天理大学学報 2 1 2:4 3 -5 3,2 0 0 5 フランスにおける柔術 と柔道の起源 (4) 細 川 伸 二1) TheRoot sofJuj ut suandJudoi nFrance( 4) Sh軸 iHo s o kawal Abs t ract I nt hi sTe nr iUni ve r s i t yJo ur na l ,Ic o nt i nuet het r ans l a t i o nandanno t a t i o no f " LEJUDO, s o nhi s t o i r e, s e ss uc c es ' ' Wr it t e nb yMr . Mi c he l lBROUSSE. Thef わ ur t hpa r to ft hi sb o o kde s c r i be st heval ue so f丘ght i ng, t heo r i e nt almo de l , KAWAI SHISHIHAN( r e l at i o ns hi pbe t we e nt hej udoMas t e ra ndt hes t ude nt s ) , c o mba t i ves po r t s , i de o l o g yandj udodur i ngo c c upa t i o n, Thepur po s eo ft hi st r a ns l at i o ni st ounc o ve rt her o o t sandde ve l o pme nto r j udo i nFr anc e. Thi sc o ul di ndi c a t eg ui de l i ne sf o rt hede ve l o pme nto f j udot hr o ug ho uto f t hewo r l d. は じめ に 闘いの価値 c he lBROUSSE" LEJUDO, 本翻訳 は,Mi 柔道の価値 は闘いの シンボルによって決定 s o nhi s t o i r e , s e ss uc c 占 S "Edi t i o nLi be r ,1 996, する。人対人の一騎打 ちにおいて柔道家は, " LE JUJUTSU OU LES RACI NES DU 相手 に立 ち向か うための気力 を己自身の中に ' の翻訳である。 JUDOENFRAJ V CE' 兄いださねばな らない。敗北 は投技,腕挫十 5 巻第 3号 天理大学学報第5 4巻第 3号,第5 字固,絞め技 によって もた らされ,それは侍 6巻第 3号 に引 き続 き," LEJ UDO, お よび第5 の時代では死 を意味 した。勇気 と忍耐だけが s o nhi s t o i r e , s e ss uc c とS " の翻訳及び注釈 を連 この恐怖 を乗 り越 えられ,それ らは試合に臨 載す る。第 4部 は,闘いの価値,東洋的模範, むまでの稽古 によって培われる。初期の柔道 川石師範,指導者 ・師範 ・弟子,格闘技 とイ 家 は,何 よりもまず結果 に個人的意義 を求め デオロギー, ドイツ占領下における柔道につ た。柔道家は, 自己の定める規律 により己を いて紹介す る。 律する。対戦相手 は,ただ自己の上達 と自制 フランス柔道の歴史 を探 り,今 日まで発展 心 を高めるために欠かせ ない存在で しかない。 しつづけた過程 を明 らかにす ることは,わが 対戦は,柔道家 自身の技量 を試すだけではな 国をは じめ世界の柔道の普及 ・発展 を考 える く,秘めている精神 をもさらけ出 して しまう。 うえでの指針 ともなろう。 攻撃の迅速性 と決断力が重視 されるのだ。状 1) 天理大学体育学部 i.F a c u l t yo fHe a l t h,Bu d oa n dS p o r t sS t u d i e s ,Te n i r Un i v e r s i t y 4 4 フランスにおける柔術 と柔道の起源 (4) 況が どうであれ,闘い, または危険へ 身 を乗 語 った。