元禄快挙録(中) - あけぼの簡文庫

元禄快挙録(中)
中篇
福本日南
目次
一〇七
一〇八
一〇九
一一〇
一一一
一一二
浅野家の家風
同
橋本平左衛門
萱野三平
矢頭長助
矢頭右衛門七
一一三
一一四
一一五
一一六
一一七
一一八
一一九
一二〇
吉田忠左衛門
同 忠左衛門の東下
吉田沢右衛門、貝賀弥左衛門
寺坂吉右衛門
原惣右衛門 老母の自害
同 急発の計画
同 惣右衛門と襄陽の司馬徽 中井積徳の永正祐定記
同
-二一
一二二
一二三
-二四
一二五
一二六
一二七
-二八
一二九
岡島八十右衛門
小野寺十内
同 小野寺十兵衛に与える書
同 丹女に与える書
同 彼の東下
同 寺井玄渓に与える書 快挙の半面史
同 同
同 同
同 同
一三〇
一三一
一三二
一三三
一三四
一三五
一三六
一三七
一三八
大高源吾 丁丑紀行
同
同 母の訓戒 初度の東下
同 三島駅の一珍事 彼の詫証文
同 彼の思慮
同 母に送る手紙
同 手紙の続き
同 上野介の茶会の探知
小野寺幸右衛門
一三九
一四〇
一四一
一四二
一四三
岡野金右衛門と九十郎 九十郎の初恋
間瀬九太夫と孫九郎
間喜兵衛と十次郎、新六
潮田又之丞
同 三味保童円の伝授
一四四 大石瀬左衛門
一四五 近松勘六
一四六
一四七
一四八
一四九
一五〇
一五一
一五二
一五三
一五四
菅谷半之丞
不破数右衛門
同
早水藤左衛門、木村岡右衛門
中村勘助、勝田新左衛門
千馬三郎兵衛
武林唯七
前原伊助、倉橋伝介
神崎与五郎 十四歳で兇漢を切る
一五五
一五六
一五七
一五八
一五九
一六〇
一六一
一六二
同
同 与五郎の東下
同 同
同 舟中会議
同 一党第一の大酒家
前原、神崎の共同雑貨店
同
茅野和助、三村次郎左衛門
一六三
一六四
一六五
一六六
一六七
一六八
一六九
一七〇
一七一
横川勘平
同 上野介の茶会の探知
同 勇怯義不義を論ずる書
同 同 付 同書異同考
堀部弥兵衛と安兵衛 弥兵衛の出身
同 弥兵太の変死
同 安兵衛の出身 高田馬場の決闘
同 同
同 父子の約
一七二
一七三
一七四
一七五
一七六
一七七
一七八
一七九
一八〇
同 本郷も兼康までは江戸の内
同 弥兵衛の壮烈
同 安兵衛の蛮勇
同 復讐専門家
奥田孫太夫
奥田貞右衛門
赤垣源蔵
村松喜兵衛と三太夫
同
一八一
一八二
一八三
一八四
一八五
矢田五郎右衛門 金鯉の兜
杉野十平次
片岡源五右衛門
同
同 父子の決別
一八六 同
一八七 磯貝十郎左衛門
一八八
一八九
一九〇
一九一
一九二
一九三
一九四
一九五
一九六
同
富森助右衛門
四十七烈士 その分限
ピラミッド論
名士の同情 寺井玄渓、同玄達 大石内蔵助の書、内海道億
同 大石無人、同三平、堀部九十郎、佐藤条右衛門
同 堀内源太左衛門、細井広沢
義僕甚三郎
七十四醜夫 その分限
一九七
一九八
一九九
二〇〇
二〇一
二〇二
二〇三
二〇四
醜類一束 高田郡兵衛
同 奥野将監、河村伝兵衛
同 進藤源四郎、小山源五左衛門
同 再挙説の出所
同 一束中の一束
同 大石孫四郎
同 中村清右衛門、鈴田重八、中田理平次、小山田庄左衛門
同 田中貞四郎、瀬尾孫左衛門、矢野伊助、毛利小平太
二〇五 同
二〇六 大野父子の末路
二〇七 同 その遺跡
中
篇
一〇七 浅野家の家風
世に喜ばしいのは、浅野家の創業者が士を愛した美風である。同家の始祖浅野弾正少弼(だんじょうの
しょうひつ)長政が晩年隠居料を常陸(ひたち)に得て、真壁の地を治めた頃であった。ある時長政は幕府
へ請暇の上、江戸から真壁に帰った。君侯の帰国というので、藩士の面々が総出になって迎えた。時に藩
中でも気を負って聞えた知行二百石取りの士が十人、いずれも騎馬で出迎えた。主君の駕籠を見るや、
ひらりと馬より下って敬礼した。長政はじろりとこれを見て、不快な面で通過した。やがて藩士と会見となり、
家老、番頭、用人と順に挨拶の後、さきほどの騎馬の士十人を一緒に御前に呼び出した。十人の者どもは
君侯の顔色で早くも思い当るところがある。定めて叱責を受けるであろうと、恐れ入って平伏した。すると長
政は一同に向い、
「我が家の制として、三百石以上でなければ乗馬を飼うことを許さないことは、その方らも承知しているは
ずである。これには理由のあることだ。よく考えて見よ。二百石の禄高では、収入は幾何(いくばく)もない。
その収入で父母に仕え、妻子を養い、また分相応にまさかの時の武備をしておかねばならない。その分限
を省みず乗馬を飼うとすれば、父母妻子を何とする。私は誠実を好む者、矯飾が大嫌いだ。だから三百石
以下の者には、必要に応じ乗馬を貸し付けることにしておいた。それにもかかわらず、その方ら武辺の心
掛を人に示すため、各人が乗馬を蓄えることは、私の意に反する」
と叱責した。理の当然に十人は言葉なく、「一同恐れ入ります」と謝り、やがて御前を引き下がろうとする。
長政これを見て、
「待て待て。いま申しつけたのは、人たる者の分相応の心得だ。その方らよく私の思いを守らねばならな
い。だが馬を好むのはもとより士の常、その方らもよくよく馬が欲しかったのであろう。これからは五十石ず
つ増俸してやる。不断よく飼育して、大事の際に役に立つよう心掛けよ」
と命じた。その身は抜群の名主に仕え、その名主から理あり情ある訓戒を加えられ、おまけに増俸の恩命
まで受けた。誰か、この君に身命を献じて報恩しようと奮励しない者があろうか。長政はその封を長重に伝
え、ついで赤穂に転封されたが、長重、長直の両侯もまたよく十人衆の子孫を愛撫した。これによっても浅
野家が代々いかに士心を得ていたかが知れる。
一〇八 同
慶安年間のことであった。時の赤穂侯浅野内匠頭長直の家臣糟谷(かすや)勘左衛門の弟に源左衛門
という士があった。ゆえあって国を出、大久保右京亮(うきょうのすけ)に仕え、ある年同僚板倉弥介という者
と京都二条の城に詰めた。他の同僚数人が並いる席で、弥介は人々に向い「大名も多いが、その中で浅
野内匠頭ほど足りない大名もあるまい。高が五万石ぐらいの小身のくせに、角力には凝(こ)る、能には耽
(ふけ)る。これはうつけの大将であろう」と悪たれた。最前から傍で聞いていた糟谷源左衛門はムっとして
「それは違う。内匠頭は拙者の旧主で、かつてはその恩遇に預ったが、決して貴殿のいうような暗君ではな
い。いまは国を去って奉公はしていないが、旧主に対する悪たいは聞くに忍びない。思うに貴殿は内匠頭
殿が拙者の旧主ということを知らずに噂していると思うから、とがめだてはしないが、今後は遠慮されたい」
と申し出た。その場はそれで事は済んだが、板倉弥介は口の悪い男とみえ、他日また源左衛門が聞いて
いるところで前言を繰り返した。源左衛門は腹に据えかね「あれほど断っておいたのに、まだ言うのか、聞
き棄てならん」と、刀に手を掛けた。討ち果そうとするところを、人々が間に入って双方を押し止めた。
その後二条城御番の期が満ち、いずれも江戸の藩邸に帰って来た。すると両人の争いの事がいつか右
京亮の耳に入り「京都警衛の任に当りながら、私情のために争うとは不屈き千万」と申し渡され、両人ともに
永の暇を与えられた。が、右京亮は有心(うしん)な人である。「私事のために争うのは不屈きだが、源左が
旧主を忘れない心情は見上げたものだ。追って帰参の道もあろう。さよう本人に含めておけ」とて、密かに
家臣を遣わして、源左衛門を慰撫させたので、源左はかたじけなさに感泣した。
このことはいつか弥介に聞えた。すると法外な人恨み、弥介は源左衛門が内々謀って自分を追い出した
と誤解したのか、決闘状を源左衛門に送り、西ノ窪の原で果し合いを申込んだ。源左衛門も躊躇しない。
よしと返辞して、日頃親しい佐々勘兵衛、灰方藤右衛門の二人を助太刀に頼み、三人で約束の場処に行
った。弥介は三人の助太刀を頼み四人でやってきた。三人と四人、こちらは一人少なかったが、少しもひる
まず、散々に闘い、ついに敵の四人とも、その場を去らせず切り倒した。だが、このために源左衛門も重傷
を負った。内匠頭長直このことを聞き「自分の噂から事が起り、源左ついにここに至ったか。彼の忠志は褒
めてやらねばならない。よく見取ってやれ」と、侍医をやって種々手当を加えさせた。しかし非常な重傷で
あったので源左衛門は死亡した。内匠頭は命じて手厚くこれを葬らせ、彼の助太刀をした佐々勘兵衛、灰
方藤左衛門を、ただちに召し抱えて扶持を与えた。当時の社会はこれを伝え聞き、内匠頭が士心を心得
ていることを称賛した。
こうして長政、長重、長直、長友、長矩に至った。その上に山鹿素行子が前後二十年、儒典を教え藩の
士衆を訓導した。その功績は空しからず、君国の劇変に際し、この小藩から五十一人の烈士を輩出したの
である。
一〇九 橋本平左衛門
さて矢はすでに弓弦(ゆづる)に上った。今はただ切って放つばかりである。ここに至るまでの義徒の艱
難辛苦は、実に想像を超えるものがあった。不幸にして中途に病歿し、また非命に倒れた人々も少なくな
い。ここに一党の討入りに先だって、個々人の行動を回顧しよう。
* * * * *
義徒の一人で衆に先だって自殺したのは、橋本平左衛門であった。彼は故内匠頭に仕えて、百石を領
し、馬廻りを勤めていた。去年三月凶変が発して以来、彼は幹部として同盟に入り、籠城論にも加担し、殉
死論にも同意し、身を献じて尽した。だが、大勢の考えは中ごろから変って、開城となり退散となったので、
内心は楽しまなかった。彼は忠誠の心から、一つには亡主に対してこのまま生き永らえるのを済まないと思
い詰め、二つには同志の忠義を激励しようとの意もあったろう。自ら問うて、自ら決し、腹を掻き切って殉死
した。
附言 このほか『明良洪範(めいりょうこうはん)』には島喜兵衛という士も、衆に先だって殉死したとある。
だが島喜兵衛という姓名は、分限帳にも、同盟中にも見えない。これは例の風説の聞き書きと思われ
る。
* * * * *
正義党の中にあって早く病没したのは、老岡野金右衛門である。彼は二百石を領して、物頭(ものがしら)
を勤め、事変後堅実な同盟の一人であったが、江州の膳所に隠れて時機到来の日を待っている間に、不
幸にして病に罹り、昨年十一月ついにこの地で痩せ死んだ。代りにその一子九十郎が父の志を継ぎ、名
を改めて金右衛門と称し、ついに復讐の目的を達した。これを二代の忠孝といおうか。
* * * * *
同じ義徒の中にあって、その死がもっとも悲惨であったのは、萱野三平重実(しげさね)である。彼の家系
は源朝臣頼光(よりみつ)から出た。頼光の後裔(後裔)右京大夫頼益(よります)が右大将頼朝から摂津国
の萱野郷を与えられ、世々ここに住居した。それで萱野を姓とした。三平の父を七郎左衛門重利といい、
幕府の旗本大島出羽守に仕えていた。三平はその次男で、幼名を卯平次と称した。彼は幼少から聡明で
あったとみえ、十三歳の時、出羽守の推薦により内匠頭の近侍に列せられた。十二両二分三人扶持を賜
って、中小姓を勤め、常に江戸の邸にいた。昨年三月十四日殿中の凶変の際、彼は主君の供廻りに立っ
ていたが、凶変に会し即日早水藤左衛門と共に、四日半で東海山陽の両道を馳せ下って、赤穂に最初の
報告をもたらした。この途中故郷萱野の辺に差し掛る時、ふと見れば親族知己の人々が一棺を守り今しも
葬送に来たのに出会った。三平は馬を止め「誰の葬送か」と問えば「何人でもない、あなたの母上ですぞ」
と口々にいう。三平は魂を消し「君は東都において自刃、母は故郷にあって没去。臣子の大変これ以上に
加えるものはない」と、悲嘆は胸に満ちて目送していたが、きっと心を取り直し「母上の葬式は一家のこと、
主家の変報は国の一大事である。この場合私情のために公事をおろそかにしてはならない」と、そのまま
棺(ひつぎ)に目礼し、涙を払い鞭を打って、赤穂に向け馳せ去った。この一事を見るのみで、彼の忠烈を
知ることが出来る。
一一〇 萱野三平
三平はそのまま赤穂に留まって、ただちに同盟の列についたが、開城ののち故郷萱野に帰った。そこで
始めて母の喪に服した。しかし復讐の志はいまだかつて一日も忘れなかった。しかも萱野と山科とは僅か
に十里余りの距離に過ぎない。それでしばしば内蔵助の許を訪れ、東下のことを相談し、年末春初の頃ま
でには是非とも江戸に向おうと、独りひそかに思いを砕いていた。
父七郎左衛門重利はすでに郷里に隠居し、兄の長好がその後を継ぎ、出羽守に隨って長崎で仕えてい
た。父は三平が若くして浪々の身となっているのを不便がり、ある家の養子にやろうとの交渉を始めた。三
平は実に気が気でない。それで一日父に言った。
「私はこのまま引き込んで、田舎に朽ち果てるのも心外ですから、今一度江戸に出て仕官の途(みち)を
求めたく思います。どうかこれに同意下さい」
ところが父は極めて律義な人であるから、頭を振って、
「それは成らん。そちは仕官のために出府したいというが、そちの望みは仕官ではなく、亡君内匠頭殿の
復讐をしようとするのであろうが、全体そちが浅野家に仕えることになったのは、誰のお蔭か。我が主出
羽守殿の推挙に頼ったのであることは、そちらもよく記憶しておろう。自分はそちがお膝下(ひざもと)を
騒がせた科(とが)によって、一家にいかなる罪科が掛っても、それを憂うる者ではない。ただ懸念するの
は、そのために主家に累を及ぼすことである。私が主君を思うのも、そちが君家を思うのも、理は一つで
ある。といううちにそちの君家は断絶となった。だが我が主家は現存している。その御家にみすみす我が
子が累を及ぼすことを、私は許せない」
という。
三平は実に困り切った。おのれの義心はやむことはないが、父の忠志も棄てることは出来ない。思い詰ま
って再び首を上げ、
「父上の言葉はもっともではありますれが、やむにやまれない三平の志、憐れと思われるなら、この上の
慈悲に、私を勘当してこの家から義絶してくださるまいか」
と改めて請うた。七郎左衛門は淋しく笑い、
「馬鹿をいえ、父子は天倫、離別したとて離れられようか。かつ虚偽の義絶をしても、何の得もない。のみ
ならずそれは薄情なこと、この七郎左衛門はしない」
といいさして、暗然として涙を浮かべ、
「親の口から我が子に死を勧めるではないが、この間に処する道は、自からあろう」
と説き諭(さと)した。三平は決心した。「一死をもって亡君に地下で謝るのみ」と。
今年正月十三日の夕、三平は一篇の遺書を作り、これを一僕に托して、山科に送った。そして明日は亡
君の命日とて、斎戒沫浴して先君を拝んでいた。父および嫂(あによめ)に対しては常に変らなかったので、
一家は意にも留めなかったが、翌朝八時頃となっても起きてこないので、始めて疑い出し、臥戸(ふしど)を
開いて見れば、東方に向って端然と坐し、見事に腹掻いて果てていた。家人はこれを見て驚き惑い、狼狽
して七郎左衛門に告げた。七郎左衛門は愁然として「早晩こうなると思った。決して自殺を他人に漏らすな。
人様の迷惑になることがあろう」とは、三平の同志のために秘したのでめった。三平の生年実に二十八歳
であった。
三平は遺書を送る際に、時刻を計ったものと見え、その使は夜明に山科に着いた。あたかも三平が家で
自尽(じじん)したのと同時であった。内蔵助は文箱を開き、遺書を一覧して大いに驚き、急いで近傍にあ
る同志を召集してこれを示した。内蔵助は嘆惜(たんせき)し、同志の人々は皆悲痛の涙にくれた。後に復
讐の挙が終わり、内蔵助以下細川侯にお預けの節、侯家の家士堀内伝右衛門がこのことを内蔵助に問う
た時、内蔵助は「彼が存命していたら、当然今度の一列に加わった志の者であった」と嗟嘆(さたん)した。
後に重実の兄長好が当時の名家伊藤東涯に請い、三平のために墓碑を草した。さすがは名家、その文
はその人と相まって、千歳に伝える価値がある。その墓碑は現に萱野郷谷芝村の陽光院にある。碑文は
堀南湖の撰である。
附言 彼は俳句を好んだとみえ、俳号を涓泉(けんせん)と称した。大高子葉らと同じく沾徳(せんとく)の
門に遊んだのである。子葉が討入りの際沾徳に与えた書中で、涓泉のことに触れている。だが多くの
人はそれが誰なのか知らない。幸いに東涯の伝記に「重実別に涓泉と号す」とあるので、それが三平
のことであることが知れる。
『義臣伝』には三平が内蔵助に宛てた遺書を載せる。しかし例の好事者の偽作と断定できるから、こ
こには取らない。
一一一 矢頭(やとう)長助
もっとも一挙の日に近づきながら、果たせない恨みを残して病歿したのは、右衛門七の父矢頭長助であ
った。彼は故主に仕えて、二十石五人扶持を受け、中小姓と勘定方を兼ねた。凶変の当時から僅か十六
歳の一子右衛門七教兼(のりかね)と共に同盟につき、父子ともに忠節の誠を表わした。だが籠城殉死の
議が途中で変り、本拠は開城となり、同盟は解散となったので、一家挙(こぞ)って大阪に移った。新地堂
島に居を定めたものの、もともと小禄であった身が浪人の境涯となったので、赤貧骨に徹する状態に陥っ
た。しかし父子の忠義は弛(ゆる)まず、今年七月二十八日の京都の円山会議にも、右衛門七が列席した
ところをみれば、この際父子ともに打ち揃って檄に応じ、上京したものとみえる。しかるにその頃から長助は
重病にかかり、八月十五日、ついにこの地で客死した。この今わの際であった。長助は右衛門七を枕辺
(まくらもと)に呼び寄せ、苦しい息をつきながら「かねがね大石殿と協議した復讐の志望、ようやく達する時
節が到来したのに、弓矢八幡にも見放されたか、私は今日を限りの命となった。しかし我が忠義の魂は死
んでも消えない」といいさして、枕辺に置いた一領の腹巻を指さし「いざという日にはこれを着て、敵の館に
討ち入ろうと思い、貧苦の裏(うち)にもこれだけは取りおいたが、それも今は徒事(あだごと)となった。御
身は年は若いが健気(けなげ)な者。どうか父の志を継ぎ、この腹巻を父と思い、これを肩に引き掛けて、
天晴れ親子の分の働きをし、一つには亡君の恨みをはらし、二つには父の願いを達してくれよ」といいなが
ら倒れた。右衛門七は悲痛胸に満ち「情ないことをおっしゃいますな。心を丈夫に持ちなされ」と様々に介
抱し「たとえ仰せがなくても、きっと一挙には洩れないと、心に誓っております。ましてやただ今の遺言を肝
に銘じ、必ず宿志に酬(むく)います」といった。長助は笑を浮かべて、そのままついにこと切れた。ああ志
士は溝に落ちることを忘れず、勇士はその元を失うことを忘れない。
右衛門七は今年十七歳だが、昨年赤穂の秘密会議から、一命を賭(と)して忠義を競い、ついに内蔵助
の許諾を得て、同盟の神文に血を注いだほどの壮烈の士である。それが今日父の今わの痛切な遺命を受
けて一層感奮せざるをない。彼は早速内蔵助を訪うて、物故ならびに遣命の旨を告げ、この上一層忠節を
励むと申し出た。誠意は実に彼の面(おもて)に横溢(おういつ)していた。内蔵助はこれを聴き、一たびは
同志の死を悲しみ、一たびは右衛門七の義烈に感服した。右衛門七は改めて「この上は片時も猶予でき
ません。早々父の葬式を終え、ただちに江戸に馳せ下ります」と、太夫の許を辞し、京から大阪の寓居に
帰った。
一一二 矢頭右衛門七
右衛門七は大阪堂島の寓居には帰り着いたが、浪人の身の上、父の湯薬などのために、もはや一銭の
蓄えもない。おまけに家には老母が残っている。今は金に換える物は、父の遺物の腹巻が一領あるのみで
ある。右衛門七は意を決し、父の霊に対して「しばらくの間許し給え」と告げながら、家主野洲屋久兵衛に
相談し、これを質屋に渡して若干の金子を借り受け、やっと父の葬送を済ませたが、済まされない物は腹
巻の質料である。種々に才覚して見たが、いかにしてもその金が出来ない。だからといって、あの腹巻は慈
父の精神の託すところ、これを棄てては父の遺命に背く。どうしたらよいのかと憂悶苦悩したが「大行は瑣
事を省みず、大礼は小事を避けない」とはこのこと。嘘も方便というから、嘘を言って取り出そうと決心し、再
び家主久兵衛に「前日お世話を願って質に入れた腹巻は、私の家にとって重代の重宝、今の間に少し手
入れしておきたいところがある。遅滞はしない。早速返すからしばらく手許に回して欲しい」と依頼した。まじ
めな少年の依願であるから、久兵衛は疑わない。求めるままに質屋から借りて来て右衛門七に渡した。
「これさえあれば千人力」と右衛門七は歓び、「一時要用あってしばらく借用する。迷惑を掛けないから、
容赦願いたい」と一通の書置きを残し、その夜母を連れて堂島を出発した。頼むところは越後の松平大和
守の家中で、江戸の邸にいる叔父である。これに母の行く末を托そうと思い、母子伴って東海道を下り、遠
州新居の渡しまで来たが、ここに少年の初旅の悲しさは、婦人の旅行手形を用意することを知らなかった
ために、ここの関所に止められてしまった。行くには関門が通さず、帰るには老母一人、進退実にきわまっ
たが、忠烈至孝の精神は窮してますます奮いたった。「さらば上方に引き返すほかはない。難義でしょうが、
これからお伴いたしましょう」と、転じてはるばる大阪まで送り届け、親類の許に母を托し、その足で再び取
って返した。ただでさえ少ない旅費、途中でほとんど尽き果てた。が、右衛門七はこれにも屈せず、艱難辛
苦して江戸に着き、清水右衛門七と変名して、南八町堀湊町平野屋十左衛門の裏店に片岡、大高、貝賀
らの同志と同居して、ついに一挙に際会した。教兼の志は、十二月十四日の大雪の夜、亡父の戒名を書
きつけた紙を兜の裏に付け、それを被ってまっしぐらに敵営に切り入った。私は百回これを言う「忠臣は孝
子の門に出る」と。右衛門七の行動を見る者は、聖賢は人を欺かないと悟るであろう。
忠孝が人に与える影響は偉大である。翌年二月右衛門七らの切腹の報が大阪に達すると、例の家主久
兵衛と質屋某とは相談して、立派な法事を挙行した。後に高松の隠士河田正休(まさやす)は摂津国上福
島の浄祐寺に教兼の碑を建てた。文は高松の学者、菊地武賢(たけたか)の撰による。
附言 従来右衛門七父子の事蹟を記す書は、各種あって一ではない。私は諸書を読んで始めてその真
相を得た。長助死去の時日は右の碑文から、その場所は「堀内覚書」からとり、その他は『報讐録』、
『義人録』、『四十七士伝』を中心に、まま『義臣伝』中の事実と信じられる部分を取った。
一一三
吉田忠左衛門
一党の統領大石内蔵助良雄についで、第二に指を屈しなければならないのは、事実上の副棟梁吉田忠
左衛門兼亮(かねすけ)である。この人の家は赤穂の世臣であって、身分をいえば足軽頭兼郡奉行(こおり
ぶぎょう)、食禄はと問えば二百石、番頭(ばんがしら)の列にも入らなかった。しかし忠左衛門の人となりは、
体格巨大で、敏捷さは人に絶し、武芸に達し、兵法に通じ、かねて文学の嗜(たしなみ)もあった。言語は
明晰で、辞令に巧なことは、つとに一藩の称讃するところであった。そして人を容れる雅量は深く、衆を統
率する器量に優れていた。内蔵助は国難以来この人を経由して万事を進めた。彼がいかに雅量に富んで
いたかは、赤穂城警備のとき、高松の間諜竹井金左衛門を引っ捕えながら、要害を指し示して放免したこ
とでも知れる。
彼はまた飽きることなく勉強に打ち込み、事をゆるがせにしなかった。その一例を挙げれば、赤穂侯の祖
である内匠頭長直の時に、近藤三郎左衛門という藩士があった。兵法を小幡勘兵衛景憲(かげのり)に学
んで奥義を極め、この道をもって赤穂侯に仕えた。苅屋の城は実にこの人の設計になったほどである。し
たがって関西の士人で兵法を修める者は、多くこの門下に集まった。先君内匠頭の世には、その子近藤
源八が家学を嗣いで、門戸を張っていた。それで忠左衛門もこれについて教えを受けていた。そのうちに
国難が起ったが、源八は父に似つかぬ下劣な男で、後日神崎与五郎則休(のりやす)が『憤論』で筆誄
(ひっちゅう)を加えたとおり、大野の党となり、お家瓦解の際に金儲けのみを心掛けた愚者であった。時に
忠左衛門は六十一歳である。その年齢といい、場合といい、ことに源八の下劣さといい、大概の人なら再
びその業その人を顧みもしないであろうが、忠左衛門は思惟した。「自分にはやろうと思うことがある。源八
のような人物自体は構う暇もない。しかし彼の兵学は極めておかねばならない」とて、一人留まって源八に
つき、残したところを究め尽した。その後赤穂を立ち去ったのである。
今年二月彼が一たび京都に出て、内蔵助から名代として関東鎮撫の大任を委ねられたとき、「願わくば
同盟者を集め、衆論の一致を待ってから出発したい」と求めたところに、彼の思慮の周密さと、大事に幹と
なる才力が見える。彼はまた非常な敬神家であった。京滞在中、あたかも菅原道真の八百年祭に際会した。
忠左衛門は一七日間北野に日参し、至誠をこめて立願した。その折社頭に捧げた歌に「梅」および「松」と
いう題で、
かきくらし雪ふりつもる山里も、垣ほの梅は春を忘れず
去年(こぞ)今年年を重ねてさく梅も、わけて匂いの深き春かな
百年の数を重ねて若緑、なお老松の千代や経ぬらん
花咲かぬ里はあれどもあしびきの、山には春の松ぞ色こき
この至誠があればこそ、彼の志望は実現したのであろう。
一一四 同 忠左衛門の東下
忠左衛門は実に文雅の士であった。彼は京都を出てから、佳景名勝の到るところに歌を残した。
逢阪にて
九重の霞を分けて出づる日の、曇らぬ御代に逢阪の関
小夜の中山にて
夜をこめて越え行く旅の空なれや、東雲(しののめ)ちかし小夜の中山
また
ながらえば命ともなき夢の世に、越ゆるやなごり小夜の中山
薩埵山(さったやま)を越えるとて
われだにも三保の松原富士の雪、心や空にかかる白雲(しらくも)
清見関(きよみがせき)
天の原霞も晴れて清見潟(がた)、月をとどめよ波の関守
これを吟誦すると、まるで詩人詞客の長閑(のどか)な探勝の旅路のように見える。私が英雄の胸中には
閑日月があると毎度いうのはここである。が、またその一面、古戦場を過ぎるごとに戦略眼を放ってその地
形を観察し、心に領し意に解するところを、矢立を取り出して縮図を作り、平生学んだところと対照した。
彼は伊勢に入って神宮に参詣した。一篇の願文を読み上げ、丹誠をこらして祈願した。彼の志誠はここ
でも見られる。こうして山田から津に出て一宿した。この地に水浪久太夫という旧識の一豪傑がある。忠左
衛門は彼を旅宿に招いて久闊(きゅうかつ)を叙し、近松と三人鼎坐(ていざ)して終夜酒を酌(く)みかわし
た。治乱興亡のよるところ、さては戦闘攻伐の得失などを議論した。水浪は早くも両人の意図は唯事(ただ
ごと)ではないと感じ、互いに言わず語らずの間に余情を惜しみ、翌朝別れを告げた。
一行は二月五日に江戸に到着し、早速在府の諸同志に通知し、三日後の八日に堀部父子および奥田
父子らと会った。これらの人々は急進派中の急進派であるのに、吉田の使命は復讐の延期である。普通の
同志ではなかなか説き伏せそうにもない。しかし忠左衛門はやがて諄々(じゅんじゅん)として、今は内蔵
助が主家の継続に心慮を悩ましつつあるが、結局は一党と進退を共にし、復讐の挙を断行すると誓ったこ
とを告げた。そして「事すでにここまでくれば、要は時期の論である。方々も曲げてこれに同意されたい」と
説得した。急進派は内心大不満であるが、京洛派の衆論一致とあれば、関東連だけでは力が足りないか
ら「そうであれば仕方がない。仰せに従いしばらく時機を見合せよう」と答えた。機敏な忠左衛門はこれを聞
くとすぐに、「これほどの議に方々も早速同意されたのは、これ全党一致で本望を達する吉瑞(きちずい)で
ある。すぐさま太夫始め同志に知らせよう。諸君からも各々一筆申し送りのほどを希望する」といった。これ
は否むべきものではないので、それぞれ手簡を認(したた)めて差し出した。こうしてとっさの間に関東勢の
輿論を一定した。この一事をみても、忠左衛門司の衆に統領となる技倆は見える。
昔、支那の戦国時代の毛遂(もうすい)は英物が世にあるのを評して「錐(きり)をふところに容れたように、
必ず刃は飛び出して見える」といったが、実にそのとおりである。忠左衛門が江戸に出たことが、追々知る
者によって知れると、松平豊前守、酒井伊豆守らの諸侯は厚禄をもって召し抱えたいと申し込んだ。しかし
彼はそのつど、二君に仕える心はないと言い切って謝絶した。彼ははじめ外祖母の氏と祖父名をそのまま
に篠崎太郎兵衛と仮称したが、後にはまた田口一真と変名し、作州浪人の兵学者と触れ込んで一戸を構
えた。甥の近松勘六は田口三助、子息の沢右衛門は田口左平太と称して同居した。これは七月以後のこ
とである。
なお忠左衛門は出府以来、進物を調えて、小出土佐守、西山六郎兵衛、さては浅野家滅亡ののち知
郡事として赤穂に下った代官石原新左衛門、岡田荘太夫などの宅を見舞い、それぞれ主人に面会して懇
談した。これは無論主家再興の運動であったと思われる。がその一方では同志を指揮して、絶えず讐家の
消息を探らせ、結果を内蔵助に報告した。そうして一面には同志の人々の家賃、食料、旅費、運動費、こ
れらを計って、それぞれに支給した。内蔵助についてもっとも雑務に多忙を極めたのは、恐らくこの忠左衛
門であった。
一一五 吉田沢右衛門、貝賀弥左衛門
忠左衛門の年齢はすでに耳順(みみしたがう)を超え、今年六十二歳であるが、身体強健な上、気力に
溢れ、胸には小幡流の兵学を蓄(たくわ)え、胆勇あり、智略あり、誰が見ても一癖ある面魂(つらだましい)、
町人などと触れ込んでも、とうてい受け取られそうにない。それで彼は作州浪人の兵学者田口一真と称し、
新麹町六丁目大野屋喜左衛門の裏店を借り受け、兵学師範の門戸を張った。化けるには苦労しないが、
これにはまだほかに工夫があった。彼は東方面の上将であるから、同志の出入はもっとも激しい。おまけに
関西から下向する面々は、いずれもここを目指して来る。隠れ家を見付けるまで、皆この家に止宿する。現
に大石主税の一行も、石町三丁目の小山屋に隠れ家を借りるまでここに足を留めた。すなわち一真の家
は完全な浪人宿であった。これが普通の職業家と称したなら、ただちに近所の物議に上ったであろうが、
そこが兵学師範の触込みであるから、世人も深く怪しまなかった。おそろしい職業もあればあったものだ。
こうして忠左衛門は片っ端から有志を各所に配置する。そのうち一戸を構える人があれば、世帯道具を
買い調えて送り込む。家財、食料、運動費は必要に応じてそれぞれ分配する。文書の往復、東西の策応、
などを一身に負った。そのうえ敵に対する監視警戒にはもっとも力を注いだ。そのうち上杉家では上野介
の江戸在府を危ぶみ、近々本国米沢に引き移らせるとの評判が立った。もしこれが実行されては一大事で
ある。忠左衛門は同志を昼組と夜組の二つに分け、昼は昼組に命じ、種々に扮装して敵を偵察させ、夜は
自身で夜組を率いて本庄周辺を巡行し、かって一夜も怠らなかった。これは敵がもし人目を避け、夜中に
立って米沢に出発する場合に備え、途中で討ち取るためであった。したがって彼は吉良邸内の様子から、
同邸につながる大路小路ないしは里程の距離、さては攻撃の方略に至るまで、仔細に究明して同志に配
った。これらは皆彼の兵学から打ち出されたのである。
彼はこのようにして心身を一党の統率と快挙の実行に投じた。しかし彼もまた血あり涙ある人、東の寓居
の秋に逢い、紅葉(もみじ)移ろい、蘆(あし)散って、雲居に名のる雁の音を天に聞く時は、望郷の思いを
催さずにはいられない。この年の秋「故郷の雁」という題で、
思いすてし夕べなれども故郷(ふるさと)の、たよりとや聞く初雁の声
と詠んだ。「たよりとや聞く」は、言うまでもなく「たよりと聞こう」の意(こころ)である。一唱実に三嘆にたえな
い。
すでに十月下旬となり、内蔵助の下向となったので、あらかじめその隠栖地を準備し、その人を鎌倉まで
出迎え、以後一党の密議は内蔵助の寓居とこの忠左衛門の寓居との二か所のみで開かれ、快挙の決行
に至るまでその神機妙算は、半ばは彼の参謀によった。かの有名な起請文前書も、彼の方寸から出たの
である。一党の副統領の器量はすばらしいものであった。
* * * * *
忠左衛門の子息沢右衛門兼貞は凶変(きょうへん)の際なお部屋住で赤穂にいたが、六十を超えた老
父が大義のために起って一身を捧げるのを見て躊躇せず、早くから同盟に就き、父を助けて奔走した。
今年一挙の期が近づくと、父の後を追って江戸に来た。田口左平太と変名して父と同居し、徐々に時機
の到来を待った。
* * * * *
貝賀弥左衛門友信は吉田忠左衛門の実弟で、つとに母方の家を継ぎ、金十両米二石三人扶持の小身
ではあるが、内匠頭に仕えて、中小姓兼蔵奉行を勤めていた。凶変の当初から兄忠左衛門と正義を唱え、
義盟に列し、絶えず目的に向って直進した。そのため内蔵助の強い信任を得、かの同盟試験の専使とな
った一人はこの人であった。彼は十月上旬まで内蔵助の周囲にあって助けていたが、頭領東行の日が決
定すると先だって江戸に下向し、片岡源五右衛門らと同居して、ひたすら偵察、討入りに尽力した。
一一六
寺坂吉右衛門
吉田忠左衛門父子のことを述べたから、これに因んで寺坂吉右衛門信行について一顧しよう。一党の義
徒四十七人中に、足軽の列から奮起して義盟につき、最後の引揚げまで進退を共にしたのは、ただこの
