2015年3月号企画情報とやま223

企画情報とやま
2015 年 3 月号
富山県建築士会
TEL 076-482-4446
公益社団法人
FAX 076-482-4448
ホットライン 第 223 号
E-mail [email protected]
◆ 研修委員会からのお知らせ
FAX:076-482-4448
平成 26 年度一級建築士免許証明書伝達式
日時:平成 26 年 3 月 21 日(土)
E-MALL:[email protected]
9:30∼12:00(受付 9:00∼)
名前
会場:サンシップとやま 701 富山市安住町 5-21
内容:伝達式 9:30∼10:30 講演会 10:30∼11:45
勤務先
講師:金沢工業大学 教授 蜂谷俊雄氏
(新建築士・一般・学生)
演題:「時間軸の中で建築デザインを評価する
電話番号
∼建築士の人生は作品づくりの格闘の記憶で彩られる∼」
問合先:青年委員 伊田 TEL 090-3760-5216
建築 CPD:1 単位 ※講演会の聴講はどなたでも可能です。
社内、知人の建築士の合格者方に是非、ご案内をお願い致し
問合先:建築士会事務局(TEL:076-482-4446)
ます。多数の参加お待ちしております。
◆ 青年委員会からのお知らせ
◆ 建築士会住宅研究会(新設)からのお知らせ
平成 26 年度 新建築士【志】歓迎会 2014
「住宅研究会」第三回勉強会のご案内
平成 26 年度建築士合格者、新たな建築志(資格有無を問わ
日時:第三回:平成 27 年 3 月 11 日(水)19:00∼20:30
ず建築を志す者)の歓迎会を開催いたします。建築士【志】の
会場:富山県建築設計会館 3 階会議室 (富山市安住町 7 番 1 号)
皆さん!是非一緒に有意義な時間を過ごしましょう!積極的
講師:中山 聡 氏(わくわく法人 rea 東海北陸不動産鑑定・建
な参加お待ちしております!!
日時:平成 27 年 3 月 21 日(土)
築スタジオ株式会社 代表取締役)
12:30∼15:30(12:00∼受付)
第三回テーマ:アイディア次第で人も地域も元気になる空き
会場:富山県民会館 8 階レストラン/富山市新総曲輪 4-18
内容:第 1 部 「建築士合格プチ祝賀会」
家の楽しい使い方
12:30∼
内容:空き家が社会問題となり、本来社会資産である空き家の
合格おめでとうございます!!青年委員会からのささや
適正な維持・管理が課題となっています。ここでは、空き家
かなオ・モ・テ・ナ・シ。第 1 部には、午前中の一級建築
に関するセミナーを各地で担当する講師が、空き家問題の背
士免許伝達式でご講演されます、金沢工業大学の蜂谷俊雄
景や各種施策について知り、その発生原因を考察し、建築士
教授もご出席されます。
として関わることの可能性や、問題解決の実例・実際の取り
※軽食を用意する予定です。(アルコールの提供は、ござ
組み例を取り上げます。これにより空き家問題について基本
いません。)
的な知識や解決方法のヒント得ることができます。
第2部 「法改正ならびに確認申請業務のポイント」13:30∼
建築 CPD:1 単位(CPD カードをお持ち下さい。)
講師:(一財)富山県建築住宅センター
定員:10 15 名程度(どなたでも参加できます。)
検査第二課長 四宮 哲氏
改正建築基準法及び確認申請の要点について説明します。
会員外
1,000 円(資料代を含む)
申込先・申込期限:3 月 9 日までメール又はファックスで下記
難関突破された皆様には、これから業務で不可欠とされる
まで
部分です。
第3部
参加費:会員 無料
(E-mail:[email protected] FAX:0766-30-4370)
「富山県建築士会 入会ガイダンス」 14:30∼
問合先:担当:林(空創建築計画事務所 TEL:0766-21-8542)
講師:青年建築士会員
内容:建築士会とは?メリット、魅力とは?建築士会員と
