もんじゃ食べるはスピリッツ

もんじゃ食べるはスピリッツ
レポーター
禿の鶴
(1)
某年暮れ、12 月 22 日、例によって例の貴婦人トドちゃんと、「思いつき浅草もんじ
ゃの会」を催した。
「思いつきというのはよろしくありません、何でも計画的に行うのが人間として徳の
ある生き方なのです。」とばかりの教育に辟易させられて生き続けてきたこの身にとっ
てすれば、きわめて有徳な行動に打って出た次第。「思いつき」で、いや、平たく言え
ば、「ねーねー、なんかさぁー、もんじゃ、食べてみたくなったんだけど、おつきあい
下さいなー。
」という言葉と共に、貴婦人を浅草まで連れ出したのである。
アテにする店はあった、いや、そこしか考えつかない、いやいや、そこしか知らなか
った、ここ2年で2回しか行っていないその店は、しかし、つい最近、店じまいをして
しまっている。
アテが外れた場合にどうするか。鶴はこういうことだけは執念深い。「もんじゃが食
べたい、食べたい」とわがままを外言する。貴婦人は、そのわがままを突き放すのでは
なく受容するという、今や幻的存在の優しい大和撫子なのだ。あちこちをさまよい歩い
た結果の最後の手段、雷門側の交番に行き、「このあたりでもんじゃ焼きが食べられる
店はありますか?」と貴婦人が訊ねた。確かおまわりさんは「もんじゃ焼きじゃなくお
好み焼きならあるけど」と応えたように聞こえたのだが、大阪でも広島でもない正真正
銘のお江戸には、お好み焼き屋よりもんじゃ焼き屋の方が数はあるんじゃないの?
おまわりさん、そんなことはとくとご承知のはず。では、その謎の言葉のわけは?「あ
んたたちの風体だとサー、二人でもんじゃをつつくって雰囲気じゃないんだわさ」。き
っと、くだんのおまわりさんにとってもんじゃというのは、秘密めいた二人っきりの愛
の儀式のようなものなのだろうと、禿の鶴はおまわりさんの心情を察したのであった。
同感。で、「六××」というお店を、地図を拡げて教えていただいた。その店の名は地
下鉄の側壁広告板にあったという記憶が蘇ったので何となく安心感を覚えた。なるほど、
宣伝効果というのはこういうのを言うのだろう。でも、
「20xx 年 2 月は年中無休です。
」
というようなバカ丸出し表記(案内)をする言語使用の店は、好ましかろうはずはない。
こてこての、今時若者-マニュアル人間-迎合の店と言うべきか。場所は、新仲見世通
り沿いと、雷門からはけっこう離れたところにある。
というわけで、「思いつき浅草もんじゃの会」は、有事滞りあり、臨時会場にて開催
できた次第である。これすなわち、臨時浅草もんじゃの会。しかし、何というのだろう、
胃袋に納めたいという対象はもんじゃなのだけれど、その食行為は全身で行う。とりわ
けスピリッツ-おまわりさんの内言の如く-が重要な役割を果たすものである。「六×
×」で確かにもんじゃは食したし、それなりに味わいがあったのだけれど、スピリッツ
までが満たされたかというと、そうではない。座敷コーナーの小さなスクエアに押し込
められ、座布団がくっつかんばかりのお隣のタバコネーちゃん二人-あれ?おばはんだ
ったかしら?-のトロンとした口ぶりに辟易させられ、あらかじめ時間制限を告げられ
た食行為においては、やはりスピリッツを満たす会食にはほど遠いのである。トド鶴浅
草もんじゃの会においては、
「また来ます、ごちそうさま。
」と言うとしても、臨時も臨
時、これっきり、という扱いになる。
お店の人たちに無愛想に見送られて、ご機嫌をやや損ねたままの二人は浅草の街へと
分け入った。そして、またまた、我ら二人にとっては新しい浅草を発見したことで、機
嫌の悪さはどこ吹く風。わーいわーとばかり、新しい発見に夢中になるのであった。
本当に、
「来るたびに新しい発見がありますねー」。
今回の散策では、こんなのを見つけましたよ。鎮護堂(「おたぬきさま」)。名前にふ
さわしい大きな丸い鈴が、「たんたんたぬきの~♪」とばかりに、一つだけだけど、ぶ
ら下がっておりました。
(2)
余計なこと。もんじゃ焼きのルーツは?たとえば「六××」はその HP で戦後の駄菓
子屋にあると紹介している。果たしてそうかしら?
江戸時代後期に、所はまさに江戸で、貧しい庶民のおやつとして、つまり江戸下町で、
「文字焼き」(もんじやき)なるものが現れた。周知のように、もんじゃ焼きは、小麦
粉をゆるく溶いて、ごたごたと具をあまり入れず、焼きながら食べるものである-昨今
のもんじゃ焼きは「トッピング」を楽しむことによって、「おしゃれな」食文化の一つ
とされているけれど-。
(シーン1)その焼く時の行為、小さなへら(ハガシという)で鉄板に一定程度焼き上
げた塊から一へら取って押しつけて焼くのだが、そのへらで取る際に文字を書いて楽し
んだところから「文字焼き」との名が付けられた。
(シーン2)小麦粉の解き汁(生地)を鉄板の上に落とす時、文字を書くようにした。
「今度はなんて字だねー?」「ほの字だ、おばちゃんに、よ」「おませだねぇ、マー坊」
「あたぼうよ。おばちゃん、いい女!ここはひとつ、まけてくんねぇ」「しょうがない
ねー、1文にしてやるよ。
」
「それでこそほんとの 文 字 焼きだぜ。」
(シーン3)鉄板に生地を円形に落とし、粘り気が出てきたら、ハガシで文字を書く。
読み当てた子どもが食べられる。
遊びながら食べてはいけませんっ!(ないしは、食べながら遊んではいけません!)
