2014年11月号企画情報とやま219 - 公益社団法人 富山県建築士会

企画情報とやま
2014 年 11 月号
富山県建築士会
TEL 076-482-4446
公益社団法人
FAX 076-482-4448
ホットライン 第 219 号
E-mail [email protected]
-1-
ホットライン No.219
申込・問合先:〒930−8501(住所記載不要)
富山県土木部建築住宅課景観係
TEL:076-444-9661 FAX:076-444-4423
E-mail:[email protected]
◆ 財団法人職業技能振興会からのお知らせ
「古民家鑑定士」認定講習・試験開催のご案内
日時:(11 月度)平成 26 年 11 月 19(水) 13:00∼18:10
(1 月度)平成 27 年 1 月 21 日(水) 13:00∼18:10
会場:富山市体育文化センター研修室(富山市友杉 1097)
講師:職業技能振興会委託インストラクター
内容:古民家鑑定士教本(別途購入が必要です 6000 円)に基づ
いて古民家に関する全般の講習です。資格取得後は築 50 年
以上の古民家鑑定を行い、鑑定結果に基づいて所有者にアド
バイス、相談を行います。
建築 CPD:3 単位(受付時に専用出席者名簿に氏名と CPD 番号を
ご記入下さい。)
定員:20 名(どなたでも参加できます。)
参加費:23,000 円(受講・受験・認定書発行費用含む)
申込先・申込期限:HP(http://www.kominkapro.org)から詳細
確認の上、開催日の 10 日前までに申込下さい。
問合先:(一社)富山県古民家再生協会 担当片岡
(TEL:0766-69-7550)
※「古民家鑑定士」は民間資格です。
◆ JIA 北陸支部富山地域会からのお知らせ
JIA 建築フォーラム 2014「水野一郎−木造建築
への取り組み−」のご案内
日時:平成 26 年 11 月 29 日(土)14:00∼17:00
会場:入善町健康交流プラザ サンウェル
1階多目的ホール(入善町上野 2793-1)
講師:水野一郎(金沢工業大学顧問)
鼎談:水野一郎(金沢工業大学顧問)、小西義昭(小西建築構造
設計主宰)、宮越久志((株)中東 常務取締役集成材事業部長)
定員:先着順 50 名(どなたでも参加できます。)
参加費:無料
申込方法:氏名・連絡先を明記の上 FAX にて 076-432-7869 ま
でお申込みください。
申込期限:11 月 17 日(月)
問合先:TEL 076-432-7855 JIA 北陸支部富山地域会
担当:西野 (株)福見建築設計事務所
◆ (一財)富山県建築住宅センターからのお知らせ
「安心・安全セミナー」開催のご案内
日時:平成 26 年 12 月 5 日(金)14:00∼15:30
会場:富山県教育文化会館 集会室
(富山市舟橋北町 7-1)
講師:二木 幹夫 氏 一般財団法人ベターリビング理事
つくば建築試験研究センター所長
内容:「戸建て住宅における液状化被害と対処方法」
建築 CPD:2 単位申請予定
定員:100 名(どなたでも参加できます。)
参加費:無料
問合先:一般財団法人富山県建築住宅センター
担当:検査第二課 四宮(TEL:076-439-0248)
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ホットライン No.219
職人アーカイブ No.047
< 鉄骨加工 >
な す の
のぼる
奈須野 登
昭和 24生まれ 64歳
さん
神奈川県横浜市出身。中学卒業後、東急車輛
射水市大江
製造㈱養成工として就職。松本鉄工㈱を経て、
堀井鉄工㈱にて溶接・鉄骨加工に従事し、役
「溶接工から役員に」
員の後退職。
養成工時代
次に思い出に残る建築物は、
「富山赤十字病院」
。
横浜出身の奈須野さんは中学卒業後、東急車輛製造株式会社の養
アトリウムが印象的な病院ですが、梁せい 150 ㎝の仮大梁を架
成工として就職。当時は高度成長期。昭和 30 年代頃まで企業が技
け、後からその仮大梁を切断して抜くというユニークな工法で、
能養成所(学校)を有し、技術者を育成していました。
切断するときは緊張されたそうです。
また、
「5 階は耐震階で梁も全てオール溶接、冬場作業で神通川
