YMN001003

祇園精舎 の序章と 潅頂 巷の結尾
一目口 臭
とがあるが、それはどこまでも参考に資する程度であ つて、正面か
らとり上げる対象は寛一木である。
寛一木と他の一本たと へば 屋代 木と比較対照する場合、問題は自
構造を、出来るだけ純粋に記述的に分析して見ようと い ふつもりが
の 立場からの考察を一
%排除して、寛一木それ白煙の作品としての
特に対象を寛一木に限定したのは、平家物語の諸本 の成立発展 史
る。
利用しながら、問題を狭く寛一木 は ついて限定した 理 白もそこにあ
に首肯 し難いこともある。その方面の専攻撃者の研究成果の一部を
ない。また陳平家物語の暇定の内容の一面 は ついては 必ずしも直ち
しかしそこには未解決あるいは解決不可能ともい ふべ き 鮎が 歩 く
然 に平家物語の諸本成立登展更 にふれざるを得ないこ とになって 来
あるからである。この二つの立場は混同せずはつきり厘則 しなけれ
網 ︶を 封象として、その主題と構成、特に序章と濯頂 巻 との 照鷹の
ばならない。
寛一本はい ふまでもないが、現存平家物語のその他の 諸本も 、い
一方では寛一木として
濁自 に考察すべきものをもつ てゐる。
寛一木は平家物語の 一異本として他の諸本との共通
マ
寛一木以外の諸本たと へば 屋代本などに舌口及 して比較 を 試みるこ
べて形式上から特定の書き出しをもつ頭指式の作品とい へよう。
づれも祇園精舎の序章をもつてゐる。したがつて現存平家物語はす
貼 をもちつ
るであらう。
寛一本と 略
ⅡⅡⅠ
l
問題を検討して見よう。
潅頂巻を特立する平家物語寛一木系統の諸本︵以下
目戸
寛一大 の樫原巻は平家敗戦後京都に掃った女院 窩係の記事を まと
めたもの であるが、同時に作品全籠 のしめくくりとなってゐる ので
寛一木は 特別の形態の首尾 双括 式の作品となってゐる。
寛一太 のこの序章と 濯頂巻の結尾との 照底開係は ついて、 こ れま
での考へ 方 には、いま少しこまかく考へて見なくてはならない
あるや ぅ に思ふ。
﹁遠く異朝をとぶら ふに﹂以下、和漢の纂 奪者、叛逆 者
﹁おビれる者久しからず::﹂以下、悪しき政治家の
諸行無常盛者必衰を説いてゐる。
問題 貼 をとり上げる前に、序章の構成を分析しておかう。
第一段
第二段
びを述べ
第三段
の滅亡の 先例を拳げて最後に中心人物 清 盛を登場せしめる。
濯頂 春 ほ ついても 大穏の構成を考へて見るに、大原御幸、六 道沙
次が全膿 の中心である。
女院 出家 、大原入御はそれの導入部となってゐると考へられ る 。
濯頂巻最後の女院往生の記事は、これらの一つづきの物語の 結尾
であると 同時に、作品全籠の結びとなってゐる。
したが つて普通には、序章冒頭第一段の諸行無常、盛者必衰は寛
一木にお いては、 濯頂巻最後の章段の女院往生の結尾と前後燕底 す
ると考へ る。しかし、寛一木の序章は濯頂巻を特立しない屋代 水な
どと全然同一であるから、もとのまま平家滅亡の結尾 をもつて,
ワ
とめられるのが営然 であり、女院往生と序章を結びつ
であるとか、あるいは必ずしもそれは文里的にすぐれ てゐないと
いふ見解が柑富有力である。
わたくしは、寛一木においては序章は女院往生に結び つくと考
る。しかし寛一木の序章においてはたとひ濯頂巻の結 尾の女院往
の浄土教的けはひが感得せられることを認めるにして も 、清盛の
葉薦報 による平家滅亡の主題を提示した序章全膿 の意 味が前提と
って存在しなければならない。換言すれば、女院往生は、序章全
を讃み終った後の鈴情としてくみとられるべきもので ある。
逆に裏からい へば、序章第一段の無常、盛者必衰だけ
謹んで、序章金肥の意味の媒介なしにいきなり女院往 生を想起す
のではない。そのやう な讃み万をすれば、第一段から 第二段にう
る前に、途中で文脈が中断され、女院往生講的なもの
ふことになる。
女院往生譚は平家滅亡後の後日 譚 の一つともいふべ きもので
り、平家滅亡といふ平家物語の正篇的部分の一億の結 末を契機と
て附加きれたものであるから、序章は平家滅亡の主題 を示すとい
はならない0
もとの意圓 のままに讃 み、途中でそれ以外のものへ文
一
一一一一
け
か 理
悪 生 へ
な
網
に
る
つ
ま
め
し
ふ
て
従来の解樺はこの鮎の者へ方があらい。
作品の本文の讃
み万、解樺は幾通りもあり得るから結
、果として
開の
は展
出来るだ
同じことになるかも知れないが、この序章の文脈
けこまかく注意し讃
てむべきであらう。
三四
平家物語の組織戯話と闘文寧 おざ1の佐々木八郎 平家物語の
のなどにP
もo
とり上げられてゐる。
新研究上 か
%
1㏄
.