1 9 4 4 年1 1月2 3日付 『ロー ブ』 紙で 2) り出す ことは己に勝 てるか どうか を試す こと ア ン ドレ ・シャセイニ ヨン3)は次 の ように書 である。師は対戦 を じっ と観 ていて, そ して いている。 「ある ゴシ ップ記者 が私 に教 えて 叱曙激励す る。「 精神 的 に弱い」,今 もよ く口 くれた ところによる と,柔道のある トーナメ にされる言葉である。それを忘れる者 にはす ン トの勝者 に,昨年,黒帯授与が認め られな ぐさま注意が飛 ぶ。 クロー ド ・テ イボー1 ' は かった。試合 中に品位 を欠 く言葉 を使 ったか スポーツ記者 たちの意見 を分 けたある逸話 を らだ。 それが高名な将軍や魅力的な女優, さ フランス柔術クラブの内規 45 細川 らに才能溢 れる作家が 日常 に使用傾 向 にある 東洋的模範 言葉で あ ったに もかかわ らず。 ( 中略)人が 正直 に感動 を表す ことが,国 を代表 して黒帯 1 9 3 0年代 , フランス における 日本 のイメー や柔道衣 を身につけるには値 しない無作法 な ジは, 日本芸術愛好家の一貫 した 日本観 ,そ 男 と判 断 されるのであろうか。逆 に,試合 を して好戦国 となった 日本 の軍国主義 に対す る 裁 く審判 は感情 に左右 されてはな らない し, 批判が入 り混 じった二面性 のある国 とい う印 また感動 を表す こ とはないが,それは評価 さ 象 で あ っ た。『 大 地』 れ るこ となのだ ろ うか。 ( 中略)黒帯 と柔道 ール ・モ ラ ン6)の現実 的 な描写 は,後 の ア ン 5 ) ( 1 9 26) にお け る ポ 衣はシンボルである。 これ らを身につける者 リ ・ミシ ョー7)が再 び行 った批評 『ア ジアに は最 も優れた者 を意味す る。 しか し,最 も優 おけ る野蛮 人』 れた者が必ず しも最 も文明化 された者でない で あ る。 また, ア ン ドレ ・マ ル ロー 9)が その とい うのは,我 々の文明のあ らゆる 目か ら見 著書 『 西洋 の誘惑 』 て理不尽 なことではないだろうか。 」 問題提起 な どもあ り, これ らの書物 は,東洋 8) ( 1 9 3 3) とは相対 す る もの 1 0) ( 1 9 2 6)の中で示 した に対する視点が変化,明確化,多様化す る様 ,「敬 意」「誠実」「忍 耐」が行 子 を描いているo Lか し一般大衆の好奇心で 動 と実践 を支配す る。相互扶助 と連帯意識 は は極東文化 を理解するには難 しかった。極東 二つの特徴 的な要素である。段級位制 は,習 文化 とは, 日本式武術 と,アメ リカ経 由で フ 得 レベ ルの対外的 な証 とはなる, しか し帯 の ランスにや って きた禅 ,そ して1 9 3 4年 にジ ョ 道場 内で は 色 は,価値の序列 を定めるだけでな く,それ を締める者 に対 して義務 を課 している。先輩 は経験 の浅い後輩の指導者であ り,模範でな ければな らない。 また,先輩 は よ く考 えた う えで,後輩 に助言 を した り援助 を した りしな ければな らない。技術あ るいは試合の上で優 れる者 は劣 った者の成長の助 け とな らなけれ ばいけない。 現実 とは隔た りがあるにせ よ,理想 の将来 ,「勇気」 「 誠実」そ して 「 誇 像 としての柔道 は り」が信条の,現代 の武士道であ りたい とし てい る。紋章 を選ぶ際,有段 者 学校4)の柔道 。「桜 は 家 たちは誇 りを もって明言 してい る 花 の 中の花 で あ り,武士 は男 の 中 の男 であ る。 」武士道が象徴 的 に背景 に存在 す る。武 士道 はある側面では個 人エ リー ト主義であ り, 初期の柔道家 たちの出身社会階級 での行動様 式 と慣例 に合 っていたのである。