養成工の3 年間、図面の見方から溶接、板金など技術者としての
からの強風と寒さのなかでの現場溶接、この階が終わらないと上
基礎を磨かれ、その後、20 歳まで勤められました。
階の建設が進まないというスケジュール管理が大変な工事だっ
当時はリベットから溶接へ切り替わる頃で、仮組みの時に逆歪み
た」と、思い出深げにお話くださいました。
をとって組み立てて溶接し、歪みのない仕上げにすることが技術の
見せどころだったとのこと。
後進技術者の指導・育成
富山での思い出に残る仕事
平成 9 年、常に建設事業の第一線にあって業務に精励し技術・技
21 歳のときに奥様の故郷富山へ。富山での就職は松本鉄工㈱に
能の向上に努め他の模範であると、
「優秀施工者」として建設大臣
て、設計から溶接・鉄骨加工までを一人で仕上げ、また、26 歳の
から顕彰されました。
頃に二級建築士を取得されました。
プレイングマネージャーとして永らく溶接・鉄骨加工に従事され
その後、33 歳のときに堀井鉄工㈱に就職され、溶接・鉄骨加工
た奈須野さんですが、中途入社ということで技術的な方針など意
を中心に従事。後進の指導、そして役員としてマネジメントに携わ
見がなかなか通らず、古くからの職人や役員は自分の考えを変え
れました。
ず猛反対。それを打破するのに何年もかかったそうです。
取り扱う鉄骨も大きく数千t規模となり、ちょうどこの頃から鉄
「会長から『奈須野の意見を聞いてやれ』と、技術改革や会社の
骨の需要が伸び、ガス加工から機械加工に切り替わり、技術の応用
意識改革につながったことが一番うれしく思いました。職人冥利
が求められました。また、徹底した溶接の技術を社内に広げ、品質
に尽きます。
」と、これまでを振り返り感慨深げにお話くださいま
向上と管理に努められました。
した。
阪神・淡路大震災以降、より高強度な建築物が求められ、高い技
術が要求され、常にダイナミックでマネジメント能力が問われる
時代に、後進技術者の指導・育成にも尽力されました。
セット完了
富山県立中央病院(Gコラ
それは、溶接の技術
ムの継ぎ手部自動溶接固定方
はもちろんのこと、作
方法の改善)
業前のミーティング
や建築士設計事務所
とのコミュニケーシ
溶接中
ョン、
「作業にかかる
改善点
前の仕事」として、仮
母材とトーチ間に自
組みの温度管理の重
動ガス切断機用のナライ
要性や心構えなどなど。
後進技術者の指導・育成
装置を工夫して取り
退職後、その技術者たちもミドルとなり、会社を牽引されてい
付ける。
るとのことです。
「人がメーンになる、技術の継承力のある会社が生き延びる。会
溶接・鉄骨加工に従事された思い出の建築物は、
「インテックト
リプルワンビル」
。
社は組織をつくるための人を育てる」
、奈須野さんの力強い言葉が
鉄骨は全て現場溶接で、Uボックス(4 面ボックス)のボックル
印象的でした。
ームとブレースの溶接で建ち上がっていきます。低層階のボックス
板厚は 80 ㎜もあり、角をガウジングしながら、ひとつのボックス
(取材:千代固志・福村仁志、文・写真:福村仁志)
を仕上げるのに 2 日間かかる作業。2 年弱の工事期間だったそうで
す。
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職人アーカイブ No.048
< 大工 >
ね づか
昭和6年生まれ
まさのぶ
根塚 正信
さん
中学の時から父の仕事を手伝ううち、
そのまま大工の道に。
富山市城北町
53歳の時に病気で一時仕事が出来なか
った時期を除くと、75歳で現役を退く
「旦那様が居た時代」
まで60年以上この道ひとすじ。
独立にいたる経緯とその後
思い出に残る旦那様
中学入学後すぐに勤労奉仕として朝日重工業へ鋳物作業
普請道楽の旦那様に気に入られた。細部に至るまで大工と
の手伝い、そして立山町に疎開。そこで父の仕事の手伝いで
検討し家を何度もいじくりまわす人だった。
四方まで資材運びや、荷車押しなどをし、学校に通った記憶
その旦那様に、材料は金を出せばどんなものでも買えるが、
があまりない。気が付かぬうちに大工の道に進んでいた。
職人の技術は金では買えない、とよく言われた。
祖父も大工、父の兄も大工だった。父の所には住込みの職
今に思えば、職人を育てる激励だったのかもしれない。
