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高麗における軍令權の構造とその變質
矢木, 毅
東方學報 (1998), 70: 291-327
1998-03-27
http://hdl.handle.net/2433/66795
Right
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Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
東方学報 京都第七〇筋 二 九九八)
︰二九 丁 三二七頁
高麗 における軍令樺 の構造 とそ の愛質
はじめ に
山 軍人層 の構成
二指
揮官職 の構成
はじめ に
三 司令官職 の構成
おわり に
矢
木
看五
三六
四 肘兵 の雨域と私兵 ・
・
・
⋮--・
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・
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・
---・
・
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権力を管 理す る には、 これを分割し ておかなければならな い。高麗前期 における軍事樺力 は、武選 ・軍務 ・儀禽 ・郵輝
の政を掌 る同書兵部 や、山納 ・宿衛 ・軍機 の政を掌 る枢密院' そうし て軍隊 そ のも のの組織 であ る二軍六衛 など に分割し
て管 理され、 これを専制君主 たる国王が線携す ると いう構成 を取 っていたが、 このうち周書兵部と枢密院 と の分立 は、あ
たかも鳶 日本 の明治憲法下 におけ る軍政と軍令と の分豆 とし て理解す る ことが でき る であ ろうO
武官人事 そ の他 の軍事行政 (
軍政)を掌 る尚書真部 に封 し て、枢密院 の掌 ると ころは軍隊 そ のも のにおける指揮 ・命令'
すなわち軍事命令 (
軍令)に関す る事柄 であ る。も っとも枢密院 が軍令を掌 ると いう のは'正確 には国土 の軍令 を倍達す る
朗
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東 方 学 報
ことを掌 っている の であ って、軍 隊 そ のも のを直接 に指揮 す る権 限 は、平時 には二軍 六衛 の各 領 の将軍 に、戦時 には この
将軍 を統括 す る兵馬使 に、 それ ぞれ委 ねられ る こと にな っていた。
こ のよう に高麗 の軍事権 力 が さまざ まな次 元 で周 到 に分割 し て管 理 され ていた こと は、言 う ま でもな-軍隊 の私兵化 や
軍事 ク ーデタ ー の寄生 を濠防 す るため の制度上 の配慮 に他 な らな い。 そうし てこのさまざ ま に分割 され た軍事権 力 を最終
的 には国王 l人 が緒撹 す る こと によ って、高麗前期 におけ る中 央集権的 な軍事髄 制 が確豆 し ていたも のと いう ことが でき
る であ ろう。
しかし この中央集権的 な軍 事髄制 は、高麗後期 に入 ると打 ち績 -戦乱 や園難 に遭 って崩 壊 し、高 麗末期 にはむし ろ私 兵
の全盛 とも栴す べき ような分槽的 な軍事鰻制 が形成 され るま でに聾化 し てい ってし まう。本 稿 では こうし た塑化 を軍事権
力 の構造的 な側面 から、特 に軍令樺 の構造 の壁質 の過程 と し て分析 す る ことを試 み ておき た い。
高麗末期 の私 兵勢 力 は、次 に朝鮮初期 の約数十年 を かけ て ﹃
経 園大典﹄兵典 に見 られ るような中 央集権的 な軍事健制 へ
と打 ち直 され ていく こと にな る のだ が、 そう し た朝鮮初期 の軍事髄制 を高麗朝 のそれと比 較 す る意 味 でも、 まず は高麗朝
そ のも のの軍事健 制 を構造 的 に明 ら か にし てお い て、 そ こから如何 にし て私兵勢 力 が形成 され るよう にな ってい ったかを
考察 し ておき た いと思 う の であ る。
一 軍人膚 の構成
軍隊 を如何 にし て編成 す るかと いう こと は、軍令 そ のも のと いう より はむし ろ軍政上 の問題 であ るが、 と は いえ軍隊 の
編成 がな け れば軍 令 そ のも のも意 味 を成 さな い の で、 こ こ ではまず そう し た軍 隊 の編 成 に関 す る問題 か ら考 察 し たう え
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高麗における軍令樺の構造 とその愛質
で、 順次 そ の指揮 ・命令 のあり方 へと考察を押 し及ぼし ていく こと にした い。
高麗国軍 の主力 は三十八領 三高八千人 の軍人層 によ って構成 され ていたが' このこと は ﹃
高麗史﹄李戒用侍 に見 える次
の記述 によ って明 らか であ ろう。
「・
」
高麗 に三十八領有 り。領ご と に各 々千人、通 じ て三高八千人と質す。
今 この記述を ﹃
高麗史﹄兵志 に見える兵制と比較 し てみると、兵志 にいわゆる二軍六衛 の内、左右衛 ・紳虎衛 ・興威衛 ・
金吾衛 の四衛 に分属す る保勝軍 二十 二領、精 勇軍十六領、計 三十八領 の兵数 が、あ たかも李戒 用侍 に見 える三十 八領 の兵
0 1八)九月債 の記述 によると'国王
数 とぴ ったり l致 し ている こと に気づ- のであ る。 ただし兵志、兵制、額宗九年 (1
/
J・
J
)
は宣化門 に御 し て三衛 ・鷹揚軍 ・功臣子孫、及び文班六品以下 の武聾あ るも のを集 め、試 し て科等 を定めたと いい、 また
﹃
宣和奉使高麗固経﹄伎衛 の記述 によると、高麗 には 「
親衛」とし て龍虎衛 ・紳虎衛 ・興威衛 の三衛 があ った ことが記述 さ
(
1
1
二
れ ている ので'高麗前期 の本来 の兵制 では この三十八領 の保勝軍 ・精 勇軍 が龍 虎衛 ・紳虎 衛 ・興威衛 の三衛 に のみ分属
し、金吾衛 には分属 し ていなか った のではな いかとも考 えられ る。 そうし て左右衛 は本来 ﹃
高麗囲経﹄ に見 られ るよう に
龍虎衛 と栴 し ていたも のが、 そ の 一部を後述す る近使軍 とし ての龍虎軍 に改組 した こと によ って、龍虎軍以外 の残 りを左
右衛 と栴 す るよう にな った のではな いかとも考 えられ る。
このよう に三十八領 三高八千人 の保勝軍 ・精勇軍 が本来ど のような形 で六衛 に分属し ていた のか は必ずしも明らか では
な いが' ともあれ それ は中央 の六衛 に分属し て、高麗国軍 におけ る中核兵力 とし ての機能を果 たし ていた のであ る。
と ころ でこの中央 の六衛 に分属す る三十八領 三高八千人 の保勝軍 ・精勇軍 は、中央軍 であ ると同時 に'あ る意味 では州
願 に居住す る州解軍 とし ても記述 され ている。﹃
高麗史﹄兵志、州解軍候 に見 える高麗後期 のあ る l時鮎 におけ る登録兵数
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東 方 学 報
(
4
)
の記録 によると、原則とし て王京 への番上義務 を免除 され ている遠境特別地域 のいわゆる両界を除 いた交州道 ・楊魔道 ・
慶間道 ・全羅道 ・西海道 の五道 にお いて'保勝軍八千六百 一人、精 勇軍 〓馬九千七百五十 四人、合計 二寓 八千 三百五十 五
人 の軍人 が、 この時期軍籍上 に登録 され ていた ことが記録 され ているが、 これら はそ の居住す る州解 にお いて登録 され て
いるとは いえ、制度 の上 では中央 の六衛 に分属し ている のであ って、六衛 の外 に別個 に州願軍 と いう軍隊 が存在 し ている
I
.
・I
J
)
わけ ではな い。 つまり兵志、州願軍候 に記録 され ている葺勢数 とし ての保勝軍 ・精 勇軍 (
合計二寓八千三百五十五人)は、 そ
る
。
のまま定額 とし ては三十 八領 三高 八千人 の保勝軍 ・精 勇軍 に該嘗 す るも のとし て理解 し ておかなければな らな い のであ
「
・I
)
このよう に中央軍 とし ての保勝軍 ・精勇軍 が'同時 に州願軍とし ても記録 され ていると いう のは、彼 らが番上時 に王京
に出向 いて軍役 に従事 す るととも に、番休時 には州解 に蹄郷 し て農業 に従事 す る いわゆる農民兵 であ ったから に他 ならな
い。高麗 の兵制 は 一般 に中国唐朝 の府兵制度 に倣 ったも のと いわれ ているが' この府兵制度 にお いては地方 の折衝府 から
(
)
中央 の諸衛 へと府兵 が番上 し て- る制度 にな っていた。高麗 の保勝軍 ・精勇軍 が、 これと同 じよう に地方 から番上 し て-
る農民兵 であ った こと は、高麗初期 に唐制 に倣 った折衝府 が存在 し ていた事薫 によ って、嘗然 のこととし て類推 されなけ
ればならな いのであ る。
﹃
高麗史﹄食貨志'田制、穆宗元年 (
九九八)候 の記述 によると、両班宮人'及び軍人 に封 す る領地 (
両班田 ・軍人田)の給
田額を規定 した穆宗朝 の田制 にお いて、折衝都尉 (
田六十結 ・柴三十三結)
、果毅都尉 (
田五十五結 ・柴三十結)
、別蒋 (
田四十結 ・
柴二十結)
、諸尉校尉 (
田三十結 ・柴十陪)
、諸尉隊正 (
田二十七結)とし て、 それ それ折衝府 の宮人 に封 す る給 田が行 われ てい
3
1
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た ことが明記され ている。また ﹃
高麗史﹄成宗世家'九年 (
九九〇)九月丙子候 の 一節 にも、「
折衝府別婿趨英」と いう人物
ヽ
1こ
が孝子とし ての褒賞を受 けた ことが明記 され ている ので、 これら の史料 から高麗初期 に唐制 に倣 った折衝府 が存在 し てい
29
4
高麗 におを
ナる軍令権の構造 とその聖祭
た事賓 は、 ほぼ間違 いな-確認す る ことが でき る であ ろう。
二
川三八)九月壬辰
ただ し この高 腰初期 における折衝府 から、 一濃 どれだけ の軍人が、 一億 どれだ け の番次を以 って上京 し てき ていた のか
は、残念 ながら、 いま ひと つ明らか にす る ことが できな い。後代朝鮮朝 における ﹃
叩宗蜜錠﹄ 二十年
嬢 の記述 によると、中央軍 における各領 の下級 の指経営 (
六十)の下 には領ご と に二百人 の使令 (
卒徒僕従)が配属 され てい
(
-;
)
たと の記録 もあ る ので、蔵 にこの数字 が高麗朝 以来 のも のであ るとすれば、各領 一千人 の軍人唐 は、毎番 二百人 の五番 に
分かれ、 三十八領 三高 八千人 の全髄 の内 では、七千六百人が雷番兵 とし て王京 にお いて軍役 に従事し ていたと考 え ておく
ことも でき る であ ろう。もとより これは憤説 の上 での数字 であ るが、朝鮮朝 におけ る王京 への番⊥兵 の苫番数 が'余憤 と
(
;
]
)
し て l寓 人 に満 たなか った ことを勘案すれば、高麗朝 ・朝鮮朝 の国力とし ては、大澄安嘗 な数字 ではな いかと思 う のであ
る。
もう 一つ、高麗 の保勝軍 ・精勇軍が番上制 による軍隊 であ った こと に ついては、先 にも解れた穆宗朝 の田制 の内容が、
間接的 ながらも有力な差繰 とな って-れ ている。穆宗朝 の関制 によると、 いわゆる軍人 の内、馬軍 には田二十 三結、歩軍
には田 二十結が、それぞれ領地 (
軍人田)とし て分給 され る制度 にな っているが、 ここで億 に穆宗朝 における歩軍 の田二十
絵 を、三十八領 三高八千人 の探勝軍 ・精勇軍 に 一律 に分給 したと想定 した場合' そ の軍人 田 の線額 は田七十六高給、すな
5
i順
刑
わち全図線 田結数 のほとんどす べてにま で達 し てしまう。従 って、軍人 田 の分給 は嘗初 から定額 どおり には行 われ ていな
へ
‖
」
か った、と いう のが従来 の通説 であ るが、 この通説 では三十 八領 三高八千人 の軍人 のす べてに 1律 に軍人 田を分給す ると
想定 し ていると ころに' そも そも根本的 な誤解があ る のではな いか。
軍人 田 にお いて、 いわゆる収租樺 の分絵 を受 け る のは軍人 のなか でも王京 に番上 し ている嘗番兵 のみ であり'番休時 の
軍人 凹は醸輔 ・軍資など の名目 にお いて、国家 による牧村 の封象 とな っていた のであ ろう0 このよう に想定 すれば、軍人
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東 方 学 報
田 の総額 は田七十六寓結 のうち の極 一部-
職 に五番交代 と想定 すれば、 そ の五分 の 一の十 五甫 二千結n
I
いこと にな る のであ って、 これならば高麗 の全国纏 田結数 のなか でも十分 に分給可能 な数字 であ る。
にしか過ぎな
このよう に、高麗 の軍人 田 は三十 八領 三寓八千人 の保勝軍 ・精勇軍 のうち、 そ の番上制 による嘗番兵 のみを封象 とし て
給 田額 を設定 し ている のであ って'逆 に言 えば このよう に設定 され ている給 田額 のあ りようからも、 三十 八領 三高八千人
の保勝軍 ・精勇軍 が' そ の全員を王京 に常駐 させる長番制 の軍隊 ではな-、 一部分 のみを交替 し て王京 に豆役 させ る番上
制 の軍隊 であ った ことが分か る のであ る。
も っとも高麗初期 に存在 した折衝府 の官制 は、早-も文宗朝頃 にな ると制度 の上 では滑威 し てしま っている。 ﹃
高麗史﹄
〇七六)候 の記述 によると、穆宗朝 の田制 を更定 した文宗朝 の田制 にお いては、別蒋 (
田四十
金貨志、田制、文宗 三十年 (一
五結 ・柴十二結)
、校尉 (
田三十五結 ・柴八結)
、隊正 (
田三十結 ・柴五結)に封 す る給 田額 は規定 され ているも のの、折衝都尉 ・
3
1
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E
果毅都尉 に封す る給 田額 は規定 され ていな い。 つまり折衝府 の官制 は滑滅 し てしま っている のであ る。
これ は恐 ら- は成宗朝 以降、文宗朝 に至 るま での閲 に、次第 に整備 され てい った地方行政官 とし ての守令 によ って'折
衝都尉 ・果毅都尉 の職掌 が代行 され てい った こと の結果 であ ろう。 この場合、番休時 の保勝軍 ・精 勇軍 は、折衝府 の撤廃
以後 は新し-守令 の指揮下 に置 かれ る こと にな ったも のと考 えられ る。折衝府撤麿 の理由 に ついては 一切 不明 であ るが、