◆ 歴史的建造物委員会からのお知らせ
の座談会
「井波の近代建築を巡る」見学会開催のご案内
定員:30名
日時:平成 27 年 3 月 28 日(土)10:00∼12:00
参加費:今年度合格者及び学生:無料、新建築士(志):1,000円
会場:南砺市(井波市街地)
建築CPD:1単位
内容:井波の近代建築を巡ります。
申込先:3月10日(火)までFAXまたはメールで下記により建築
建築 CPD:申請予定
士会事務局まで
定員:先着順 15 名(どなたでも参加できます。)
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ホットライン No.223
参加費:会員 500 円
会場:サンシップとやま 601 号室(富山市安住町 5 番 21 号)
会員外 1,000 円(資料代を含む)
講師:1 部 13:40∼
申込先・申込期限:平成 27 年 3 月 20 日まで
申込者氏名、住所、連絡先(携帯番号もしくは電話)FAX、
「多機能表面処理方法のご提案」
E-mail アドレスを記入の上、ファックスで下記まで。
∼内、外装への活用法∼
㈱北二 提供
(FAX:076-473-0345)
2 部 14:25∼
見学先、集合場所等詳細については、後日参加者に連絡いた
「シート建材∼最新の仕上げ技術」
します。
エスケー化研㈱ 大辺 国臣氏
問合先:歴史的建造物委員会 担当:水野
3 部 15:15∼
(TEL:090-2033-0345)
「中国との交流」
◆ 砺波支部からのお知らせ
JIA 会員 清水 純氏
『建築雑考』開催のご案内
日時:平成 27 年 3 月 27 日(金)
4 部 16:15∼
18:20∼21:00
「環境対応型サーモコントロール仕様のエアーコントロール防水とデザイン性
会場:砺波まなび交流館 2 階視聴覚室
砺波市栄町 717 番地
㈱CRT ワールド 陸田 秀之氏
に特徴のある 3D 防水シート」
TEL:(0763)33-1115
北陸防水㈱ 中嶋 秀二氏 山田 智義氏
講師:天野一男建築工房 所長 天野 一男氏
内容:JIA 協力会員からの断熱塗料や外装材・防水材などの最
内容:「未来・今昔。建築(住宅から)、そして、地域計画。ま
先端技術の紹介と JIA 正会員清水純氏による中国事情・交流
して、経済活動」
についての講演会を行います。
共催:(一社)富山県建築士事務所協会 福野支部
定員:先着順 60 名(どなたでも参加できます。)
建築 CPD:3 単位(CPD カードをお持ち下さい。)
参加費:無料
定員:先着順 40 名(どなたでも参加できます。)
申込先・申込期限:平成 27 年 3 月 6 日までファックスで下記
参加費:無料
までお申込み下さい。
申込先・申込期限:平成 27 年 3 月 22 日までメール又はファッ
( FAX 076-441-4224 濱田修建築研究所)
クスで下記まで
(E-mail:[email protected]
問合先:濱田修建築研究所 担当:濱田(TEL:076-441-3133)
FAX 0766-69-8653)
◆ 建築学会からのお知らせ
問合先:(公社)富山県建築士会 砺波支部
講演会「設計における災害リスクの想定とその
対策」のご案内
(一社)富山県建築士事務所協会 福野支部
担当:加藤(TEL:0766-69-8703)
日時:平成 27 年 3 月 16 日(月)
◆ 富山支部からのお知らせ
会場:富山県民会館 701 号室
炊き出し体験会のご案内
講師:吉村英祐 大阪工業大学工学部建築学科教授
震災は富山でもいつやってくるかわかりません。今の予測で
内容:阪神・淡路大震災から今年で 20 年経過し、自然災害に
は必ずあると言われています。富山支部では、震災が起きた
対する意識が高まっており、建築的な対策としては耐震性能
直後に必要となる炊き出し体験会を、日本赤十字社富山支社
