筋書き(PDF 230 kB) - 日本エスペラント学会

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2015年1月7日〔水〕4時台
NHK ラジオ深夜便 明日へのことば「ことばが広げる世界の絆」
明日へのことばです。
今日は「ことばが広げる世界の絆」ということで、
一般財団法人日本エスペラント協会の、昨年まで 20 年間理事をしていらっしゃり、以
前は世界エスペラント協会の理事もしていらっしゃった
堀
泰雄 (ほりやすお)さんのお話をお聞きいただきます。
堀 泰雄さんは、1941年〔昭和16年〕のお生まれで、今年73歳。
東京で生まれ、群馬県の前橋市で育った堀さんは、京都大学文学部を卒業後、群馬県の公
立高校や愛知県の大学で英語を教えてきました。
堀さんは、東日本大震災発生の時から、被害状況や現地の子供達の様子などをエスペラ
ント語で世界に発信し続けています。
堀さんが、エスペラント語を知ったのは、小学6年生の時。父親に、ノルウエーのエス
ペラント仲間から植物の種が送られてきたことからです。種をまくと、可愛らしい青い
花が咲きました。その時、堀さんは、エスペラントを勉強すれば、世界の人と仲良くす
ることが出来るのだと思いました。
その後エスペラント語を本格的に学んだ堀さんには、世界中に多くの友人が出来まし
た。エスペラントの威力が特に発揮されたと堀さんが感じたのは、4年前の東日本大震
災を世界に発信し始めてからです。震災後 3 年間、20 日間ずつフランスに招かれ、震災
のことを話してきました。
震災支援もしなくてはと、岩手県の元高校教師高舘千枝子さんが始めた「釜石市唐丹
の子ども 130 人を支援する「唐丹希望基金」」にも積極的に参加して、日本の、世界の
エスぺランチストの間に、支援の輪を広げてきました。
「ことばが広げる世界の絆」
エスペランチストの堀
泰雄 (ほり
レクターが伺いました。
MO
〔
分
秒
〕
やすお)さんにラジオ深夜便の坂口憲一郎ディ
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坂口:堀さん、おはようございます。
堀: Bonan matenon. Mi estas Hori Jasuo. Mi loĝas en Gunma. Mi estas eksa instruisto de
la angla lingvo.
坂口:あ、それがエスペラント語ですね。エスペラントという名前は知っていましたが、
話されるのを聞きのは初めてです。今なんとおっしゃったのですか。
堀:おはようございます。私はほりやすおです。群馬県に住んでいます。私はもと英語
の教員でした。
坂口:視聴者の中には、エスペラントという言葉を初めて聞いた方もいらっしゃると思
うので、どんな言葉か、ちょっと教えていただけませんか。
堀:Jes. エスペラントは 1887 年に、ポーランドの眼科医ザメンホフ博士が発表した国
際共通語です。彼が住んでいた、ビヤリストックという町では、ロシア人、ポーランド
人、ドイツ人、ユダヤ人など、多くの民族の人が混在して住んでいて、言葉がわからな
いことから来るいさかいが絶えなかったのです。それで、共通の言葉があれば、皆仲良
くなれるだろうなと、子ども時代から国際共通語の研究を始めて、28 歳の時に発表した
のです。
坂口:エスペラントとはどういう意味ですか。
堀:espero は希望。esperanto は希望する人、という意味です。エスペラントを発表した
時彼は、
「d-ro Esperanto、エスペラント博士」という匿名で発表したのですが、それが
いつの間にか、言葉の名前になりました。彼が希望していたのは、
「諸民族の間の友情、
愛情、平和」などですね。
坂口:堀さんは英語の先生でしたよね。昔はともかく、今は英語が国際共通語で良いの
ではないでしょうか。
堀:そういう風に考える人も多いのですが、英語が国際共通語になったら、英語を母語
とする人は有利ですが、その他の人はとても不利になります。私たち日本人は、中学か
ら英語を、お金、時間、頭を消費しながら、何年も勉強しますが、できるようになるの
はほんの一握りです。それに比べてアメリカ人は、普通にやっていれば、国際共通語を
獲得してしまうのです。これは全く不平等なことです。それに、民族語は、難しくて、
他の国の人にはなかなか習得できません。私も今までに 10 か国語を学びましたが、ま
あものになったのは英語位なものです。今の世界では、平等ということは非常に大事で
すし、「人権としての言葉」をもっと大切に考えないといけないと思います。その点エ
スペラントは、人工語ですので、誰でも学んで初めてできるようになるので平等です。
