ある自閉症の子どもと 音楽療法士の〈出会い〉の考察

C.Yamamoto / アートミーツケア Vol.7/2016 51-67
[論文]
ある自閉症の子どもと
音楽療法士の〈出会い〉の考察
音楽の中で自己が析出するとき
山本知香(音楽療法士)
1. はじめに
1-1. 音楽療法における出会いをめぐって
音楽療法における出会いとは何だろうか。本稿は、音楽療法の実践者である筆者と、Aちゃん
というある自閉症の子どもとの出会いについて考えていこうとするものである。
出会いと言っても、音楽療法の開始当初に初めて顔を合わせたときのことを振り返ろうとして
いるわけではない。これから考察の主題とするのは、音楽療法を開始してから2年ほどが過ぎ
たある日、ふいに訪れた合奏の最中の一コマである。それを出会いと呼ぶことがふさわしいの
かどうか は、現 段 階では わ からな い。しかし、とにかくその 体 験 の 直 後 に「Aちゃんと出 会っ
た!」
と思わずにはいられなかったという筆者の素朴な実感を手がかりに、以下ではあのときの
体験を〈出会い〉
と表し、一般的な出会いとはひとまず区別しておく。
Aちゃんとの〈出会い〉のインパクトは、筆者にとって大きな感動をもたらすとともに、
「これま
でのAちゃんと筆者は出会っていなかったのか?」、
「そもそも、出会いとは何なのか?」などの
疑問を次々に引き起こした。
以下では、脱自的な目を働かせながら
「一人称の記述」
〔 鯨岡 2012:46〕でこの体験を提示
し、Aちゃんにとっての体験の意味を掘り下げていきたい。さらに、その意味をメタ的に考察す
ることで、広く音楽療法における出会いについての捉え直しを試みていく。
そのために、まずは強烈な図として浮かび上がった〈出会い〉の体験の背景として、Aちゃんと
の音楽療法について紹介する。その次に、音楽療法の現状について、
〈出会い〉を理解するため
に必要と思われる範囲にとどめて紹介し、本稿の狙いを明確にしていきたい。
1-2. 音楽療法の概観
1-2-1. 子どもの音楽療法
音楽療法には、実に様々な立場がある。山松〔1997〕を参考にまとめれば、大きく分けると、
行動療法的な立場とヒューマニスティックな立場があるといえる。
今回のテーマとなる、自閉症など対人関係に難しさをもつ子どもの音楽療法では、コミュニ
ケーションの円滑化や改善が目指されることが多い。先に述べた前者の立場においては、例え
ばアイコンタクトやサイン言語の獲得など、コミュニケーション能力の向上が主に目指される。
後者においては、子どもと音楽療法士が生き生きとした気持ちのやりとりを行うことが一義的に
目指される。
もちろん、広く
「子どもが育つ」
ということを考えれば、これら二つの立場は相補的なものであ
るが、
「音楽療法という限られた場で何を目的とするか」が問題となる場合には、両者はどうして
も対立的なものとして捉えられがちである。
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1-2-2. 山松方式
筆者は、山松方式と呼ばれる音楽療法の影響を受け、後者の立場で携わっている。山松方式
とは、カール・ロジャーズの来談者中心療法の考えに基づきながら、自閉症の子どもの心理療法
に音楽を取り入れた、山松質文によって創始された音楽療法である 1)。わだかまりのない人間
関係の中で子どもが自由に自己表現をすることが、子どもの心を育てると考える。
「決してクライエントの先廻りをしないこと、動き(心の動き)を封じないこと、クライエントの
自由を奪わないこと、そのためには、先ずこちら
(音楽療法にかかわる人)自体が、自由であるこ
と、自然体であること、取り繕わないこと、頭で考えるのではなく、心と体で感ずること」
〔 山松
1997:2〕を最も大切にする。
1-2-3. 筆者の携わる音楽療法
筆者の音楽療法は、山松の考えに基づきつつ、子どもがその日そのときやりたいことを音楽の
力を借りて実現していくという形をとる。筆者の役割は、その展開を支えていくことである。プログ
ラムを事前に用意することはない。必要に応じて、既成曲も即興演奏も用いられる。何かができ
るようになることや、そのためにこちらから何かをさせることよりも、子どもが筆者と共に過ごす時
間の中で何をしようとしているか、というところにまずもって目を向けていくことに特徴がある。
1-2-4. Aちゃんとの音楽療法
Aちゃんとは、放課後等デイサービス
(Z事業所)
で、個別音楽療法をしている
(詳細は5−1に
記す)。音楽療法開始時は特別支援学校小学部 3 年生で、今回の場面は、それから2年ほどが
過ぎたある日の出来事である。
Aちゃんが鳴らすタンバリンなどに合わせて、筆者が電子ピアノで童謡などを弾き歌いしてい
くことが中心的な活動である。初期の頃は、一緒に演奏をしていてもAちゃんを近く感じること
が難しかったが、時を重ねるうちに息が合わせやすくなり、共に演奏することがお互いにとって
居心地のよい自然な過ごし方となっていった。
1-2-5. 不安定なフロアタム
しかし、一つ気になることがあった。A ちゃんがフロアタムを演奏するときのことである。普段
は、タンバリンなどでとてもリズミカルな演奏をするAちゃんだが、ひとたびフロアタムの前に
行くと、皮の張られた鼓面や、金属製の縁や側面をとても不規則に打ち始める。こうなると、そ
れまで調子よく流れていた音楽は滞り、一緒に演奏している筆者は、急にAちゃんを遠いところ
に感じるのである。
それがある日、同じようにフロアタムの前に立ったAちゃんが、いつものような不規則な打ち
方にはいかず、それまで流れていた音楽の中にふみとどまったのだった。
そこで起こったのが、
〈出会い〉の場面である。後に詳述するが、そのとき、音楽が〈あいだ〉
〔木村 2005:40〕で響き始め、Aちゃんは自覚的に音楽を〈奏でる主体〉
となったように感じられ
た。筆者にとって、それは、Aちゃんの新しい〈自己〉の析出 2)を感じることであり、それが〈出会
い〉
として強く印象に残ることとなった。
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2. 問題意識:
〈出会い〉にどう迫るか
筆 者 が〈出 会 い〉
と感じたことは、これまで「他 者 への気づき」や「つながり」、
「コミュニケー
ション」、などの文脈で述べられてきたことと近いのではないか。これらは、元を辿ればおそらく
全て自己と他者の関係性の変容に関わる問題に行き着くと考えられる。では、従来の音楽療法
研究では、以上のことはどのように扱われてきたのだろうか。
2-1. 音楽療法における自己や音楽の捉え方
