企画情報とやま 2015 年 1 月号 富山県建築士会 TEL 076-482-4446 公益社団法人 FAX 076-482-4448 ホットライン 第 221 号 E-mail [email protected] -1- ホットライン No.221 す!!(どなたでも参加できます) ■青年建築士協議会 第 1 分科会案内 青年建築士協議会では、 『結』をテーマに東海北陸 7 県の青年 建築士及び建築関連多業種と意見を出し合い、全国的に重要 な問題となっている空き家に対して『耳で聞き、目で見、肌 で感じ、頭で考え』 、多角的に有効な活用を模索します。 建築士としての職能を高め、多業種との協働で職域の幅を広 げ、土地を知る事で知識の懐を深め、歴史を知り未来へ繋げ る事業を行います。 内容:一日目 14:30 18:30 講演会(30 分):『となみ』の歴史・特徴を学びます。 見学会(30 分):『となみ』の風景・伝統的住居を実際に体験。 ワークショップ(130 分):各県・各業種のチームに分かれて、 講演会・見学会の体験を基にそれぞれの視点から多角的な 建物活用提案を考えます。 二日目 9:00∼12:00 資料作成(80 分):発表会資料の作成を行います。 発表・表彰(100 分):全グループの活用提案を発表し、投票に より最優秀提案を選定・表彰を行う。 定員:一日目、二日目共 各 30 名 参加費:12,000 円(参加・懇親会・宿泊・朝食)砺波駅前宿泊 建築 CPD:全プログラムで 6 単位(一日目、二日目 各 3 単位) 締切:平成 27 年 1 月 23 日(金) 問合先:大会実行委員長 長島 TEL 090-2035-1822 申込先:建築士会事務局 詳細及び申込書は富山県建築士会HPをご確認下さい。 http://toyama-kenchikushikai.or.jp ■女性建築士協議会 第 2 分科会案内 女性建築士協議会では、地元の素材研究をテーマに上げてい ます。砺波地域風土で長い間培われた「アズマダチ」その周 りの屋敷林の使用のされかた。新技術を世界に発信している 新光硝子工業(株)の工場見学。地元材料で大正時代に建てら れ、現在に蘇った若鶴酒造(株)の大正蔵等、地元の素材の長 い歴史とその継承の様子を勉強します。 内容:一日目 15:30∼18:10 テーマ ∼ 素材から見る伝統技術と最新技術 ∼ 県指定文化財「入道家」散居村の伝統家屋「アズマダチ」の 建築技術を砺波土蔵の会会長 尾田武雄様の解説のもと見学 します。 「新光硝子工業株式会社」北陸新幹線等の曲げガラ ス・樹脂合わせガラスのトップシェアメーカー。工場にて巨 大炉や工程を見学します。 二日目 9:00∼11:30 テーマ ∼時をこえ 心酔いしれる空間∼ 創業文久 2 年(1862)創業の若鶴酒造(株)が所有する大正蔵。 再生の設計者である蜂谷俊雄先生(金沢工業大学教授)に話 をお聞きします。 定員:一日目、二日目共 各 30 名 -2- ホットライン No.221 ☆ 代議員選挙広報 平成27年1月5日 参加費:13,000 円(参加・懇親会・宿泊・朝食・見学料) (公社)富山県建築士会正会員各位 砺波ロイヤルホテル宿泊 (公社)富山県建築士会 選挙管理員会 建築 CPD:全プログラムで 6 単位(一日目、二日目 各 3 単位) 委員長 今 村 彰 宏 締切:平成 27 年 1 月 23 日(金) 問合先:大会副実行委員長 中村 ☆ TEL 090-2129-2236 公益社団法人富山県建築士会代議員選挙日程について 申込先:青年建築士協議会と同様です。 公益社団法人富山県建築士会定款(以下「定款」という。) ◆ 財団法人職業技能振興会からのお知らせ 第5条第2項に規程する現在の代議員の任期は、平成 27 年3 「古民家鑑定士」認定講習・試験開催のご案内 月までとなっています。