富倉徳次郎は、平家物語の
頂濯
巻について闘文 睾踏査ト0㏄
も必要のものといへないといふ。
文の
であること
節
が
におる
いて、この一節が寛一大作者の増補した猪
水首
濯巻
頂は結尾場
を
、
ム
考
女
ロ
へ
院る
往生の
一
章問
段題
のと
あ
百、
二十句本
を指摘してゐる。屋木
代、鎌倉木、平松木、竹柏国本
してとり上げち
られる。すなは
のこ
一節はあら
を人
は々
ねは
抑壇
に浦
て生ながひ捕られ頭
し
、
大
路
を
渡
し
て
はも
とよ
り、
延慶
木
、長
門木
、源
平盛衰記などにも
はれ池
て来大
ない納
。 言
命
を
られ、妻子を離れて
コ外
遠
のは
流も
一
せ人
らた
る。
の
御事は 富倉はその内容を章段に分割された記事の位置注か意らして、こ
人れ
のず
達
女
房
すけられず都に置飴
か
、
さ
れ
ど
も
四
十
しし
てと
も必ずし
れは従
大原ひ
御幸縁
の結に
末と就
してい
も、て
女院往生の書き出
お
ぞ
沙汰にも及ばぎりしかば
、は
親し
類け
に
富倉は寛一木作者のこ一
の
・節が作品全哩の結尾近挿
く入
へされた
ことをつぎのや
うに説明する。
ます
一い
つの悪
平家物語の構成は、無常観の他にそれと表裏をな
囚恵果、善因善果とい蕪
ふ報親がるって、この二つ原
の理によって
窟されてゐる。
濯頂巻の最後の女院往生の記事
、は
諸行無常、盛者
これだけで
必衰と
とい芸
ふ無事
常観の結びであるが、作樫
品と
全しては、
なに
し報
とふ
ぎりし前
が
な致
り
父
祀
す
。の罪業は子疑
孫
は不十分で、いま一つ因樵
果教観の上からのしめくり
くとして・こ
ぞ
見えたりける。
の
物語の諸大全般についても、また寛一木に閲していつても、
物語である。
て分割するならば、この一節は内容からい へば女院往 生では
その前の章段にあるべきものである。女院往生の章段で實際
ことを述べて ぬ るのは、最後の一部分にすぎない。
柏寓するものであり、六道
物語下日本古典 文掌大系 トのの
0 のこの一節の頭註に は、こ
0章段六道沙汰の結文に
遺物語は濯 頂巻の最も重要な眼目の部分であるとい っ て る
・だしその位置が、つぎの女院往生の中にあるのは便宜
こ の 一節
一木の作者が六道物語の結びとするためにそのやう な形 式に
一節の位置は女院往生の章段にあるが、内容的には前の章段
この
たのであらりとしてゐる。
寛
出しが六道講式の結文を起す形式に類似してゐることを 指摘
かさるは、平家物語の基礎的研究 トきりにおいて、
てゐる。
る
ならうし、
の書き
渥美
のとし
。た
中の六
れは前
平家
往生の
なく、
強ひ
づきの
ずしも
9@
ょ
一う
拘泥する必要はない。大原御幸、六道沙汰、女院往生ヰ
一部分
に異同がある。したがつて現存 本 に考へられる章段分割に必
ら完備
してめたとは思はれない。これを畝 くものがあり、 あ つても
巻頭に
おける目次の表示、章段分割、本文中の章段名 記入が 最初か
平家
を女院往生の前へ挿入附 如したものであるといふ。
一節
の中の六道物語とつながりがあることになる。
寛一木における濯頂巻の特立は、女院閲係の記事を巻十二の諸所
から抽出しよせ集めて年代記的に排列したものでなく、内容的にも
平家物語今世の最後の牧約的なものとなって ゐる。すなはち六道物
語 において、女院一生の運命の浮沈を六道輪廻にたとへてゐるが、
女院の生涯はすなはち平家の盛衰の縮圃 である 平家部落以後の壇
浦の敗戦滅亡に至るまでの女院が購験したいろ いろの事がらや場面
が六道輪廻の相として一通り抄録的に記されてぬる。
因果観と無常観との雨面からのしめくくりは決して別々のはなれ
ばなれのものでない。因果生滅するが故に無常である、無常なるが