恐 ら-昔時 の高麗朝 の国力 では'軍政官 とし ての折衝都尉 ・果毅都尉 と民政官 とし ての守令 とを併存 させる こと は不可能
であ ったし、 また不必要 な こと でもあ った のであ ろう。
折衝府 の撤麿以後'守令 が折衝都尉 ・果毅都尉 の職掌 を代行 し てい- よう にな った こと に ついては、折衝府 の遣制 とし
3
1
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て残 った別婿 ・校尉 ・隊正など の官制 が、 l部 には中央 の六衛 の官制 とし て残存す るととも に、 1部 には地方守令 の配下
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高麗におを
ナる軍令種の構造 とその撃質
の郷吏階層 の職制 とし ても残存 し ている こと によ って確認す る ことが でき る。
〇六九)三月候 の記述 によると、諸州 の 言 m軍 (
後述)の別清 は副戸長 以上 の郷
﹃
高麗史﹄兵志'兵制、文宗 二十 三年 (T
嘉 を以 て、同 じ-校尉 は兵倉正 ・戸正 ・金線正 ・公須正 の郷嘉を以 て、同じく隊正 は副真倉正 ・副戸正 ・譜填正 の郷嘉を
(
17
)
以 て、 それぞれ弓料 で試遺し て任命す る こと にな っていた。また後代朝鮮朝 の ﹃
世宗賓線﹄ 二十年 (1四三八)四月甲寅朔
候 の記述 によると'郷吏階層 のうち の軍隊を指揮す る 「
都軍」は、高麗以来、中央 の武班 に比擬 し て都令 (
都領)
、別正 (
那
5
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賑
爪
婿)
'校尉など の稀嚢を用 いていたO
そも そも折衝府 の兵力 は、新 羅末 のいわ ゆる後 三園期 に各地 に巌 汎 に榛東 し てい った地方豪族勢 力 の率 いる郷村兵力
を、高麗 の王権 の下 に吸収 ・再編 し てい- こと によ って成 り立 ったも のと考 えられ る ので、折衝府 の宮人 と いう のも その
多 - は在地社台 の豪族を そ のまま任用す る制度 にな っていた のではな いかと考 えられる。郷吏階層 と いう のはそうした地
方豪族勢力 の末商 であ るから、そ の彼らが別婿 ・校尉 ・際立など の武班 の栴境 を用 いていると いう のは、﹃
世宗賓録﹄に言
うよう に軍 に中央 の官制 に比擬 し ていると いう こと ではなく て'むしろ折衝府 の遺制とし て彼 らが引き槻 いでい った栴批
な のであると考 え ておかなければならな いであ ろう。
ただし折衝都尉 ・果毅都尉 など の稀窮 は、郷吏階層 によ っては引き継 がれ る ことがなか ったが、 それ は恐 ら- は折衝都
尉 ・果東都封などが中央 から薮遺 される宮入 であ ったため、もし- は在地 に退休し ている中央宮人身分 のも のを任用す る
制度 であ ったため で' そうした巾央身 分 の吾人麿 が'別婿 以下 の折衝府 の官入唐'すな わち郷吏階層 を統率 す る こと に
な っていた のであ ろう。 そうし てこのような折衝都尉 ・果毅都尉 の職掌が、折衝府 の撤廃 以後 は、同 じ-中央から蔽遺 さ
れ て- る守令 によ って引き継 がれ てい- こと にな る のであ る。
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東 方 学 報
保勝軍 ・精勇軍以外 の軍隊 に ついても最後 に簡単 に解 れ てお こう。﹃
高麗史﹄兵志 によると、保勝軍 二十 二領、精 勇軍十
六領 の合計 三十八領 以外 にも'高麗 の二軍六衛 には鷹揚軍 一領、龍虎軍 二領'金吾衛役領 一領、千牛衛常領 一領、千牛衛
海領 l領、監門衛 一領 の、合計七領 の軍隊 が存在 し ていたと いわれ ている。
このうち'鷹揚 ・龍虎 の二軍 は国王 に近侍す る儀伎部隊、 いわ ゆる近伎軍 で、﹃
高麗囲経﹄ に見 え る 「
控鶴軍」と いう の
3
i
眼
爪
は、恐ら-は この近伎軍 とし ての鷹揚軍 ・龍虎軍 のことを いう のであ ろう。近使軍 と いう のはそ の名 のとおり、儀穫 ・警
〇五〇)候 の記述 による
護 のため に国王 の身連 に配備 され る儀使部隊 のこと であ るが'﹃
高麗史﹄兵志、兵制、文宗 四年 (一
か
と、 そ の近使軍 の将校 (
校尉 ・隊正)は諸領府 の将校 の中 から 「
身彩有 り、功労多き者」 を、園王自 らが選 ん で充差 したと
3
F
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爪
ら ' そ の配下 の三領 三千人 の軍人 に ついても'保勝軍 ・
精勇軍 そ の他 の軍隊 の中 から特 に選抜 され た優秀 な軍人 に
いう
よ って編成 され ていた のではな いかと考 えられ る。 これら は容貌 ・武車 とも に優 れた軍人 によ って編成 され る、 いわば国
王 の近衛部隊とし て位置づけ る ことが でき る であ ろう。
1
T
.
)
また'金吾衛 ・千牛衛 は ﹃
高麗固経﹄ には 「
伎衛軍」 とし て記述 され ている ので' これらも また儀穫 ・警護 のため に園
王 の身遠 に配備 され る儀使部隊 とし て理解 し ておけば よ いであ ろう。唐制、千牛備身、備身左右、 および太子千牛 は、 み
W
秘
爪
な三品以上職事官 の子孫、 四品清官 の子 で、儀容端正、武重構 す べきも のを取 って充 てたと いうから、高麗 の金吾衛 ・千
牛衛 もまた、壬とし て両班子弟 など によ って編成 され る こと にな っていた のではな いかと考 えられ る。
監門衛 は、年老 ・身病者 などが入属す る比較的役務 の軽 い軍隊 で' そ の名 のとおり'王城門 ・宮城門 に首直 し て監守 を
3
1Ⅷ
E
務め る のが仕事 であ る。
以上 の鷹揚軍 ・龍虎軍 ・金吾衛 ・千牛衛 ・監門衛 など は、番上兵 であ る保勝軍 ・精勇軍と は違 ってそ の全員 が王京 に常
駐し ている長番兵 であ った のではな いかと想像 され るが、 この鮎 に ついては具健的 な論接 はな いので今後 の検討 に侯 たな
298
高麗 を
こおける軍令横 の構造 とその嬰質
ければならな い。
なお以上 の中央軍 以外 にも、各州解 には 言 m
軍、 二品軍' 三品軍 と呼ばれる地方軍 が存在 した。 一品軍 は地方軍 のなか
では例外的 に王 京 への番上 の義務を持 つ軍隊 で、人照 二番交替 で農閑期 に王嘉 に番上 し、 一定期間、各種 の丁役 に従事す
(
24
)
る努投部隊 (
役軍)とし て付置づけられ ていた のではな いかと考 えられるO二品軍、三品軍 はそれより更 に格下 の、原則と
し て王京 への番上 の義務 は負 わな い軍隊 であ って、恐 ら-は各軍冒道 の主鎖 に番上す るも のを 二品軍、居住地州覇 にのみ
(
2
)
番上す るも のを三品軍 と い って区別し ていた のであ ろう。 これらもまた恐 ら- は農閑期 に各種 の工役 に従事す る努役部隊
とし て位置づけられ ていた のであ って、結局地方 軍と いう のは戦新部隊と いうよりは、専 ら労役部隊とし て位置づけられ
ていたと見 るのが妥常 であ る。
もと より これら の地方軍もまた、探勝軍 ・精 勇軍 と同じよう に、番休時 には農業 に従事す るいわゆる農民兵とし て位置
づ けられ ていた こと は言うま でもあ るま いO
二 指揮官職 の構成
軍人層 の構成 に ついては前節 にお いてだ いた い考察を轟 -した ので、次 にはそ の軍隊を指揮す る指揮官職 の構成 に つい
て検討 し てみる こと にしようO
前節 にも述 べたとおり、 三十八領 三高八千人 の保勝軍 ・精 勇軍 は番休時 には居住地州解 に蹄農し て折衝府 な いし守令 の
指揮下 に置 かれ る こと にな っていたが'番上時 の彼 ら は王京 に出向 いて中央六衛 の直接 の指揮下 に入 る こと にな ってい
た。 そ こでこの六衛 にはそれぞれ上洛軍 ・大将軍 と いう指揮官職が設 けられ ており、 また この六衛 に分属す る各領 には、
299
東 方 学 報
それぞれ将軍 ・中部婿 ・郎将 ・別格 ・散員 ・校尉 ・隊正 と いう各級 の指揮官職 が設 けられ ているが、 と は いえ これら の指
揮官職 は、 そ の軍隊 に封す る権限 にお いて、必ずしも等質 の存在 とし て位置づけられ ていたわけ ではな い。
まず諸衛 の最上級 の指揮官職 は上将軍 (
正三品)と大将軍 (
従三品)と であり、 これ に清 く上級 ・中級 の指揮官職 は将軍
(
正四品)
、中部婿 (
正五品)
、郎婿 (
正六品)
、別婿 (
正七品)
、散員 (
正八品)であ るが' このうち諸衛 の上大将軍 は賓際 には軍
令権を持 たな い形式だけ の指揮官職 で、軍隊 の直接 の指揮 は専 ら将軍以下 の各領 の指揮官職 の方 に委 ねられ る こと にな っ
ていた。
後代朝鮮朝 の ﹃
太F
P]E賓録﹄三年 (l三九四)二月己亥候 に見 える鄭道侍 の上疏 の 一款 は、 この鮎を明確 に指摘 し て次 のよ
う に論 じ ている。
兵を婿 いる者、位卑 しければ則ち上命 に服従 し、役使 に易 く、安 んじ てそ の分を守 る。 --前朝、中枢 ・兵曹 ・上大
将軍ありと いえども'兵を掌 る者 は将軍なり。 これ長治久安 の策な り。本朝府兵 の制、す でにこの意有 り。将軍をし
3
昭
E
て五員 ・十婿 ・六十尉正を掌 らしめ、 そ の大将軍以上 は これ に輿 かる無 し。
っまり名領 の軍隊を直接 に指揮 し ている のは将軍 であ って、上大将軍 は直接 の指揮 には閲輿 しな い形式 だけ の指揮官職 に
しか過ぎなか ったと いう のであ る。
右 の鄭道侍 の指摘を、念 のため高麗時代 の幾 つか の同時代的史料を通し て確認 し てみる こと にし よう。例 えば ﹃
高麗史﹄
李資謙博 の記述 によると、仁宗 四年 (二 二六)のいわゆる丙午 の撃 にお いて拓俊京 が宮城を犯 した際、李資謀 は将軍劉漢
「
γ
J
卿 の配下 の中郎婿洪豆功 と いう人物を借将軍 に任命 し、兵を率 いて拓俊京 の指揮 ・命令 に従 わせ ている。 これ は本来各領
の軍隊を指揮す べき将軍 の劉漢卿 が宮城内 に入直 し て不在 であ ったため に、中郎婿 の洪豆功を臨時 の将軍 (
借将軍)とし て
そ の職掌を代行 させ ているわけ であ るが、 ここで洪豆功 をわざわざ借将軍 に任命 し ていると いうと ころ に'部隊指揮官 と
300
高麗 における軍令樺の構造 とその髪質
し ての蒋軍 の位置づけが、何 より端的 に示され ていると い ってよいであろう.
る
V雌 瓦
。
毎夜 .将軍が配下 の軍
り 、
ここでも軍人 ・将校を直接 に指
によ
また ﹃
高麗史﹄明宗世家、十 一年 (二 八 こ 七月己卯候 の記述 によると、 このころ王宮 (
毒昌宮)にお いて何者かが投石
い
-、それが囲モ寝室 の北窓 にま で達すると いう事件があ った ので'重房 (
J
J大将軍)の奏請
校 (
軍人 ・将校)を率 いて宮門外そ の他 の要害 の虞を警備すると いう措置が取られ て
揮し ているのは将軍 であ る。
さら に高麗時代 の各種 の墓誌史料などを通覚すると、そこでは武臣 の履歴を記述する際 に、しばしば 「
将軍某下 の某職」
に任じられたと いう記述形態が取られ ていること に注目したい。例 えば ﹃
韓簡金石全文﹄三七五 に見える申甫純と いう入
」
物 は、毅宗元年 (二 四七)
、二十五歳 にし て 「
禽沖下阪正」 の職を受け、六年 (二 一五二)には 「
弥守下校尉」、十五年 (1
、
F
ご
に' それぞれ拝 せられ ているが' この含沖 ・弥守 ・荏
一六 l)には 「
荏清下散員」
、十九年 (二 六五)には 「
彦清下別蒋
や
、
酒 ・彦清などがそれぞれ申甫純 の直接 の指揮を取 った賂軍 の名前 であることは、同じ- ﹃
韓国金石全文﹄ 四 五五 に見える
[
T
I
,
)
例 の洪豆功が 「
将軍劉漢細下中郎将」とし て記述さ
例
金仲亀と いう入物が 「
将軍純永下郎洛」を加 えられたと いう事
れ ている事例などと封比 し て見れば、容易 に想像が つ- であろう。
以上、 いずれ の事例 にお いても軍隊を直接 に指揮し ているのは将軍 であり、諸衛 の上大将軍は これを名目上統轄し てい
るだけ の形式的な指揮官職 にしか過ぎなか ったと いう ことが分かるのである。
なるほど明宗十 1年 (二 八 1)の事例 にお いては、婿軍 の配備 に関し て垂房 (
上大将軍)があ る 1定 の閲輿 を行 っている
が'それは国王 に対し て軍令を奏請し、その国王 の軍令を将軍 に侍達すると いう専ら政策的な局面 に限 っての事柄 であ る。
いわゆる武臣 の乱以降、高麗後期 に入 って垂房 の肇 吉力が増大し てい った ことは事案 であるが' それはあ-ま でも政治
的な意味 での準 富力 であ って、高麗後期 にお いても'卜大将軍がその本来 の職掌 にお いて軍隊を両接 に指揮す ると いう こ
:
Z
l
)
1
報
方 学
東
と はなか った のであ る。
上大将軍 と いう最上級 の武官 が軍隊を直接 に掌握す るよう にな った場合、威望 の高 い彼 ら にあ っては軍隊 が私兵化 され
る恐れがあり、延 いては軍事 クーデター の引き金 ともな る恐れがあ る。 かれらを軍隊 の直接 の指揮系統 から外 し てお- こ
と は、 そ のような動きをあらかじめ封殺す るため の制度上 の配慮 とし て評償 し てお- ことが でき る であ ろう。
貞族 と卒民と の分界線-
が設 け
次 に、将軍以下 ・散員 以上 の各領 の上級 ・中級 の指揮官職と'それ に績 く校尉 (
正九品)
、隊正 (
流外)の下級 の指揮官職
と に ついて考察 す ると、 この両者 の閲 には、 そ の身分構成上、 いわゆる士庶 の区別土
られ ていたと いう事案 に特 に注目 し ておかなければならな いであ ろう。
朝鮮初期 の兵制 では'正九品 の隊長 ・隊副 (
鳶の校尉 ・隊正)と正八品 の副司正 (
膏の散員)と の閲 には 一つの身 分上 の分界
線 が設 けられ ており、隊長 ・隊副 は 「
流外庶人 の職」 とし て'副司正以上 の両班宮人 の職と は区別 され ていた。 このため
両班子弟 が起家す る場合 には、 おおむ ね正九品 の隊長 ・隊副をとばし て正八品 の副司正 に任命 され る ことが 一般的 な慣例
(
;7
=
]
とな っていたが、 これ はな にも朝鮮初期 に始 ま った こと ではな-、す でに高麗時代 から そ のような士庶 の匝別 は存在 し て
いた のであ る。
(
!