このため、新たに平成 27・28 年度代 日時:(1 月度)平成 27 年 1 月 21 日(水) 13:00∼18:10 議員を選出するため、定款第5条第3項に基づきに代議員選 (3 月度)平成 27 年 3 月 25 日(水) 13:00∼18:10 挙を行います。 会場:富山市体育文化センター研修室(富山市友杉 1097) 代議員選挙は「公益社団法事富山県建築士会代議員選挙管 講師:職業技能振興会委託インストラクター 理規程」(以下「選挙管理規程」という。)に基づき、次のと 内容:古民家鑑定士教本(別途購入が必要です 6000 円)に基づ おり行いますのでお知らせいたします。 いて古民家に関する全般の講習です。資格取得後は築 50 年 なお、今回選出された代議員の任期は平成 29 年3月までで 以上の古民家鑑定を行い、鑑定結果に基づいて所有者にアド す。 バイス、相談を行います。 記 建築 CPD:3 単位(受付時に専用名簿に氏名と CPD 番号を記入。 ) 1.代議員選挙告示日(立候補の届出日) 定員:20 名(どなたでも参加できます。) (1)告示日:平成 27 年3月9日(月) 参加費:23,000 円(受講・受験・認定書発行費用含む) 受付時間:9 時∼17 時 申込先・申込期限: HP(http://www.kominkapro.org)から詳細 (2)立候補の届出は、代議員選挙立候補届に記入の上、告 確認の上、開催日の 10 日前までに申込下さい。 示日に公益社団法人富山県建築士会事務局(富山市安住 問合先:(一社)富山県古民家再生協会 担当片岡 町 7 番 1 号富山県建築設計会館 2 階)までご提出下さい。 (TEL:0766-69-7550) *「古民家鑑定士」は民間資格です なお郵送の場合は、封書により告示日の受付時間内に到 ◆ JIA 北陸支部富山地域会からのお知らせ 着するよう配達日指定でお送り下さい。立候補の書式は セミナー「建物が存在し続けるために、何をす る。」開催のご案内 富山県建築士会ホームページからダウンロードあるい は富山県建築士会事務局までご連絡下さい。 日時:平成 27 年 2 月 21 日(土)13:30∼16:30 13:00∼ 2.代議員選挙 受付 選挙管理規程第 17 条に基づき、 立候補者の数が選挙区毎 13:30∼14:30 高岡市山町筋伝統的建築物の見学 の定数を超えた選挙区は選挙となります。 14:30∼16:30 講演・座談会 (1)選挙予定日:平成 27 年3月 25 日(水) 会場:高岡市土蔵造りのまち資料館(高岡市小馬出町 26) (2)詳細は選挙となる選挙区の正会員の皆様に、告示日か 講師:丸谷芳正 氏(富山大学芸術文化学部教授) ら 7 日以内に、投票用紙と一緒にご案内いたします。 内容:古民家や町屋、そして歴史的価値のある伝統的建造物は 3.選挙区の区割りと代議員定数 地域に根ざした建築文化です。現在、社会問題化しつつある 選挙区の区割りは選挙管理規程の別表に定められており、 「増え続ける空き家」は、これらの建物も例外ではありませ 支部となります。 ん。建物が存在し続けるために建築家は何をするのか、講演 代議員定数は正会員 30 人に 1 名の割合となっており、 選 の後、パネリストを交えて参加者で討論したいと思います。 建築 CPD:申請予定 挙区毎の平成 26 年 12 月 1 日現在の正会員数に基づいて算 出し、次のとおりとなりました。 定員:30 名(どなたでも参加できます。) 選挙区の区割り 代議員定数 選挙区の区割り 参加費:300 円(資料館観覧料含む) 主催:JIA 北陸支部富山地域会 新川支部 中新川支部 10人 3人 射水支部 高岡支部 4人 8人 申込期限:平成 27 年 2 月 14 日(土)まで 上新川支部 2人 氷見支部 2人 富山支部 16人 砺波支部 10人 婦負支部 4人 合 59人 申込・問合先:申込はメール又はファックスにて下記まで。 