故に一時の螢花 はあっても結局苦 忠を免れ得ない。それ故に生死流
縛の世界を脱却してこれと次元を異にする絶対眞實の世界への 救
したがつて濯頂巻の中心部をなす六道物語の結文は同時に、平家
ひ、すなはち浄土往生を欣求することになる。
物語合肥の結尾ともなるといへるであらう。
寛一木の結尾は多層的に考へられる。濯頂巻金盤が 一つの結尾で
あり、それ自 肥の中に女院往生の結尾を含み、中心部である六道物
このやう に考へて来ると富倉の考へた無常観と因果観による二つ
語の結尾と表裏一%となってゐる。
の結びはそれ程かけ離れたものでなく、もつと密着させて考へる べ
三五
寛一木の序章は雇頂春 めこのやう な二つの結ひと照底 してゐる。
宜し、﹁春の夜の夢﹂﹁風の前のちり﹂にたとえられる結果を
鮎からながめており、さらに﹁おどれる人﹂﹁たけ き さ白﹂に限
い さ め をも思ひ入れず、 天 下 の 軋 れ
そ して﹁ こ
、 上は一人をも恐れず。
これに
下は萬
父祀の罪業は子孫に報
的のものとなってを り、結局、寛一大は原作に勤して なくもがな
しかし 濯頂巻全哩の主題はこれと全く異なった 現實逃 避的な往生
いつてゐる。
治 批判である。
の考えをはつきりと書いている。この作者の意圓は明 らかに 政
ふといふこと 疑 ひなしと ぞ 見えたりける。﹂︵ 濯頃 の 巻 ︶ と作者
もはばかられざりしが致すところなり。
民をも顧みず、死罪・流刑・思ふさまにおこなひ、世 なる人を
一天四海をたなどころに握って
照臆 して、 建禧 門院の述懐のあとにも﹁これはただ 入道柑國 、
さきの太政大臣平の朝臣清韓が クローズ・アップされ。
ねら﹂の反逆の人々の中で最高の代表者として六波羅の 入道、
久しからずして亡じし 者 どもなり﹂となっている。
むことを悟らずして、民間のうれ ふるところを知らぎ
従 はず、楽しみをきはめ、
すなはち清盛の悪行による平家の滅亡を媒介にして擢頂巻の女院往
諸行無常と言っているが、それはむしろ盛者必衰 とい,っ
ヘ
生む原因としては,﹁これらはみな菖主先皇のまつり どとにも
きてあらう。
/"
-""
生の最後の結尾に結ひつくのてある。
いて | その 悲
著 しく異なった
寛一木の序章と濯頂巻の結尾との 照蕪靭係は 、このや,っに見る以
外に異なったものはあり得ないと思ふのてあるか、
畢 おのの
1のなどか 拳 けられる。
解澤 の一例として、桐原徳重の平家物語の評論につ
哀の問題1回文
桐原は序章は屋代 木、寛一木いづれにおいても現世的政治批判に
重貼 かあると考へてゐるやうである。
雇頂巻を特立せず六代彼所 で終る屋代 本は 、序章も結 尾も政治 批
判 に終始して首尾一貫した構想かあるとする。
寛一木の擢頂巻と序章の照 魁は ついても、 清 盛の悪行 想報 による
平家の滅亡を述べた、さきに問題としてとり上けた結 ひ にのみ無稽
はあるとし、いま一方の女院往生の結ひは、それか存 在するにもか
かはらず序章と照西 してゐないと ぃふ 。︵以下二つの 結びの前者を
X 、後者を X とする。︶
桐原は
と
ものを附加して作品の性格を歪めたことになってゐる といふ。
の 譚
作者の意圓は現世的政治批判だけではな
を書いてるるのである。
成程、 濯頂巻 の主題は往生講的のものである。しかし女院開係の
記事、特に六道物語は、さきに述べたやうに、清盛の悪行騰報 によ
さきに述べた やう に X は無常観、 X は因果
思想へ結びついてるるのである。
|
序章は、無常盛者必衰
悪しき 政
として一 % のものと 老﹂へたであらう。そし
く、 二つといふよりは、それ以上に因果は
るといふ考へから、作者としてはこの二つ
二つ別々に離して考へるべきでない。因果
る平家の滅亡 と いふ根木主題とかけ離れたものではない。現實肯定