一方,戦後 の混乱 と社会の衰退 とい う状況が,かえって, フランス人のアイデ ンテ ィテ ィ回復 の方法 と しての柔道 を位置づ けたのではないだろうか。 アダムス ・ペックの著書 『 禅,神秘の愛』 4 6 フランスにおける柔術 と柔道の起源 (4) ロバー ト・ラセールの著書 『 当身と柔術』 ジョルジュ・ スウリェ. ド・ モランの著書 モーリス .フィリップの著書 『 中国針灸概論』 『 豊腹と活』 が『中国針 ルジュ ・ス ウリェ ・ド・モ ラン1 1 ) 東洋的模範 を象徴する もの もまた同様 に広 灸概論 』 ユ2) の中で初めて紹介 した新医学療法, まった。時には控えめに,時にはこれ見 よが こういった ものが暖味なまま集 まった 「 東洋 しに,道場 は常 に学びの場であるかの ように か らの文化」であった。柔道は,精神の英知 装飾が施 されていた。多 くの場合は簡素 に, の結果で もあ り源で もある一種の肉体の英知 壁 には歴代師範の写真,漢字 と版画 を組み合 に結 びついていた。 わせた絵画が飾 られていた。 日本 を参考 に し た異国趣味の装飾ではあったが,急速 に全国 個人」 とは異 な 多 くの熱心 な柔道家 は,「 に広 まった。 しか しなが ら,装飾は必ず しも る概念,つ ま り西洋で模範 とされているこの ふ さわ しいものではなかった。例 えばマルセ 概念 に代わる 「 調和」の探求 に取 り組んでい イユでは,アラビアの三 日月刀を振 りか ざし, った。知識人の中には,柔道の動 きに哲学 を 燥 びやかな ドラゴンに取 り囲まれた仏陀の 肖 見出す者 もいたO身体への関心 は, これ とは 像が飾 られ,生徒たちの切碇琢磨する様子 を 別 な形で高 まった。その多様性 に,柔道家 は 見守 っていた。 不可思議で未知の東洋 に関心 を抱 き,夢 中に なった。アダムス ・ペ ック1 3 ) の著書 『 禅,柿 もう一つの神秘的要素 として 「 気合い」が 秘の愛』 14 )は多 くの柔道家 に読 まれた。ある あ り,練習で幾度 も繰 り返 し発せ られる。稽 者に とっては,グルジェフユ5) や鈴木ユ6), また 古の終 わ りに川石師範の指導の下,生徒たち ヒン ドゥー哲学者たちの理論の応用 を探求す は絞 り出す ような大声 をあげる。公開デモ ン る人のための手引書 となった。中には, ヒン ス トレー シ ョンで は,ジ ャ ン ・ド・エ ル デ ドゥー教の修行場で隈想 にふける者,柔道 に イ 17)が しば しば攻撃者 に扮 したのであるが, 魅かれ,精神面か ら探 ろうと禅師に師事する この攻撃者が師範の 「 気合い」 により,一見 者 もいた。追い求めては突 き放 される哲学的 雷 に打 たれたかのごとく崩れ落ちた。 また, 領域は, この時代 の大 きな特徴の一つであ り, フランス ・レーシングクラブ18) の柔道部創設 好むと好 まざるにかかわらず,すべての実践 SNPJ)19' 者であ り,柔道指導者全国組合 ( 者か ら柔道文化の中心部 をなす もの として受 の代表で もあるア ン ドレ ・メルシェ2 0 ) の よう け入れ られていた。 に,テ レビでのデモ ンス トレーシ ョンを行 う 4 7 細川 ことを厭 わなか った者 もいる。 ジャン ・ノオ があった と口を揃 える。人格 を見極 め,各 自 ウエ ン21' の求めに応 じて, メルシェは黒帯 の の意見 を引 き出 し,川石の考 えを認め させ る 一人である レオ ン =アルベ ール ・メ イエ ー22) 術 を心得ていた。創立の父 とみな し,「師範」 に絞め技 をかけた。意識 を失 った,す なわち と呼 び慕 う弟子 たちに確 かな道徳的影響力 を 「 落 ち」たメイエーか ら手 を離す と,メルシ 持 っていた。弟子 は川石 を畏敬 し,崇拝 した。 