三谷建築設計事務所 担当:三谷 E-mail:[email protected] 計 代議員定数 TEL・FAX 0766-21-6868 -3- ホットライン No.221 職人アーカイブ No.057 < 板 金 > ながた いちろう 永田 一郎 経歴 昭和26年生れ 高校卒業後、建築板金業を営む父 さん 親に師事 砺波市苗加 以来45年間 板金業に携わり 現在に至る。 「後進に伝える技術と心」 ㈲永田建築板金 代表取締役 家業である建築板金の道へ 続けられているのだと言う。 永田さんは 18 歳の頃、家業である建築板金の世界に足を しかし、今は昔と異なり、月に数件の現場を持つよう 踏み入れ、長い間父親に師事し今日まで一職人として従事 なアシの短い(工期の短い)物件が多い。材料は支給さ している。当時は職人が 6 人程度おり、この世界では大き れ、納まりについても上からの指示が全てであり、職人 な会社である。 としての喜びを感じにくい環境となっている。 この仕事に飛び込む事は何の 時代を憂う ためらいもなかった。それくら この世界でも他の業界に違わず、若い職人は増えてい い、家業を継ぐことは当たり前だ ない。職人の子が家業を継がなければ、その板金業が閉 と思っていた。また、それ程まで 鎖することが殆どではないか。今現在一人親方が殆どで に親方(父)の姿や人柄を尊敬し あり、大きな物件があれば一人親方の仲間に応援を頼む ていた。そう語ってくださった永 という状態が続いている。それは建物の中で板金に関わ 田さんは、自身が 45 歳の頃に父 る部位が少なくなっていることや、物件数自体が少なく 親より社長業を譲り受け、現在に 至っている。 なっていることが原因だと思われる。しかし、何より工 工場の様子 期が短く単価が上がらないことから、若い職人を育てら 一人前になるということ れないことが大きな問題だろう。 この職業はなくなることはない。だからこそ若い職人 建築板金の世界で、一つの現場全てを任せられた時に一 人前とし、これには約 30 年かかったものだ。当時の板金業 は一つの現場の中でも、外回り全般を任されており責任範 囲(作業範囲)が広かったことや、沢山の道具を用いたこと から、一人前になるためには相当の時間がかかっている。 かつては曲げ物等まで殆どを自分達で加工しており、エグ リ・ヤナギバ・タチワリ・・・ハ これからの職人に伝えたい 永田さんの工場の2階は砺波建築 板金高等職業訓練校として利用され、 現在まで沢山の職人を排出してきた。 一般的な板金技術は勿論だが、現在の サミだけでも数種類もあるた 仕事に役立つのは割り出し(墨付)程 め最初はコツを掴むのも難し 度。道具をあまり使わない現在、訓練 い。紙を切るのとは訳が違う。 校では昔の手法での製品づくりを通 道具の手入れや材料加工だけ して技術を伝承しており、父が校長ま でも難しいのだが、自分で道 でされた訓練校で後進たちが腕を磨 具を製作することもあった。 く姿を間近で見守る。 そして、例え道具が上手に使 趣味の作品 えても、難しい納まりが出来 永田さんは師である父を尊敬している、と熱く話して るようになること、手が入ら 下さった。その仕事ぶりや地域での付き合いの良さによ ない箇所への施工、冬場の厳 り、人に大変好かれていたからだと。その心が現在の永 しい環境での作業など、苦労 田さんを支えており、的確な技術と仕事の背景にある忍 しながら何とかここまでやっ てきたのだと話して下さった。 を育てられない現状に葛藤を抱いている。 耐、地域と真摯に向き合う姿勢が、職人として、そして 使う多種のはさみなど 人として大切なのだと感じることができた。 仕事の喜び 一番思い出に残る仕事について質問すると、どれも思い 入れはあるが順位はないとのこと。