人が 15 人ほどいて、その中の棟梁格の職人から技術を学ん
実は、このような方は当時何人もいらしたのだ。
だ。兄弟弟子 4 人と平等に厳しく躾けられ、35 歳まで父の
中央通り、総曲輪通りに今も名前は残っていて、店と住宅
元で仕事をし、その後独立した。
はもう存在しないが、呉服屋さんや家具屋さん、食料屋さん
住宅は独立前に 50 棟以上、その後は年間 2 棟ぐらい手が
など何十人も従業員を抱えた商店主の共通点は普請に繋が
けてきた。殆どが町屋の仕事でリフォームも多かったから何
っていたのかもしれない。
棟やったかわからないほど。息子が中学生になった頃から手
仕事が手薄になった時など、お願いに行くと、喜んで最高
伝いをさせ、今は自慢できる後継者に育った。60 年以上現役
に難しい仕事を考えだしてくれた。内容は数寄屋造りが多か
だったが、75 歳で膝の故障で第一線から退いた。それでも、
った。これに応えようと力を入れる事で、とんでもないもの
つい最近まで息子の片付け仕事などで体を動かしてきた。
を生み出した。大工のほんとの面白さはこんなところにある
のではないだろうか。これは内装造作の話だが、建物自体の
どんな道具を使ってきたか
外観と骨組みにも同じようなことが言えた時代であった。
機械は速いが、手作業の方が綺麗にできるので、残業をし
てほとんど手道具で仕上げ、あまり機械は購入しなかった。
息子さんが機械
こんなこともあったという。
床に伏した旦那様が根塚さんを自宅に呼び、息を引き取る
間際と自覚されたのであろ
化を進めるのに反
うか、「おい正信そこで竹を
対していた。しか
割り続けてくれ」と言われた。
し、手でマナグ(平
まさかとは思いながら寝
らに加工 する 事)
床横の庭先で竹を割った。
のは、さすがに大
音が庭に響く中、その音色
変だったようだ。
を聴きながら静かに息を引
使い込んで小さくなった道具たち
き取って逝かれた。根塚さん
その後、自動カ
を育ててくれた「神様のよう
ンナ盤を中古で買
な存在であった」と懐かしそ
ったが、鉋がけの
うに話された。
達人だったから、
数寄屋造りのN邸(茶室の柱はサルスベリ)
「電気カンナを使
う腕は、大したも
のだった」とは息
子さんのお話。
大型機械もある現在の作業場
手刻みの訓練が十分でないうちに機械化するのが早いと腕
は絶対上がらないものらしい。
今はプレカットが主になって、造作もの以外は機械もあま
り使われなくなったようだ。
(文:小林英俊、写真:根塚三起生)
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職人アーカイブ No.049
< 古代色塗装 >
いまい
てつ じ
今井 哲治
さん
富山市横内
昭和25年4月24日生れ 63歳
高校卒業後、小松塗装店勤務
昭和48年4月 今井塗装店 創業 代表就任
平成元年9月 改組 代表取締役 就任
現在に至る。
「自ら勉強で技術を会得」
他に類を見ない仕事
小林古径邸
今井さんは昭和 43 年に小松塗装店勤務からこれまでの 43 年間
に、一級建築塗装技能士の資格を取得し職能を高められると共に、
設計:吉田五十八
職業訓練指導員として塗装技術の継承、指導に努められてきまし
規模:木造2 階建
た。
面積:215 ㎡
特に建築塗装技術に於いて古代色仕上げという稀な職種に対し
て実績を積んでこられました。
この他、富山県内においても射水市竹内源蔵記念館、滑川市宮崎
現存するものから創造
酒造移築工事、八尾町土蔵改修工事の実績があります。
古代色塗装の仕事は、文化財等の修復・復元工事や移築保存工事
等の建物に求められ修復・保存完了時点で当時の色・塗装にするこ
とが要求されます。
国重要文化財の建物工事に関すれば現行法規に関わりなく材料
等の規制は緩和されますが、それ以外の復元工事等では現行法規が
適用され、F★★★★が要求されます。厳密に当時の材料、色を復元
するには、法規制をクリアしつつ要求に応えることが難しいと苦労さ
仕事をするということ
れたことを語っておられました。
これまで 45 年間の仕事をしてきた経験から、これまで試行錯誤
新しい材料で古く見せる工夫は、色の調合試作の連続になり、現
したことは直接後輩に伝えていくことが必要と感じながらも、憶え
