものか 知 り ませ のにあらず。︵中略︶賢きも愚 言い回しで簡潔に話した。 物そのものよりも、それを描 つくり出すものは、描かれた ん。それを見たことがなかっ た。ミレーは欲の無い人でし たからです。私の知っている た。彼の母親が亡くなり、遺 服装はすこぶる質素で、 と んと無 頓 着なものであった。 我家では❸を息子が担当し、テーブルも床もきなこだらけになっ ちゃいましたが、楽しく作ることができましたよ♥ 心配そうについてきます。子 ❶耐熱ボウルにⒷとⒸを入れ、電子レンジに入れて約40秒加熱する。 一度とり出し、マシュマロが柔らかい状態になっているかフォーク で確認する。 (手でさわるとヤケドの危険あり) ❷❶が柔らかくなっていたらⒶを加え、全体にからませる。 ❸Ⓓをバットに用意し、❷にまぶす。 ❹完成! バル ビ ゾンに 住 んでいた 画 作り方 の心 中の思いを 写 し 出 さな どんな芸術観をもっていたの 家にいる時や、友 人と一緒に た。 35 し方 をした。しかし、自 分の 「生まれたての子羊」 (部分) かなるを問はず、都、鄙を分 35 (47) かずにはいられなかったとい 材料 産が8 人の子 供た ちに分 け Ⓐお麩・ ・ ・12∼15個 (小さめで丸いもの) Ⓑマシュマロ・ ・ ・100gぐらい Ⓒサラダ油・ ・ ・大さじ1 Ⓓきなこ・ ・ ・1袋 最も楽しいものといえば、そ マシュマロはコラーゲン補給→美肌効果大です。 きなこは大豆たんぱく、そしてお麩は小麦たんぱくたっぷ りのヘルシー食材です。 『母の日』に家族みんなでワイワイ 作ってみるのはいかがですか? 田舎者と同じような服を着 ︵ ▼ 常 柳 会 展・二 十 七 日︵水︶∼ 受講料 無料 申込み期間 六月六日 ︵土︶ 一日 ︵金︶∼ 二 十 日 ︵水︶ 申 ◎常滑市民俗資料館 込 み 生 涯 学 習 課・中 央 公 民 ▼第二十三回我が家の歴史 館 問合せ 生涯学習課生涯 学 習 公 民 館 担 当、ま た は 伊 奈 展・∼十七日︵日︶ 進さん☎ ︱6515 ▼第一回企画展 山茶碗とそ ◎鬼崎公民館 の仲間・二十三日 ︵土︶ ∼ ▼ 文 化 教 室 男 の 料 理 教 室・ ◎常滑市体育館 二十三日 ︵土︶ 、六 月 二 十 八 日 ▼第十五回東海少年少女レス ︵日︶ 、八 月 リ ン グ 選 手 権 大 会・九 日 ︵土︶ ︵日︶、七 月 二 十 六 日 二十二日 ︵土︶ 、九 月 二 十 六 日 ∼十日 ︵日︶ ︵土︶︵全 五 回︶午 前 九 時 半 ∼ 午 ▼第一〇三回常滑市民バス 後一時 内容 男性だけで語 ケ ッ ト ボ ー ル 大 会・十 七 日 ら い な が ら 和 食、洋 食、中 華 料 ︵日︶ 理など学習します 講師 ▼ I N A X 春 体・八 日︵金︶∼ 村瀬香代子さん 場所 鬼崎 二十九日 ︵金︶ 公民館料理室 対象 市内在 ▼第二十四回全知多スプリン 住、在 勤 の 男 性 定 員 二 十 グカップ九人制バレーボール 名 受講料 二千円 材料費 大会・二十四日 ︵日︶ 未定 ︵一 回 千 円 以 内︶ 申 込 ▼第一〇三回常滑市民バス み期限 十二日 ︵火︶ 申 込 み ケ ッ ト ボ ー ル 大 会・三 十 一 日 生 涯 学 習 課・鬼 崎 公 民 館 ︵日︶ 問合せ 生涯学習課生涯学習 ◎常滑市中央公民館 担 当 ☎ 内 線352 F A X ︱7227 ◎知多市地域文化センター ▼ 創 作 ク ラ ブ﹃タ ッ チ ラ イ ト で あ そ ぼ う﹄ ・一 日 ︵金︶∼ 三十一日 ︵日︶午 前 九 時 ∼ 午 後 四時半 内容 紙でランプ ▼中央公民館協賛公開講座 初 心 者 短 歌 教 室・二 十 六 日、六 月二日 ︵火 曜 日・全 二 回︶午 後 七時半∼同九時十分 講師 伊奈進さん 場所 中央公民 館 学 習 室1 対 象 市 内 在 住、在 勤 の 人 定 員 二 十 名 ページへ続く︶ 34 マシュマロっ麩! ! 簡単! 美人おやつ♡ 25 52 ◎常滑市民文化会館 ▼常滑おやこ劇場 三十周年 記 念 低 高 合 同 例 会﹃ア ラ ジ ン と 魔 法 の ラ ン プ﹄ ・九 日 ︵土︶ 午後六時∼同七時半 ▼松本典子ふれあい演歌まつ り・十 七 日︵日︶午 前 九 時 半 ∼ 午後七時 ▼ 常 滑 市 文 化 協 会﹁邦 楽 の つ ど い﹂ ・二 十 四 日 ︵日︶午 前 十 時 ∼午後四時半 ▼平成二十一年度 常滑市戦 没者合同慰霊祭及び遺族大 会・二 十 七 日︵水︶午 前 十 時 ∼ 正午 ▼I N AX 労 働 組 合 知 多 支 部 ユ ニ オ ン フ ェ ス テ ィ バ ル・ 三 十 一 日︵日︶午 前 十 時 十 分 ∼ 午後四時 ◎常滑市立図書館 ▼ あ じ さ い グ ル ー プ 展・∼ 五 日 ︵火・祝︶ ▼ ら く が き 会 展・六 日 ︵水・振︶ ∼十五日 ︵金︶ ▼ 渚 会 展・ 十 六 日 ︵土︶∼ 二十六日 ︵火︶ 5 長澤晶子の SPEED★COOKING! 家 研究 料理 この指とまれ 子どものころは氷がめず 20 10 3 れていました。