寺坂吉右衛門一人であった。彼は故内匠頭在位の時、僅かに弓手(ゆで)の一軽卆として奉公した。性質
は温厚篤実で、情誼に厚く、人の急を見る時は、あたかも自分のことのように親切を尽した。そして弓術の
技は人に超えたものがあったとみえ、大石内蔵助は時々彼を呼んで、子息松之丞にその弓術を授けさせ
たほどであった。こういう人物であるから、足軽頭の吉田忠左衛門は大いに目を掛けて引き立てた。ああ
「人生は意気に感ずるのみ」だ。吉右衛門は常に深くこの先輩の慈愛に感じていた。凶変が勃発したとき、
一藩の有様は上をみれば、大野父子を始めとして高禄の士は七,八分まで主家を見棄てたくらいだから、
同列の足軽は皆散り散りばらばらとなった。
吉右衛門はこれを見て、憤慨に堪えない。ある日隊長の吉田忠右衛門に「この頃あなた様始め忠義の
方々、大義の思召しに立たれるとのこと。私も軽卒の身ではござりますが、国恩を荷いますのに変りはあり
ません。この不肖の吉右衛門に日頃目を掛けてくださった厚誼のほども心魂に銘じております。上には国
恩に報じ、下はご厚宜に酬いますのは、この秋(とき)であると存じます。おこがましゅうはありますが、どこま
でもあなた様と死生を共にいたしたく、何とぞあなた様のおとりなしで私を同盟中に加えて下さるよう願いま
す」と申し入れた。吉右衛門の平生の気象を熟知する忠左衛門は深く感嘆し「高禄の士すら逃げ隠れる世
の中にあっぱれの志。忠左街門いかにも推挙するであろう」と、内蔵助に申請した。内蔵助も大いに嘆称し、
早速同盟の列中に加えたのであった。
以後忠左衛門は太陽系に属する地球のように、吉右権門はまたその地球に属する月輪のように、到ると
ころに追随し、今年二月忠左衛門が関東方面の統轄となって東下すると、吉右衛門もまた従って来た。心
身を捧げて、内外のこと何くれとなく、実にまめまめしく働いた。彼は江戸到着後、古沢吉右衛門と名乗り、
またある時は町人伴介と称していたとのことである。思うに新麹町六丁目の兵学教場では忠左衛門が老先
生、沢右衛門が若旦那、吉右衛門が忠僕の体裁で一家は組織されたのであろう。
一一七
原惣右衛門
老母の自害
一党の副統領として内蔵助が左右の腕の一つと頼んだのは、原惣右衛門元辰(もととき)である。彼は浅
野侯に仕え、三百石を食して、足軽頭を勤めた。去年三月十四日の凶変当日には、とっさの間に竜口の
伝奏屋敷を取り片付けて、衆目を驚かせた。が、即夜大石瀬左衛門と江戸を発し、わずか五昼夜で赤穂
に馳け着け、再び世人を仰天させた。赤穂の会議に列席しては、大喝一声して大野九郎兵衛を走らせ、
内蔵助が腫患(はれもの)に罹(かか)った間は、代って同志との交渉を引き受けた。その忠誠、その精力、
その気宇、その技倆、まことに一党の中で抜きん出ているので、内蔵助は吉田忠左衛門とこの人とを招き
万事を協議した。
内蔵助が山科に移った後、惣右衛門はなお赤穂に残っていた。そのうち内蔵助が書を寄せて、出京を
促してきた。時に惣右衛門の母堂は七十五の老齢であるから、心にはかかるが大義には代えがたいと決
心し、やがて出発の用意を整えて、老母に向い、
「このたび大石殿から手紙が参り、少々打ち合せたいことがありまして、京都へ上りますが、談合の都合に
よっては、あるいは江戸まで行くことになるやら知れません。もしそう成りましたら、存外手間どることでし
ょう。さし障(さわり)ないよう大事になされ」
とさりげなく暇乞いをした。この母刀自は京極家の奥に長く勤め、原家に嫁いで良妻賢母の名ある人であ
るが、惣右衛門の顔をつくづく打ち守り、
「いよいよそれでは打ち立たれるか。江戸までは遥々の旅路。心労のほど察しまする。申すまでもないが、
おん身は取別け、国のご厚恩を蒙ったので、この節の国難に御恩に報ずるのは、武士たる者の本分で
ありましょう。ようこそ思い立たれました。これが今生のお別れ、勇気を励まして、本望を達するよう、それ
のみ深く祈ります」
と、嬉しげに述べた。その言葉は紫電のように惣右衛門の肺腑(はいふ)を衝(つ)いた。惣右衛門は哀心
から感嘆し、
「実は親子兄弟に対しても、機密を漏らすべがらずとの盟約の手前、隠していましたが、母上ほどのお方
に申し上げないのは心残り、真情はお察しの通りであります。それについても、母上の先途をお見送り
申し上げることの出来ませんのが、何よりの遺憾であります」
と、双方の涙は時雨のように胸に交わった。母は声を励まして、
「忠孝二つながら全(まった)きを得ないことは、日頃おん身も知るところ、亡君の讐(あだ)を報(むく)おう
と思う者が、この母に心を惹(ひ)かされるとは何事ですか。この期に及び、万一それにこだわって忠節を
失うようなら、もはや対面はいたしません」
と凛然(りんぜん)として言い切った。惣右衛門はますます感激し、
「ご教訓かたじけのう存じます。さらばお暇を……」
といい残し京都へと赴(おもむ)いた。
山科に入って、内蔵助に会合し、種々に協議を遂げて見たが、「一挙の決行はまだ早い。しばらく隠忍し
て時機を待て」との言に、さらばこの間に一家の処置をして来ようと、赤穂に立ち帰った。母はこれを見て一
室に招き、一挙の進行いかにと問うた。惣右衛門はあからさまに上方の事情を話し「この間に一家の方を
片着け、かつは母上のご機嫌を今一度うかがおうと思い、まかり帰った次第でございます」と告げた。「さて
はさようでおわしたか」とばかりでさりげないように見えたが、翌朝目を開けるまで母が起き出て来ないので、
不思議に思って下女にそっと臥所(ふしど)を見てこさせた。するとその室でアッと驚き叫んだのは下女の
声。はてただ事ではないと、惣右衛門が駆け入って見れば、母は端坐して刃に伏し、行儀を崩さずことき
れていた。そばに一通の遺書がある。惣右衛門は手に取るも遅いと開いて見れば、忠孝の二つながら全う
するのは難かしい旨を繰り返し「一たび今生の別れを告げながら、今また家に帰り来るのは、この母に心を
引かれるゆえと思う。これでは御先祖より以降、名誉あるこの原家の面目を汚さないとも測りがたいので、こ
こに死をもっておん身の忠節を高める」との意が認(したた)めてあった。惣右衛門はこの書を推(お)し戴
いて慟哭(どうこく)した。
惣右衛門は資性重厚の人で、以後一挙に対し常に急進主義を取ったのは、節烈な老母の死諌(しかん)
に負うところが多かったと察せられる。ああこの母にして、この子あり。原と岡島との兄弟が名節を貫いたの
も、偶然ではない。
附言 惣右衛門の母の自害から、幾多の謬説が伝わった。第一にこれを近松勘六の母と誤まり伝えた
のが、鳩巣の『義人録』である。不幸にもこの名家の名文に入ってしまい、もっとも多くの書を誤らせた。
これがまた変転して『窓のすさび』には神崎与五郎の母となった。
それから第三にはこれを杉野十平次の母とし、母子が京都において貧苦に陥り、窮する折からいざ
出発となったので、母は自殺して十平次を激励したというのが、『後鑑録』である。十平次は江戸にあ
り、おまけに一党中の富裕家で、千金を散じて、同志を助けた侠烈者であったことを知らなかったよう
である。
ただしこの三説は、単に著者が当時の謬伝に誤らされたのであるから許せるが、『赤穂記』という大
俗書には、これを武林唯七の母として、おまけに見るもいやな掛辞(かけことば)の遺書まで捏造(ね
つぞう)した。それから『一夕話(いっせきわ)』になると、この遺書の文体までが全然違っている。涅造
者がするところは、大概この類である。そうしてこれらの輩は、老母のことを討入りの前後まで憂慮する
神崎の手紙や、武林の詩などがあることを知らないようだ。気の毒な連中である。
一一八 同 急発の計画
惣右衛門は母堂の自刃に逢って一層復讐の志(志)を励ました。やがて葬儀を終え、一家を片付け、家
族を引き連れて大阪に出、天満老松町に一戸を借りた。ここで山科と赤穂の連絡をつなぎ、関西一面の同
志を統率した。すでに関東の同志堀部安兵衛らの猛進派が一挙の決行を内蔵助に迫ってやまないので、
九月に入り内蔵助は惣右衛門を選び、鎮(しず)めるため江戸に下向させた。惣右衛門の東行は、あたか
も西郷隆盛が鳥津久光氏の命により、京都に集まった激烈党をなだめるために上ったのと同じであった。
つまり鎮撫(ちんぶ)はさておいて、むしろ急進派を助け、速発の方略を協議した。同年十一月内蔵助が
最初の出府をして、旅館会議を開いたとき、惣右衛門は堀部の明年二月決行説に賛成し、これを確定議
にまで成立させた。彼の英気が盛んであったのは、この一事でも察せられる。やがてこの議が成立したから、
彼は内蔵助よりも後に残り、なお種々決行の手筈を打ち合せた。十二月二十五日には大高源五と打ち連
れて江戸を発し、伊勢の大廟に参拝して祈願をこめ、正月九日に帰京した。両人ともになかなかの敬神家
であった。
すでに兼ねて約束の期限が近づいたが、亡君の舎弟大学氏の処分は埓(らち)があきそうもないところ
から、内蔵助は関東連の爆発を憂慮し、今回は吉田忠左衛門を下向させた。この際の会議でも惣右衛門
は関西の急進派を代表して、悲憤慷慨(ひふんこうがい)の意見を発表し、ついに内蔵助から全党一致し
ての復讐の保証を取った。ここまでくれば根が重厚の人であるから、大局を見て延期説に同意し、関東連
にも書を寄せて、間接に忠左衛門の鎮撫の使命を助けた。ところが三月も過ぎ、四月になっても、公儀か
ら何の沙汰もない。それで関東連はまたまた焦り出した。武林唯七、不破数右衛門(かずえもん)は関東連
を代表して、京洛派の決心を促しに来た。両人が先ず訪れたのは、惣右衛門の家であった。
この時の惣右衛門の苦衷は実に大きかった。彼は急進派の領袖ではあるが、内蔵助が浅野家の家門だ
けは残したいとの精神をよく理解している。この点については内蔵助と同論である。しかし浅野家の再興を
許された上で、全党一致して復讐の挙に出れば、ただちに累は主家に及びそうである、それは臣子の分と
していかにも済まない。といって復讐の挙はやむにやまれぬ志である。そこで内蔵助らの多数は主家再興
に尽し、極々少数の者が内蔵助らに知らせず一挙に及んだなら、さまでは主家再興に障らずに、不倶戴
天(ふぐたいてん)の義をまっとうできる。もはやこれ以外に方法はない、と決心した。
この考えは、あたかも内蔵助が二月の山科会議で、「主家再興の上は、この内蔵助ただ一人、総名代と
なって復讐の挙は必ずやり遂げる」と主張したのと同じである。これを異曲同工と言おうか。難を避けて易
につくのが、世間一般の常態であるのに、大石といい、原といい、揃いも揃って、易を避けて難につこうとし
たのである。昔の程嬰公(ていえいこう)、孫杵臼(そんそきゅう)と美を東西に比べるもので、ますます敬服
に堪えないものがある。
一一九
同 惣右衛門と襄陽の司馬徽 中井積徳の名刀「永正祐定」鑑定記
惣右衛門は決心したが、この秘策は容易に少壮の人々に打ち明けない。武林椎七は惣右衛門に向い、
是非一党と離れて事を挙げよと勧めたが、惣右衛門は二月の山科の決議を繰り返し、この約束に違(たが)
ってはならないと、反対に諭(さと)すので、唯七はやむなく退いた。だが惣右衛門の決心は石のように倒
すことは出来ない。この秘中の秘を第一に協議できる者は、堀部安兵衛と奥田孫太夫のほかはないと、四
月二日付で両人に手紙を出した。書中には「上方でこの人数を予想すると、十四、五人はある」とあり、大
高源五、潮田又之丞、中村勘助、岡野金右衛門、小野寺幸右衛門などの名が見える。
この計画に関し、不思議によく似た事実を見出す。元禄の快挙から約一世紀の後、大坂の学者中井積
徳の家に、同市瓦町の武具屋西村某が訪れ、永正祐定の一刀を持参して「これは我が家の家宝です。何
とぞ先生に証明書を書いていただきたくお願いしたい」といった。積徳がその由来を聞くと、某は答えて「私
の家はご承知のとおり、代々武具屋ですが、元禄年中のことです。ある日年配の男が店に来て、『ある御武
家様が鎖帷子(くさりかたびら)を十五領ほど調達したいとのこと、どうか売って下さらんか』と申します。『ち
ょうど恰好(かっこう)な品がある。代価はこれこれ」と申しますと、その男は財布の金を勘定しながら、『ちと
不足するので、出直して参ります』と言って、立ち去ろうとします。店では呼び留めて、『お前さんはどちらの
方ですか』と問うと、『高津に住む傘屋でございます』と申して出て行きまして、間もなく担いできたのがこの
刀でございます。傘屋が申しますのは、『お武家様でも少々お金の都合があるので、この刀を幾らでお引
き取り下さって、残りは現金で払いたい』とのこと。それでこの刀を見れば、なかなかの業物(わざもの)です
から、傘屋の望みどおり引換えに十五領の鎖帷子を売りました。その後も時々この男を見掛けておりました。
そのうち赤穂の義士復讐の一挙が発しますと、あの傘屋が一党第三の統領原惣右衛門元辰であったとの
評判が立ち、私どもの先祖がこれは我が家の重宝として、子孫に伝えまして、大切にしております」と告げ
た。積徳聴いてこれを奇として『永正刀記』の一篇を草してやった。
この記事は、惣右衛門が十四、五人の急進派を集めて押し出そうと志した時の出来事と思われる。これ
はもとより秘中の秘であったから、鎖帷子の代価までは、内蔵助に相談できない。それで私財と差換えの
一刀までを擲(なげう)って買い調えたものと見える。志士の苦心を察することができるではないか。
惣右衛門がいかに大人物であったかは、この人の口癖であった「程好(ほどよ)う致そう」という言葉でも知
れる。一派の急進派が温和派もしくは囚循派の説に憤激して騒ぎ立つごとに、「先ずお鎮まりなされ。程好
う致そう」と言った。大人でなければ、なかなか程好うはできない。これについては襄陽(じょうよう)の司馬
徽(しばき)が回顧される。彼はいかなる事件に出会っても少しも驚かず「よしよし」といったので、何時となく
世人は「善々先生」の綽名(あだな)をつけた。彼は諸葛武侯(しょかつぶこう)を昭烈(しょうれつ)に推薦し、
天下三分の計を立てた。これは大石内蔵助の敗残を救って不倶戴天の敵を取ろうとした惣右衛門に等し
い。彼の人品を論ずれば、彼は君子にして英雄の階級である。
一二〇 同
眼中に人のない堀部安兵衛が、惣右衛門の義勇胆略には心から敬服していたことでも、彼の力量を知る
ことが出来る。
彼はほとんど最後まで京阪の間にあって、内蔵助を助けたが、内蔵助の出発日がいよいよ決定したので、
大阪を引き揚げて関東に向い、十月十七日江戸に着いた。母方の姓に因んで、和田元真(げんしん)と変
名し、医者だと触れ込んだ。医者で都合の悪い場合には、前田善蔵と変称し、新麹町六丁目の吉田忠左
衛門の借家に寄留した。すでに石(こく)町三丁目の大石主税の寓居には、一党の総統領内蔵助と参謀
総長小野寺十内が来ている。こちらには両副統領の忠左衛門と惣右衛門が同居する。これは討入りの協
議を便宜にするためと見えた。一切の秘策がこの両営から発したのも当然であった。あの有名な誓詞の前
文は、実にこの両副統領の腹案から出たのである。後年寺坂吉右衛門の記録に「誓詞前書の文言は忠左
衛門殿、惣右衛門殿お好みのとおりの文言で認められた」というのはこれであった。三宅観瀾が『報讐録』
に惣右衛門を伝えて「大勢の同志の事を済(すま)したのは、多く彼の力に頼った」といった。適評である。
江戸では、原惣右衛門は和田元真、小野寺十内は仙北中庵、間瀬久太夫は三橋浄貞、間喜兵衛は杣
荘喜斎、村松喜兵衛は村松隆円などと称し、一党の元老らは皆医家だと触れ込んだ。これに奥田貞右衛
門の西村丹下、田中貞四郎の田中玄昌を加え、全党中から都合七人までが、薮井匙庵(やぶいさじあん)
となった。これらの人々が揃いも揃ってこの職業を言い立てたのは、浪人と称すれば人目につき、町人と名
乗っても受け取られそうにない。それでこの好名目に隠れたのである。が、もし当時これらの名医にかかっ
た者があったなら、それこそ災難、定めて辛い目に逢ったであろう。さすがは諸豪傑、上野介に取って、い
ずれも恐るべき大敵であっただけ、諸病人に取っても、また実に畏るべき強敵であったに違いない。
附言 『義臣伝』に惣右衛門が大阪を引き揚げる前に、すでに嫁入りさせた一女を取返した話を載せて
以来、諸々の俗書が皆これを套襲(とうしゅう)する。しかし元辰の人となりを見ると、そんな細々した小
丈夫ではない。名家の著述に一つもこの話題を扱っていないのはもっともである。市井の荒唐の談と
断定し、私もこれを斥(しりぞ)けた。
一二一 岡島八十右衛門
岡島八十右衛門常樹(つねき)は原惣右衛門の実弟で、岡島氏の養子となってその家を継いだ。二十石
五人扶持を食し、内匠頭に仕えて、中小姓兼勘定方を勤めていた。彼は人となり剛直で、力があり、堂々と
した家兄の風があった。主家の凶変が発すると、兄惣右衛門とともに義盟につき、どこまでも正義を主張し
た。内蔵助はつとに彼の公正なことを見抜いていたので、開城前に藩札引換えを主導させ、また藩庫金の
分配をも担当させた。この分配の席上で、大野九郎兵衛は自分の取高が予期に外れたのに劫を煮やし、
八十右衛門のことを悪しざまに言った。八十右衛門は日頃九郎兵衛が貪欲無恥であり、変動以来俗論を
唱道して、正義を阻むのを憤慨していたので、九郎兵衛の家に迫り、ついに彼ら父子を走らせた。とにもか
くにも惣右衛門と八十右衛門兄弟で九郎兵衛と郡右衛門父子の成敗を前後してやっつけたのは、偶然と
はいえ、一つの奇であった。これによっても兄弟ともに揃いも揃った大剛の士であったことが知れる。彼は
開城後一たん京都に出た。内蔵助から東下の内命を受けたので、一家の処置をするため赤穂に赴いたが、
ふと病気に罹って数か月かの地に滞在し、今春になって再び出京した。だが、関東へは近松勘六が代っ
て下向した後であったから、そのまま京阪の間に留まって、時期の到来を待った。そしてこの年十月家兄
の惣右衛門らとともに江戸に出た。彼はこれまで勘定方として一会計吏に任命されていたにもかかわらず、
大刀を横たえ、上にも言ったとおり、大野九郎兵衛の宅に迫りつけては、一夜にこれを走らせ、また次に講
ずるが、山賊に出逢えば同時に三人までも切り倒すほどの猛者であるから、町人との触込みなどでは身に
相応しない。そこで郡武八郎(こおりぶはちろう)と称し、山村勘助らと同宿していた。
藩主長矩(ながのり)侯が在国の時であった。岡島八十右衛門は同国山中温泉への湯治の願いを君侯
に出すと、早速休暇を与えられたから、重役の許にも挨拶に廻った。家に帰って、仕度を調えれば、その
日は既に暮れ果てた。家内の人々は明朝出発したらよかろうと勧めたが、八十右衛門は聴かない。夏の夜
路もまた一興だといい、日頃使う忠僕の文助を供に連れて家を出た。七里の行程、おまけに山路、宵闇を
破って四里ばかり分け入れば、これは不思議、行く手の路傍に焚き火が見える。僕の文助はアッと驚き、
主人の袂(たもと)をそっと引いたが、主人は一向頓着しない。何!といいつつ近づいて見れば、七、八人
の山賊どもが酒をあおって談笑していた。が、
「ソレ旅の者だぞ!」と一人が叫ぶや否や、その中の三人がバラバラと駆け寄り、彼奴らの決まり文句で、
「オイ客人酒手をくンネー」と嚇(おど)しかけた。
「何、酒手とは? 金銀のことか。生憎ここに持ち合せない」
「や!面倒な、畳んで取れ!」
と、三人は山刀を抜いた。
「さらば遣わす。それっ!」
と一声、腰の大刀を抜く手も見せず、中央の一賊を真っ二つ。返す刀で傍の一賊の左の肩からなで切りに
切り倒した。「アッ」と叫んで、余す一賊が仰天して逃げ出すところを、また背後から一刀をあびせかけ、
「赤穂の武夫(もののふ)岡島八十右衛門を知らないか」
と喝破(かっぱ)した。
「すわ山荒しだ、怪我するな!」
と残る四、五人は木立を潜(くぐ)って、いずこともなく逃げ失せた。焚火(たきび)は燃え上がる。酒は上燗
(じょうかん)である。
「文助一杯飲め!」
といいながら、酒の主人は入れ代る。文助は心から驚嘆して、
「さても恐れ入りました。旦那様のお手並、お蔭さまで命を拾った上、ササにまでありつきました」
と主従は一杯また一杯、やがて薫然(くんぜん)としてここを去り、夜深けて山中の温泉に着いた。
主従悠々として湯治を終え、もと来た路を帰りつつ、賊を倒したところに差しかかった。すると八十右衛
門は立ち止まり、
「前には金の必要があって、思いがけず殺生した。今はもう金の入用はない。金額が減ったのは気の毒
だが、あいつらの仲間の世渡りの助けともなろう」
と言いながら財布を取り出し、木の枝に引っ掛けて立ち去った。
英雄の僕(しもべ)は英雄を知らないというが、文助は目のあたりこの活劇を見たから、主人を崇拝するこ
と一層であった。主人もこの忠僕を親愛し、何くれとなく気を使ったので、主人の褒め言葉は感状よりもあり
がたがった。藩が亡び、八十右衛門は京洛に浪々した。しかし文助は依然として主人の行くところに追随し、
骨身を惜しまず奉公した。しかしいよいよ復讐の議が決まり、八十右衛門は兄の惣右衛門と同行して、吾
妻に下ることとなった。文助は是非にとお供を迫ったが、主人は断じて許可しないのでやむなく留まった。
その歳復讐の挙は発し、翌年二月諸士と共に主人も切腹したとの報は、紫電のように上方にも伝わった。
文助はこれを聞いて慟哭(どうこく)した。ついに剃髪して名を専入と改め、主人の冥福を祈ったということ
である。
附言 この話はまだ確かな証拠を得ていない。ただ『一夕話』に見えるのみであるから、当てにはならな
いが、八十右衛門としてはありそうなことであるから、しばらくここに掲げておく。
一二二
小野寺十内
小野寺十内秀和の家は、出羽の名族小野寺遠江守(とうとみのかみ)から出たと信ずる理由がある。とい
うのは、慶長年間に遠江守は出羽の仙北郡を領し、上杉中納言景勝に属して兵を挙げたが、戦いに敗れ
て没落した。後年十内が復讐のために江戸に出たとき、仙北中庵と変名したのはこれにちなむ。つまり祖
先が仙北から出たので。仮にこれを氏としたものに相違ない。十内の祖父十太夫が始めて赤穂藩士となっ
てから、父又八を経て十内となり、内匠頭長矩に仕えて、百五十石を領し、京都の御留守居を勤めていた。
この人資性は温厚で文藻に富み、好んで和歌を詠んだが、その歌は当時作家の域に入ると称されていた。
風流温雅であるが、その裏に毅然とした気質を保存していた。彼は京都にいて、伊藤仁斎を師とし、その
教えを受けた。想うに大石内蔵助が仁斎の門に遊んだのも、恐らくこの人の紹介であったろう。
十内の内室は同藩士灰方(はいかた)藤兵衛の妹で、名をお丹と称したが、天性温順で、節操高く、その
上和歌の嗜(たしなみ)があった。揃いも揃った一対の好夫婦であった。それだけに夫婦の交情もこまやか
に、相対して花に吟じ、月に歌い、夫唱婦和の天楽を家庭に築いた。そうして夫婦ともに孝心深く、父母に
孝養を尽した。いわゆる「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦和し、朋友相信ずる」ものは、小野寺一家にすべ
てをみることができた。老母はなかなかの長寿で、九十歳に達してなお元気であった。十内は賀宴を開い
て、母の健在を祝した。この折の仁斎父子の寿詩がある。
小野寺十内の母の九十の寿(ことぶき)を賀す 伊藤維禎(いてい)(仁斎)
母子年高九十強
母の年令九十を越す
無憂無病又無傷
憂なく病なくまた傷なし
老莱孝思誰能識
母を思う老莱(ろうらい)の深い心は誰も知らない
膝下猶呼為小郎
日頃母を子供と呼びならわす
同
伊藤長胤(ながたね)(東涯)
羨君官政不遑時
うらやむ 君が官政に忙しい時
慈母九旬糸髪垂
慈母は九十歳を迎え、なお糸のように髪を垂れる
況復一堂不違食
ましてや食にもこだわらわず
更無晨々倚門思
朝夕ひと時も思いわずらうことなし
そもそも伊藤仁斎は生来人のためにいまだかつて寿詩を作らない人であった。この先生が寿詩を作り、
かつその詩中に十内その人を古の孝子老莱子(ろうらいし)に比し、称賛を惜しまなかったのは、十内の行
届いた孝行のためであり、彼がいかに仁斎父子に重んぜられたかを察することができる。
彼の平生の歌には見るべきものが多い。その二、三を挙げれば、
炭竃(すみがま)
山風に雪消(ゆきげ)の雲を吹きとじて、烟(けむり)みじかき小野の炭竃
時雨(しぐれ)
定めなき空とも見えず槙(まき)の屋に、かならず過ぐる夕時雨かな
老後述懐
おいぬればよそになされて古(いにしえ)を、語るをだにも聴く人のなき
この老後の述懐を誦すれば、村田春海が「同じ世に同じすさびの友もがな、古事しのぶ心語らん」と歌っ
たのと、異曲同工の感がある。いかに高雅な老君子であったかが想われる。ついでに言おう。当時京都に
金勝慶安(かねかつけいあん)という歌人があった。この人は医者でありながら、歌に巧みであった。今なら
御歌所寄人(よりうど)医学博士井上通泰というところであろう。十内は早くから歌の心得があった上に、夫
婦ともにこの人について教えを受けたから、一層造詣が深かった。彼の書中に往々慶安と見えるのは、こ
の人のことである。
このように趣に富んだ家庭であったが、主家の凶変で一変した。この時十内は齢(よわい)五十九歳、平
生の夫婦の交情から推(お)せば、自分の進退について、一応は細君にも議(はか)りそうなことであるが、
彼の頭脳は極めて明晰であり、理義の際に一秒の遅れも取らない。彼は大事を婦人と議(はか)らない。自
分に問うて自分に答え、自ら決め、進退を大石太夫と共にしようと決心し、前にも述べたとおり、鎧(よろい)
一領、槍一筋、着替えの帷子(かたびら)一枚を持って出発した。下僚の一人が所司代への届けを注意す
ると「出入の届けも時による。今は無主の一浪人、届けて煩雑を招くのは愚だ」と一言に斥(しりぞ)けて家
を出た。赤穂に達して同盟につき、籠城、戦死、殉死、復讐と終始大石、吉田、原らと行動を共にした。
一二三
同 小野寺十平衛に与える書
この頃京都町奉行の組与力(くみよりき)をしていた小野寺十兵衛は、十内の従弟であったが、また一個
の名誉ある士であった。十内は赤穂に着いて五日目に、この人に次のような一篇の手紙を送った。
一筆啓上、赤穂に下って以来便りもないが、別条ないだろうか。
一 内匠頭の事件については、近国からの評判もあり、もちろん京にもいろいろ噂があると思うが、事は
すでに一決している。貴殿へ隠すことは少しもなく、すべて伝える。しかし他言は無用である。
一 上野介は全く存生の由、私はかたくなな田舎武士だから、主人は一人しか知らず、お仕置の訳も細
かいことは分らない。無下に城を明けて立ち退くのは納得できないので、家老より多川九左衛門、月
岡治右衛門両人を使者として、御目付に嘆願することになった。上野介にも切腹を命じてほしいという
のではなく、納得できる筋を立ててもらえば、家中の士(さむらい)どもを説得できるからというものであ
る。この趣旨を上に願うため両人は今月四、五日には江戸に着くはずである。
一 一門中への働きかけはつぎのとおり行う。
浅野土佐守殿には使者を送り、家老経由で書面を渡す。
戸田采女正殿には使者戸田源五兵衛、八田庄太夫、戸田権左衛門、杉村十太夫、里見孫太夫、可
野(かの)治部(じぶ)左衛門を送る。
松平安芸守殿には使者小山孫六、井上団右衛門、丹羽源兵衛を送る。
以上の通り使者を送って寸志を申し上げるので、今諸士は自滅の覚悟を決め、静かに成行きを待っ
ている。
一 私は去る三日の晩赤穂に着き、ただちに内蔵助宅へ乗り込み、小身ではあるが百年来当家の御恩
になり、このたび決められたことがあれば何ようにも従うと、申しあげたところ、内蔵助はその意もっとも
と申された。番頭の奥野将監、先手物頭二人にも、同日銘々宅へ呼び、同様の覚悟を申し含めた。
格別の志ある者はみな内蔵助へ同様の覚悟を申し上げたようだ。皆内蔵助の働きに感謝して、我らの
進退を任せると頼んだ。内蔵助は年若だから、少しも迷う様子もなく、終日城にいて万事を引き受け、
少しもたじろがずに、滞(とどこおり)なく捌(さば)いている。さてさて不思議な時節が到来した。しかし
名誉ある手紙を書けて私は満足している。上野介存生と聞いて、上下の家来は皆忠誠心を燃やした
であろうが、人はそれぞれ寸志を立てるので、公儀を軽んじてはならないと思えばそれなりの挨拶をし
て止むだろうが、私はそうは思えない。とっさのことに具足一領、槍一本、白帷子一つを当分の着替え
として挟箱に入れ、赤穂に下った。老母妻子にも私の心ざしは聞かせなかった。私の様子を見て何事
が起ったか、わからずじまいであったろう。私が死に果てることになったら母と妻をよろしく頼む。虫けら
同然の我が小家の者ども、まかせた上は恨み言は少しもない。我らは籠城して運を開こうとは思って
いない。脇坂殿を恨んでもいない。ただ城中で各々自滅する覚悟である。もし妻から問い合わせて来
たら、大儀ながらお越し願って、この書中のままを読み聞かせてやってほしい。妻はそんなに騒ぎたて
る女ではない。後で恨むであろうと不便(ふびん)に思うが、そのまま頼むほかない。早くそちらに伝え
ようと、夜中に急いで認めた。火中火中。
卯月七日
小野寺十内
小野寺十兵衛様
なお大事のことについては、一家の名を下すようなことは絶対にないので、ご安心されたい。以上。
彼は大義に殉じて、大切な母と最愛の妻を棄て、百里の難に赴いた。そうしてこの国難に殉ずる覚悟を
記したこの書を指して、自ら名誉の手紙を書くといい「大事のことについては、家の名を汚すようなことはし
ないので安心されたい」と明言してはばからない。彼の決心は実に尊いではないか。またこの書のお蔭で、
内蔵助の人物、斤量(きんりょう)、徳望、手腕を三世紀後の今日も、明瞭に認識することが出来る。十内君
に深謝する。ありがとう。
一二四 同 丹女に与える書
十内はまた赤穂から次の一書を妻に寄せた。
六日七日の文、一度に届いたよ。母上は何事もないとのことうれしく思う。心をこめて、朝夕うまい食事を
勧めてやってほしい。あなたも無事とのこと何よりです。私のことを気遣いしてくれるのも、ありがたい。
一 九左衛門と治右衛門は一両日中に京にのぼるようだ。われらはあなたも知っているとおり、主家の
はじめより、小身ながら今まで百年ご恩を受けている。家族の一人一人をやしない、身温かに一生を
暮らしてきたのはそのおかげだ。今の内匠頭殿には格別のおなさけはあずからなかったが、代々の御
主人ひっくるめて百年の報恩がある。私の身は不肖でも小野寺氏の嫡孫であるから、このようなときに
うろついては、家のきず、一門のつらよごしとなり、面目ない。私は大事のときには快く死のうと思い定
めた。老母を忘れ妻子を思わないではないが、武士の義理のために命をすてる道に、迷うところはな
いと納得して、深く嘆くことのないようにしてもらいたい。母上はいくばくの間もないと思うので、いかよう
にしても、臨終を見とどけてほしい。あなたの長年のこころ入れがあるので、そのようなことは言うまでも
ないと思うが、お頼みする。わずかの金銀家財だが、あるかぎりは使って、命なお長く、財(たから)つき
たら共に飢死なされ。それもやむを得ないことだ。おいよのことは、望むお方もあったが、病いがよくな
ってからのことだ。また国の親方衆にきいてからのことだと思って、一日一日をのびのびと過してほしい。
どのような時節になっても、人が受入れてくれるとは限らないから、進んで言うことはない。二人ともい
かようにも長らえ、また世のありさまを見ながら暮らしてほしい。
一 さてさて思いがけない世のありさま、昔がたりにきく上也(じょうや)人形の太平記で見聞きした風情が、
いまこの身に起こり、誠に風前のともし火、葉末の露と争う命となった。日ごろ万(よろず)に付けて深か
った欲を忘れ、水のように清い心を持てば、わざわいはかえって消えていくかと思う。
一 九左衛門、治右衛門がそちらに帰っても、なかなか今の状況では、先が見えない。家中が安心でき
るようにはなるまい。私は死ぬばかりだ。万に一つでも面目が立つようになれば、生きて再び帰るかも
しれないが。あなたの生活は、女の身として難儀のほど思いやられるが、志ある方々に身を任せるの
がよかろう。
一 頼みたいことはことは藤助(とうすけ)に万事伝えておいた。この手紙にあることのほか、何事も察して
くれるように頼んでおいた。
一 松尾ごうしはさすがに他家の人、ことに近国に住むので、わざと控えて何も頼んでいないのに、毎日
毎日手助けの人を送ってくれるとのこと、まことに有り難く思う。よくよくお頼み申すがよい。この文に書
いたことをみないわなくても、よいように噂を聞いて、その方の心次第に世話をしてくれるだろう。……
総じて人には余り頼まないように。世に顕われると、おのずから人も聞く。その内にうわさが広がって始
末に負えなくなる。
一 慶安殿へもよくよく頼んでおくように。時候の挨拶をする季節でもないので、詳しくは言わず、万事を
頼んで、指図を受けるがよい。
一 御目付衆は十六日に到着し、城の受取りは十八日とのこと。多少の変更もあるかもしれない。
一 金十両を送った。お納戸の長兵衛の娘が迎えに来てくれたので、頼んでおいた。命つなぎのために
使ってくれ。また送るよ。こちらは一文もいらない。いうまでもないが、僅かの金銀でも、誰にも預けては