ただ、一軒の住宅を自 分達の力で仕上げ、通りのスッと通った綺麗な仕事が出来 た時には特に嬉しく、家人の喜んだ姿や労いの言葉を掛け て頂いた時にこの職業で良かったと感じると。その気持ち が最も大切であり、それがあるからこそ今もこの仕事を 砺波板金職業訓練校 (文・写真:水木 -4- 功) 職人アーカイブ No.058 < 土建業、栗石地業 > たかぎ のぼる 高木 登 昭和 23 年生れ 21 歳より土建業に就職 さん 関西で 3 年間ゼネコン現場を経験し、 3 代目として家業を継承しながら若い 富山市東地方町 ころに 2 級建築士と 1 級土木施工管理 士を取得した。 「栗石があたり前だ ったころ」 今も現役バリバリで高木工務店の社 長を勤める。 そもそも栗石地業とは 全面手作業の時代から 7 割機械の時代に コンクリートがなかった時代の基礎は、石を伏せその 昭和 45 年ごろまではすべて手作業、常時 15 人ぐらい 上に柱を載せるところから始まる。大きな柱の下になる の体制で動く。移動は自転車や、バイク、荷車。その後 石は 3 人持ちとか 4 人持ちの石だとか言いながら大きさ 5 人乗りのトラックで人と道具の運搬が始まる。 の目安にした。それを三つ又を組んだやぐらで、重しの 昭和 53 年バックホー購入で機械化し非常に効率が良 丸太をロープで吊るし大勢で引っ張り上から落し、石を くなったが、工期が短くなり単価が下がる悪循環が発生 沈めた。 しはじめた。 その流れが基礎の下や土間の下に石を引きつめる原点 またこのころより生コンと呼ばれる配合されたコンク になっている。栗石の敷き方は、まるくない平たい面を リートが出始め、それまでの現場用ミキサー4 台フル稼 横に向け、とがった方を上下に向け、上面の高さを揃え 働だったものがすぐに消滅した。 ながら 1 つずつ並べてゆく地道な作業で当時は女性のお コンクリートが手練の時 ばちゃん作業者の方も多く、男より上手だった。 栗石の隙間を目つぶし砂利で埋めるのだがこれも自然 ら練ったそうだ。大型ミキサ 石の丸い砂利だ。そしてタコと呼ばれる太い丸太の切れ ー車約 1 台分である。 端に棒の持ち手を付けた重しを 2 人で持ち上げ栗石の上 作業場の大きな機械は、鉄 をトントンと叩いて沈めていく作業をひたすら続けると 筋加工用のもののみ。状況に いう重労働であり危険な仕事でもあった。 合わせた道具類は近くのレン 後にランマーというドイツ製のエンジン付上下振動装 タル会社を利用している。 置が出現する。昭和 50 広い作業場だが資材の量と 年ごろまでは砕石とい の陣取り合戦だ。 うものはなく、栗石、 砂利、砂は自然界その 鉄筋曲げ加工機 ままの材料で土石屋が 大きく時代は変わった 大きさ別に分別したも のを現場に配達しても 作業場 代は 1 人 1 日 5 立米ぐらいな 工事の種類や素材の違いが工法の違いに繋がる。昭和 45 年ごろより住宅の基礎工事に丸棒鉄筋が使われ始め、 栗石 らい使用していた。 それが異形鉄筋に代わり工法も変わってきた。 建築様式の変化に対応するため住宅雑誌を読みながら 子供のころの記憶 新しいものにチャレンジしていった。 栗石などは、小学生のころ河原でリヤカーに 1 つずつ たとえば天端モルタルの代わりの天端レベラー材での 積み込むのを手伝った記憶がある。また松川には砂利や 納めなど早い段階で挑戦してみた。 砂を運ぶ船が桜木町横辺りを往来し川底で手掘り採取し 工法の勉強を続けてはいるが、時代の進化はますます たものを集積場まで運んでいたそうだ。栗石の工法をや 難しくなっている。 っていた時代の親方衆は自分のまわりにもういない。 最近の仕事は細かい 昔の土建業者の受け持ち部分 どんどん図面が細かくなっていくが、 ここまで必要なのか 土建業者の工事期間は、建築に携わる業者の内では最 と疑問を感じる。