の向上に目を向けられることが多い。しかし、建築物はあら
の協力を得て実施します。どなたでも参加できます。ぜひ参
ゆる防災面への配慮が必要である。
加して下さい。いっしょに体験しましょう。
日時:平成 27 年 3 月 29 日(日)
15:00∼16:45
今回、建築防災の専門家から、防災意識とその対策から生ま
11:00∼14:00
れる設計について語っていただく。
会場:富山市丸の内 2 丁目 3-7 桜井ビル後駐車場
参加費:無料
富山市丸の内 2 丁目 2-10 富山県酒造組合駐車場
定員:80 名(どなたでも参加できます。)
(雨天の場合でも実施します)
建築 CPD:2 単位
参加費:無料(どなたでも参加できます。)
主催:(一社)日本建築学会北陸支部
申込先・申込期限:平成 27 年 3 月 26 日までファクスで下記ま
協賛:(一財)富山県建築住宅センター
で。FAX:076-481-8723
後援:(一社)富山県建築士事務所協会
問合先:富山支部 今村 TEL:090-3763-9328
問合先:(一社)富山県建築士事務所協会 内
◆ JIA 北陸支部富山地域会からのお知らせ
日本建築学会富山支所
TEL:076−442−1135(白山)
「JIA 技術・交流フォーラム 2015」開催ご案内
日時:平成 27 年 3 月 7 日(土)
13:30∼17:00
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ホットライン No.223
職人アーカイブ No.068
< 曳家 >
なかざわ
ゆうぞう
中澤
雄三
さん
昭和 13 年 4 月 29 日生まれ
砺波市五郎丸
中学卒業後、2 年後に弟子入り
独立して満 50 年
「曳家工事で 50 年」
仕事を教わった親方について
中学卒業の春に父親を亡くし、
「木(き)びき」と
いう木工をするところに勤めたが、ケガをしたため、
恐くなり辞めてしまった。しばらく自宅二階でムシ
ロや縄を編んでいたが、隣人のお世話で用水改修の
土方に出ることになり、真面目な勤労を認められ、
庄川町古上野の藤井太作という職人に見習いで就く
ことに至った。
そこで自分が 18 歳∼21 歳の 4 年間ほどの間、藤
井氏から仕事を教わった。当時は若かったので「ぼ
仕事の仕方や道具の開発について
うや」と呼ばれて可愛がってもらった。
親方の藤井太作さんは、満州・樺太・ロシアと廻り、
木材を川へ流す「流送」という仕事に携わり、小さ
かつては基礎も自分で作ってその上に曳家した
建物を乗せていたが、最近の基礎工事は土木屋さん
が行うことがほとんどになった。
い体で何でもこなす器用な人で、故郷に帰り、10 歳
程年上の方に曳家という技術を習われたそうである。
ただし、文字は書けない、計算できないという弱
曳き屋の道具とし
て以前はジャッキ・
ローラー(丸棒鉄
点があり、それを弟さん(現在 92 歳で高岡にて存命)
筋)・レール(堅木)が
に全て任されていたが、ある日、大好きなプロレス
主な道具だったが、
中継で力道山を観戦中に太作さんは亡くなられた。
現在は油圧式連動ジ
葬式の時に弟さんから「お前はオートバイに乗れ
ャッキ・連動 2 方向ロ
るから親方はお前がやれ!」と自分に言い渡された
連動 2 方向ローラー
ーラー・鋼製レール
のは 23 歳の時である。その後しばらくは藤井さんの
に変わった。
弟さんと仕事をしていた。
特に関東土機との
円城寺の曳家が始まり
開発提携で製作した
連動 2 方向ローラー
自分が 25 歳の頃に独立して仕事を始めたが最初
は、家の傾きや沈下の修理だけで曳家という仕事は
を用いることにより、
あまり無かった。
曳 き位 置の 微 調 整 精
当時は氷見に曳家の技術をもった人はいたようだ。
連動油圧ジャッキ
度が向上した。
40 年前 に砺 波 市
又、連動油圧式ジャッキにより施工精度も向上し
内初の区画整理事