いけない。手をはなさずにもって、これ限りの露命つなぎに使うように。かならずかならず。
一 おいせも同じように頼む。
四月十日
十内
お た ん どの
なおなお幸右衛門はわれらとはちがい、御恩を受けていない者だから、どうするのか今はわからな
い。何事もこちらの成行きを聞いたうえで、決めるのであろう。神妙によく考え、納得して決めてもら
いたい。彼の心のうちをおもいやるのも笑止であるが。また手紙を出してやろう。
「道理心肝を貫(つらぬ)き、忠義骨髄に徹す。ただちにすべからく死生の間に談笑すべし」というものを、
この老小野寺において見る。彼は赤穂退去の後、内蔵助に先だって京都に立ち帰り、仏光寺通東洞院西
入町に浪宅を定め、以来内蔵助を助けて参謀長となり、絶えず首脳陣の密議に参与した。
一二五 同 十内の東下
十内は赤穂開城後、京都の東洞院西入に隠れ、日夜内蔵助を助けて、一挙の画策に心身を傾倒したが、
討入りの期が追々近づいたので、本営を江戸に移すこととなり、この年十月、その準備として彼は内蔵助
の郎党瀬尾孫左衛門を伴い、京都を離れた。
家を出るとて
思い出は音羽の山の秋ごとの、色を別れし袖ぞとも見よ
周囲の山は黄色く落葉するが、残紅はなお木末に残る。哀別の思いをその色に托した。
加茂川を渡って
おき別れ今朝打ち渡る加茂川の、水の烟(けぶり)は胸に立ちそう
時は陰歴十月の天、河上の水烟(すいえん)蒙々(もうもう)として、満胸の悲懐と四辺に漂う意を寄せた。
逢阪を越えて
立ちかえりまた逢阪と頼まねば、比べやせまし死出の山越え
丈夫の決心はこの一句に見える。
志賀の浦にて
故郷(ふるさと)にかくてや人の住みぬらん、ひとり寒けき志賀の浦松
凄涼(せいりょう)とした孤懐を丹女に寄せた。
都の空ようよう遠ざかれば
故郷の心あてなる大比叡(おおびえ)の、山も隠れるあとの白雲
かの柿本人麿が「妹があたり見む靡(なび)けこの山」と叫んだのと、実に古今同嘆である。
同じところで時雨(しぐれ)が降るのを見て
別れゆく思いの雲のたちそうや、今日もしぐれる東路(あずまじ)の空
ところどころでよむ歌の中に
よりよりに都に帰る旅人の、数に漏れなん身のゆくえかな
忘れ得ぬ都の友の面影に、道行く人を比べてぞ見る
都を離れがたい情緒が実によく出ている。
東路より日が昇る頃、富士の裾野を通りて
波間より伊豆の海面(うみづら)さゆる日に、光をかわす雪の富士の根
箱根に差しかかった時、江戸から京都に帰る知人に出会ったので、茶店に休んで一書を認め、丹女の
許に托送した。その書の奥に、
限りありて帰らんと思う旅にだに、なお九重は恋いしきものを
と記しつけた。これは王昌齢の「一封の書は寄す数行の啼(てい)」と比べて、実に一誦三嘆にたえない。こ
うして十月十九日に汀戸に着き、石町三丁目の大石主税の寓居に寄留した。姓名を仙北中庵と変え、医
師だと触れ込んだが、それで都合の悪い場合には、仙石又四郎とも称した。これから大石、吉田、原らの
三、四士と共に復讐の計画に肝胆を砕いた。が、その間にも
江戸に来て、古い友もいないのを知り
まくら刈るゆかりの草も枯れ果てて、霜におきふす武蔵野の原
などと詠んだ。心持の広く豊かなこと、想い見るにも余りある。
一二六
同 寺井玄渓に与える書 快挙の半面史
思いを歌に託せば、風流この上なく、事を論ずれば、理義明白なものは、この十内秀和である。彼は東
下の後、十一月十六日付の手紙を、在京同志の一人である寺井玄渓に宛てて書いた。自分の考えから同
志の現況までを、詳細に報(しら)せた。その書はこの元禄快挙の半面史ともいえるものであるから、その全
部を引き、かつ評して見よう。
一筆啓上。玄達老いかが。いよいよお元気のことと、茶事の連中や茶会のことなど思い出しております。
一 当地はいまのところ変ったこともなく、池田氏始め各々無事にすごしております。池田氏は折々出府
され連中の会に参加されております。準備も大方出来あがりつつあり、これからの江戸逗留も長くはな
いように思われるので、ご安心ください。詳しく申し上げることは今はありません。
一 私は原氏、主税などと麹町に同居していましたが、人も多いので主税を別宿に一かまえ移し、本町
に座敷を借りて、三日にここへ移りました。若い衆ばかりなので、拙者も付いて来ております。
書体は十内と玄渓が茶道の友という形に装い、一挙を茶事の催しにことよせたのである。冒頭の一句に
「玄達老いかが」とあり、当時その人はなお京都にいたのが知れる。よって思えば、なるほど寺井父子を一
党に加えないほど用心している内蔵助が、玄達を主税に同行させて後累を及ぼすような不注意をするは
ずがない。『義臣伝』に玄達が主税の一行に加わって東下したと書いたのは、作者の推測である。その実
玄達は十一月中旬以後に一人密かに江戸へ下ったものと見える。そして玄達は本町一丁目の七文字屋
に止宿し、一挙決行後、同志の遺文書を収め、十二月二十六日に帰京の途についたことは、『堀内覚書』
で確かめられる。
ここにいう池田氏、次頂にいう池久とあるのは、言うまでもなく、池田久右衛門つまり大石内蔵助のことで
ある。この書には「折々出府、連中の会に参加」という。『寺坂日記』には内蔵助は出府後主税と同居と記し
ながら「頭(かしら)立つ本主であるが、居所不定」としている。内蔵助の出府は秘中の秘であるから、ある
時は平間村、ある時は石町に出没して、人に目立たないようにしたのが知れる。これは独り内蔵助だけで
はない。その他の人々にもこの形跡がある。
さてその次の条を読めば、十内、惣右衛門、主税の行動が明瞭である。思うにこれらの諸士はいずれも
前後して、最初は吉田忠左衛門の新麹町六丁目の宿に着き、やがて十内が同町に別戸を構えたので、一
同ここに移転したものの、ここも多人数であったから、さらに主税を店借主として、新たに一戸を構えさせ、
十内は主税の後見として、同じくそこに再転居したとみえる。では十内が当初に借り受け、同志を残して来
た宅はどこであったろう。それは恐らくその後に中村勘助が主人公となった新麹町四丁目和泉屋の借店で
あろう。それはここに十内の養子幸右衛門および甥の岡野金右衛門がいたので知れる。
ここで今一つ言うべきことは、主税の構えた新宅である。前にもその宅は石町三丁目といったが、これは
『寺坂筆記』に拠(よ)った。しかし十内はその宅を本町という。両者の言が合わないようであるが、今の本石
町のことであれば一致する。ついでになお一言する。主税がここに移ったのをこの書では本月三日という。
そして内蔵助が始めて江戸に乗り込んだのが五日である。この二つを総合すれば、この別宅新設の一事
は内蔵助の居所の準備を兼ねたことが明瞭であろう。
一二七 同 同
十内は更に説き進んだ。
一 江戸に着き、現地の衆に会って馬を下りると、一冊の書を取り出して見せられた。それがこの書であ
る。かねて落着の後、お送りする約束なので、写してお目にかけます。お閑な時お目通しください。さ
てこの書は中身がものものしく、詳しく書いてあることにまずは感心いたします。しかし私が思っていた
ものと違っており、この点貴殿はいかが思われるか。私が思うには、このように詞花言葉をかざっては
いけない。ただ事実をつぶさに記録するように書きたい。ここをよく考えてほしいと思います。
思うにこの書は『赤城盟伝』か、もしくはその他か、同志の物した一挙録につき、その意見を述べたのであ
る。さすがは十内、その人の思想はまことに良史の思想である。
一 人々の勇気と臆心の批判、これは大切なことです。その後のことは知らないとしても、これまでの年
月、只今まで、身をやつし心をくだき、寝食を安んぜず、ただこの謀計のほかにはなかった一筋の忠
心を、せめて露ほどでも表わしてくれたら、各人の本意これに過ぎるものはない。貴殿はかねての発
端より、江戸、在所、京辺のことをあるがままに、よくご存じだから、是非とも一文を残していただきたい。
論はようやく個人の批評に及んで来た。
一 この書には片岡、磯貝、田中貞四郎らを格別の志ありと誉めて書いている。彼らは十指がさすところ
の節をのがし、赤穂落城の日も忠志の色はかつて見えず、うろつきの物笑いの第一に落ち入り、中頃
に帰参して、人並に連った者である。これを誉める文は不相応でしょう。この点ご了簡ください。このと
ころ原氏と常々論じているのは、彼らの思惑です。功をねたみ功を争う心では毛頭ありません。ただた
だその実を明らかにしたいのです。
十内が片岡、磯貝らの人々を別働隊と称して来たのはここである。両士が両士だけの別の思わくがあっ
て入党を遅らせたのは、決して不忠を存するのではないが、小野寺、原ら一党の領袖の目から見れば、こ
う考えざるを得ないのである。
一 大野父子、植村ならびに安井、藤井、近藤、玉虫、外村らについては、それぞれ項目を立てて悪事
を指摘したいと思う。奥野ならびに小山、進藤、岡本、糟谷、河村らは、別段の手立てをした似せ物で、
事件以来忠義有り顔に功を見せ、危急の期に至って、約を変じ忠を忘れて退去した。死を惜しむ大
臆病大罪の奴ら、格別に嘲弄(ちょうろう)したい者である。こういう奴どもはいうにたらない。多川は御
家第一の武功者の筈、養子ともども卑怯の働きは言語に絶する。
批評は悪魔を明鏡で照らすように、魑魅魍魎(ちみもうりょう)を暴(あば)き出した。厳正公平な十内のこ
の言と、勇猛忠誠な横川、木村、神崎らの批評を合せて見れば、奥野、進藤、小山の輩は、いかに二の備
え論や再挙説を唱えて、天下後世を欺こうとしても、騙(だま)される者はいないだろう。
一二八 同 同
十内の手紙は佳境に入り、本題に移った。
一 上内の動きは直接知ることも出来ず、風の便りに聞く手づるしかない。月日を送るほどに心も緩み始
め、危いことである。この際思いきって忠志を天の照覧に托し、勝負を運の厚薄に任せて、思い立つ
よりほかないと衆議を重ねた。しかしその場限りの方法と人数で前後進退を論じてはならない。忠勇は
一同のものである。論も批判もいろいろあるだろうが、去年の春よりこの日まで、ことの成就に心底を労
してきたではないか。このために抜群の働きをし、骨を折った者は、原氏その人である。伝奏屋敷より
の世話、在所落居の節の取廻し、江戸へも往来し、江戸と上方の同志を叩き廻り、粉骨砕身して、至
義忠心を変えなかった。大阪に住みこの地区の同志の中心となった。また吉田忠左は、落城の節より
志を立て、当春より下向して多くの困難をしのぎ、勇み立つ在府の若い面々をあしらい、無事に最後
の時まで待ち受けた功績は、かねて大変に思っていたが、この地に到着して聞くと、さてさて感心する
ばかりであった。次には池久の山科の住居で都周辺の人々をまとめて密談を重ねた時、腹心として参
加したのは、進藤、小山たちと岡本と私であったのはご存じのとおりだが、その場になると皆退き、私
一人になったので、別に同志の者を集めて一緒に東下した。原氏は前よりの働きの上に、大阪に残り、
田舎へも通達し一方を采配した。吉田は春より在府して、これまで当地のことを采配してきた。私は在
京して、山科と合体して密事を相談していた。これらの人は、異論もあるとは思うが実に日夜身命をな
げうって尽した。このことは今さら言うこともなく、ご存知のことでしょうが、この際卑下自賛することなく
有り来たった事実を自他の差別なく申すまでです。この点をご了解いただくのが肝要と存じます。
ここに上内とあるのは、いうまでもなく上野介の内である。彼の警戒心は異常であるから、いかに偵察に
偵察を重ねても、詳しくは知ることが出来ない。人事を尽すのもこれ限りとし、この上は「忠志を天の照覧に
托し、勝負を運の厚薄に任せて、思い立つよりほかない」との決心、実に感嘆のほかはない。青山延光(え
んこう)はこれを訳して「吾輩心を義挙につくし、寝食を忘れる。そして仇家の動静は伝聞に過ぎない。これ
をもとに事を挙げるのは、もとより万全な策ではない。しかし遅疑逡巡(ちぎしゅんじゅん)して義気を失うよ
り、むしろ踊躍(ようやく)奮迅して死闘を決すべきである。成敗は天にまかせる。前年以来、東西を往復し、
難事を処理し、ついで大阪に隠れ、衆の信頼を得た者は、原氏以外にない。遠く江戸に来て艱難辛苦し、
志を少しも曲げず、多くの気鋭であっても忍ぶことができない年少者をよく統率し、好機まで待てたのは吉
田氏であった。京師では進藤、小山が有志をまとめて大石氏の腹心となったが、彼らは皆遁走(とんそう)
してしまった。そこで大石氏は一人で同盟を率いて東下した。つまり原氏は盟(ちかい)を大阪に結び、吉
田氏は衆を江戸に率(ひき)い、大石氏は義を京師に唱え、そして私もまた力を出して協力した。この数人
は同憂共患、志気は一であった。以上貴殿が知っているとおりであり、しかもまた貴殿のためにこれを一言
せざるを得ない」と。まことにうまく訳したものである。
一二九 同 同
十内の書は最後になった。
一 ここまで書いたところへ、玄達老より手紙が届いた。一、二通受け取り、まことに有り難い。貴殿の手
紙も拝見、ご無事は何よりです。玄達老は一人で留守番しているので暇がない由、ごもっともです。
一 こちらはまだ何事もありません。ご存知のとおり、在宅の実が知れた時はそれまでと、皆覚悟しており
ます。そのための支度もことごとく出来、その時を待ちうけております。世にある間は短いので各自心
底を砕いて、少しでもやりおおせておこうと心掛け、才覚しております。しかし十分に調うことはあるま
いと、みな覚悟しております。油断もたるみもないのですが、すべて思い通りに成就するとは、少々請
け合いがたくもあります。先頃、田中貞四郎、中村清右衛門、鈴田重八は書置きして退きました。江戸
者の中にも一人他出して、今だに帰りません。この類が今後も出るかどうか、神ならぬ身ではよくわか
りません。
一読一嘆である。この頃他出して今に帰らぬ一人とは、恐らく小山田庄左衛門であろう。
一 女どもには宿替えするよう勧められ、有難く思っております。かねてお願いした件、跡の様子、それ
相応に処置いただき有り難く、少し遠くはありますが、病などの用回りがありましたらお心添えをお頼み
申し上げます。貴老が世話をしてくだされば、人も情を感じてくれる種ともなりますので、お世話ながら
頼み奉ります。申すに及ばぬことですが。
理の尽きるところは、情の到るところ、一字一涙とは、これをいうのか。
一 京を離れて後、古い友どもに会わないので、何も聞いていないとのこと。それも当然、さぞ悪口のみと
察しております。
故友の悪口とは、言うまでもなく、奥野、進藤、小山、岡本らの蔭口を指すのである。義徒の憤慨を目に
見る思いがする。こんな狗鼠(くそ)連の再挙論や二の備え説などを、後世まで通過させてたまるか。
一 江戸に入ってから見聞きすることは、去年より粗略な事柄しかなく、何ごとも要領が知れず、京で書面
で見聞した以上のことはわからなかった。これもその器に当たる人がいなかったからだと、先非を悔い
るまでもなく、運命のせいだと諦(あきら)めております。この手紙は人が多くて、思うように書くことがで
きず、暇を見つけては書いたので、文の前後は判断して読んでいただきたく。
中の一通は家内へお届け下さい。これは女どもへやる手紙ですから、人をやる都合のないときは、雇っ
て使いを出されたく、とにかく早く渡してやってくださるようお願いいたします。
霜月十六日
十 内
玄 渓 様
これを読んで知ることが出来る。かの堀部安兵衛らの急進派は、いかにも勇猛にふるまったであろうが、
事を図ることは粗略で、とても人事を成就する器ではなかった。内蔵助、忠左衛門、十内らの統領たちが
深謀し自重したのは、実にそのためであったのである。
一三〇 大高源五 丁丑(ていちゅう)紀行
小野寺の一門が節義に富んだのは、義徒の中でも出色であった。一門の統領は十内秀和であるが、内
室の丹女もまた秀和の妻に恥じない烈女である。そうして十内の姉は大高氏に嫁いだが、この人もまた賢
夫人であった。その子は三人あり、長女は岡野金右衛門に嫁した。男子は二人、長は源五で、次は幸右
衛門、源五は長男であるから家を継いだ。大高源五忠雄(ただたけ)が彼である。次男は伯父と甥の間柄
で十内の養子となった小野寺幸右衛門秀富である。また岡野金右衛門に嫁した源五の姉は九十郎を生
んだ。父金右衛門の志を継いで第二の岡野金右衛門となり、包秀(かねひで)と称したのはこの九十郎で
ある。かの亡明の遺臣朱舜水は楠家の勤王を嘆称して「忠孝節義一門に集まる。ああ盛んなことよ」といっ
たが、小野寺一統に対してもこの評を加えることが出来る。
大高源五忠雄は、その人となり俊爽、気節に富み、かねて文雅の嗜(たしなみ)があった。まことに気品の
ある士であった。彼が打物(うちもの)を取って大剛の者であったことは、讐家に討入りの時薙刀(なぎなた)
を欺(あざむ)くほどの大太刀を振い、目覚ましい働きをしたのでも知れる。が、一面には茶事を好み、俳句
を喜んだ。句道にかけては水間沾徳(せんとく)に学び、俳名を子葉(しよう)と号した。これは沾徳が初め
沾葉と称したのに因んだのであるとの説がある。したがって彼は時の作家其角、沾洲、貞佐などと深く交わ
り、秀句を間々散見する。彼は二十石五人扶持を食して、中小姓から、膳番元、金(かね)奉行、腰物方な
どを勤めていた。
さて快挙に先だつこと六年前の元禄十年の秋、内匠頭長矩の帰国の供をして西上の途次、彼がものし
た紀行がある。題して『丁丑紀行』という。彼の人となりと詩想の一端を見るために、その全文を掲げ、この
道の人々に示す。
○
丁丑紀行
大高子葉記
七月九日の朝曇って涼しい。卯の刻(午前六時)に馬を進め、いきおい百里の空に向えば、例の誰彼が
門を送ってくれる。馬の上、舟の渡り、道すがらのことを何くれとこまやかに、心ざしを餞別にして、別れを
おしむ。いまさらのように江戸の名残が惜しく、
秋風の嬉し悲しきわかれかな
旅が珍しい心に、道のほども近く覚える。変わったこともなく戸塚に止宿する。十日の夜中より雨降る。藤
沢の遊行寺で、
上人のお留守久しや秋の雨
酒匂川が渡れないとて、大磯に止まる。鴫立(しぎたつ)沢へ立ち寄り、三千風(みちかぜ)を訪うたが留
守のため、庵(いおり)を守る者に申しおく。
合羽着て鴫立つ跡に迷いけり
十一日三島にやどりする。はたの茶屋にて各々餅など食べて、
朝霧に鮓(すし)の匂いのおぼつかな
さいの河原という波打際に小さな塔を組み、鼠尾萩(みそはぎ)のしおれた一もとに、古い土人形が二つ
三つ並べ置いてある。いかなるものが子を先き立てたかと哀れなり。
さもあらんさいの河原や盆の前
十二日興津(おきつ)に止宿し、申(さる)の刻(午後四時)さった山で村雨にあう。いさごが濡れわたるの
でとても涼しい。下の道を通るとて、
稲妻と走りぬけけり親しらず
十三日昼より雨降る。宇津の山で、
万人の笠の雫(しずく)か蔦の雨
入逢(いりあい)を過ぎる頃おい、金谷に至る。今宵は亡き人が来る日とて、旅店も物静かに設ける門火
(かどび)。
川越しもりんと帯(おび)して門火かな
十四日終日雨天。袋井の旅館に至り、御座所の設け何くれ取りつくろい、蘭の香遠くもっていく。かたわ
らの障子をはずせば、はれやかな庭の構え、異なる物好きもなく、ただ松、柏、もっこくのほかに蘇鉄、南
天のみである。石室(いしむろ)に盛りの蘭がある。あるじの心ばせ床しく、各々昼餉(ひるげ)する。盆の
初日で、もてなしも唐風である。
夕顔のさしみに蘭の匂いかな
見付の宿から登って半道ばかり東の方、大久保という村のはずれに清い池がある。池のかたちが丸いの
で丸池という。水の色は濃い緑で、露草の花の背景となって一段と濃く見える。立ちよって手にすくうと冷
やかさは醒が井に変わりない。
手拭に桔梗をしぼれ水の色
今日浜松に宿る。夜になると二、三十人ずつ打ちむれて、声のかぎり念仏をあげ、鉦太鼓を叩き、夜も
すがら踊り廻る。このような魂祭り、よそにもあるかと問えば、あるじは「三方が原の合戦の後、戦死の者ど
もをとぶらうため、東照宮より命を受け、今になっても年々続く」という。城主より警護など美しく手配され
ているとみえる。
聖霊(しょうれい)もうしろ見せぬや夕顔馬(うりのうま)
十五日朝降る。白須賀に休む。塩見坂をよじのぼり、右の方に富士山がまた見える。今一足二足行けば、
この山は見えなくなるといえば、
秋霧の富士もさらばよ塩見坂
十六日は夜より空晴れて、ほしの影きららかなり。赤坂の旅館を夜に出る。法竜(ほうりゅう)寺のあたりま
では、夜が明けるとも見えなかった。右の方に太鼓でもない大きな響きがする。同じ調子に聞えて不思
議だ。駕籠かきに聞くと鹿猿が畑を荒らすので追っているという。谷に大きな瓶(かめ)をふせて、山川に
車をしかけ、埋めた瓶の上を叩くという。
だまされて鹿の嗚く音(ね)ぞ哀れなる
十七日順風に海を渡る。七里をただ半時ばかりで渡った。
一三一 同 丁丑紀行続き
雁金(かりがね)も追いてに渡れ伊勢の海
桑名に休息する。今日はここの鎮守春日大明神の神事とて、家並に桟敷を構え、近隣の男女僧俗はい
やが上におし合い騒ぐ。宿のあるじも子供の祭りに出るといい、赤飯など沢山の馳走を作るという顔をし
ているので、祝儀をとらせた。祭礼は立派なもので、さすが王城から遠くないから、田舎めいた気配はな
い。この神事を「ひょうり」と呼ぶらしい。理由は、祭礼は本来八月十八日であるが、警固も威儀をただし
厳粛に行われるので、民衆は見物しにくかろうとの城主の計らいで、今日七月一七日に氏子が私に行う
ようになった。これを裏と名付け、八月十八日を表とする。それがいつか一般に「ひょうり」と呼ぶようにな
ったのである。
葛の葉の裏をまず見る神事かな
十八日日和よし。桑名を夜に出て、一里余りで朝日川をわたると、ようやく東の空が白けた。
百舌鳥(もず)鳴いてほのぼのあかし朝日川
大神宮への分かれ道である。餅を喰う。
追分(おいわけ)やまねきみだれる花薄(すすき)
十九日関の旅館を日の出にわかれ出た。山路なので馬を下りて行く。これより坂の下までの道すがら、
木のふり、山のたたずまい、風景は他に異なる。一の瀬という地に取り着く。右の深山を古法眼(こほうげ
ん)の筆捨山というよし。なるほどこの山の粧(よそお)いは神仙も留まる所とみえる。
どのような朱筆(しゅひつ)なりけん秋の山
鈴鹿の坂をのぼると、猪の鼻というところに山家がある。折からの秋雨で風もはげしく身にしみわたり、
猪のはなや早稲(わせ)のもまれる山嵐
蟹が坂、かにが石塔、幻のように見える。
二十日水口を出て、横田川を渡る。すでに東武を出て十余日、菅笠脚絆(きゃはん)も旅なれ、清らかな
石川を歩いて渡るにも用心しない、
さび鮎に柿の脚絆を横田川
粟津が原の義仲寺へ参り、芭蕉翁の塚に向う。いつしか四年の露霜(ろそう)を経て、秋の草しおれがち
に、しるしの芭蕉の葉も野分に破れている。水をかけ合掌すると、例のこころ涙こぼれる。西国の下手な
句を読む私を、尊霊はとがめ給うだろうかと、
こぼれるをゆるさせ給え萩の露
二十一日日和よし。大津を出て蝉丸の宮へ立ちよる。朝風梢に声して清々(すがすが)しい。
琵琶をすぐに関のわら屋の秋の風
これより行くこと二里ばかりで、深草の里に至る。
深草や粟も刈られて片鵜(かたうずら)
二十二日伏見の月が枕の西に白く照ったので、旅館を出た。ここから馬を継ぎかえたが、弱駒なので足
元をあやまって膝を折る。ただし千種のしげりに落ちたので、身はつつがなし。遍昭のことなど思い出さ
れて、前後をかえり見る。
よせひなる落馬なりけり女郎花(おみなえし)
川霧暗くたちこめて、
川霧やあくびばかりか淀の舟
二十三日郡山の宿を朝早く出る。西の宮をこえて一里ばかり進むと、右の山の端に、石の鳥居が見える。
猿丸太夫の宮である。偉大な人であったと今に思えば、口ごもって、
猿丸へ手向(たむ)け申さん木の実なり
二十四日兵庫を夜に出る。ようやく須磨のほとりで浪白く明けわたる。馬の上のねむりも覚めて、
目の覚める須磨の夜明や月も有り
一の谷の古戦場にて、
すさまじや海と山とに秋の声
明石の浦むげに詠み捨て、町を二町ばかり入り、右の方へ六、七丁行くと人丸塚がある。風雅のことなど
祈るついでに、
ながながし夜やなかんずく草枕
二十五日故郷の空が近くなり、朝風を受け馬蹄(ばてい)をすすめ急げば、迎えの誰彼に道々行き会う。
軽尻(かるじり)の素鞍(すぐら)に尾花打ち敷きぬ
鎗持も髭(ひげ)をつくろい、挟箱も肩を忘れて、十里の道を多葉粉(たばこ)ともいわず、まだ昼も浅い
時間に城門で柄袋(つかぶくろ)を外す。
―――――――
旅には公私がある。供の具を片付けて、仏閣の陰に一夜を明かし、あるいは立ちどまるところに、昔を想
い杖をひく旅ではあったが、句を詠みなぐさむのは難かしい。しかし役目を果たす合間に、山川人世の
境界をまのあたり見る句作の妙はうれしいことであった。ことに芭蕉翁の墓をたずねることができたのは、
俳人として深い感激であった。遠境から早く手紙を寄せ、私に見て来いと伝えてくれたのは、私をよく知
る子葉である。胡馬楚猿(こばそえん)の悲しみもなく、無事帰国の喜びをここに書き添える。
今頃は何(なに)にし秋の月夜数 沽徳
一五二
同 母の訓戒 初の東下
赤穂籠城の議が起ると、源五は弟の小野寺幸右衛門、甥の岡野九十郎とともに、身を挺(てい)して義
盟についた。母の貞立尼(ていりゅうに)はこれをみて深く喜び、
「このたびあなたたち親子兄弟叔父甥が揃って、日頃の国恩に報い奉られること、まことに一門の名誉
と存じます。それについて申し上げたいのは、この老母の身の上であります。女でこそあれ、奉公を思う
志は一つです。あなたたちは幸いに上は亡君に負(そむ)かず、下はご先祖を辱(はずかし)めないので、
母の私は満足このうえありません。私の行く末に心引かれ、忠義の心を曲げないよう、それのみを深く頼
みます」
と激励した。源五らの感激はいかばかりであったか。
これにより源五は一層その精神を励まし、誓ってかの讐(あだ)を倒す決心を固めた。彼はまた資性重厚
の人であり、将来原惣右衛門と主張を同じくし、京洛における急進派中の一領袖(りょうしゅう)となったのは、
老母の激励が預っている。
老母の訓戒はこのとおりである。それで昨年一たん開城の後、彼は母を赤穂に残して京都に出、一意復
讐のことのみに辛苦したが、その挙は一朝一夕に決行できることではないから、しばらく母を京都に呼びよ
せた。源五の至孝の心は、せめて暫時の間にも孝養を尽そうというのであったろう。
関東関西の同志の気脈を通ずるために、源五は内蔵助の訓令を受け、この年九月進藤源四郎と打ち連
れて、京郡を発し、十月八日に江戸に到着した。これより先、原惣右衛門も出府して江戸に滞在したが、大
高、原、堀部、奥田らの主張はみな快挙の速発にあるので、会を重ねるごとに意気ますます投合した。内
蔵助の出府を迎えて、明年三月の事挙げを決めさせたのは、これらの人々であった。こうして源五は江戸
にあること三か月、敵状の偵察、同志の協謀を重ね、十二月二十九日原惣右衛門について西上の途につ
き、翌年正月京都に帰った。思うに至誠の人は思想と行動を共通にする。源五もまた熱心な敬神家の一
人であった。それでこの帰途、原とともに伊勢の古廟に参拝し、志望の必達を祈願した。由来天地の間に
は神人相感の妙契がある。彼らの熱誠はこのとおり、神明もまた彼らの真心を受納されたのだと言いたい。
一三三 同 三島駅の珍事 源五の詫び証文
源五が初めて東下する途上の出来事であった。彼は三島の駅に差しかかるとたんに、過って馬子が引
いた荷馬を驚かせた。アッという間もなく、その馬子は源五の前に立ちふさがり、
「ヤイお侍、なんでこの国蔵が預った荷物を壊しゃがった。元のとおりにして返せばよし。さもないとこのま
ま通す訳には行かないぞ」
と無理難題を吹きつけた。それもそのはず、この国蔵は当時街道切ってのならず者、一度こいつに因縁を
付けられたが最後、ただでは済まない。源五はハタと当惑し、辞を低くして種々に詫びてみたが、詫びれ
ば詫びるほどますますつけ上り、なかなか承知しない。幸いここの駅長の世古六太夫の家は故内匠頭の
本陣であって、現に元禄十二年六月二十四日の内匠頭通行の際にも、源五は主君に従い一宿したところ
である。それで源五はここに仲裁を持ち込んだ。もとより本陣では源五を知っているから、これを聞いて気
の毒に思い、手代次郎右衛門を出して中間に立ち、様々に国蔵を慰めた。彼は始めて本音を出し、
「それなら一札詫び証を入れて、その上何とか趣意を立ててもらおうかい」
という。人々は源五が怒るかと思いのほか、平然として顔色を変えず、
「それはありがたい。さらば………」といいながら、
詫び入り申す一札の事
我らこのたび下向のところ、その方に対して不つつかの筋があり、馬付けの荷物を崩し、大いに迷惑を
かけた。よって本陣衆を通じて詫び入れ、酒代を差し出す。このとおり一札をいれる。
元禄十四年巳九月
大高源吾
国蔵どの
と走り書きに書いた。これに金二分を添え、国蔵に与えた後、人々に会釈して、悠然として去った。彼は当
時思惟したであろう「千釣の怒は軽鼠のために発せず」と。爽快な判断、実に学ぶべきではないか。
後に残った国蔵はかの士の寛大さに驚いたであろうが「酒代さえ取れば、詫び証などはどうでもいいや。
これはお前に預けるよ」といいながら、次郎右衛門のまえに詫び状を投げ出し、こやつもここを立ち去った。
この書は今も世古家に現存する。現在の主人を直道といい、明治二年までは三島駅にあって代々世古
六太夫と称し、同地の本陣を続けていた。今は沼津在に引き込んで、牛臥(うしぶせ)に住居する。
附言 大高源ゴのゴは数字の五が本当のようである。一挙の前、母に贈った有名な手紙にも源五と自署
し、泉岳寺の碑にもまた源五とある。しかるにこの詫び状には源吾とある。また相当の学問文字あった
この人が、損所とか壊所とかいうところに、積所と書いているのも少々変である。しかし当時の人は字
音さえ同じであれば、自家の名字でも必らずしも拘(こだ)わらない風があるから、源吾と書かないとも
限らない。のみならず書風はその人の性格に酷似する。竹添井々(たけぞえせいせい)翁はこれを評
して、
大高子葉の書一通。三島駅世古家に残る。横着(おうちゃく)者が来ても。激せず抗せず。辞(こと
ば)柔かく気和(なご)やか。百年前の彼の風采が思い浮かぶ。心底から敬意を表して数語を述べ
る。
主君の讐はいまだ果たせない。使命は太山より重い。毒虫や虻蚊が刺しても抗(あらが)うことがで
きない。酢を飲んでも忍の一字である。身を守るにも血気は使えない。これこそ真の勇である。荊軻
が柱を打てばいたずらに燕丹を怒らせる。予譲は衣を刺す。どちらも恩を返すに至らない。無智無
謀である。赤穂の四十七臣。仇を怠る振りをして。一挙に志を伸べる。苦節精忠鬼も泣き神も涙する。
といった。私はこれを引用して我が意を得た。ただし井々翁は歴史家でない。この言によって証文の
証にはならないが、とにかくここに掲げて、後考に供えておく。
なおこのほかに、世古家には元禄十二年六月二十四日同地を本陣として一宿した「浅野内匠頭様宿
割帳」が残っている。当時の一行は主従百余名、後に逃げた大野九郎兵衛を筆頭とし、義徒では片
岡源五右衛門、勝田新左衛門、大高源五、倉橋伝介、杉野十平次らの名もあって、珍らしいものであ
る。
事の因みにも一つ附言する。講談や浪花節のお箱に「神崎与五郎吾妻下り堪忍袋の一段」というもの
がある。それはやはり元禄十四年の九月に大石太夫から内命を受けて神崎与五郎が江戸に赴く途中、
箱根の峠茶屋で、馬喰(ばくろう)の丑五郎に強いられて詫び証文を与えたうえに、洒代五両を取らせ
たという話であるが、与五郎の関東下向は十五年の四月で、十四年中は播州にいたのである。これは
まったく前の源五の談を誤伝して、この人に付会したものとみえる。これについて、また一笑話がある。
故橋本綱常翁も上に掲げた源五の自筆証文を信ずる一人であるが、前年府下の名のある講談師ら
を呼びつけ、嘘を伝えるのは面白くない。以後は神崎与五郎を大高源五に改めたらよかろうと注意さ
れたので、講談師らは畏まって引き下り、仲間の会合を催して協議した。ところが神崎は義士の中でも、
余り話題に富まない人である。これに反して大高には挿話が多い。それで「堪忍袋の一段」はやはり
神崎に付けておこうじゃないかということに、評決したとのことである。講談や浪花節などは、マア大概
こんなものであろう。
一三四 同 彼の思慮
源五の主張は急進主義である。それだけに関東連の領袖堀部安兵衛らと意気投合し、帰京の後も絶え
ず文書を往復して、機会の促進につとめた。現に帰京の翌二月吉田忠左衛の江戸下向に関し、山科に会
議を開いた際にも、源五は原惣右衛門を助けて、一党総討入りの議を主張し、さすがの内蔵助もこれに同
意するほかなかったほどである。この点からみれば彼はいわゆる熱血主義の人であり、馬車馬的な壮士で
あるかのようだが、その裏に自から大局を明察し、大事を誤らないだけの識見と思慮をそなえていた。
江戸にいた武林唯七(ただしち)は憤怒激烈、もっとも短気の勇士である。関西連が自重して容易に事を
発しないのと、ことに内蔵助が一党の統領でありながら放蕩三味に正体もないのを見て、もはや堪忍でき