どんな仕事もベストで臨むし自信もある も長い。昔は、既存建物解体から始まり、基礎工事、建 が、 ここまでしないといけないのかと思うような仕事が最近 て方、足場工事、片付け、外構工事と工期全体にどっぷり 多い。 とかかわる総合仮設であり、住宅 1 件で数か月に渡り出 お金をかけ過ぎに見えるのは私が古いのか、 商売としては 入りする事になる。そのため中心イベントとなる棟上げ ありがたいのだが・・・。 の時は、一区切りとして満足感が大きかった。また、お (文:写真:根塚三起生) 客さんとのつながりも深かった。 -5- 職人アーカイブ No.059 < 銘木工芸 > ふじしま いさむ 藤島 勇 昭和 13 年生まれ ロクロ挽き職人の父の手伝いから、 さん 自己流で技術を身につけ家業を引き 射水市坂東 継ぎ現在に至る。 「ロクロ挽きから」 藤島木材工芸 代表 家業手伝いから 主道具はチェンソーのみ 中学卒業後、自分で思うように形を作り出せる家業の 現在得意とするのは、チェンソーで作る木製皿。2∼ ロクロ挽きの作業に興味があり、手伝いから、職人の道 3㎜の厚みにするので、ケヤキ材等は、ノミ等で加工す に入った。また、昼間は仕事を覚えながら、夜は夜間の ると割れが入りやすくなってしまい、ダメになってしま 高校で勉学にも励んだ。仕事は好きだったので、3 年ほ う。道具は、いたってシンプルなチェンソーのみで仕上 どで一人前になれた。 げる。 主に大型火鉢製作が本業で、昭和 30 年代から 40 年代 チェンソー以外は磨 前半まで、火鉢は暖房器具として必需品だった。当時は きにサンダーを使うく 忙しくて何人も職人がいて、テーブルやつい立ての工芸 らい。そこに醍醐味があ 品を作る暇もなく、火鉢製作に没頭した。 る。 しかし、昭和 40 年後半くらいから石油ストーブが本 チェンソー一台で仕上げた皿 格的に出始め、大型火鉢は実用品ではなくなってしまっ また、テーブルや飾り棚、テレビ台等に自然な木目を た。しばらくは趣味品としての需要があったが、昭和 60 出す、ウェーブ加工も得意としている。工具で使用する 年頃からテーブルやつい立てなどの工芸品の製作・販売 のは、大型天板の削 が主流になってきた。 りに使う平板均し機 械ぐらいだ。 ロクロ挽き 製品としての完成 は、塗装 ( ウルシ等 ) 当時のロクロ挽きの部類としては、主として大型火鉢 仕上げのみである。 製作の手作業だった。ケヤキ材等の原木を切断してウス も加工した。ウスの中の仕上げは特に腕がものをいう。 先代の親父さんは、当時一日で数個以上作るほどの技術 トイレカウンター(ウェーブ仕上げ) 銘木工芸の現状とこれから 時代の流れもあり、大型火鉢やつい立てなども売れな を持っておられたそうだ。 くなった。テーブル、置物台、花器等の趣味品はまだ需 あとは、ロクロの刃物作りや材料の害虫駆除に苦労し 要がある。しかし個人のお客を待っているだけの商売で た。 は、生き残れない。 県外大手デパートの 思い出に残ること 展示会等に参加し、工 思い出に残る作品としては、今まで作った最大のつい 芸品をどんどんアピー 立ては 9 尺幅×5 尺高×9 寸厚の根材のもの。また、こ ルし、技術も更なる磨 れも大型のつい立てで、現在新庄中学校の玄関に置いて きをかけてきた。現在 あるものも懐かしい。 も、素材の材質感を十 また、自分の息子が大学(金沢美工大)を卒業し、後を 分に生かし、見て美し 継いでくれるようになったこと、と同時に息子の作品が 日展に入選したこと。これらのことが、心に残っている。 く、使って楽しい工芸 品作りに励んでいる。 チェンソーでの作業 (文・取材・写真:片境 清久) -6- 職人アーカイブ No.060 < 木材業 > 野村 一己 昭和23年生れ 父親の時代は林業一般の事業で薪 や木炭を生産し、松、杉、欅など の建築用材は市場等に卸していた が、昭和44年に父親の事業をベー スに製材業を始めた。 