場の材料と照合しつつ採用するものを造ることが時間を掛けて必
た技術・仕事を伝える仕事が減ってきていることを残念に感じてお
要になります。これには色々な材料を調達して根気が必要な作業
られました。
で、職人技術の見せ所でもあります。
生活様式の変化に伴い、工事発注者から漆塗等の伝統材の要望が
ないことと塗装材料の変化によって、伝える技術が生かせない状況
が悩みと語っておられました。
若い内から人のしていないことをしてきた今井氏は後輩に対し
て、『経営者になるな技術者になれ』と現場主義の職人らしい言葉
を伝えるとともに、工事関係者に対しては各自の専門のことは知っ
ていて欲しいと語られました。
色の調合作業
調合材の塗装作業
設計者でも工事・仕事の流れ、内容を把握していない人もいて同
新しいけれど古い色
じ仕事をする仲間として疑問に感じることもあるとのことでした。
今井さんの代表となる仕事は、上越市の小林古径邸の移築修復工
・楽することを憶えない。苦労することが必要。
事と富山市の旧密田家土蔵移築保存事業です。
・金額、工期に合わせた仕事が多く、職人仕事の場が減った。
小林古径邸は吉田五十八設計の数寄屋建築を東京から上越市に
これまで特殊な仕事をしてきて信頼を得たからこそ通常の塗装
解体・移築したものです。
仕事でもいろいろと感じることがあるようです。
小林古径邸は平成7 年に解体保存され、平成10年9 月に復元工事
(文:阪口 憲一 ・写真:山本 幹史)
着手、平成13 年春完成し、平成17 年4 月に国の登録有形文化財に認
定されています。
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職人アーカイブ No.050
<配管工>
おかだ
きよゆき
岡田 清幸
さん
富山市萩原
昭和22年4月25日生れ 67歳
「配管に携わる」
昭和41年 鈴木工業株式会社入社
現在に至る。
配管工という仕事に出会って
やりがい
富山県立富山高校を卒業し、18 歳の頃に知人からの紹介で
25、26 歳の頃に初めて自分がリーダーとなって現場を任
鈴木工業株式会社に入社した。配管工一筋、今年で 48 年目
された。技術的にも自信がなく、責任感が伴う立場で、この
を迎える。入社してから 30 年余り、日々現場に足を運んで
48 年間の中で一番難しく、苦しかった時期であった。だが
いた。15 年程前からは労務管理として主に職人の工程管理等
その中でも、仕事が仕上がっていくにつれて大変嬉しかった
を行っている。
のが今でも記憶に残っている。配管工という仕事は、工事が
仕事は、20 代の頃に二回りほど先輩である山下栄太郎氏、
堀田清美氏、永森洋一氏に教えて頂いた。
始まってから施主に引き渡すまで、
「漏れ無く、支障が無く」
仕事をする責任がある。大変な仕事ではあるが、だからこそ
当時、先輩方に厳しく教えていただいたからこそ今の自分
一つの現場(仕事)を無事やり遂げた時の達成感は何事にも
があると感謝しており、今でも尊敬している先輩方である。
替え難い。
25、26 歳の頃に初めて自分がリーダーとして一つの現場を任
これからの世代へ
された。そこに至るまでに先輩方から教えて頂いたことは今
昔は職長の言うことは絶対であったが、今はそうでもない
でも人生の糧となっている。
ように感じる。若い世代が一人前になるには、少しでも早く
知人からの勧めで配管工を営むことになったが、今もこう
覚えていこう、少しでも早く一人前になろうという気持ちが
して続けているのも、良き先輩との出会い、良き仲間との出
大事だと思う。
会い、何よりこの仕事が自分に合っているのだなと思ってい
言われたことだけをするのでは進歩がない。常に周りの人
る。
が何をやっているのかに関心を持ち、自分で判断せずに分か
実績と思い出
らないことがあったら何でも聞く心構えを持ってほしい。
今までに富山県内では、駅前ステーションハイツ、県議会
議事堂、名鉄ホテル、いこいの村、呉羽ハイツ、アステラス
高岡工場等、県外では秋田の大館市民病院、茨城の藤沢薬品
研究所等、個人住宅等を含めると、数えられないほどの仕事
をしてきた。
その中でも入社して 3 年目に携わった秋田の「大館市民病
院」
、ちょうど長男が誕生した頃に始まった「いこいの村」
、
敷地近くにプレハブ小屋を建ててそこで寝泊りしながら工