た。工賃については、段取りの人工と資材の損料を
業で、円城寺という
足して面積で割って円/坪で算出する。延べ面積で
寺を曳家したこと
計算をするが、方向転換する回数や曳く距離によっ
が評判になって本
て単価は変わる。
やはり円城寺の仕事は大きな仕事だったので思
格的な曳家工事の
い出深い。
始まりとなった。
(文:斉藤
円城寺の曳家工事
-3-
弘志、写真:米田
正明)
職人アーカイブ No.069
<造 園>
ど い
まさはる
土肥 正治
さん
昭和 21 年生まれ
上市町湯神子
高校卒業後 18 歳で、父の会社に就職。
「自然の中に美を求める」
父と会社の従業員の庭師に仕事を教わる。
38 歳の時独立し、現在に至る。
職人への道筋
印象深い仕事
父親が植木職人であったことで、自然と庭師という職に
一つはK斎場で、斎場のお庭を作った。建物の目的も考
慣れ親しんでいたのかも知れない。高校を卒業後、父の会
えながら、落ち着きのある日本庭園を作庭した。
社に就職。父と従業員であった滑川の土肥邦夫さんにさま
公共の施設ということで、設計、工事監理は行ったもの
ざまなことを教えていただいた。
の、その後のメンテナンスが、入札によって他の業者にな
38 歳の時に、父親の会社から独立。現在は父親(もう亡
ってしまい、とても残念に思っている。
くなった)と同じ上市にて仕事をしている。
自分が愛着を持って手掛けた庭は、その後の管理も一緒
にさせてほしいのが本音。他の業者に管理されてるとはい
道具の変遷(三又から重機へ)
え、時々見に行っている。
和風の庭園に欠かせない石や樹木を移動、設置したりす
もう一つは立山博物館。設計者は、六角鬼丈。設計者の
るのに、昔は三又(みつまた)を組んで人力で作業をして
意図がわからず、困った。まんだら遊苑の石積みはとても
いた。三又の組み合わせや、設置位置を試行錯誤し、作業
を進めるのも腕のよい職人としての技量を試されるところ。
現在三又を組む作業は、パワーショベルやレッカーの導
難しく苦労しただけに、印象も深い。他には新川文化ホー
ルの芝貼りや神奈川県まで出かけて作ったY社長邸の庭な
どが記憶にのこっている。
入によってとても楽になり、作業効率も向上し、他の作業
に時間をかけることが出来るようになった。
庭作りの変化
反面、三又を設置する知恵を絞ることがなくなったとい
昔は作庭といえば、和風庭園だったが、最近では洋風の
うことは、とても寂しくも思える。
建物が増え、その建物に合った庭を要望されることが多く
なった。まず洋風に合う植木を選ぶことから始まり、擬似
製品の扱いなど、昔の作業とは違う知識も必要になってき
た。核家族が増え、車の所有率も増加し、庭を作るより駐
車場が優先されてしまう。人の感性に浸る余裕が無くなっ
たのではないか。
技術を発揮できる本格的な日本庭園の依頼が少なくなっ
剪定鋏
たことには寂しさを感じてやまないが、どんなお庭を造っ
たとしても住まい手が居心地のよい空間を感じ取れるよう
心掛けている。
お客さんから感
謝の言葉をいただ
いた時はもちろん
のこと、後継者が
造園工事道具
できたこともとて
工法にかかること
もうれしい。
日本庭園を作庭する際は、自然の素材を最大限に生かす
これからも尊敬
こと、住まい手が居心地の良い空間に感じられるように、
される職人の一人
美しくかつ、機能的になるように心掛けている。
となるよう努力し
庭木の材料は、形の整ったものや庭石に関しては、植木
ていきたい。
市場にて購入している。工事を見越して苗木を購入し、畑
にて仮置きしておくこともある。
造園の図面
合成の竹や板壁が出てきたが、時間とともに出てくる風
(文:水野 桂子、写真:川上 邦夫)
合いなどを感じることができず、あまり好きではない。
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職人アーカイブ No.070
< 看板・塗装 >
ひ だ
あきまさ