さん 南砺市井波 「製材職人」 父親の時代 林業は戦後の一大産業であり、庄川上流の山間地のほ とんどの世帯は林業に携わっていた。伐採業、運搬業、 製材業、植林業、炭焼き、薪製造、パルプと様々な林業 に関する仕事があった。 一己さんの父親も山林地主から山の原木を買って、ナ ラ、クヌギ、カシのような雑木は薪や木炭にし、松、杉、 欅の性の良い材料は木材市場や木地屋さんに卸してい た。 当時の建築材料としての原木は性の良し悪しに拘わら ず歩留りは 90%位だったので原木は高く売れ貴重品だっ たとのこと。現在では規格寸法取するため歩留りが悪く なったと言われるが、木取り技術に関係しているのでは ないかと話される。 製材業起業 昭和 44 年一己さんが大学 2 年の時、学生運動が盛んに なり、大学が一時閉鎖されたのがきっかけで井波に戻り 父親の事業を継承することとなる。 その頃になると、薪や木炭の需要が減少し、伐採業や 運搬業は建設業に移行していく時代であった。一方、住 宅も多く建ち始めた頃で、当時、製材市場から建築材料 を仕入れ地元の大工や工務店に販売していたが、そのう ち、時間短縮や、適材適所の材料を直接製材してくれな いかと言われるようになった。 当時、近所の熟練製材工の大浦誠之進さんに教えを請 うたが、とても厳しい人で「教えて解かるもんじゃない、 体と感覚で覚えろ」と言われ、人間と同じように一本一 本性格の違う原木と対話しながら、見よう見まねで製材 業を始めた。 製材業から木材業 一己さんが製材業を始めた頃は(旧)井波町には 10 社 ほどあり、製材業が盛んだったが、現在では建築用材を 製材している所はほとんどなくなった。 地元の大工が造る時代から、工務店、ハウスメーカー 等に移行し効率化が要求されたり、建築基準法の改正等 による品質確保が必要になったことや、さまざまな工法 のメーカーが進出してきたことにより、多額の設備投資 を要求されることになり、多くの製材所が時代の流れに ついていけなくなった。一己さんも同じように悩んだ時 期があったそうだ。 平成に入り、製材所というと賃挽きのイメージがあ り、木材全般を扱っている事を表したかったため、野村 製材所から株式会社野村木材に社名変更した。 墨付けし、鋸、カンナ、ノミ等を使って住宅を造って きた大工と共に起業した製材所だったが、一時、井波に は 100 名位居た大工も現在では、高齢化や低待遇のため 50 名程度に減り、平成 10 年頃からプレカット工法が一 般的になり、モルダー研磨機そして乾燥機を導入し設備 投資せざるを得なくなったのである。 乾燥機 製材職人 一己さんは、「時代に流されるのではなく、時代に合わ せながら、工務店やハウスメーカー、そして今でも手刻 み加工で建物を造っている大工さんとも「あうん」の呼吸 を欠かさず、適材適所の製品を木取りし、製材の歩留り を高め、価値の高い製品を提供できるよう技術研鑽は死 製材機械 ぬまで続けなければならない」 と原木の小口の年輪を見 つめながら、一緒に働い ている二人の息子さんに に言われた。 モルダー4 面プレーナー加工材の検品 加工機 (文・写真:藤井一彦) -7- 職人アーカイブ No.061 < さく井工 > ふじた 昭和8年生れ 昭和26年 高校卒業後、不動産売買資格取得 したが、好きだった機械工作の道へ 昭和32年 農協に就職 昭和36年 高圧ガス資格取得後、県経済連へ 昭和56年 県経済連退職、藤田鑿泉工業所へ 平成元年 藤田工業(株)改名 社長就任 平成26年 現在に至る 資格・賞状多数 のりみつ 藤田 法光 さん 下新川郡入善町新屋 「その道に精進する」 好きな機械工作の道へ 藤田さんは高校卒業後、世の中は就職難でなかなか仕事が 見つからず、その中で不動産売買の仕事に就かれたそうです。 