食べ物を 大騒動をしたことを時々思 少しでもやると、食卓に い出します。 氏 原 朝 信 乗せた食べ物まで取って やぎの乳で しまうからです。 死んだねずみをミィーが ○○を飼う⑵ ねこの思い出を一五七号で書いただけでは何か物足り ねこは、私たちが食べ 食べ、乳飲み子を残して死 なさを感じていたので、﹁ねこを飼う﹂パート2をお送 るより先にご飯︵ねこま んでしまいました。幸い一 りします。 んま︶をもらっていたの 匹残していたので、ミィー 餌につられて です。だから、がまんが らしかったので、私たちも の血筋は受け継がれました。 鮮魚を入れたトロ箱を、 できたのかもしれません。 子ねこがご飯を食べられる 氷をもらいに駆けていきま 自転車の荷台に二・三箱積 冬のころ、寝ていると、 した。冷たいのをがまんし ようになるまで、近所にや んで魚屋さんが来ると、ど 枕もとでゴロゴロとのどを ながら、小さい氷のかけら ぎの乳をもらいに行きまし こからともなく、あの三毛 ならして隙間をさがしてふ を頬ばったものです。 た。 ねこ﹁ミィー﹂がシッポを とんの中に入ってくるので ねこのミィーが畑に行く 玉をとって遊ぶ子ねこの 立てゴロゴロとのどをなら す。私もねこと寝ると暖か 母についていくのも、考え 姿は母親がいなくても同じ しながら、母と一緒に買い いから隙間をあけてやりま てみると餌をもらえるから でした。でも、母親から教 に行くのです。自転車の下 す。ミィーが鳴かないのは、 えられなかった分、私の手 だったようです。 で、時々﹁ニャー﹂と魚を 母に叱られるからです。 甘えてくれるのは に歯を立ててかぶりつい 私が食べ物を持ってい 催促していました。これ いつだったか、ミィーが たり、つめを立てたりする る時や食事の時でした。 までもねこの大好物の魚 子を産むからふとんに入れ 仕草は野性味丸出しでした。 食事の時、ミィーに食べ をもらっていたからでし るなと言われていたのに禁 それが功を奏したのか鳥や 物 を や っ て は い け な い と 、 を破ったものだから、夜中 ょう。いいお客さんです。 野うさぎを捕って帰るとい 母にきびしく言い付けら にふとんの中で子を産み、 った狩人に育ちました。 (158) 60 平成21年5月1日 (2) 第 249 号 愛知県立大学名誉教授 山田正敏 地域からの ││ はじめての 〝来訪者〟││ 彫りの村マス、金銀細工の村チュル ことは事実である。 同じような姿。 ている。 ◆ ◆ こ の 街 道 筋 は、 大 型 観 光 バ ス が 七〇年代から時々バリ島を訪れて いまや、バリの男の〝権勢と富の 列を連ねて行く。まずバディックの いる妻から、すでに、このチュルク 象徴〟であるクリスを飾ったチュル スケジュールである。 り││とは、よく考えられたツアー・ 持ち帰れない村の工芸品店は、素通 の見学。木彫りの村で買物。日本に リングが作られている。その出来は 蝶や花などの可憐なブローチやイヤ 細工。細い銀線を何本も縒り重ねて 細い銀線でデコレーションする線条 職場が、日本の女性観光客を酔わせ 場はもうバリ島の女性の職場。その 若い女性の銀細工師が繊細な指先 から作品を編み出してゆく。この職 い て い た。 こ ゝ の 銀 細 工 の 特 徴 は、 もつ細工師の面影はない。 の銀細工は見せてもらい、説明も聞 ている。 村での買物。石彫の村は、車内から ◆ 芸術の域にまで達しているといって クの金銀細工の歴史や霊力・魔力を チュルク村の金・銀細工の歴史は 古く、バリ島に精通するある文化人 そのパッケージは、バリらしく、ヤ ていたのだろう││と、私は思いを には、一瞬の衝撃を受けた。 ともとは、高貴な身分の人が身につ シの葉で細く編んだ蓋付きの篭。そ 類学者は、この村の金銀細工は、も ク、竹細工の村ボナ⋮。まさに、 〝バ WHO︵ 世 界 保 健 機 関 ︶ 調 査 で、 バリ島は﹁世界で一番精神病の少な リ島伝統芸能・伝統工芸品巡りの銀 けるクリス︵短剣︶をつくることか 馳せた。 その柄や鞘は男たちの富を示すもの 彼 女 の 紹 介 の 言 葉 を 通 し て、〝 一 瞬 あるが、日本の観光みやげは、産地 私には、彼女が心身の健康をなぜ ﹁お土産﹂とは、 工で有名なチュルクという村で、日 ﹁旅先で買って持ち 害したのか、その理由は、管理人の 帰る、その土地の産物﹂をいうので ちが多く住んでいたのがチュルク村 られた。こうした金・銀の細工師た ストの貴族という特別な称号が与え アートショップに入る。その広い庭 この喧騒と、引きも切らぬ接客の も過言ではない〝おみやげ〟である。 日々の中に、彼女は永い年月暮らし い 地 域 ﹂ と 紹 介 さ れ た 調 査 結 果 を、 座通り〟である。日本人観光団体客 の中に綿にくるまれて銀細工が入っ 定番のコースでもある。 ら、歴史が始まっているという。 〝金科玉条〟のように掲げ、その〝理 団体旅行に同行させて頂いたが、そ で、金・銀の細工や宝石で飾りたて 由〟を探ろうと試みた﹁バリ島調査﹂。 