'
]
)
散員 の服 は、紫羅窄衣、幌頑草 履。中華 の班直 ・殿侍 の如き の類 なり。武臣 の子弟、兵衛 の出職 は、皆 これ に補す。
宋人徐族 の撰述した右 の ﹃
高麗囲経﹄早隷、散員 の候 の記述 によれば'両班 子弟 が初 め て西班職 に任命 され る場合 (
武臣子
いわば下士官職 とし て-
映 っていたと いう こと にな る であ ろう。
弟)と' 一般軍人 がそ の軍役を勤め上げ て初 め て西班職 に任命 され る場合 (
兵衛出職)と は、いずれも校尉 ・隊正 ではな-正
「
小
J
)
八品 の散 員 の職 に任命 され る慣例 であ ったと いう。従 って徐親 の目 には校尉 ・隊正 は正式 の西班 職 とし ては映 っておら
ず' 一般軍人 の延長とし てー
30
2
高麗 にお古
ナる軍令樺の構造 とその饗質
高麗粛宗朝 の儀制 にお いて'散口
員以上 を東班参外 に准 じ、校尉 ・隊正を人吏 (
庶人在官者)に准 じ てそ の待遇を競走 し て
あ
る
。
いる のも、散員以上 と校尉 ・隊正と の閲 に厳 に存在す る このような身分的な差別意識 を儀制面 にお いて髄系化 したも のに
(
誠
)
地 ならな いので
このよう に散員以上と校尉 ・隊正と の閲 にいわゆる士庶 の区別が設 けられ ている ことは、 一つには散員 ・校尉 ・際正と
いう官職名 そ のも のの由来 から言 っても説明す る ことが でき る のではな いかと思う。
そも そも譜衛各領 の指揮官職が中国庸朝 の制度 を纏受し ているなか にあ って、 ひとり散員だ けは五代宋初 の官制 であ っ
て、庸制を纏受したも のではな い。﹃
宋史﹄真意、禁軍 の記述 によると、散員 と いう のは宋初 における禁軍騎軍 の中 の 一つ
る
.
の軍額 であり、 この軍額 はもともとは五代後周 にお いて、諸州 の豪傑 を招置し て豆 てた軍隊 に由来す るも のであ ったと い
M
配
此
豪傑を招置 し て豆 てた軍隊 が' にもかかわらず散員- 特 に職掌を持 たな いも の∼ と いう名稀 を輿 えられ
われ てい
ている のは、 そ の軍隊 とし ての活用よりも、 むし ろそうし た豪傑 を在地政食から切 り離し、中央 に招置し ておく こと自鱒
の中 に、軍事権力 の集中を囲 るため の政治的 な意圏が込められ ていたと いう こと に他な るま いo
高麗 におけ る散員もまた' この五代後周 におけ る散員と同じよう に'地方 の豪族居を中央 に招置し て、 これを中央宮入
へと蒋化 させ てい-過程 にお いて成豆した官制 であ ったと考 え てお- ことが でき る であ ろう。高麗初期 における いわゆる
地方豪族勢力 のうち、そ の下暦 のも のは産地配合 に留ま って折衝府 の宮入 (
別婿 ・校尉 ・隊荻)とし て組織 され、そ の上層 の
も のは中央 に進出 し て六衛 の宮人 (
教員以上)とし て組織 され てい った のであ るが、 その後、地方 の折衝府 が守令 にその職
掌を譲 って鮮鱒 され ると、折衝府 の宮人 はそ の 一部 (
別婿 ・校尉 ・除正)が六衛 に直属し て中央宮入化す るととも に、他 の 一
部 (言m
別婿 ・校尉 ・隊正)は地方 に残留 し て郷吏階層 の 一翼を形成す るよう にな ってい った のであ ろう。
このような階層分化 の過程を想定すれば、各領 の校尉 ・隊正が、中央常人化 したとは いえ依然とし て 「
流外庶人 の職」
:
)
1
03
東 方 学 報
とし て取 り扱 われ績 け ていたと いう のも十分 に納得 のい-事柄 であ る。散員 より上 の正七品 に位置づ けられた別婿 は別格
とし て、もともと折衝府 の宮人 であ った校尉 ・隊正 は'本源的 には地方 の郷吏階層 (言m
別婿 ・校尉 ・隊正)と同 lの存在 で
あ り、だから こそ校尉 ・隊正 は 「
流外庶人 の職」 とし て、散員以上 の両班官人 の職 と は匡別 され る待遇 に甘 んじなければ
ならなか った のであ る。
以上、諸衛 の指揮官職 の構成を通覧す ると、結局、番上時 の保勝軍 ・精 勇軍を直接 に指揮す るも のは各領 の将軍 であ り、
そ の将軍を補佐す る中郎婿 以下 ・散員 以上 の武官 であ ったと いう こと にな る であ ろう。 それ以外 の上大将軍 は各領 を統轄
す る形式だけ の指揮官職 にしか過ぎなか ったし、校尉 ・隊正 は指揮官 と iうよりは、牛ば軍人層 と等質 の下士官 と い った
方がそ の性格 にはふさわし いよう であ る。
﹃
高麗史﹄百官志 に見 え る指揮官職 の員額 は、二軍六衛 に ついてそれぞれ上将軍 一人、大将軍 一人 の計十六人。四十五領
(
保勝軍二十二領'精勇軍十六領、その他七領)に ついてそれぞれ将軍 一人、中郎婿 二人'部将 五人'別婿 五人、散員五人、校尉
二十人、隊正 四十人 の計 三千五百十人。絶計 三千五百 二十六人 とな っているが、 これがもともと の員額 であ ったかどうか
ヽ
3
)
は、なお検討 の飴地もあ ろうかと思う。
ともあれ' この三千五百 二十六人 の武官 は中央官人 とし てそ の全員 が王京 に常駐 し、 そ のかれらが地方 から番上 し て-
る毎番七千六百人 ほど の 一般軍人層、 及び七領七千人 ほど の長番軍人層を指揮す る構成 にな っていた のであ る。
J
即
高麗における軍令樺の構造 とその資質
三
司令官職 の構成
平時 におけ る指揮官職 の構成を桧討したうえ で、今度 はそ の戦時 における司令官職 の構成 に ついて検討 し てみること に
し よう(
)
す でに前節 にお いて検討 したとおり、各領 の軍隊 は番休時 には州願 の折衝府な いし守令 の指揮下 に置かれ、番上時 には
∼ もしく はそ の必要
各領 の婿軍 の指揮下 に置かれる こと にな っていたが、戦時 には この各領 の番上兵 ・番休兵 のす べて
(
37
)
部分- が召集 され、 これを数領ごと に束 ね て新し-三軍 の作戦翠が編成 され る。 そうし てこの作戦軍を指揮す る軍司令
I
,f
・
)
官 とし ては、文武三品以上 の宮入 の中から臨時 に兵馬薩 が任命 され、 この兵馬使と呼ばれる軍司令官 が作戦軍 に所属す る
各領 の軍隊を統轄す ると いう構成 にな っていたが、 ここで注意し ておかなければならな いのは'兵馬徒と いうも のが必ず
しも各領 の軍人暦を直接 に掌握し ているわけ ではな-、 これを直接 に掌握す るも のは、依然とし て各領 の賂軍 であ ったと
いう こと であ ろうO
高麗後期 に入 ってから の事例 ではあ るが、例 えば ﹃
高麗史﹄明宗世家、七年 (二 七七)九月辛丑候 の記述 によると、西
北路兵馬使 に任命 された李義奴 は、八将軍、すなわち八領 の軍隊を率 いて西北賊 の討伐 に蔽遺 され たことが記録 され てい
5
E
g
E
るし、同じく明宗世家、二十 三 年 (二 九三)十 li月懐 の記述 によ ると、南路捉厳兵馬榛 の楼仁 と都知兵馬事 の高湧之 とは、
「
小
)
五賂軍、すなわち五領 の軍隊を率 いて南賊 の討伐 に派遣 された ことが記録 され ている。作戦軍 の編成 が'あ-ま でも卒時
におけ る各領 の将軍 の指揮系統 に滑 って組み豆 てられ ていたと いう ことが分 かる であ ろう O
また前節 にも検討 した例 の洪豆功 の事例 にお いて、倍将軍 の洪豆功 が軍人六十錬人を率 いて拓俊卿 の指揮下 に入 ったと
いう のも、埜則的な事例 とは いえ、将軍 (
洪豆功)の率 いる各領 の軍隊と、そ の婿軍を統轄す る軍司令官 (
拓俊卿)と の関係
305
東 方 学 報
S
河
沌
を示す史料 とし て活 用す る こと が でき る のではな いかと考 えられ る。
このよう に、各領 の軍隊 を直接 に掌握 し'平時 ・戦時 を通 じ てそ の軍人層 と苦 楽 を共 にし ている部隊指 揮官 とし ての将
軍 に封 し、兵馬使 の方 は この将軍 を通 し て、戦時 に のみ軍人層 に封 す る命令権 を行使 し ている に過 ぎな い のであ って、 そ
の鮎、兵馬使 の軍隊 に封 す る関係 は、 あ- ま でも間接的 か つ臨時的 なも のとし ての限界 を持 たな ければな らなか った ので
あ る。
強大 な権力 を行使 す る こと にな る軍 司令官 は、 それだ け に軍隊 と は癒着 し てはな らな い存在 とし て位 置 づ けられ ていた
ことを、 まず は第 一に確 認 し ておかな ければ な るま い。
作戦軍 を派遣 す る場合 、事 はまず軍令樺 を絶境 す る国王 が軍 隊 に封 し て動 員 をか け ると いうと ころから始 ま ってい-。
国王 の軍令 はまず宿衛 の任 を掌 る枢密院 を経 由 し て諸衛 の上大将軍 に下 され、上大将 軍 から各領 の将軍 に下 され て、 はじ
め て各 領 の軍 人 が召集 され ると いう こと にな る の であ ろう。 国王 が各領 の軍 隊 に封 し てい つでも動 員 を か け ら れ る よう
に、枢密院 の宰相 (
枢密)や上大将 軍 な ど は'そ のうち の何人 かが輪番 し て常 に宮中 に入直 し ていな ければ ならな い こと に
な っていたはず であ る。
また地方 州解 に居住 し ている下番 の軍人 をも含 め たより大規模 な動員 を かけ る場合 には、中書門下 の宰相 (
宰臣)を経由
し て兵部 に軍令 を下 し、兵 部 から州鯨 の守令 に軍令 を下 し て下番 の軍人 を召集 す ると いう手繰 き が踏 まれ ていた のではな
いかと想像 され る。
ともあ れ、 こうし て軍隊 を召集 す ると、次 には そ の軍隊 を統轄 す るため に、臨時 に軍司令官 とし ての兵馬使 を任命 す る
と いう運 びとな る。もち ろん軍 司令官 を任命 し たうえ で、 そ の後 から軍隊 を召集 す ると いう場合 も あ った であ ろう。 いず
306
高麗におき
さる軍令横の構造 とその愛質
れ にせよ、 この動員 された軍隊 を統轄す るため の軍司令官が任命 され ると、以後、作戦軍 の軍人 はそ の作戦期間 に限 って
軍司令官 による専制的な軍令 の下 に置かれ る こと にな る のであ る。
では、 そのような専制的な軍令樽 を塘 う こと にな る軍司令官 は、貝農的 には T髄 ど のよう に人選 され ていた のであ ろう
を以 て任命 され ていたと ころ に' そ の最も著 し い特色 があ るO
か。高麗 の兵馬使 が原則とし て文武 三品以上 の宮人 の率から任命 され る制度 にな っていた こと は、前 にも述 べたとおり で
(
g
)
あ るが、す でに遺太壁氏 の研究 によ っても明らか にされ ているとおり、高麗前期 の兵馬使 は賓際 にはそ の多-が儒蒋∼
いわゆる科馨出身 の文臣官僚
∼
例 えば文宗 三十 四年 (1
〇八〇)十 二月 に高凝固が定州城外 の東女威部落を攻略した際 に、その作戦軍 は中書侍郎中華事
B
陛
E
文 正を総司令官とす る次 のような三軍 の編成を取 っていたO
(
兵馬使)
中書侍郎卒章事文正 (
列行営兵馬事)
同知中枢院事崖爽
へ
兵端使)
(
兵馬副使)
東都尚書聴漢
左承宣李毒
ここでは恐 ら- は文正 が中軍、崖爽が左軍、廉漢 が右軍 の、 それぞれ軍司令官 とし て位置づけられ ていた のであ ろう。
そうし て中軍司令官 の文正 は同時 に三軍全磯 の総司令官をも兼 ね ているため に、中軍 の事葉上 の指揮 は兵馬副使 の李類 に
ヽ
..TT
.I
委 ねられ ていた のではな いかと考 えられ る。右 の四人 のうち、文正 は いわゆる科翠官僚 であり、季題 は恩蔭出身 の文斑官
(
45
)
僚 であ った ことが朔明し ている。
W
悶
pt
.