事に携わった筑波の「藤沢薬品研究所」は今でも大変思い出
に残っている。県外工事は現地で材料の入手も難しかった。
機械の操作
道具の変遷
塩ビ管の接合補助具の使い方
取材を終えて
昔は人力で道具を使い作業していた。ネジも現場で切っ
岡田さんは現在 67 歳であるが、今でも現役で配管工に携
た。現在は材料や機械の進歩に伴い作業の効率化が進み、施
わっておられます。特に道具・機械を触っている姿は、配管
工手順さえ守れば誰でも施工できる時代になってきた。
工事に対する熱い情熱が伝わってきました。
これも良き先輩との出会い、
良き仲間との出会いの中で仕
事をしてこられたからこそ、続けることができたのではない
だろうか。
( 文・写真:小見直輝 )
鉛管用の自前の治具と鉛管
手動のねじ切り機(オスタ型)
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職人アーカイブ No.051
<大 工>
たなか
まさる
田中
優
さん
昭和23年1月23日生れ 65歳
祖父の時代から大工を営む家に生まれる、
黒部市田家
昭和40年から父親の元で大工修業にはいる。
「 今も勉強中 」
平成10年父親が亡くなり、田中工務店継承し、
現在に至る。
仕事への思い
在来木造一筋で、
木材の使い分けは適材適所を心がけてい
る。道具の使い方はすべてが難しいとのこと。
大工になったきっかけはあまり人には言えるものではな
かったが、
責任を持って期待を裏切らない仕事をしようと常
に思っていた。
休みの日には神社仏閣へ行き、
この細工はどうなっている
んだろうか?どうするんだろうか?と考え、
一般住宅にも遊
び心で取り入れたりもした。
真心を持って施主に接することが大事だ。
大工への道
三人兄弟の長男である田中さんは、父親が大工であったこ
ともあり、自然とこの道に進んでいったと言う。
恥ずかしながら、その頃何かしたいといった思いもなく、
取り敢えずと、軽い気持ちで始めたそうだが、それから今ま
でに住宅を 100 棟ぐらいは手がけたとのこと。
印象に残っている仕事
35 歳の時、父親の友人の家を建てさせていただいた。
木曽檜や神代欅など銘木ばかりを使った贅沢な家で、刻む
時には手が震え、毎日時間が経つのも忘れ仕事をした。
4 年かけて母屋は完成したが、その後離れ、塀を建て、最
終的に完成したのは平成 19 年だった。
今の時代プレカットが主流となって工期が短縮される流
れになっているが、手刻みにこだわっている。仕事料は減っ
てきたが、そこはどうにか経費節減、企業努力ということで
頑張ってきた。
O 邸の離れ
作業所での登り丸太の仮組
O 邸の青森ヒバの塀
大工職人ならば、誰もが手掛けてみたい仕事をさせていた
だき、自分は運が良かったと思っている。
お陰で木のことがよく判り、より木の家が好きになった。
そして、勉強する機会を与えていただいたと感謝している。
自分がそうだった様に、若い大工にも勉強する場を作って
やりたいと思う。
O 邸 床材の加工
現在、病気を機に大工仕事で現場に出ることはなくなっ
て、設計管理で仕事に関わっている。
しかし、仕事に対する熱意は今も変わることなく、一生涯
勉強・・・と話された。
(文・写真:間部 宏一郎)
県産材で建てた田中
工務店事務所
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職人アーカイブ No.052
< 板金業 >
まつだ
ひろし
松田
弘
さん
昭和14年生れ
中学校卒業後、板金工場へ丁稚に。昭
和41年独立。現在、松田板金工業株式
会社社長。
富山市婦中町河原
「努力と創意」
丁稚奉公に
生家は八尾町三田の農家。何か手に職をつけようと決意
し、中学校の推薦を経て昭和 30 年、15 歳で南富山の吉岡
板金へ丁稚奉公に入った。初代の親方は大手建設業の仕事
も請負っておられた方。その息子さんが2代目で、私の師
匠にあたる人だった。吉岡板金は私達が入った当時、住宅
や工場の仕事を手掛けていた。瓦棒の機械を富山県で最初
に購入されたのがこの吉岡板金。当時、瓦棒を取り入れて
いる業者がまだ少なかったため、多くの瓦棒の仕事をやら
せてもらった。丁稚期間 5 年、お礼奉公 3 年、計 8 年住み
込みで勤めた。その後、速星の親戚関係だった高木板金に