ェは後 ろに下が り,大 き く息 を吸 い込み, メ イエー を気絶か ら瞬時 に蘇生 させ る活 をかけ 外 国での滞在 により,川石 は西洋人の考 え た。 この 「 活法」 は聴衆の心 をつかんだ。弟 方 と行動指針 を学んだ。 しか し彼 にはその時 子の カー レーサー, シャルル ・ド ・コル タン 代の 日本 人の伝統 と行動様式が深 く身体 に染 ズ2 3 ) と共 にパ リ ・アルジェ ・ケープタウ ンの み付いていた。川石 はフランス人柔道家 にと アフリカ縦断 ラリーを した ことで知 られるメ って規範であった。闘いか ら生 じる価値 同様 , ルシェは,柔道 を一般 に普及 させ るために, 柔道精神 を決定す る慣習 と行動様式 を伝 えた。 積極 的にテ レビに出演 を した。 ア メ リカの 人類 学 者,ル ー ス ・ベ ネ デ ィク ト24 ) は,その著書 『 菊 と刀』 川 石 師 範 2 5) で 日本 文化 を 支配する規範 を分析 した。ベ ネデ ィク トによ この複雑 な個性 を持つ柔道家達の中で,川 る基本概念 の一つ は,フランス柔術 クラブの 石造酒之助 の役割 を明確 にす るのは難 しい。 会員の相互関係 を形成す る要素 に見 られる。 川石師範 は口数少 な く,発言 をす ることはあ それは義務 の概念である。その存在や行動 に ま りなかった。寛大であ り,理解があった, より川石師範 は,師は弟子の成長 を助 け,弟 しか しいつ も近づ きがた く,厳格 であった。 子 はその恩 を感 じる とい う関係 を取 り入れた。 川石 を知 る人々は,川石 に人間関係 を築 く才 柔道家の身分 はその属するグループに より定 叔技は多くの柔道家を魅了した 48 フランスにおける柔術 と柔道の起源 (4) C め られる 「 誰々の弟子」,師の資質で弟子の 柔道の上下関係はこの不文律 によ り確固たる 格が決 ま り,同様 に,弟子は師が与 えるイメ もの となっている。 ージを守る責任 を負 う。 どの柔道家 も,自身 の階級,柔道技術,名前に義務があるだけで そこでい くつかの態度が理解可能 となる。 な く,師に村 して も義務がある。「日本で徳 フランス中部地方の三名の柔道家が昇段試験 とは,相互に恩義 を負った者たちの大 きな世 を受けるためにパ リにやってきた。二人は黒 罪,すなわち祖先 も現代 に生 きる者 も含めた 帯 を取得 したが,一人は不合格 となった。 し 大 きな世界において,自身の地位 を認識する か し年長のこの不合格者が二人の指導者であ ことである。 」 とベ ネデ ィク トは述べ ている。 った。内々に師の不合格 を知 らされた二人の フランスレスリング連盟内に 「 柔道 ・柔術部門」が誕生 4 9 細川 合格者 は川石師範 に面会に行 き,状況 を鑑み へ加盟す ることが義務づ け られた。 こうした るに黒帯 を受 けるこ とはで きない と伝 えた。 新 しい措置 はフランス柔道進展 に決定的な役 そ こで川石は三名 を合格 させ ることを決定 し, 割 を果たす ことになる。 その条件 として三 ケ月以内 に初段 としての技 術 と知識 を完全 に習得 す るよう命 じた。名誉 最重要課題 は全国組織 を有す ることであっ は保たれ,規則 は守 られた。師は弟子 の とっ た。法律 は即座 に施 行 され なか った。 しか し,1 9 4 2 年 4月, ジ ョゼ フ ・パ ス コ大佐2 8 ) の た行動 を知 る由 もない。 教 育 ・ス ポー ツ総委員 会 道場 を離 れて も, フランス人柔道家が通常 , ( CGEGS )2 9 ) の委 員長就任がスポーツ進展 における政府の介入 師 に対す る義務 を遂行す る数多 くの例があっ を加速 させ た。柔道はまだあ ま り普及 してい たであろう。 この ような共同体的つ なが りは, なか ったため フランス政府 は独立 した連盟 を 特 に日本 的な もの とい うわけではないが,こ 認めなかった。