私 も、 は じ め て の バ リ 島 行 き は、 クリスの刃には、先祖たちの霊が その﹁地域からの最初の来訪者﹂が、﹁ ア ジ ア 文 化 交 流 セ ン タ ー﹂ の 観 光 宿 り、 特 別 な 力 が あ る と 信 じ ら れ、 精神病とまでは言わないまでも、〝精 の折にもこの〝定番コース〟を案内 の衝撃〟と共に、おおよその〝見当〟 不明の〝レール商品〟ともいわれる 力な呪術師であると考えられており、 を扱う者は、バリ島ではきわめて強 られている。霊力・魔力をもつ金属 神状態を不安定〟にし、しかも〝体 旅、 と り わ け 観 光 旅 行 に は、﹁ お あまりにも〝皮肉な出会い〟である。 土産﹂はつきものである。もともと が、精神状態が不安定になり、体調 観光地のどこにでもある﹁おみやげ﹂ で、今もその伝統を受け継いでいる ◆ を乱し、心配した親が勤めを止めさ がついた。 街道の両側に、英語で描かれた大 小の〝金と銀〟という看板を掲げた が増えてきているように思われるが、 という。 彼らは﹁パンデ﹂と呼ばれ、下層カー せ、いまは自宅で靜養している││ この街道筋の伝統工芸品は違う。 本語を勉強をしているという話をし たところ、この家に遊びに来たがっ 工房・店舗が並び出す。チュルク村 バスは、この街道沿いにある新築 バリ島特産の大・小の竹でつくられ と見紛近代的なガラス張りの大型 ても、その土地の素材を加工した 〝正 ターの開店記念セールのようだ。見 は、日本の大型ショッピング・セン している。バリ島の風景というより 台の真新しい大型の観光バスが駐車 といおうか、駐車場には、もう四・五 観光ブームの陰で︾ ︽日本人 バリ島 真正銘のおみやげ〟である。 号地図参照︶ た家庭用品など⋮。どれをとってみ 客は、一度は必ずといってよいほど、 よ く 訪 れ る〝 バ リ 島 観 光 の メ ッ カ 〟 は 日 本 人。 そ の 大 半 は 女 性。 四・五 姿 が 見 え る の み。 私 ど も の バ ス も、 る人、会う人、すれ違う人、すべて こゝへの街道沿いには、バリ島伝 こ の 観 光 ブ ー ム の 詳 細 な 推 移 は、 統工芸の工房が軒を連ねている。 定かではないが、私がはじめて訪れ 台のバスの中に、わずかな男性客の きないほどのブームの最中であった た 年頃は、航空券も容易に入手で である。 された石像、柴檀・黒檀などの木彫、 である。 いたという話を耳にしたからである。 手織り手染めの布、噴火で出来た 柔らかい火山性凝灰岩に緻密に彫刻 る沿道の村である。 ︵ 行ったウブド・プリアタン村に通じ チュルクという村は、空港・州都 ているが、よろしいか││、という テンパサールから、私が学校調査を 話である。 この申し出を断る特別の理由もな く、かえって、日本語ができる村人 ことであり、妻を介してのこの管理 人の申し出には、承諾を即答した。 ︽精神状態不安定になった バリ島の娘さん︾ それにしても、この管理人の彼女 祥の地であり、バリ島を訪れる観光 このウブド・プリアタン村は、バ と知り合えることは、願ってもない リ絵画・バリの伝統舞踊・音楽の発 10 の 紹 介 の 冒 頭 の 言 葉 │ │、 ﹁ 精 神 状 バ デ ィ ッ ク︵ 染 め 物 ︶ の 村 ト パ 態 が 不 安 定 に な り、 体 調 を 乱 し ⋮﹂ ティ、石彫りの村バトゥブラン、木 '92 本人観光客相手のお店に勤めていた それは、彼女が、しばらくチュル との由。この家で、子どもたちが日 クという村の金銀細工の店に勤めて ∼三ヶ月前までは家を離れ、金銀細 調を乱し〟ている若い女性とは││。 された。 管 理 人 の 話 に よ れ ば │ │ 彼 女 は、 日本語を話すことが出来る子で、二 住む、世話役の娘さんである。 その来訪者とは、管理人の紹介に よる、同じバンジャール︵部落︶に ④ バリの村に住む︾ ︽伝統的な ﹃バリ島 行ったり来たり﹄ ⒄ 第 249 号 (3) 平成21年5月1日 もち はながたみ 筐 黐の木 小林玲子 き | 舅 は、 後 に 入 婿 と な る 本 家 の 隣 り の 分 家 に、 明 治 四 十 一 年 長 男 と して生まれた。三歳の時チフスに罹 ひと よ 生﹂ わが一 り、同じく罹患した母が子供を残し 能村登四郎 て亡くなった。舅は命を拾った。 残された父と子は本家の世話に なっていたが、後添いがきて分家に 野に陽炎の立つ季節になった。 帰り、継母には三人の子が生まれた。 ﹁逃げ水﹂ は春の季語で、武蔵野が有 父親は舅が旧制中学のとき亡く 名だそうだが、農道などを車で走っ な っ て し ま い、 継 母 は 自 分 の 子 に ていると、はるか先に水溜りが見え 家督相続させるため、舅の本籍を一 る。雨などなかったはず、と思って 年 だ け 余 所 へ 移 し て い る。 舅 が 亡 近づくと、なにもない。中国では地 くなったときの相続でそのことを 鏡といって、地球上どこでも見られ 知ったが、舅の境遇を垣間見る思い る自然現象である。 