また香宗 二年 (二 〇七)のいわゆる九城 の役 に際 し て蔽遣 された作戦軍 は、次 のような三軍 の編成を取 っていた。
中書侍郎卒車掌 ダ壌 (
行撃 兄姉)
ββ7
東 方 学 報
兵部尚書金徳珍
左常侍文冠
尚書左僕射金漢忠
知枢密院事呉延寵
(
右軍兵馬使)
(
左軍兵属便)
(
中軍兵馬使)
(
副元師)
右 に元帥 と いう のは兵馬使 と同 じ-作戦軍 の軍司令官 のこと で、ここでは宰臣 ・枢密 (
宰梶)ク ラスの官人 に輿 え る職衝
とし て特 にそ の威望 を高 め るため に'兵馬使 ではなく元帥 と いう栴窮 を輿 え ている のであ ろう。右 の五人 のうち では平
1
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)
壌 ・呉延寵 ・金漢忠 ・文冠 の四人 が、 それぞれ科挙官僚 であ った ことが判明し ている。
最後 にもう 一つ、仁宗十 三年 (二 三五)正月 に、高麗園 が西京 の乱 (
妙清の乱)を平定す るため に派遣 した作戦軍 の編成
(
48
)
は次 のとおり であ る。
中軍 卒章事金富拭、参知政事任 元数
左軍 吏部尚書金富儀
右軍 知御史墓事李周術
﹃
高麗史﹄には軍司令官 とし ての官街 は明示 され ていな いが'恐 ら- それ は金富拭 が中軍兵馬元師'任元数 が副元帥、金
3
1E
[
:
i
富儀 が左軍兵馬使'李周術 が右軍知兵馬事 と いうも のであ ったろう。中軍 にのみ二人 の軍司令官 が置 かれ ている のは、文
宗 三十 四年 の文正 の場合 と同じ よう に、金富拭 が三軍全鱒 の緒司令官 をも兼 ね ているため、中軍 の賛際 の指揮 の方 はもう
一人 の任元数 に委 ねる意圏 であ った のではな いかと考 えられ る。も っとも任元数 は後 に命ぜ られ て都城 に留衛 したと いう
(
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)
か ら 、作戦現地 には寅際 には派遣 され ていな い。 ともあ れ右 の四人 のうち では金富拭 ・
任元故 ・金富儀 の三人 が、 それぞ
(
51
)
れ科挙官僚 であ った ことが判明し ている。
30
8
高麗 における軍令樺の構造 とその愛質
このよう に、高麗 前期 の軍司令官 には主 とし て科 拳官僚 が任 命 され ていた。いわゆる武 臣 の乳 以降 '高 麗後期 に入 ると、
この科挙官僚中心 の慣例 が崩 れ て、上大将軍 など の三品 以上 の武 臣 も また、 しば しば軍司令官 に任命 され るよう にな って
い- こと は、 これもす でに蓮太壁氏 の研究 によ って明 らか にされ ているとおり であ るが、 しかし ここで誤解 し てな らな い
のは' そ の上大 将軍 と いえども科挙官僚 と同様 に卒 時 には各領 の指揮系統 から は外 され ている存在 であ って、彼 らが軍令
樺 を行使 し得 る のは軍司令官 に任命 され ている、 そ の作戦期間 に限 ってのこと にしか過ぎなか ったと いう こと であ ろう。
威 厳 と人望 とを兼 ね備 えた文武 三品以上 の最上級 の宮人 が、軍令樺 を擦 って王京 以外 の地方 州解 へと蔽遺 され ていくと
いう こと は'潜在的 には常 に軍事 ク ーデタ I の危 険性 を学 んだ両 刀 の剣 と し て、軍令樺 の分散化 をも たらすも のと し て警
戒 されな ければ ならな い事 柄 であ った。 だ から こそ軍司令官 の持 つ軍令樺 は、 そ の作戦期間 に限 ってのみ、 国王 から 一時
"
f
.・
.J
)
的 にしか委 ねられ る こと がなか った のであ って、毎年春夏 ・秋冬 の六箇月交替 で蔽遺 され る両界兵馬使 などを除 いては、
高麗前期 にお い ては軍司令官 の任命 はほと んど数 え る程度 にしか行 われ る こと はなか った のであ る。
軍令樺 の集中 は、 な によりも よく中央集権髄制 の安定 を示す事柄 であ ったと いえ よう。
四 府兵 の崩壊 と私 兵
と ころが高麗後期 に入 ると、打 ち緯 -戦乱 の中 にあ って中央集権的 な国家支 配 の牒制 は にわか に動揺 を来 し、王権 にお
け る軍令樺 の集中 が崩 れ て軍司令官 による各種 の私 兵 が形成 され るよう にな って- る。 このような私 兵化 の動 き は つと に
高麗後期 の武臣執権期 から兆 し始 め ていたも のであ るが、 ここでは朝鮮初期兵制 への展望 を切 り開 いていく目的 から'特
に高麗末期 の私兵 を中心 とし て、 そ の軍令樺 の構造 の愛質 の過程 を明 らか にし ておき た い。
309
東 方 撃 報
これま でにも繰 り返し述 べてき たとおり'高麗国軍 の主力 は三十八領 三高八千人 の保勝軍 ・精 勇軍 によ って構成 され て
いたが' この各領 l千人 の軍額 は、高麗後期 に入 ると戦苧 ・飢鯉 そ の他 の要因 によ って、 ほとんど恒常的 に開員を来す よ
う にな ってしまう。再び ﹃
高麗史﹄李戒 用侍 の記述 によれば、
I
.I,7
J
比年、兵 ・荒 に死す。千人 と日うと いえども' そ の賓 は然 らず。
と いう のが後期 の償 らざ る賓情 であ った のであ る。
〇四五)五月 の候 に懸 けられ ている高麗後期 のあ る時 の掲棟 によると'
軍人階層ば かり ではな い。誤 って靖宗十 一年 (一
各領 l千人 の軍人層 (
丁人)は国王 の雇従 から内外 の力役 ま で、あら ゆる軍役 を負揺す る根幹的 な階層 であ ったが' このご
ろ禍乱を経 て各領 一千人 の軍額 に多 - の閣員 が生 じるよう にな ったため'軍人層 の負据 し ていた軍役 は校尉 ・隊正など の
下級 の指揮官層 にま で蒋嫁 され' このため校尉 ・隊正など の下級 の指揮官層もまた軍人暦 の後 を追 って凋落 し てい- こと
3
矧
E
にな ったと いう。また ﹃
高麗史﹄元宗世家、高宗 四十六年 (二 五 九)閏十 1月甲申候 の記述 によると、 このころ 「
校尉 ・
「
T
i
)
隊正 は、死す る者大半」 であ ったとま で言 われ ている。府兵制度 の崩壊 には、 そ の豆役 の裏 づけとな る田制 の崩壊 など の
経済的 な要因 が大 き-作 用し ていたも のと思 われ るが、 そ の他 にも高宗朝 の約 三十年間 に及 んだ モ ンゴ ル軍 の侵攻 など
が、 こうした軍人層 ・下級指揮官層 の凋落 にほとんど決定的 な影響 を輿 え ていた こと は言 うま でもあ るま い。
それ では この府兵制度 の崩壊 に伴 う戦闘要員 の歓乏 は、高麗後期 にお いては l鰻 ど のような手段 を以 て補 われ る こと に
な っていた のであ ろうか。
そも そも高麗園 にお いて何 らか の作戦軍 が必要とされ る場合 には、 三十八領 三高八千人 の保勝軍 ・精 勇軍 の中 からそ の
必要部分を召集 し て三軍 を編成 し、 この三軍を臨時 に任命 され る軍司令官 に委 ね て蔽遣す ると いう のが、制度本来 のあり
方 であ った こと に ついてはす でに考察 したとおり であ るが' モンゴ ル軍 の侵攻 や倭蓮 など'贋範囲 にわた って長期間 の戦
310
高麗 における軍令樺の構造 とその墾質
苧状態 が績 いた高麗後期 にあ っては、 ただ でさえ閲額 の目豆 つ府兵 の波道 はと ても のこと では追 い つかず、不足す る兵力
徹
す
。
は軍司令官 が作戦現地 にお いて臨時 に徴聾す ると いう手段 が' しばしば便宜的 に用 いられ ていたよう であ る。
(
56
)
国家、冠盗連年、兵 は圏結 せず。危急 に至 るごと に'兵を農 より
﹃
高麗史﹄兵志、兵制'恭慈王十 1年 (二二六二)六月候 に見 える右 の監察司 (
膏の御史毒)の上言 にも述 べられ ているとおり'
高麗後期 にお いては府兵 の編成 (
圏結)がほとんど崩壊 し てしま っていた こと の結果とし て、軍司令官 の率 いる軍隊 は中央
にお いて編成 したうえ で蔽遺 され る府兵 ではな-、むし ろ作戦現地 にお いて臨時 に徴零 され る農民兵 によ って構成 される
よう にな っていた のであ る。
この種 の臨時 に徴聾 された軍隊 のことを、高麗後期 には 一般 に 「
別抄」 と栴 し ている。別抄 の別抄 たる所 以は'本来 の
府兵 があ る 一定 以上 の経済基盤を有す る良人身分 の農民層 によ って編成 され ていた こと に封 し、 そうした経済基盤 や身分
(
57
)
の有無 には拘 わらず、専 ら軍人とし ての背力 のあ るも のを微香し てい ったと ころにあ る のであ ろう。 そうし てこの本来 は
臨時 の徴聾 にしか過ぎなか った別抄 の制度 は、次第 にあ る 一定 の軍額 とし て固定化 され るよう にな ってい-が、しかし こ
の別抄 によ っても兵力 が不足す る場合 には、軍司令官 は作戦現地 にお いて、更 に臨時 の徴馨を行う ことも稀 ではな い。
し
む
。
髄覆使郭斑、全羅道 より還り て奏すら-、元師、原定別抄 の外 にお いて、また煙戸軍を抄 Lt また別軍を抄す。民ま
[
T
:
)
さ に農を失 せんとすと。乃ち煙戸軍 と別軍 とを罷め て蹄農 せ
ら
ず
。
3捌E
﹃
高麗史﹄兵志'兵制、辛粥 二年 (l三七六)五月 の候 に見 える右 の牒覆使郭斑 の奏文 は、具牒的 には全羅道元帥河乙祉 によ
(
59
)
る不法 な微香行為を弾劾 したも のであ るが、 これ はな にも河乙祉だけ に限 った こと ではな-、多 かれ少なかれ各道 の軍司
令 官 は、 そ のす べてが同 じ ような徴蓉行烏 を行 っていた のであ ろう。
前朝 の李、各道軍民、戸数籍無 し。凡 そ抄軍時、妄意 に数を定め、勘 し て数 に充 てしむ。弊 を作す こと少なか
311
東 方 学 報
﹃
太阻害録﹄六年 (T三九七)二月甲午候 に見 える右 の都評議使司 の上言 にも述 べられ ているとおり、高麗末期 の軍司令官 た
ち は、 ほとんど任意 に農民兵を徴零 し' このため農民 の生産活動 が妨げられ て、社合的 にも様 々な弊害 を生 み出 すま でに
な っていた のであ る。
軍司令官 が そ の作戦現地 にお いて親日 に軍隊 を編成す るよう にな ってい った こと は、 そ の軍隊 の指揮 ・命令 のあり方 に
も大きく埜化をも たらす こと にな ってい った。前 にも述 べたとおり'本来 の作戦軍 は各領 の府兵 によ って編成 され、 そ の
各領 の府兵 は平時 から の指揮官 であ る将軍 によ って統率 され る こと にな っていた のであ るが'府兵 の編成 が崩 れ て将軍 に
よる統率 がそ の本来 の機能 を果 たし得 なくな ってしまうと'高麗末期 の軍司令官 たち は、自 ら の編成 した軍隊を統率 す る
ため に鎮撫 と呼ば れる幕僚を騨召 し、 この自 ら騨召した幕僚を通し て配下 の軍隊を直接 に掌握す るよう にな ってい った の
であ る。高麗末期 の軍司令官 たち は、それだけ直接的 に軍隊 を掌握す るよう にな ってい ったと いう ことが でき る であ ろう。
3
矧
凸
しかも さら に問題 とな る のは、作戦現地 にお いて徴覆し た別抄 そ の他 の農民兵を、高麗末期 の軍司令官 たち が牌記と呼
ばれ る軍籍 に登録 し、 これを中央 には申告 せず に'自己 の私兵 とし て私物化す る傾向 が生 じ るよう にな ってい ったと いう
こと であ る。
例 えば ﹃
高麗史節要﹄恭慈王十 四年 (二二七〇)五月債 の記述 によると、 このころ東西江都指揮使 に任命 され て東江 に出
鎖 し ていた岸壁 は、新 しく東西江都指揮使 に任命 された金績命 に封 し てそ の軍隊を引き渡 さず、 そ のまま兵 を引き連 れ て
3
i調
E
田猟 に明 け暮 れ ていたとし て弾劾 され ている。
軍司令官 の配下 の軍隊 は、本来 なら そ の任務を終 えれば ただち に後任 の軍司令官 へと引き渡 され る こと にな っていたは
ず であ るが、そ の際'肝心 の軍籍 (
牌記)が中央権力 によ っては把握 され ていなか ったため に、有力 な軍司令官 たち は必ず
ワ
ム
朋
高麗における軍令権の構造 とその壁質
Lも軍隊 のす べてを引き渡 さず、そ の 一部 のも のは自己 の私兵とし て私物化す る傾向 が生 じ るよう にな ってしま った。﹃
高
麗史節要﹄は この岸壁 の田猟 のことを、「
私兵を以 て、大 いに東郊 に猟 す」と記述 し ているが、それはまさしく私兵 とし て、
すなわち軍司令官 が軍令樺 の濫 用を通し て私的 に掌握す るよう にな ってしま った軍隊とし て、位置づ けられ るよう にな っ
ていた のであ る。
こうした私兵 が形成 されるよう にな った こと は、 やはり何と い っても宰梶 ク ラスの威望 の高 い官人 たちが、 ほとんど恒
常的 に軍令樺を掌握す るよう にな った高麗末期 の政治的 ・軍事的環境 に、 そ の要因を求めなければな るま い。
賓際、高麗末期 における倭完 の跳梁と、 そ の結果とし て生 じた作戦地域 の贋域化、作戦期間 の長期化 に伴 って'本来臨
時 の官職 にしか過ぎなか った軍司令官 は、 このころほとんど常設 の官職 にま で特化 し てしまう傾向を示 し ていた。例 えば
文武 三品以上 の宮人を以 て派遣す る こと にな っていた兵馬使 は、 これを虞範囲 にわた って 一々中央 から派遣 し ていては、