政府 は既存 の組織へ の加盟 を の共同体 的連帯 とい う文化的背景が,受 け継 命 じた。そこで1 9 4 2 年春 「 柔道 ・柔術部 門」 いだ行動様式 に力 と永続性 を与えた。 この力 が フランス レス リング連盟 ( FFL)3 0 ) 内 に誕 と永続性が初期 フランス柔道文化特有 の一側 生 した。ポール ・ボネ =モー リ31 ) がその代表 面 として表れている。初期の フランス人柔道 となった。 , 家 は, 自身が体得 した 「 柔道精神」 に従 うこ とを誓 ったo柔道家たちは嘉納治五郎 師範の 新 たに確立 した法的枠組みは要請があった 方針 に従 っていたが,何 よ りもまず川石師範 か らだが,その一一 万で フランス柔道の最初の の弟子であった。 フランスでのスポーツ組織 全国組織が迅速 に設立 されたのは明 らか に他 の発展 は, フラ ンス柔術 クラブで指導 された の影響があったに違い ない。 柔道が どの ように社会に認め られたか を探 る 格闘技 とイデオロギー ことによって導 き出 される。す なわち,柔道 の発展がその模範 となっているのである。 実際, ヴイシー政府 と日本で取 り交 わされ た合意32)も加 え, ドイツ占領下 の特殊 な状況 指導者,師範,弟子 の もと,新組織が フランス柔術 クラブに取 っ ヴ イシー政府2 6 ) は教育の知性偏 重 をやめ, て代 わ り, また活動 に規制が及ぶ危険がなか 価値観 の教育 と,生徒 の身体能力向上 をよ り ったのであろうか。二つの大戦の間, ドイツ 重視 した。「国民 革命 」 も とに,育 のスポーツ組織 と日本式実践法へ の関心が, 少年の心身育成 に必要不可欠な要素 と してス よ く組織 され, より発展 した柔道 を ドイツで ポーツを選 んだ。若者 に努力,勇気,男 らし 生み出 していた。1 9 3 2 年 8月,すでに欧州柔 さへの関心 を再 び もたせ,物欲 ,安易 な金儲 道連合 け,個人主義 を避 けるよう教 える必要があっ た。 フランクフル トでの夏期合宿 には様 々な 2 7 ) の名 の ( UEJ )3 3 ) の基盤 と地位が確 立 してい たQそのため にはスポーツの理想 を再度見 出 国か ら柔道家が参加 した。数々の国際試合が す ことが望 ま しか った。そこで,1 9 4 0 年1 2月 行 われ,1 9 3 4年 には, ドレスデ ンで欧州選手 2 0日の法律 ,いわゆるスポーツ憲章で,実践 権が開催 された。その 4年後,欧州柔道連合 内容 を再編成 し,悪評高い堕落 した職業意識 の副代表の フリー ドリッヒ ・ブ レム朗) は新連 や,多 くの指導者の出世主義 に立 ち向かわな 合の指導委員会への就任要請のため, フラ ン ければな らなかった。責務 はスポーツ協 会 に ス柔術 クラブの創始者 に連絡 を とった。 課せ られた。以降,スポーツ協 会は国民教育 閣外大臣事務局か ら承認 を得 て,公認の連盟 連合設立 の背景 に危倶の念 を抱いていたモ 50 フランスにおける柔術 と柔道 の起源 (4) シェ ・フェルデ ンクライス35) はこの申 し出 に す るが,人間関係 を教 えたのである。( 中略) 導 の組織へ の参加 を望 まなか った。スポーツ 』 『闘い 傷 つけるこ とな く, 自分 の身 を守 る』 『 命 をかける』,我 々西洋 の人間にと に勝つ』 実践 に重 きを置いた国家社会主義教育の構想 ってこれ以上 に尊厳 に借する資質はない。 フ を承知 してい たか らだ。突 撃 隊 ( sA)3 6 ) で ランス人か ら見る と, この ようなことが柔道 の体育 と格闘技訓練 について,男 らしさや人 の奥義 なのである。そのために, この精神 に 格形成 に有効である と賞賛 していたア ドルフ 9)に柔道 を導入 し 共鳴 し,委員会は国立学校3 応 じなか った。パ リの柔道家 たちはこの欧州 組織 の存在 を知 っていた。 