憲法14条には「法の下での平等」が謳われていますが、「言語」に関する言及はあ
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りません。しかし「国連憲章」では、第1条第3項に「人種、性、言語または宗教によ
る差別なく、すべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助言奨励するこ
とについて、国際協力を達成すること」とあります。英語を国際語にして、これを全人
類に強制するようなことは、基本的人権に反することで、絶対にあってはならないこと
です。エスペラントは、それぞれの母語を大切にして、その上で、様々なことばの橋渡
しの言語として皆で使いましょう、と言うことなのです。
わたしにはイギリスの86歳の男性のメール友達がいます。彼は、エスペラントを皆
に広めようとしましたが、なかなかうまくいきません。というのは、多くのイギリス人
が、「英語ができるので不便はしない。わざわざそんな『国際語』を習う必要はない」
と考えているからです。でも彼は言います。
「少なくともイギリスにひとりは、言語は平等でなければならないこと、英語が話せ
ることでほかの国の人より優れているというようなことはいやだと思っている人がい
ることを皆さんに伝えてください」
共通語の条件
共通語は、やさしくて、学びやすくなくてはなりません。エスペラントは、やさしく
しかも美しいのです。使っている文字はほとんどがローマ字と同じで、日本人にはロー
マ字を読むのと同じように読めますし、文法には例外がないので、無駄な暗記が必要あ
りません。たとえば、英語では、 I am, You are, he is と be 動詞は主語によって違いま
すし、過去形にすれば、 I was, you were , he was とまたそれぞれ違いますが、エスペラ
ントでは、 mi estas, vi estas, li estas と同じ動詞を使いますし、過去形は estas の語尾
をちょっと変えて estis にすればよいのです。mi estis, vi estis, li estis という具合です。
坂口:本当に合理的ですね。で、世界ではどのくらいの人が使っているのですか。
堀:100 万人と言っていますが、実際はどのくらいいるのかは、正確にはつかめません
ね。中国ではエスペラントのラジオ放送もしているので、中国エスペラント協会に聞く
と中国だけで 1000 万人もいると言いますしね。私としては、50 万人でも十分だと思い
ますが、それより、エスペラントを使う人の名簿があるというのが素晴らしいことだと
思っています。この名簿には約 100 各国、2500 人の名前が載っているので、たとえば私
は震災のニュースを書いて、それを読んでもらう人を簡単に探せるわけです。英語では、
話す人はたくさんいるけれど、誰に向けて発信してよいか、対象がないのですね。また、
毎年世界エスペラント大会各国持ち回りで開かれ、そこには大体 50 数か国から 2000-
3000 人が参加します。通訳なしで、エスペラントだけで、会議や交流、遠足などが行わ
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れているのです。エスペラントを母語にしている子どもも 2000 人くらいいるというこ
とです。世界大会などで知り合った国の違う男女が結婚すると、共通語がエスペラント
になります。そういう子どものことを、denaska esperantisto (生まれた時からのエス
ぺランチスト)と呼ぶのです。
坂口:素晴らしい世界ですね。堀さんは、いつからエスペラント語をやり始めたのです
か。
堀: 最初に関心を持ったのは小学校の時だと思います。私の家でエスペラントの勉強
会をやっていて、父が指導していました。ある時ノールウェーの文通友だちから種が届
いて、それを植えると青い小さな花が咲いたんです。父は、お返しに、アサガオを送り
ました。父は、エスぺラントを一生懸命やっていて、大学の生物学の教員だったのです
が、論文もエスペラントで書いていました。そんな論文の紀要が、残っています。
坂口:お父さんは、なぜエスペラントに熱心だったのでしょうね。
堀:戦後すぐに、群馬大学医学部に西成甫さんという方が赴任され、それでエスペラン
トが、前橋で盛んになったのです。西先生に感化されて、一生懸命やっていたのだと思
いますが、最近、なぜ「感化されるようになったのか」というその元がわかってきたよ
うに思います。
坂口:それはどういうことですか。
堀:父は、平成17年に92歳で死んだのですが、最近遺品の整理をしていて、戦争中
