「思ひ出」写真館

【絵はがき 】柳河町上水道起工式・喞筒室(野
口屋メガネ店所蔵)
新 市史抄片
【問】市生涯学習課市史編さん係(☎ 72・1275)
No.138
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絹に書かれた古文書~足利高氏の軍勢催促状~
柳川古文書館副館長 田渕義樹
【絵はがき 2】柳河町上水道配水塔(野口屋メガネ店所蔵)
記念して発行された絵はがき
今回は、昭和3(1928)
年に、柳河町上水道の通水を
取 り 上 げ ら れ、 天 候 や 自 然
ます。同様に飲用水の問題も
を紹介します。
「水郷柳川」という言葉のと
おり、川下りの舟が行き交う
情景が印象的な柳川の掘割で
か な け
す が、 そ の 水 は、 塩 分 や 金 気
を多く含む地下水の代わり
に、飲用水としても使われて
市史編さん係 伊東かおり
ラクチャーの整備が論じられ
災害で水質が左右される掘割
は、いくら利用規則を設けて
も衛生上適当ではないという
見方が強まり、上水道整備が
検討されます。
そうした気運の高まりを受
け、上水道敷設の具体的な調
(192
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査が大正時代の中頃に始まり
ま す。 そ し て 大 正
6) 年、 柳 河 町 で 起 工 し、 水
源地と配水塔が設置され、昭
和 2( 1 9 2 7) 年 に 竣 工、
約7200戸に給水が行われ
ました(『新柳川明証図会』)。
【 絵 は が き 1】 に は、 起そ工
くとう
式の模様と後に完成した喞筒
ま す。 柳 河 町 の 水 源 地 は、 給
「思ひ出」写真館
(ポンプ)室が印刷されてい
水直後に急激な水質悪化が問
題 と な り(「 柳 河 水 道 の 水 質
問 題 に 就 て 」『 柳 河 新 報 』 昭
日 付 )、 城 内 村
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い ま し た。 江 戸 時 代 に も、 夏
ほりすじ
の間堀筋での水浴びを禁止す
るなど、堀割の利用には一定
の決まりがあったようです。
号「 飲 用 河 川 取
明治時代に入ると衛生観念
の普及から明治 (1896)
年、 県 令 第
締規則」が制定され、掘割の
利用に関するルールが明文化
されます。これにより掘割の
美化保全が義務づけられ、ま
せんでき
た「午前一時ヨリ同八時迄ノ
みだ
間ハ妄リニ物品ノ洗滌ヲナス
べ
可カラス」など利用時間も決
和2年9月
広報やながわ 201612.1
め ら れ ま し た( 甲 本 清『 柳 川
31
を初めて開催する予定です。ご期待ください。
市史抄片別巻 vol.30
や三橋町磯鳥に水源地が新設
大友近江入道殿
いかと考えられています。
来年度、柳川古文書館ではこの絹に書かれた書状
をはじめとして「大友家文書」を主題とした展覧会
の歴史と文化』)。
そうろう
されます。
こうむ
さ ら に 明 治 後 期 に な る と、
『柳河新報』紙上を中心に「柳
ほうきのくに よ
伯 耆国自 り 勅命を蒙 り候 の間、参らしめ候の
ところ
ご ど う し ん
よし
じょう
い え つ
そ
処、遮って御 同心の由 承り候の条、為 悦候、其
し さ い お ん し
そうら
おわん
きょうきょう き ん げ ん
の子細御使に申し候い畢ぬ、恐 々謹言、
か お う
四月二十九日 高氏(花押)
メートルの配水塔は、モダ
ています。
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一 方、【 絵 は が き 2】 の 伝
習館高校横に建設された高さ
まさにこの日、足利高氏は、大友近江入道殿 ( 大友
貞宗 ) に対して、写真のような軍勢催促の手紙を出し
しても同様の小絹布の手紙が出されていたことが確
きないきんごく
認されています。2 日前の 4 月 27 日付で畿内近国の
武士に出された手紙は、通常の大きさの和紙に書か
れたものであるため、4 月 29 日に出された小絹布の
3 通は、遠方なので、敵方に見つからないよう密使の
もとどり
髻 ( 髪を束ねた所 ) に隠して運べる形にしたのではな
河発展策」が盛んに主張され、
羅守護のために京都へ下ってきた足利高氏は、4 月
29 日、丹波国篠村 ( 現京都府亀山市 ) で自筆と言わ
がんもん
れる願 文を篠村八幡に捧げ、後醍醐天皇側につくこ
とを明らかにします。
城 内 村・ 柳 河 町・ 沖 端 町・ 瀬
高氏はそれを受けて味方に参上することを決心した
ところ、それに先立って、大友貞宗が味方につくこ
とを聞きうれしい、とこの手紙で述べています。
実は、この日付で、少なくとも阿蘇氏・島津氏に対
ンな建築物とされ柳川のシン
今回はこれをご紹介します。
元弘 3(1333)年、鎌倉幕府の軍勢を率いて六波
高 町・ 大 川 町・ 三 橋 村・ 大 和
によっていました。その伯耆国 ( 後醍醐天皇 ) から高
氏に対して、
自身の味方に付くよう「勅命」が出され、
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柳河町上水道通水記念絵はがき
ボルとして親しまれました。
当館が管理している国重要文化財「大友家文書」の中
け ん ぷ
には、小さな絹布に書かれた手紙が遺されています。
村 の 合 併 や、 鉄 道・ 電 信・ 電
るかも知れません。それは間違いではないのですが、
この頃、元弘の乱で隠岐島に配流された後醍醐天皇
な わ ながとし
は島から脱出し、伯耆国の名 和長 年に護られ船上山
古文書と聞くと、
「和紙に書かれたもの」と思われ
話といった他のインフラスト
【写真】足利高氏書状 ( 小絹布・縦 10.5 ㎝×橫 8.4 ㎝ )
足利高氏は、元弘 3 年 8 月 5 日に、後醍醐天皇の諱の
一字「尊」をもらい、「高氏」から「尊氏」と改めます。
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市史編集委員会では、数年後に写真を中心とした本を刊行
する予定で、現在さまざまな写真や絵はがきなどを集めてい
ます。毎月1日号に、同委員会で集めた写真を紹介します。
【問】市生涯学習課市史編さん係(☎ 72・1275)
広報やながわ 2016.12.1
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