ず「自分が京洛に入って、急進派だけでも引き抜いて来る」と堀部安兵衛らに約束し、この春不破数右衛
門と同道して、まず大阪にある原惣右衛門を説いてみたが、惣右衛門はおいそれと応じないから、唯七は
憤慨に堪えない。「ならば大高源五を動かしてみよう。源五は必ず同意するであろう」と、やがて京都に出
て源五を訪れた。挨拶もそこそこに唯七は直ちに本題に入り、
「時に太夫の近頃の体たらくといい、その他の諸老たちのなまぬるさといい、しょせん大事をともにするよ
うには見えない。今日が今日までこんな人々に吊られて、空しく時を費したのが、いかにも心外千万であ
る。太夫なしでも何程のことがあろう。この上はお互いに思い詰めた同志のみで一挙をやりとげようでは
ないか。貴殿はよもや不同意ではあるまい」
と詰め寄った。源五は静かにこれに応じ、
「一挙が追々に遅延するのは、われらも心外に思うが、山科会議の席上で太夫が誓言されたこともあり、
この際太夫と別に軽々しく事を発するのは、同意できない」
という。唯七はこれを聴いて身を震わして憤激し、
「貴殿と拙者とは先君在世の時から君の左右に近侍し、朝夕互いに武を講じ、義を談じ、心知の親友とし
て相許した仲ではないか。余人は不同意でも貴君に限っては大同意と確信して参ったのに、さては貴
殿も太夫に魅せられ、祇園島原の花の香に忠義の魂を奪われたか。ああ人心は測り難い。前には高田
郡兵衛を出したが貴殿も第二の郡兵衛か。口にこそ時機の何のと言われるが、スワ鎌倉という場に臨ん
では、郡兵衛同様化の皮をあらわすのであろう。大腰抜けと知らず交わったのが口借しい。この歳月の
君恩と武士の面目とを思わないのか」
と、かつは罵(ののし)り、かつは泣き、刺違えようとする勢いであった。
同じ気早の侍なら「おのれ無礼な雑言!」と刀をぬいて応ずる場合であるが、源五は源五、自ら深く信ず
るところがある。彼は神色自若(しんしょくじじゃく)として、
「貴殿が先君の恩を一筋に思う高義から、このように邪推されるのも無理はないが、我らには我らの自信
がある。貴殿はまだ太夫との近づきが少ないため、太夫の決心を疑っておられるが、太夫は先君とは深
い由緒のある人で、身に文武の徳を兼ね備え、いかにも仁義の士である。統領に戴いて、決して間違い
ないと確信する。しばらく心を鎮めて時機を待たれよ」
と慰めつつ、そのまま自分の浪宅に留めおいた。
一三五 同 母に贈る手紙
武林唯七の意見は、堀部安兵衛の主張である。今の言葉でこれを評すれば、安兵衛はショービニズム
(熱烈主義)の巨魁である。それだけ内蔵助の自重をもどかしく思い、分離のうえ一挙を決行しようと、しきり
に迫って来た。だが源五はどこまでも内蔵助の力量と堅実とを透見しているから、安兵衛にも同様に応対
した。彼が二月三日付けで安兵衛に出した返事には、全体では早期実行に同意し、内蔵助が急に足を揚
げないのを難じながら、
「しかし太夫は最終目的を間違いなく覚悟されたと私は信じる。従ってこの問題から当分引き離れること
も分らなくもない。」
という。源五の源五たるところは、実にここにあった。
源五の沈着な全局の見通し、事をぶち壊さないこと、このとおりである。それで内蔵助も深くこの人を信用
した。この年八月に内蔵助が同志の向背を見極めるために、各自から出された盟約の神文を一旦返した
時、この使命を源五に命じたのも、このためであった。彼はこの同盟の淘汰試験のために播州にまで赴い
たらしい。それでこの際母の貞立尼を赤穂に送り届け、九月四日京都に取って返し、やがて関東に下向し
た。出発の前日、彼は長文の一書を草し、この日に至るまでの志業を述べて、永別の意を母に告げた。小
野寺十内が一挙の後、丹女に贈るところの書と、二大名文として天下に伝えられているから、ここにその全
文を掲げ、源五の忠烈と至孝を表彰する。
一 私が今度江戸へ下る思いは、かねて申し上げたとおりです。一筋に殿様のいきどおりを散じたてまつ
り、お家の恥辱をすすぎたいのです。かつは侍の道をも立て、忠のため命をすて、先祖の名をもあら
わしたいのです。もちろん大勢の家来があり、ご厚恩を受けた侍もあり、さして懇意に預からなかった
侍もあるので、この際忠をも思い、命も長らえて母上存命の間は孝養を尽すとしても、世のそしりは受
けないでしょう。しかし殿のお側近く奉公を勤め、尊顔を拝し、朝暮片時も忘れずお世話した方が、大
切な御身を捨て、忘れがたいお家を閉ざされたのです。うっぷんを晴らそうと思い詰めた相手を打ち
損じ、あまつさえ生涯を終えられたのは、運の尽きとはいいながら無念至極。その時の殿の心底を推し
測れば、骨髄に通って一日片時も心を休めることが出来ません。殿の短慮は、時節と所と、一方なら
ぬ不調法ゆえ、天下の憤(いきどお)り深く、お仕置きを命じられたので、我らの力が及ばないことでは
あり、天下を恨むわけではありませんので、お城は素直にお返ししたのです。これは天下に対する申し
訳けとして異義なくしたことです。しかし殿様は乱心されたのでもなく、上野介に意趣あって切り付けら
れたのだから、相手はまさしく敵(かたき)です。主人が命を捨てるほど憤った敵を安穏にさせておくの
は、昔からもろこしもこの国も、ともに武士の道にはないことです。それゆえ早速仇を打つべきところ、も
しも大学様の閉門がご免となり、殿様の御家が続き、上野介の方も何とか処分がつき、大学様が外聞
よく世間に出られるようになれば、殿様はこのようになっても御家は残ります。そうなれば我々は出家沙
門となり、または自害しても、殿様の憤りは安めることが出来ると、この節まで口惜しい月日を送ってき
ました。しかしそのかいなく、大学様は安芸国へ移りなされ、閉門ゆるすと名ばかりのことです。もっとも
年月過ぎれば、世に出られることもありましょうが、もしそうなったとしても、今の殿様のあとは絶えたの
です。この上前後を見合わせることは臆病者のするところ、武士の本意ではありません。この上は天下
に訴え、何とぞ相手方にも手当がくだり、大学様にも世間広く取立てられるよう、一命をかけて嘆願しよ
う。もし取上げてもらえなければ、その時は相手方へ討ち入りに訴えることと、この節しきりに相談して
おります。もっともこれは一理あるようでも、そんなことはなかなか出来ることではありません。その上、
お願いをしても取上げられないとき討ち入れば、天下を恨んだことになります。これはもってのほかのこ
とで、大学様はじめ御一門の方のためにもよくないことです。しかしただ一筋に殿様の恨みを晴らした
いと思うほかはないのです。
一三六 同 手紙の続き
一 上に申しあげたように、これは武士の道を立てて殿のあだをむくいる一事であり、天下に恨みを訴え
るわけではまったくないのです。しかし天下にうらみを申し上げたも同じとして、親や妻子に同罪のお
咎めがあるかもしれません。力およばず万一そうなったときは、かねての覚悟のとおり、上よりの下知に
素直に従ってください。早まって自ら命を落とさないように、くれぐれも心得てください。世の常の女の
ように、あれこれと歎き、おろかにふるまえば、気の毒なことと同情してはくれましょうが、常々の覚悟の
とおり思い切れば、けなげなことと褒めてくれるし、また今生の仕合せ、未来のよろこび、これに過ぎる
ものは何もありません。あっぱれ、われわれ兄弟は侍冥利に尽きると、本望に思います。
先々の我々の命は、期待しないでください。私三十一、幸右衛門二十七、九十郎二十三、いずれも
屈強の者です。たやすく本望をとげ、亡君の心をやすめ、未来のえんまの金札のみやげにそなえるの
で、ご心配なく。ただただお元気で何事も時節を待って過ごしてください。年令を重ね、末も心細い身
に頼りもなく、月日をお過ごしになることを思うと、とてもお気の毒で、力およばず申し訳ありません。時
にのぞんで主命にそむき、父母を思って山の奥、野の末に隠れ、また主君のために父母の命をも失う
こと、義というものの止みがたいためしであります。これらの道理に明るい母上ですから、筆に任せて申
し上げました。九十郎の母君、お千代へもよく聞かせ、かならずかならずおろかに悲しまないように、た
がいに力をあわせてお過ごしください。さいわいに母上はご法体の身ですから、この後いよいよもって、
仏のつとめをなされば、うさもつらさも、まぎれましょう。未来のこと朝暮にお忘れなく、世はおだやかで
すから、寺へも時々お参りなされば、ひとつには、歩行の養生にもなります。乳母にもあきらめるよう、よ
くおっしゃって下さい。かしこ。
元禄十五壬午(みずのえうま)年九月五日
大 高 源 五
母上様
情理兼ね備わり、忠孝二つながら見える。これを読んで泣かない者は、忠臣ではない。これを読んで涙
を流さない者は、孝子ではない。室鳩巣(むろきゅうそう)、赤松滄洲(そうしゅう)、青山佩弦斎(はいげんさ
い)の諸名家が皆競ってこれを訳出した。ことに鳩巣は一代の碩学能文をもって「われに左丘明(さきゅうめ
い)、太史公(たいしこう)の筆力がないので、原意を満足に伝えることができない」とまで言った。しかしさす
がは名家の筆、その訳文を並読すれば、一層忠雄(ただたけ)の大節を見るものがある。
一三七 同 上野介の茶会の探知
大高源吾は江戸に着いたのち、脇屋新兵衛と名を変え、南八町堀湊町に家を借りた片岡源五右衛門と
同居して、日々時期の到来を待っている間に、図らずも一つの好機が開けて来た。
当時在府の同盟堀部安兵衛と親しい羽倉斎(はぐらいつき)という神道家があって、三十間堀の材木町
の中島五郎作の裏店に住んでいた。彼もまた義を好んで、ひそかに義徒の快挙の必達を希望する一人で
あった。ある日安兵衛は彼を訪れると、彼は喜んで安兵衛を迎え、
「貴殿に告げるに耳寄りな話がある。ここの家主の五郎作はことのほかの好茶家(こうさか)で、四方庵(し
ほうあん)の門人中でも、やや人に知られた数奇者(すきもの)だ。時々師匠に連れられて羽林老の茶会
にも出席し、昵懇(じっこん)になっているということだ。貴殿の参考にもなると思ってお耳に入れる」
と知らせた。この四方庵は山田宗遍の雅号で、宗遍は閣老小笠原佐渡守の茶匠を勤め、世に聞えた茶の
博士である。上野介は茶を好むところから、自分のためにもまた左兵衛の師匠として、絶えず四方庵を邸
に招いていた。
安兵衛は大いに喜び、急いで統領内蔵助の許に馳けつけ、このことを告げると、内蔵助は手をうって、
「それはよい話だ。一党中に誰か茶道の心得ある者はなかったか」
と案じる。
「おりますとも、大高源五は亡君在世の時、折々殿の相手をしたほどでした」
というと、
「なるほど左様か、さらば源五にその道から羽林の所在を探らせよう」
とて、ただちに内訓は下された。天性俊敏な源五はこの任務を完うするため、髪を小銀杏(こいちょう)に結
い直し、衣服も改めて両刀を捨て、まったく町人の扮装をし、京都の富商呉服屋新兵衛と称して四方庵の
門を叩いた。入門料として金千疋をその前に出し、
「私、年来茶を嗜(たしな)みますので、少々は稽古しましたが、こちらに出まして、先生のご高名を承り、
ご指南を願いたいと存じ伺いました」
と申し入れた。服装といい言葉といい、かつはその風采といい、いかにも豪家の主人らしい。のみならず千
疋の入門料は当時にあっては稀(まれ)に見る贈物であるから、四方庵は得意満面で、ただちに一門の弟
子の一人に加えた。以後新兵衛の源五は宗匠を訪うごとに、種々の土産をもたらすので、宗匠は内々二
人とない好弟子と喜んだ。
十二月に入ったある日、源五は四方庵について、例によって茶の支度(したく)をしていると、四方山話
のなかで、「来る六日吉良様御茶会」との話題が出た。これは好機会とさりげなく聞いてみれば、「いかにも
その日取になっている」との答に、源五は急いで本部に報告した。統領内蔵助これを聞き「いよいよそれに
相違なければ、五日の晩に討ち入ろう。今一度間違いないか確かめよ」と命じた。源五は再び多方に探索
を試みると、彼の同族であろう、大高五郎作という者から、来たる五日は松平右京太夫の邸に将軍家がお
成りになるので、六日の吉良邸茶会は延期となったということが判明した。彼は更に四方庵によって実情を
手繰(たぐ)ろうと工夫を運(めぐ)らせた。
一三八 小野寺幸右衛門
源五はまた四方庵を訪れ、点茶の道を学びながら、それとなく鎌を掛けた。すると宗遍は、
「吉良様の茶会は去る六日の予定が、来たる十四日の晩に延期になった。同夜は年忘れの茶会で、大
友近江守なども客の一人である。私もそのご相伴に参るはずである」
と語り出た。この時源五の心臓は一時に鼓動したであろう。なにげない体(てい)でここを辞し、さらに数日
の後、一匹の縮緬を進物に携えて、またまた宗匠の家を訪れた。
「かねて私は当地で越年する積りでおりましたが、商用の都合で近々京都へ引き返すことになりました。
つきましては お名残に明十四日お別れの風味を一服頂戴したいものですが、ご都合は如何でござい
ましょうか。」
と他事なく願った。
「それは誠にお名残惜しい。が、先日も一寸お話し申した通り、生憎明夕は吉良様のお茶会、これへは
すでに参会の約束を伝えているので、その後ならば何時でもよろしい。ゆるゆる一服進じましょう」
と答えた。
「なるほどそうでした。先日も伺いましたようですね。それでは明後日お邪魔をいたしましょう」
と立ち出でて、そのまま内蔵助の本営に行き「敵はすでに掌中にある。一挙の決行明夕を失うべからず」と
告げ、議は立ちどころに決定した。
附言 一挙の前日、源五は讐家の光景を探るために、身を煤竹(すすたけ)売りに扮し、吉良家の長屋
長屋を売り歩いた。帰る道で竹を担いで両国橋に来掛った時、図らずも俳友宝井其角(きかく)に出
会った。其角は子葉の服装を見て、同情に耐えず、子葉を伴って酒店に入り、杯を交わしながら、
年の瀬や水の流れも人の身も
と一句をつくって子葉に示した。すると子葉はこれを受けてとっさに、
あした待たるるその宝船
と応じた。其角は子葉の志業を知らないので、今はこのように零落(れいらく)しているが、一夜明けれ
ば諸侯に抱えられて再び立身して見せるぞという抱負と誤解し、存外見下げた男であったとひそかに
軽蔑して、早々に別れを告げた。翌夜の大雪に子葉は他の義徒と共に邸を襲い。十五日の朝泉岳寺
へと引き揚げて行く、とは誰が思ったであろう。其角はそれを伝え聞いて「さては待たれた『あした』とは、
今朝のこの挙であったのか。それとも知らず、一世の名士を見損なったのは、一期(いちご)の不覚」と
書斎の裏から飛んで出で、後を慕ってこれに追い、前日内心に軽蔑した無礼を謝した。と『伊呂波文
庫』が伝えてから、一唱百和して、いかにも事実であったかのように言い触らす。面白いは面白いが、
あいにく同月二十日に其角が文隣に与えた書中には、この話は一語もない。のみならず十三日頃の
子葉は、呉服屋新兵衛で四方庵から十四日夜の吉良家茶会の実否を確かめている最中である。この
伝の虚構であることは論を待たない。
* * * * *
源五の弟幸右衛門秀富は叔父小野寺十内の養子となり、主家凶変の際には、まだ部屋住みであり家に
いた。養父の十内は自由主義の人であるから、今回の義挙に必ずしも幸右衛門まで引き連れようと思わな
い。それは前にも挙げたとおり、赤穂から細君に贈った書中に「幸右衛門はわれらとは違い、ご恩を受けて
いない者だから、その必要はなかろう」と申し送ったことでも知れる。が、幸右衛門には幸右衛門の思慮が
あった。「老父が身を挺して国難に赴くのに、その子が父を見棄てることはない」と、自から進んで同盟につ
いた。十内が京都に移ると彼も父に従って京に入り、兄と共に常に急進派の列中にあった。彼はまた源五
に似て天性鋭敏に事物を判断し、気転の利いた侍であった。九月二十四日大石主税らと共に江戸に下り、
仙北又助と変名した。最初は中村勘助らと同居したが後には父十内の寓居に移り、朝夕起居をともにした。
十内が丹女に贈った書中に、着物の綻(ほころ)びや破れなど、何時も幸右衛門が繕(つくろ)ってくれると
ある。いざ討入りという日には、家を破り敵を斬る役につき、父に侍しては、優しく針仕事にまで従事した。
孝子の貞情実に見事ではないか。
一三九 岡野金右衛門と九十郎 九十郎の初恋
岡野金右衛門包秀(かねひで)の家は二百石を領し、物頭の一人であった。父の金右衛門は大高源五
の姉を娶(めと)って、包秀を挙げた。包秀は初め九十郎と称していた。主家凶変の際、父金右衛門はなお
世にあり、九十郎は僅か二十二歳であった。父子ともに籠城論に同意し、いずれも義盟の列についた。開
城の後父子はともに赤穂を去り、江州の膳所に浪宅を持って隠れていた。同年十一月父金右衛門は不幸
にして病歿した。九十郎は悲憤胸に充ち、是非亡君の讐(あだ)を返し、合せて亡父の志を遂げようと誓い、
父の名を継ぎ金右衛門と称した。これが第二の金右衛門である。同族の統領小野寺十内、叔父大高源五
兄弟が京都に住むのを頼って、金右衛門は出京した。源五、幸右衛門らとともに急進派をもって目された。
金右衛門は年少でも、武芸をよくし、ことに槍術に通じて十文字槍の達人であった。彼はまた叔父の源五
に私淑するところがあったのか、俳句を好みこの道に精進した。源五の書中に、春帆(しゅんぱん)、竹原
(ちくげん)とともに義に赴くとある。春帆は富森助右衛門の号であるが、竹原は金右衛門のことであるらし
い。彼は閏(うるう)八月二十五日武林唯七らと共に江戸に着府し、家督相続以前の通称九十郎にもどっ
た。最初は叔父小野寺幸右衛門らと同居し、時機の到来を待ち受けていた。
この金右衛門包秀には、江戸において一つの艶聞がある。当時同志の一人神崎与五郎は小豆(あずき)
屋善兵衛と称し、吉良家にもっとも近い相生町三丁目に雑貨店を開業、吉良の家人とみれば、品物を安
売りして手懐(なず)け、讐家の偵察に努めていた。これは確かな事実である。だが、これから以下が作り話
である。
金右衛門の九十郎はやがて善兵衛の手代として小豆屋に住み込んだ。この頃日々吉良家から買物に
来る顧客の中に、家中の某の子守りをする年頃の少女があった。この少女は何時しか九十郎の好男子で
あるのに惚れこんで、足繁く通って来る。九十郎は都合がよいと思って少女に言い寄り、ついに割ない仲と
なり、事に托しては同家中の光景から番士の数などを問いただし、得るところが多かった。そのうち両人の
仲が進むにつれ、彼女はある剣客の娘で、今は叔父の大工の棟梁某に頼って居ることから、棟梁は吉良
家の来住以前から今の屋敷の建築を受け負い、その縁故から彼女も家中に奉公するようになったことまで
を、仔細に話した。九十郎喜んでますます彼女と睦み、果ては棟梁にもその意を通じて夫婦の約束をし、
折々棟梁の許へも訪れた。そしてついに婿引き出に吉良家の屋敷絵図を請い受けた。のみならず、十二
月十四日の茶会後には同月十九日の節分にまたまた茶会があり、その上ご隠居様は当分ここを引き揚げ
て、麻布の上杉侯別邸に引き移ることまで、彼女によって知ることが出来た。これを一々内蔵助に報告した
が、その報告はことごとく大高源五、大石三平、横川勘平らの報告と一致するので、内蔵助は深く九十郎
の働きをほめ、同時に金十両を出して、彼女に取らせるよう九十郎に授けて、余所ながら二人を別れさせ
た。九十郎はやがて彼女に対し、近々暇を貰い二人世帯を持つ積りだからまずこの金を渡しておくといっ
て、辞退する彼女に強いて取らせた。彼女はうれしさ限りなく、その日を待ち焦れている間に、空前絶後の
快挙が起り、意中の恋人が快挙中の豪傑であったのに驚天したというのである。
この話は江戸の伝説で、『伊呂波文庫』と同じく『一夕(いっせき)話』にも載る。講談や、浪花節では「岡
野金右衛門絵図面取りの一段」と名づけ、最も得意の一話である。仔細に検討すると、辻つまの合わない
ことが多く、意に任せて作った話だとわかる。おまけに神崎与五郎の小豆屋善兵術の店も、杉野十平次や
九郎右衛門の道場も混同して滅茶苦茶である。『一夕話』の作者山崎美成(びせい)すら少々おかしく思っ
たとみえ「この一条疑いがないではないが、児女子の目を喜ばせる」と逃げたくらいであるから、無論まとも
な史家は採らない。しかし私は面白いものを発見した。義徒のうちで神崎与五郎則休(のりやす)は歌人の
一人であるだけ、割合に遺詠が多い。その遺詠のうちに、この年十月の作と覚(おぼ)しい歌に、
同志の者の恋初と見て「時雨」を
神無月しぐれる風は越ゆるとも、同じ色なるすゑの松山
と詠(よ)んでいる。思うに則休が同居した前原伊助宗房は学者の上に四十男、手代に来た倉橋伝介武幸
は三十三の分別盛り、同志の侍中初恋を歌われたのは、誰だろうかと考えれば、恐らく岡野包秀であろう。
由来神崎は磊落(らいらく)な人であったから、朝夕同居する包秀の初恋にものの哀れを催して、時はまさ
に神無月、時雨の雨を誘って来た恋風は、あちらこちらから吹いてくるが、末の松山は変ることなく色は一
つである。不憫(ふびん)な児よと涙眼にほほえんで、こう詠んだものと見える。火のないところに煙は立た
ないという江戸の伝説も、何らかの根拠はあろう。ただその恋が八代集の中の恋の部にもない「有所為恋
(ためにするこい)」であったかなかったか、これによって吉良邸の絵図面を得たか得なかったかは、問うと
ころでない。二十二歳の青年は初恋に余り複雑な心配りまではしなかったであろう。その初恋に物のあわ
れを知り初めながら、大義のためには、美人もあらず、恋愛もあらず、手に十文字槍を引きしごいてまっしぐ
らに駆け入った岡野金右衛門包秀は、我が意を得た好漢である。
一四〇 間瀬久太夫と孫九郎
小野寺一統は十内父子、源五および金右衛門父子のみに止まらない。間瀬久太夫正明(まさあきら)と
子の孫九郎も同族であった。つまり久太夫は小野寺十内の従弟である。同時に中村勘助の叔父である。
久太夫は内匠頭長矩に仕えて、大目付を勤め、二百石を食していた。凶変が起きた時、彼は六十一歳
であったが、奮って義盟の列についた。すでに赤穂を去って京洛に住み、医者と触れ込んだ。この際一言
しておくことがある。いずれの時、いずれの代でも、良い機会や派手な場所に行き当った人は歴史上に有
名となるが、そうでない人は多くは知られない。そして一等の士はまま知られない役回りに当るものである。
近くは維新中興の際、諸藩から中央に出て有名になった人々は、むしろ二流三流に多く、一藩の重用す
る人物は、縁の下の力持ちに終る場合が多い。問瀬久太夫もその一人らしい。というのは、当時の大目付
は大監察である。この大監察は一藩全体が畏敬する侍でなければ、任命できないのである。その大目付
を勤めていた一事でも、彼の人物が想像できる。派手な場に立たなかったので、義士中にも余り多く人の
口に上らない。しかし京都にあっても江戸においても、内蔵助が密議に参与させたのは、吉田、原、老小
野寺三士のほかは、この間瀬一人であった。それは前にも挙げたとおり、内蔵助が京都伏見の揚屋で催し
た元老会議にもその名が上がり、いざ京都出発という前に、内蔵助が彼に与えた手紙の中に「少々貴殿に
聞きたいことあり、お手空きであればお待ちしております」などと見えるのでも察せられる。内蔵助は子息主
税を先だって江戸に下すとき、久太夫を随行者に依頼したのである。九兵衛は一行の長老として九月二
十四日江戸に着府し、医師三橋浄貞と称した。仮寓(かぐう)を麹町四丁目におき、時々本営の機務に参
与していた。
子息の孫九郎正辰(まさとき)は主家凶変の際、まだ二十一歳で、部屋住みであった。それで最初の会
議までは控えていたが、老父が義盟につき領袖の一人として尽力するのを見て、躊躇せず自から進んで
神文に血を注ぎ、父に従って京都に移った。一挙決行の議決後早く江戸に出て、三橋小一郎と変称した。
父と同居し、日夜偵察の要務に従事した。これで小野寺家の一党からは、小野寺父子、岡野父子、間瀬
父子および大高と都合七人まで身命を国難に供したことになる。揃いも揃った名門ではないか。
一四一 間喜兵衛、十次郎と新六
義盟中間瀬久太夫の性行によく似ていたのは、間喜兵衛光延であろうか。喜兵衛の先祖は、近江の名
族蒲生氏から出た。彼の父左兵衛はゆえあって人を殺し、仇を避けて赤穂に来た。時の藩侯内匠頭長直
はその才能を惜しんで扶持を与えた。以来この藩に留まり、喜兵衛の代には長矩侯に仕えて百石を食し、
馬廻を勤めた。喜兵衛は人となり謹直で、極めて寡言(かごん)であったから、そのまま人に対すれば木強
漢(ぼっきょうかん)のように見えた。しかしその裏に毅然として犯すことのできない節があった。凶変が発し
た時、彼はすでに六十七歳の老齢であったにもかかわらず、城中に入って義盟についた。彼は原惣右衛
門、堀部弥兵衛らと同じく、老成をもって同志から尊敬を受けたのでも知れる。今年十月京都に置かれた
一党の参謀部が江戸に移動するとき、同時に原、岡島、貝賀らと同行した。同月十七日江戸に着府し、杣
荘喜斎(そましょうきさい)と称し浪人また医者だと触れ込んだ。一党になぜか藪医匙庵が多いのも面白い。
* * * * *
「老父すら義に赴くのに、私が父に劣るわけにいかない」とは、その長子十次郎光興(みつおき)の忠志
である。これまた父に従って、籠城論以来去就を共にした。時に彼は二十四歳であった。その人また文武
の士であったろうと思われる。当時海内第一の剣客堀内源太左衛門正春の門人となり、かねて一代の名
流細井広沢(こうたく)の友人であったことでも知れる。赤穂退去の後、父子共に京畿にあったらしい。それ
はいざという日に、いずれも京都から出発したので推測することができる。彼は父に先だつこと一か月、千
馬三郎兵衛らとともに、九月七日江戸に下って来た。姓のみ父と同じく変称して、杣荘十次郎と名乗った
が、偵察任務の都合によっては柚荘伴七、または町人重助などと触れ込んだこともあったという。彼の広沢
との交りについては、後に討入りの夜、彼が奇功を立てる場合に詳説しよう。
* * * * *
次男の新六光風(みつかぜ)は幼少のとき同藩士里村津右衛門の養子となったが、とかく一家の折合が
わるいので、新六は意を決して出奔した。それもそのはずである。この津右衛門は百五十石を領し、舟奉
行を勤めていて、当初は義盟の列についたが、たちまち変節したくらいの人物であるから、日頃新六の意
に満たなかったものと察せられる。といって実父の喜兵衛は藩中に聞えた謹直家であるから、一度養子に
やった以上、本家への復帰は容易に承知しない。それで新六は出奔して江戸に出、秋元但馬守の家臣
中堂(ちゅうどう)又助に頼って、この家の食客となっていた。したがって主家凶変の際には、その身は赤穂
になかった。
この時新六わずかに二十二歳であった。父兄がともに義盟に入り、亡君の讐を返すと聞き、百里の難に
向おうと決めたが、離藩の身ではかなわない。それでしばしば内蔵助に嘆願して、ついに盟約中に入った
のである。
父兄が江戸に着く前に中堂の家を辞し、新麹町四丁目裏の父兄の寓居に住み、姓は一様に変えて杣
荘新六で通用したが、若手は若手だけに偵察の任が多いから、時には松屋新介などと触れ込んだというこ
とである。
義徒の変姓変名をみると、それぞれ拠(よ)り所がある。母方の姓を仮称して池田と称する大石内蔵助が
あれば、先祖の出生地にちなんで仙北と称する小野寺父子もある。これらは同族的もしくは歴史的仮称と
いおうか。間はつまり峡谷だから、もしその峡谷に里落ちすれば杣の荘である。匙庵の喜斎老はこれを思
い、杣荘と称したとみえる。これは文学的変称とでもいおうか。とにもかくにも七十になる老翁から、青衿の
壮年まで父子三人、袂を連ねて謹王いや殉難に赴く。壮といわないで何といおう。
一四二 潮田(うしおだ)又之丞
潮田又之丞高教(たかのり)の家は、代々赤穂の藩士であった。又之丞が故内匠頭に仕えて馬回りに列
し、二百石を食して、国絵図奉行と加東加西両郡の郡奉行を兼務した。又之丞はつとに大石内蔵助、同
瀬左衛門と共に讃州高松の豪傑奥村無我に師事して剣を学び、久しくその家塾に寓居していた。したが
って内蔵助とはもっとも親しい間柄であった。国難が発すると同時に、身を挺(てい)して同盟に加わり、絶
えず内蔵助と一致の行動を取った。赤穂退散の日家族を北条村の黒金屋某の許に托し、単身京都に出
て一挙の進行に尽した。
それだけ彼は内蔵助に信頼され、同年九月原惣右衛門らと江戸に下って、関東連と大事を図った。つ
いで内蔵助に従って帰洛し、依然京洛の間に留まった。この頃から彼は大高らと共に遥かに江戸連と意気
を通じ、一党中にあってむしろ急進派に属し、内蔵助が自重して容易に動かないのをもどかしがり、分離し
て事を挙げる計画を立てるに至った。忠勇のほど察するに余りありだ。今年七月大学氏左遷の報が京都に
達したので、形勢は一時に変化した。同月二十八日の円山会議でいよいよ一挙断行が決定したので、又
之丞はまたまた内蔵助の内訓を携えて、当時上京していた堀部安兵衛と共に再び関東に下向した。二人
が大学氏芸州下りの一行に出会ったのは、この途上のことである。
又之丞は八月十二日に江戸に着府したが、今回の使命は一挙の成否に関することであるから、もっとも
秘密の協議を要する。あたかも時は仲秋明月の頃である。万事に老練な東の統領吉田忠左衛門は観月と
称して遊船二艘を用意し、金竜山畔の隅田川にもやい、同志中の向背(こうはい)がまだ決まらない者を除
き、純忠精義の士のみを選んで船に招いた。昼から舟を漕ぎ出し、吾妻、両国、永代をくぐれば月は品川
の波際に上って、大川一帯に金波が砕ける。彼処此処に船を停めて、かつ賞しかつ歌い、杯を挙げて興
趣に余念がないとは、一艘に移された水主(かこ)船頭輩の胸。この間に叉之丞は訓令を伝え、諸士は首
を集めて思いをこらし、驚天動地の策謀を協議しつつ、余所目には興味漸く尽きると見える頃、船を芝浦
から赤羽橋の許に着けて、この日の秘密会議を終えた。
先に京都の円山会議で一党の大方針を確定し、今は隅田の船中会議で方面の討入り戦略は議定され
たのである。同志の踊躍(ようやく)想うべしだ。その後又之丞は数日滞在して、敵味方の状況を視察し、今
回は吉田忠左衛門から差し添えられた近松勘六を伴って同月十七日江戸を立ち去り、月の下旬に帰京し
て、使命の完遂を内蔵助に復命した。
一四三 同 三味保童円の伝授
又之丞は江戸から帰ってもまったく時間を空費しない。その月すなわち八月播州に下り、北条村にいた
家族のために後事を処理し、今は心に懸かることもなしとただちに京都に戻り、今回は近松勘六らと内蔵
助父子の京都四条の道場に入った。
この東奔西走中に一つの佳話がある。彼は堂々たる武夫(もののふ)であるにも関わらず、日頃から医
事に通じ、三味保童円(みほどうえん)の秘方を知っていた。先君在世の頃、ある時彼は公用で管内の穂
積(ほづみ)村に滞在していたことがある。その際同地の医家田中道的(どうてき)という人と親しくなり、互
いに心を許す関係になった。道的は又之丞に「貴家の秘方三味保童円の製法を私に伝授下されないか」
と懇請した。叉之丞もとより利慾にこだわらない人である。「ほかならぬ貴殿の依頼だから、そのうち機会が
あれば伝授しよう」と約束した。その後国難となり又之丞は赤穂を去り、以後東西に奔走して席の温まるい
とまもない。それで前の約束はそのままになっていた。だが、今年八月寸暇を盗んで家事の処理に帰国し
たとき、長文の手紙を書いて田中道的に送った。道的は急いでそれを見ると、長い不在の挨拶の後、三味
保童円の製法が詳細に記してあり、「約束の処方はこのとおりである。よろしく会得下されたい」と結んであ
った。その五か月後に快挙は発し、また三か月のちに自尽を賜い、潮田又之丞高教は高輪の細川邸で切
腹した。田中道的はこれを聞いて胸を打って慟哭(どうこく)し「君が北条を見舞った際、仰いでは老衰の慈
母を憂い、伏しては気の毒な妻子を思い、その胸の中はいかがであったろう。にも関わらず、昔日の約束
を忘れず、かの薬方を授けるとは何という忠実さであろうか。事に幹(かん)たる大丈夫とは、君のことをいう
のであろう」と、その書を掛物とし、清酒を供えて拝みかつ泣いたということである。その後道的の子昌伯の
求めにより、梁川星巌は「潮田高教氏手簡記」を作った。その中に「諾を諾とする、ゆえに必ず実行する。
あるいはしばらく実行が遅れるとしても、心中にその言を忘れない。これを朋友信ありという。人の五倫の道
はただ一つ。交友に厚く、君臣の義を知ることである。この二者を貫徹するため平生の言を忘れず、大節
に臨んで責を果す。私は潮田高教氏においてこれを見る」とある。
又之丞は近松、菅谷(すがのや)、早水、三村らと内蔵助を護って、十一月五日三たび江戸に出た。以
後原田斧右衛門と変称して石町三丁目の本営に同居し、おもむろに時機の到来を待った。思うに彼は勇
猛、忠実、慎重、寛厚を兼ね備えていた。その勇猛は彼が急進派に属したので知れ、その忠実は知友を
欺かないので分る。そして江戸での行動をみれば慎重であり、最後の場面で度量の寛厚さは事物に触れ
て発露した。内蔵助の部下、それぞれ何と多彩であったことか。
一四四 大右瀬左衛門
大石瀬左衛門信清は大石孫四郎の弟で、内匠頭に仕えて馬廻を勤め、百五十石を食していた。彼が
