第84回全国盲学校弁論大会優勝弁論 光り輝くあの月へ 福島県立盲学校高等部専攻科理療科1年 渡邊 健 私が生まれて一年後、1969年7月20日、天上に燦然と輝くあの月に宇宙 史上初めて人類が降り立ちました。アポロ11号です。まさに「歴史的な第一 歩」でした。 地球から38万5000kmもの遥か彼方にあるあの月に、どうやって人が たどり着いたのか、幼い私には想像することすら叶いませんでした。 では光り輝くあの月は私たちにとって本当に遠い存在なのでしょうか? ある数学者がこんなことを言っています。 「ここに厚さ0,1mmの紙があります。この紙を一回折ればその厚さは0, 2mm、二回折れば0,4mm、三回折れば0,8mmになります。ではこの 紙を何回折ればその厚さが38万5000km彼方にあるあの月まで届くので しょうか?」 小学生にきいてみると、大概1万回、あるいは100万回などと答えます。 しかし計算してみると、なんと驚くことにたったの42回なのです。こうして 考えてみると、月も案外近くにあるのだなと思えてきます。 私はこれまでの23年間、小学校や中学校の教員として働いてきました。夜 中まで仕事に追われることも珍しくはありませんでしたが、何より生徒たちと 関わり合うことが楽しくて楽しくてなりませんでした。 小学生はどんな時でも純粋で、中学生はどんな時でも自分の気持ちに正直で した。それぞれに悩みがあって、それぞれに希望があって、そんな大切な時期 の子供たちと関わりあう中で、どれほど多くのエネルギーをいただいたか知れ ません。本当にかけがえのない贅沢な時間でした。 しかしそんな充実した生活の中にも、じわりじわりと困難が迫ってきました。 ある日、縦書きの文庫本が読めなくなった。 ある日、黒板に自分で書いた板書が読めなくなった。 ある日、料理上手の妻の手料理が、美味しそうな香りはするのだけれど、そ の彩がわからなくなった。 しかし、一番切なかったのは大好きな生徒たち、何より愛する我が娘の表情 がはっきりと捉えられなくなったこと。毎日が自分の中にあるいらだちと切な さとの葛藤の日々。 そんなある日、小学生の娘が 「目が見えなくなったってパパはパパ。私がパパの分まで見てあげるよ!」 そう言って私を優しく手引きしてくれました。衝撃を受けました。こんなに もすてきな家族が私のすぐそばにいるのに、私はこの数年間、どんな背中を見 せてきたのか?哀れと思ってもらいたかったか?大丈夫だよと肩でも抱いてほ しかったか?それでも俺は父親か?それでも妻が愛せる夫なのか?…実に情けな い。 「なぜ今苦しいのか?」 できることがどんどん少なくなっていく恐怖。 いつか自分は「ゼロ」になってしまうのではないかという呪縛。 でも…何か忘れていないか? 何か…。 その時パパは気がついた!忘れてた!ワクワクすること。ドキドキすること。 ハラハラすること。そしてその感情を努力して楽しむこと。新たに出会う人・ ものにときめくこと。新鮮さをこの胸で、この体で味わうこと。今までだって ずっとそうしてきたじゃないか!新たな出会いの喜びこそが心や体の障害だけ でなく、国や人種、宗教の間に生じる障害だって乗り越えられるはずだと今ま で教室で熱く語ってきたじゃないか!しまった、忘れてた! そう思って外に目を向けた時、そこにこの盲学校の存在がありました。その とき、脳内にすうっと光が差し込んできた感覚をよく覚えています。それはま さに、暗闇に座り込んでいた私をやわらかく照らしてくれる月の光にも似た、 ぎらぎらと照りつける太陽とは違った実に穏やかな光でした。この学校はきっ と私の「希望の月」になる、今そう思えるのです。 今年、47 才にしてグランドソフトボール部に入部した私。19 才のクラスメイ トのM君に半ば強制的に入部させられました。しかしこれが実に面白い!灼熱 のグラウンドで、あらゆる関節の痛みに耐えながら仲間とともに汗を流す日々。 そしてフロアバレー部での17年ぶりの東北大会優勝。感動しました。私は応 援だけでしたが。なぜか左膝関節が痛いです。これもまた新たな自分。 あの光り輝く希望の月はそんなに遠くにあるわけじゃない。この学校で新た な一歩を踏み出した自分は、まさに今、月に向かって0,1mmの紙を確実に 折り始めたのだと実感しています。 五十を前にした私は、0,1mmのステンレス板ではありますが。 会場のみなさんも紙を折ってみませんか? 清水次郎長のように男のロマンを胸に秘め、沼津の山葵のようにピリッとさ わやかに、浜松の鰻のように味わい深く生きていきたい。さすればリングのよ うに輝くあの月にたどり着ける日がきっと来る。自分自身の「月面」に「歴史 的な一歩」をしっかりと刻み込む。それが今の私のプライドです。 さあ、いざ行かん!光輝くあの「希望の月」へ! よーし、あとはパパに任せろ!
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