2-1-1. 行動療法的な音楽療法の立場
行動療法的な音楽療法の立場では、コミュニケーションについて、子ども側のコミュニケー
ション能力の獲得や、行動上の変化に焦点をあててアプローチする。
音楽は、例えば他者に「気づかせる」ために用いられたり、行動獲得のための強化子として用
いられたりする〔ex. 中山・二俣・竹内 2006; 津山 2008; 中澤・伊藤・深野 2009〕。このときの音
楽は、子どもの行動上の変化をもたらすための道具や手段として、予め力を備えたものとして前
提されている。
音楽に何らかの力があることは、音楽療法のそもそもの存在理由と結びつくことであり、日常
的な体験の事実としても多くの人によって認められるだろう。ただ、マニュアル通りに処方すれ
ば万人にとって効き目の約束された薬のようなものではないことも、また当然のことである。
もちろん、音楽療法士は、子どもとの関わりの歴史を踏まえ
「いまここ」でのタイミングを見計
らって、そのときならではのやり方で音楽を提示しているはずだ。問題は、コミュニケーションの
一方を担う音楽療法士の思いが、療法の行方を左右しているにも関わらず、
「主観的で、目には
見えない不確かなものである」
という理由で、研究の俎上に載せられる際に「ないもの」のように
扱われることである。
コミュニケーションが双方向的なものであること、音楽がどのようなときに療法的な力を発揮
するのかということに関する視点が抜けていると言わざるをえない。この見方からは、あの〈出
会い〉に迫るヒントは得にくい。
2-1-2. ヒューマニスティックな音楽療法の立場
一方、ヒューマニスティックな音楽療法の立場では、例えば「音楽療法士との交流を通して、
子どもが成長体験の中で自己を見つめ、自分の真の気持ちと接触し、自己尊重の感覚を発見
することを 促していく」
こと
〔稲 田 2003:12〕や、
「関 わりにお ける自 己(self-in-relationship)」
〔Trevarthen,Aitken,Papoudi&Roberts 1998=2005:222〕の感覚の確立などが目指されている。
子どもとの「いまここ」での関わりを重視するため、そこでの音楽は、子どもと音楽療法士の両
方の参加によって即興的に作られていく場合が多い。
このような立場の音楽療法では、音楽療法士がキャッチした子どもの内面はもちろん、音楽に
ついても、物理的な音の構造に加えて、それがどのように感じられ、どのように生み出されて
いった かというプ ロセス が 鮮 や か に 描 か れて いる
〔ex. 石 村・高 島 2001; 石 村 2006;Aigen
1998=2002〕。
これらの研究は、音楽や自己などの目には見えない側面を描き出そうとしている本稿にとっ
て、示唆に富む。しかし、このようなタイプの研究は、日本ではあまり進んでいない。
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2-2. なぜこの手の研究が少ないか
2-2-1. エヴィデンス主義
日本では、音楽療法士の国家資格化構想とも相まって、研究の主流はエヴィデンスを重視する
客観的・量的研究となっている。そのため、目には見えない子どもの心の動きや、それを捉える
音楽療法士の心の動き、それらに基づいた関係性などは、全て客観性の点で問題を孕むとして
排除されてしまう傾向にある。
2-2-2. 描きにくさ
音楽は、そもそも言葉にできないものであり、楽譜だけでは伝わらないことを、なんとか言葉
にして伝えようとしても、非常に難しい。音はどこに向いているのか。何か意図が込められてい
るのか。込められているとしたら、どんな意図が、どのような強さで込められているのか。子ども
が喜ぶ / 喜ばないのは、選曲によるのか、テンポか、音域か、音色か…。子どもにはどんな風に
聞こえ、体感されていたのか。音楽は、とても複雑でふくよかである。しかも、
「瞬間瞬間」に生
まれ続けていくものでもあるため、1 曲の演奏中にも、いま挙げた内容は全て移ろいゆく可能性
をもつ。
要するに、音楽療法における音楽は、一言で「このときの音楽は」などと説明できないような
性質をもつため、記述することは容易ではなく、それが研究を進めていく上でのもう一つの大き
なハードルとなっているのである。
2-3. それでも記述することの意味
重症児との関わりを現象学的に考察してきた中田基昭は、現象学者である渡邊二郎の言葉
を引きながら、
「ロゴス的世界がより深められれば、ロゴスによっては捉えられないパトス的側
面もより一層深くなる」以上、
「生を深めるとは、まず当の生を捉え」、
「捉える試みによって捉え
られない次元がより深められる、といったことになるはず」であるという
〔中田 2008:15〕。たと
え最終的に完全にふさわしい言葉が見つからなくても、言語化の過程で起こる体験への身の浸
し直しは、冷静に見つめる力、細かいニュアンスの違いを感じ分けるセンスを鍛え、実践者に
とって大きな価値をもつのではないだろうか。
3. 目的
以上から、本稿の 3 つの狙いが導かれた。
①〈出会い〉の体験について、出来事を体験の当事者として納得のいくかたちで記述し、読み手
の「了解可能性」
〔 鯨岡 2005:43〕に訴え、共に考えてもらうための対話に向けて開くこと。
②〈出会い〉
と音楽の絡まりについて考えること。
③〈出会い〉
と自己の絡まりについて考えること。
以上の目的に沿って考察がすすめば、
〈出会い〉
ということの意味が立ち現れてくるはずである。
最終的には、本稿を通じて、音楽療法における出会いについて、新しい視点を提供し、実践へ
の貢献につなげたい。
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4. 方法:
「エピソード記述」
『いかに
「みる」かが、いかに
「かかわる」かを規定する』
〔 山松 1997:139〕
という観点から 3)、
人間関係に焦点をあてようとするならば、
「経験科学的記述として、事象をできる限り鮮明に記述
する現象学的記述が望ましい」
〔 前掲書 :84〕
と山松は述べている。これを参考に、
〈出会い〉につ
いて、
「対象的には見えてこないのだけれどそれ自身を示している現象をそのまま見えるようにす
る」
〔木村 2010:42〕
ことを目指すために、現象学的な方法を採る。
そこで、既存の実証科学的な発達研究への違和感から、
『研究者の関心や志向から
「真の問
い」が発せられ、その解明に向かって研究が開始されるのでなければならない』
と考えた鯨岡
〔1999:105〕によって考案された、
「エピソード記述」