昭和17年東京神田生れ
飛弾 昭昌
さん
中学校卒業後、中林看板店(魚津市)に入社
黒部市石田
昭和 20 年黒部市に移住
昭和 40 年ヒダアトリエ創業
「精神力」
映画看板などを手掛ける
現在に至る
仕事を身に付ける
記憶に残る作品
中学卒業と同時に中林看板店( 現・(有)商栄工芸
壁面やシャッターなど、手書きによるビックアー
/魚津市 )に入社し、映画看板などを手掛けるよう
トを得意としています。
になる。
大きなものでは
修行中は、兄弟子に言われたことをこなすのが、
・W40mH5mのくじらのビックアート
精いっぱいで、たいへん苦労したそうです。
・氷見きときと寿司飯野店
また、技術面でも誰一人として教えてくれる人は
・宇奈月駅前の十字峡ビックアート
おらず、こんな時はこうするんだ、あーするんだ、
・街角シャッター手書きアート
と試行錯誤しながら覚え、そして一人で映画看板を
などがありました。
書いたとき、すごい感動をおぼえました。
私たち看板屋は、道具と言えば、筆と刷毛だけで
す。あとは塗料をつけて塗るだけ、だから単純な仕
事に見え、簡単そうに思われがちです。
5∼6色あればどんな色でも表現できる面白さに
ひかれて修行すること 10 年、誰にも負けない技術を
持つこと、そして皆さんが見て感動したと言われ、
ようやく独り立ちすることが出来、現在の会社を設
立しました。
生地漁業組合シャッター絵
農業祭での看板
苦労した事・嬉しかった事
乾きの遅いタネペンキから合成樹脂塗料にかわ
り、乾燥のスピードが3倍位にアップした事で書き
にくくなった事、悪天候での現場作業、あるいは、
書く物の大きさによって工程通り行かなかったこと
も有り、苦労しました。
また、注文者の知識が多くなり、クレームも多く
出るようになってきています。
それでも、近年は平成 21 年6月トキ絵画でテレ
ビ、新聞、雑誌にとりあげられ、柴田理恵 の肖像画
を描いたり、富山ゆるゆる遺産(チュリーップテレ
ビ平成 21 年8月放送)に出演したりするようにな
りました。また、東ちずる の肖像画を描いたり、
にっぽん再発見(テレビ朝日系全国ネット平成 21
年 11 月放送)にも出演しました。
みなさんから、看板を見て感動したと言われるの
が一番うれしいです。
(文・写真:間部宏一郎)
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職人アーカイブ No.071
< 畳 >
さかい
ただ し
酒井 忠時
昭和 8 年生まれ
小学校卒業し終戦後の時代に畳製造に
関わる。
その後富士製畳に入社
今も現役で仕事をしている。
さん
富山市八尾町井田新
「時代とともに」
仕事との出会い
高岡の小学校卒業後の終戦時代、東洋紡績で機械整
現代ではエコ畳と
備に携わっていた。知人に誘われ八尾の昭和畳に就職
か体によい畳との
し機械を操りわらで床を作っていた。昭和畳が倒産し、
ことで、炭入り畳
幾つか転職し時代の流れで自動車学校へ行き免許を取
とか、檜の間伐材
って運送の仕事に就くが、富士製畳先代社長(福島秀
のチップを麻布で
信氏)に出会い畳の運搬を頼まれたのがきっかけで、
包んだ床材なども
運搬から始まり畳作りの経験を生かし実際の畳製作を
出てきた。
するようになった。
畳床に桧入の畳
経験と実績を積み新入社員指導の立場になっていっ
畳表は広島の備後表、岡山の備前表、熊本の肥後表
たが、自分もより向上しようと、仕事が終わってから
が良かったが、ここ 10 年ほど前から中国産のものもよ
畳職人の先輩を訪ね、夜間睡眠時間を削り勉強した。
うやく使えるようになっているそうだ。
職人となり時代とともに日々歩んできた。
人生振り返って・・・
富士製畳には多い時には、藁の選別・畳床作りの作業
者が 20 人、畳職人が 10 人ほども居て大所帯だった。
戦争・・・あってはいけないものだ、酒井さんはこ
仕事が無くなると、社長から営業も命じられ困ったこ