であった。 人生は、手枷足枷に縛られて、な くもがなの荷を負うて、とぼとぼと 大学は特待生で、卒業後銀行に勤 めた。世界恐慌の時代である。 見果てぬ夢を追って生きるのが常 本家の伯父が病に倒れると、三人 で、思いどおりに運ぶ人生などあり 姉妹で男子のなかった伯父は舅を 得ない。平穏に何もない人生があれ 急遽名古屋から呼び寄せ長女と結 ば、それは、退屈で空虚で﹁苦の娑 婚させ、入婿にした。 婆﹂ に似合わない。 私が金時計の特待生のことに話 人は、時代に縛られ、世間に縛ら を向けると、 ﹁わたし ︵舅は自分のこ れ、家に縛られ、己の思いに縛られ とをわたしといった︶は、頭のいい て、生きていく。﹁逃げ水を追ふ﹂の 方でなかったから、とにかく、こつ が人生である。 こつ勉強した。それが仕事だったか 人の一生を思うとき、様々な情況 ら。一所懸命努力して、それででき の中で、時に誇らかに、時に悄々と な け れ ば、 そ れ は そ れ で 仕 方 が な して歩みながら、いずれも何処かへ い﹂と言った。この信念は、子や孫 消えていく。 の教育方針にも表われて、生涯、孫 花になぞらえての拙文に、まこと に付き添って勉強をさせたが、テス しやかに登場させた人々も、同じく 重 荷 を 負 う て 人 生 を 生 き た、 ま た 、 ト の 結 果 を 云 々 す る こ と は な か っ た。金時計は実家に置いてきた、と 生きている、思えばいとおしい人々 いうのも舅らしかった。 である。個人を語るなど不遜きわま りないことで、拙い筆にのせるべき 私の父も、母方の伯父も舅とは刈 で は あ る ま い が、 不 届 き に も 私 は、 中の同級生で、一歳半で父を亡くし た私は、父親のことを舅に聞くのが またこうしてペンを執っている。 楽しみであった。私がこの家に嫁い 今回の﹁黐の木﹂を想い出にした だ頃は、舅は農協に勤め、夜は英語 人はわが舅で、やはり、ひたすらつ の塾をして中高生を教えていた。勤 つましく市井に生きた人であった。 めを辞めてからもラジオの英会話 の 時 間 で 勉 強 し て い た。﹁ 孫 を 教 え ﹁逃げ水を追ふ旅に似て 花 平成21年5月1日 (4) 第 249 号 | ■小林玲子プロフィ−ル 愛知県西尾市生まれ。 《著書》 童話『サケの子ピッチ』 (KTC 中央出版) 随筆集『海辺のそよ風』 (アト リエ出版企画) るには、今の教育を知らんとできん 戦を境に暮らしが一変し、農地改革 から、塾も続けている﹂という。舅 や財産税に苦しみながら、家族を支 に と っ て、 家 の 継 続 は 最 大 の 命 題 えて懸命に生きた。慣れない農作業 で、子の教育も孫の教育も自分が為 もしたが﹁出入りの者に百姓の仕方 すべき義務と思い込んでいた。私は を聞いても、笑っていて教えてくれ 子を預けて楽であったが、自由を奪 なんだ﹂と語ったことがあった。 われた子は、少なからぬトラウマを 農協の金融部でのエピソードが 背負ってしまった。善意の固まりで あ る。 仕 事 が 終 る と、 毎 日 出 納 の あったから文句は言えなかった。 チェックをする。ある時、一円の不 ﹁ わ た し の 人 生 は、 人 を 教 育 す る だ 明金が出た。帳尻を合わせるのに手 けだった﹂と話したことがある。確 間取り、係の女性が私に負担させて かにそれは命がけで楽しみもそれ 下さい、と泣きだした。舅は﹁金額 の多寡ではない。どこで間違ったの だけに集約されていた。 かを調べているのだから﹂と、分か 私が嫁いだ頃のお風呂は焚き口 るまで調べたという。 が外にあった。終い風呂に入ってい ると﹁ひと焼べせんでええかね﹂と こ れ を 私 に 話 し た 人 は、 融 通 の きかない人という非難めいた口ぶ 声をかけてくれた。この家にも味方 りであったが、正確さを求める金融 がいる、とうれしかった。 の仕事は、かくあるべきと思う。い 肉親と縁の薄い人で、他人の中で ささか女性的で、内股気味に歩いた 苦労したことが知られた。 が、一本貫く芯があった。 神仏に帰依し、祖先を敬って、平 姑 は 六 十 二 歳 で 亡 く な り、 舅 は 成元年に亡くなったが、崇敬する天 八 十 二 歳 ま で 生 き た。﹁ わ た し は 丈 皇の崩御を悲しんでいたから、同じ 夫 で な か っ た か ら、 気 を つ け て き 年に逝ったことは縁のあったこと て、長生きできた﹂と言い、 ﹁もうな かもしれない。明治生まれの人らし に も 心 配 す る こ と は な い が、 長 生 く、律儀で忍耐強く、家を守ること き す る こ と だ け が、 わ た し が 若 い に一生を費やした。 ものにしてやれることだ﹂と言った。 もち 早くに肉親を亡くした人の言葉で の花﹂ ﹁夕月は水色なせり黐 あった。嫁の親は脳卆中で、十年生 草間 時彦 きて亡くなり、若くして家長となっ て、時代の波にも晒され必死で家を 親戚の庭に数百年は経つモチノ 守ったのであろう。 キ が あ る。 