「思ひ出」写真館

新 市史抄片
【問】市生涯学習課市史編さん係(☎ 72・1275)
No.141
柳川の住宅の座敷構成の変化 3 ~欄間~
箱の蓋裏
市史編集委員 松岡高弘
【写真 1】部屋境の筬欄間(明治 41 年)
【写真 2】
部屋境の彫刻欄間
(19 世紀前期)
【写真 3】
部屋境の透かし彫り欄間
(明治 32 年)
箱裏の墨書
【写真 6】縁側の透かし彫り欄間(明治 10 年)
3年後、明治4年に撮影されたガ
昨年の3月号で戊辰戦争時の写
真を紹介しましたが、今回はその
ころ、その材料がありません。
思われますが、残念ながら今のと
ラス湿板写真を紹介します。
ス タ ジ オ で 撮 影 さ れ た も の で、
中央の人物は断髪して羽織・袴を
着用しています。左の人物は断髪
で詰め襟を着用し、椅子の上にあ
ぐらをかいています。右の人物は
ちょんまげ
ふた
ます。桐箱に納められていて、蓋
市史編さん係 江島香
れば、だれの撮影か推定できると
あきとも
ところで、明治4年9月という
のは廃藩置県が行われた2か月後
日に柳
10
で、旧柳河藩主立花家当主鑑寛は
東京に移住するため9月
まごいちろう
日条に
21
川 を 出 発 し ま す。 そ れ に 従 っ て 東
月
11
京 に 行 っ た 吉 田 孫一 郎 と い う 旧 藩
士 の 日 記 に は、 同 年
「昼過左之人数倉前写真屋へ参り
て一同写真いたす」という記事が
確認できます。すなわち、「倉前」
の写真師のところで写真撮影をし
た、ということなのですが、ここ
には「甲斐則道」の名前は出てき
ません。ただし、甲斐則道が旧柳
河藩江戸藩邸(上屋敷か)で仕事
をしていた可能性もあり、この吉
田 日 記 の 記 事 と 同 様、「 倉 前 」 で
「思ひ出」写真館
撮影した可能性も考えられます。
写真撮影をすることになったい
きさつは分かりませんが、写真が
珍 し か っ た 時 代、 連 れ だ っ て 記 念
撮影に行ったのではないでしょう
か。
今まで戊辰戦争時の写真は数点
市史抄片別巻 vol.33
丁髷を結い、和装で従者と思われ
裏に「写真館/本郷春三天澤□/
□ 亭 □ □ □ 写 」 の 貼 り 紙 が あ り、
蓋 裏 に「 ヤ ナ カ イ 」( 柳 川 甲 斐 の
意味か)の、箱裏に「明治四年辛
未九月吉日/甲斐源則道(花押)」
の墨書があります。中央の人物が
戊辰戦争に従軍した甲斐岩蔵では
ないかと推測されますが、今のと
ころ確定できません。
まず箱裏の墨書から、明治4年
9 月 の 撮 影 と 推 測 さ れ ま す。「 本
郷」が地名とすれば、明治4年東
京本郷で開業していた写真師の撮
影と考えられます。撮影した写真
師は今のところ確認できません
確 認 さ れ て い ま す が、 こ の 明 治 4
との境は大きくなり、このような相矛盾する傾向は、
住宅の造り方に関係しています。
が、その頃東京で開業していたの
高くなり、縁側部分の屋根も高くなることに関係し
ています。
昭和戦前期の欄間は、縁側との境は小さく、外部
年という時期の柳川に関係したも
広報やながわ 2017.3.1
たと思われます。
一方、縁側の欄間では、成が1尺を超える大きな
欄間が昭和戦前期に増えます。これは住宅の立ちが
の は 確 認 し た こ と が あ り ま せ ん。
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う か い ぎょくせん
欄間に刻印をする場合があります。市内では昭和初
期の住宅の欄間で「村石刻作」と「黒田彫刻師」の
2 種類を確認しています。居住地は、前者が大川の
治が約 0.55、昭和戦前期が約 0.49 になっています。
昭和になってその値が小さくなるのは、欄間の敷居
こ か べ
の下に小壁ができることと関係しています(写真 9)。
にじゅう
ありかべ
な げ し
二重廻縁や蟻壁・蟻壁長押がある場合、その値が 0.4
以下となることも少なくありません。昭和になると
電灯の使用が増え、大きな欄間の必要性が小さくなっ
は、『 日 本 の 写 真 家 』 と い う 書 籍
ます。また、硝子を使用することが縁側の欄間に増
えていきます。
欄間の作者は分からない場合がほとんどですが、
から拾ってみると、鵜飼玉川(文
ことが多いようです。明治中期以降、薄い板に透か
く み こ
し彫りをしたり、細かな組子を見ることができます。
彫刻欄間(写真 8)も複雑な造形を示すようになり
/X)に注目します(図1)。町屋・農家を除いた住
宅で、各時代のその値の平均値をみると、江戸と明
明治 4 年のガラス湿板写真
そうした意味からも大変貴重な写
振りの造形になっています。また、縁側の欄間には
ぶ
太い格子や 5 分ほどの厚さの板に透かし彫りとする
②欄間の大きさ
せい
欄間の高さである成 は大きいものから小さいもの
へと変化します。縁側境の欄間の成(Y)を鴨居
し た ば
まわり ぶ ち
下端から天井 廻 縁までの長さ(X)で除した値(Y
真であることは間違いありませ
や彫刻欄間(写真 2)、透かし彫り欄間(写真 3)、縁
は
側境では障子(写真 4)が多く、引き違いや嵌 め殺
しなど、さまざまです。縁側の欄間はほとんどが嵌
め殺しで、格子(写真 5)、透かし彫り欄間(写真 6)、
ガ ラ ス
硝子(写真 7)などがあります。
江戸時代や明治前期の古い住宅の欄間として筬欄
間が使われることがあります。彫刻欄間の場合、大
留米市草野町)の彫刻を、黒田太吉は昭和 2 年の清
水寺本堂(みやま市瀬高町)の彫刻を担当していた
ことが知られています。
ん。
使用される欄間は、部屋境では筬 欄間(写真 1)
や げ ん ぼ り
おさ
榎津、後者が大川の小保です。
しげぞう
す さ の お
なお、村石繁 造は明治 19 年の須 佐能袁神社(久
久元年開業、両国薬研堀)をはじ
欄間は、採光や通風のために天井と鴨居の間にあ
り、座敷と次の間との部屋境や座敷と縁側との縁側
境、縁側に設けられ、時代による変化が見られます。
それは、①意匠と②大きさの 2 点です。なお、書院
にも欄間はありますが、今回は対象外にしています。
①欄間の意匠
【図 1】展開図(縁側境)
人が確認できます。それぞれ
【写真 9】縁側境の欄間 硝子障子(昭和7年)
め
【写真 8】部屋境の彫刻欄間(昭和 3 年頃)
の作品やスタジオの様子を比較す
【写真 7】縁側の欄間 硝子嵌め殺し(昭和 10 年)
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「 甲 斐 則 道 」 と 思 わ れ、 お そ ら く
【写真 5】縁側の欄間 格子(明治 10 年)
【写真 4】縁側境の障子欄間(明治前期)
明治 4 年のガラス湿板写真(甲斐正三氏寄贈・橋本文夫氏撮影)
市史編集委員会では、数年後に写真を中心とした本を刊行
する予定で、現在さまざまな写真や絵はがきなどを集めてい
ます。毎月1日号に、同委員会で集めた写真を紹介します。
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