新 市史抄片 【問】市生涯学習課市史編さん係(☎ 72・1275) No.130 真田信繁と立花宗茂 【写真 2】正段御別荘東側(同右) 市史編さん係 白石直樹 【写真 3】筑紫町の消防団第 3 分団倉庫前 にある御別邸跡の記念碑 「 旧 柳 川 藩 主 立 花 家 の 別 邸 と は 」 と 問 え ば、「 御 花 」 と いう答えがすぐに返ってくる かと思います。また江戸時代 以 来、 黒 崎 岬( 現 大 牟 田 市 ) にも「黒崎別荘」と呼ばれる 立花家の別荘がありました。 柳川古文書館副館長 田渕義樹 たん 反、 余 田 四 畝 歩 な り と 」 と あ せ ぶ り、実際に後に売り払われて います。 掲載している写真1と2 は、市内にお住まいの津村博 安・フキヨご夫妻の子息、高 年前 40 也さんから提供していただき ました。写真1は昭和 後に「正段御別荘」の門(南 向き)の前で撮影、写真2は 42 年ごろに東側から写したも の だ と い う こ と で す。 別 荘 は 年代までは 40 売られたものの、高也さんの 記憶によれば、 そのまま残されており、庭も 大変立派だったそうです。 柳川古文書館が管理してい る旧藩主立花家史料の中に 年 31 実は、市内にもう1つ立花 家 の 別 邸 が あ っ た の で す が、 日条に風斗 29 皆さん知っていましたか。 月 25 を 明治以降、立花家の家れ政 い ふ 記した家政会の日記「令扶日 896)年 11 記」を見ていくと、明治 (1 氏の宅地などを購入して登記 が終了したことが記されてい 日には、その ます。そして、大正2(19 13)年7月 39 「正段御別荘日記」(明治 ~ 年)が残されていますが、 「思ひ出」写真館 簡単な記述しかなく、写真に 写っている門を含めた建物や 庭 が、 風 斗 氏 時 代 の も の で あ っ た か、 ま た 立 花 家 の 時 代 に造られたものかなど、はっ 市史抄片別巻 vol.22 きりしない点も多いのが残念 です。なにかこの「正段御別 となった両者ですが、その後の人生は大きく異なった ものとなったのです。 荘」についてご存知の方は当 たため、両者が直接相まみえることはなかったと考え られます。同じ年に生まれ、関ヶ原合戦後ともに牢人 館までお知らせください。 ついに戦死してしまいます。宗茂は、将軍秀忠のそば 近くで活動し、本格的な戦闘には加わらなかったよう です。 宗茂は北部九州、信繁は信濃や北関東で主に活動し 屋敷を立花弘樹氏に貸し出し しょうだん ています。この屋敷は「正段 御別荘」とも呼ばれていまし た。 と こ ろ が、「 柳 河 新 報 」 大 正8年4月1日号には「○立 花 家 所 有 屋 敷 売 却 」 と し て、 「沖端村大字筑紫南正段元風 斗氏住宅は立花伯爵家の所有 か ん が ゆうせい ぐうきょ に帰し、閑雅幽静の仙境にし かつ て、嘗て立花弘樹氏の寓居た 広報やながわ 2016.4.1 翌年の大坂夏の陣では、信繁は 5 月7日の天王寺口 の決戦で、一時は徳川家康の本陣にまで迫りますが、 12 もう 1 つの立花家別邸 なお、この別邸があった場 所は、筑紫町の消防団第3分 35 大名となっていた宗茂は、徳川方の一員として同年 11 月に大坂城の包囲陣に参加。これが、いわゆる大 坂冬の陣です。 信繁は、大坂城南側に真田丸と呼ばれた出城を設け て、徳川方の軍勢を撃退しました。一方の宗茂は、大 て ん ま が わ 坂城北側の天 満川右岸浜筋に布陣したとされていま す。 団倉庫の辺り一帯で、記念の 単に落とせると思っていたことでしょう。 皆さんご存知のとおり、関ヶ原合戦は東軍が勝利し たことで、立花家は大名としての地位を失い、宗茂は ろうにん 上方で 6 年間も牢人生活を送ることになります。真田 家は、信繁の兄信之が東軍に付いたため大名として存 きしゅう く ど やま 続するものの、信繁は父昌幸とともに紀州九度山で謹 もとつぐ に応じ、長曽我部盛親や後藤基次ら有力牢人たちとと もに大坂城に入城します。これに対し、慶長 11 年に おうしゅう たなぐらまち 許されて奥州南郷(現福島県東白川郡棚倉町一帯)の 石碑が建てられています。 もる昌幸・信繁父子を攻略する予定であることを告げ る書状が残っています。この段階では、上田城など簡 ち ょ う そ か べ もりちか り し が、 弘 樹 氏 も 移 転 さ れ、 慎させられ、父昌幸はそこで亡くなります。 ひでより 慶長 19(1614)年 10 月、信繁は豊臣秀 頼の招き もっ 現在 NHK で大河ドラマ『真田丸』が放送されてい ゆきむら のぶ ます。主人公は幸 村の名でよく知られている真田信 しげ 繁 ですが、実は初代柳川藩主立花宗茂と同じ永禄 10 (1567)年の生まれです(ただし、宗茂の生まれ年に は異説もあります) 。 慶長 5(1600)年の関ヶ原合戦の際には、宗茂と まさゆき 同じく、信繁も父昌幸とともに毛利・石田方の西軍に きょうごくたかつぐ 付きます。宗茂は、徳川方である東軍の大名京極高次 のこもる大津城攻めを担当し、落城させます。真田昌 ひでただ 幸・信繁父子は、居城上田城で徳川秀忠の率いる大軍 を遮ります。そのため、秀忠は関ヶ原の決戦には間に 合いませんでした。 ちなみに、 柳川古文書館が所蔵する「田中文書」には、 じょうしゅう あんなかし 上 州松井田(現群馬県安中市松井田町)に着陣した秀 忠が田中吉政の嫡子吉次に対し、これから上田城にこ 今 や 不 用 と な り た る を 以 て、 大坂冬の陣で宗茂が発した陣中法度(吉田家文書) 希 望 者 に 売 却 せ ら る る よ し、 ちなみ 因 に 建 家 六 十 七 坪、 宅 地 二 真田攻めを告げる徳川秀忠書状写(田中文書) 【写真 1】正段御別荘の門前(津村家提供) 市史編集委員会では、数年後に写真を中心とした本を刊行 する予定で、現在さまざまな写真や絵はがきなどを集めてい ます。毎月1日号に、同委員会で調査した写真を紹介します。 【問】市生涯学習課市史編さん係(☎ 72・1275) 広報やながわ 2016.4.1 34
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