出没極 まりな い倭完 に封鷹す る ことはと ても できな いので、高麗末期 の辛嘱元年 (一三七五)には'各道 の牧 ・都護 ・知官
など の守令 に兵馬使 の職を兼任 させ、軍興時 にはそ のまま軍司令官 とし て各道 の軍隊を統率 させると いう方針 が打 ち出 さ
(
63
)
れ ている。そうし てこの守令 の兼任す る兵馬使 や、中央 から別途 に波遺 される兵馬使 などを全髄とし て統括す るため には、
宰梶 ク ラ スの宮人 の中 から各道 に蔽遺 され る民政 巡察官 とし ての都 巡問使 が、軍興時 にはそ のまま元師 を兼 ね る こと に
(
=
)
よ って、各兵馬使 に封す る総司令官とし ての役割を勤め る こと にな ってい-。 しかし この都巡問使 が元帥を兼 ねると いう
制度 も、倭冠 の侵害 が甚だし-な るとだ んだ ん 二九帥だけ では封廃 しきれな-な ってしま い、元師 二員を加零し て、各道
Ⅴ
搬
爪
三元師 の髄制 が確豆す るま でに肥大化 し ていく傾向を示し ていた。
このよう に'本来臨時 の官職 にしか過ぎなか った元帥 ・兵馬使 など の軍司令官 は、高麗末期 にお いては倭完 の贋域化'
313
学 報
方
東
長期化 に伴 ってほとんど常設 の官職 にま で特化 し てい ってしま い、 そうし てこの常設 の官職 と化 した軍司令官 には、宰梶
ク ラスの威望 の高 い官人 たちが、 おおむね六箇月交替 でほとんど引 っ切 りなし に派遣 され ていかなければならなくな って
しま った のであ る。 このため司令官職 への就任 を通し てほとんど恒常的 に軍令樺を掌握す るよう にな ってい った宰梶 ク ラ
そうした事
スの官人 たちが、文臣 ・武臣を問 わず、 そ の威望を背景 とし ていわゆる私兵を形成す るよう にな っていく こと は' ほとん
「
郎)
ど必至 の勢 いであ った。
宰梶 クラスの最上級 の官人 たち が、 そ の威望を背景 とし て如何 に軍令樺 を濫 用す るよう にな っていたか-
柄 の 一端を、高麗最末期 に成豆 した三軍都据制府 の設豆 の経緯を通し て、 いささか間接的 にではあ るが検認し てみる こと
にしよう。
朝鮮太阻)が中外 の軍
﹃
高麗史﹄恭譲王世家、二年 (二二九〇)十 1月候 の記述 によると、三軍都推制府を創設 し て李成桂 (
3
伽
E
令権を掌握 した際 に、「
各道 の将帥 を罷 め てそ の軍人を放 った」ことが記録 され ているが、そも そも倭完全盛 のこの時期 に
地方 の軍隊をす べて解散 す るなどと いう こと はあ り得 な いから、 ここで各道 の将帥 と いう のは薫際 には王京 におけ る各道
の留京将帥 のこと であ り、軍人 を放 ったと いう のはそ の留京将帥 の下 の私兵 を放 ったと いう こと ではな いか と考 えられ
る。
朝鮮初期 の宗親 ・大臣 たち は、各遺留京節制使 (
節制使は膏の元師 ・兵馬使)に任命 され る ことを通し て各自 の私兵勢力を
る
形成 し、侍衛 ・別牌 ・私件僕 など の名目 の下 にそ の私兵 を上京 させ て、陪従 や田猟 など の様 々な努役 に使役 し ていたと い
叫
誰
凸
が 、 これと同 じ ような現葺 は、 す でに高麗 最末期 にお い ても軍 司令官 によ る軍令権 の濫 用 の問題 と し て議論 の
われ てい
封象 とな っていた のであ る。
イ
T
朋
高麗 における軍令権の構造 とその髪質
近年以来、各道節制使、先を雫 いて牒を下し、道内郡嚇及び嘉畿 の農民をし て、無事 の時と いえども、累朔京 に居ら
しむ。人馬疲困し、民怨甚 たり。 ・
・
・
-今後'才智兼 ね て全き者を挟 ん で節制使 と為し、 そ の額数を定 め て中外 の軍士
を統 べしめ、 そ の徐 の節制使 は、 一皆革罷し、外方 及び京畿 の那覇 の軍民も、またみな放 還し、農 を勧 め業 に安 んぜ
3
柵
E
しめ て、 以 て邦本を固められん ことを。
善の御史墓)の上状 のうち、各道節制使 と いう
﹃
高麗史﹄兵志、兵制、恭譲王 二年 (一三九〇)十 二月債 に見える右 の司憲府 (
(
70
)
のは恭讃王元年 (二 二八九)の制度改革 で改められた膏 の都巡問使 ・元帥 など のこと であ るが、 ここで問題 とな っている
のは これら各道 に賓際 に派遣 され ている節制使 の濫設を革 め ると いう ことととも に、 いやそれ以上 に王京 に留衛し ている
いわゆる留京節制使 の濫設を革め ると いう こと でなければならな いであ ろう。 そうし てそ の留京節制使 たちが軍令樺を濫
用し、各道 の農民兵を ほとんど慈恵的 に徴用し て 「
累朔京 に居らし」 め、 これを様 々に使役し ていたと いう現賓 こそが、
軍制改革 の 一番 の封象 とならなければ ならなか った のであ る。
軍令樺 の濫用を通し て私兵勢力を形成し てい った宰梶 クラスの官人 たち は、 そ の政治的 ・軍事的な聾 言力を背景とし て
留京節制使 と いう官職を獲得 し、 この官職を通し て軍令樺を ほとんど恒常的 に掌握す る こと に成功す る。 それ は 一つには
王京 の守 りを固め、か っは外方 へと い つでも軍隊を淑遥す る ことが でき るよう に、あらかじめ軍司令官 を任命 し てお いた
制度 とし て評償す る ことも でき る であ ろうが、むし ろ現害 には宰梶 ク ラスの官人 たちが事賓とし て形成 し ていた私兵 の存
在を、制度 の上 からも追認したも のとし て捉 らえる こと の方 が安富 であ ろう。恭譲王三年 (三 元 一)正月 における三軍都
抵制府 の設豆 は、 こうし た私兵 の現賓を 一旦否定し て'李成桂 (
朝鮮太祖)のもと に軍令樺 の集中を回復 させるため の措置
であ った のだが、現薫 には宰梶 による私兵 の勢力を完全 には克服す る ことが できなか った。 このため、朝鮮開園後 には宗
親 ・大臣を各遺留京節制使 に任命す る こと によ って、再び私兵 の現葺を追記しなければならな いこと にな った のであ る。
315
報
学
方
東
V
岨
凸
宰相各 々元帥 と科 し、 一民 も そ の有 にあらざ るなし。
三軍都捜制府 の設豆 に際 し て述 べられ た右 の恭譲王 の*言 は、軍 に各 道 に蔽遣 され ている元帥 (
節制使)の存在 のみを問題
とし ているわけ ではな い。む し ろ本来 なら そ の軍令棟 を解 除 す べき各道 の留京 元帥 (
節制使)たち が、 そ の宰梶 と し ての威
望を背景 に依然 とし て軍令樺 を掌握 し' これを濫 用 し緯 け ている現賓 を こそ問題 とし ている のであ って、言 い換 えれば こ
の事梶 ク ラ スの官人 たち が掌握 し ている私的 な軍令樺 を如 何 にし て王権 の下 に回収 し てい-か と いう ことが、 次代朝鮮朝
へと持 ち越 され てい-最 も大 き な政治 課題 の 一つとな らな ければ な らな か った のであ る。
おわりに
高麗前期 におけ る中央集権 的 な軍事健制 は、高麗後期 におけ る様 々な国難 を通 し て、私兵勢 力 の分豆 の状態 にま で大 き
-髪質 を遂げ ていかな ければ な らなか った。 そ の髪質 の過程 を でき るだ け構造的 に把握 す る ことを通 し て、私 は次代朝鮮
朝 におけ る私兵勢力 の克 服 と、 そ の後 の中央集権的 な軍事鱒制 の確豆 とを展望 す る 一つの有 効 な硯座 をも探 り嘗 てておき
た いと考 え ていた のであ るが、 そう し た朝鮮朝 への展望 に繋 げ る意味 で、 最後 にもう 一つ、高麗末期 にお け る兵制上 の重
要 な撃化 を挙げ てお- こと にし よう。 それ は各種 の軍 司令 官 によ る私 兵 の形成 と並行 し て、王権 それ自健 が l種 の私兵 を
形成 す るよう にな ってい ったと いう こと であ る。
高麗 にお け る宿衛 の制度 が、 そも そも ど のようなも の であ った のか は、 あ まり は っき りと は分 か っていな いが'恐 らく
れ
それ は王京 に番上 し ている二軍六衛 の各領 の軍人 の内、 そ の 一部 のも のが敷 日ご と に輪番 し て宮 中 に入直 す ると いう形 を
3
髄
凸
る 。 しかし府 兵制度 の崩壊 に伴 って宮城 内 に入直 す る府兵 の勢 力 が手薄 にな ってく る
取 って行 われ ていたも のと考 えら
'c
朋
高麗 における軍令樺 の構造 とその髪質
と、高麗後期 には これを強化す るため に各種 の特別 の軍隊 が編成 され るよう にな ってい った。
﹃
高麗史﹄兵志、宿衛 の候 に見 える毅宗朝 の 「
内巡検」 や明宗朝 の 「
衛園抄猛班」、元宗朝 の 「
後壁」などは、 いずれも
そ の種 の特 別編成 の軍隊 であ って、 それら は多 かれ少 なかれ国王 そ の人 によ って養 われ る私兵 とし ての性格 を帯 び つつ
あ ったも のと考 えられ る。事元期 に入 ると この種 の傾向 は 一層強 -な って、忠 烈朝 には忽赤 (コルチ)
、恭懸朝 には近侍衛 な
ど の成衆官 が次 々と編成 され るよう にな って- るが、 この成衆官 と いう のは要す るに国王 の私属 であり'文武百官 の官制
外 にあ って虞 -宮中 の庶務を執 り行うも ののことを いう のであ る。
成衆官 の中 には、もとより内侍 ・茶房 ・司衣 ・司葬 など のよう に直接 には軍務と は関係 のな いも のも含 まれ ているが、
そ の 一方 では後代朝鮮朝 にお いて禁軍 の 一つであ る別侍衛 へと費展し ていく司循 のよう に、宿衛軍とし ての中核的な機能
を果 たし ていたも のも存在 し ていた ことを忘 れ てはな るま い。
この種 の成衆官 は本来文武百官 の官制外 の存在 であ るから' それ自健 とし ては定員もなく線俸もな いことが建前 とな っ
ているが、賓際 には国王 によ って私的な給輿 (
別賜)が輿 えられ ている こと の外 に' 一定期間 の勤務を満 たすと各領 の散員
以上 の西班職 に任命 され' この西班職 によ って線俸 を受 け取 る ことが でき るような仕組 みが慣例 とし て出来上 が っていた
線俸を支給す る際 の名目上 の官職-
とし て流用 され るよう にな ってい った
のであ る。 ただし それ は線俸 を受 け取 るため の形式だけ の任命 であ って、賓際 には西班職 とし ての勤務 は行 わず、引き緯
1
7
rl
)
き成衆官 とし ての宮中 の勤務 のみを行 ってい-場合 の方 が ほとんど であ った。 つまり官制内 の存在 であ る西班職 は、官制
外 の存在 であ る成衆官 に封す る寄線 の官1
と いう こと であ る。
このよう に西班職 のボ スーが流用されるよう にな ってい った のは、府兵制度 の崩壊 に伴 って、西班職 そ のも のがす でに
そ の職掌を喪失 し っつあ ったから に他ならな い。本来各領 一千人 の軍人層を指揮す るため の指揮官職 とし て位置づけられ
〝
っ
J
報
学
方
東
ていた西班職 は、 そ の指揮 す べき軍人暦 の凋落 によ って職掌 の空洞化 を来 し'軍 に線俸 を受領 す るだ け の形式的 な官職 に
し か過 ぎ な- な っていた。 だ か ら こそ西班 職 は成 衆 官 な ど に封 す る寄線 の官 と し て、 しば しば 容 易 に流 用 され る よう に
(
74
)
な ってい った のであ る。
そうし た西班職 の流 用 は、国王 の私兵 ・私属 を緑養 す ると いう意味 では、 あ る程度私的権 力 とし ての王権 を強化 す る こ
と にはな った であ ろう。 と は いえ西班職 の形骸化 を も たらし たと いう意味 では'本来 の王権髄 制 を決定的 に弱化 さ せ、無
力化 させ てしま った こと は争 われな い。高麗末期 の王権 は、結 局 のと ころ自 らを lつの私 兵勢 力 にま で腔め な ければ そ の
宿衛 の兵力 を維持 す る こと は できな か った のであ る。
しかし このよう に脆 弱 な王樺 を以 てし ては、十 四世紀末葉 におけ る東 アジ ア世界 の多 難 な国際 環境 を乗 り切 っていく こ
と は できな か った。李氏朝鮮 によ る革命 は、 あ る意 味 では この脆弱 な王権 を昔 時 最強 の私 兵勢 力 の 一つであ った李氏権 力
にすげ替 え る こと によ って、王権 そ のも のの抜本的 な強化 を困 り、 この強化 され た王権 のも と に軍令権 の集 中 を、延 いて
は中央集権的 な国家髄 制 を回復 し てい- ため の試 み であ ったと見 な し てお- ことも でき る であ ろう。
(
-) ﹃宣和奉使高麗囲経﹄巻十 l'伎衛'龍虎左右親衛旗頭候。龍虎左右親
以令六軍、蓋軍衛之隊長也.惟王府之内'衛者二人'使者至、則置 1
衛旗頭、服球文錦抱'塗金束帯'展脚模頑、略類中朝服度。持小旗旅、
注
八領、領各千人'通番三高八千人。若造我、富轟率来、馬朝廷用.史
人於 (
鄭刻有兵字)使内'乗馬前導。蓋所以待 (
鄭刻侍)使人而供給'
皆擁侍王之人。躍至於此、可謂至失。
) ﹃高麗史﹄巻 一百二㌧李戒用樽。時'永寧公縛、在蒙古言、高麗有三十
(
-
丞相、召戒用、至中書省、問之。戒用日、我太阻之制、蓋如此'比年
死於兵荒'離日千人、其賓不然、亦猶上図寓戸牌子頑数日、未必足也。
同右'龍虎左右親衛軍婿候O龍虎左右親衛軍将'亦服櫨文錦抱'塗
金束帯、帽頭雨脚折而上'右勢微屈、飾以金花。王出入'則十飴人、
執羽扇 ・金鉱、以従.