のものが出てきました。ここに、戦地へ持って行く「慰問袋」がありますが、そこに、
結婚する前に中国で戦争に参加して、「手柄」まで立て、60円もらっていたという感
謝状などが出て来たんです。昭和15年のことです。
坂口:
はあ、これがその感謝状ですか。
堀:ええ。死ぬ直前、父は病院で看護師に「お前らは敵だ」と叫んでモップを振り回し
たことがありました。どう考えても、戦争のトラウマだと思ったのですが、母に聞いて
も、
「父は戦場には行かなかった」というのです。疑問はこの「慰問袋」で解けました。
昭和15年は、両親の結婚前のことです。父は忌まわしい記憶を封印したのだと思いま
す。そしてそのことへの後悔、または償いから、世界平和、民族の融和を説くエスペラ
ントに共感したのではないか、と思うのです。
坂口:そうだったんですか。
堀: 父が死んだときに、年寄りが先に死ぬのは仕方がないこと、と冷静に受け止めて
いましたが、この「封印された父の記憶」を知った時には、「そうした辛い体験をしな
がら、私たちを育ててくれたのか」と、涙が出ました。そして、その父の思いを継いで、
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私がエスペラントをやっている意味が、ひしひしと感じられました。私も、エスペラン
トを作ったザメンホフ博士と、エスペラントに導いてくれた父に、報いなければという
気持ちが本当に強くなりました。
坂口:エスペラントで東日本大震災の報告を世界にしているとか。
堀:ええ。震災が起こったすぐ後から、世界の人たちから、「お前は大丈夫か」という
メールが入り始め、やがてはお悔みなど、30 か国くらいから 50 人近くがメッセージを
寄せてくれました。一番最初は、モンゴルのエンケさんからでしたね。それでその日に、
私は無事だったことや、大津波が起こったことなどをそれらの人に返信しました。
実は、私は 1991 年から、エスペラントで、その前の年に起こった日本のことを本に
して世界の人に読んでもらってきました。それで、この大震災は当然報告しなければな
らないとは思ったのですが、その後原発事故が起こり、これは単に日本の災害というこ
とではなく、世界史的な災害で、世界の人が知らなければならない事実だと思うように
なり、最初の 1 か月は、毎日、テレビや新聞で報道されること、自分の身の周りに起こ
ったことを報告しました。
坂口:被災地の訪問はいつから始めたのですか。
堀:正しいことを報告するには、自分の目で見なければならないと思いましたが、私は
車に乗れないし、当時は被災地へ行く手段もない、迷惑になる、と思って家で悶々とし
ていました。しかし、6 月の終わりごろ、宮城県に住むエスペラントの仲間に車を出し
てもらい、初めて、塩釜、石巻、名取などを訪問しました。8 月には、岩手のエスペラ
ントの仲間に車を出してもらって、陸前高田、大槌、釜石、宮古を案内してもらいまし
た。10 月には、福島のいわき、広野を、これは自力で訪問しました。想像を絶する惨状
に、もっと現場を見たいという気持ちが重なり、今までに、26 回、茨城から青森まで、
ほとんどの被災地を回りました。
でもただ見ているだけでは力になりません。そこで、外国への報告としては Raportoj
el Japanio(「日本からの報告」)として 3 冊出版し、日本人にも読んでほしいと、「世界
の旅人堀さんの気ままエッセー」という題で本の形にして、これも昨年で3冊になりま
した。
坂口:反応はどうですか。
堀:Raportoj el Japanio の方は、日本人の生き様が大きく関心を呼んでいます。また、
原発関係の報告も多いので、フランスでは 2 人のエスぺランチストが担当してフランス
語に翻訳して、関係方面に流してくれています。「今はフランスではほとんど福島の情
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報がないので、あなたの報告はとても貴重だ」などと言うメッセージが来たりします。
その意味では、フランスの反核運動に、私はエスペラントで貢献しているとも言えます。
坂口:フランスにも講演旅行をしたとか。
堀:ええ、2008 年に初めてフランスへ講演旅行に行ったのですが、この時は震災以前だ
ったので、日本についてがテーマで、学校へは、私がエスペラントを通じて集めた世界
の楽器でコンサートなどをやってきましたが、震災後の 2011,2012,2013 年は、主に震
災をテーマにして、各地での講演会、学校での生徒への講演などを行いました。寄付も
随分集め、3 回のフランス旅行で 50 万円くらい集めました。
坂口:岩手県釜石市唐丹(とうに)の子ども達の支援活動もされているということです
が。