そ の 聳 え 立 つ 大 木 を 見 二人の孫が大学に入ると、気力が た舅は、家の庭にも植えたいと言っ 衰えて臥せりがちになり、若い頃は て、込み合っている庭の隅に苗木を 短歌なども詠む人だったから、床の 植えた。 中で徒然草や方丈記などを私に朗 モチノキは固く締った樹で、成長 読させて、黙って聴いていた。今思 は遅いが形のよい木である。毎年四 えば、もっとやさしく穏やかに読め 月ごろに、葉のつけねに黄緑色の地 ばよかったのに、と臍を噛む思いで 味な花をつける。十一月には丸い実 ある。 が赤く熟してたくさんつく。華やか 今まで﹁花筐﹂として、身内や心 さはないが秋の実りは美しい。小鳥 に残る人々を俎上にのせてきた が喜んで啄むから、種を落して方々 が、覗いた筐の花をあるがまゝ写す に 実 生 の 芽 が 育 つ。﹁ 命 あ る も の を の で は な い。 覗 く 自 分 を 裸 に し て、 無暗に伐るでない﹂との舅の声が聞 恥を書くのだと思っている。 こ え る が、 可 哀 相 と 思 い な が ら 伐 この言い訳も謝して、拙い筆を擱 る。枝ぶりが整ってきたモチノキを きたい。 見ると、やはり端正に生きた舅と重 なる。 地主の家へ入婿の舅だったが、終 知多の動植物雑記 ︵二四八︶ 原 穣 いっぱいに開いている様は、 実に誇らし気で、私もヨ カッター! ちょっとおじゃまします 山 祐 子 さん 市立陶芸研究所を紹介され、1年間 通った。 朝から夜まで焼き物の生 活 きな仕事と思い、 腕を磨いた。 講師 は、 実に楽 しかった。これが私の好 トウカイコモウセンゴケが 瞬間から強烈なオーラが全身からあ とはじめて出 会い、 土と向 き合った 陶芸家 僅か五∼六㍉の真紅でさじ やっと心も落着き、湿地 を巡れば、ところどころに 二∼三㌢の茎が出ていても 状の葉を五枚六枚と重ね広 うそろそろハルリンドウも いい頃だと、いつも出てる 中心部から、先をまだ丸め たまゝの花茎が一㌢ほど伸 して多くなく、 株数としては 何時もながら決 い雑草除去など整備中。 マホシクサなどの繁茂を願 ウやミミカキグサ、シラタ 露出したところに生えやす 家は陶器の絵付けをしていた。 高校 そんな私の疑問に彼女は、 高校の恩 釣 合い。 どこか渋さを感じてしまう。 の渋い器にぎゅっと凝縮されたのでは ことも、 今までの彼 女の人 生が灰 釉 している。 と、 取材を終えた私の頭の中で交錯 師の影 響 だという。 恩 師は、 平 安・ 落 ちつ く と い う。 で も 最 近 は、 洋 6 月 日から 日まで、ノリタケ 服であったり、 焼き物であったりと、 明るいものが好きになってきたという。 の森ギャラリーで個展を開く予定だ。 いでいた。その灰釉の渋さが好きで、 鎌 倉 時 代 の古 常 滑 の再 現 に 力 を 注 しいこと も、 笑ったこと も、 泣いた しさも歳を重ねて、ついてきた。 楽 数年前に彼女が描いた人生の設計 図は、 順 調に進んでいる。 強さも優 きっと今後作り出されることだろう。 いる彼女とは全く違う彼女の作品が、 欲 は 高 まっている。 私の記 憶の中に の恩師である小出芳弘さんから常滑 う。 渋い作品と実年齢は、 どうも不 彼 女の手がける器やカップは、 ど れも灰 釉の渋さだけが目 立ってしま いう。 もっている無 限の広 がりを 感 じたと ふれ出し、 その講 師の技 術から土の 勝夫先生他四名である。 五名の講師 は息 抜きを上 手に楽しんでいる水 上 知多半島の公園、山里、 川辺を豪華絢爛に輝かせて 場所近くを見回すも、見つ 奥 川 弘 成 定 年のない仕 事を見つけよう そ う思った瞬間から会社を辞めた。 実 くれた桜も、今は新緑。 と心配 かったのはただの一株だけ。 げて地面に張り付け、その エエッ!絶滅寸前 武豊町の壱町田湿地はど んなかナ?湿地の花の先駆 け的存在であるハルリンド で心配で。 ここに一株、あ 地表に広がり、一本の茎の 湿地はショウジョウバ そこに二株程度 カマがメイン。多数の葉が であるけれど、 今年はまた新た にというか、七、 先に十個ほどの花をつけて ㍍離れた場所に いのに、今や 湿地はゼン いる︵写真 右下︶ 八年も前に数株 でも、ショウジョウバカ 生えていた、距 マは落ち葉も少なく、土の 二株、その内の マイが先導気味。 離にして五・六 一株が写真のも 楽しく感じたもの、 遊 び心のあるも になるからという。 個 展は、 次の仕 事に向かうきっかけ 市白石遺跡が知られていま 標高二十㍍ほどの丘に豊橋 ています。︵愛知県史︶ 相を示していると評価され 川下流域にまで広がった様 わった初期の弥生文化が豊 九谷焼きも好きだなぁ⋮と、 作陶意 す。ここでも環濠が発見され ︵赤井 伸衣︶ の、 暖 色 も 使ってみたい、 絵 付 けの 愛知県内の環濠集落は 二十三ほど確認されていま ていて三重県の大谷遺跡や 宿題にしなければ、である。 どこまでどんなに裸地を ので、春の日差 広げるか、今年の守る会の しの中、美事に す。 