しか し, ドイツ主 9 2 5 年 ・ヒ トラー は1 ,『わが 闘争 ) の中で 』 3 7 相手 を 『 武装 した敵 に対 して丸腰 で闘 う 『 たのである。 」 次 の よ うに断言 してい る。「ボ クシ ングや柔 術 は私 に とって射撃訓練 よ り重要であると思 教育 ・スポーツが柔道 を好意的 に受け入れ 」( 中略)「肉体 の鍛錬 は 自己 に優越感 を う。 たことは,川石の活動や独 占状態であったそ 与 え,そ して 自己の力 を自覚す る ときその優 の指導 に競 い合 う活力 を生み出 した。 ロジェ 越感 は自信 となる。 」 ・ヴェルニ ェ4 0 ) は次 の ように語 る。「ア ンテ ィーブ市41)の陸上競技 国立学校42)の校 長が ジ もともと,実戦 に役立つ とい う柔道 の価値 ョアンヴイル軍隊体 育学校 43)で嘉納治五郎 師 が,パス コ大佐 の教育 ・スポー ツ総委員会 の 9 4 2 範のデモ ンス トレーシ ョンを見学 した。1 興味 を引いた。委員会 の報告書で ジ ョルジュ 午,校長 はマルセイユ に日本人の指導者がい ・ボ ノー3 8 1 は 日本式実践法 の長所 を述べ てい ることを知 った。 ( 中略)その指導者 をア ン 我 々フランス人 を深 く魅 了 した柔道精 る。「 テ イープに呼び寄せ た。週二回, タケヤス 3 神 について,普遍的 ・人間的観点か らのみ, 段44)が我 々 に柔道 の指 導 を行 った。 」1 9 4 3年 ここでは示す ことにす る。 日本 の武士 の精神 4月1 7日, ヴイシーにおいて,仏政府要人 と を強靭 に した教育 は三重 に行 われた。闘い方 日本軍武官 ノウマ タ45)の前 で演武 を行 ったの と知恵 を授 け,そ して,なによ りも考察 に値 はこのタケヤスである。 9 4 4 年 ラ ・クロワードー ベル二 選手宣誓式典で行進する柔道家 1 51 細川 占領下における柔道 解 を招かないように した上で,限 られた人々 の前 での特別 なデモ ンス トレーシ ョンに限 占領下のパ リでの護身術の授業 はフランス る。 」 ジ ャン ・ド・エルデ イに よ り指導 され 柔術 クラブの指導者 に別の問題 を投げかけて ていたナ ンテ-l ル46)の クラブの出席簿が現存 いた。運営の状況は微妙 なものだった。護身 するが,活動が極めて制限 されたこの数年間 術は ドイツに対する抵抗運動 とみなされたこ は白紙である。ルーズ リーフに記 されていた の時期,いかに柔術 クラブの閉鎖の危機 を回 名前 は決 して再び戻ることはなかった。 避するのか, また,いかに純粋 にスポーツの 団体であることを認め させ るのか。そのため フランス レス リング連盟-の統合は,すべ 川石道場で公式発表会が開かれた。柔道家の ての柔道家の本意ではなかった。 しか しこの 中には非合法で活動す るもの もいたので, ド 選択 とポール ・ボネ =モーリの先見の明 によ イツ軍高官の警護のため厳戒態勢が とられる り,更なる統合 を避けることがで きた。スポ 街で,当 日に検問 を受けることは非常 に危険 ーツ組織だけが柔術 に関心 を示 したわけでは なことであった と柔道家は当時 を語る。 しか ない。1 9 4 3 年以降,親独義勇軍47)の兵士や, し, このデモ ンス トレーシ ョンはクラブ閉鎖 その下部組織であるフラン ・ガル ド4 8 ) の士官 の不安 を一掃 した。 クラブは監視下 に置かれ 候補生たちが数 ヶ月に及ぶ実習 に参加す るた たが,閉鎖は免れた。 め,サ ン ・マル タン ・ドゥリアジュ49)の城 を 訪れている。柔道の指導 はその養成所の プロ クラブの活動 は,慎重 さと控 え目が鉄則で グラムに再び採用 された。サ ン ・ル ウ ・ラ ・ あ り, この指示 は他の柔道団体 にも伝 えられ フォレ5 0 ) の親独義勇軍士官学校の士官候補生 た。