〔 鯨岡 2005〕による研究を進めていく。現象
学的アプローチによって体験の意味を掘り下げるための質的研究の一つである。
鯨岡〔2010〕によれば、エピソード記述とは、生の流れに生じた一コマが描き出されたものであ
り、
「誰にとってもそのようであった」
という
「リアリティ」に基づきながら、体験した人に感じ取られ
た、その出来事に伴う
「アクチュアリティ」を捨て去るのではなく甦らせる営みである。そして、その
記述は単に生の断面を描き出すことで終わらせるのではなく、読み手を説得しようとする意図を
もってなされるのでなければならない。そのためには、エピソードを取り上げた書き手の目的や
立場、理論的背景などが示されている必要がある。さらにそこからひとつの質的アプローチに繋
がり得るためには、描き出された生の断面の意味の掘り起しが行われる必要がある。具体的に
は、
〈背景〉
〈 エピソード〉
〈 考察〉の 3 点がセットで示されて初めて、単なる備忘録を超えた「エピ
ソード記述」
となるのである。以下、エピソードと考察では、筆者自身の当事者としての体験を中
心に述べていくため、私という一人称を用いる。
一人称による記述は、従来の音楽療法研究で避けられてきた方法である。しかし、今回の〈出
会い〉は、第三者が表面的に観察していては掬い取ることのできない内容を含み、私という当事
主 体 が 描 か な い こと に は、
「現 象 の 存 在 そ の も の が 浮 か び 上 が ってこな い も の」
〔鯨 岡
2012:205〕
である。客観主義の立場からは、
「思い込みではないか」等の批判が寄せられること
が予測できる。もちろん、
「私が感じた」
という目に見えない部分を扱う限り、それらの問いすべて
に応えることは難しい。しかし、実際の対人場面は、一人の個人としての私が感じたことを抜きに
展開されるものではなく、この「一人称的な視点」
こそ、実践の要なのである。
〈背景〉
を丁寧に描くこと、
〈考察〉
では私が感じたことを単に列挙するのではなく、一人称で記
述しつつも、出来事から距離をおいた脱自的な態度で、そう感じた理由を含めて描くことで、読み
手との場面の共有の可能性を拡げたい。
なお、論文執筆に際して、Z事業所の同意を得た上で、Aちゃんの保護者より文書で同意が得
られている。
5. エピソード
5-1. 背景
5-1-1. Z事業所と、筆者の立場
Z事業所は、児童福祉法に基づき、ある有限会社によって設置された放課後等デイサービス
である 4)。日常的な療育活動の中で達成感や自己効力感へつながるような指導・援助を行うことを
理念とする。感覚統合の視点を積極的に取り入れていたこともあり、音楽による子どもの可能性
への働きかけが音楽療法という形で導入され、現在は集団音楽療法 5)を月 3 日程度、子ども1 名
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ずつに対して行う個別音楽療法 6)を、月 6 日行っている。私は、障がいのある子どもと関わる音
楽療法士として 10 年の実務経験があり、Z 事業所には非常勤の音楽療法士として 5 年ほど通
い、現在は月 3 日、9 名の子どもの個別音楽療法を担当している。
5-1-2. Aちゃんとの音楽療法について
A ちゃんは、7 年前からZ 事業所に通っている。音楽療法は通所 3 年目から開始し、今年で 4
年が経つ。今回のエピソードは、音楽療法開始から2年ほどが過ぎたある日の場面である。
Aちゃんは、活発で意志が強そうな印象の女の子で、知的障がいを伴う自閉症の診断を受け
ている。何かの台詞のような独り言を繰り返したり、周りの音をシャットアウトするためか、落ち
着きのないときには大きな声を出したりしていることもあった。
初期の頃から部屋の中にある楽器であまり躊躇なく音を出し、私が電子ピアノで音楽をつけ
ていくと、すぐにそれを感じとっているようだった。タンバリンや鈴などの楽器を持ち、自由な奏
法で演奏しながら、部屋の中をスキップしたり、音楽に乗って柔らかに体を揺らしたりしている
こともある。単語程度の発語があるのみなので、歌詞をそのまま歌うようなことはないが、独特
の声でAちゃんなりに歌っているように感じられることもある。
しかし、だからといって「一緒に何かをしている相手」
として私のことを位置づけているように
は感じにくく、私には、ただAちゃんが「音と自分」だけの世界にいるように感じられることの方
が多かった。また、自分で操作するマラカスの動きをじっと目で追ったり、タンバリンを太ももな
どで打ち、肌からの刺激を味わったりしているようなときもあった。そのようなときは、邪魔をし
ないように音量や音色、音の向かう方向に気をつけながら、かすかなつながりが途切れてしま
わないように演奏を続けることを心がけていた。
どちらかというと、即興演奏よりも既成曲の方が好みのようだと気づき、私が楽譜集を持って
行ったことをきっかけに、Aちゃんが楽譜集の目次から自分のやりたい曲を探して指さし、その
リクエストに答えて私がピアノで弾き歌いする、という過ごし方が定着していった 7)。
日によって、同じ曲を何度も繰り返しリクエストすることもあれば、次々に違う曲に変えること
もある。
「この曲はこの楽器」
といった決まりがあるわけではない。曲の途中で楽器を交換した
り、私にとってはやや唐突に感じられるようなタイミングで次の曲をリクエストしにきたりもする。
リクエストするときは、ほんの一瞬、私が確認できないような素早さで曲目を指差すだけのよう
なときもあるが、曲目を指差しながら、じーっと、目に力を込めて私の目にその曲のやりたさを
訴えることも出てきて、だんだんと場を共にする人としてお互いが立ち上がっていっていること
が感じられ始めた。私は、Aちゃんにとっての音楽療法が、自分のお気にいりの曲がただ流れて
くるだけの時間ではなく、私という他者と一緒に音楽を楽しむ時間が過ごせるような場となるこ
とを期待していた。
5-2. 不安定なフロアタム
しかし、そのとき演奏している曲がどんな曲であれ、ひとたびフロアタムの前に立つと、何かに
囚われてしまったかのように不規則な演奏を始めるAちゃんであった。リズムや拍子などにあま
りにも法則性がない(少なくとも私には感じとることができない)ために、一緒に音を出そうとし
ても、余計に不自然になってしまう。どこかで見聞きした和太鼓の演奏を再現しているような気
もしたが、どうしてもそれを達成したい、という強い思いを持っているとも感じにくかった。いわ
ゆる常同行動のように、音による刺激だけに集中して、周囲の世界から距離を置こうとしている