昭和 26 年(18 歳)に不動産売買の免許を取得しますが、も ともと好きだった機械工作の道へと矛先を変えます。 藤田さんは、そこで技術を覚え、昭和 32 年(24 歳)に技 術職の募集がきっかけで農協に就職し、勤めながらコンプレ ッサーや発電機などの機械工作や 2 サイクルエンジン、トラ クターなどの機械修理をしていました。その縁で家庭用井戸 ポンプの修理を依 頼され、実際作業を 行うお兄さんのア ドバイザーとして 鑿泉に携わること になりました。因み に藤田さんの父親 は茅葺職人でした。 さく井の今昔 井戸ができる前は川水を利用していた日本人。井戸掘りは、 昭和初期頃は手掘りだったそうです。深さで 6m∼10mくら い。それが昭和 40 年頃になると火薬(ハッパ)を用いての 井戸掘りに変わります。まるで隧道工事のイメージですよね。 これには驚きました。火薬保管庫の管理も含めて火薬の取扱 いはかなり厳しかったようです。それが現在、パーカッショ ン工法、エアーハンマー工法、ロータリー工法などの機械堀 が主流になり、より深く掘れるようになってきた。機械掘り で深さ数百メートル可能だというのですから、さく井工法の 進歩には感心します。 藤田さんは200mの井戸を掘ったことが思い出に残ってい るそうです。 さく井用機械 井戸の深さと径により、設置するさく井用機械は異なりま す。1 号∼7 号まであり、数字が大きいほど機械は大きい。 上部に長い骨組みは木製とスチール製があり、スチール製 は振動音が大きいそうです。なので、振動や音が比較的抑え ることができる木製を使用することが多いとのこと。 ケーシングは鉄 管を使用していた が 15 年くらいでメ ンテナンス(清掃、 サビ等)が必要なの で、最近は耐久性の ある HIVP 管が主 流だそうです。 さく井工事 機械木製6 号 県経済連から鑿泉工業所へ プロパンガスが流行りはじめ、藤田さんは当時取得が難し かった高圧ガス取扱い資格を取得し、県経済連に抜てきされ ました。 更に、鑿泉のアドバイザーとしても動き回っていた藤田さ んは、鑿泉の工法が手掘りから火薬掘りになってきた時期に、 火薬取扱い資格も取得 し、火薬掘りにも携わ るようになっていきま した。そして昭和 56 年(48 歳)に県経済連 を退職し、いよいよ当 時奥様が社長の藤田鑿 泉工業所に入られます。 さく井機械 スチール製7 号 さく井工法の課題 さく井工法はパーカッション工法が主流で今後も将来も この工法が生き延び続け、これ以上の新工法はなかなか出て こないだろうとのことでした。専門家が言うのですから、か なり優れた工法なのでしょう。しかし建築工事側の立場で観 ると、さく井工事は振動と音が課題です。市街地では敷地周 辺の建物、住民への事前説明や振動、音への配慮及び対策が 必要です。この観点から、今後、振動や音の少ない、かつ、 どのような地盤でも効率よく掘削できる、手掘りから機械掘 りへと進化したように、画期的な工法が生まれることを期待 したいです。 余談ですが、ヒアリング時に頂いた現地直送アメリカンチェリーがとて も美味しかったです。御馳走様でした。 (文:山﨑 隆 ・写真:南保 史朗) さく井工事作業の様子 平成元年から 現在の藤田工業(株)は、S33.3 に「藤田ポンプ店」とし て創業、奥様が社長でお兄さんがさく井工、藤田さんはアド バイザーとして運営していました。火薬掘りが主流の S45.1 に「藤田鑿泉工業所」と改名、更に H1.1 に「藤田工業(株) 」 と改名し、藤田さんが社長に就任されました。 職人というよりはエンジニアの印象の藤田さんは、とても 誠実な方で、仕事で大切なことは、納得のいく仕事をし、そ の道に精進することだと仰っていました。 -8-
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