内蔵助の同族であったのは、一挙の前に内蔵助が小野寺氏の妻丹女に与えた手紙の中に「われら一家
は大腰抜けどもばかりで、残るはわれら父子、同名の瀬左衛門ばかり」とあるのでも知れる。彼は実に内蔵
助の族弟であった。彼は年少の頃から武を好み、族長の内蔵助および潮田又之丞と同じく、讃州高松に
住む東軍流の豪傑、奥村権左衛門無我に剣を学び、面目ある武夫となった。高松の友人に聞くと、同市
八幡の馬場というところに無我の旧居の跡がある。そして又之丞、瀬左衛門らの逸話は、今もここに残ると
いう。
さて凶変の際、彼は江戸の邸にいたが、内匠頭は田村右京太夫へお預けの上切腹との公命が下ると、
即夜原惣右衛門とともに第二回の報告使として駅伝を馳せ、五夜を出ず赤穂に到着した。以来赤穂に留
まって同盟に列し、一に内蔵助と進退を共にした。本城開散となったので、兄孫四郎と老母ならびに姉妹
を連れて、京都に出、河原町に居を定めた。そして常に山科を助けて行動した。今年の秋に入って快挙断
行の議が決まり、いざ東下という場合に兄の孫四郎は孝養説を唱えて、東行を躊躇しはじめた。時に瀬左
衛門は二十六歳、まだ一青年であったが、私情のために公義を忘れず「兄上は留まって孝養を続けるなら、
兄は兄上の志を行われよ。自分は一死君国に報じ、武門の本分を立てる」と毅然(きぜん)として節義を保
った。内蔵助の名代として九月二十四日一行と共に江戸に先発した。江戸では石町三丁目の本営に同居
し、時に小田権六などと変称して、仇家の偵察に苦心した。
一家に忠義の士を出せば、九族の醜まで覆うに足る。兄の孫四郎は、孝心は孝心であったが、背盟逃
脱の徒であることは免がれない。にもかかわらず、早くから兄弟でくじを引いて決めたなどの説もあり、同じ
背盟者中にありながら、後世に至るまで、孫四郎の背盟をそんなに言議する者がないのは、全く瀬左衛門
のきわだった忠義のお蔭である。これと同時に瀬左衛門がいかに毅然とした存在であったかは、人々の理
会で知れる。人生二十五、六といえば、まだまだ青春の若殿ではないか。しかるに大石瀬左衛門信清と聞
けば、何人も彼を熟年の大丈夫と考え、それが二十五、六の一青年であったことに想い到る者がない。こ
れを見て私は天下の青年に希望する。自からコンマ以上の人になろうと予期する者は、強固な志操の涵
養に、全力を注がなければならない。
一四五 近松勘六
浅野内匠頭長矩の代には、二百五十石を食する者が藩士中に六人ほどある。いずれもかの十人衆の
子孫であった。だが時代の変遷は、かつての武勇の家筋も浮世の風に誘われて身支度に余念を欠く。そ
の中で兄弟二人が家声を落さず、身を挺して義盟についた人がある。兄は近松勘六行重(ゆきしげ)、弟
は奥川孫太夫の養子となった奥川沢右衛門行高(ゆきたか)である。
近松勘六行重の家は近江の蛭田(ひるた)から出た。前に講じた通り、その祖は浅野弾正少弼長政に仕
えて三百五十石を食し、家世をかさねて勘六に至った。勘六はさすがに家声を落さず、つとに兵法を好ん
で身を立てた。彼は故内匠頭に仕えて馬廻に列し、忠勤を励みつつあったが、国難以来憤激して義盟に
つき、同志と共に名節を貫いた。
彼の家はさすがに名門だけに、勘六の代まで本国蛭田になお田地家屋を有したので、赤穂退去の後、
暫くこの祖先の旧里に帰って隠棲していたが、心にはすで決するところがあって、ある日親族朋友を家に
呼び、田宅什器一切を挙げてこれらの人々に分け与え、故郷を離れた。彼が無慾で物にこだわらない性
質は、この一事のみで察することが出来る。
今年二月、山科会議の結果、関西同志の代表者二名を関東に派遣することになった時、彼は吉田忠左
衛門と共に選ばれた。彼が有為の資質をもっていたのも、これでわかる。吉田は兵法家であり、近松もまた
兵法家である。二人の間には意気投合するものがあっただろう。吉田はやがて篠崎太郎兵衛、近松は森
清介(せいすけ)と変称して江戸に下り、敵情の偵察、同志の糾合に従事した。統領内蔵助の意志が決ま
り、八月潮田又之丞を江戸に下して、内訓を吉田以下の同志に伝えたので、同月勘六は忠左衛門と相談
し、江戸の近情を報告するため、又之丞とともに京都に向った。そのまま内蔵助の四条の道場に足を留め、
十月七日に内蔵助の一行に加わって、京都を発し江戸に再び到着した。これより先、吉田忠左衛門は新
麹町六丁目に一戸を構え、兵学者川田一真と変称して住んでいたので、勘六もまたこれに加わり田口三
介と称していたが、このたび下向して来た後は、石町三丁目の本営に大石父子と同居し、名も三浦十右衛
門と改称し、勉めて世の指目を避けた。
附言 鳩巣の『義人録』に、勘六の母が討入りの前日自刃して節に死し、我が子勘六の忠義を激励した
一節がある。これは、原惣右衛門元辰の母堂の自殺を誤り伝え、それをそのまま筆にしたものである。
当時は通信と報道との便を欠いた時代だけに、これらの誤伝が非常に多い。近松から節母を取り去
るわけで心苦しいが、代りに同じ『義人録』に片岡源五右衛門の家来として義僕元助のことを記した。
しかしこれは近松勘六の義僕甚三郎の誤伝である。これに関しては別にその伝を述べよう。
一四六 菅谷半之丞
大阪の役で、浅野采女正長重の家臣の中に、敵の首を取った者が二十余人あった。その一人に菅谷
(すがのや)喜兵衛という侍がある。この人が菅谷半之丞政利の祖先と思われる。半之丞は内匠頭に仕え
て馬廻兼代官となり、百石を食していた。凶変以来同盟の一人となり、最後に内蔵助の東下に従って、江
戸に来た。石町二丁目の本営に近松勘六らと同居したが、一戸に十余名は人目に立つ不便でもあったろ
う。それで前に挙げた谷中の入口長福寺にある近松の弟文良に頼って、ここに居たこともあったが、文良も
また有心の人で、極めて親切に半之丞を待遇した。彼は、時に町人政右衛門などと号して敵情偵察の任
務につき、心力を傾注していた。一挙の後に堀内伝右衛門が長福寺に勘六の忠僕甚三郎を訪れて、文
良を見舞った。室内にはなお「菅谷半之丞」と札の付いた葛籠(つづら)などが残っていたという。
附言 半之丞は当世に稀な美少年と伝えられ、つとに内匠頭の小姓に召し出されていた。十九歳の時
であった。父半兵衛が、年若い後妻を入れた。するとその婦人が何時か半之丞を恋し、人知れずうる
さく言い寄った。半之丞は呆れて家に帰らず、多くは宿直し、または友の家などを頼って日を送った。
継母はこれを見て、可愛さ余って憎さが百倍し、自分の不行跡を覆うために、種々に半兵衛に讒訴
(ざんそ)したので、父も漸く彼を疎んじ出し、果ては勘当しそうになった。内匠頭が何時かこれを聞き
知り、半之丞に内諭して脱走させた。その間に二十年の星霜を経過し、故主の家の凶変となったの
で、半之丞ははるばる江戸から帰国し、種々内蔵助に請うて同盟徒中の人となったという。しかしこの
説の出所は確かではない。こんな妄談を信用できない理由がいくつかある。第一、二十年間も出国し
ていた者なら、たとえ赤穂籠城会議の日帰参して籠城、殉死の同盟につきたいと求めても、内蔵助が
許可しないことは、岡野治太夫以下五人の願いを斥(しりぞ)けたのでも分明であろう。しかし彼は最
初の同盟の際から、その一員に列しているのである。
次に、彼が切腹前、幕府に提出した親類書の写しが、今も現に彼がお預けになった久松家にある。
それを見ると 「祖父平兵衛、父もまた平兵衛」とあって、名から違う上に「父平兵衛、浅野内匠頭家
来、十年以前死亡」とある。十年以前に父が死んでいるのに、その子が逐天(ちくてん)のままであ
れば、菅谷家はとっくの昔に断絶しているはずである。しかるに『赤穂分限帳』によれば、「菅谷半
之丞、知行百石、馬廻兼代官」とはっきり載せてある。それで彼が凶変当時立派に赤穂で勤続して
いたことが知れるであろう。捏造(ねつぞう)者の説が取るに足らないのは、おおむね皆この類であ
る。これだから俗書は閉口だ。
一四七 不破数右衛門
赤穂籠城の風聞が四方に伝播した際であった。各々肩に鎧櫃(よろいびつ)を担(かつ)ぎ、内蔵助のも
とに駆けつけて、「このたびは籠城と承(うけたまわ)り、一同伴って馳せ参じた。何とぞ人数に加えていた
だき、一方の口を預りとうござる」と申し出た五人の浪士があった。これらはいずれも久しい前に国を離れた
者である。そのうちの一人に岡野治太夫(じだゆう)という勇士があった。不破数右衛門正種(まさたね)は
その子である。彼はつとに不破家の養子となり、内匠頭に仕えて百石を食し、馬廻に列し兼て浜辺奉行を
勤めていた。彼は人となり豪放で勇武もまた同輩を超え、一向に小事にこだわらない。しかも大野九郎兵
衛が役を利用して利を得るのを憎み、日頃から仲が悪かった。凶変に先だつこと五、六年前のことであっ
た。彼は三箇の失態を犯したと罪をかぶって、百日の閉門を申し付けられた。その第一条は平生据物(す
えもの)を切り、また死体を発掘して試物にしたこと。第二条は勤務を疎略にし、同僚との折合いが悪いこと。
第三条は平素勝手向不如意と申し立てながら、多くの人を集め、酒を振舞い、囃子をして騒ぎ、無礼極ま
ることというにある。多くは大野の讒言(ざんげん)が加わっていたのであろうが、専制時代の君命であるか
ら、何とすることも出来ない。数右衛門は百日間家に閉じ籠って謹慎した後、久し振りに藩庁に出勤した。
根が剛直の士であるから、恐れ入ってばかりはいない。彼は上官……おそらく大野であったろう……に向
って遠慮なく「このたびおとがめの第一条は内々我が刀の切れ味を試そうとしたことで、重々恐れ入ります
が、その他の二か条は数右衛門迷惑に存じます」とて、大いに抗議した。すると、その抗議に尾鰭を添え、
おまけに彼が家僕を手討ちにしたことまでを加えて、内匠頭に讒訴した。内匠頭は大いに怒り、主命に反
抗するけしからぬ奴というので永の暇(いとま)となった。
数右衛門はやむをえず、赤穂を立ち去り、江戸に出て浪人した。だが元来事ここに至ったのは、九郎兵
衛らの陥計の結果であるから、少しも主君を怨(うら)まず、何日か心も和らぎ、帰参の日を念じて待ってい
た。そこに主家の凶変である。国破れ主亡びる不幸に際会した彼は、胸を打って痛嘆し、鬱屈(うっくつ)と
して日を送っていた。ある日道で磯貝十郎左衛門に会った。
「これはお珍しい」
「これはお久し振りに」
とたがいに久潤(きゅうかつ)の情から、亡国の感慨までを談じ合った。十郎左衛門はやがて往事を追懐し、
「貴殿ご退身の後、先君には追々貴殿が多く無実のとがめを受けたことを覚られ、折々貴殿がその後どう
しているかと、しみじみ貴殿を惜しんでおられた。やがては帰参のお喜びもあろうと思っていたが、思え
ば一場の夢でござった」
と語った。数右衛門はこれを聴いてしきりに感激し、
「さほどまで私を心に懸けておられたか。久しく浪人こそしているが、主のご恩は一日も忘れていない。
勘気を蒙ったままの身の上であるからとお墓にも参拝しかね、遺憾ながら今も差し控えている。心情お察
し下され」
と述べた。十郎左衛門は打ち返し、
「先君の心はただいま申したとおりだから、決して遠慮には及ばない。これから同道しよう」
とて、そのまま相伴って泉岳寺に詣で、冷光院殿の墓に参拝した。数右衛門は今更ながら亡君の無念を
想いやり、悲憤の涙を雨とそそいだ。十郎左衛門はつくづくその状を察して、一党の秘衷を告げた。この時
から数右衛門は身をこの一挙に捧げようと決心したのである。
一四八 同
数右衛門は礒貝十郎左衛門から復讐の計画を聞き、日夜加盟を思うものの、統領内蔵助の意を得なけ
れば、一党に入ることが出来ない。それで彼はわざわざ上京して山科に行き、内蔵助に会った。
「自分の不調法により先君の怒りに触れ、永の暇となって以来、一度は何か功を立て、勘気御免により帰
参いたしたく、数年心掛けましたが、その甲斐もなく、先君には不慮の災難、名誉のお家までも断絶、今
わの際における先君の鬱憤はいかばかりと、腸もちぎれるように存じます。承りますと、太夫始め有志の
方々には秘密の企みがおありとのこと、私は不肖ではありますが、一党の中に加わり、君恩の万分の一
をも報じ、せめて地下において、日頃不調法のお詫びを申し上げることができれば、この上の仕合せは
ありません」
と誠意を込めて申し出た。内蔵助はこれを聴きながら、衷心には深く感嘆したが、彼の平素の名分論は容
易にその嘆願を許さない。
「この軽薄な世の中に、貴殿の忠志は、内蔵助まことに感服にたえない。しかし先君在世の時、一且お
暇を下された人を一挙の中に加えては、浪士の輩(やから)までも駆り出すことになり、われわれの本旨
に背く。せっかくの申し出ではあるが、お断りするほかない」
と言い切った。数右衛門は大いに嘆き、
「生きては不興の身となり、死んでも不忠の臣を免がれないか。かくては数右衛門の武運も尽き果てた。
何を楽しみに生きながらえて、浪々の生活を続けよう」
と、投げ出すように言い放って、彼はひたすら暗涙(あんるい)に咽(むせ)んだ。
内蔵助はその顔色をつくづく察して、いよいよ感嘆し、
「さほどまでに先君の御恩を思われるか。それならば拙者もやがて東下するから、その節貴殿を先君の
霊前に同伴し、拙者より篤(とく)とお詫びを申し上げ、その上で一党に加えることにしよう」
と、ここに始めて承諾を与えた。数右衛門の喜びは例えようもなく、ではこれから敵情偵察の任務に当ろう
と考え、やがて江戸へと引き返した。
この年十一月内蔵助は江戸に出府した。その月十四日のことであった。今日は亡君の命日である。内
蔵助は数右衛門を伴い、各々裃(かみしも)の礼服で泉岳寺に参り、冷光院の墓前に額(ぬか)ずいた。内
蔵助は数右衛門を石段の下に留めて、自分一人墓前に進み、生きた主君に言上するように、
「旧臣不破数右衛門、勘気を蒙りまして以来日夜謹慎し、このたび内蔵助に対してご免を哀願しておりま
す。つらつらその情を察しますに、彼の申すところ、至誠から発し、不憫(ふびん)の至りに存じます。何と
ぞご賢慮を回されるようお願い申しあげます」
と言い終ってすっくと立ち、恩命を待つと同じ姿勢を取った。しばらくして、
「不破数右衛門」
と一声高く呼び、墓前に進ませ、
「殿はその方の誠意を知り、勘気御免の上旧知旧職に復すといわれた。有り難くお受けなされ」
と申しつけた。精誠の通ずるところか、神がその前にいますように、数右衛門は感泣して拝服した。これより
彼は熱烈な義盟党中の一人となった。
やがて今年春三月、彼は武林唯七とともに上京し、大阪老松町にある原惣右衛門の宅を訪れ、そのま
まそこに滞留した。彼の人となりと、またその同行者によって察すれば、確かに彼もまた急進派の一人であ
ったに相違ない。それで武林と共に一挙の速発を催促に上ったのであろう。思慮周到な惣右衛門らの説
を聴き、京摂の間を往来して同志の間を周旋していたものとみえる。七月二十八日の円山会議でいよいよ
一党総討入りが決ったので、彼は九月に江戸に帰り、それまでは八左衛門と変名していたのをさらに松井
仁太夫と仮称し、新麹町六丁目の吉田忠左衛門の許に同居し、一層討入りの計画に尽力した。
附言 数右衛門が山科に赴いたのを『義人録』は十五年秋のこととし、亡君墓前の赦免(しゃめん)を同
年九月後のこととする。それでは彼のこの春の上京は無意義となるばかりか、公然と同盟に入らない
者と、義徒は進退を同じくしたこととなる。また『義士年鑑』は墓前の赦免を十四年十月十四日のことと
するが、その日までは内蔵助はまだ出府していない。ゆえに私は『義臣伝』の説にしたがい、この一
事は十四年十一月十四日のこととする。
それから彼は岡野治太夫の実子であるという印象が、これまでの諸伝では薄弱であった。幸いに数
右衛門が久松家にお預けになった日、提出した親類書がある。これによれば、「実祖父岡野文右衛
門、浅野内匠頭家来、八年以前死去」とあって、次に「実父佐倉新助、浪人。播州亀山に在り」と見
える。彼の本姓が岡野であれば、実父が治太夫であることが察しられ、合せて治太夫は浪人以後佐
倉新助と称したことまでも知れる。
一四九 早水藤左衛門、木村岡右衛門
早水藤左衛門満尭(みつたか)は人となり勇猛、ことに強弓の達人として藩中に知られていた。内匠頭に
仕えて百五十石を食し、馬廻に列した。主君凶変の当時彼は江戸の邸にいたが、主君が殿中において吉
良上野介を切りつけたとの報が外に伝わるとすぐに、ことは浅野家の一大事、片時も早く本国に報告しな
ければならないと判断した。萱野三平と共に第一の報告使として同日つまり三月十四日鉄砲洲の邸を出
発し、中三日の同月十八日赤穂に馳けつけた。そのまま留まって同盟に加わり、籠城さては殉死の列につ
いた。一藩解散となったあとは常に内蔵助の行動に従い、今年十一月内蔵助の東下に従ってして江戸に
来た。曽我金助などと変称して讐家の偵察に任じていた。
附言 この人の姓を往々速見に作るものがある。しかし泉岳寺の墓碑を始めとし、『義人録』、『報讐録』、
『四十七士伝』などは皆早水とあるから、これを正としなければならない。
* * * * *
木村岡右衛門貞行の家は三代赤穂の藩籍にあった。祖父吉兵衛から父惣兵衛を経て岡右衛門に至り、
百五十石を食し馬廻に列した。岡右衛門はつとに好学の士として聞え、当時の学者小川某に従って陽明
学を修めた。顧みると元禄時代の学術はいまだ多く儒林のほかに出なかったが、早くから陽明哲学に志し
た。それだけでもこの人が尋常の士でなかったことが思われる。彼が一国の大変に処して去就に迷わなか
ったのは、決して偶然でない。今年義徒一同が東下の議決をすると、彼は九月二十日に単身江戸に着き、
石田左膳と称して、堀部安兵衛の本庄林町五丁目の寓居に入った。時には町人八兵衛などと仮称して、
敵情を偵察していた。
一挙に先だつ一両月、前原伊助と神崎与五郎は相談して、一挙の顛末、藩士の忠不忠などを記し、こ
れを天下後世に伝えようと考えた。前原伊助は『国難始末』を記し、神崎与五郎は『絶纓自解(ぜつえいじ
げ)』を草し、『同盟伝略』と名づけて世に残した。岡右衛門はこれを祝い、書の序を作って両人の志を述
べた。当時前原は米屋五兵衛と称し、神崎は小豆屋善兵衛と号し、商店を開いて、どこまでも商人の風を
装った。これと往来して日夜大事を密議し、かねて『同盟伝略』の記述を助成したから、木村も表面は商家
でなければならない。彼が町人八兵衛と称したのはこの時であろうか。
一五〇 中村勘助、勝田新左衛門
中村勘助正辰(まさとき)は白川の藩士三田村十郎太夫の実子で、中村家の養子となり、内匠頭に仕え
て百石を領し、馬廻兼右筆(ゆうひつ)を勤めていた。凶変の際彼は赤穂にあり、当初から奮って同盟に入
った。開城の後は家族を率いて京都に隠れ、同年九月に内蔵助の内訓を受けて、原惣右衛門、潮田叉之
丞と共に江戸に下った。ついで内蔵助の東下を迎え、関東の同志と協同して一挙の断行を統領に促し、
やがて十一月に京都に引き返した。以後彼は急進派に属し、上方では原、潮田ら、関東では堀部、奥田ら
と東西呼応して、快挙の速行を熱望していた。
今年七月二十八日の円山会議にも列席し、一挙断行の議が大いに定まった時の喜びはいかがであっ
たろう。しかるに彼は叔父の間瀬久太夫および同苗の孫九郎も共に義に着くので、郷里にも江戸にも家族
を托せる人がない。頼むところはただ彼の生家のみで、そこには甥の三田村十郎太夫が奥州白河の城主
松平大和守基忠に仕え、実父の姓名そのままを継いでいた。彼は意を決し、同志の人々に向い「家族が
あっては足手まといだから、これを縁者に托そうと思うが、あいにく奥州にいるから、今からここを出発して、
かの地に赴くことにした。ただその道のりは余りに遠い。万一事が急になり討入りに間に会わないとも限ら
ない。その時は一期の不覚、終天の遺憾、心にかかるはこの一事でござる。もし左様の場合になれば、是
非是非急使を立ててご一報に預かりたい。この義固くお願い申す」と誓い、はるばる東海道から奥州路を
かけて家族を送り届けた。そのまま江戸へ取って返し、十月中に着府して新麹町四丁目に一戸を構えた。
山彦嘉兵衛と変称して、日夜讐家をうかがった。
* * * * *
勝田新左衛門武尭(たけたか)は以内匠頭に仕えて、十五石三人扶持を食し、中小姓(ちゅうこしょう)を
勤めていた。凶変が発した時、彼の年令は僅か二十二歳であったが、率先して義盟につき、赤穂開城後
はいち早く江戸に赴(おもむ)いたとみえ、大高源五が十五年二月二日付で京都から堀部安兵衛らに寄
せた手紙の中に、中身の委細を勝田氏、倉橋氏らにも伝えてもらいたいとある。以来彼は本庄三ッ目横丁
の杉野十平次宅に同居し、時に町人嘉右衛門と称して、偵察事務に努力した。
附言 例の講談や浪花節に、新左衛門が幕府の某士の女を娶(めと)り、浪々の後その妻を生家に預け、
討入りの前日暇乞いに行く悲壮の談を演ずるが、根拠となる所見がないから、取らない。
一五一 千馬(ちば)三郎兵衛
千馬三郎兵衛光忠は赤穂の世臣ではない。彼の祖父内蔵助は仙石兵部少輔(しょうゆう)の手に属し、
大阪の陣で討死した。父の求之助は永井目向守に仕えていた。彼三郎兵衛は新知百石で浅野家に召し
出されたものとみえる。これだけでも彼が英物であったことが察せられる。内匠頭に仕えて百石を食し、馬
廻に列して久しく江戸に在勤していた。彼は人となり質実で義を好み、世に阿(おもね)らず、人に諂(へつ
ら)わず、君家のためによくないと思うことは、率直に言上した。彼の志はもっぱら忠貞の誠を示すことにあ
ったのだが、かえって内匠頭の意にかなわず、ついに永のお暇を請(こ)い身を退く決意をした。噂によれ
ば、彼は家老の藤井、安井から退身の内諭を受けたとのこと。彼の性格からすれば、君侯というよりも、むし
ろこれらの俗家老らと相容れなかったのが主原因であろう。それで彼は、不満ながら赤穂に帰り、内々一家
を取り片付けて、家財の一分はすでに大阪まで廻送した。そして奉公難義の旨を申し立て、この地を退去
しようとするところに、端なく凶変の報知が達したのである。尋常軽薄の士なら、これを却って好機とし、そ
のままここを立ち去るであろうが、彼は思惟した。「義を見てせざるは勇ではない。難に臨んで逃げるは忠
ではない」と。直ちに去志を翻(ひるがえ)して、内蔵助の許を訪れ「籠城なり、殉死なり、太夫の指揮に従
って死生進退を共にしたい」と申し出た。内蔵助の感嘆は異常であった。「ああ日頃高禄を食(は)み、君
の庇護(ひご)をもっぱら受けた者さえ多くは逃げ支度をする今日、一旦不興を蒙って、身を引こうとまで決
意しながら、国難と聞いて踏み留まり、我らと死生進退を共にしようとするか」と涙を浮べて深く喜び、直ち
に同志の一員に加えた。武士道を重んずる真の武士の心掛、実に見上げたものである。
以来彼は同志と共に一意復讐の計画に尽力した。が、ここに彼の朋友に名誉ある一浪人があった。この
浪人は江戸の旗本にも懇意があり、吉良家の虚実をよく知っていた。やがて三郎兵衛はこれを談(かた)ら
い、多くもない蓄えを分けて、その人に与え、今年四月十二日相伴って江戸にやって来た。その浪人をあ
る旗下の家に寄寓させて、日々讐家の動静をうかがわせた。彼はこの偵察によって大いに得たところがあ
るとみえる。その結果を報告するために一たび帰京したのであろう。同年九月七日、このたびは間十次郎、
中田理平次と同行して江戸にもどり、新麹町四丁目裏に一戸を借り、原三助と変称して、一層偵察の歩を
進めた。
一五二 武林唯七
文禄年中の征韓の役に我が軍は明軍と戦い、捕虜を多く捕えて凱旋(がいせん)した。その捕虜中に孟
二寛という者がいた。彼は浙江省杭州府武林の人であった。その人は医術に通じていたところから、日本
に帰化し、生郷の地名をそのまま日本の訓に読みかえ、併せて医者らしい名を選び、武林治庵と称して医
者となった。その子は純然たる日本人となり、さらに姓も改め、渡辺半右衛門と称した。そして始めて赤穂
の浅野家に仕官した。武林唯七隆重は彼の子である。彼は内匠頭に仕えて僅かに十両三人扶持の小禄
を領し、近侍に使われて中小姓を勤めていたが、人となり義烈で文武の業にも通じ、名誉の士であった。
彼がいかに気を負っていたかは、自から孟子の後裔であると称し、渡辺を改めて、更に祖父の姓に復し、
武林唯七孟(もうの)隆重と呼んだのでも知れる。そのうち江戸の凶変が発して、急報は相ついで赤穂に達
した。唯七これを聞いて悲憤禁じえず、城中に入って同盟につき、常に正義派の急先鋒となった。
籠城殉死の議が変り、藩の開城離散となったので、彼は江戸の敵情をうかがうために、赤穂からただち
に江戸に下向した。するとこの地には堀部安兵衛らの急進派がいたから、唯七は彼らと意気投合し、この
年の冬内蔵助の出府を待ち受け、在府の諸士、統領とともに、明年二月を討入りの期と決めた。しかしそ
の期に至っても、内蔵助は容易に足を挙げそうにない。それで唯七は大いに焦り、あらかじめ堀部らと約し
て、今年十五年三月不破数右衛門と共に大阪に赴き、まず原惣右衛門を訪い、内蔵助と引き離れても一
挙を決行しようと持ちかけた。惣右衛門は大局を顧みて、おいそれと動かない。唯七は心中不満に思いな
がらも、それには大いに理由があるから、あながち今すぐとは迫りかね、さらばこの間に一走りと、赤穂に居
残った両親を訪れた。両親は大いに喜んだが、さすがに唯七の両親である。数日の間親子団欒(だんらん)
を楽しみながら、唯七のよそながらの訣別を快く受けて、やがて再び返らない我が子の旅立を祝いつつ、
門から送り出した。この時孝子の心情は燃え、身体張り裂けるばかりであったろう。
彼はその足で京都に戻り、同じ近侍の同僚でしかも親密な友人である大高源五の門を叩いた。内蔵助
の躊躇、かつは放蕩乱行を非難し、この際は是非とも関西の急進派を挙げて直ちに断行しようではないか
と説いた。しかし源五も惣右衛門も急に起とうと言わないので、唯七は怒りかつ罵り、百方を動かそうとした
が、源五は自若として、「貴殿は太夫の人となりをよく知らない。太夫は決してさような卑夫小人ではない。
この挙を成功させるのは、一に太夫の方寸にある。しばらく鋭気を抑えて、その人の動静を見給え」という。
唯七も力なく、そのまま数か月源五の家にとどまった。
そのうち大学氏は芸州へ左遷との報知が届く。七月二十八日の円山会議は開かれる。唯七はますます
意気盛んになってこの会に列した。ここで始めて内蔵助の大決心が発表され、一党総討入りが立ちどころ
に成立した。唯七は心躍り、すでに敵首を獲た思いをした。やがて岡野金右衛門、毛利小平太とともに京
都を発し、閏八月二十五日江戸に到着した。本庄三ッ目横町に住む杉野十平次の家に同宿し、父の姓に
因(ちな)んで、渡辺七郎右衛門と称した。そして讐家の偵察に傾倒した。ああ「英気の発するところ金石も
透る。精神一到何事かならざらん」雪夜敵営に討入ると、彼はその手に悪玉上野介の首級を挙げた。
附言 唯七の名について、ともすれば諸書は只七とする。だが、泉岳寺の墓碑を始め『義人録』、『報讐
録』、『四十七士伝』は皆唯七と書くので、これを正しいとする。
それから『赤穂記』という大俗書を始めとし、『一夕話』などにも、内匠頭切腹の当夜、唯七の母は自
害して、自分が育てた君侯に殉死し、書置きをして我が子の忠義を激励した話を載せる。これまた例
の江戸製造の妄談である。これらの捏造家は、唯七とその両親が当時赤穂にいたことを知らない。次
に唯七の辞世に「家郷病に臥して両親あり。膝下歓を奉じて、恨むらくは終らざることを」の句があるこ
とも知らないのである。のみならず『赤穂記』と『一夕話』に載せた遺書の文言がまるで違う。ことに『赤
穂記』にある文言は、見るもキザな掛詞(かけことば)になっており、嘔吐(おうと)を催す。世に始末の
悪い者は俗文学である。これが二つ。
次には閏八月に江戸に出た唯七を、十一月に着府した内蔵助の同行と作り、新井の渡しで唯七が
一椿事を引き起 したなどいう根なし草。これが三つ。
次には唯七の伯母が討入り前夜に名香を贈り、もし上野介父子を討ち留めなければ、不忠の臣だ
と諭したという「一夕話」の話である。嘘も大概にしておけばよいのに。
一五三 前原伊助、倉橋伝介
前原伊助宗房(むねふさ)は内匠頭に仕えて十石三人扶持を食し、中小姓と金奉行を兼ねた。最初の
盟約の時彼は江戸にいたが、やがて彼は熱烈な義徒の一人となった。元禄十五年の春、内蔵助は吉田
忠左衛門をまず江戸に下して、同志の統轄に任じたが、それには特別任務の士を必要とする。それはもっ
とも精細に、もっとも秘密に、敵情を偵察する専門の探偵である。これには上情にも下情にも通じ、しかも
機敏な人物でなければならない。この任にあたったのが、神崎与五郎と前原伊助であった。この一事のみ
でも両人の人となりを知ることが出来る。伊助は讐家にもっとも近い地に借家を探し、本庄二ッ目相生町三
丁目に米屋五兵衛と称して店を開き、行商と居商とを兼ねて呉服太物を商(あきな)った。これは一つには
なるだけ上野介家中の子女をその店に引き着け、また一つには自身邸の長屋などに入り込んで敵情を探
り出すためである。果せるかなその苦心は成功し、彼は諸同志も知りえない秘密を探り出しては、内蔵助に
報告した。内蔵助の驚人動地の秘策はおおむねこの報告を基礎として立てられたのであった。
附言 伊助の名字を『義人録』などには為助に作り『四十七士伝』には伊助と記している。しかし泉岳寺
の墓碑には 厳として伊助とあるから、これを正しいとする。
* * * * *
倉橋伝介武幸(たけゆき)は内匠頭に仕えて二十石五人扶持を領し、中小姓として扶持奉行を兼ねた。
赤穂における最初の同盟の際に倉橋八太夫という名があって、伝介の名がない。そして以後義徒の行動
上、同志の筆述ないし書簡に八太夫のことが一つも見えないので、八太夫と伝介は同一人ではなかろうか。
あるいはそうではないのか。これはなお後考をまたねばならない。とにかく彼は同志の一人として一挙のこ
とに尽力し、ことに彼は偵察の必要から番頭となって、米屋五兵衛の前原伊助の店に住み込み、仮の主
人を助けて上野介の動静をうかがっていた。
附言 伝介の名を往々伝助に作る書が多い。だが、泉岳寺の碑によって、私は伝介を正しいと認める。
ちなみに講談や浪花節を聞くと、伝介は旗本の次男で、壮年の頃放蕩に身を過まり、久しく房総の間
を流浪したあと浅野家の組足軽に抱えられた。ある機会に内匠頭の面前で弓馬の達人であることが
わかり、新知百石で召し出される一段を演ずる。面白いは面白いが何の根拠もない。『赤穂分限帳』
は彼の禄高と職務までも記載するから、この話が根なし草であることは明白である。
一五四 神崎与五郎 十四歳で兇漢を斬る
神崎与五郎則休(のりやす)は美作(みまさか)の人である。寛文二年同国の津山に生れた。父半右衛
門は津山侯に仕えたが、貞享年間に同侯の伯耆(ほうき)守長武は兄忠継の嫡男美作守長成に藩を譲り、
別に二万石を賜って、支藩に列した際、候に従って移った。半右衛門隠居の後、与五郎は家督相続をし
てこの伯耆守長武に仕えていた。しかるに元禄九年に伯耆守が卆去され、継嗣がないことから主家の断絶
となった。この不幸により彼は非常な苦労をしたであろう。その後彼は浪人し、両親を本国に残して播州に
来た、しばらく赤穂にいるうちに、何時か彼が気節ある士であることが内匠頭の耳に入り、五両三人扶持を
あたえられて、徒士(かち)目付に任ぜられた。
彼の本伝に入るに先だって、彼の幼時の出来事を一つ挙げよう。彼が赤穂を退去する際、両親は作州
勝間田領の黒土(くろつち)というところに隠棲していたのを見れば、少年期はここに居住していたのであろ
うか。与五郎がまだ十四歳の時であった。ある日従弟(いとこ)の箕作(みづくり)十兵衛という同年の少年と
小鼓の稽古に城下町津山に行った。戦国の時代を経てまだ遠くない時とて、男色はなお都鄙に流行して
いた。その頃津山の市中に彦七という無頼がいて、この美少年の十兵衛に懸想(けそう)し後を追い廻して
いたが、十兵衛は承知しないばかりか、その男の無礼を叱責(しっせき)した。これを遺恨に思い、両少年
が林田というところに差しかかった時、かの無頼漢が突然現われ、十兵衛の頬のあたりに一太刀斬り付け、
そのまま逃げ出した。与五郎はこれを見て、怒り心頭に発し「おのれ無礼者め!」と叫びながら、追いすが
り、肩先から一刀を浴せ、倒れるところをすかさず乗りかかり、ものの見事に兇漢を討ち取った。このことは
たちまち四方に聞え、丈夫も及ばない少年の働きとて、その地方の美談となった。「蛇は三寸にして呑牛の
気あり」という。与五郎が尋常の士でなかったのは、この一事でも推測できる。十兵衛は後に医者となった
か、丈庵と称して津山に住んだ。思うに作州には箕作氏が多い。近来では箕作麟祥(りんしょう)、箕作秋
坪(しゅうひょう)、今日では箕作佳吉(かきち)、箕作元八など。あるいは同族の後裔ででもあろうか。
附言 与五郎が津山の産であることは、彼の親類書ならびにその歌集のはしがきに「美作徳守(とくもり)
の宮は我がうぶすな……」とあるのでも知られる。徳守宮は今も津山の鎮守である。
それから彼が仕えた最初の主君森家の継嗣は極めて錯綜(さくそう)している。津山侍従長継の長
子美作守忠継はまだ封を継がないうちに早世した。それで長継の二男伯耆守長武が入って一度は本