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わけでもなさそうである。自信なげで、少なくとも、あまり気持ち良さそうではない。かといって、
いったんフロアタムが気になると、叩かないでもいられなくなるらしい。フロアタムはサイズも大
きく、体に響く音が鳴る、存在感のある楽器である。持ち歩きながら演奏できるタンバリンや鈴
などとは違い、一箇所にとどまって、また、ドラムスティックを操作して鳴らす必要がある。そのよ
うな違いが、Aちゃんを惹きつけるとともに、一筋縄には自分のものにできない難しさをもたらし
ていたのだろうか。以下、A ちゃんのこのような行動を 不安定なフロアタム と表すことにする。
この姿は、初期の頃から断続的に見られていた。何かの曲をイメージして叩いているのだと
したら、私が無理にそれまで演奏していた曲や、即興で合わせようとしても気持ち悪いかもしれ
ない。とは思いつつ、これまでの関わりから、何か具体的なイメージがあるなら伝えてくれる気
もしていた。そこで、このときには和太鼓らしさをせめての手がかりにして、電子ピアノで和の雰
囲気の漂う音を出すなどし、なんとか対応するようにしていた。ただ、30 分間ずっとフロアタム
に向かうことはなく、しばらく待っているとまたいつものAちゃんに戻っていたので、どうしたら
いいのかわからないもどかしさは感じつつも、それほど困り切るわけでもなく、この謎のフロア
タム演奏に付き合っていた。
それがある日、同じようにフロアタムの前に立ったAちゃんが、 不安定なフロアタム にいか
ず、それまで流れていた音楽にふみとどまったのだった。以下のエピソードは、そのときに感じ
た〈出会い〉の場面を描いたものである。
5-3. エピソードの背景
Aちゃんは、この日も機嫌よく落ち着いた様子で音楽療法の部屋にやって来た。
「勇気 100%」
などの曲をテンポよく演奏した後、いつもと変わらない様子で
「おお牧場はみどり」
をリクエストし
た。この曲は、これまでの関わりの中で特別な意味を持っていたわけではなく、他のリクエスト曲と
同じような位置付けのものである。私が「おお牧場はみどり」
を歌い始めると、Aちゃんはそれまで
鳴らしていた楽器を机に置き、両手にドラムスティックを持って、
「ドン、ドン」
と鼓面を叩き始めた。
5-4. エピソード:
〈出会い〉
私は、Aちゃんがフロアタムを叩き始めたのを見て、いつものように“不安定なフロアタム”
が始まってしまうかな、と一瞬思う。しかし、そう判断するにはまだ早いようにも感じ、あ
とほんの少しは続けてみよう、という気持ちで「おお牧場はみどり」の続きを歌った。する
と、Aちゃんは、いつもの“不安定なフロアタム”ではなく、
「おお牧場はみどり」の音楽に合
わせて、フロアタムを律儀に四分音符一拍ずつ叩き始めたではないか!
おー
まーき
ばー
はー
「ドン、ドン、ドン、ドン」と、一打一打、必死に音楽にくらいつくように、首を拍に合わせ
て上下に振っている。体全体の動きからも、お腹の中心で拍をつかみにかかっているのがわ
かる。私も、そんなAちゃんの一生懸命な姿に驚きながら、普段以上に体でしっかり拍を感じ
ながら演奏した。
一度歌い終わり、Aちゃんの動きが曲の終わりと同時にピタ、と止まりかけたが、私はその
ままもう一度最初から歌い始めた。Aちゃんのドラムスティックの先は、鼓面で迷うようにふ
らつき、縁に落ち、
「カッカッ…」と小さな音を出す。いつもの“不安定なフロアタム”に戻る
かもしれない。しかし、Aちゃんは、
「おお牧場はみどり」の中に、鼓面をしっかりと打つ音で
再び戻ってきたのだった。
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時おり「カッカ」の縁に手が伸びかけたり、曲からはみ出しかけるほど焦ったテンポにもなっ
たりしながら、それでも、やめてしまうことなく「おお牧場はみどり」の曲の中にとどまろうと
している。初めて見るAちゃんの姿に、驚きの気持ちがこみ上げる。
ぎこちなく始まった演奏が、次第に確信めいたものになって流れ出す。Aちゃんは、何かとて
も大きな発見にたどり着きかけ、まさにそれを味わっている最中のように見えた。分節化され
た感情のようなものは感じられなかったが、新しく、もしかすると喜ばしい何かを見つけたよ
うに、そしてどこかくすぐったそうに、瞳をキラキラと輝かせていた。とにかく私は心が動い
た。時おりその目が私の目と合い、今まさに初めての出来事を体験していることを、お互いに
感じ合ったような気がした。
大げさに聞こえるかもしれないが、私には、
Aちゃんの目の前のカーテンがパーっと音を立て
て開けていくように、Aちゃんにとっての世界がまさに今、
「おお牧場はみどり」を演奏するフロ
アタムとピアノの渾身の一拍一拍の間から、新しく塗り替えられていくように感じられた。
5-5. 補足的なコメント
私にとってこの場面が非常に強いインパクトをもったことには、フロアタムが持っていた引力
に取り込まれることなく、一緒に演奏し続けることができた、という驚きと喜びがまずは関係して
いたように思う。Aちゃんがこだわり続けていた 不安定なフロアタム にも何か大切な意味が
あったのかもしれない。しかし、ここでは、フロアタムに向かうことよりも、曲の中にとどまり続
ける方への流れが生まれ、その先には、なんともいえない生き生きとした体験があったのであ
る。これまでのこだわりのようなものを超えてでもそこに向かってみようとする何かがAちゃんを
動かしていたように感じられた。
もちろん、Aちゃんだけがこの流れを生んだわけではないだろう。私の演奏がAちゃんを「お
お牧場はみどり」にふみとどまることの方へ引き寄せていたのではないか、とも考えられる。た
だ、先にも書いたように、私の基本的なスタンスは、子どもを自分の思う方へ「引っぱる」のでは
なく、子どもがまさにやっていることに、そのときどきに私が最も自然だと感じる仕方で応えるこ
とを主な仕事とするものである。
そのような音楽療法の中であったため、
「おお牧場はみどり」を弾き続けたとはいえ、私はそ
こでAちゃんとの気持ちのずれを感じれば即座に「おお牧場はみどり」を切り上げる準備はでき
ていた。そういう理由からも、この場面で私はAちゃんが曲の中にとどまろうとしていることが、
Aちゃん自身の内側からのものであったように感じられたのだろう。
一 拍 一 拍、Aちゃんと私 の 音 が 重 なり、連 なり、曲 が 進 んで いくの は、私 にとって「えっ、
えっ?まだいける、まだいける、えー!」
という驚きの連続であった。Aちゃんが必死に曲の中に
ふみとどまろうとしている姿を目の前にすることで、
「おお牧場はみどり」の演奏をなんとか続け