的に見える叙事精祀の背後にも、無常観、因果観 が土台として存在
してゐる。
この二つを 坊り離して、一方だけを強調するのはかへ って作品を
歪めて 讃 むこと になる。
祇王、小督、 特に前者を全膿から切り離して誼 めば、その中から
中世人にしては個性の強い特殊な人間像、あるいは庶民的生活の反
清盛の悪行昨報による平家の滅亡を豫告し
て
ら
映が ぅか がはれ るであらう。
第一段の諸行無常は桐原のい ふやう に直
ね、第二段においては、それがきらに﹁お
佛法と 王法は不二、車の
すは はち悪しき政治家の没落滅亡に限定せ
作者にとっては、
きものであって、それは佛教の三世因果の
X,
然
ら
る
に
と
@乙
に
る
の 常
ふ
結
尾
も
老ゆ
Ⅰ・
しかし、それは平家物語今世の筋立てから老,
へれば、部分的、素
射的なものにすぎない。これらの説話は女性往生講 でありながら、
全儂の構成から いへばそれだけにとどまつてをらず清盛の悪行の具
理的 例示となつ てゐる。しかも祇 王、小督は作品の途中に一挿話と
して介在するに反し、濯頂巻は作品の結尾の部分に作品の根木主題
である情感の 悪何%報 による平家の滅亡にかたく結びついて重要な
ウェートをもつ て存在してゐるものである。
また、その因果観は無常観 と 一% のもの
ら
往
で で 風
生 の な あ に
岸
的
ナ
寛一木 准頂巻 の二つの結尾X、X の中から、後者だけをとり上げ
す
な
つ
"@
の浄土思想への志向を含んで ぬ る。
無常観と、現世的の政治的、倫理的批判
盾
と
に
異
常
の
る
盛
る
て
な
に
包
へ
り
封
てこれを 根去 にして、作者の意圓は現世的政治批判であったといふ
のは臨安昔日でない
一一
と
セ
立
す
@
と
ま
つ も
て 重
ね 要
の
% となってゐる。この間に拝格 はな
王 都 舞
佐々木八郎が、平家物語の新研究上において、特に強謝 して、 く
ど
つの原理ではなく一
厚 係
てを否定する
し
り返し詳しく説いてゐる やう に、序章の無常観はすべ
軍 自
虚無的、厭世的なものでなく、倫理道義的なものであり 、現世的 政
の 豫
し
しかるに最近の動向としては、これと反対に平家物語 の無常観 や
と
治批判とも結ひついてる る。
び
て
ぅ
同
、
義
た
因果 観 の 非佛 教化ともい ふ べき 解程 が行はれてゐる。 そ して結果的
に
教
そ
れ る
的 序 れ と る
か
格 平 あ
の
ら
包
の
ゐ
浄
上
性
序
な
い
を
章
よ
、
失
な
い
は
の
生
譚 き す も 筆 後 る 減
的 残 も 頼 は 始 平 士
0 つ の 朝 伸 末 家 を
か 彩
の ら
そ か
た
こ
の
の
衆
柑
容
には無常観、因果観と 一% となってゐる倫理的、道義的なものが無
ら
い
の
で
は
な
家
に
合戦
の の 様
結 み で
濃 末 重 あ
脇 子 も 潰
係 係 れ 滅 現
の の た を 存
す
判 詞 し
だ 章 あ
と
ず 結 あ
し び ら
は
動 に
く
的行
てな
以
れ
後
恩
とま
外
の で
生 記
して
柱
硯少くとも軽視せられ、序章の解程 、そして作品全冊 の主題や構成
の
筆
諸 清
に
か
し
は
本 座 は
は の な
擢
頂
は
っ
い
の 河 に 人
記 法 枝 々
て
る
ら
に
少
氷
これらの問題に閲しては別稿 において述べることにす る。
係
後
と
そ
の
る 出
で 批
禧と
のとらへ方を誤らしめてゐる。
の
生
題
な
の
序
士
こ乙では桐原の序章の解津 、また序章と濯頂巻 との 照准 のとら へ
の
て
る
て
生
の
万の背後には、そのやう な無常観や因果 観 の 非佛 教化 の 態度がひそ