「 活動の技術 的性格 を きちん と示 し,誤 もまた柔道の授業 を受けたことがい くつかの ジル ・モレルによるデモンス トレーション 1 945年 ツルーズ 5 2 フラ ンス にお け る柔術 と柔道 の起 源 (4) オダ ・アルハンブラ柔道 クラブ 1 9 5 0 年代初頭,1 0 0 人以上の有段者が集結 した 新 開 に報 じられ てい る 。 こ う した例 は数 も少 な く特 殊 で あ るが事 実 であ り,柔道 の将来 的 な イメー ジ と して は確 注 釈 1)Cl aude Thi baul t フラ ンス にお け る柔 術 と柔道 の起 源 (3)参照 9 4 4年 9月 ,「ド 実 に脅威 と見 な され ていた 。1 2)L' Aube イ ツ占領 下 の柔道 部 門の活動 につ い て」 の報 3)A n dr 6Chas s ai g no n 告書 の 中で, ポー ル ・ポ ネ =モ ー リは この時 と して柔道 を利 用 しよ う と してい たのだ」 と 4)Co l l 占 gedesc e i nt ur e sno i r es 5)Ri e nquel at e 汀e 6)paulMo r and 7)He nr iMi c hal Ⅸ 述べ た。 「 我 々の非 常 に優 れ た技 術 の お か げ 8)UnBar bar ee nAs i e で,強 く推 し進 め られ てい た この柔道政策 を 9)A n dr 6Mal r aux 妨 げ る こ とが で きた 。 」 イデ オ ロギ ーが変 化 1 0)LaTe nt at i o ndel ' 0c c i de nt し,活動 に政治色 をいれ ない とい う同 じ考 え l l )Geo r gesSo li u 6deMo r ant を有 す る団体 の加 盟 に よ り危機 が 回避 され た 1 2)pr 6 c i sdel av r ai eac upo nc t ur ec hi no i s e 1 3)AdamsBec k 期 を振 り返 って い る。「 1 9 4 3年 に深 刻 な問題 が生 じた。 ノウマ タ武官 が プ ロパ ガ ンダ活動 にす ぎない。誇 り高 いが の ん きな若 い アス リ ー トが ヴ イシー政府 に強制 され,軍 人か ら軍 隊式返 礼 を受 け る様 子 を撮 った数枚 の写真 だ けが ,困難 だ った時代 をか ろ う じて物語 って い る。 1 4)Ze nnamo ur smys t i ques 1 5)Gur d j i e f ロシアの神 秘 学者 1 6)Suz uki 日本 人仏 教 学 者 ,鈴 木 大 拙 と 思 われ る 1 7)Je andeHe r di 1 8)Rac i ngCl ubdeFr anc e 53 細川 1 9)Syndi c atnat i onaldespr o f es s e ur sde o mmi s s ar iatg6 n6 r ala l ' Educ at i o n 2 9)Lec j udo(SNPJ) 2 0)A n dr 6Me r c i e r 3 0)F6 d6 r a t i o nf ra n9 ai s edel ut t e( FFL) )JeanNo hai n 21 2 2)Li o nlbe A r tMe ye r 2 3)Cha r l esdeCo r t anz e g6 n6 r a l ee ts po r t i ve( CGEGS) 31 )Pau l Bo n6t Ma ur y フランスにお ける 柔術 と柔道 の起源 (2)参照 32)1 9 40年 9月2 2日, 日本 はヴ イシー政府 と 2 4)Rut hBe nedi c t 目 ・仏 印軍事協定 を結 び,仏領 イ ン ドシ 25)LeChr ys nt a h占 mee tl eSabr e ナ北部,続 き南部 に進駐す る。 