ていたいという思いが私の中からもあふれてきた。
その場にいたときには、
「驚き」や、
「とにかく心が動いた」
としか言いようのない感動の中に
私はいた。振り返ってみれば、それは「今まではうまくいかなかったフロアタムで演奏ができる
ようになった」
という単なる結果としての事実に対する感動ではない。Aちゃんが「おお牧場はみ
どり」の曲にふみとどまらんとして鼓面を叩くときの「ドン!ドン!ドン!」
という音の力のこもった響
きと、 不安定なフロアタム に向かいそうになるときに縁や側面を叩く
「カカカ…」
という戸惑い
や葛藤を含む音の違いには、Aちゃんの気持ちが大きく揺さぶられていることが表れているよう
だった。そうして揺れながら、それでも音楽の中にとどまろうとしているそのプロセス上にある姿、
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その一生懸命な挑戦を目の当たりにして、私は本当に胸が熱くなったのである。このとき、私
は、Aちゃんのことをとても生き生きと、血のぬくもりのようなものを感じる近さで感じていたの
だった。それは、それまでも
「知っていたはず」のAちゃんと、より深く知り合ったと感じるような
体験であった。私はこのフロアタム演奏のあと、
「もう今日はセッションを終わってもいい」
とい
うほど満たされた気持ちになっていた。
6. 考察
6-1. 音楽と
〈出会い〉について
では、このエピソードにおける音楽について、それが〈出会い〉の体験とどう絡んでいたのか
に注目しながら、解きほぐしていきたい。
Aちゃんが、意図的に「おお牧場はみどり」の中にふみとどまろうとしていたということを完全
に証明することはできない。しかし、私には、必死に拍に合わせて首を振り、全身を使ってリズ
ムをキープし続けようとするAちゃんの姿は、
「なんとかこのままふみとどまろう」
としていたよう
にしか感じられなかった。私にとって、この場面が「えっ、えっ?」
という驚きの連続から始まった
ように、Aちゃんにとっても、
「今日は絶対この曲を演奏してみせる」
という意図があったわけで
はないだろう。一 打、また一 打、と、フロアタムを鳴らしてみると、そんな自分の動きと共に、
「おお牧場はみどり」が一緒に流れてくる。そのことに気がついた途端、
「音楽を今まさに奏でて
いる、その自分」
という実感のようなものが湧いてきたのではないか。演奏の実感を伴っていた
ように感じられた、このとき現れた新しいAちゃんの〈自己〉については、
〈奏でる主体〉
という言
葉をあてて後に考察をする。
さて、
「えっ、えっ?」
と思いながら、一拍一拍音を連ねていったとき、電子ピアノを弾く私の手
の動きは、いつの間にかAちゃんがフロアタムに向かってドラムスティックを振り下ろす一打一
打の手の動くタイミングに、まるで吸い寄せられるようにぴったりと合っていった。そうなると、
音楽の進行に関する責任は、私の手を完全に放れたような感じになり、次の音を弾くタイミング
や、音量、音色などを気にする心配がまったくなくなっていく。そうしてある種のゆとりのような
ものが生まれたとき、私の目の前に、これまでになく親しみを感じるような近さで、新しい〈自
己〉の輪郭を光らせた、存在感に満ち溢れた〈奏でる主体〉
としてのAちゃんが登場したのであ
る。どうやら、Aちゃんにとっての「音楽を今まさに奏でている、その自分」
という実感と、私に
とっての「演奏が自分の手から放れたような感覚」
とが、このときの〈出会い〉
と分かち難く絡み
合っているようだ。
ただ、
「演奏が自分の手から放れたような感覚」自体はこれまでのAちゃんとのセッションのな
かでも体験したことがあった。それにもかかわらず今回の感覚は非常に印象的であり、以前の
体験と何らかの違いがあるはずである。今回の体験の構造をよりクリアにするために、過去の2
つの場面を振り返り、その違いを述べておく。
◆先にも触れたが、2 年前に出会った当初は、私はいつも大きなエネルギーを使ってアンテナ
を張り、なんとか「共に演奏する時間」を演出していた。その中で、自分の意識をかなり持ち出
して、演奏に向かう運動の感覚のようなものをAちゃんに重ね、結果として私自身の意図を介さ
ずに(=自分の手から演奏を放して)
タイミングのぴったり合った音を出していたことがある。
◆Aちゃんとの時間を重ねるにつれ、フロアタム以外の普段の演奏は、非常にスムーズに流れ
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るようになっていった。例えば、Aちゃんがタンバリンを持ち、曲目リストからやりたい曲名を指
差し、どちらかの「せーの」の声で演奏が始まる。すると、おおよそその曲の持つイメージに合っ
たテンポでAちゃんが歩き、タンバリンを鳴らす。Aちゃんは、完全に安定したテンポを刻み続
けるわけでもなく、1 曲の中で速くなったり遅くなったりもする。スキップするように弾んで歩い
たり、床が鳴るほど一歩一歩に力をいれて歩いたり、ときにはふと立ち止まったりもするし、鳴
らし方や、醸し出す熱量のようなものを唐突に変えたりすることもあるのだが、長い関わりの中
で、それほど難なくAちゃんに寄り添って演奏していけるようになっていた。そのような中で、演
奏が波に乗ってくると、演奏に対する様々な不安が消え、
「次の瞬間、どのように音を出せばよ
いか」が完全にわかった気になって、
「演奏が自分の手から放れたように感じること」があった。
こうして演奏されていた音楽は、どちらの場合にも傍目には「ぴったり息が合っていた」
ように
見えるだろう。そして、今回の場面も、できごとを外側から眺めてみれば、
「いつもはできなかっ
たフロアタムでもそれができた」
というだけで、さして気にとめるような場面には思われない可
能性がある。
しかし、私にとっては、これまでの「ぴったり息が合ったとき」
とは、その感覚はまったく違う。
その理由として考えられるのは、さしあたり以下の 2 つである。
・・・ ・
◆これまでの、
「ぴったり息が合ったとき」は、私の側からみれば、
「Aちゃんの演奏をフォロー
・・ ・
しよう」
という消極的な能動の相が前面に出ていたように思う。フォローしようとした結果として
「ぴったり息があったとき」
と今回とでは、その演奏による面白さや、満足感のようなものが大き
く違った。
◆これまでの、
「ぴったり息が合ったとき」にも、確かにある種の心地よさはあったが、今回のよ
うに明確に「Aちゃんと出会った!」
と感動することはなかった。
再びエピソードの考察に戻ると、一旦その〈奏でる主体〉
となったAちゃんにとっては、今度
・・・・・・・・・・・・