藩の主となったが、そのうちに亡兄の嫡男美作守長成が成人したので、貞享年中に伯耆守は本藩を
長成に譲って、上に述べたとおり支封についたのであった。しかも不思議なことに、言い合わせたよう
に、支藩主伯耆守長武は元禄九年に、本藩主美作守長成は同十年に、いずれも卒去して両家ともに
継嗣がなく、その後が断絶した。従来の多くの史家はこれを混淆して、誤謬を伝える基(もと)となった。
三宅観瀾でさえ『報讐録』に神崎与五郎と茅野和助を書いて「二人は美作守森忠継に仕え、忠継
が国を失ってから、去って赤穂に仕え」という。しかし忠継は上に講じたとおりまだ封を継がないうちに
早世したので、二人の前主ではない。
その他の諸書には美作守長成に仕えたように記している。これも間違い。室鳩巣(むろきゅうそう)は
さすがに「伯耆守森長義に仕え」と『義人録』に載せ、支藩の旧臣であったことを明らかにした。ただし
長義は長武の誤りである。青山佩弦斎(はいげんさい)が『四十七士伝』を著わし『続藩翰譜』によって
これを是正した。ここで始めて真相を得るようになった。
さて与五郎が十四歳で兇漢を斬り倒した一事から、多くの誤伝と捏造(ねつぞう)説が出た。『精義録』
に「則休年十三、僚友を助けて人を殺し、仇を避けて赤穂に移る」というのがその第一である。「僚友を
助けて人を殺す」までは事実であるが、そのために仇を赤穂に避けるというのは、誤伝である。ここから
出た話と思われるのは、元禄の初め、与五郎の長男の与三郎という十三歳になるいたずら息子が、赤
穂の苅屋浜で当年十歳となる近郷庄屋の伜と漁のことから口論し、ついに庄屋の伜に斬り倒された。
すると与五郎は深く庄屋の伜の胆力に感心し、これを貰って養子にしたという談、これは『一夕話』に
載っている。だが、生憎元禄の初年どころか、七、八年頃まで与五郎はまだ赤穂に来ていない。のみ
ならず彼が自尽を賜う時には一子もいない。これに閉口したと見え、その庄屋の伜は養子に貰われた
後、間もなく病死したと逃げている。虚談だけに生死もまた自在なものだ。
それから講談や浪花節になると、今度は与五郎自身が足軽の伜で、自分が母のために漁(と)った
鯉を、赤穂藩中の一名家神崎某のいたずら息子に奪われ、喧嘩の末にこれを斬って、それが縁となり、
神崎家の養子となると演じる。だが、あいにく『赤穂分限帳』には五両三人扶持の神崎氏のほかに、大
身の神崎家は一軒もない。ここはまた一つ工夫して、何かうまく捏造しなければつじつまが合わないだ
ろう。江戸製造の捏造説は、夢中の夢に似ている。それからそれへと際限がない。
一五五 同
与五郎則休は文武の士であった。彼の勇武は十四歳にして市井(しせい)の無頼を斬って捨てた一事
でも知れるが、このような豪快な人物にも似ず、好んで書を読み、文を講じ、ほぼ和漢の学に通じ、一家の
見識を持っていた。というのはこの人は仏法が大の嫌いで、『神書覚書』という一書を著したのが、何よりの
証拠である。そして彼の文学の力量は、曲りなりにも漢文により自家の意見を述べ、『絶纓自解(ぜつえい
じげ)』を著すほどの手並をもっていた。これのみではない。彼は好んで詩を賦し、歌を詠じ、また俳句にま
で指を染めた。なかでも和歌にはもっとも執心し、つとに葛岡(くずおか)修理太夫の門に学び、いっときも
吟詠を廃しなかった。したがってその歌にみるべきものが少なくない。その一、二を挙げれば、
橋 雪(はしのゆき)
旅人も道は迷はじ水の上に、雪一筋の勢田の長橋
冬の河上に雪を戴いて、一筋白くたなびく長橋の有様、さながら目に見える心地がする
夜 雪(よるのゆき)
ふり積るほどぞ知らるる若竹の、伏見の里の夜の雪折れ
雪折れする若竹の音が寝耳を驚かすのを覚えるではないか。
思うにこの二首は彼が後年播州を退去し、京伏見に流浪していた際の作であろう。これによっても彼の
歌の全貌(ぜんぼう)がわかる。その他詩もまた数首の残るものがある。また俳句の方面では竹平と号し、
大高子葉(しよう)や富森春帆(しゅんぱん)らとともに水間沾徳(せんとく)に教えを請うたものとみえる。そ
れは討入りの朝、子葉が沾徳に贈った手紙に「春帆竹平も同じ道へと赴き候」とあるので知れる。
さて文学の方面では、かくも多趣味かつ多能であったが、さらに経世の方面をみれば、彼は兵学を修め、
戦史を講じて、治乱の原因、勝敗の分岐を明らかにし、天下一朝事あればこれに関与することを心掛けた。
貞享元禄の風紀として、いまだ学問文事が何であるかを解しない時代にあって、彼は早くも学殖と素養を
身につけた。彼の人となりもまた立派であった。もし彼が相当の家柄から身を起したなら、どこに行っても、
新知百石以上の値打はたしかにあったろうが、枝も鳴らさぬ太平の天下に、しかも門地を重んずる時代の
悲しさは、本国にある時も志を得ず、赤穂に来ては、なおさら浮浪人で、彼が英物であることを知る者は誰
もいなかった。あたら名器を潰し、ただの五両三人扶持で買い取られ、徒行横目(かちよこめ)から目付の
間で、浅野家の御用を勤めていた。彼は思惟したであろう。「天下に我を知る者なし。この顎(あご)を潤(う
るお)すためには、何の択ぶところあろう」と。それで尋常にこの藩に勤めていたのだ。
一五六 同 彼の東下
元禄十四年弥生の春、赤穂の満城が桜の花に酔う時、江戸の変報は相ついで到達した。主君は切腹、
お家は断絶。さすがの名藩もたちまち解体し、家老、用人、番頭(ばんがしら)を始めとし、多くは逃げ支度
の及び腰であった。まして食禄は僅かに五両と三人扶持、ここに仕えてからいまだ五年にもならない神崎
与五郎、去って何処に住もうとも、誰も咎(とが)める者はいない。だが彼は奮然として意を決した。「一たび
身も心も委ねて、人に仕える。人の粟を食する者は、人の事に死するのみ。この身は最初から献じておい
た。いざ国難に殉じよう」と、最初から同盟に加わり、籠城の議から、殉死の論まで、常に内蔵助に一致して
行動した。議は中ごろ変って、開城となり退散となり、しばらく隠忍して、快挙を将来に期することとなったの
で、彼もまた赤穂を立ち去り、一時同国の那波(なば)に隠棲して、時節の到来を待っていた。
おかしいことを言うやつと、あるいは人から笑われるかも知れないが、明治四十一年の十月八日、私は
東京を出発して九州に下向する途上、汽車の中で義士伝を開き、則休が那波に流寓する章に読み進ん
だ。その人を想見して、同情の念を禁じえないその折、汽車はゆくりなくある駅に止まった。駅夫が高らか
に駅名を呼ばわるのに驚き、はてなと顧みるとそこは則休が隠れていた播州の那波駅であった。さては則
休隔世の知己を迎えて陰ながら私に会ってくれるかと、感慨深く感じるものがあった。それから一層この人
に親しみを感じるようになった。それで隔世のこの新しい友のために、なるだけその伝を詳しくしようと思う
のである。
さて十五年の春となり、内蔵助は讐家の動静偵察のために、一、二の同志を東行させようと思い、最初
その一人を岡島八十右衛門とした。ところが八十右衛門は昨秋暫時の積りで赤穂に赴いたが、その地に
おいて図らずも病気に罹(かか)った。それでこれに代る人物は誰であろうかと、内蔵助は左思右考した後、
はたと想い当ったのが、神崎であった。「神崎! この任務は神崎に限る」と、ただちに与五郎にこの前衛
前哨のしかもその尖兵という重責を寄托した。けだしこの時彼はすでに京都に上っていたのであろう。それ
は前に挙げた彼の歌で知れる。
この時内蔵助が深く憂慮したことは、一方には関東同志連の軽挙暴発である。他方には悪玉上野介の
羽州米沢への隠退である。それで同志の鎮撫統督としては、先に吉田忠左衛門を選び、これに近松勘六
を添えて遣(つか)わしたから、今は秘密探偵として与五郎を挙げ、これに前原伊助を伴わせ、二人協同し
て仔細に探り、仔細に報告せよと命じたのである。この種の任務を十分に果たすには、前にも述べたとおり、
上情にも通じ下情にも明るい、多能でしかも機敏、その上思想堅固でいかなる賤役にも、いかなる艱難に
も耐えうる人物でなければならない。内蔵助が特にこの二人を選抜したその眼識は、またさすがに一党の
統領であった。
一三七 同 同
与五郎は特別任務を命じられ、今年三月京都を出発し江戸に向った。虎穴に入って虎児を探ろうとする
のである。まさに血湧き肉躍る時である。が、このような場合にも、彼は余裕綽々(しゃくしゃく)である。彼は
路すがら、
逢阪(おうさか)を越える頃花を見て
逢阪や山さくら戸の開くより、関とは花の名に匂うらん
と詠み、東海道を押し下り、芙蓉峰頭の富士の白雪を望んでは
富士の雪ことに深く、麓の花白らみあいて、いとめづらしく侍るを、
消えかかる富士の高嶺の自雪を、我が世の連とゆくゆくぞ見る
と詠んだ。山頂の雪は春暖を迎え、遠からず消えようとする。浮浪の身は敵営に入って、行く行くまた死の
うとする。彼と我を対照し、にこっと笑み、悠々として感懐を詠じた。その風貌が目の前に見える。
宇津の山にさし掛かって
宇津の山うつればかわる色見えて、若葉をわける蔦の細路
箱根を越えて
富士の嶺(ね)を見つつ越ゆれば花に明くる、箱根の山に残る白雪
このように過ぎる所に吟詠(ぎんえい)を留めつつ、四月二日に江戸に到着した。
附言 この旅についても、また例の妄説がある。それは彼が箱根を越える時、馬喰の丑五郎に難題を吹
きかけられ、詫証文を書いて取らせた上に、五両の酒代を投げ出してその場を逃れたという、いわゆる
「神崎与五郎吾妻下り堪忍袋の一段」である。が、これは大高源五が三島の駅で馬夫の国蔵に強いら
れた誤伝であることは、源五の伝で講じたとおりである。与五郎その人は悠然として、一事の支障もなく
この関所を過ぎたのは、彼の得意の歌でも知れる。
さて彼は江戸に出て、敵情をいかに偵察したか。当時敵の屋敷は本庄にあったが、上野介は多く上杉
家の麻布の下屋敷にいるということで、その所在は不分明であった。そこで与五郎は伊助と相談し、伊助
には吉良邸の裏門に近い本庄二つ目相生町三丁目に店を出させ、与五郎自身は上杉別邸から程近い
麻布谷町に一戸を借り受け、矢作屋善兵衛と称して商店を開いた。各々分業して、上野介の出入から敵
営の秘密まで、残る隈なく注意した。夏のことであるから、彼は扇子団扇(せんすうちわ)などを担(かつ)い
で、上杉家の長屋などを持ち歩き、この辺からそぞろ讐家の方面に立ち回った。このみすぼらしい扇子屋
は終日方々をさまよい、日暮になって店に帰り着く。徳利を相手に独酌をしながらホッとした時、何を借りて、
おのれを慰籍したか。それは得意の三十一文字であった。
谷町という所にしのび、
ここもまた浮世の夢や郭公(ほととぎす)、待ちし昔の夜半の初声
丈夫の真面目(しんめんもく)はこの歌のうちに隠れている。
一五八 同 舟中会議
与五郎は初夏から仲秋にかけて、一意専心ひたすら敵情の偵察に従事した。得た情報はすべて山科
に報告した。そのうち大学氏の左遷は起る。京都の円山会議は終る。やがて潮田(うしおだ)又之丞は一党
総討入りの決議を持って江戸に来た。そこでこの方面の上将吉田忠左衛門が主人となり、八月十二日看
月の宴にこと寄せ、義徒中の義徒のみを招集し、二艘の船を金竜山下から漕ぎ出して隅田川を下った。神
崎与五郎則休も来会者の一人である。舟中で秘密会議が開かれた。いずれも英傑揃いの会合である、驚
天動地の神機妙算が人々の口から多発した。この間においても則休は得意の吟詠をやめない。
同じ心の人々を誘い、八月十二日隅田川の逍遙(しょうよう)に加わり、
鳥の名の都の空も忘れけり、隅田川原に澄む月を見て
優れた歌というではないが、平生なら都の川原に仲秋の月を見るのであるから、いかにも楽しく面白かろう
が、今はかの月を指さして、我が心に誓うところがあるから、この身が都の人であることを忘れ、と感慨を表
したのであろう。彼はまた同志の心腸が鉄のようにまた巌(いわお)のように固いのを喜んで、
月前の友
てる月の円(まど)かなるまにまどいする、人の心のおくも曇らじ
と詠んだ。同志の歓声に船頭は何事かと驚くほどであったろう。
以後彼は依然として特別任務を継続した。すでに親を忘れ、家を忘れ、かつその身までも忘れて、一意
に敵の首級を挙げたいと志した。だが彼もまた人である。情のない人がどこにいようか。鴻雁(こうがん)の
声を聞いては故郷の両親を思い出し、
月前の初雁
故郷(ふるさと)の空に傾く月影を、見よとや夜半の初雁の声
と歌い、そぞろに望郷の涙をそそいだ。しかし彼の胸は寛裕である。同じ月に対しながら、時には自家の身
世を笑った。
九月十三夜
露の身の浮世の風に漏れてまた、長月の名の月を見るかな
などと言って退(の)けた。昔、南朝の名臣藤原藤房卿が世を墨染に逃れた後「雲に起き嵐に臥して今日ま
でも、棲(す)めば棲まるる峰の庵(いお)かな」と詠んだのと、意(こころ)は同じである。
こんな境遇にあっても、彼はなお平生の敬神主義を捨てない。
九月十八日は、我がうぶすな美作徳守の宮の祭日で、昔は必ず玉垣に月の出を待ったもの
だ。今は遠い東(あずま)にいるけれど、心に込めて祈ることがある
海山は中にありとも神垣の、隔てぬ影や秋の夜の月
と詠み出してこれを神明に捧げ、復讐の必達を黙とうした。国に対しまた君に対するこの至誠、「天地の神
も哀れと知ろし召せ、この大丈夫が立てた誠を」と、私も祈りたい思いがする。
一五九 同 一党第一の大酒家
去る八月中に潮田又之丞が江戸に下府し、東西の策応を約束して帰ってから、関西の同志は三々
五々江戸に集まった。そうとも知らない吉良家では、この際かえって防備を緩め、上野介も多く本庄の本邸
にいる様子である。そこで美作屋善兵衛の与五郎は麻布谷町の店をしまい、米屋五兵衛の相生町の借店
に移って来た。しかし美作屋の名では作州人らしく、それでは播州の隣国だから気がとがめたか、今度は
小豆(あずき)屋善兵衛と変称し、たちまち商売換えをして鬢(びん)付け油を売りながら、日々吉良邸の長
屋をうかがった。同邸では一切の商人を門内に入れない。しかし与五郎は少しもあきらめない。ある日彼は
門番の隙を見澄まし、裏門からノソノソ入り込んだ。台所へ回って「鬢付けの御用はありませんか」と、偵察
の本務に取り掛ると、たちまち門番に発見され散々に叱られた上に、門外へ追い出された。この大胆さにも
また驚く。なおこの人が追々偵察の歩を百尺竿頭まで進める一段は、米屋と小豆屋両人の共同雑貨店の
項で述べよう。
以上概説したとおり、彼は昼夜特別任務についたが、俊傑(しゅんけつ)自から閑日月ありだ。善兵衛は
五兵衛と相談し、今回の一挙の顛末を記述した。五兵衛は『国難始末』を草し、善兵衛はやがて『絶纓自
解』を著した。彼の余業はこれに止まらない。彼はまた東行以来の詠草を手紙のうちに収め、好便に托し、
はるばる故郷の同族神崎藤五郎という人の許に寄せた。その書中に「春より以後の愚詠を送るので、我が
家の集に書入れていただきたい」とある。これによれば彼の一家にはつとに「家の集」があったと見える。実
に奥ゆかしい一家族ではないか。
彼がこんなに優美な文心を持っているなら、極めて細心な人のように思われよう。しかし彼は人となり豪
放磊落(らいらく)で、酒と言えば斗酒を辞さず、四十七人の義徒中にあっておそらく大酒家の第一であっ
た。彼が藤五郎に寄せた前の書中に、次の文章がある。
「いよいよ討入りの期も近くなり、もはや貴殿と再び盃を挙げる時もなかろう。この地は酒の値が高く、
浪々の身では思う存分に飲めず残念だ。しかし朋輩の衆が笑って、絶えず酒を恵んでくるので、幸いに盃
を離れる日は一日もなく、とにもかくにも酒の徳ほど広大無辺なものはない。貴殿には親族が多いから、お
睦みなされ、疎(おろそ)かなことのないよう、これは私の遺言ともしてくだされ」
これほどであるから酒は彼の生命であった。したがって彼の遺詠には真情が流露しており、その人を目
に見る感がある。
浅草眺望
墨田渡口待船休
農舎繁栄搗稲秋
梅若墳楊似帝士
墨田の渡口船を待って休めば
農舎の繁栄稲を搗(つ)く秋
梅若の墳楊(ふんよう)は帝土(ていど)に似る
業平詠草唱皇州
竜山日没梵鯨響
業平の詠草(よみくさ)は皇州(こうしゅう)に唱(うた)う
竜山(りょうさん)は日没して梵鯨(ぼんげい)響き
牛社月登華表幽 牛社(ぎゅうしゃ)に月登って華表(かひょう)幽(かすか)なり
回首酒旗風颯々 首(こうべ)を回(めぐら)せば酒旗の風颯々(さつさつ)
嚢銭空尽拭涎流 嚢銭(のうせん)は空(むな)しく尽きて、涎(よだれ)の流れを拭(ぬぐ)う
「首を回らせば酒旗の風颯々」として、竹平おいでなされと招いてくれるが、「嚢銭空しく尽きて涎の流れを
拭う」のみ。さぞ飲みたかったでござろう。彼がもし李唐の時代にあったなら、李太白はこの人を加え『飲中
(いんちゅう)九仙歌』を作ったであろう。
一六〇 前原と神崎の共同雑貨店
場所は吉良邸の裏門にほど近い相生町三丁目にある、前原伊助の米屋五兵衛と神崎与五郎の小豆屋
善兵衛との合同店。米屋と称するが、初めから米ばかりを商うのでもなければ、小豆屋といってもこれまた
小豆ばかりを売るのではない。一戸に両主人、両屋号も可笑(おか)しいから、表面の屋号は米屋であるが、
店には米もあれば、雑穀ないし野菜果物もある。またその傍(かたわ)らには少々ばかりの呉服糸類、小間
物類、言わば協同の雑貨店。番頭には倉橋伝介の十左衛門、若衆には岡野金右衛門の九十郎などが店
にいた。余所(よそ)目に見れぱ、一店挙(こぞ)って商売かたぎ、主人の五兵衛は朝まだきから呉服糸類
を引っ担(かつ)いで店を出れば、同居の善兵衛も鬘付その他の小間物を背負って、家を飛び出す。後に
残った番頭十左衛門、若い衆九十郎らは寄り来る客を引き受けて、これらも商売に余念がない。その目的
は言うまでもなく、手蔓を求めて讐家の動静を偵察し、かねては上野介の出入を監視するためである。そ
れでこの店は大勉強やお世辞も好ければ、品物も安い。したがって吉良の家中長屋の人々も、何時か多く
お得意となり、若党、仲間、下女たちが日々ここに寄り集った。若い衆の九十郎が吉良家の召使の少女に
意を通じ、恋の縁の糸を手繰(たぐ)って探偵に一歩を進めたのも、留守商中の収穫であった。主人の半
身小豆屋善兵衛はこれを聞いて、腹を立てるかと思いのほか、打ちほほ笑み、時雨に寄せて同志の者の
初恋をよめると端書して、
神無月(かんなづき)しぐれる風はこゆるとも、同じ色なる末の松山
と詠み棄てて、それを問おうとするでもない。面白い連中の寄合いではないか。
したがって一党にとってもっとも耳新しい種の収集所は、この米屋の協同店であった。同志の人々は夜
に入ってこもごも、昨日はいかなる事があったか、今日はいかなる情報があるかと訪れる。全党の統領内蔵
助まで姿を変えてしばしばここを見舞った。そのためこの協同店は昼夜に客の絶間がない。昼の繁昌は結
構であるが、夜の賑いは至極危険である。もし讐家の注目を引けば、破綻はこの辺から発する。巧思(こう
し)多能の小豆屋善兵衛はたちまち一工夫をこらした。何時どこで学んだか、彼自から主人となり、商売気
質(かたぎ)の米屋を、夜は博奕(ばくち)の会場とし、時を限り、期を定めて、賭場を開張した。町人はござ
れ、破落漢(ごろつき)はござれ、さては折助小者もござれと、大勢を集めて丁半を闘わした。青山延光(え
んこう)が則休伝を書いて「良雄江戸に入り、しばしば則休の家で会う。則休人に疑われることを恐れ、時に
市井の悪少を集めて賭場を開く。ゆえに疑う者はまったくなし」と記した。
一六一 同
五兵衛、善兵衛の協同雑貨店、つまり一党の復讐倶楽部は、芝居の舞台のように、局面の変った幾つ
かの活劇を絶えず演じた。すなわち昼は堅気な商店に当てながら、夜は秘密の集会所とし、さもない時に
は博奕を開張する。そればかりかここがまた一党の活歴史の編集局ともなり、米屋の主人は『国難始末』を、
小豆屋の親爺は『絶纓自解』を編纂(へんさん)する。外から訪れる町人八兵衛はこの仕事を助けて、序を
書く。諸子の努力は追想するにも余りがある。
さてかの吉良邸は元松平登之助(のぼりのすけ)の屋敷であったが、堀部安兵衛はこの松平家の家来と
親しかったので、家の見取図を借り出して共同秘密倶楽部に渡した。噂のとおりなら、若い衆の九十郎が
恋人から得た絵図も、また参考図の一つになったであろう。米屋の一家はこれを土台にして、銘々の観察
上から訂正を試みた。これについて面白いのは、彼らの挙動であった。彼らはややもすればその店の屋根
に登りたがる。そら雨が降るといえば莚(むしろ)を持って駆け上がる。そらジャンだといえば、一つ番でも二
つ番でも、店中挙(こぞ)って火の見に出る。火事は上野か浅草か、これには何の頓着もなく、キョロキョロと
眼でどこかを見渡す。いうまでもなく、彼らは雨や火事を機会に、吉良邸内を屋上から見下したのである。
頼山陽に言わせたら「この火事まさに浅草にあり、火事は本庄にもあるからよく備えよ」と歌うであろう。
当時吉良家の警戒は、以前に比べれば少々弛(ゆる)んでいた。しかし上野介の出入は依然として深く
意を用い、そのたびに供廻りを変え、道具を代え、あれが上野介の駕籠であるとは目星のつかないように
装(よそお)った。しかし米屋の連中は歩哨として、望楼兵として、昼夜張っているから、何時か自然に見当
を付けることができた。そこで上野介が出掛けたと見れば、あるいは五兵衛、あるいは善兵衛、あるいは十
左衛門、あるいは九十郎らは店を飛び出して、その後をつけた。供廻に自分の面体を知る者がない時は、
どこで早変りをしたかたちまち武士姿となり、ツカツカと駕籠の側に近づいては、土下座をした。これは当時
の制として主君同志が親しい大小名家の家中は、殿の通行に出会ったときは土下座をする。駕籠の中の
主人はこれに対し引戸を開けて目礼し、ていねいな人は「誰の衆にておざるか」などと言葉を掛ける習慣で
あった。米屋連はこの作法を利用して、駕籠の中の主人を見極めようと勉めたのである。その苦心は空しく
なかった。ある日はことにうまく図に当り、上野介は駕籠の戸を開き、会釈しながら「誰の衆……」かと問うた。
こちらは口から出まかせに「松平肥前守の家来でござる」と答えれば、あちらは重ねて「姓名は何と申され
る」。「軽き者にて、名を申しあげるほどでもござりません」という間に、敵の面体を確めた。
このようにして、敵はいよいよ邸にいるに相違ないことを突きとめ、一々これを本営に報告した。噂によれ
ば、この月善兵衛の与五郎は上野介の駕籠について、麻布の上杉邸まで行き、上野介が駕籠から降りる
ところまで見極めた。また小林平八郎の仲間(ちゅうげん)を手懐(てなず)けて、十四日の茶会までを聞き
出したという。彼の苦心は実にこのようなものであった。当時の識者が彼を晋の予譲に比べたのもまた偶然
ではない。
附言 神崎与五郎はさすがに一党中の活動家手腕家であっただけに、彼ほど付会説の多い人物はな
い。『窓のすさみ』に彼の母は内匠頭の乳母であった。内匠頭が切腹した後、与五郎が躊躇している
のをみて母は悲嘆し、書置を残して自殺した。これによって与五郎大いに憤慨し、ついに節義を重ん
じて死んだという。これがまた大の嘘。彼が討入り前の書中に「両親も無事にて………」とあるのを見
れば、それが嘘であることは言うまでもない。
原惣右衛門の母の自害が、幾転変して近松勘六、武林唯七、神崎与五郎、杉野十平次四人まで
の母の自害談となった。『窓のすさみ』や『義人録』の著者は伝聞に誤ったので仕方がないが、ひどい
のは遺書まで捏造して、後人を欺(あざむ)こうとする。悪(にく)むべきではないか。
それから与五郎は切腹前に「自分は町人の伜で、幼少の時しばしばある侍の家に遊びに行き、つ
いにその主人に懇望されて養子になったのであるから、常に朋輩に軽蔑された。それで汚名をかぶら
ないように、討入りの晩には力戦して、敵二人までを討ち取った。慎んで切腹に臨まねばならない」と
言い、しずかに死についたなどと『窓のすさみ』に見えるが、これも根なし草。弁もうるさくなったからこ
の辺で止めておこう。
一六二 茅野(かやの)和助、三村次郎左衛門
茅野和助常成(つねなり)もまた美作の人で、神崎与五郎と同じく森伯耆守(ほうきのかみ)長武に仕え
ていた。伯耆守の死後、後継ぎの問題が起り主家は断絶となった。この間和助は与五郎とともに正義派で
あったらしい。それで国亡びて後、与五郎と相伴って赤穂に来た。ここで浪人していたところを内匠頭が聞
き、両人の気節を解し、同時に各々五両三人扶持で召し抱えた。徒歩横目に挙げられ、以後この藩に奉
公すること僅かに四か年で、またまた主家の凶変に会った。当時彼は江戸に在勤していたのか、最初の同
盟中には名が見えない。しかしやがて一党に加わって、金鉄のように堅い義を貫いた。彼も赤穂離散後は
京洛に上り、一に内蔵助の信頼を得つつあったのであろう。十五年九月大石主税の一行に連なって、同
月二十四日江戸に着府し、富田藤五(とうご)と変称して芝源助町の磯貝十郎左衛門の寓宅に同居した。
彼はまた町人助五郎と仮名して、これまた探偵の事業に従事した。士は已を知る者のために死すと言うが、
五両三人扶持の徒歩横目では、已を知るというわけにはいかなかったであろう。では重代承恩の士かとみ
れば、奉公僅かに四か年に過ぎない。それにもかかわらず、一身を犠牲にして、君家の恨みを報ずる志は、
常成の忠節が強固なものであったことを示す。
* * * * *
三村次郎左衛門包常(かねつね)の家は常陸から出た。父喜兵衛は同国稲田(いなだ)の人であったが、
この人の代に始めて赤穂に来て、浅野家に召し抱えられた。次郎左衛門は父の後をうけ、内匠頭に仕え
台所小役人を勤めた。禄はといえば『分限帳』にも載らないほどの小禄であったが、凶変後自から進んで
同盟の列についた。内蔵助は深く彼の節義に感じ、一層目を掛けて、赤穂立退きの際などには特に若干
の金子を与えた。それだけ次郎左衛門は知遇に感激し、ますます名節を発揮したのである。したがって彼
と内蔵助との関係は。あたかも寺坂吉右衛門と吉田忠左衛門とのそれと同じく、地球に属する月のように、
親密に忠貞の誠を表わした。
彼が知友に寄せた手紙を見ると、いかに彼が律義で篤実な人物であったかが知れる。
大石内蔵助殿は巳(みどし)の四月十六日遠林寺にお越しなされ、夜七つ時に私を居間ヘ招かれた。
そこで申されたことは、「その方ことに家族が多く禄も軽いにもかかわらず、親の代より主君の厚恩を感
じ、必死の志を持って勤めている。家中に侍も多く、恩沢をうけている者どもは数多いが、このような忠
節を示すものは少なく、見苦しい有様は言語に絶する。しかしその方の忠節はひとえに志深く、私自
身が恥しいほどである。もし望みのことがあれば、できるだけのことはしてやろう」と、くれぐれも申され
た。誠に軽い私の身分にもかかわらず、お捨てにならず、ただいまのお言葉かたじけなく、涙が出て
返事もできなかった。同年五月十八日領内の帳面引渡しが済み、ただいままで首尾よく勤められた奉
行小役人その他軽い者にまで、内蔵助殿は御礼のため魚類の料理を用意された。それが終わると、
侍の者まで居間に呼び、一人ずつ礼をいい金子などを渡された。そのほかの面々には書院にて一同
にお祝いなされると田中清兵衛殿が申された。私は侍並に居間のお傍へとくとお呼びなされ、「その
方は一人で大勢の世話をし、その上ただいままで昼夜の勤労一々見届け、拙者はまことに満足して
いる。出来る限りのことをしてやりたいが、今の有様では十分なことは出来ない。寸志だけを受けてく
れ。今後はどういう状況になっても志を続けるように」と言われて、お手自ら金子を下された。これを聞
いてあまりに身に余り、かたじけなく、すぐにお礼申し上げることが出来なかったので、あとで間瀬久太
夫殿を通じてお礼を申しあげた。以上。
三村次郎左衛門
野々村平右衛門殿
この書を一読すれば、彼の律義、彼の誠実と内蔵助の処遇に感泣していた有様まで、目に浮かぶ。そ
れにしても「英雄は勉(つとめ)て将士の心を取る」という韜略の奥義に、内蔵助は通暁(つうぎょう)してい
たことが知れる。赤穂退去の後、次郎左衛門は妻子を処分して京都に出、内蔵助の許にあって忠節の誠
を失わず、今年十月内蔵助の東行に従って江戸に出た。依然父子の本営に属し、時に町人嘉兵衛など
称して、探偵の挙に従事した。
附言 この人の名は諸書に種々誤って記しているが、泉岳寺の墓碑により、次郎左衛門を正しいとする。
一六三 横川勘平
横川勘平宗利(むねとし)もまた移籍して赤穂に仕えながら名節を貫いた一人である。『讃州府志』によ
れば、彼は讃岐(さぬき)丸亀の富家横川勘右衛門の甥(おい)として生まれ、赤穂に仕えて節に死んだと
ある。彼は身体大きく、勇力は人に超えた。打物取っては手だれの達者で、相撲も聞えた取り手であった。
しかも性格は義侠で気節をたっとび、戦国の世に生れたら、一かどの侍であっただろう。それで彼は町人
であることを潔(いさぎよ)しとせず、つとに家を脱して江戸に出たものらしい。だが太平の天下には好漢も
世に知られず、空しく賤役を取って身を浅野家に寄せていたものと見える。当時幕府の制度として地区を
限り、江戸の消防を諸侯に分担させた。ある年内匠頭が増上寺の消防を担当した時、勘平の抜群の働き
を見て褒美を与えた。これが出身の端緒となり、やがて五両三人扶持を賜って、徒歩(かち)に召し出され
た。徒歩といぇば、士籍に列しない身分だから、この職にいる者は言うにも足らない者ばかりである。その中
にあって彼は一人鶏群孤鶴(けいぐんこかく)の感があった。
主家の変報が赤穂に達した時、彼は城下から一里ばかり離れた地にある塩硝庫の守衛を勤めていた。
この報を聞くとすぐ赤穂に駆けつけ、家老に会い「自分も籠城の列に加え下され」と申し出た。しかし当時
はなお論議紛々の際であったから「忠義の心がけ、近頃奇特の至りではあるが、いよいよ籠城となれば、
塩硝は第一の戦備品であるから、大切に護衛しているように」と命じられた。そのまま引き返して、今か今か
と待っていた。そのため最初の神文連名の際には、その場に召集されなかったのである。そのうちに城中
の衆議は開城退散に決したと伝わったから、彼は眦(まなじり)を決して憤慨し、またまた城に駆けつけ「む
ざむざ開城と決定なされたとの事、何とも俯甲斐(ふがい)ないお考え。そうとも知らず、今日まで無用の灰
の番をしていたのがくやしい。今となって私一人が籠城するのも狂気の沙汰。この上は宜しい。腹を掻き切
ってお目に掛ける」と、彼は切腹の決心を決めた。彼はこれによって藩中の侍に猛省を促がそうとしたので
ある。内蔵助はこれを聞いて深く彼の義烈に感嘆し、種々に懇諭してその場を慰めた。やがて彼を自邸に
招き寄せ、復讐の本志を打ち明けた。勘平の歓びはたとえようもなく、これより同盟の一人となり、身を快挙
の実行に委(ゆだ)ねた。
十五年七月になって彼は一党に先だち江戸に出た。勇士は勇士同士で意気の投合するものがあった
のか、彼は本庄林町五丁目にいる堀部安兵衛の借宅に同居し、時には三島小一郎などと変称し、心力を
尽して讐家の動静を窺(うかが)っているうちに、一つの好機会を発見した。これによって偵察上の奇功をも
たらしたのである。
一六四 同 上野介の茶会の探知
当時勘平が寓居した本庄林町からほど近いところに、いわゆるお坊主の茶の湯の宗匠がいた。この宗
匠(そうしょう)もまた吉良家に出入する。勘平はこれを聞き出してござんなれと心に喜び、伝手(つて)を求
めてこのお坊主を訪れた。意を迎えては何かと用を弁じてやったので、何時しか懇意になった。ことに便宜
の手掛りを得たのは、この宗匠、茶儀には巧みであるが、極々の悪筆である。それで常に諸方の交際に手
紙の代筆を依頼した。そのつど勘平は快く引き受けて、言われるままに書いてやるので、ありがたい者と信
頼された。十二月十日のことであったが、勘平は例によってこの家に訪れると、宗匠は
「これは好い時においで下された。実はただいま吉良殿から通知が到来し、返書を差し上げねばならな
い。また一つご筆労下されたい」と言い出した。勘平はさりげなく、
「それはおやすいご用、御状を拝見いたしましょう」
と、手紙を開いて見れば、天の恵みか、家職からの手紙である。主人が近々麻布の御屋敷に移るので、来
たる十四日当邸で名残りの茶会を開く。大切なお茶衆を招くのでその席に連なり、何かと饗応の手伝いを
願いたいとあった。勘平はしめたと心臓を鼓動させながら、いかにも平静に承諾の返書を認めた。神ならぬ
宗匠はこれが上野介の命取りになろうとは夢にも思わず、礼を述べた。がさらに頭を掻きながら、
「あいにく今月は下の者を他に使わし、人がいなくて困った」
と独語(ひとりご)つ。勘平すかさず付け入って、
「それはさぞお困りでしょう。私でよろしければ、走ってお届けして参りましょう」
というに、
「そこまでは余りに恐れ入る」
「どうぞご遠慮は無用。遠くもない吉良様の御屋敷、すぐに届けて参りましょう」
と、尻引っからげ、文箱を抱え、いかにも気軽に引き受けて、急いで吉良邸に向かった。屋敷の中では、道
に迷ったふりをしてあちらこちらをさまよい、邸内の光景を仔細に偵察した。帰ってただちに石町の本営に