堀:ええ、一般的な寄付だと、自分のお金がどこに行ってしまうかもわからない、元教
員としては子供を援助したい、という気持ちがありました。2011 年 6 月末に、毎日新聞
に、岩手の高舘千枝子さんが、釜石市唐丹の子どもを支援する運動を始めたという記事
が出て、すぐに参加しました。2011年当時の唐丹小中学校の子供たちは130人い
ましたが、現在は少子化の影響で104人になってしまいました。来年は100人を切
ってしまいそうですね。
坂口:唐丹という町はどういう町なのですか。
堀:もとは唐丹町という独立した村だったのですが、今は釜石市の一部になっています。
釜石と大船渡の中間にある町で、三陸鉄道の唐丹駅があります。唐丹湾に面し田きれい
な街というか村で、ウニ、ホタテ、ワカメなど漁業とサケの孵化事業などもやっている
典型的な三陸の漁村だと思います。過去に、M29 と S8 の大津波で大被害を受けていま
す。
坂口:今回の津波の被害はどんなだったのですか。
堀:私がこの地区を訪問したのは、2011 年 8 月末で、片岸部落は、小学校の校舎と体育
館以外は何も残っていませんでした。中学校のある小白浜は、12 メートルの巨大防潮堤
が前のめりに 3 つの部分が倒れ、2 つが傾いていました。家はもちろんありませんでし
た。崖の上にあったお寺は、門や鐘楼が倒れていました。30 メートルくらい波が遡上し
たのではないかと思います。ぐちゃぐちゃになた車が 10 数台、ごみのように置いてあ
りました。津波の威力に圧倒され、言葉もありませんでした。
坂口:子どもたちはどんなでしたか。
堀:唐丹中学校を訪問しました。中学の校舎は地震で破損したので、こどもたちは体育
館の中に作った教室で勉強していました。一応元気で遊んでいるようでしたが、当時を
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振り返って、中学の校長先生は「中学に入学してきたあなた方は、焦点が定まらないぼ
ーっとした顔をしていた」と、卒業式で話していましたね。
当時の校長先生と話しましたが、「修学旅行を中止しようとしたら、首都圏の唐丹出
身のお医者さんが全額負担してくれた」という話を聞き、一緒に行ったエスペラントの
仲間は皆泣きました。校長室に、次の標語が掲げてあって、ああ、日本人はこういう教
育のもとで育つのだと感心しました。この標語は、フランスの講演でも必ず紹介しまし
たが、そのたびごとに「あのような災害に遭っても日本人は暴動なども起こさずきちん
と行動する」のは、こういう教育があるのだなと、フランス人が納得しているのを感じ
取ることが出来ました。その標語とは、
「頑張ろう唐丹中学の5つの誓い」
「口」は、人を励ます言葉や感謝の言葉を言うために使おう。
「耳」は、人の言葉を最後まで聴いてあげるために使おう。
「目」は、人の良いところを見るために使おう。
「手足」は、人を助けるために使おう。
「心」は、人の痛みがわかるために使おう。
坂口:フランスの小学校との交流も仲介したということですが
堀:ええ、フランスの講演旅行でフランスの南部マルセーユで、ある小学校を訪問し、
マリーホという女の先生と知り合いました。彼女は、支援の気持ちで、子どもたちにい
ろいろな工作をやらせては、それを送ってきました。たとえば、大きな扇子への寄せ書
き、紙の箱の中に紙で作った樹木や動物などが入って覗けるようになっている、水族館
の水槽のような感じのもの、とにかく日本人には想像もできないような作品でしたね、
そして一番印象に残っているのは、指に付けるチョウの紙細工ですね。向こうの小学校
では、様々な人種の子どもがいるのですが、自分の作ったチョウを指にはめて撮った写
真を送ってくれましたが、唐丹では、子どもたちがそれを指にはめて体育館でダンスを
している写真を撮ってくれました。その写真を見たフランスの子どもたちは、実際に自
分が作ったチョウを日本の子どもがはめて踊っていると、目を丸くして驚いたそうです。
マリーホ先生は、自分の子どもにとって、唐丹との交流はとても大切だと、自腹で、子
どもたちの工作物を送って来てくれているのです。エスペラントで開ける世界、つなが
る世界とでも言えるでしょう。
坂口:唐丹小学校の学校便りをエスペラントに翻訳して世界に送っているそうですね。
堀:ええ、唐丹の学校便りは本当に面白いのです。小さな岩手の漁村の小学校で、どん
な授業が行われ、子どもがどんな風に勉強しているのか、私にとってもとても面白いの
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で、きっと海外の人にはもっと面白いだろう、また震災支援の一つにもなるだろうと、