イ ン ドシ 2 6)Leg o uve r ne me ntdeVi c hy ヴ イシー ナの覇権 と石油 ・ゴムな どの資源確保 , 政府 また中国- の援助 ルー トを寸断す るこ と 1 9 4 0年 6月2 2日, フラ ンスは ドイツ軍 の を狙 った ものであ ったが, この進駐 はア 0 攻撃 によ り休戦協定 を結 び,同年 7月1 メ リ カ の 対 日石 油 輸 出 全 面 禁 止 と 日, フランス中部 ヴイシー に首都 を移転 ABCD包 囲網 と呼 ばれ る連合 国 に よ る し,ペ タン元帥 ( P6 t ai nI1 8 5 6-1 9 51 ) 経 済封鎖 を招 く。 これ らが 日本の太平洋 を国家主席 とす るヴ イシー政府が誕生す 9 4 4年 戦争 開戦への要 因の一つ となる。1 労働 ・家 族 ・祖 国」 の ス ロー ガ ン る。「 8月, フラ ンス共和 国臨時政府 の首相で の国民革命 を実施す るが,事実上 は ドイ ある シャルル ・ド ・ゴール ( Cha r l e sde 9 42年11月, フ ツの悦偏 政権 であ った。1 8 9 0-1 9 7 0) に よ り, 日 本 と Ga ul l e・1 ランス全土が ドイツ軍 に よ り占領 され る。 ヴイシー政府 との協定無効 宣言が行 われ 1 9 4 4年 6月,連合軍 による ノルマ ンデ ィ た 5日のパ リ解放 の後 , 9月 ー上 陸 , 8月2 。 にヴイシー政府 は崩壊す る。親独 ペ タン 3 3)Uni o ne ur o p6 e nnedej udo( UEJ) 3 4)Fr i e dr i c hBr e hm 9 40年 9月27日, 政権 が誕生 した直後 の1 35)Mo s heFe l de nkr a i s フランスにお ける ナチ ス ・ドイツ, イタリア, 日本 に よ り 柔術 と柔道 の起源 (2)参照 日独 伊三国同盟 が締結 された。互 いの ヨ 3 6)St ur mabt e i l ung ー ロ ッパ ・アジアにおける指導的地位 を 37)Me i nKa mpr 認 め,政治的,経 済的,及 び軍事 的援助 3 8)Ge r o ge sBo nne a u を行 うこ とと した ものであ る。 日本 と同 3 9)Co l l 色g eNa t i o na l 様 に ドイツ もアメ リカを牽制す るのが狙 40)Ro ge rVe r g ne )Ant i be s フランス地 中海沿岸の都市 41 いであ った0 6月にフラ ンス ・イギ リス に宣戦布告 を した イ タリアは,続 いてエ ジプ ト ・ギ リシアに侵攻 し,地 中海支配 9 41 年1 2月, 日本 はアメ リ を目指 した。1 カ ・イギ リス ・オラ ンダに宣戦 を布告 し 42)Co l l 占 genat i o nald' At hl も t e s 43)Ec o l edeJo i nvi l l e フラ ンスにお ける柔 術 と柔道 の起源 (2)参照 た。三国同盟 に よ り ドイツ ・イタリア も 4 4)Ta ke yas u 不明 45)No umat a 不明 宣戦布告 を し, ヨー ロ ッパ ・ア ジアの広 46)Nant e r r e パ リ西郊 の街 範 圃 に及ぶ第二次世界大戦へ と発展す る 47)l aMi l i c e のであ る。 48)l aFr anc Ga r de 2 7)Re vo l ut i o n nat i o nal e ヴ イシー政府の 施策。ス ロー ガ ンは「 労働 ・家族 ・祖 国」 2 8)Co l o nelJos e phPas c o t 4 9)sa i nt Ma r t i nd' Ur ia ge フ ラ ン ス南 東 部 の街 5 0)Sai nt Le u1 aFo r e t パ リ北郊 の街
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