請輿縛東蹄鮎閲、緒言是'斬我、我言是、斬縛。縛在側'不敢復言。
衛 ・鷹揚軍 ・功臣子孫、及文班六品以下、有武聾者、試定科等。
(
-) ﹃高麗史﹄巻八十 一㌧兵志 一㌧兵制'顧宗九年九月候。御宣化門'集三
318
高麗 における軍令樺 の構造 とその髪質
同右'紳虎左右親衛軍候。紳虎左右親衛軍、服壇文錦絶、塗金束帯、
金花大帽、仇加紫帯、繋於領下、如紘接之属'形製極高、望之轟然。
接簿而蓉之 (
若征行及使、経雨番己上者、免南番。繭番以上者証二番。
其不免番者、還日印嘗番者、東上番)
0
(
-) ﹃高麗史﹄巻七十八、金貨志 1'田制'田柴科'穆宗元年十二月候、嘗
*折衝府 の宮人は地方州解 に所在するとはいえ中央 の六衛 に所属する
考。
昔哲永寧中、高麗使至'服窮袴、冠拒風。中書郎王融、戯之日、服之
不表、身之災也。頭上定是何物。答日、此 (
鄭刻、有則字)古弁之遺
中央官 である。従 って折衝府 の宮人が中央 の文武宮人ととも に併記さ
像也。今観高帽之制、其拒風之俗'今猶然也。
同右、興威左右親衛軍備。興威左右親衛軍、服紅文羅梅、以五采囲
い。この鮎 に ついては、﹃
軍書考索﹄後集巻四十、兵門 における章如愚
れ ていることは官制上嘗然 の措置として理解しておかなければならな
の接語 に、「
唐之府兵、難散在諸道、然折衝都尉、盃造隷於諮衛'乃是
文繍花大扇 ・曲蓋、屈従前後。常服、自龍虎 ・紳 [
虎 ・興]威以下、
皆以紫帽、無金飾。諮衛中'惟此 1等'人質差倖蔦。
内任官。故官志、係於諸衛之後、不興外宮同」とある考え方が参考 に
なる。
花、鮎相馬飾'金花大帽、黒犀束帯。王之左右、二十錬人、出則執蛸
*龍虎 ・紳虎 ・興威 の三親衛 にのみ金飾があり'諸街中、 これら の三
三親衛 の保勝軍 ・精勇軍が高麗国軍 の中核兵力とし て位置づけられて
いたことを窺うことができる。
憲 ・左武侯 ・衛瑚府 郎婿'仇腸公服 1襲'銀三十両、綜二十匹0
(
-) ﹃高麗史﹄巻三㌧成宗世家、九年九月丙子候。数日、-折衝府別婿趨英、
親衛だけは軍人とし ての資質もやや優れ ていたという右 の記述から'
末松保和氏 の研究 によれば' この登録兵数 の記録は紳宗七年 (一二〇
(
10) ﹃
世宗要録﹄ 二十年九月壬辰懐。 議政府接兵曹呈啓' 西班三品以下将
隊正則統十人、伍尉則率五人'十司毎領隊正二十人'伍尉四十人、各
大以使小、卑以事等'大小尊卑'各有等級、其未聞失。至於使令之設'
士、専以禁暴禦侮而設、其卒従僕従、不可不衆。目上護軍'至子司勇'
葬母家囲う朝夕把之。-趨英超十等'授銀青光線大夫 ・検校侍御司
四)から高宗二年 (一二 一五)までの十二年間、すなわち蒙古軍 の侵
入直前 の時代 のものと推定されている (
末松 「
高麗 の四十二都府 に つ
いて」
)
。
史
﹃
高麗 ﹄巻八十三、兵志三、州願軍へ序。高麗兵制、大抵皆倣唐之府
れ、伍尉 の下 には五人 の軍人が統率され ていたといわれている。 これ
じ て六十と稀し ていたが' このうち隊正 の下 には十人 の軍人が統率さ
*右 に述 べるとおり'朝鮮朝 では各領 の隊正二十人'伍尉四十人を線
三十八領三高八千人 の府兵 に多数 の開員が生じ ていたこと に ついて
は伍尉二人 の率 いる十人 の軍人を隊正 1人が統率するという意味 であ
有統属、故練謂之六十。六十之髄、自高麗至干本朝'常稀之。
は、本稿第 四節 において考察するとおりである。
ろうから、各領 の隊正二十人、伍尉四十人 のもとには全髄として二百
衛、則兵之散在州願者'意亦皆属乎六衛、非六衛外、別有州麟軍也。
﹃
大唐六典﹄巻五㌧兵部郎中候.凡兵士隷衛、各有其名'・
・
・
纏名馬衛士'
然無可考、姑以此目之。
皆取六品己下子孫、及白丁無職役者、鮎充。凡三年 一筋鮎、成丁而入、
は朝鮮朝 における数字 であるが、各領 の下級 の指揮官 (
高麗 では校尉
人 の軍人が統率され ていたという ことになるであろう。もとよりこれ
二十人'隊正四十人)を総じ て六十という制度は高麗以来 のものであ
六十而免'量其遠適'以定番第 (
百里外五番、五百里外七番' 一千里
るから、その六十 によ って統率される各領軍人 の苫番数が高麗以来二
外八番、各 7月上。二千里外九番、倍其月上O若征行之鎮守者、免番
毎年正月十日'返本府印芝、仇録 一通達本衛。若有差行上番'折衝府
而遣之)
.凡衛士、各豆名簿、異三年己東征防若差遣、仇定優劣薦三等、
319
/
\
5
\
_
(
6
\
_
(
7
\
-
学 報
方
東
﹃
経国大典﹄兵典 に規定する主要な番上兵 の嘗番総数は'宣将官八員、
乗司僕五十員'内禁衛 一百九十員'親軍衛二十員、別侍衛三百員、甲
百人 であ った可能性も、 一概 には否定 できな い。
属する折衝府 の官制 であ ったことを明確 に示し ている。 これらが中央
尉 ・譜尉隊正と記述され ているのも、それが折衝都尉 ・果毅都尉 に所
婿 ・校尉 ・隊正 は存在 しな い (
ただし諸衛 の左右瑚中郎将府 には校
﹃高麗史﹄兵志'兵制'文宗 二十 三年三月候。剰'諸州 言 m
別揮う則以
副戸長以上、校尉則以兵倉正 ・戸正 ・金線正 ・公須正、隊正則以副兵
尉 ・隊正 は存在するが)
。穆宗朝 の田制 において校尉 ・隊正が諸尉校
士二千九百六十員、吹螺赤 一百二十八員'大卒篇十二員'済州子弟三
の六衛 に移展す るよう になる のは、折衝府 の撤麿以後 のこと であろ
・
つ0
(
L=)
十員'破敵衛五百員、壮勇衛 一百二十員'隊卒六百員、彰排 一千員、
計五千九百十八員とな っている。正兵 の嘗番兵数 は ﹃
経国大典﹄ には
明記され ていないが、﹃
成宗要録﹄二十 四年閏五月己未候 の記述 による
と、その 「
上番する者は幾ど二千飴人 に至る」というから、 この正兵
二千人を加えても大健 二馬人足らずと いう ことになるであろう.
高麗 の嘗番兵数を偶 に七千六百人と想定した場合' これに長番兵 の
倉正 ・副戸正 ・講壇正、試選弓科而差充。
﹃
高麗史﹄選挙志、郷職'文宗二十三年三月債。列、別婿則副戸長以上、
校尉則兵倉正 ・戸正 ・食線正、隊正則副兵倉正 ・副戸正 ・講壇正'壷
弓科試選、乗差。
服'有特賜犀背者'荘皆遺収、改賜珊帽黒革帯。又有戸長、借用玉環
者'盃皆禁断。高麗葛制'外方郷吏、比朝官文武班、戸長有大相 ・中
ヂ ・左 (
佐)声之競、記官有兵正 ・獄正之戟'都軍有都令 (
領)・別正
姐
眼的 ﹃
世宗資録﹄二十年四月甲寅朔候。議政府接稽曹呈啓'外方各官郷吏公
(
婿) ・校尉之競。故都軍、至今栴馬将校。由是、大官郷吏、例用犀帯 ・
なお ﹃
高麗際経﹄使衝 の序 には、「
其六軍上衛、常留官府。-其留衛
王城'常三高人'迭分番以守」と いう記述があるが、 ここで 「
常 に三
高人」というのは'三常人 (
三十八領三高八千人) の全 てが常 に王京
象第 ・玉理 ・玉環。至本朝、嘗禁之。
宣和奉使高麗園経﹄巻十 一'使衛 一、控鶴軍備。控鶴軍、服紫文羅抱'
姐
服) ﹃
に駐留し ていると いう意味 ではあるまい。それは朝鮮朝 の首番兵数と
とし ては 「
常 に官府 に留」ま っているということ であろう。
*軽鶴軍が近杖軍 (
鷹揚軍 ・龍虎軍)に相嘗することに ついては、﹃
世
五采聞、繍大圏花馬飾'上折脚喉頭、凡数十人、以奉詔輿。王興人使'
私敷往来、則奉箱匪。
租薫録﹄十年八月壬午朔 に見える同知中梱院事実誠之 の上書 に'「
軽鶴
﹃
高麗史﹄巻七十八、食貨志 一、田制、田柴科、穆宗元年十二月候、普
﹃
高麗史﹄巻七十八、金貨志 一㌧田制、線科田、恭譲王三年五月候 の記
軍日近使」とある記述が参考 になる。唐制 では則天武后 の聖歴元年 に
控鶴監を置 いて近侍 の官と薦したという先例がある (
﹃
資治通鑑﹄ 膚
紀、聖歴元年 二月債'同二年正月候)
0
李基自 「
高麗軍役考」 (
﹃
高麗兵制史研究﹄ 一五七∼ 一五八貢、参照)
﹃
高麗史﹄巻七十八、金貨志 一、田制、田柴科、文宗三十年候、嘗考。
別婿 ・校尉 ・隊正 は本来折衝府 の官制 であ って、庸制、諸衛 には別
中、御選有身彩多功努者、充差。
高麗史﹄兵志'兵制、文宗 四年十月候。列、近使将校、以諸領府将校
姐
狐四 ﹃
述 によると、高麗末期 における京畿 ・六道 の宮田線数 は、六十 二寓三
千九十七結 である。
考。
番上兵が、個 々人とし ては 「
迭 いに分番し て以 て守り」ながら、軍隊
比 べても錬りにも過大な数字 である。 そう ではな- て、延 べ三高人 の
七千人と、指揮官職 の三千五百二十六人 (
後述)を加えれば合計 一高
八千百二十六人とな って'朝鮮朝 の雷番兵数 よりはかなり上回 ってい
たという想定 になる。
G
\
_
320
高麗 における軍令樺 の構造 とその髪質
*将校という言葉は婿相と封をなし て各領 の指揮官職を指す言葉 であ
の農閑期 に限られていたのではないかと思う。
*右 には 「
首秋而遜」とあるが'その豆役は原則とし て秋から春まで
のうち、各道 の都節制使管や各鋸 の愈節制使薯 に番上するも のを管鋸
(
25) 朝鮮初期 の兵制 では、原則として王京 への番上義務を負わない地方翠
るが'﹃
高麗史﹄兵志、兵制、文宗二十五年十月候 に、「
列'聾鏡牌相 ・
将校牲脚米」とし て将軍以下 ・郎将以上、縮郎婿以下 ・散員以上'校
展、居住地州願 にのみ豆役するものを守城軍とい って区別した。 この
尉 ・隊正、借隊正 の四 つの階層 に封する牲脚米 の支給量を規定してい
るので' このうち の散員以上が婿相、校尉 ・隊正 ・借隊正が将校 にそ
のではな いかと考えられる。
(
26) ﹃
太租要録﹄三年二月己亥候。列義興三軍府事鄭道博等、上書目、-0
督鏡巌 ・守城軍 の匝別 は、あたかも高麗 の二三品軍 の匝別 に相嘗する
﹃
宣和奉使高麗囲経﹄巻十 一、枚衛 一、金吾使衛軍候。金吾伎衛軍'脂
l'将兵者、位卑則順従上命'易於役使、安守其分。今朝延'雄有都
れぞれ相首するも のと考えられる。散員以上と校尉 ・隊正と で匝別す
紫寛袖彩 (
疑杉字)圏著 (
鄭刻者)喉頭。以采上束、各随其方之色、
而掌兵者、将軍也。此長治久安之策也。本朝府兵之制'己有此意'使
督 ・指揮 ・千戸、而掌兵者、石戸也。前朝雄有中枢 ・兵曹 ・上大将軍'
る論濠 に ついては本稿第二節 において詳論する。
﹃
宣和奉使高麗囲経﹄巻十二㌧伎衛二、千年左右使衛軍候 。千牛左右佼
亦命兵馬使以下掌之。節制使、以時糾察兵馬便之勤慢、則髄統相維'
将軍掌五員 ・十婿 ・六十尉正、其大将軍以上、無輿罵。各道州郡之兵、
方薦 l色、聞繍囲花鳥飾、執持幡蓋儀物、豆於闇閲門外。
文'上質 1鼓'其制如桃.亦執童戟 ・鐙杖 ・豹尾之属.輿此服飾'皆
衛軍、服緋窄衣、首加皮弁、黒角束帯。腰有二裾、飾以獣文。手執小
兵雛衆而無不戟之患。上従之。
也。資謙以漢郷入内、印以豆功馬借将軍'師兵'聴俊京指揮。俊京使
(
27) ﹃
高麗史﹄巻 一百二十七'李資謙侍。有洪豆功者'将軍劉漠卿下中郎婿
一等也。
﹃
大店六典﹄巻五、兵部郎中候。凡千牛備身、備身左右、及太子千年'
(
2) ﹃
高麗史﹄明宗世家、十 l年七月己卯候O是夜'白寿昌宮北垣投石'抵
豆功、領卒六十線人、塘柴、至都省南路'-。
皆取三品己上職事官子孫、四品清官子、儀容端正'武撃可構者、充。
﹃
高麗史﹄巻八十 一、兵志 一㌧兵制、文宗二十三年十月候。列、軍人年
*兵志、宿衛 にも同文 の記述がある。
御寝北腐者三四。宿衛皆驚、巡索禁垣、責不得。垂房奏請'毎夜 一将
軍'領手下軍校、伏兵宮門外及諸要害虞'以備警急。従之。
衛。至海軍、亦依此例。
﹃
宣和奉使高麗圏経﹄巻十二㌧伎衛二'官府門衛校尉候。官府門衛校尉、
老 ・身病者、許令子孫親族代之'無子孫親族者'年満七十聞、属監門
服紫文羅窄衣'展脚喉頭、右侃長剣'技手而豆。考某所任之職、綿轄
(
29) ﹃
韓国金石全文﹄三七五、申甫純墓誌。公年末弱冠従軍'二十五歳、受
彦清下別婿。
台沖下隊正、毅宗七年壬申、拝守弥下校尉、辛巳'崖清下散員'乙酉、
兵階、戦陣獲敵首'不慮腸銀者、次第遷補'以留王府、守衛諸門。白
倉慶門、置左右親衛将軍外、其鎗'内則贋化'外則宣義諸門、皆有之0
﹃
高麗史﹄巻八十1
1
1
、兵志三'工役軍、明宗二十 l年八月債。分外方役
*底本 は金吾衛伎領散員を使領散虞 に誤 っているが、意を以 て改め
蒋鵠別格、加将軍純永下郎牌。
康陵直'明年冬、投筆'拝金吾衝使領散員、紳宗奇之、召入内侍'尋
(
30 ) ﹃
韓国金石全文﹄四五五'金仲亀墓誌。以大金明呂五年甲寅、起家、補
至於寺観官府、時亦用蔦。然服輿人材'皆所不達'嘗是 一時旋置、以
軍馬三番。奮制'諸州 l品軍、分馬二番、嘗秋而遡、使之循環'比縁
他名色人充代'非 l等品秩也O
営造'合而役之、至是分蔦。
321
3
7
,
.