う語られます。そして「悔しい。
」と・・・。貧困の時
ともあったが、畳数の多い寺廻りをやり、期待に応え
代、衣・食・住のすべてにおいて色々な不自由な思い
たこともあった。
をしてこられたそうですが、なかでも先生がいなくて
学校へ行けなかった事が特に悔しいと、学びたかった
時代の進化
と語られます。学び、進学していれば知人のように違
この世界に飛び込んだ時は、1 人あたり畳床表 1 枚
う道に進んでいただろうと羨ましく思ったと。何度も
製作に 1 日(10 時間)位かかった。その後機械が導入
言うが戦争はあってはいけない、何も解決しない、と
され 1 日に 10 枚くらい製作可能になった。
力強くおっしゃった。
畳床は藁が少なくなって、サンドイッチ畳と呼ばれる
寂しそうなお話の中、とても嬉しく思うお話を最後
スタイロ畳が出てきて 1 日に 20 枚くらい製作できるよ
に聞かせて頂きました。時代の変化で核家族が増え、
うになり、さらに、
確かに和室が減り畳とふれあったり畳を使って頂く方
ボード畳が多くな
が減った。しかし、畳がスタイロ畳とか軽くなり、機
り、なんと 1 人あ
械が進歩したおかげでこの年でも現役で働ける。職人
たり 200 枚製作可
としてとても幸せなことだ。
聞かせて頂いた私達も、とても幸せな気持ちになり
能となったとの
ました。
事!時代の進歩を
感じる。
(文:下島 達雄、写真:江本 優)
製畳機
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職人アーカイブ No.072
< 瓦 >
しゃくなが
さとし
釈永
聡
昭和 46 年生まれ
さん
父が創立した釈永瓦工務店に 18 歳で入社
中新川郡立山町上末
2009 年全国伝統技能グランプリ富山県代表
釈永瓦工務店代表
「生涯の挑戦」
職人への出発点
技術の変革
猛吹雪の中、たどり着くことができるか不安な気持
昔は地場産瓦もありましたが、現在は愛知県産三州
ちで「陶器の里」立山町上末地区へ向いましたが、道
瓦と石川県産小松瓦を多く用いています。
路には雪が積もり、行き先への道を聞きながら釈永瓦
請負からの受注が半分、顧客からの依頼が半分で、
工務店を訪ねました。
「大変だったでしょう!」と笑み
この比率はあまり変わっていませんが、日本瓦・洋瓦
を浮かべて若い代表者の聡さんが出迎えてくれました。
共、耐震に対応できる形状に進歩した反面、施工がと
広い作業所の一隅の事務所兼談話室でいろいろなお話
ても面倒になりました。これも新しい時代に沿った技
を伺うことができました。
術の変革と理解していますし、これからもまだまだ改
最初に、この世界に入ったきっかけを伺いました。
善されると思っています。
祖父がこの地に瓦製造工場を創設し、父が瓦職人とし
ただ、軒積み工法が将来消滅するのでないかと懸念
て引き継ぎました。しかし、資金繰りに苦しみ大変な
しています。なんとか後世に残したいものです。
生活を強いられましたので、この状況から脱するには、
自分が職業を引き継いで家庭を助けるしかないとこの
世界に入ったのです。
一人前
瓦に関する知識は父から教わりましたが、自分が使
日本瓦の耐震対応
瓦の再認識
用するタガネとハンマーは独学で工夫しました。一人
仕事はもちろん職人としての心構えや人間として生
前になるまでの期間はそれぞれ個人差がありますが、
私は 10 年位で一人前になったと記憶しています。
きる術を教えてくれた父も 7 年前に亡くなりました。
日頃から「職人同士の支え合いが最も大切だ」が口癖
でした。私はこの教えを肝に銘じて実践していきたい
と思っています。
建築界は年毎に激しく変動し、新しい屋根材が開発
されています。
それはそれでとても良いことだと思います。しかし、
大切にしているタガネと必須のハンマー
古くから伝えられる材料だからこそ認められる良さも
父から最初に任された工事は、立山町千垣地区の Y