報告した。大高源五の報告といい、今また勘平の情報といい、その日取りは二つながら一致したので、いよ
いよ十四日の夜を一党の総討入りと、軍議は立ちどころに決定した。
さすがは室鳩巣である。彼はこの宗匠について「彼は忠雄が共に遊んだ男と同じ人に違いない」と判断
した。だが、これは単に彼の直覚の判断である。史実は実に綜合にある。この宗匠が山田宗遍の四方庵で
あることは、綜合によって一層明白に確められる。というのは宗遍が吉良家に出入することを最初に羽倉斎
(はぐらいつき)から聞き出し、大高源五を統領に薦(すす)めて京都の豪商に扮装させ、四方庵に入門さ
せたのは、堀部安兵衛である。そうして勘平はこの安兵衛と同居する。安兵衛の熱心さは、この好手蔓を
源五一人に手繰らせて安心してはいないだろう。それでさらに同宿の勘平に他の方面から四方庵に取り
入ることを委嘱したものと見える。そればかりではない。勘平が捕えた宗匠は彼の寓居からほど近いところ
にいたとある。四方庵の家は実に両国にあった。その子孫も近代までそこに居たのである。それやこれや
を綜合すれば、その宗匠が四万庵であることは、自から何人にも了解されるであろう。
一六五 同 勇怯(ゆうきょう)・義不義を論ずる書
快挙の前月、勘平は一書を故郷の親友竜田某に贈って、永別の意を表した。某は高潔な侍で義を好み、
ひそかに勘平の志を助け、遺族の世話まで引き受けた人とみえる。書中で少しも虚観を混えず、衷感を隠
さず、極めて率直に極めて直情に、自家の胸中を述べた。勇士の面目を発揮して紙上に躍如としている。
そこには同盟者の去就を評し、勇を揚げ怯を退け、義を嘉(よみ)し不義を憎み、目のあたりにその人をみ
るように描く。一部の小歴史といってもよい。全文をここに掲げよう。
一筆啓上。その後は絶えて便りも申さず、朝暮按じております。寒気厳しい時節がら、その後貴公いよ
いよお元気でお過ごしのことと存じます。
私は七月末より江戸に来て、これまで無事に過ごしています。貴地に滞留中は、万事に心易く貴公に
世話を戴き、かたじけなく思っております。かねてご存じのとおり、存念の儀も最早一筋に定まり、死も
遠からずと覚えております。この世においてはこの書状限りの暇乞いになりました。お名残り多く存じま
す。日ごろはこのような境遇になっても、親をわすれ、兄弟友人を忘れ、人より優れた勇士だと、自慢
に思っていましたが、命の終りともなれば、皆様のことを思い出し、常よりお名残おしく、落涙はものの
ふの常であります。最後の働きにおいては、唐のはんかい、筑紫の八郎殿にも劣らないようかねて覚
悟しております。あっぱれいさぎよく討死したとご推察下さい。詳しく貴公のお考えをお聞きしたいので
すが、死出の旅一筋に急ぐ身であり、おおよそながらこのような有様です。家や親どものこと、ひとえに
お頼み申し上げます。このたびの必死人数を書き付け、お目に掛けます。
大石内蔵助
同 主税
吉田忠左衛門
同 沢右衛門
原 宗右衛門 片岡源五右衛門 間瀬久太夫
同 孫九郎
小野寺十内
同 幸右衛門
磯貝十郎左衛門 早水藤左衛門
間 喜兵衛
同 十次郎
同 新六
千馬三郎兵衛
菅谷半之丞
潮田又之丞
近松 勘六
大石瀬左衛門
中村 勘助
宮森助右衛門 赤垣 源蔵
矢田五郎右衛門
奥田兵左衛門 同 小四郎
堀部弥兵衛
同 安兵衛
この安兵衛は義丈夫の者。七月中に打ち果す覚悟で、同志をかたらうために赤穂まで来て、武林
只七と私に加わるよう話した者です。
大高 源五
岡島八十右衛門 矢頭右衛門七 貝賀弥左衛門
勝田新左衛門 武林 只七
杉野十平次
村松喜兵衛
同 三太夫
倉橋 伝助
毛利小平太
岡野金右衛門
茅野 和助
不破数右衛門
木村岡右衛門 二村二郎左衛門
矢野 伊助
足軽 吉右衛門 瀬尾孫左衛門 前原 為助
神崎与五郎
この両人は商人に身をやつし、敵の屋敷へしのび入り、様子をたびたび窺いました。このたびはこの
両人の報告で、内蔵助の指図が決まったのです。
以上は書中の最初の一節である。室鳩巣は訳していう「平日であれば自から天下の健者と称しても、誰
も疑わない。しかし今たちまち死ぬのだと思えば、意気も恋々とし覚えず涙がこぼれる。思えば児女子の態
であるが、別れに臨んで悲しむのは人の常情である。抜山渡海の雄であっても、なお帳(とばり)の中では
涙なしですまない。だからといって彼を天下の勇士ではないと非難することはできない。堅牢(けんろう)鋭
敏、当るところ敵なしの、漢の樊噲(はんかい)、筑紫の八郎君といえども、自分が彼らに劣るとは思わない。
ましてや吉良、上杉の兵に負けることはありえない。万人の耳目を集め、四方の賛同を獲得したいと願った
のである」と。宗利にこれを読ませたら、まったくそのとおりであると喜んだであろう。
一六六 同 同(付・書異同考)
横川の書は進んで、さらに背盟者の上に一々筆責を加えた。
欠落ちた者をここに記す。
中村清右衛門 鈴田 重八 中村理平次
この三人はもっとも早く江戸表に着いたが、取調べの噂を聞いて色を変じ、しきりに恐れた。理平次は
去月二十日、 清右衛門と重八は同二十九日に夜逃げした。いうもおろかである。
田中貞四郎
去る六日に欠落ち。
小山田庄左衛門
この者は十四、五日前、宿へ帰ると退出したが、まだ帰らず、様子が知れない。大方逃げたとみえる。
いままで丈夫に見える者、私をふくめて五十一人。
ああこの際までは金鉄の士と見えた同志の数は、なお五十一人あると数えられたが、討入り間際までに
さらに四人の逸脱者を輩出した。人心の測り難いのは古今実に同嘆である。
昨夏の籠城の覚悟の節に臆病を働きながら、先非を悔い、大学殿の処遇の好転をうかがったり様々の
理由を申し立てて、山科の内蔵助を訪れ、首を下げ手を束ねて同志の人数に入ったにもかかわらず、
また今度の首尾を恐れ、すみやかに逃げる大臆病者どもをここに記す。
粕谷勘左衛門、井口忠兵衛、杉浦順右衛門、
この者はきたない奴なり。当春斬ってすてるはずでいたところ、手のびにいたし取り逃がしたのは残念
残念。もしお会いされることがあれば、この旨お心得下され。
これと同断の大腰抜けは、
田川九左衛門
酒寄作右衛門 木村孫右衛門
松本新五左衛門
井口 半蔵
大塚藤兵衛
田中代右衛門
橋本次兵衛
土田三郎右衛門 前野 新蔵
生瀬十左衛門
三輪喜兵衛
里村伴右衛門
田中序右衛門 梶 半左衛門
近藤 新五
このうちおかしいのは土田三郎右衛門、生瀬十左衛門である。蔵之助が江戸表に出ると聞きつけ、め
でたい事と思って京都に出てきた。しかし蔵之助の覚悟を知ると色を失い、身ぶるいして早々に。国に
逃げ帰った。女房どもと相談してまた出て来ますとの返答こそ、笑止かな笑止かな。
このものどもは、罪も軽いが、筆にも言葉にもかからない者を記すと
奥野将監
河村伝兵衛
この両人が申すには、いかに人ら犬といわれても、死はかなし一から江戸には行けない、と断わった。
笑止かな笑止かな。
小山源五左衛門 進藤源四郎
この両人いかに死が惜しいといっても、蔵之助を見捨てて逃げるのはいかにも残念だ。
平野 半平
この者は逃げるばかりか、蔵之助が売り払った物の代金三十両をぬすみ取り、京都の小路に隠れた。
むさき奴かな、むさき奴かな。
岡本二郎左衛門 同 喜八郎
この父子は奸人(かんじん)である。
佐々小左衛門
同 三左衛門
この父子は臆病で評するに及ばない。
長沢六郎右衛門
この者大臆病、評に及はず。
上島 弥助
田中権右衛門
この両人さても卑怯。筆にも言葉にもかかれない。
幸田与三左衛門 稲川十郎左衛門 榎戸 新助
山上安右衛門
仁平郷右衛門
高谷儀左衛門
多儀太郎左衛門 豊田八太夫
各務八右衛門
陰山宗兵衛
渡部角兵衛
川田八兵衛
久下織右衛門
井子利兵衛
佐藤伊右衛門
同 兵右衛門
この者どもも評するに及ばない。以上ざっと書付けて御目にかけました。つれづれのお慰みにして下さ
い。以上。
霜 月
横川勘平宗利 花押
竜田善之允様
人々御中
秦鏡高くかかる時、魑魅魍魎(ちみもうりょう)逃げ場なしだ。奥野、進藤、小山の輩、いかに巧言で一時
を誤魔化しても、天下後世を欺(あざむ)くことはできない。
附言 ここに掲げた宗利の書は、尾張の国枝惟煕(これひろ)が『重訂(ちょうてい)赤穂義人録補正』に
利用したものであるが、山崎美成(よしなり)が『落穂集』に載せた書とは、その文に多少の相違がある。
またここには「霜月……竜田善之允様」とあって、『落穂集』には「十二月十一日……弥三右衛門様、
利兵衛様、小三郎様」とある。しかるにちと可笑しいのは、
中田理(利)平次は先月二十日、中村清右衛門、鈴田(木)重八は先月二十九日に夜逃げ。
などというところは同じ文である。十一月からの先月と十二月からの先月とが一つであるなどは、奇怪
ではないか。 この点について私は本書霜月の二字が後人の加筆であるとは疑う者である。
それから文中の重な異同を挙げれば、『落穂集』には、
拙者のことご存知と思うが、先だって切腹しようとしたこともあった。
とあって、本書にはこの語がない。『四十七士伝』に宗利が「同盟者が多く逃亡するのを憤り、自分が
自殺することによって衆を激励しようと思う」と見えるのは、これによったのである。
また逃脱者の続出に関し、
もっとも内蔵助のやり方はこのように延々になり、方々に洩れる、よいやり方とはいえない。
と彼にあるが本書にはない。
それから本書には
小山田庄左衛門、この者十四、五日前、宿へ帰るといって退出したが、まだ帰らず様子が知れな
い。大形逃げたのであろう
とあり、かの書には、
小山田庄左衛門、この者は十二月二日小袖金子少々ぬすみ取り欠け落ち。
と見える。また本書には「田中貞四郎去る六日に欠け落ち」とあるのに、かの書には「同四日欠け落ち」
という。
最後にかの書は逸脱者の人名六人を欠き、代りに本書に載せない「原惣右養子兵太夫」という姓名
を掲げて、逃脱者中に数えた。
異同の大要はこのとおりである。ただし鳩巣の時代に多少の異同がある二様の手書き書が伝わっ
たとみえ、翁は宗利伝に自註して、
京師の人宗利の親書なるものを得て、おおいに珍重した。直清(なおきよ)は先に友人稲生若水
(いのうじゃくすい)よりこれを借りて見ると、墨色明瞭、手ざわりはまだ新らしかった。世に伝わる
ものと大同小異、当日二通を並べて調べ、両家に渡した。ゆえにその文に小々の違いがあるの
み。
という。暫くこれに従っておく。
最後に横川が江戸に出て、伯母の家に住み、その家から復讐に出たと『一夕話』などに伝えてい
るが、これまた例の江戸製造の一つと認めるから、私は棄てた。
一六七 堀部弥兵衛と安兵衛 弥兵衛の出身
これより関東義徒の行動に入るに先だって、領袖である堀部父子の経歴から返りみよう。
堀部氏もまた浅野侯に仕え、三代承恩の家であった。弥兵衛金丸(かなまる)の祖父は浪人中に始めて
浅野家に入り、父の代に新知を受け、継いで弥兵衛に至った。弥兵衛の人となりは質直で義を好み、つと
に文武の道に志し、兵法に通じていた。武術にも達しことに長槍の名人であった。彼がいかに気を負った
侍であったかは、父の後を受けて家督相続した当初から、小禄にもかかわらず、早くから乗馬一頭を蓄え
たのでも知れる。当初は組外の非役であったらしい。当時は文盛武弱の時代であるから、竜を殺す術があ
っても役に立たない。したがって自から進む道もない。そこで彼は筆吏でもよいから職について、国用を担
おうと思い立った。寛文年中、まだ三十余歳の頃、知人に頼んで「弥兵衛何の才芸もありませんが、いささ
か書道の心得がありますので、何とぞこの道にてご採用下されたい」と願い出た。時の君侯内匠頭長直は
士を好み才を愛した人であるから、早速彼を右筆(ゆうひつ)につけた。しばらくして彼に何やら執筆を命じ
た。弥兵衛は額を撫で、
「私は誠に無筆で、御用に立つほどの手を持ちません」
と辞退した。右筆頭はこれを聞きとがめ、
「書道を申し立てて登用されながら、今さら出来ないとはなぜか」
と詰問した。すると弥兵衛はますます恐縮し、
「いかに泰平の御代(みよ)とは申せ、何のご奉公もせず、扶持を頂くこと、先祖に対しても済まないと思
い、出来もしない書道を申し立て、右筆の末席をけがし、上を欺いたことは重々恐れ入ります」
と申し立てた。が、その実決して無筆でも悪筆でもない。彼の実直な性格から、いかにも書道の心得がある
とはいえ、自ら書に通ずるなど申し出て、おこがましく筆を取るのを、今さらながら恥を知らないものと痛感
して、恐れ入ったのであろう。しかしながら才芸の有無は隠しても自然に現われる。彼はなかなかの能書家
であって、後には洛中は言うに及ばず、江戸の市中でも弥兵衛の書といえば、世上にもてはやされた。現
に今日泉岳寺の義士遺物陳列館に出ているこの人の筆蹟刷毛屋の看板は、中央に「京」の一大字、右に
「上のはけ」、左に「色々おろし」、下に「弥兵衛」と書いた着筆の美しさ、円満豊富の感じはその人柄を想
見するに足るものがある。当時にあっても、すでに同列から決して無筆ではないと認められていたに相違
ない。その上能を隠す淡白さに一座は感心した。長直はこれを聞いて彼の気質を喜び、一段と目を掛けた。
弥兵衛は深く恩遇に感激し、これより一層文武の道を研鑽し、ついに当代の名士となった。長直逝去後も
采女正長友は彼の武勇を愛して禄の加増を授けた。ついで内匠頭長矩の代になり、彼は物頭から、江戸
留守居にまで抜擢され、その禄も三百石までになった。彼は平素倹約して元禄当時の流行にならわず、
毅然として古武士の風を保ち、愛用する乗馬には何時も手ずから水を浴びせ、妻女にはその餌を炊(た)
かせた。この一事によっても、その人の日常は歴々として目に映るようである。
附言 『明良洪範(めいりょうこうはん)』に弥兵衛が右筆となったことを、まるで無筆でありながら、書道を
申し立て、これによって始めて浅野家に召し抱えられたと記してから、それが権威となり、『四十七士伝』
などもその説を取っていたので、私も最初はこれに誤った。しかし彼が細川邸にお預けになった日、親
しく語った言葉に「私なども三代前に浪人分として召し寄せられ、その後の代に新知を与えられ、今度
の内匠代には物頭を命ぜられ、このとおり代々重恩を受けた」とあるから、前説が誤りであることは、明
瞭である。弥兵衛の律義な性質から推すと、こんな山を張りそうな男ではない。能力微小にして、人の
禄を受けるのは、武士の本意に背くというところから、書道を申し立てて、職務についた談が、転々とし
て『洪範』の記事となったのであると断定するから、ここにこれを正しておく。
一六八 同 弥平太の変死
弥兵衛には一人の男子と、一人の女子があった。男子の名を弥平太(弥兵衛とも)いった。生れついて
の美少年である上に、厳粛な家庭に育ったから、成童に達した頃は、すでに学問武芸に秀(ひい)で、藩
中の誉められ者であった。それだけ父母の愛も非常であった。ところで母方の由緒ある者に本多喜平次と
いう浪人があって、この男は素行が修まらないので近親にも見放され、処々を流浪したあげく弥兵衛に頼
って来た。弥兵衛の妻は彼の平生を知り抜いているから「お世話をなされても無駄です」と再三止めたが、
義侠の弥兵衛は「武士は互いにこんな時こそ助け合うものである」と、そのまま家に置いてかくまった。家に
いること三年、最初の間こそ、神妙な風をしていたが、持って生れた地金がそろそろ表われて来た。弥平
太が十五歳の時、当時男色流行の際とて、喜平次は人知れず弥平太に想いを懸けて、着けまわし始めた。
弥平太は少年でこそあれ、父に劣らぬ気概の男児であるから、彼を散々に辱(はずか)しめて拒絶したから、
いても起ってもいられない彼は無法者の常として弥平太を深く怨み、恋のかなわない意趣晴らしに、弥平
太を殺して立ち退こうと思いたった。ある夜弥平太が机に向い、何か頻(しき)りに書き物をしているところを、
背後から寄り、大脇差を引き抜いて物をも言わず、理不尽にも右の肩から袈裟掛に切り付けた。普通の者
ならそのままそこに倒れ伏すところを、気丈の弥平太は「何を!」と言いながら、傍(かたわ)らの脇差を抜
いた。振り返りざまに切った小太刀の冴(さえ)に、喜平次の右の腕を打ち落し、なおも相手に二太刀創を
負わせた。そして自分は最初の痛手にたまらず、その場にガバと打ち臥した。この時父弥兵衛は奥の居間
で炬燵(こたつ)に当りながらうとうとしていたが、尋常ならぬ物音に目を覚まし、蒲団を蹴って出て見れば、
喜平次は右の手を失って途方に暮れ、中庭へと逃げ出すところである。「おのれ狼籍もの!」といいさま、
続いて庭へ飛んでおり、直ちに喜平次を組み伏せて、三刀まで止めを刺した。元の座敷に立ち返り、名医
を招いて種々に手術を加えさせたが、致命の大創はいかんともし難く、その夜のうちに弥平太の息は絶え
た。
焼野の雉子(きじす)、夜の鶴、いずれも子を思わぬ者はない。当時弥兵衛が親類に送った書中に「我
が男子は弥平太一人。この子はことに利発に生れつき、我ら夫婦の申すことに一度も背いたことなく、その
上諸芸器用で親よりは数段抜群に生れたと、近在まで評判であった。弥平太は思いのほか成人し、我らよ
り背も高くなり、大人らしくなったので、十二月十四日元服させ、弥兵衛と名も替え、私より一倍大人に成る
ようにと祝って……」とある。その愛子を失ったので、弥兵衛は欝(うつ)々として日を送っていた。そのうち
にゆくりなくも高田馬場において壮絶な一場の果し合いがあって、一人の豪傑が世に現われた。弥兵衛は
懇望してその人を養子にする一佳話をこれから語ろう。
一六九 同 安兵衛の出身 高田馬場の決闘
中山安兵衛武庸(たけつね)は越後新発田(しばた)の人である。父は弥次右衛門と称し溝口信濃守に
仕えた。同藩士溝口四郎兵衛の娘を娶(めと)って挙げたのが、安兵衛である。これだけでも彼が溝口家
中の身分ある家筋であったことが知れる。安兵衛は誕生の年に母を失い、十四歳の時に父に死に別れた。
しかも父弥次右衛門は事件にかかわり、終身蟄居(ちっきょ)を命じられていたので、少年の安兵衛は孤児
に落ちた上に、寄辺ない浪々の身となった。それで早くから親類に頼って江戸に出た。菅野(すがの)六郎
左衛門などは、彼の保護者の一人であったろう。安兵衛の人となりは胆勇果敢で、気節を尊び、つとに名
誉の士となることを志した。文武の道を兼修し、ことに剣道は当時海内第一の称ある堀内源太左衛門正春
に学び、神技の域に入った。打物取っては誰にも負けない力があった。したがって諸藩士の間にも追々名
を知られたが、いまだ定まった主人を取らなかった。豪放磊落(らいらく)で、一家の生計をことともせず、
「家に四壁なけれど貧を知らず」の有様で生活していた。
附言 従来の諸書に安兵衛の出身を報ずるものが種々ある。多くは父が牧野駿河守に仕えていたと記
載する。『四十七士伝』もまたこれを踏襲(とうしゅう)した。だが、安兵衛が後年久松家にお預けの日、
公儀に提出した親類書に「祖父中山弥次右衛門、溝口伯耆守に仕えたが死去……父中山弥次右
衛門は溝口信濃守に仕えたが、二十一年前に死去」とあるのが、何よりも確かである。『報讐録』の
「本父は信濃守溝口某に仕え、ゆえあって蟄居し、もって死す」という記述とまったく一致する。
それから『報讐録』が菅野六郎左衛門を母方の祖父と記したのは当らない。現に上記の親類書に
「母。溝口四郎兵衛の娘、三十四年前死去」とあるからだ。そして同書に叔父の名が多く列記される
が、菅野はない。『義士年鑑』には、菅野と堀部が意気投合するところからであろう、菅野を義理の叔
父、堀部を義理の甥としてある。安兵衛仕官の際などには、六郎左衛門が叔父となって推挙しようと
の約束があったという、最も近かかろう。
さてこの安兵衛の父の友人である菅野六郎左衛門は、これまた老巧の武者である。伊予西条の城主松
平左京太夫頼純(よりすみ)に仕え、定府として江戸にいた侍であった。同じ藩に村上庄左衛門という者が
いた。これも武人として同侯に仕えたが、武術といい、人望といい、とかく六郎左衛門に及ばない。庄左衛
門はこれを嫉(ねた)ましく思い、何とかして六郎左衛門に恥辱を与え、おのれの武名を上げようと腐心して
いた。頃は元禄七年二月のことであったが、ある日両人は支配頭某の宅で落ち合った。同僚の人々も多く
その席に居合わせた。今こそ良い機会であると、庄左衛門は暴言を吐いて六郎左衛門を侮辱しはじめた。
事を好まない六郎左衛門ではあるが、衆人環視の前での暴言を聴き棄てにする訳にはいかない。形を正
してこれを叱責し刀を手にしたが、人々が双方の間に分け入って仲裁をしたので、その場は收まった。しか
し六郎左衛門の正論と気品とに圧倒されて、結局庄左衛門は返す辞もなく、そのまま沈黙してしょげ返っ
た。隠れたものは顕われるほかなく、その事件はいつしか一家中の評判となり「村上は日頃の広言にも似
ず、菅野のために赤恥をかかせられた。不様なことよ」と、挙(こぞ)って取沙汰したので、庄左衛門は一層
その器量を下げた。
村上庄左衛門、これでは人に合わせる面目がないから、一家兄弟申し合せ「六郎左衛門は老功とはい
え、たかが老いぼれの年寄一人、果し合いにこと寄せて広野におびき出し、寄ってたかって取り巻き、前後
左右から切り立てて討ち取ろう」と、卑怯な計略を考えた。二月十一日の早朝、「今日已の下刻を期し、高
田馬場において立合い、先般来の理非を分ち、お互いに慰憤を散じたい」と申し込んだ。六郎左衛門はこ
れを聞いて眉をひそめ「さては彼らは多衆を語らい、私を害せんとの策略を企(たくら)んだな」とみて取っ
たが、名誉を重んずる武士の意地、この期に及んで拒絶するのは臆病に近い。「よし一命を棄てて、日頃
の名誉を全(まっと)うしよう」と決心し「承諾した」と答えた。敵の使いを帰した後、妻に向い「私が武運拙
(つた)なくこのまま出て帰らなければ、後事をよろしく頼むと、私が言い残して家を出たと、中山安兵衛に
伝えよ」と言い棄て、若党角田佐次兵衛という者および草履取り一人を従え、時刻を違えまいと出て行った。
一七〇 同
六郎左衛門の妻は胸を躍らせた。これこそ夫の一生の大事、片時も猶予できないとて、小者を走らせ、
安兵衛に急報した。噂によれば、当時安兵衛は八丁堀のある長屋に住んでいたということである。急報に
接して彼はまなじりを決した。「後事は後事、たとえ依頼がなくても伯父と甥の間柄、心配するのは当然で
ある。今はそれどころでない。伯父の危急に際し手を束ねておれるか」と独り言をし、矢立の筆取り出した。
「拙者の伯父は仔細あって今高田馬場で果し合いをしている。見届けのために行ってくる。無事に帰ること
が出来れば、年来のご厚情をその節お礼申しあげる」と書いて、荒壁の上に粘りつけおき、押っ取り刀で
後を追った。その際のことであるが、彼は韋駄天(いだてん)走りに走って、牛込馬場下まで来た時に、ふと
見ればそこに酒屋がある。安兵衛足を止めて「ソレー杯!」と桝酒を一息に仰ぎ、またまた前路を望んで馳
せ去った。その酒屋は今も現存する。犬養木堂の邸の近処で、当時の桝を家宝として、今も大事に秘蔵し
ている。
こうして安兵衛は現場に駆けつけた。接戦はまさに最中であった。敵の一家は出たも出た。庄左衛門の
弟の村上三郎右衛門、同じく中津川祐見(ゆうけん)、いずれもその身に覚えある武人である。そのほか屈
強の家来五人、都合八人が老人菅野を取り囲んで討とうとしている。こちらは菅野の若党佐次兵衛、これ
は元江州浪人でただ者ではない。草履取りでもまた気慨のある男であったから、敵を主人の後に寄せ付け
まいと懸命になって防いでいるが、多勢に無勢、かつは老人、菅野はすでに身に数創を受けた。安兵衛
見るより身をひるがえし「卑怯者」と大喝一声。旋風のように切り入って、村上三郎右衛門と渡り合い。たち
まち美事に斬って棄てた。今しも中津川祐見が六郎左衛門の背後に回り、不意を打とうとするところを、安
兵衛またまた走りかかって切り倒した。それを討たせてはと敵の一人がまた安兵衛に追いすがり、ただ一
刀にと打ち下すところを、素早い安兵衛はひらりと身をかわしざま、えい!と一声、横ざまに薙(な)いだ太
刀の冴(さえ)に、敵は血煙をあげて、その地に倒れ伏した。この時敵の初太刀に当り安兵衛の帯は一寸
ばかり切り裂かれた。後まで彼はその帯を裂けたまま締(し)めていた。人が問うと「これでござるか。この帯
があったばかりに、今日まで無事でござる。こいつは自分の忠臣だから、記念のためにそのままに締めて
いるのでござる」と笑いながら答えていた。
その間に佐次兵衛も敵一人を切り倒す。敵は主だった面々を失ったから、そのまま逃げ去った。安兵衛
は六郎左衛門を助け、佐次兵衛とともに躍りかかって、庄左衛門を打ち取り、六郎左衛門に止めの一刀を
刺させた。六郎左衛門は安兵衛の義烈を深く感じ「本望!本望!」と叫んだが、その身はもはや昏倒(こん
とう)寸前であった。安兵衛はやがて自分が手にかけた連中に止めを一々剌しながら、「事切れた死骸に
向って無益の業であるが、これは武の作法であるからやむをえない」と佐次兵衛にいった。こうして決闘は
菅野の勝利に帰した。
安兵衛は伯父を佐次兵衛に負わせ、左京太夫の屋敷へと志ざしたが、六郎左衛門の負傷がいかにも
激しいので、とある諸侯の下屋敷の門内へかつぎ込んだ。しかじかと事情を告げて、しばらく休息を許され
るようにと頼んだ。ここに至ってさすがは六郎左衛門。「自分の面目はこれで全うした、この上は後の始末を
頼む」と言い残し、その場において自刃(じじん)した。諸侯の門番は菅野の伯甥と主従の義烈に感じ入り、
安兵衛を助けて、納棺その他何くれとなく手伝った。
「さらば佐次兵衛はこの棺を送って家に帰れ」と命じて、安兵衛自身は二たび高田馬場に取って返した。
「馬場では今敵討があったそうな」いや「果し合いの最中だとよ」などと口々に言いつのって、押し合いへし
合い到るところに人垣を築いている。安兵衛は素知らぬ顔をして人中に紛(まぎ)れ入り、敵の様子をうか
がった。そうとも知らない村上庄左衛門の父は変報を聞き伝え、主従ここに走りつけ、その現状を見て涙を
流し「我が子三人に家来までこのような最期を遂げながら、敵の小輩(こわっぱ)を討ち取れなかったとは何
事だ」とくやしがった。小輩とは安兵衛をいうのである。武庸これを立ち聞きながら、にこっと打ち笑(ほほえ)
み、悠々として立ち去った。どこまで大胆に、どこまで沈勇な男であろう。これが安兵衛二十五歳の時であ
った。
一七一 同 父子の約
高田馬場の決闘はたちまち大江戸中の評判となった。同気を互いに求めるのは人性の常である。堀部
弥兵衛はこれを聞いて、衷心から感嘆した。「ああ世には勇烈な人もある。誰か中山氏を知っている人はな
かろうか」と会う人ごとに尋ねると、久世出雲守の家中の中根長太夫という者が懇意であるということを知っ
た。弥兵衛は早速その人を訪れ、これを介して相識となった。思うにこの間一見してすでに旧友のようなも
のがあったのであろう。その後弥兵衛は安兵衛の長屋を訪れ、四方山(よもやま)の話の後、形を改め、
「拙者、貴殿に折り入ってご相談したい。不躾(ぶしつけ)ながら貴殿、拙者の養子になっては下さるまい
か」
と申し出た。安兵衛が何と答えるかと思えば、
「不肖の私をご懇望下さる芳志のほどは、幾重にも有り難いが、私は中山姓であり他家の姓を名乗ること
は、日頃の思いに背く。折角のご要望ではありますが、これは御免こうむりたい」
と言い切った。彼が後年天下の名流細井広沢などと親しく交わったところをみれば、「武備ある者は、必ず
文事あり」で、かれには相当の学問もあり、人の養子になることを欲しなかった。弥兵衛は非常に失望した
が、しかしこの人の返事もまたすばらしい。
「いかにもごもっともな意見でござる。それならばこう致そう。私が貴殿のような勇士を得て家を譲ること、
一代の面目であり、君侯に申し出て堀部姓を廃絶し、中山姓そのままで私の跡目を取立てになるよう取
計らいましょう。それならば不同意ではござるまい」
と押し返した。尋常の士ならこれも忍び難いところであるが、両人の間は肝胆(かんたん)相照している。安
兵衛はにっことうち笑い、
「それでよろしければ、いかにもご養子になりましょう」
と承諾した。弥兵衛の喜びはたとえるものがない。父子の盃はその席で取り交わされ、安兵衛はただちに
堀部の宅に移ることとなった。
安兵衛の意思の強固なことは、人の思うところではない。堀部の養子となってから二年間、依然中山安
兵衛で押し通した。そのうち弥兵衛は追々年を取る。ある日弥兵衛は主君内匠頭の前に出て、
「殿にはお聞きでしょうか。中山安兵衛は高田馬揚において、多数の侍を相手にし、その場を去らせず
伯父の仇を討ち取った勇烈無比の者であります。先年私は伜を失いましてより相続人がありませんので、
安兵衛を養子にして家督相続させたく存じますが、彼は他家の姓を名乗ることを承諾しません。しかし彼
のような勇烈の士を収め、君国の御用に立てることは私に一生の願いですから、何とぞ中山姓のままで
私の跡目を許されるよう、ひとえにお願い申しあげます」
と懇請した。長矩はつくづくこれを聞いて、
「それはまた面白い願い、そちの趣き聞き届ける」
と許された。早速退出して安兵衛に一部始終を話した。すると安兵衛は心から感嘆した。
「君臣ともに士を好むこと、そこまでされて感激です。私はもう中山の名に固執しません。堀部の姓にて
堀部の家を謹しんで相続いたしましょう」
と我を折った。ああ人生は意気に感ずるのみ。功名も主張も論ずるにおよばない。弥兵衛は手が舞い足が
踏むのを知らず、再びこれを内匠頭に上申する。内匠頭も感賞斜めならず、昨日の中山、今日の堀部は
ついにその家を相続し、堀部安兵衛武庸は二百石にて、馬廻に列せられた。
附言 分限帳には弥兵衛三百石、安兵衛は二百石とある。その家は二百石であるが、弥兵衛は江戸
留守居の要職に登ったから役料百石を加えられていたのであろう。
一七二 同 本郷も兼康までは江戸の内
互いに肝胆を照らし、意気を投じて父子の約束を結び、ついに中山の姓まで棄てて堀部氏を継いだだ
けあって、安兵衛の人となりは、養父弥兵衛に極めて似ていた。後年復讐の挙が終り、父弥兵衛が細川侯
にお預けの日、同侯が付けた世話役の堀内伝右衛門は、ある時弥兵衛に向い、安兵衛の高田馬場にお
ける働きを尋ねたことがある。その時の弥兵衛の話は「私は安兵衛の才覚をみて彼を養子にしたが、不思
議に思うのは、安兵衛の手跡、物ごし、志までも、私によく似ている」ということであった。いかにもそうであろ
うと思われる一つの証拠は、安兵衛もまたなかなかの能書家で、父子の書の品格を論ずれば、安兵衛の
方にむしろ出藍(しゅつらん)の誉(ほまれ)があるくらいだ。彼の書は円満豊富で、勇猛果敢の武庸にこん
な和寛(わかん)な意気があったかと驚くほどである。当時本郷で有名な歯磨きの看板「かねやすゆうげん」
は、実に安兵衛の筆跡である。この看板はいま現に高輪泉岳寺の義士遺物陳列館に残っている。
附言 当時江戸に兼康祐元という歯科医があって、本店を芝の柴井町に構え、支店を本郷の加賀邸
前の四ッ角に置いた。盛んに歯磨粉を売り出したので何時しかその名は一転して歯磨の称となった
のである。川柳に、
本郷も兼康までは江戸の内
という句がある。無雑作な句ながら、当時の江戸の市の輪廓を追想するものがある。「かねやすゆう
げん」とはこのことである。
明治の終わりまで兼康は本郷通りにあって、安兵衛筆の看板もそのままにあった。当時この家には
評判の娘がいて、それが第二の看板として店に坐わっているので、その頃の書生たちは無性にこ
の家の歯磨を買いに行った。彼らに向かい、何であの店にばかり行くのかと問うと、堀部安兵衛の
書を見て来るのだと皆が答えた。書生らの目的は、実は看板下の看板を読むことであった。これに
よって彼の書体を知る、知らないに論なく、「安兵衛の書は好いな!」と、寄るとさわると嘆称したの
である。今でも大学の初期から二期ぐらいに出た博士学士たちに問うてご覧。「僕も見た。おれも知
っちょる」という人が沢山あろう。その美人は確かに見る価値があったようだ。
こんな人物であるから、弥兵衛が惚れたのも無理はない。弥兵衛は彼を養子とし、行々は一人娘のお幸
(お順ともいう)を嫁(め)あわせる積りであったが、お幸が僅か十六の春に主家の凶変が発したので、つい
に婚礼を挙げずに終った。だがお幸もまた弥兵衛の娘に恥じない貞烈の人で、黒髪をおろして尼となり、
名を妙海と改めて極めて神聖な一生を送った。この妙海尼についての逸話は後に述べる機会があろう。
附言 雑書の中には、高田馬場の果し合いの際に弥兵衛の細君と娘のお幸が、ゆくりなくも途上で安兵
衛に出会い、お幸は腰帯を解いて安兵衛の襷(たすき)に贈り、これが月下氷人となって、安兵衛が
ついに堀部家の養子となり、お幸と結婚の礼を挙げたとする。その脚色はいかにも面白く出来ている
から、壊したくはないが、あいにく高田馬場の一挙の際の元禄七年には、僅か九歳のお幸である。熱
帯地方の印度辺ではいざ知らず。我が日本では九歳の少女は、ちと人の妻女には成りかねる。「安
永七年妙海尼寂す。享年九十三」から推すと、事の真否は論なく知れる。作者もなかなか大胆に製
造するものよ。
一七三 同 弥兵衛の壮烈
堀部弥兵衛は久しく隠居していたが、なお隠居料五十石を賜わり、何くれと主家のことに意を用いてい