2014 年 4 月から毎週出る学校便りを翻訳して、私のメーリングリストに入っている 700
人に送り始めました。
坂口:反応はどうですか。
堀:日本の学校で多様な取り組みが行われているのにびっくりしていますね。トンネル
工事見学、海上保安庁の船の見学などなど。外国からの反応では、たとえばフランスの
ジャッキーさんは、
学校便りを読んで一番感動したことは、皆さんがとても前向きな姿勢や目標をもって
いることです。生徒会役員のみんなが「ほほえみ、笑い、仲よく、一人ぼっちでなく、
さびしそうな友達を助ける、悪口は言わない、より良い学校のために仕事を分担する」
と言っています。皆さんのそういう姿勢は、将来きっと役に立つでしょう。あなた方
は日本の春です。仕事、友情、平和などの種まきをしているのです。大変な困難の後
ですが、きっとこの種まきの実りを手に入れるでしょう。皆さんが素晴らしい未来を
手にすることを疑いません。頑張ってね。
と、書いてきました。
坂口:唐丹地区のこども支援活動のこれからをお聞きしたいのですが。
堀:援活動の発端は先に話しましたように、2011年4月、高舘千枝子さんの呼びか
け、被災者の顔が見える支援をということで始めました。高舘さんは、最初1年を目標
に募金を始めましたが、震災は予想を超えて大きく、2 年目も継続、しかし、募金額も
だんだん少なくなり、悩んでいたんですね。そこへ支援者の伊藤さんというご婦人から
はがきが来まして、こう書いてあったんです。
「唐丹の小中学生の事を毎日考えます。あの年に入った小学生も、もう3年生ですね。
この子達が中学を卒業するまで元気でいたいです。」
高舘さんは、「なんて優しいのだろうか」と涙が出たそうです。それと同時に、募金を
その子供が中学を卒業する 2020 年までやろう、という目標が決まったのです。私たち
支援者もそれに賛同しましたが、6 年も先の話です。それで、今までのやり方では持た
ないと、A4判20ページのパンフを 5000 枚作り、大量宣伝をし始めました。また唐丹
の震災前から今日までの DVD を作り、写真や遺品と一緒に、展示会活動も始めました。
こういう活動には、支援会員の方が、様々に協力してくれています。ホームページを管
理してくれる方、DVD を作ってくれる方、展示会を開いてくださる方、またその中で募
金を呼び掛けてくれるかたなど、多くの善意の人で支えられていることを実感します。
特にエスペラント関係の方の協力は本当にありがたく、たとえば一昨年の第100回日
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本エスペラント大会では、会場に募金箱を置き、一言支援を訴えただけで10万円ほど
集まったこともありました。また先日は思いもかけない大金がある女性から送られて来
て、これで中学を卒業する子どもたちに高校入学準備金として一人 10 万円を渡せると、
本当にうれしかったです。
坂口:支援活動の今後は?
堀:私は、この支援活動は、単なる支援活動ではないと考えています。善が循環する社
会をつくる運動だと思うのですね。
最近私が気に入っている言葉に「善循環基地の泉とならむ」があります。これは、埼
玉県幸手西中の校歌にある一節で、この校歌には、エスペラント語の単語「Amu, laboru,
esperu」
(愛せよ、働け、希望を持て)が使ってあるので、エスぺランチストに注目され
たのですが、私は、「善循環」のほうに、より感心しました。
作詞者は、安積得也(あづみとくや)という 1994 年に亡くなられた方で、エスペラ
ント運動の他にも「新生活運動や世界連邦運動などに挺身」ともあるので、「宇宙船地
球の支えとならむ」や「善循環基地の泉とならむ」というような気宇壮大な歌詞も生ま
れたのでしょう。
私には、この思想こそが震災後の日本にとって最も重要だと思うようになりました。
震災を乗り越え、そこに新しい希望を見いだせるようでなければ、震災で苦しんだ意味
がありません。そう思っていたときに「善循環」に出会いました。私たちが唐丹の子ど
もを支援する、唐丹の子どもはその受けた恩や善意を、別の人、次の世代へと送って行
く、そういう「善が循環する社会をつくる」「恩を送って行く」という運動を創り出す
ことだ、と思うのです。
そしてエスペラントは、その泉を湧きだたせている大きな地盤なのだという気持ちが
ますます強くなり、エスペラントを発展させたい、多くの人に学んでもらいたいと思っ
ています。また、皆さんにも、それぞれがそれぞれの方法や分野で被災者支援に関わっ
ていただき、それぞれの方に「善循環の基地のいずみ」になってほしいのです。
今日は私の話を聞いてくださってありがとうございます。Koran dankon!
ありがとう。Ĝis revido!
さようなら。