このほかにも環濠集落と 紫色の花びらを 推定もしくは可能性が指摘 先にあげたいずれの遺跡 も日照でもかれることがな 永井遺跡、名古屋市高蔵遺跡 などを含めて伊勢湾岸に伝 シ ェ ー ド を 作 り、タ ッ チ ラ イ トのあかりを楽しみます 材 料費 一個二百円 ▼ 季 節 工 作﹃ス プ ー ン デ ザ ー ト﹄ ・一 日︵金︶∼ 三 十 一 日︵日︶ 午前九時∼午後四時半 内容 あき容器とフェルトでス プ ー ン デ ザ ー ト を 作 り、プ レ ゼントしましょう 材料費 二個七十円 ▼ い ろ あ そ び﹃も も い ろ と き み ど り で そ め よ う﹄ ・二 十 日 ︵水︶∼ 三 十 一 日 ︵日︶午 前 九 時 ∼午後四時半 内容 ゴムな ど で も よ う を つ け、や わ ら か い色をかさねてそめます 材 料費 一枚二百円 ▼ ﹃ど ん ぐ り な ど の 草 木 染 め﹄ ・二 十 日︵水︶∼ の 午 前 九 時 ∼午後四時半 内容 どんぐ り な ど を 使 っ て、自 然 の 色 を そめて楽しみます 材料費 一 枚 四 百 円 ︵限 定 三 十 枚︶ ※工作時間が一時間かかり ます ◎ギャラリー共栄窯 ▼ 下 和 弘 陶 展・二 日 ︵土︶∼ 二十一日︵木︶ ◎ ギャラリーCera︵常滑市観光プラザ︶ ▼ 磯 部 晃 & 会 員 展・一 日︵金︶ ∼十一日 ︵月︶午 前 九 時 ∼ 午 後 五時半 ▼ 市 原 路 代 作 品 展・十 五 日 ︵金︶∼ 二 十 五 日 ︵月︶午 前 九 時 ∼午後五時半 ▼ 水 野 真 澄 陶 展・二 十 九 日 ︵金︶∼ 六 月 八 日 ︵月︶午 前 九 時 ∼午後五時半 ◎常滑屋 ▼ ﹁俳 画 グ ル ー プ 哉 彩 作 品 展﹂︱ イ ネ・セ イ ミ と 俳 画 教 室 の仲間達︱・∼三日︵日・祝︶ ▼ 松 川 紀 子 杉 本 純 子﹁さ わ や か な 風 に さ そ わ れ て! 書 作 品・一 閑 張 り﹂ ・四 日︵月・祝︶∼ 十日 ︵日︶ ▼ 河 村 冨 代 子﹁藍 の ニ ー ド ル ワーク∼ていねいにくらす ∼﹂ ・十二日︵火︶ ∼十七日︵日︶ ▼ ア ト リ エ 萌﹁ス タ イ リ ッ シ ュ な 萌 の 夏 服﹂ ・十 九 日 ︵火︶ ∼二十四日︵日︶ ▼﹁Fr e e Se w ing・ たみ子パッチワークキルト 展﹂ ・二 十 六 日︵火︶∼ 三 十 一 日 ︵日︶ ◎陶芸サロン陶美園 ▼ 加 藤 真 美 作 陶 展・三 十 日 ︵土︶∼六月七日︵日︶ ◎ ギャラリーセピカ︵まるふく内︶ ▼ 谷 川 仁 百 飯 碗 展・一 日 ︵金︶ ∼十日 ︵日︶ ▼ 土 平 栄 一 陶 展・十 五 日 ︵金︶ ∼二十四日 ︵日︶ ▼ 水 上 勝 夫 陶 展・二 十 九 日 ︵金︶∼六月七日︵日︶ ◎方円館 ▼ 匂 坂 三 恵 子 展・八 日 ︵金︶∼ 二十日 ︵ 水︶ ▼ 細 江 治 子 展・二 十 二 日 ︵ 金︶ ∼六月三日︵水︶ ◎ ギャラリーとこなめ︵常滑市陶磁器会館内︶ ▼紫勝窯展・∼六日︵水・振︶ ▼黙示庵窯 久田邦男作陶 展・二 十 二 日︵金︶∼ 二 十 八 日 ︵木︶ ◎武豊町立図書館 ▼武豊町身体障害者福祉協議 会作品展・二十一日︵木︶ まで ◎武豊町歴史民俗資料館 ▼ は た お り 教 室 作 品 展・ 二十七日︵水︶ ∼六月七日︵日︶ ▼ は た お り 体 験・二 十 七 日 ︵水︶∼ 三 十 一 日︵日︶① 午 前 九 時∼②午前十時半∼③午後一 時∼④午後二時半∼ 各時間 二名ずつ 合計四十名 参加 日 ︵金︶午 前 十 時 半 ∼ 同 十 一 時 費 二百円 半 ◎武豊町中央公民館 ▼ さ つ ま い も 苗 植 え& 野 外 ▼福寿大学①命を実感して生 ク ッ キ ン グ・二 十 三 日 ︵土︶午 きる 講師 祖父江佳乃さん 後一時半∼同二時半 ︵有 隣 寺 住 職︶ ・八 日 ︵金︶午 前 ▼ 手 話 ク ラ ブ・十 六 日、三 十 日 十時∼正午 定員 五百名 各 ︵土︶ 午後一時半∼同二時半 ︵六十歳以上︶ 無料 ◎くすのき児童館 ▼ 家 庭 教 育 セ ミ ナ ー﹁自 主 性 ▼ 母 の 日 の プ レ ゼ ン ト 作 り・ を 育 て よ う﹂ ・十 二 日︵火︶午 前 二日 ︵土︶午 後 一 時 半 ∼ 同 三 時 十時∼正午 無料 半 ▼ 親 業 体 験! 学 習 会 ﹁セ ル ▼ こ ん な も の 作 ろ う・五 日 ボ ッ ク ス﹂ ・午 前 九 時 半 ∼ 正 午 ︵火・祝︶ 午後二時∼同三時半 ◎長尾児童館 参加費 千百円 ▼ 母 の 日 の プ レ ゼ ン ト 作 り・ ▼環境学習 川の生き物探し 二日 ︵土︶午 前 十 時 半 ∼ 午 後 三 & 新エネルギー 自然環境の 時 大 切 さ を 学 び 今、私 達 に 出 来 ▼ 親 子 で 遊 ぼ う!