は、そのときすでに流れてしまっている音楽からはみ出すことの方が不自然になる。そうなると、
Aちゃんに感じられた「ふみとどまり」は、なぜか他の楽器のようには思い通りに演奏できないフ
ロアタムを「どうにかこうにか」自分のものにしようという挑戦、
「他でもない自分が演奏してい
る」
という実感などと共に、
「なんだかわからないけど、知らないうちに演奏できちゃった」
とでも
いうような、
「おのずと」
という色味も帯びていたのかもしれない。
このときの 音 楽と
〈出 会 い〉につ いてさらに深く掘り下 げるために、ここからしばらく、木 村
〔2005〕による〈あいだ〉の概念を借りて考察していきたい。
6-2.〈あいだ〉の概念
木村は、
「自己が自己として、他者が他者として出てくるような源泉の場所」
〔 前掲書 :195〕の
ことを、
〈あいだ〉
という概念を使って考えている。そして、音楽を例にして、その〈あいだ〉につい
て、以下のように述べている。
理想的な合奏における音楽の成立の場所は、誰のもとでもない、一種の「虚の空間」にあり、
『各人の内部でもあり外部でもある
「あいだ」の虚空間で鳴っている音楽は、もはや演奏者各自の
個人的な意識を超えて自律性を獲得した固有の有機的生命をもっている』。そうなると、
『現在
鳴っている音楽の全体が次に来るべき音を、自己生産的に、それ自体の生命活動から生み出す』
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ので、
『各演奏者に恣意は許されないことになる』が、それは『外部的な基準によって律されるこ
とを意味するのではなく』、むしろ、
『各演奏者は自分自身の自発的行為としての自己の内部の音
楽自体に内在する方向によってのみ律されるという形で、完全な自律性の意識をもって』おり、
『外部である
「あいだ」の場所に鳴っている音楽それ自体の自律性と、各自の内部からの演奏行
為の自由な自発性とが、同じ一つの事態として生起している』
〔 前掲書 :39-41〕。
この概念に照らすと、このときの私が、
「音楽が手から放れていったように感じ」つつも、
「A
ちゃんをフォローしよう」
としていたわけでもないこと、また、Aちゃんが「他でもない自分が演奏
していること」を実感しているように見えると同時に、それが、
「おのずと」に支えられていたよう
にも感じられていたことがより明確にみてとれるのではないだろうか。
もちろん、
「Aちゃんにとってどうだったか」は、究極のところは誰にも知り得ない。しかしなが
ら、子どもと実際に関わる実践者には、
「自分はどう感じたか」をもとに、次なる関わりを考えて
いくことが求められる。知り得ないから問いを立てないのではなく、
「どうだったか」について思
いをめぐらせていくことに意味がある。今回の場合、その問いをめぐり、
〈あいだ〉の存在を仮定
することは、Aちゃんにとって、という視点で体験を振り返るときの「見方」やその場にいなかっ
た第三者への「伝え方」に違った角度から迫ることを助けてくれるのではないだろうか。
ここで改めて注目したいのは、もともと木村が〈あいだ〉を「自己が自己として、他者が他者と
して出てくるような源泉の場所」
として考えていることである。これを踏まえ、Aちゃんとの〈出会
い〉の感覚が、Aちゃんの〈奏でる主体〉
としての新しい〈自己〉の析出によるものだったのではな
いか、というこれまでの考察をもう少し整理する。
6-3.〈自己〉
と
〈出会い〉について
木村は、合奏が〈あいだ〉で響くときには、
「この上ない芸術的感動を生み出す出来事となる
だろう」
という
〔前掲書 :38〕。音楽の演奏(聴取)に際して、
〈あいだ〉が感じられることがあるとす
るならば、確かにそれだけでも生を豊かにしてくれることだろう。Aちゃんとの今回の合奏にも、
私なりに音楽的な感動もあった。
しかし、この場面は、よき音楽の演奏そのものを目的にしていたわけではない。このときの音
楽は、あくまで、Aちゃんが私との関係の中で、生き生きと自由に自己表現することを目指した
結果として生まれたものである。そのため、この場面をいくらプロセスも含めて描いたとしても、
それが音楽についての言及のみにとどまっていては、Aちゃんと場を生きた当事者の私の省察
としては十分ではなく、Aちゃんの〈自己〉についても振り返る必要があると考えられる。
先に、
「音楽を今まさに奏でている、その自分」を実感しながら私の前に現れたように感じら
れた新しいAちゃんのことを、
〈奏でる主体〉
と名付けておいた。
〈奏でる主体〉を鍵にして、
〈出
会い〉
と
〈自己〉について考えると、何が見えてくるのだろうか。
6-4.〈奏でる主体〉
〈奏でる主体〉
という言葉をあてたのは、Aちゃんが「自覚的に音楽を演奏しはじめた」
という
意味合いを含めるためである。
「おお牧場はみどり」が音楽として流れていくことは、自分が「い
まここ」で、フロアタムに向かってドラムスティックを振り下ろし、一打、また一打と音を出してい
るという行為とつながっている。そのAちゃんの「自分の身体的な行為と音楽との関係への気づ
き」は、
〈自己〉の析出を導いているはずなのである。
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ところで、これまでのAちゃんも、タンバリンなどの楽器を使って、私と一緒に様々な曲を演
奏してきた。では、そのときのAちゃんは、今 回のような〈奏でる主 体〉ではなかったのだろう
か。曲目リストを指 差して私にリクエストし、好きな曲を弾 いてもらうことができる、というA
ちゃんも、ある意味ではしっかり自分というものを持っていたように思える。しかし、Aちゃんが
そうして自分から私に向かってくるのは、そのリクエストの瞬間がほとんどだった。演奏が始まっ
てしまえば、Aちゃんは音を出すことに伴う刺激を味わったり、音の世界と溶け合ったりすること
を主に楽しんでいたといえるのかもしれない。例えば自閉症をもつ Williams〔 1998〕は、色や
形と溶ける体験について書いているが、このように溶けているときは、自己の感覚はないか、
あっても背景化しているのだろう。
Aちゃんは、例えばタンバリンを手で叩いてみたり、太ももに打ちつけてみたり、小刻みに
振ってみたりと、鳴らし方を色々と試すこともあったので、
「自分が動く
(動きを変える)=音が鳴
・
る(変わる)」
という
「行為と音」の関係には気がついていたと思われる。しかし、このような自己
・・
への気づきは、今回の「自分が動く=音楽が流れていく」
という
「行為と音楽」の関係における
〈自己〉のあり方とは決定的に異なるものなのである。