→
一
・
云
\
_
方 学 報
東
た。兵志、兵制 に見える金吾衛役領とは'貫はこの使領 の誤りな ので
はな いであろうか。
宗簿寺事君貴之子。仕前朝、初揮散員、遷至郎婿。
﹃
太阻害録﹄七年三月己巳候.前密直使金先致、卒。先致'同州人、列
書目敦之子。仕恭慈朝、授散員、累遷至上護軍。
(
34) ﹃
高麗史﹄巻六十八'躍志十、嘉躍、参上 ・参外 ・人吏 ・掌固'謁宰梶、
ると、各領 の指揮官職は将軍 一人'中部婿 二人'部将五人'別席五人、
ばれ ていたことと同じよう に、散員 ・別婿など の員額 にちなんだ練稀
訓'略無机椅之習、温良孝悌、本於天性.至正二十五年乙巳 (
恭慈十
高郵之戦、恭懸王追念其功'授雲海忠勇衛散員'累蒋典工扱邸。
﹃
東文選﹄巻 一百二十九、安景恭墓誌。公諦景恭、字遜甫、蚤承家庭之
兵志'兵制、恭敬王五年九月債'嘗考)
.
員額 の本来 の姿を留め ているのではな いかとも考えられる (
﹃
高麗史﹄
3
22
﹃
太租貫録﹄五年九月己巳候。漠山君趨仁沃卒。仁沃'漠陽人、版圏列
﹃
世宗資鍍﹄十八年閏六月突未候。上目、東班別既設九品'而又置樺務
超拝八品、有違於循資之法。加設九品、以革其弊。議政府啓日、三軍
之職、西班難有九品隊長 ・隊副、馬流外庶人之職、除授西班者、率皆
及人吏 ・掌固、謁参上 ・参外儀。粛宗二年五月列。凡内外衡門、員以
上'坐床治事。大朝台 目'進歩起居。平時揖而不拝。宰梶廉 ・参上庭
内'参外階上、人吏 ・掌固没階'行頑.参上廉 ・参外廉内'人吏 ・掌
固没階、行程。参外廉、人吏階上、掌固没階'行躍。外宮廉'長典 ・
記官、:
斑没階、行程。西班別摘郎婿以上'准参上。散員以上、准参外。
校尉 ・除正、准人更。旗頭 ・都典、准掌固。庶人見常参以上、起身唱
喋経過。
(
35) ﹃
宋史﹄巻 一百八十七、兵志 一、禁軍上。建隆以来之制'騎軍、-散員
(
左右班 四。周制、招置諸州豪傑豆。散指揮 ・散都頭 ・散砥候'凡十 二
班。又於北面焼捷員僚直及諸軍内'簡閲填補。成年五年、定州路都部
署王超言、縁通有強梁輩、常居四界、擾動遠境。請厚給金8
E
、募充散
員。従之)
0
蔭補散員'乗式目録事。
﹃
高麗史﹄閲宗儒侍附閉息年俸。恩卒'字塘夫、少有器局、政丞金倫、
(
36) 朝鮮初期 の兵制 では、各領 の指揮官職はしばしば五員十将とし て纏柄
され ていた。 これは各領 の校尉 ・隊正がその員額 にちなんで六十と呼
競知人、以女妻之。撃 日進、試補散員 ・別格、不発武資'講書金力、
散員五人 の計五員十三婿とな って'五員十婿 の絶稀 には合わな-な っ
四年' 二二六五㌧年十九)
'補散員'明年'超群部将、乗司憲糾正。
であろうと思われるが'﹃
高麗史﹄百官志 に見える員額 のとおりに考え
﹃
高麗史﹄崖雲海侍。荏雲海、字浩甫'通川郡人。父緑'護軍、有功於
忠粛朝'登第'調聾文春秋修撰。
てしまう。 この鮎'恭懸朝 に設けられた忠勇四衛 の員額 は'衛ごとに
将軍 一人'中郎将二人'郎婿二人'別婿五人、散員五人 の計五員十将
とな っているので、むしろこの忠勇衛 の員額 の方が二軍六衛 の各領 の
﹃
高麗史﹄金方慶侍。金方慶、字本然'安東人。-高宗朝'年十六㌧以
例は特 に高麗後期 において頻見するよう である。
両班子弟が散員を以 て起家する事例を幾 つか畢げ てお-。 この種 の事
軍役を勤め上げ て、初め て西班職を受けることを出職と稀し ているの
である (
﹃
中国歴史大尉典﹄宋史巻' 一九八四年、上海辞書出版社)
0
喉頭草履、如中華班直 ・殿侍之類也。武臣子弟、兵衛出職'皆補之。
毎人使至、則捧盤 ・授宙 ・執衣 ・侍巾、嘗用之。
*右 に出職というのは宋 の官制用語 で、 一般 には背更が出官すること
(
初め て差遣を受けること)を意味している。ここでは 一般軍人がその
従九品別科進義副尉'亙以司勇稀競。線科、盃依正品.従之。
﹃
宣和奉使高麗圏経﹄巻二十 二 単糠、散員候。散員之服、紫羅窄衣'
一、副司正玉。毎 一領'加設正従九品、各七。正九品別格進武副尉、
五員'則毎 一軍、革司直 四、副司直十、司正十四、副司正五十 二㌧毎
軍加設正従九品、各八十。三軍甲士、絶五十領'革副司直 ・司正、各
垂
高麗 における軍令樺 の構造 とその髪質
﹃
高麗史﹄巻九㌧文宗世家'三十四年十二月己未朔候。東蕃作乱'以中
遠太埜 「
高麗朝 の文班と武班」
中郎将 (
司直)
'郎将 (
副司直)
、別滑 (
司正)
'散員 (
副司正)のこと
書侍郎卒章事文正'利行皆兵席亭。同知中枢院事荏夷、兵部尚書廉漠'
ただし この五員十婿 の総柄は'朝鮮初期 に入ると'専ら婿軍以外 の
を指し て用いられるよう に撃質し てしま っているよう である。
﹃
高麗史﹄巻九十五'李子淵侍 によると'李子淵 の子 の李朝 は、文宗が
﹃
高麗史﹄巻九十五、文正博。
四百三十 一級。
病兵馬使。左承宣李朝'馬兵馬副使。蒋歩騎三高、分遣往撃之'檎斬
う軍敦が定められていた。 この三軍という数から中国 に封する諸侯園
だも ので、そこでは天子 の六軍 に対し て 「
諸侯は、大国は三軍」とい
(
37) 三軍という数 は ﹃
周稽﹄大司馬 の序 に見える中国周代 の兵制 にちなん
とし ての高麗園 の自己認識が窺われるが、高麗後期 に入るとこの三軍
このような宰臣 の子弟が患蔭を以 て起家する場合 には、 一般 には軍器
けられ ている。 このとき李子淵は内史侍郎李軍事 の地位 にあ ったが、
李子淵 の女を納れ て妃と為した際 に、その恩蔭 によ って軍器主簿を授
七千五百人となる。高麗三十八領三高八千人という軍額 は、 この周制
注簿同正 の位階を授けられることにな っていた。
﹃
高麗史﹄巻九十六㌧ヂ堆侍。
ちなみに'周制 の 一軍は 一寓二千五百人というから、三軍 では三高
の制度 は崩れて五軍 に旗張されるようにな ってい-0
から導き出された多分 に理念的な数字 であるtということも できるで
あろう。
同右、ヂ確樽。及び巻九十五、金漠忠侍。巻九十六、呉延寵樽、文冠
侍。
﹃
高麗史﹄巻十六、仁宗世家'十三年正月戊申候。妙清 ・柳日
山・越匡等、
任元散'薦中軍師'金正純 ・鄭旋淑 ・虞令掘 ・林英 ・ヂ彦瞭 ・李瑛 ・
八年'置於東西北面、兵馬使 一人、三品、玉帯紫襟'親授斧銭'赴鋸、
専制閣外」とあるが' これは東北面 ・西北面以外 の地 に蔽遺される兵
高唐愈 ・劉英、番之佐。吏部尚書金富儀、婿左軍'金旦 ・李愈 ・李有
﹃
高麗史節要﹄巻十'仁宗十三年正月戊申候。-於是下詔'以金富拭 ・
もので、そこでは 「
軍将はみな卿より命ず」
、つまり軍司令官 には卿身
閑 ・ヂ彦蚊、馬之佐O知衛史毒草李周桁、婿右軍'陳淑 ・梁繭忠 ・陳
以西京反。辛亥、以金富拭、薦元帥'討之。
分 のも のが任命されると いうことにな っていた。高麗 の官制 では文武
景甫 ・王抹'馬之佐。
馬使 に ついても同じ こと である。なお この兵馬使が文武三品以上 の宮
三品以上 のも のがこの卿 の身分に嘗たるので' このような ﹃
周稽﹄ の
閣外。知兵馬事 一人'亦三品。兵馬副使 二人、四品。兵馬判官三人'
置於東西北面。兵馬使 一人、三品'玉帯紫襟'親授斧銭、赴鋸、専制
(
49) ﹃
高麗史﹄百官志'外職、兵馬使候 に、「
兵馬使、成宗八年 (
九八九)
∼
将軍、討西北威。
され ていたわけではない。要は司令官職 に就くものの本官が正三品 の
場合 には兵馬使と いい、従三品 の場合 には知兵馬事といい'正四品 の
五六品。兵馬録事四人」とあるが' これら の員額は必ずしも常 に満た
朴公襲 ・白富公 ・陳光卿'往討之。
場合 には兵馬副使とい ったということであろう。判官 ・録事などはそ
﹃
高麗史﹄巻 二十'明宗世家'二十三年十 l月壬辰候.以上将軍崖仁雷
前掲注 (
27)'参照。
雨路捉賊兵馬便'大将軍高湧之都知兵馬事、率将軍金存仁 ・史良柱 ・
﹃
高麗史﹄巻十九㌧明宗世家'七年九月辛丑候。道上将軍李義蚊'領八
たのである。
理念をも踏まえて、兵馬使 には文武三品以上 の官人が任命され てい っ
人を以 て任命されることも、やはり ﹃
周穫﹄大司馬 の兵制を踏まえた
(
38) ﹃
高麗史﹄巻七十七、百官志 二、外職、兵馬使 の候 に、「
兵馬使、成宗
(41 )
323
白
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ヨ
3
9
、
ー
弓
i
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4
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報
学
方
東
5
45
35
251 50
し て想起される。行文中'「
都監を復豆する」とあるのは高宗三十九年
(7二五二)八月 に立 てられた 「
充葺都監」を復豆させることであると
善都開城府 に復都した際 の歴史的状況が' これに最も相鷹しいも のと
思われるので' この鮎 においても元宗十 一年 (一二七〇)五月と いう
の司令官職 の騨召する幕僚 である。
同右'任元厚侍。及び巻九十七㌧金富儀侍。巻九十八'金富拭侍。
﹃
高麗史﹄巻九十五、任元厚博 (
初名元数)
。
末松保和 「
高麗兵馬使考」
指標云。国家之制'近使及諸衛'毎領設護軍 1・中郎婿二 ・郎将五 ・
﹃
高麗史﹄巻八十 一、兵志 一
、兵制、靖宗十 1年 (1
〇四五)五月債。
決枚数が用 いられ ていることなどから判断し て、元宗朝昔時 のそのま
れる官職名や、「
決杖七十七下」という'これも事元期 に固有 の特殊な
ただし右 の梼文 には'「
護軍」「
伍尉」など の事元期以降 に初め て堤
のは右梼文 の内容 に最も適合する歴史的時鮎 であると言うことが でき
るであろう。
(
1)、参照。
別婿 五 ・散 員 五 ・伍 尉 二十 ・隊 正 四十、正 軍訪 丁人 一千 (
訪'街
﹃
高麗史﹄李蔵用樽。前掲注
多聞.丁人折角購役'使藤官六十代之。園此、領役難苦、宰相求避'
伍尉 ・隊正等'末能首之。若有国家力役、乃以秋役軍 ・品従 ・五郡坊
事元期 の現状 に見合 った形 に元々の史料を書き換えたり、書き改めた
辛?)
'望軍丁人六百。凡雇駕 ・内外力役、無不薦之。比経鍋乱、丁人
里各戸刷出、以致騒擾。今国家太平'人物如古'宜令 丁領各補 1二百
にせよ' これは靖宗朝 の高麗前期 の史料 ではな-、むしろ高麗後期 の
りしたことがあ ったのではないかと いうことを示唆し ている。 いずれ
まの文言とは認められな い部分が少な-な い。 これらは宮腰史料を俸
承する過程 において' これを現賓 に施行しなければならな い必要上、
名'除京中五郡坊里'各司従公令史 ・主事 ・記官'有蔭品宮子'有役
なお、中国元朝 では杖七下から杖 一百七下 に至る特異な決枚数が用
史料とし て取り扱わなければならな いであろう。
膿 口外'其飴両班及内外白丁人子、十五歳以上 ・五十歳以下、選出充
以領内丁人'遷車線用。中禁 ・都知 ・白甲別差'亦以丁人首差。丁人
いられ ていたことは、例えば ﹃
元史﹄刑法志などにも述 べられ ている
補、使選軍別監、依前田丁連豆。其領内十牌 ・六十有閑、除他人、盃
戸'各給津貼、務要完他。復豆都藍、揮公廉官吏掌之、勿令容私。如
﹃
高麗史﹄恭懸王世家、十四年 四月丙午候。以知卒州事李守含汚'杖育
は、次 に列記する三 つの事例 によ って明らかである。
両班'則勿論職之有無'依例科罪。譜衡門詐栴道程丘使、追線名簿、
七、除名。﹃
高麗史﹄荏整備。 (
辛弼)五年'新定君馬桐秀、輿其子、
とおりであるが、高麗 でも 一時期 この元制 の決枚数を用 いていたこと
知情規避者、亦皆科罪。
流之。桐秀道死。﹃
高麗史﹄成石塀侍。伯淵之獄起、鮮連石塀'杖百七、
占匿良民、事覚、繋獄。-尭杖桐秀 一百七、#杖其子致遠 ・希遠、皆
有飾詐求患者、着蜘豆市、決杖七十七下'配島。指揮人、盃徴銅o其
*右 の史料 の繋年を疑う論接 のひと つは' 「この頃禍乱を経 て」 だと
聞、諸宮院及両班等、以丘使 ・購 口拘交、造飾求患者、宮院所掌貞 ・
か、その桐乱が収ま って 「
今国家太平'人物古 の如し」だとかいうよ
うな歴史的状況が'概し て平穏そのも のであ った靖宗朝 には全く兄 い
講除授百官。太孫譲日'我碓監撫、至於選授、非所敢尋、必待君父之
配成安成卒。
3
朋刑 ﹃
高麗史﹄元宗世家'高宗 四十六年 (一二五九)閏十 一月甲申候。繭府
遠0両府固請日'我国専頼領府、以薦藩垣。今校尉 ・隊正、死者大半0
だす ことが できないと いうこと である。そこでこの靖宗朝 への繋年を
不可不填閲。太孫勉徒之。乃除五品以下。
何らか の原因 による錯簡と見なし、 こうした歴史的状況 にぴ ったり適
(一二七〇)五月、モンゴ ル軍との講和がようや-成立し て江華島から
合する 「
十 l年五月」を靖宗朝以外 において検索すると、元宗十 一年
324
高麗 における軍令樺の構造 とその墾質
(
5) ﹃
高麗史﹄巻八十 一、兵志 一、兵制'恭慈王十 一年六月債。監察司上言'
国家冠盗連年'兵不圏結、毎至危急、徴兵於農'非惟擾民'亦無救於
倉卒。自今'選挟丁牡、以備緩急。
(
59) ﹃
高麗史﹄巻 一百十四、河乙祉侍。時、乙祉策軍於定額外、又策煙戸軍
及別軍'民頗失業。髄覆使郭髄、遠奏之'即罷新茶二軍。
籍'凡抄軍時、妄意定数'勤令充敷、作弊不小。
(
60) ﹃
太阻賓録﹄六年二月甲午候。使司上言'前朝之季'各道草民、戸数無
(
61) ﹃
太租苦鐘﹄辛縄六年八月債。高麗末、官不籍兵'諸賭各占馬兵、競日
*右 のよう に高麗末期 には 一般農民兵 にま で虞-動員が及ぶよう に
な っていたが'本来 の作戦軍は三十八領三寓八千人 の保勝軍 ・精勇軍
詣罵無所不至、或加梼樺、至有死者、魔下多怨望。太敵性粟厳重簡獣、
牌記O大将若荏埜 ・遠安烈 ・弛龍毒 ・寓仁烈等、幕僚士卒、有不如意、
中居常閉目而坐、望之凄然、及至接人、揮是 一国和気。故人常長而愛
を以 て編成され、その他 の州願兵 には動員は及ばないことにな ってい
﹃
太阻害録﹄三年二月己亥候。列義興三軍府事鄭道侍等上書目.i
た。 この鮎 に ついて、都道博は次 のように述 べている。
(
62) ﹃
高麗史断雲﹄恭愚王十 四年五月候。慶千興 ・崖埜'以私兵、大猟千束
*牌記とは、もともとは軍籍 のこと。 この軍司令官 の作成した軍籍を
禦之'至於不得巳、而後蓉郡騎兵。外攻内守、侍至四百飴年、昔時府
兵之盛、可知。
(
57) 経済基盤や身分 の有無を問わな い新しい形 の徴兵は、早-は粛宗九年
郊。-妖僧遍照、讃荏登、腔薦難林ヂO照時主密直金蘭家、蘭以二庭
之、其在諸婿中'猪躍接塵下、年生無評語、諸特塵下、皆願展者.