・二 十 二 日 る 事 を 考 え る・河 川 環 境 楽 園 ︵金︶午 前 十 時 半 ∼ 同 十 一 時 自 然 発 見 館︵東 海 北 陸 自 動 車 四十五分 道 川 島 P A 内︶新 エ ネ ル ギ ー ▼ さ つ ま い も 苗 植 え& 野 外 体 験 館︵常 滑 市 り ん く う 町︶に ク ッ キ ン グ・三 十 日︵土︶午 後 て 定員 四十名 ︵小 学 四 年 一時半∼同三時 生 ∼ 中 学 生︶︵小 学 生 は 保 護 者 ◎半田空の科学館 同伴︶ 参加費 千円 ▼癒しの星空旅行∼南十字星 ▼ 公 民 館 ま つ り・二 十 三 日 を求めて∼美しい満天の星空 ︵土︶ 、二十四日︵日︶ の下 心地よい音楽と自然の ▼ゆめたろうパソコン教 映像であなたを癒しの世界 室︽は じ め よ う パ ソ コ ン︾ ・ へご案内します 旅先は ﹁南 二 十 九 日︵金︶午 前 九 時 半 ∼ 正 半 球﹂ さ あ、リ ラ ッ ク ス し て 午 定員 十五名 参加費 ﹁南 十 字 星﹂を 探 し ま し ょ う・ 千円 二十三日 ︵土︶午 後 七 時 ∼ 同 八 ◎ 武豊町民会館 ゆめたろうプラザ ▼ ロ ケ ッ ト ☆ ト ー ク ラ イ ブ・ 時半 定員 百五十名 ︵中 学 九日 ︵土︶午 後 一 時 ∼ 講 師 生以上︶ 参加費 三百円 緒川修治さん ︵P D エ ア ロ ス ▼五月の星見会 ﹃土 星 と 春 の ペース㈱︶ 無料 宝石 ︵二 重 星︶ ﹄ ・三 十 日︵土︶午 ▼モデルロケット製作教室& 後七時半∼同九時 定員 打ち上げ大会 ﹁大 空 杯﹂ ・九 日 六十名 ︵小 学 生 以 上︶ 参 加 費 ︵土︶ 定 員 二 十 名 ︵小 学 生 大人 三百円 小人 二百 以 上・小 学 年 生 以 下 は 保 護 円 者同伴︶ 参加費 二千百円 ◎半田市青山記念武道館 ▼町民茶会と諸流いけばな ▼子育て支援事業 レッツ 展・十日︵日︶ トライ 、 、 ・八日 ︵金︶ ▼ ヴ ァ イ オ リ ン & ピ ア ノ・ デ ュ オ・リ サ イ タ ル︽春 美 し き は 宵 の 月︾ 竹 中 勇 人 ︵ヴ ァ イ オ リ ン︶ 稲 岡 千 架 ︵ピ ア ノ︶ ・ 十 日︵日︶午 後 二 時 開 演 プ ロ 色の 赤青黄 つけた 衣装を 虫が う てんと て ゃり出 しゃし に サンバ て あわせ す 踊りだ 半田市堀崎町1-29(新美眼科むかい、住吉公民館横) ウは大丈夫かナ?というの 弥生時代(百三九) びている。︵写真 左下︶ で、四月中頃に再び訪ね も、四月一日に初春の湿地 湿地は、初夏から秋に れば、 !ヤッタネ! の様子を見に行った時、も かけてナガバノイシモチソ 町の考古学 A C されている遺跡が三十五あ ります。 集落を取り囲むように掘り めぐらせている環濠は弥生 時代前期から造られていま す。 それは、 尾張平野の砂地と なった沖積地に流れる日光川、 五条川、庄内川などの周辺に ある小高い自然堤防の上でみ ることができます。 また、沖積地を見下ろす台 地に形成された環濠遺跡に名 古屋市高蔵遺跡があります。 それは、名鉄神宮前駅から金 山駅に向かう車窓から名古屋 駅方向に向かって左手、西方 向の熱田神宮の北に位置する 小高い熱田台地にあります。 ● 曲名/スコットランド民謡、アイルランド民謡、日本民謡、讃美歌 など ● 問合せ/TEL0569-21-2206 (神﨑) ♪ ★清水和弘(アコーディオン) ★滝川捷年(ベース、ギター) ★鈴木米一(ギター、パーカッション) 伴奏 ? ! 弥生時代前期の遺跡が台 地の上にあることはめずら グラム ベートーヴェンピア 吉田ひろし ノ ソ ナ タ 第 番﹁月 光﹂、ヴ ァ 林 京子 イ オ リ ン ソ ナ タ 第5 番 ﹁ス プ ドラ吉清水 リング﹂ 他 馬場 利明 ▼ 抱 腹 絶 倒! 観 る ラ ジ オ ド ラ 河瀬四四子 マ ひ と 組﹃時 代 横 丁﹄﹁赤 松 浦崎ひとみ 源 五 郎 駐 在 日 記﹂生 ま れ た 子 藤井 文月 馬の所有権を賭けて母馬を草 冨田 悦子 競馬に出場させる父娘と 杉山 和美 村の駐在さん赤松源五郎巡査 滝田 絋美 の ふ れ あ い を 描 く 人 情 喜 劇・ 平野 紀江 ﹁地獄八景だぎゃ﹂ゴールデン 久田 篤 ウィークのさなかにおっ死 曽我部和美 んだ名古屋のじいさんばあさ 岩田つま子 んが団体旅行さながら地獄詣 竹内三千彦 幾世八千代 さあ無事に極楽にたどり着 けるでしょうか さあ みて やました悠 ち ょ ー・二 十 三 日︵土︶午 後 七 谷川 利子 時開演 村井みさを ◎武豊町総合体育館 磯村美耶子 ▼第 回町民ビーチボール大 斉藤 浩美 会・十七日︵日︶ 竹内すゞ代 ◎東大高児童館 加藤 久子 ▼ 母 の 日 の プ レ ゼ ン ト 作 り・ 谷川と志江 二 日︵土︶午 前 十 時 半 ∼ 午 後 三 片岡 光子 時 青山 文代 ▼ 乗 り 物 乗 り 放 題 D A Y・五 杉江 ちゑ 日︵火・祝︶ 、六 日 ︵水・振︶各 午 佐藤 きぬ 前十時∼午後四時二十分 吉田 美子 ◎おおあし児童館 中村 勝 ▼ ち び っ こ ク ラ ブ・一 日、十 五 石井 清隆 日 各︵金︶午 前 十 時 半 ∼ 同 十 一 諏訪 清子 時半 井野 洋子 ▼ 母 の 日 の プ レ ゼ ン ト 作 り・ 岩橋 美幸 二 日︵土︶午 前 十 時 半 ∼ 午 後 三 柴山 庄山 時 中 村 洋子 ▼ ト ン ネ ル で 遊 ぼ う・二 十 二 子供の頃唄った懐かしいあの歌を みんなで、大きな声で唄いませんか! 