2年間ほど勤め、それから独立し、実家の三田で一人商売
を始めた。昭和 41 年、結婚を機に婦中町長澤に移り、作
業所を設け、昭和 53 年に婦中町河原町に 900 ㎡の工場を
建て現在に至っている。
丁稚奉公時代には、よく叱られ、時には頭を叩かれたり
したこともあった。また、そうやって仕事を覚えてきた。
一人前になるまで 10 年は修行しなければならなかった。
今の若い人は職人ではなく、従業員だよね。頭叩くわけに
もいかないしね。
らコロニアルに変えると言い出した。富山では積雪が多く
コロニアルは適合しないと主張したのだが、どうしてもと
いうことでやった。ところが、その 2,3 年後だったか大雪
の年があり、端口が折れてしまった。プレハブメーカーは、
仕事をしたのはお前たちだから何とかしろという。そこで
考えたのが端口部分を金属板で横葺に葺くことだった。こ
れをきっかけとして、横段葺の工法で新に考えたのが SM
ルーフという段葺工法だった。SM の S は当時材料を仕入
れていたセキノの S、M は松田の M で、毛細管現象を防ぎ
かつ剛性を高めるハゼを工夫し、別部品であった吊り子を
一体化することで風にも強いものを開発した。失敗を繰り
返し、試行錯誤しながら、工作機械も開発し、形になるま
で 2 年ほどかかった。これにもいくつものメーカーが参考
にしたいと製品や資料を見に来た。その後、各メーカーが
形を少しずつ変え自社の製品に採用している。
三協アルミのワイヤーによる施工法や SM ルーフも特許
をとっていたらと思うのだが、当時は、自分の仕事を工夫
しながらやることに一生懸命で、特許をとることなんて全
く考えていなかった。
試行錯誤、工夫をしながら
現在の仕事としては、木造住宅工事、工場などの鉄骨箱
物工事、リフォーム工事も手掛けている。大型物件は予算
も厳しく、請け負いにくい状態。工期の点でも基礎が遅れ、
鉄骨が遅れ、遅れこんだ工期の半ばから屋根が始まる。工
期が決まっていることから、まだ屋根を葺いているのに外
構をやるから足場をはずせと言われたり、大変苦労してい
る。
瓦棒工事で印象に残っている仕事は、豪雪の年に 1 月か
ら 4 月ごろまで山梨県で 8.500 ㎡の屋根工事を施工。富山
は冬場で仕事ができない時期に大きな仕事に携われ、やり
がいがあった。
また、特に忘れられないのは富山新港の三協アルミの工
場の仕事。100m の折板を葺く工事だったが、塔屋がある
ため折板の横移動が出来ないという問題が発生。いろいろ
対策方法を悩んでいた時、ある林業の方がワイヤーを使い
山から木を出しているのを見て、ワイヤーで吊ることを思
いついた。現場の鳶職の人に相談し、電柱を 30∼40 本立
ててそれにワイヤーを張り、ウインチで 10 箇所ほど巻き
上げて吊り、移動させた。その現場で元請け業者がこの工
法を見て、手動ウインチを電動に変え、その後、他の現場
でも採用するようになった。この現場ではこうしたさまざ
まな工夫が要求されたし、また、50 人あまりの職人で取
り組んだ現場でもあり、私もまだ足腰が強く、ホイッスル
を吹きながら梁の上を飛んで廻った。大変面白い仕事だっ
た。
その他、鉄骨系のプレハブメーカーの仕事をやっていた
のだが、ある時、本社の指示で屋根材をそれまでの瓦棒か
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当時、北陸で初めての 6m の板金を折れる大型機械を導入
後継者の育成を
20 年程前には板金を手がける業者は県内で 900 ほどあ
った。その後の経済不況や建築環境の変化などで、現在、
370∼380 業者までに減少している。
近年、ガリバリュウム鋼板やフッ素加工した金属板も出
てきて耐久性が増し、板金の仕事も少しは増えてきている
ように見える。
しかし、どの工種でも共通のことではあるが、問題は後
継者、若い人がこの業種に入ってこないことだ。
県の板金工業協会も協力して運営している板金の職業
訓練校(2年制)にも入ってくる若い人が少なくなってい
る。協会の会館、訓練校ともどももう少し集まりやすい、
通いやすい場所に移設することも考えながら、後継者を育
てることに力を入れなければならないと思っている。
(文:井波 隆・谷川 雅夫、写真:小澤 高夫)