Aちゃんが一打、また一打とフロアタムを叩きながら、それが「おお牧場はみどり」
という音楽
につながっていることにいままさに気づきつつあるように見えたことは、
「おお牧場はみどり」が、
1曲の音楽として聴こえてくることが自明となっていた私にとって、逆向きの新鮮な気づきをも
たらした。
「音・音・音」、という音の連続が、ひとつのまとまりをもった音楽として聴こえてくると
いうのは、よく考えてみれば不思議なことである。例えば音楽心理学では、刺激をできるだけ意
味のあるまとまり
(ゲシュタルト)
として知覚しようとする「郡化」や「体制化」の傾向からこれに関
する解説がなされているが〔ex. 谷口 2000〕、ここでは、それをAちゃんと私の〈出会い〉や、A
ちゃんとAちゃんの〈出会い〉
という視点から考えてみたい。
6-5. Aちゃんと私の〈出会い〉、AちゃんとAちゃんの〈出会い〉
Aちゃんが、自分が出している「ドン!ドン!ドン!」
という音を、
「おお牧場はみどり」
という音楽
として、その音楽との関係の中で理解するということは、目の前にいる私の演奏している音楽も
同時に聴き、それと関係しているということを意味する。しかし、すなわちそれが私との〈出会
い〉であると言い切るには少しはやい。それだけでは、Aちゃんに出会われていたのは、私の奏
でる音楽であり、音源としての私であると言い換えることも可能だからである。
さらに、Aちゃんは、例えばリクエストするときに、私の目をしっかり見て、私に向かってきて
いた。ある意味では、Aちゃんと私はそのようなときも出会っていたのではないかとも考えられ
る。しかし、そのような場合もまた、今回の〈出会い〉
とは異なるだろう。リクエストされる私は、
確かにAちゃんに向かい合う他者として出会われていたかもしれないが、そこでの私は、Aちゃ
んにとって、リクエストすれば音楽が流れる、再生ボタンのようなものとしての意味合いを強く
持たされていたように感じられるからである。
つまり、ここで言いたいのは、これまでのAちゃんに出会われていたのは、
「手段としての」私
・・・ ・・
という、私の一側面だったのであり、今回の〈出会い〉は、他の何かとして言い換えのきかない、
・ ・・・・
私そのものがAちゃんと出会っていた、という点で大きく異なり、それが体験のインパクトの正
体なのではないか、ということである。そして、Aちゃんが自分の出しているフロアタムの音を単
なる音ではなく、音楽として聴いていたことについて考えていくことが、今の問いと、さらにはA
ちゃんとAちゃんの〈出会い〉についての考察へとつながっていく。
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Aちゃんが、自分で出している音を音楽として聴くためには、音を出し、それを聴くだけでは
なく、同時にその聴いた音を、これまでの音と、次に続く音との間で関係づけ、次の音を出し、
またその音を聴き…、という、時間の流れの中での循環が必要となる。この循環において、A
ちゃんの中で、自分の行為と自分が聴く音とが関係づけられている。言い換えれば、演奏という
行為において、Aちゃんは自分で自分との関係を維持し続けているといえる。このように、音楽
を音楽として維持するためには、Aちゃんが自分との関係を維持し続けていなくてはならず、そ
れが単に「行為と音」
との関係に気づくときとの違いの一つとなり、Aちゃんの自覚、Aちゃんと
Aちゃんの〈出会い〉が生まれる舞台を用意したのではないか。
さらに、ここでAちゃんが自分で自分と関係しながら演奏しているのは、私との〈あいだ〉で響
いている音楽であった。自分で自分と関係しているだけでなく、Aちゃんが真に新しい〈自己〉の
輪郭を携えて私の前に現れたように感じられたのは、この〈あいだ〉における私という
〈他者〉
と
の〈出会い〉があったからこそではないだろうか。
いま生きている音楽の体験の中から、
「自分が自分である」
という
〈自己〉の輪郭を切り出すと
いうことは、
「自分以外のもの」
としての私という
〈他者〉の存在をはっきりと残すことでもある。
つまり、
「自己が自己である」
ということは、
「他者は自己ではない」
というかたちで、
〈他者〉の存
在と
〈出会う〉
ということなのではないだろうか。
「自己とは絶え間のないひとつの動き」
[ 木村
2005:196]であるということや、
「個別化の原理」
[ 前掲書 :9]
としての自己というのは、このよう
なことを指しているのだろう。
6-6.〈自己〉を扱う音楽療法
〈あいだ〉から、
「自己が自己として、他者が他者として出てくる」
というと、これまでの発達心
理学において、例えばワロン〔1983〕が自他未分の状態から自我が発生することによる
「私」8)の
意識の成立を述べたことと重なる部分が大きいだろう。発達心理学における
「私」は、一度成立
してしまえば、その「私」が恒常的にその後の人生の主人公として生きていくとされる。自我の発
生以前の、自他未分の時代を想定するからこそ、大人になってからも他者との気持ちの通じ合
いに開かれているのだと考える立場もあるが、基本的には、
「私」が「私」であることは、疑うこと
のない自明のこととされる。
そして、そのことを前提に子どもの前に立つ音楽療法士は、たとえ子どもと相互に気持ちを通
わせ合うことがあっても、それは多くの場合、
「自」
と
「他」
としてすでに分離した「個」
と
「個」が、
「情動や気持ち」を交流させる、ということである。もちろん、そのこと自体は大切なことであり、
そのような気持ちの交流の喜びは、子どもの自己をふくよかに育てていくだろう。
しかしながら、
「私が私である」
ということや、
「自」
と
「他」の成立自体に難しさを抱えると考え
られるのが、自閉症の子どもたちではなかったか 9)。例えば 不安定なフロアタム に向かうA
ちゃんを、そうならないよう私がもっとリードしていれば、Aちゃんは早い段階でフロアタムでも
難なく演奏ができるようになっていたかもしれない。それはそれとして、
「フロアタムでも演奏が
できるAちゃん」を育てることができ、その喜びを共有できただろう。しかし、自閉症の子どもたち
の〈自己〉の成立に立ち合うには、こちら側がもつ「自」
と
「他」
という前提を括弧に入れ、
〈自己〉
が析出する〈あいだ〉
という源泉に身をおいてそれを共有する必要があるのではないか 10)。
そして、
〈出会い〉をもたらすときの〈音楽〉は、たとえ表面的には同じに聴こえても、それ以外の
音楽とはその意味を区別して捉えられることによって、より実践を照らす力をもつと考えられる。
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7. まとめ