多々あるはずだと考えています。
寺でした。瓦の納まりで悩んだり、段取り等で手間取
以前、淡路島の淡路瓦とその職人に出会いましたが、
ったりと大変苦しみましたが、大勢の仲間たちに支え
その美しさは後世に引き継ぐ技術だと確認し、瓦の良
られて何とか完成させた時の喜びは今も鮮明に覚えて
さを再認識しました。
います。
瓦は今日まで廃ることなく使われていますが、その
また職人とし
理由を根本的に建築関係者の方々と本音で話し合う機
て記憶に残るの
会が必要だと思っています。
は、洋瓦の雨仕舞
私達瓦職人は、これからも瓦の魅力を引き出すため、
がどうしても上
生涯先頭に立って挑戦していかなくてはならないから
手くいかず悩ん
です。
だことです。今は
淡い思い出です。
(文・写真:中村
日本瓦と洋瓦
-7-
昌弘)
職人アーカイブ No.073
< 畳 >
たけだ
ひでお
武田 秀夫
さん
昭和2年生れ
上市町下経田
高校卒業後、親の仕事を継ぎ現在に至る。
畳職人4代目
「64 年間現役を続ける」
<取材後しばらくして病を得てお亡くなりに
なった。ご冥福を祈ります。>
思い出
私は 20 歳から 64 年間、今も畳を作り続けている。
インシュレーション
家業として、父親から教わったが、代々100 年有余
ボード畳の機械
続いており私で4代目である。
息子が 40 代前半でなくなり、孫に5代目と思ってい
るがハウスメーカー勤めしており無理強いできないと
思っている。畳の需要も少なく継いでも大変だと思う。
手縫い技術の証である「畳一級技能士」を昭和 42
年に貰ったが、手縫い仕事が少なくなり、今は一級を
持っている人も少ない。
昭和 55 年に「全国
スタイロ畳床品質競
技会」が鈴鹿市であ
り、最優秀賞を受賞
スタイロ畳用の機械
したことが一番うれ
近年の状況
しい思い出である。
最近は部屋での見栄えなどから縁なし畳の依頼が多
機械化と需要の変化
くなったが、縁なしだと表替えが難しく畳表が劣化す
ると新畳への取替となる。
昔の畳は、稲藁床だったが、自分で縫うような職人
も少なくなり、重いことから職人が嫌がり特注以外ほ
一般的な畳は県外の工場に委託し、ちょっと特殊な
とんど作られていない。畳の製作は手縫いの時は1日
ものを自分で手がけている。床暖房用の薄い畳を作る
1枚だったが、今は機械化で 20 枚程度作れる。そのた
こともある。
一昨年、ある宅で 100 枚程度の表替えをやらせても
め、手針での手縫いは少なくなった。
らったが、お金のある人でないと畳までかまって貰え
ない。
手縫用の針
年を取ったのでなんでもかんでも注文に応じるとい
畳表用
上敷き用
う訳にはいかないが、畳製造の機械は一通り取り揃え
畳床用
おり、なんとか対応できるようにはしている。
数十万円で購入したスタイロフォーム畳を作る機械
その後、スタイロフォームの藁サンド畳となり、現
は、物価上昇や機械そのものの需要が少ないせいか一
在はインシュレーションボードや発泡ポリスチレンを
千万円もするようになったと聞くが、今時、設備投資
積層した畳が8∼9割占めるようになったが、踏み心
はなかなかできないご時世となっている。
ハウスメーカーの家は畳の使用量が少なく、新築住
地や通気性は藁床に及ばない。
イ草は一般には中国産で、ちょっと気の張るものに
宅の減少と相まって畳だけではやっていけない時代に
は九州産を使っている。イ草表や琉球表(麻製)は材
なった。昔は、畳の頼母子講があり、畳替えに備えた
料費が高いが、足への馴染みが良く、特にイ草はキメ
りするとともに手入れのアドバイスや畳替えの時期に
細かく織られ違和感なく良い。
ついてなど話す機会があったが、今はお客さんとの対
話も少なく寂しい思いである。
現在は、和紙表のものも多く、ビニールのマット畳
(文・写真:酒井重人・江下小百合)
もでてきた。
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