つ
国
ん で ぬ ることを指摘しておくだけにしよう。
に
な
かかる立場の人々も、屋代木 における序章と六代被斬の結尾の照
本
草
る
平
な
に
は
は
必
こそり
。 か 車垣にいし
事浦よ 。 た
と
の
終
。
の
蕪を認めるのと同様に、寛一木においても序章と擢頂巻の結尾との
一
日
戟
そ
精
しかし屋代本のやうな構成の方を原平家物語に近いものとし、ま
こ
と
。
照鷹を一臆肯定する。
た文豊的にも高く評債する。桐原の見解はそれを極端に進めたもの
切 藁
閲 後 滅 捕 摘 語 か
も
の 水
一
院 や
物
な
平
も
の の
家
の 序 讃
滅 切 か 章 み
亡 れ 現 も 方
い
草 屋 面
そ 代 序
入
巻
詞 人 平 ら 平
つ
々
蒙 っ 家 康 た 覚
は
い
ひ
ら
り
預
院 照 お 屋
で
往 舵 か 代 何 あ
里 に れ 木 放
一 文 事
る
潅
全
屋代木などの六代
被斬の結尾は、濯頂巻を特立する
寛 一木より
をすでにもつ
てめるのである。
傾斜する万
章に見られる無常観はそのやうな往
講的
生のものへの
での
なく、
へられない。原作膿
自が合戦記風の叙事一難ばりのも
八道物語に無常といふことが頻出することとともに
増補系諸木の -
じ詞章が見える。普通鎌倉木の方が寛一木に先だつ
て成立したと考
同鎌倉木にも
へられるが、それを否定する見解もある。
行無常、盛者必衰との照鵬を考慮に入れたものと考へられる。
屈 してゐる。潜頂巻を特立した作者は、恐らく序章冒頭第一段の諸
女院開係記事を抽出して、しか単
もなる抽出にとどら
まず、それ
もつて作品全
鎧のしめくくりの結尾とする農
が圃
寛一木の濯頂巻
最も宙態を残してゐると考へられる屋代木と比較すれば、寛一木
濯頂巻成立の過
ここにおいて序章の盛者必衰は二通りの意味をもつことになる。
常は盛者必衰と いふ見地から眺められ第二段以下によって、さらに
一つは元来の序章の意味である。すでに述べたりう に第一段の無
それが騎慢な悪しき政治家に限定されてゐる。序章第一段、第二
る。
三九
しかるに寛一本 においては盛者はいま一つ別の意味をもつて 来
らへられる。
濯頂巻を特立しない屋代木などの序章の意味は一% このやう にと
行焦報 による平家 一門の滅亡である。
とやその往生に結びつかず、清盛に謝する現世的政治批判、その悪
者は序章の結尾 において清盛に真網化きれて来る。盛者は女院のこ
投、第三段は バラバラに切らずつづけてよむべきであり、文脈上盤
と浮
密沈
に重な
すなはち平家一門の流落滅亡は女院生涯の運命の
と記してゐる。これは六道講式の天道の詞章をほとんどそのまま引
のめぐるが
ビとし、天人の五衰の悲は、人間にも候ひ
又夢のうちの果報、幻の間のたのしみ、既縛
に無
流窮也、車輪
ロの閣
かなしみをまぬかれず。善見城の勝妙の築
閣、
膣中
の高ム
悲想の八萬劫猶必衰の愁に
逢ふ。欲界の六天、いま五
だ衰の
寛一本では、六道物語の最初の部分に法皇の詞として
のシムボルとなる。
具生
朋的
合ひ、その盛者必衰、無常のさまは六道輪廻の衆
のな一
立にあることはすでに述べた通りである。
注意ずべきである。
の構成上首尾一貫してゐや
るうに見える。しかしそは
れ一鷹形式
両 序 考
七 %
い
る
を
特
すなはち、濯頂巻の六道物語、最後の結尾の女院往生特に前者に
る。
結びついた天人の五衰にたとへられる女院の
ことであ
この二つの盛者は矛盾しないであらうか。矛盾しない。
たたつきのことを注意したい。
冒頭に述べたり う に、こまかくい へば序章のどの部分 から濯頂巻
ふことである。
の女院往生のことか感じとられ、その間の照血 が認め られるかとい
清 盛の悪行騰 報 による 平家の滅亡