音楽と自己をどう捉えるかについて考えながら
〈出会い〉の体験に迫ることが、本稿の狙いで
あった。これが果たして読み手の了解可能性に訴えることができるのかは、読み手からの返答
があるまでわからないが、ぜひ何らかの対話に開かれることを期待したい。
このときの〈出会い〉のインパクトは、Aちゃんが〈奏でる主体〉
となって、これまでとは違う
〈自
己〉の輪郭を携えて現れたことにあった。その内実は、音楽が音楽としてAちゃんによって生き
られること、つまり
「音楽を演奏しているのは他の誰でもない、自分である」
という実感とともに、
自分が自分と関係を持ち続けることで、AちゃんがAちゃんという他の誰でもない自分と
〈出会
う〉
ということであった。また、そのときの音楽は〈あいだ〉で鳴っており、Aちゃんによって生きら
れると同時に、私によっても生きられていたことが、そのAちゃんとAちゃんの〈出会い〉をもた
らし、私という
〈他者〉
との〈出会い〉
ともなりえたのであった。
論の展開の甘さから、
「音楽が〈あいだ〉で響いたから
〈出会い〉があった」、
「〈出会い〉があっ
たから
〈自己〉が生まれた」、
「〈自己〉が生まれたから
〈他者〉が生まれた」
というように、因果的に
読めてしまうところがあったかもしれない。しかしながら、おそらくこれらは全てが同時的に起
こったと捉える方が、出来事の実感としてはふさわしいように感じている。
8. 今後の課題
まだまだ発展途上の音楽療法について、その実践の知を「音楽療法ならでは」の実践の知と
して磨きたいという思いから、考察の進め方が煩雑になってしまった。至らない点は多々ある
が、その中でも特に大きいと思われる3点を今後の課題として述べておく。
第 一 に、木 村 が〈あ い だ〉を 議 論 す ると き に 前 提 にして い た「生 命 一 般 の 根 拠」
[木 村
2005:12]
との関わりについて論じることができなかった。そこに触れずに、
「自己が自己とし
て、他者が他者として出てくるような源泉の場所」
としての〈あいだ〉について述べようとするに
は、甚だ無理があることは承知しながらも、今回の〈出会い〉の体験に迫るにあたり、どうしても
その概念の一部を借りるような必要があった。機会を改めて、慎重に考え続けていきたい。
第二に、Aちゃんの新しい〈自己〉の析出が、いわゆる「自我の発生」
とは違うであろうことは理
解しつつ、それでも
「初めて知り合った」
と感じるほどこれまでと大きく異なる姿を見せた瞬間
だった、と言うために、微妙な差異について荒削りで論じるスタイルになった。本稿では新しい
〈自己〉の析出という現象について、Aちゃんの自己に焦点を当て、筆者の実感を重視した視点
からの記述を行ってきたが、異なる角度からより詳細に論じていくことも可能である。例えば、
「視線触発が気づかれないままに作動している状態」
〔 村上 2008:32〕や、
「行為の主体として
の自己感」
[ 山崎 2015:222]など、自閉症の子どもの自己に関する議論を踏まえれば、Aちゃん
の自己の様相をさらに丁寧にみていくことができるだろう。また、
〈あいだ〉における私と私との
〈出会い〉や私自身の自己、Aちゃんと楽器との関係性などに着目することも、考察を進める手
がかりとなるかもしれない。
第三に、
〈出会い〉や新しい〈自己〉の析出のポジティブな面だけしか描けなかったことも、今後
の課題として残してしまった。
〈あいだ〉がときに
〈自己〉の存在を脅かすこわさをもつことや、
〈自
己〉が育つからこそ起こる対人面におけるねじれのようなものについても、今後考察を深めたい。
なお、エピソード以降、 不安定なフロアタム は徐々に見られなくなっていった。今回のエピ
ソードの意味を長期的な視点からも捉え直しつつ、現在も継続中の音楽療法を、Aちゃんにとっ
て意味ある時間としてさらに充実させていくことを、何よりの課題としたい。
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謝辞:本論文を作成するにあたり、快く同意してくださったAちゃんのご家族の皆様と、Z事業所の
皆様に、心から感謝いたします。
本論文は、日本発達心理学会第 26 回(2015 年)大会でのポスター発表「音楽療法における
『出会い』
をめぐって : ある自閉症の子どもと音楽療法士が共に演奏する場面から」
を基に、加
筆・修正を加えたものである。
注
01)山松自身は、
「山松派」を育てたいという思いに囚われることがなく、それぞれがそれぞれの
思う音楽療法に取り組むことを願っていたため、厳密に「山松方式」の音楽療法が存在する
わけではないとも言える。
02)今回の〈出会い〉の場面で現れた〈奏でる主体〉
としてのAちゃんの自己については、
〈 〉つき
の〈自己〉
と表し、一般的な自己と区別する。
03)
ここで山 松〔1997〕の いう
「みる」には、肉 眼で視 覚 的 に「見る」
ことだ けではなく、相 手を
「みる姿勢」
といった態度の問題が含みこまれている。そのため、この記述は、本論におけ
る『いかに音楽を「きく」か』
という問題にもつながるものとして読むことができる。
04)敷地面積約 100 ㎡の2階建と、約 70 ㎡の 3 階建という2 箇所の場所を持ち、それぞれの
定員は 1 日 10 名である。
05)1回の対象児約 10 名、音楽療法士 1 名。
06)対象児約 20 名、音楽療法士 6 名。子ども1 名に対して音楽療法士 2 名が関わる。
07)
この楽譜集には、昔ながらの童謡や、子ども向けテレビ番組で流れる曲などが載っている。
Aちゃんは、字を読んで好きな曲を探し、リクエストすることができた。リクエストされた曲目を音
楽療法の終了後に私が順番に紙に書いていき、現在ではA4用紙2枚に40曲ほどが並んでいる。
08)筆者を意味する一人称的な私と区別するために、発達心理学の概念の中で登場する場合
には、
「」をつけ、
「私」
と表した。
09)例えば木村は、
「統合失調症と自閉症の接点は、自己というものの成立の問題」
〔 十一・小林・
木村 2004:253〕であるとしている。
10)おそらく、多くの音楽療法士にとって、このような態度と、そこから立ち現れてくるできごとは、
むしろ日常的な体験なのではないだろうか。喜びの共有も、本来は間主観的な〈あいだ〉を
通して感じられていると考えられる。問題は、そのような〈あいだ〉を扱うことのできない研
究のあり方にあるのではないだろうか。
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