というのは、明治以降この方 100 年余の歴史を持つ学校-およびそれにお追従するし
か生きる道がない非生産階級-お得意の禁止命令である。そして江戸期にそれをお得意
としていたのは、数百年遡れば無骨な人殺し山賊集団をご先祖様にいただく殿様やその
庭番(ガードマン兼スパイ)であった武士という支配階級。そんな徳など、庶民はぶち
こわしたわけですねー。ただでこわしたわけではない。「なら、文字を書くならいいだ
べ」とばかり、寺子屋で学んできたばかりの文字を鉄板にこねて書く。得意げな子ども
の姿が目に浮かぶではないか。ここは一つ、江戸川柳など。
洟(はな)垂れて
いろはばかりを 焼く小僧
鶴
い、ろ、はと書いた後、続きが思い出せない。子どもは繰り返し繰り返し、い、ろ、
は、と書く。もちろん、書いた片っ端から、口に入れるのだ。
字の読めないトーちゃん、カーちゃんは、わが子が「手習い」が出来るようになった
ことを素直に喜んでいる。どーだ、うちのガキゃ、なかなかてーしたもんじゃねーか。
だってあたしに似たからネー、この子は。
貧乏長屋のめおとのわが子自慢が続く・・・。
いや、こう言うと、月島(中央区)がもんじゃ焼きの発祥の地なのさ、しかも時代は
明治時代だよ、とか、荒川の下町だよ、いやいや台東区だよ、そんなこと常識ジャン、
ヤッパ明治時代だけど、とかの反論がなされる-どういうわけだか、ジャンジャン言葉
(ハマっ子言葉)なのですねー。あんたんち、ハマ?-。
要は、
「江戸下町」長屋横丁の駄菓子屋文化であることであることは共通している(面
白いのは足立区が名乗りを上げていない?こと。千住こそ、「江戸」のはずれ第一宿場
町、下町風情は今も残ってますよ。もちろん、もんじゃ焼き屋もあります!)。そして、
文字焼きというのが語源だ、とも。
ただ、
「紙が高級品だった時代なので鉄板にメリケン粉<小麦粉>を薄く延ばし、子ども
たちに字を教えていた」という説には、首をかしげてしまう。子ども向けの駄菓子屋の店
先で、鉄板に小麦粉を薄くのばしてそれに字を書いて子どもに教えた、というのだが、で
は誰が教えたのか?駄菓子屋のおっちゃん、おばちゃん?トトオ、カカア、じいちゃん、
ばあちゃん、ねーちゃん、にーちゃん、ただのおせっかいな近所のおじさん、おばさ
ん・・・・まさか、ガッコのセンセイさまではありますまいね。ただねー、
「文字」は、
明治以降、学校では「もじ」との読みが主であったはず。「もんじ」と読ませていた時
代の産物だからこそ、「もんじ焼き」→「もんじゃ焼き」と転じたのだろう。だとすれ
ば、その源は、明治時代ではありますまい。
確かに、明治中程まで、学校では紙のノートはほとんど使われず、石板がノート代わ
り、石筆が鉛筆代わり。子どもたちは帰宅して「文字<もじ>遊び」をするときには道
路に石で字を書いた・・・。こういう時代があったことも確かである。それとこれとが
ごっちゃになってはいないだろうか。聞き取り調査の対象がそういう時代の育ちであっ
たことから来ているのだろうと思う。つまりね、「オレのガキン頃はねー、紙なんてゼ
ータクでねー、石板という石の板に石筆まあ石のようなもので出来た鉛筆だな、それが
学用品だったわけよ。で、な、そんなものいちいちカバンの中に入れて持ち歩けやしね
ーだろー、あ、カバンなんてしゃれたもんなかったねー、風呂敷だな。で、石板や石筆
は学校に備え付けよ。じゃ、家でどうやって勉強したかってぇと、もんじゃ焼きだな・・・。」
というような語りがされて、その語りがいろいろと「お色直し」されて、「オレンチの
もんじゃ焼きの歴史」という形で伝承されてきた次第。
茶化すことになるが、そもそもから言って、下町庶民が学校で学んだことを家庭で復
習する、などという、優れた勤勉性があったとは、ぼくには思えないのですがね。なん
せ「学校に行くようになってお前は役立たずになった」と、親からそしられるのが日常
の、明治時代ですよ。
世界に誇る我が大和国の識字率の高さは、庶民の食文化である「文字焼き」すなわち
「もんじゃ焼き」にも現れていた…というお話。その知恵はアルファベット文字クッキ
ーに継承されていると、お考えになってはいけません。あれは、英語教育狂時代のハシ
リでしかありませぬ。