21 とも付け加えられました。 in 茶房つぶら C 16 跡、 荒古遺跡などで弥生時代 参加費 1 うたごえ うたご うた ごえ ♪♬ 500円 カーネギーホールやリンカーンセンターで、コンサートをする欧米で活躍のハープ奏者が チャリティーコンサートのために知多半島にやって来ます。 2 3 平成21年5月16日㈯ PM2:00 開演 日本福音ルーテル知多教会 ●日時:5月16日(土) 14:00∼16:00 ●場所:茶房つぶら/武豊町道仙田26−2 ●TEL:0569-72-7377 (1ドリンク付き) 第6回 世界の子ども支援 第20回 3 14 ! ! 宴会に暮れて帰れば春の月 く田畑を潤す河川が控えて 前期の土器が出土していま 花見して歩数伸び行く川堤 います。 す。 細見遺跡を除き十分な調 温暖化開花早まる桜かな 先駆けて園児の桜満開に 知多半島で知られている 査をしていないので、 遺跡の 真新し制服と靴花吹雪 弥生時代前期の遺跡からは、 全容をつかめていませんが、 幼児は桜見もせず滑り台 仏壇が色鮮かな花ミモザ 環濠は見つかっていません。 立松氏は次のような指摘を お囃子にどっと桜の花開く 先のように水量豊かな河川 しています。 ぐうにぱあ空に遊びし白木蓮 いずれの谷にも尾張平野よ がないことから、 地域の拠点 花曇り座ぶとん厚き無人駅 急須干す土間一回り初つばめ り小規模ながら海岸平野があ 的な集落が形成できなかっ 園児には園児の別れ糸柳 ります。そこには海岸線と平 たと考えられてきました。 も 日捲りを捲り忘れて万愚節 行して、 いく筋もの自然堤防、 暮れ際に白木蓮の明りかな う一つには、 地形の条件をあ 雪洞をがばとひきはぐ春嵐 砂堆があり弥生時代前期の遺 げる考えがあります。 老感ず己励ます四温かな 花の雨早くも母の三回忌 東海市平洲記念館の館長、 跡が立地していました。 たわむるる下校児陽炎仲にあり 遺跡のある砂堆は尾張平 考古学研究者の立松彰氏は、 鶯の声にはかどる野良仕事 手造りのぼた餅供え春彼岸 野の自然堤防に比べ幅が狭 東海市太田川から知多市八 ご神体は招き猫とや万愚節 いことから前後は溝を掘る 幡、朝 倉 に ま で つ づ く 海 岸 三月の海のきらめき伊勢までも 花人の濁流となる吉野山 線 を 谷 口 と し た 太 田 の 谷、 ことなく湿地で守られてい 咲き初めて空の青さや朝桜 ました。横は小河川、水路や 養 父 の 谷、八 幡 の 谷 が 弥 生 鳥 雲 に い つ か 疎 遠 と な り し 人 二十年巻き戻したき四月馬鹿 湿地で区切られていたと考 時代前期の遺跡形成に適し 糸水仙姿やさしく香りよし えられ、 遺跡は湿地の中の小 た地域であったと考えてい 山吹の風にまいよる吹きだまり 春来たる赤目垣根を赤く染め 島であり環濠を造る必要が ます。 山の中しじゅうからの声ひびく 確かに太田の谷で烏帽子 なかったといいます。 ウグイスの真似がじょうずな勝さん 遺跡、 東畑遺跡、 畑間遺跡。 養 そして、 知多半島の人は仲 今年また親子そろってつばめ来る 父の谷で大木之本遺跡。 八幡 が良く、 争いを好まないから、 花だより開花待てずに宴会か 桜咲く花よりだんご宴会に の谷では細見遺跡、 下内橋遺 環濠を造らなかったのでは 童 ら や 声 も は づ む や 春 の 風 桜花散るもあじわうティタイム 太田の谷から八幡の谷にかけての弥生時代前期の遺跡 Oh ハ ル リ ン ド ウ し く、外 に 三 河 の 豊 川 左 岸、 20 第 249 号 (5) 平成21年5月1日 第 249 号 平成21年5月1日 (6) 中野 颯弥(1才9ヶ月) 武豊町六貫山 堀井 心愛(8ヶ月) 常滑市阿野町 (名古屋) 東海・北陸地区発売元 デュプロはコンピュータネットワークを活用した、 お客様の新しいビジネススタイル “e-BUSINESS”を提案していきます。 お客様 クラフト的実験 Ⅷ 展示販売 入場無料 刈谷市産業振興センター 〔あいおいホール/ TEL:0566-28-0555〕 2009年5月28日 ・29日 ・30日 1 0 : 0 0 am ∼ 6 : 0 0 pm [最終日は5 : 00pmまで] ネットワーク システム構築 IBM ハードウェア 情 報 を 美 し く 。デ ュ プ ロ 販売 販売管理 システム Ⓡ 生産管理 システム 基幹系 システム カストマー サポート 経理・財務・業務・人事・営業企画・etc. 情 報 を 美 し く 。デ ュ プ ロ Ⓡ 企画2B 〒460 - 0015 名古屋市中区大井町4番19号 TEL 〈052〉321−2020
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