序章は第一段の無常︵ A︶盛者必衰︵ B︶第一 一段以下の
悪しき政治家の滅び︵ C︶
四O
この鮎を考へて序章を解樺 して見よう。
た盛者必衰
ここへは、 樺尊天人のことを出しても女院往生は出さ ない
通常、因果観は善悪の差別に固執する一段低いレベル0世界、無
常観は 一切のものが空に 婦するといふ因果や善悪を超越したより 高
も 絶対的な出世間に対した世間すなはち現實の世界の 事である。
次の世界と解され易いが、因果生滅するが故に無常であり、どちら
序章の精祀は第一段の諸行無常、盛者必衰によって こ こで直ちに
往生譚を展開しょうといふ 意 圃を示して ゐ・ない。ここでは女院往生
清盛の滅びを いふ 前に曝 小されるの
︵
D ︶といふ文脈の展開か篇されてゐる。
れず、もつと一般的である。
そして第二段以下盛者は悪しき政治家にしぼられる。
@休い
いな
打い0
第三段の末尾::清盛 の騎慢 のさまは言語、想像にも灼
ことはつぎのや う に第三段の末尾に出ずべきものである
女 院 往生の
第一段の無常、盛者必衰は、特定の女院一個人のこと に限定せら
を 媒介にして出されるのである。
でなく、 清 盛の悪行、・その鷹報 による平家一門の滅亡を経て、それ
女院往生は最初から直接に、
む。
の岐路に入らずに、第二段以下の矯 漫 な悪しき政治家 の 滅亡 へ進
いはば鈴情 として序章の表現 全籠の背後か
准頂巻特立による女院往生︵ E︶の新しい主題は 、序章の表面の
詞章に 額 在してゐない。
簡軍 に考へれは、第一段の無常︵A︶盛者必衰︵ B ︶を ぅけ
らくみとられるものである。
て、そのあとに女院往生︵E︶を挿入し、序章 全 膿 め文脈は︵ A︶
︵
B ︶︵E ︶︵C ︶︵D︶として展開するや う に見えるかも
しかしこの 解 樺は少しあらいところがある。
原作の︵ A ︶︵B ︶︵C ︶︵D︶の文脈の展開か中心人物清盛の登場
へ 一直線に進んであるのを、女院往生︵E︶を挿入して、文脈の展
開を中断し岐路に入ることになるからである。
㈲その
清盛も没落は免れぬ。無常の刹鬼が訪れるや、悪業底
報の死を遂げる。
が 、これはさ うい ふことを立論する大町な一つの根抜 ともなる。
屋代 本と 寛一木は同一の序章をもち、それは清盛 の 悪行騰 報 によ
る平家滅亡の主題を提示するが、同時にそれほ生死流 何の世界を脱
清盛の悪行騰報 によって一門の人々壇浦のムコ戦敗
にれ、滅
㈹
却 して、彼岸の世界への救済せられることへの誘 なひ
作品の水 丈 には、念々刻々に生滅愛化する日常生活の無常のなか
ともなゐ
って
亡の悲運に逢ふ。
㈹正嫡の子孫六代斬られて平家は絶滅する。
㈲平家一門の人々の中に浄土を欣求し往生の素懐を とげた人
の序章の精神を裏切ってまでそれをそのままに作者は肯定してゐる
に生きて無常を自覚しない人間を柑嘗の分量まで書い てゐるが、 こ
特に女院の生涯、その死は意味の深いものがある。
とは忠はれない。無常にあって無常を自覚しない人間,-そ最も無常
がある
女院も盛者必衰の大きな例である。その一生の浮沈の運命は
な存在であり、無常を洞察し確認する時にそこに かへ つて常住なも
のが姿をあらはすのである。
平家一門の盛衰を代表するものであり、八道輪廻の實栢を示す。
な院のことは、序章全膿の叙述が終った後に、そこから醸し出さ
れる鎗情としてくみとるべきである。
屋代木の序章は女院往生デ︶を含蓄せずに、︵ A︶︵り
U︶︵C︶
︵
D︶で切れるかも知れない。そして六代被斬の結尾にかかって行
く。
しかしすでに述べたやう に屋代大自趨 、女院往生の結尾への傾斜
の志向をすでにもつてゐるとも考へられる。
わたくしは、作品の部分的の細部はともがく・全瞠の生頭と構成
においては、屋代大と寛一木との間にあまり大きく柏違を考へない