十二月 における別武班 の召募から始ま ったも のである。 このとき王京
女親寝。埜責蘭、照疾之。及登出猟、逐語之.王達列開城府事李均、
譲之日 「
卿馬東西江都指揮使、倭人呂陵、取世阻真、而郷不知'以金
前朝盛時'唯府兵外、無他軍髄、北有大遼'東有女直 ・日本'侵掠於
においては文武散官 ・吏背より商貢 ・僕隷 に至るまでのあらゆる身分
外、又有草賊、往往窺馨於中、小則中部婿以下、大別道上将軍 ・将軍'
階層 のも のが召募 の封象となり'また地方 の州煤 にお いても恐ら-は
諌其恕卿平。今以卿ヂ難林'可急之任」
。壁間命'嘆日 「
今之得罪者'
緯命代卿'卿不以軍授緯命、率其兵'田猟無時'何也。難予不言、墓
記 (
牌記兵)と栴するようにな ったのであろう。
牌記と構したと ころから、その軍筈 に登録された軍人そのも のをも牌
は紳騎軍 に' できないものは紳歩軍 に、それぞれ編成され ている。ま
「
本圃蓄例、凡大官出鎖遠境者、令帯指揮使之名」とある記述が参考 に
*指揮便 に ついては、 ﹃
高麗史﹄ 忠烈王世家' 二十七年五月庚成候 に
なる。思うに指揮使というのは予想される軍興 に封虞するためにあら
鮮克保全'吾得難林而往'亦是聖恩」
。遂行。-
の経済基盤や身分などは不問 に付されていたであろう。 このように、
かじめ蔽遺される軍司令官 のこと で、軍興時 に蔽遺される元帥 ・兵馬
た武臣執権期 には荏璃が勇士を召募して夜別抄を編成し、 これが有名
別抄 の軍隊は本来は自費的な召募 によ って編成されていたも のと考え
倭とはその鮎が性格を異にするのであろう。
な三別抄 の基とな ったわけであるが' この召募 の際 にも いわゆる勇士
いを強くし てい ったも のと考えられる (
以上は盃びに ﹃
高麗史﹄兵志'
にな っていた ので'事案上は司令官職としても意識され ていた。 この
(
64) 都巡問使 はもともとは民政官 であるが'軍興時 には元帥を兼ねる慣例
護 ・知官'皆帯兵馬之職。
(
63) ﹃
高麗史﹄巻七十七、百官志二'外職'大都護府候。辛耐 元年、牧 ・都
られるが、府兵制度 の崩壊 に伴 って、次第 に強制的な徴聾という色合
﹃
高麗史﹄巻八十 一、兵志 1、兵制'辛弼二年五月債.髄覆使郭斑、遠
兵制 の記述 に壕る)0
目全羅道、奏日'元帥於原定別抄外、又抄煙戸軍、又抄別軍、民将失
農。乃罷煙戸軍輿別軍'厨農。
325
その身分を問わずに軍隊 の召募が行われて'凡そ馬を自折 できるも の
、
、
5
8
\
_
.
報
学
方
東
鮎 に ついては ﹃
高麗史﹄兵志、兵制、辛弼 二年候 に'「
今後毎嘗興師之
史﹄巻 一百十六、沈徳符樽)0
(
67) ﹃
高麗史﹄恭譲王世家、二年十 一月辛 丑候。憲府言'今中外軍事'既 以
同右、 美卯候。 罷各道将帥'放 軍人。
領 三司事李 (
成桂)都捜之。請悉収諸 元帥印章。従之。
際'令各道都巡閲使、乗元帥」 とあ る記述 が参考 にな る。 そうし てこ
の司令官職 とし ての都巡問使 が、恭譲元年 には都節制使 に改められ、
或栴侍衛、或構 別牌' 及私件償'番上之煩'徴馨之擾、其弊甚多、陪
左散騎金若采等'交章上疏 日、 -又況外方各道軍馬、分属諸節制便'
﹃
恭靖王宴錬﹄二年 四月辛丑候。罷私兵。司憲府 乗大司憲樺 近、門下府
(
6
8) ﹃
太F
PT
S音線﹄ 元年七月 丁酉候。命宗親 及大臣、分領諸道兵。
朝鮮朝 の兵馬都節利便 へと受 け継がれ てい- こと にな るの であ る。 な
お都 巡 間使 や元帥 は恭 譲 王 元年 以前 には皆 京 官 を 以 て口侍 (
口頭任
性格 を表す事柄 の 1つと い ってよ いであ ろう (
後掲注 (
70)、参 照)0
令) し ていたと いうが、 このことも また司令官職 の本来持 つ臨時的な
細
腰E ﹃
高麗史﹄巻八十 1兵志 l、兵制、辛粥五年正月候。諌宮上言'易 日、
倭賊 日煽、侵掠諸道、而国家待其告急、然後退婿出師'道里悠遠、将
不豆、請依奮制'置 7元帥、飴 則罷之、加以他幼、壷聴 元帥節制。又、
以鷹古者家不蔵兵之意、以防後 H交構摸乳之端、 国家幸甚。疏上'上
人心、除繭殿宿衛外、私門直宿' 7皆禁断、朝路母令私件'持 兵根障'
以京外軍馬、轟属 三軍府、 以馬公家之兵、以豆髄続、以重囲柄、以掻
従之 衆、 田磯之数'其努亦極 。人飢属国'暴露雨雲、直宿私門'衆心
怨苔、甚可個也 。方今巨弊'莫甚於此。願自今'悉罷各遺留諸節制使、
長子帥師'弟 子輿戸、凶。今 元帥甚衆、令出多門、故髄統素乳'紀綱
帥垂至、而賊巳浮海'不及輿戦'仮令輿戦、僻 目倍馳、軍馬疲困、塵
一有小売、 三元帥外'別達諸 元師 ・諸兵馬使'非 惟委任 不専' 卒無成
制使、苧先下膜、便道内郡願 及京畿農民'難無事時、累朔居京、人馬
我国百姓'有事則烏軍、無事則薦農'故軍属 1致. 近年 以来、各道節
(
6
) ﹃高麗史﹄巻八十 1'兵志 一、兵制、恭譲王 二年十 二月債。憲司上状、
輿世子議之'即令施行。是 日、放諸節制使所領軍馬'悉還其家。
至敗績.請於諸道'預遣将帥'蓮至則撃之。
同右、六年六月債。諌宮上疏 日、興師動衆'不能無弊'故遥将帥、
功、往返之聞、民受其苦。乞自今'令本道之任、専委 三元帥'随其成
不便於 民。今後揮才智乗全者'馬節制使'定其額教、使統中外軍士、
疲困'民怨馬甚、非唯貢賦百姓、至於郷敢里長、亦皆隷属、不利於囲'
宜有節制、国家己於各道、置 三元帥、 一道之任、宜専委 三元帥'近来
母得専占、 以致紛擾。
敗、 以明賞罰'仇乞各道元帥、依 六道都 巡察使軍日、統率本道軍営'
以固邦本。従之。
其飴節制使、 1皆革罷。外方 及京畿 郡嚇軍民、亦皆放 還'勤農安業'
改都巡間使篤都節制使、 元帥薦節制使、或背州府之任。 先是、 巡問 ・
(
70) ﹃
高麗史﹄巻七十七、百官志 二、外職'節制使候。節制使。恭譲王元年、
*辛弼五年 の段階 では各道 l元帥 の葛制 に復 す べき ことを主張し てい
いる。軍司令官 の派遣 が それだ け濫零 され ていたと いう謹接 であ る。
た諌官 が、次 の年 には各道 三元帥 の制度 を遵守す べき ことを主張 し て
姐
詑E 高麗末期 の私 兵樺力者 たちは' 必ず しも武 臣 のみ には限 られな い。例
えば朝鮮太耐 (
李成桂) の最大 のライ バ ルの 一人 であ った沈徳符 は、
元帥、皆 以京宮 口侍、至是、始 用除授'以専其任。置経歴 ・都事。 四
然罷元帥薦 三軍、以臣烏挽制使、 別語帥失職者、必快快 日 ﹃
道博革 元
軍捜制使。道俸節 目 「三軍之作、臣在中朝、憲司所建白'臣不知也。
﹃
高麗史﹄巻 1百十九、鄭道博侍。省五軍馬 三軍都 規制府、以道侍薦右
年、罷経歴 ・都事'復置掌務録事。
(
71)
西海道元師、東北面上元帥、西京都元帥 など の司令官職を通し てそ の
文班官僚 であ って、辛弼朝 に密直副使 を以 て西海道 元帥 に任命 され る
私兵勢力を形成 し てい った人物 であ るが'彼 はもともと は恩蔭出身 の
ま では' 軍隊 には全く閲輿 し ていなか ったも のと考 えられ る (
﹃
高麗
326
高麗 における軍令樺の構造 とその蟹質
師'自薦推制﹄
。怨刺盃興.臣又不便弓馬、不敢首。且革私田、改冠服
等事'皆非臣所為也'左右皆目臣。臣又冒虞是任、則重 言日至'臣其
という。成衆官 (
成衆愛馬)はこの都目 によ って諸領 の職 に進出し て
いたのである。
保微臣」
。速不審。王悦。
任'議請両侍中、以卿馬之.卿母帝」
。道侍日 「
償有重 言'請勿柄、永
構元帥、 一民莫非其有。今革元帥'豆三軍、此復古之機也。捜制塞重
勇等愛馬、姑備宿衛。及偏朝'法制大穀'凡受府衛之職者'徒食天職、
托之人'除衛職'情勢罷業、莫肯宿衛、由是府衛始穀'始置忽赤 ・忠
烈王事元以来、毎因中朝官寺 ・婦女 ・奉使者之請、官爵汎濫、皆以所
﹃
太阻害録﹄三年 二月己亥候。判義興三軍府事鄭道侍等上書目0-自忠
(
74) 各領指揮官職 の形骸化 に ついて、鄭道博は次 のように述 べている。
宮中 に入直する宿衛軍として、高麗前期 には中禁班 ・都知班 ・自甲班
不事其事'逐至失園、此殿下之所親見。
危乎.頗更命他人」
。王日 「
大園三軍、古制也。中馬権臣所廟、宰相各
などの軍隊が存在したようである。 これらは二軍六衛 の軍人 のうち'
兼松保和 「
高麗兵馬使考」「
高麗 の四十二都府 に ついて」(
﹃
末松保和朝鮮史著
主要参考文戯
その 一部 のも のが所属 の領役を兼ねて勤務する、 いわゆる別差という
別差'亦以丁人首差」
)
。高麗前期 の宿衛軍は、 これらの中禁班 ・都知
*
*
車文埜 ﹃
朝鮮時代軍制研究﹄ (一九七三年' ソウル'檀大出版部)
*
内藤筒輔 「
高麗兵制管見」 (
﹃
朝鮮史研究﹄所収、 一九六 一年、京都'東洋史
研究合)
作集﹄五、所収、 一九九六年'東京'吉川弘文館)
形をと って編成され ていたらしい (
前掲注 (
54)
、「
中禁 ・都知 ・白甲
班 ・白甲班などが中心となり、各領 の軍人がその補佐とな って道管さ
れ ていたのであろう。
﹃
太絶賛鍍﹄三年二月己亥候。列義興三軍府事鄭道侍等上書目、-。 一㌧
去、而各有差備、似難卒革。然都目馬頭者'受講領之職、以本番事務
千寛宇 ﹃
近世朝鮮史研究﹄ (l九七九年' ソウル、 l潮閣)
司楯 ・司衣 ・司幕 ・司葬 ・司賓、右件愛馬'乃前朝之季添設、宜在革
無閑、不得随領。因此、以致侍衛虚疎。今婿各領別除線官之敦'於司
六八年'陸軍本部)
一九
李基白 ﹃
高麗兵制史研究﹄ (一九六八年、 ソウル、 一潮閣)
ソウル、 一潮閣)
蓮太壁 「
高麗朝 の文班と武班」 (
﹃
高麗政治制度史研究﹄所収' 一九七 一年'
軍士官学校韓国軍事研究室編'
閲覧九 「
近世朝鮮前期軍事制度 の成豆」 (
﹃
韓囲軍制史﹄近世朝鮮前期憲、陸
三。其飴三番、及各愛馬'唇用此例'以都目馬頭員婿、次第遷帝、去
楯第 一番、置司直 一㌧副司直 一、司正二、副司正二、給事三'副給事
官。如此'則有其事者食其線'食其線者事其事、名資相構、不相侵乱、
庶平年臭。
*右 に都目というのは勤務記録 一髪 (
都臼状) に基づ いて官職を除授
すること。馬頭というのはその任官順位 の 一位 で、二位 のことは之次
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