た。昨年二月主家の凶変となり、いわば一邸は驚愕(きょうがく)しておくところを知らない有様であった。時
に弥兵衛は七十五歳の高齢にもかかわらず、忠義の諸士と共に本邸の明渡しから善後の処置まで心身を
砕いた。そのかたわら自家を戒めて、手早く家財道具を片付け、一塵も残らないよう美事に座敷を掃除さ
せ、床の間には探幽の筆になる三幅対の掛物を掛けて、心静かに立ち去った。その後本邸は酒井家に授
かったので、堀部の長屋には酒井の家老寺井五郎左衛門が移って来たが、座敷をみわたして深く感嘆し、
探幽の掛物は後々まで同家の家宝として珍蔵した。飛ぶ鳥跡を濁さずという。弥兵衛の心掛けは称賛の
ほかない。
彼はこうして一旦鉄砲洲を立ち退いたが、亡君の鬱憤を晴らす志は、この際から生まれていた。それで
このことを内々藤井、安井の両家老に相談すると、両家老は目を丸くし「今のご治世に公儀をはばからず、
さような企てをするなど思いも寄らない」という呆(あき)れ果てた返答であった。「凡夫はともに語るに足らな
い。この上は大石国老に相談するほかない」とやがて子の安兵衛に旨を含め、赤穂へ向わせた。
だが赤穂もやがて開城となり、一藩の士気はますます解体するので、弥兵衛は悶々として楽しまず、心
ならずも月日を送っているうちに、同年五月に伊勢亀山の城内で、石井源蔵、半蔵の兄弟二人が、父宇
右衛門と兄兵右衛門の仇敵赤堀源五右衛門、当時変名して赤堀水之助と称する横暴の敵を討ち取った
一事が評判になった。弥兵衛はこれを聞いて深く感激したが、思慮ある老人のことであるから、良い話題を
得たと喜び、旧赤穂藩士を見ては、この石井兄弟の復讐の挙を談じ、実に偉い、真に感心だと、口を極め
て褒めた。そして相手の様子をうかがってみる。相手がこれを聴いても感動のない輩は取るに足らぬ奴と
そのままに置いた。だが、中には感激して涙を流し、その孝烈を称する人もある。こういう人に会うと、亡君
のために復讐の秘衷を告げて、同志に引き入れた。
大石内蔵助も彼を二つとない人物と頼めば、彼もまた内蔵助を心から信頼した。一党中の猛烈燃えるよ
うな安兵衛以下をよくまとめ、大事を早まらせなかったのは、疑いなく弥兵衛の力であった。しかしさすがに
彼は急進派の長老だけに、内蔵助に向っては、内々にしばしば一挙の速断を促(うなが)した。それは今
年正月二十六日付で山科に寄せた手紙で知れる。その一節に、
何かと心移りは詮ないこと。苦悩されるだけ無駄です。いろいろ意見を言う者がおりますが、心移りなく
貴殿の思いどおりに命じられるのが良いと思います。貴殿の了簡に勝るものはありません。私も伜も今
もって違変の心は毛頭ありません。このうえ大いに永引き、渡世ひしと手詰りとなれば、改めて方針を
変えるのも難儀でありましょう。
と見える。彼の忠烈もまた察すべしだ。
彼は浅野邸退散後両国の矢の倉米沢町に居を構え、馬淵市郎左衛門また時には平右衛門と変称し、
隠居ながら常に関東の同志の相談に乗り、内蔵助東下後はまた時々謀議に参与した。
一七四 同 安兵衛の蛮勇
この父にしてこの子ありだ。安兵衛は主家の凶変に際し、藤井、安井以下一藩の在府連がおおむね共
に計るに足らないのを見て憤慨し、凶変の翌月奥田孫太夫、高田郡兵衛を誘って赤穂に下り、大石以下
の諸士を歴訪して盛んに籠城を主張した。しかし大勢すでに返すことはできず、その間にあって内蔵助の
本懐を了承したから、そのまま江戸へと引き返した。そして日夜讐家の動静をうかがい、一々これを山科に
報告しながら、機会あれば一日も早く吉良家に取り掛ろうと志ざした。同年の冬十一月内蔵助が一たび江
戸に下ったのは、亡主の追弔(ついちょう)、讐家の偵察等を兼ねたというものの、一つの要務は安兵衛の
率いる急進派の一連を鎮撫するためであった。しかし安兵衛は内蔵助を迎えて一意専心に猛断速決を迫
ったので、内蔵助は十五年の三月亡主の一周忌を待って大事を決行すると約束し、僅かに彼らを納得さ
せて帰京した。だが三月になっても亡主の弟大学氏の閉門が免除されないので、内蔵助はまだ容易に足
を揚げようとしない。むしろ急進連を慰撫する意を含めて、今度はさらに名代(みょうだい)吉田忠左衛門を
下向させたから、安兵衛は一層焦った。
安兵衛も当初はできるだけ同志の衆を連ね、整然と一党を挙げて、必成の策に出たいと志した。それは
十四年六月十九日付で江戸から小山源五左衛門に寄せた手紙に「私ども同志の心を究(きわ)めた者た
だいま四、五人、これでは実行できない」となげき、
前から内蔵介殿の心に沿わない衆でも、追って勇気の心懸けある者は、取上げるようにされたい。何を
申しても、小勢では本望を達することが出来ない
と述べたのでも知れる。しかし内蔵助の東下は追々に延び、今十五年二月の期を過ぎても、さらに動く模
様もないので、安兵衛はたまりかね、関西急進派の領袖原惣右衛門らと東西意を合わせ一党から分離し
て、快挙の断行に出ようと企てた。彼が六月十二日付で原、潮田、中村、大高、武林の五士に宛てた書中
に、
かねがね申したとおり、離れての企(くわだ)ては、再考されたい。七月に実行しても何事にもならない
から、早々に思い切ってほしい。かねてから二十人はいなければ、本望は達し難いと申したとおりであ
り、各人にも合点してもらったはずである。ただ退いてよくよく考えてみると、二十人いなくても信念の
ある真実の者が十名はいるので、心安く本望を達することは出来る。実行する段になっても、取り集め
て十人余は指折り出来る。
と書いた。彼は手紙の末段になおも繰り返して、
近ごろ江戸侍は料簡(りょうけん)が多い。これは腰がしっかり立っていないからだ。言語に絶している。
十人信念をもったものがいれば、このようなことを何度も相談することはないと、口惜しく思う。
と嘆いた。ああ、味方の同志多数と見れば強がり、勇みもするが、同志が追々減ってくれば、尻をすぼめて、
尾を巻くのが人情の常である。多衆の望みが覚束なくなれば、二十人で事を果そうと企て、それも面倒と見
て取れば同志の俊傑ただ十人で上杉、吉良の大敵に向い、牙営を目掛けて突入すると志す。「自陣減ろ
うが、敵千万人といえども我は行く」とは、堀部安兵衛武庸である。
一七五 同 復讐の専門家
元禄十五年の春もいつしか過ぎ、六月も半ばとなった。安兵衛が同志中の同志と密約した七月が近くに
迫ったから、彼は最後の決心を促(うなが)すために、六月十八日新橋を出発し、京洛を望んで馳せ上っ
た。彼が速断を急ぐのは、もとより不倶戴天の讐を一日も早く討ち取ろうとの真誠から発したのはもちろん
だが、その他にこれを刺激する一つの動機があった。それは今年彼が二十六日付で内蔵助に宛てた手紙
の一節に見える。
このところ人並に覚悟を決めている者は別に異常ないが、一つ黙止できないのは、渡世の手段を差し
おき、本望達成第一としているため、生活に難儀する者が出ていることです。長く待っても末々必ず本
意を遂げようとする者は、いかような体になり下っても厭わないのですが、何を本意に待つのか道理が
見えないと、互いに見苦しい状態にならないうちにと、こればかり心にかかっております。
安兵衛らの思いはこのとおりである。「同志のうちでも、呑気なものは内職に医者をしたり、師匠をしたり、
句会の点者となったり、宗匠を真似たり、かつかつ収入の途もある。が、我々は復讐専門であるから、日々
食い詰める一方である。それも必ず本望を遂げ目的を達し得ると決っているのなら、襤褸(ぼろ)を着ようが
食う物を食うまいが、さらさら厭(いと)わない。しかし成敗は人があらかじめ決めるものではない。願わくば
余りに尾羽を枯らさないうちに快挙を断行したい」というのである。書中の消息は少なくとも三年とか五年の
浪人をした者でなければ、恐らく解することができないであろう。安兵衛の書を読めば、そぞろ無限の同情
を禁じ得ない。
こうして彼は六月二十九日に京都に着き、先ず大高源五の隠家を訪れ、さらに同道して大坂に下り、原
惣右衛門の老松町の寓居で分離断行の密議を凝らした。だが潮田、中村、武林らの諸同志を誘い、近日
相伴って関東に下向しようとする矢先に、幸か不幸か大学氏芸州遠流の悲報が相ついで到着した。これ
で局面は一変し、一党の総統領主催の円山会議が七月二十八日に開かれたのである。安兵衛らの喜び
は見るにも余りがある。この席で一党総討入りの議が決定したので、安兵衛は片時も猶予せず、翌日潮田
又之丞と共に京都を発し、東海道を押し下った。浜松の駅で、今しも芸州へと赴く大学氏の一行に出会っ
たのはこの際のことであった。しかし彼らは眼前に大望を有する身、大学殿に謁(えつ)したと聞えては、後
日同君の累(わずらい)となるからと、わざと素知らぬ顔で駕籠の側を駆け抜けた。そして八月十二日江戸
に帰り着いた。
これより彼は本庄林町五丁目に借宅を構え、自から号して長江長左衛門と称した。彼には多少の学問
がある。その変称の長江長左衛門は、長江の浪々として昼夜止(や)まない流れに取ったのであろうか。一
つには無用の長物と自から戯れたのでもあろう。ある説には一挙が余りに長びくのを憤慨し、かくは自称し
たのであるという。豪放聶落(らいらく)な彼のことであるから、そうかも知れない。さて快挙の大計はすでに
決定した。したがって彼の行動は、一層目覚ましくなった。彼の友人羽倉斎(いつき)によって、山田宗遍
が上野介と親しいことを探り出し、大高源五を内蔵助に勧めて宗遍の弟子に入らせたのも彼であれば、同
居の横川勘平に頼み、宗遍に接近させたのもまた彼であった。その結果はついに十二月十四日の夜上野
介在宅の情報を手にするに至ったのである。彼の貢献もまた多大ではないか。
一七六 奥田孫太夫
同じく江戸在勤で終始堀部安兵衛と行動を共にしたのは、奥田孫太夫重盛(しげもり)であった。彼は志
摩の鳥羽城主内藤和泉守忠勝に仕えていたが、和泉守の姉君が采女正長友の夫人となり、浅野家へ輿
入(こしいれ)した際、付人としてここに来た。そのうち延宝八年六月に和泉守が厳有院殿家綱公の法事の
際、芝増上寺において遺恨のことがあって、永井信濃守尚長(ひさなが)を切りつけ、これによって内藤家
は断絶した。それで孫太夫はそのまま留まって浅野家に仕え、百五十石を賜わって、馬廻に列し、武具奉
行を勤めていたのである。それが今度は内匠頭の刃傷、続いて切腹。浅野家断絶の凶変に出会った。彼
は一代に二回まで同じ運命に会った数奇(すうき)な武士である。この人もまた堀内源太左衛門正春の門
人であった。勇武を尚(たっと)び堀部安兵衛とは同僚同門のよしみがあって、互いに親友となった。彼は
凶変以来常に安兵衛と心を合わせ、相伴って赤穂に行き、籠城の意を申し入れた。だが赤穂の議は既に
変り、開城となっていた。孫太夫はこれに憤慨し、安兵衛らと諸士を歴訪して極力前議の回復を主張した
が、大勢はもはや動かせず、そのうちに内蔵助から意図を暗示されたので、三人は納得して直ちに江戸へ
と引き返した。
以来彼は復讐の一挙に意を固め、関東急進派の領袖として同志に推された。ある日彼は安兵衛ととも
に泉岳寺に詣り、冷光院殿の墓前に拝伏し「我ら必ず上野介の首級(しるし)を挙げ、尊霊を安んじましょう」
と生きている主君にものをいうように誓った。その帰り安井彦右衛門の許に立ち寄って、復讐のことを密議
した。彦右衛門は主君の身を誤らせた例の江戸家老である。これはなかなか老獪(ろうかい)な男であるか
ら、両人の談を聴きながら、困った連中に押し込まれたと思う心を色にも出さず、
「方々の忠節には感服のほかないが、先君の尊慮をも拝察しなければならない。お家の祭を存続する
ことと、敵の首級を挙げることは、どちらが大切か。先君は必ずお家の祭を大切に思われるであろう。
それについて先般柳沢侯から、ひたすら大学殿は謹慎なされよとの内意を示されたこともあり、やがて
は必ず格別の沙汰を受けられることと思う。ここはしばらく自重して、恩典の下るのを待つ方が、かえっ
てお互いの忠節である」
と分別らしく答えた。両人はこれにムッとして、
「お説ではありますが、先君が武士道を顧みず、ひとえに家門をのみ重んずるなら、いかに上野介殿よ
り無礼を加えられても、手を出されなかったであろう。しかるに場所がらを問わず、刃傷に及ばれたの
は、まったく相手を斬って棄てようとの尊慮と、われわれは拝する。それでも貴殿は尊慮ではないと言
われるか」
と詰め寄った。彦右衛門はこの顔色を見て取り、滅多な挨拶をしては身の災難、さわらぬ神にたたりなしと、
「実は拙者も同様に心得、是非復讐をと志したが、吉良、上杉両家の用心はなかなか堅固だから、ここ
はしばらく我が手をゆるめ、おもむろに敵を討つ心得から、先ほどの返答に及んだ次第、悪しからず
了承されたい」
と切り抜けた。天性真摯な孫太夫らであるから、これを聴いてたちまち打ち解け、
「さては同じ思いでしたか。それなら今後力を合わせ、ともども先君の鬱憤を散じたい」
と、両人は喜んで別れた。後に彦右衛門は同列に向い、「彼らが復讐したいのなら、勝手に復讐するがよ
い。強いて他人にまで迫り、同意を促すことがあろうか」と嘲(あざけ)った。この言葉はやがて同志に聞える。
孫太夫らは烈火のように怒(いか)り、「卑怯者は共に謀るに足らぬ。憎っくい知行盗(ぬすっと)め!」と唾
棄して、以後まったく絶交した。
一七七 奥田貞右衛門
人心を測ることが出来ないのは、古今同じである。時日が経過するにしたがって、金鉄の士、刎頸(ふん
けい)の友と見えた高田郡兵衛は、一朝志を変えて身を引いた。堀部、奥田両士の憤慨はいかがであった
ろう。しかし孫太夫の忠節は貧窮してますます堅固となり、江戸における急進派の領袖はと問えば、実にこ
の二人であった。それだけ両士は心を合わせ、関西の同派である原、潮田らと遥かに絶えず連絡を取り、
ついには一党から分離しての断行を画策した。この間孫太夫は常に奥田兵左衛門と自称した。これは彼
の以前の通称である。当時同志との往復書簡を見れば、おおむね兵左衛門と署名してある。今年十五年
六月、いよいよ関西の猛進派を駆り立てるため、安兵衛が上京するとき、孫太夫は江戸に残り留守番の役
に当っていた。それで故主の弟大学氏左遷の報をいち早く安兵衛に伝えるなどは、皆孫太夫の働きであ
った。
彼は江戸在勤であった上に、関東連の領袖である。それで一党が続々江戸に下って来るたびに、安兵
衛と共に同志の取まとめに心力を傾倒した。三宅観瀾が『報讐録』に孫太夫を伝えて「仲間の采配、面倒
見は重盛と武庸が最上の働きをした」といったのは当然である。
* * * * *
この父にして、この子あり、この兄にして、この弟ありと言いたいのは、奥田貞右衛門行高(ゆきたか)で
ある。彼は近松勘六行重(ゆきしげ)の弟で、初め小一郎と称し孫太夫の養子になった。主家凶変の際、
彼は僅かに二十四歳であったが、自から奮って養父孫太夫、兄勘六と共に義徒の列についたのである。
鉄砲洲退転以来、父子はしばしばその居を変えた。十五年三月からは、深川八幡町に仮寓していたが、
一挙の期が近づくにしたがい、ここも同志との会合に不便であるとて、さらに深川黒江町の米つき屋某の
借家を借りて移転した。ここで一つ解説を要するのは、養父の孫太夫はいわば復讐専門家で昼夜堀部ら
とそのことのみに従事している。そこで貞右衛門は同じく義徒に列しながら、薪水の労を助けなければなら
ない。幸いに彼は多少医道の心得があったから、黒江町では自身が借家の借主となり、西村丹下(たんげ)
と変称して町医者を開業した。これまた定めて危ない医者であったろう。したがって父孫太夫は西村清右
衛門と称し、隠居の体で日々出歩くから、人に怪しまれることもなかったのである。貞右衛門は年がまだ二
十四歳を出ないだけに、結婚妻帯してからまだ幾月も経っていなかったであろう。この年当歳の男子清十
郎を挙げたが、恩愛の情も大義には代えられない。彼はこの若草の新妻と掌(たなごころ)の珠とを投げ棄
てて、奮然と義に赴(おもむ)いた。
一七八 赤垣源蔵
赤垣源蔵重賢(しげかた)も赤穂藩江戸定府の一人であった。父は十左衛門といい、隠居後は一閑(い
っかん)と称した。源蔵はその後を継いで内匠頭長矩に仕え、二百石を食して馬廻に列していた。彼の人
となりが沈黙寡言(かげん)であったことは、快挙の後細川邸にお預けとなった時、常に沈黙を守っていた
ことで知れる。ただそれ沈黙。しかしながら大義を知る。主家の凶変以来義徒に加わり、高畑源之右衛門
(げんのえもん)と変称し、芝の浜松町に居を構え、同志と共に敵情偵察に力を尽していた。彼は一挙の前、
決別の意を伝えるとて、雪を冒(おか)して妹婿の田村縫右衛門(ぬいえもん)の家を訪れた。夫婦は迎え
て酒を供し、源蔵も喜んで、かつ飲みかつ談じた。大いに酩酊(めいてい)し、妹の子を見てその頭を撫で
ながら「坊は好い児だ。やがては立派な侍にならねばならん。生先(おいさき)を祝って、伯父さんがよい物
を上げよう」と、差添えの短刀を与えて心地よげに立ち去った。快挙一たび発する日、妹夫婦の悲懐はい
かがであっただろうか。
附言 赤埴(あかばね)という地名は大和の初瀬越えにある。源蔵の祖先もあるいはここから出たのかも
知れない。その他文字こそ違え、同名の地名は処々にある。芝の赤羽などもその一つである。「埴(ハ
ニ)」とは軟土のことである。上古に軟土で作られた人形を埴輪(はにわ)といったので察せられよう。こ
の土は多く赤色を帯びるので、その土の多い地方を早くから赤埴(アカハ二)と呼んだ。それが音便変
化してアカバネとなったところから、無雑作な古人はいつか赤羽などと書くようになった。これが嘘と思
うなら、芝の赤羽に行ってごらん。その辺一帯は赤土である。それで源蔵の姓も古くは発音にしたがっ
て、往々赤羽と書いたものと見える。観瀾の『報讐録』には、早くも「赤埴は赤羽に作ることもある」と註
を加えている。源蔵自身もまた多少文字のあった人であろう。自家を変称するに及び、源蔵にちなん
で、その名を源之右衛門といい、赤埴は多く山畑にあるから、高畑と称したものとみえる。
さてこの赤埴がなぜ後世赤垣と誤り伝えられたかといえば、御家流の埴の字は〇である。快挙の当
時には新聞などは夢にもないから、義徒の姓名をそれからそれへと書き写して伝える。そのうちに赤〇
源蔵という姓名がある。ところが当時の市井では〇の字などは、余りお目に掛からない文字であるから、
〇は垣と速断し、赤垣源蔵と書き伝える。それを受けついで、講談師流が千万遍も赤垣源蔵、赤垣源
蔵と張扇(はりおおぎ)を叩いて演じ立てるので、何時か赤垣源蔵でなければ、重賢らしくないように耳
慣れてしまったのである。しかし泉岳寺の墓碑、『赤穂分限帳』、『報讐録』、『義人録』にはいずれも立
派に赤埴と記してある。これが何よりの証拠である。
ついでにいうが、近頃の学者はこれを赤埴と改めるとともに、アカハニと読ませている。これは余りに
訓読みにこだわり過ぎで、源蔵の姓としては上に申し述べたとおり、アカバネというが正しい称である。
最後に一言、この人に関しては所伝が非常に少ない。それで講談や浪花節などには「赤垣源蔵徳利
の別れ」という一話をひねり出した。徳利の別れなどは罪がないから、それでもよいが、これによれば、
源蔵は播州竜野の城主脇坂淡路守の家臣塩山伊左衛門の実弟で、赤垣の養子となった者といい、
平生大酒を好み、浪々後しばしば実家に酒を強いるので、嫂(あによめ)はこれを嫌って、復讐当日訣
別の意を表しに来たときにも、伊左衛門の不在を幸いとし、病気と称して面会を謝絶した。それで源蔵
は携えて来た徳利酒を自ら数杯傾けて、その余を残し留め「自分はある西国大名に抱えられ、その地
に行くので、別れの盃(さかずき)を交わすために来た、兄夫婦もこれを酌(く)んで、私の意を良しとし
てもらいたい」と言って去ったと伝える。しかしこの話はどの書にも見ない。のみならず、『精義録』には、
本文に講じた通り、訪れたのは妹婿であり、実兄とはしていない。ただ『精義録』のみが妹婿として、名
を記していないが、これは田村縫右衛門のことであり、塩山などという者はいない。それから源蔵は最
後に「土屋相模守殿の身内に本間安兵衛と申す者がいる。これに今日源蔵が快然として切腹したと、
一言お伝えくだされたい」と遺言して死んだ。本間安兵衛は彼の実弟である。
要するに講釈的伝説は、「精義録」から生まれた、誠から出た嘘に過ぎない。それを故田口鼎軒(て
いけん)がそのまま『大日本人名辞書』に収めたのは、笑止の至りであった。これでは軽薄な嫂と書か
れた真の妹が地下で泣くであろう。
一七九
村松喜兵衛と三太夫
村松喜兵衛秀直(ひでなお)は内匠頭長矩(ながのり)に仕えて二十石五人扶持を食し、年令六十余で
なお扶持方奉行の広間役を兼ねた。江戸常勤の精勤の士であった。その子の三太夫高直(たかなお)は
二十五歳、まだ部屋住みで父の膝下(しっか)にいた。主家の凶変が発し一邸は全く解体した。喜兵衛老
人は憤慨して、「主辱められれば臣死す、とはまさにこの時である」と深く自から決心し、ある日長子の三太
夫を招き、
「自分は国恩を荷ってこの歳になり、今度の凶変に会った。幸いにお国には大石太夫がおられるので、
自分はこれから赤穂に行き、太夫と死生をともにしようと思う。お前はまだ年齢も若く、まだ部屋住みのこ
とでもある。ここに留まって老母に仕え、孝養を尽してくれ」
と申し付けた。三太夫は聴きも敢えず、
「ご老体一人の鹿島立ちは心配ですから、是非にお供したく存じます」
と願い出た。しかし父は聴き入れない。ただ「後を頼む」と言い棄てて決然として家を出た。品川、川崎を越
えて、その日のうちに神奈川駅まで差しかかった。すると後から、
「父上、父上」
と呼びながら。息を喘(あえ)ぎ喘ぎ追い着いたのは三太夫である。
「何用あってここまで来たか」
と問う父の顔を見守り、
「いいつけに背(そむ)くのはどうかと思い、今朝は一旦お別れしましたが、後でつらつら考えますと、君
国に報ずるのは公事であり、母上に仕えるのは私事であります。三太夫は部屋住みとはいえ、雨露(うろ)
にも打たれず今日に至りました。これはまったく浅野家代々の御恩。ただいま父上が報国のために出発さ
れたのに、私が情に拘(こだ)わって、おめおめ家に留まれません。幸い家には弟の政右衛門がおります
ので、母上への孝養を欠きません。それで父の後を慕い、ここまで馳けつけた次第です」
決意は顔色にみなぎっていた。父は眼底に感激の涙を湛(たた)えた。父は、
「そこまで決心したなら、お前の意にまかせ同行しよう」
と承諾して、遠々と東海の駅路を辿(たど)り、四月四日統領内蔵助の指揮下に入った。「孝子には親に情
あり、他になし。忠臣には君に情あり、他になし」 私は喜兵衛父子に対し、またまた「忠臣を孝子の門に求
める」の語を繰り返す。内蔵助の感嘆はいかがであったろう。
その後父子は最初から義盟につき、籠城、殉死の議をともにし、赤穂は開城離散となったので、父子は
内蔵助の内旨を受け、再び江戸に帰った。父喜兵衛は荻野入道隆円と変称し、初めは八町堀に住み、後
には本所に引き移って医者を開業し、静かに快挙の日を待った。
子の三太夫は芝源助町にいる磯貝十郎左衛門の家に同居し、植松三太夫、また時には荻野十左衛門
などと変称し、もっぱら讐家(しゅうか)の偵察に従事した。
一八〇 同
同志の一人三村次郎左衛門の知人に、神田の柳原に住む竹屋という刀剣の研屋(とぎや)があった。次
郎左衛門の縁故で村松父子もいつしか竹屋と懇意になった。ある日三太夫は一刀を携えて、
「自分は近々国許に引き込むから、これを念入りに研いでもらいたい」
と註文した。
十二月十二日に至り、三太夫は次郎左衛門を伴って再び訪れ、
「いよいよ出立も近日となった。研ぎは出来たか」
と問う。主人は迎えて、
「このとおりキチンと研ぎ上げてあります」
「それはよかった」
といいながら鞘(さや)を払うと、光は四方に反射し、天を衝(つ)く感がある。三太夫は心地よげに眺め、
「ああよく研げた。これなら斬れる。近頃心得はないが、この中柱に一太刀試させてもらえないか」
と求めた。乱暴な所望であるが、主人も変り者、
「おやすい御用、どうぞお試し下さい」
と答えるが否や、
「ええい!」
と一声、片手撲(なぐ)りに斬りも斬った。中柱を二寸余りも斬り込んだ。
「さてもこの切味のよさ。これさえあれば……」
といいながら、にっこりとして鞘に納め、やがて一包を投げ出した。主人頂いて押し開けば、研代の幾倍も
の金子である。
「かように沢山いただく訳にはいきません」
「いやそれはいささかの自祝の志だ」
「どういたしまして、かように頂きましては」
と押し問答の末、
「ならば当分暫くのお別れじゃ。江戸の名残に一杯振舞いに預りたい。それにて一瓶一肴を調(ととの)
えてはどうじゃ」
と言い出した。
「では、この上辞退するも無礼」
とて、大いに酒肴を取り寄せて、三人輪になり、かつ飲みかつ談じ、やがて二客は陶然として竹屋の門を
出た。
十五日の朝、雪消(ゆきげ)の空に、復讐の快報は江戸八百八街に紫電のように伝わった。
「大石内蔵助、吉田忠左衛門……村松三太夫、三村次郎左衛門……」
「さては村松様、三村様!」
と竹屋は狂人のように、裸足(はだし)のまま駈け出し、両国を過ぎ、六間堀で一行が引き揚げて行くのに
追い着いた。先頭に回って一列を見れば、両人は堂々と闊歩(かっぽ)して来る。
「これは村松様! これは三村様!」
「おう竹屋か。お蔭で刀が役に立った。さらばじゃ」
と言い棄てて通って行く。
忠義は人心を深く動かす。竹屋は三太夫が刀傷をつけた柱を絹で丁寧に巻き、これを一家の名誉とし
た。四方の人またこれを聞き伝え、来たり見たりする者がひっきりなしであった。後に類焼に会ってその家
は焼失したが、主人は人を見るごとに、家財を惜しまず柱の焼失を嘆いたということである。
附言 この話は『一夕話』のほかには見えない。しかし江戸であった話は、往々事実と認められるものが
あるから、しばらくここに収めておく。
一八一 矢田五郎右衛門 金鯉の兜
矢田五郎右衛門助武(すけたけ)の祖は三河から出た。戦国の時、矢田作十郎は徳川家康公に仕え、
剛勇をもって聞こえていた。石瀬(いわせ)の役に作十郎は金鯉の兜を被(かぶ)った敵将の首級(かしら)
を得、あわせてその兜を分捕ったので、以後の戦場には何時もこれを被って勇戦した。それで家康公の部
下の金鯉といえば、その名は天下に聞えていた。これについて愉快な一話がある。当時同じ徳川家の旗
本に阿部四郎五郎という勇士がいて、大いに作十郎の名誉を羨(うらや)み、ある日作十郎を訪れた。
「拙者も武士の名誉に、一度金鯉の兜を被り、花々しく勇戦してみたい。次の陣があるときは一度それを
貸して下されないか」
と懇望した。すると作十郎は頭を振り、
「いやいや、あの兜は貴殿のような未熟な侍の頭上にはふさわしくない」
と言い切った。四郎五郎はもとより気を負う者、これを聞いて顔色を変え、
「貴殿がいかに大剛かは知らないが、人をとらえて未熟な侍とは、聞き棄てにならん。その理由を聞こうで
はないか。次第によっては、その坐から起たせないぞ」
と刀の柄に手を掛けて詰め寄った。作十郎は平然として、
「我らは戦場に臨むごとに、何時もそこを討死の場所と覚悟して出て行く。生きて帰る心はない。しかるに
貴殿は一度あの兜を貸せと仰せられるではないか。貸せという以上は最初から戦死の覚悟なく、命を全
うして帰り、それを再び返す所存と見える。それでは未練な士というほかない。それを被って勇戦する覚
悟があれば、なぜ初めから呉れと言われないか。そしたら私は喜んでお譲りしたであろう。貸せとは余り
に女々(めめ)しうござる。それで貴殿の頭上にはふさわしくないと申した。道理ではないか」
と言い返した。まるで百錬の利刀を大上段から打ち下したようで、四郎五郎は全身に汗を生じ、
「これは拙者一期の不覚、実はご秘蔵の重宝に気を取られ、そこつな申し出をして、お恥ずかしい次第
でござる。未熟な拙者ではないので、ただいまの一言はお忘れ下され」
と陳謝した。作十郎はにこっとして、
「それでは貴殿にお譲りしましょう。せいぜい忠戦をお励みなされ」
と、惜気もなく譲り渡した。
四郎五郎はこれに感激し、以後戦場で奮戦してはみたが、その働きは遂に作十郎には及ばなかったと
見え、「金鯉は正しく金鯉であるが、近頃その鯉は勢いが抜けた」と敵軍に噂された。後に四郎五郎はこの
兜を、「お蔭で金鯉をいただく名誉を得た。今は故主にお返ししたい」といって返却に来た。作十郎はその
まま押し戻し、「すでのお譲りした兜、今さら拙者に用はない」と言い棄て、これを受け取ろうともせず、退い
て家人に向い、「死んだ鯉が何になろう」とささやいた。
* * * * *
五郎右衛門はその子孫である。内匠頭長矩に仕えて百五十石を食し、馬廻に列していた。彼の剛勇は
祖先に恥じず、事変以来常に江戸にいて、同盟に列した。塙武助と変称して、赤垣源蔵と同居し、絶えず
復讐の事に尽した。
附言 この人の姓名を往々矢田五郎左衛門則武とするものがある。しかしながら泉岳寺の墓碑を始めと
して『義人録』、『報讐録』などにどれも五郎右衛門助武とある。よってこれを正しいとする。
一八二 杉野十平次
杉野十平次次房(つぎふさ)は内匠頭長矩に仕え、僅かに七両三人扶持を得て中小姓を勤めていた。
これまた低い値段で生を委(ゆだ)ねた一人である。彼は赤穂の藩中第一の富家荻原兵助の縁者であっ
ただけ、小禄ではあるが家はとても裕福であった。そればかりか主家の事変をよそに見て、大砲を受城使
の脇坂侯に売り渡したほどの貪夫(どんぷ)荻原の親族である。そしてその身分は君侯の知遇を得たという
ものではない。彼が劣情の人なら、財を抱いて早速ほかへ逃げて行くだろう。にもかかわらず、彼は事変以
来江戸にあって、自家の家財什器などをすべて売却し、平生の蓄えを合せて千両という大金を惜し気もな
く同志に分け与え、一挙の用に供したのである。二か年の長期間、在府の義徒がとにかく日々の生計を支
えることが出来たのは、十平次の力が多分にあった。彼の胸襟の広さは見事であった。
彼の人となり、力の強さは衆に勝れ、ことに剣術に達していた。それで讐家に近い本庄三ッ目横町に比
較的広い家を借り受け、杉野九郎兵衛と変称して剣客と触れ込み、道場を開いた。これで世の耳目をくら
まし、同志の出入りを便にした。武林唯七、勝田新左衛門などはこの道場に寄食していた。こうして敵営の
偵察に昼夜心をくだいたのである。討入の間際になって、千両の金もほとんど使い切った。堀部安兵衛が
余りに尾羽を打ち枯らさぬうちに一挙をやっつけたいと焦ったのも、偶然ではない。
附言 この人の名を往々重平次治房とする諸書がある。しかし墓碑および『報讐録』に十平次次房とある
のが正当である。
因みにいうが、十平次の母もまた書置をして自殺し、我が子を励ましたという虚説がある。この虚説
が始めて見えたのは『後鑑録惑説(こうかんろくわくせつ)』であろう。虚説が一たび出ると、その尾に付
いて捏造(ねつぞう)偽作が到るところに出てくる。『一夕話』には遺書の全文までが麗々と掲げてある。
そしてこれを取り繕(つくろ)うために、やれ十平次は京都に隠れて貧苦に迫られていたとか、東行中
の内蔵助に箱根で追い着いてこのことを内報したとか、付会に付会を重ねる。十平次は主家の凶変
前から江戸にいて、復讐の際まで依然そのまま在府していたのである。原惣右衛門の母堂が自刃して、
武林唯七、杉野十平次、神崎与五郎、近松勘六の四人の母も皆自害したと誤伝した。そのうち『明良
洪範(めいりょうこうはん)』や『義人録』の近松母堂自刃談までは、まったくの誤聞として許されるが、そ
の他の諸書が遺書までを捏造するに至っては、悪戯(いたずら)もまた極まったと言わなければならな
い。世に悪(にく)まれるのは、実にこれらの偽作者である。十平次の親類書には「母は二十八年前死
去」とあるのだ。
一八三 片岡源五右衛門
片岡源五右衛門高房(たかふさ)は尾張の産であった。彼の祖父熊井藤兵衛はかつて浅野采女正に仕
え、二百石を食して、武具奉行を勤めていたが、浅野の宗家芸州侯の息女が尾州侯に輿(こし)入れの際、
藤兵衛の子の重次郎重房(しげふさ)が付人に選ばれて来て、ついに徳川家の藩臣となった。重次郎の子
二人、長男は父祖の称を継いで藤兵衛次房といった。次男がこの源五右衛門高房である。この熊井氏の
親族に、赤穂藩士の片岡六左衛門という人がある。祖先は片岡備前といい世に聞えた勇士であった。その
子孫である。源五右衛門はこの家の養子となって家を継いだのである。
源五右衛門は生れたときから容貌人に勝れ、美少年と称された。内匠頭長矩に深く寵愛され、近習から
追々に進みついに禄を加増されて三百五十石を食し、内証(ないしょう)用人兼児小姓(こごしょう)頭(かし
ら)にまで任ぜられた。凶変の当日彼は主君の登城に従い、大下馬先(おおげばさき)に供待(ともまち)を
していた。殿中の変事が紫電のように伝わって来たので、これは主家の一大事、片時も猶予ならないと、汗
馬に鞭うって鉄砲洲の藩邸に馳せ帰り、事変を藩中に伝えた。そしてすぐ筆を取って報告書を作り、これを
赤穂への第一報告使早水、萱野の両士に渡すなど、機敏な働きを見せた。だがどうしても主君の身の上
が懸念されるので、同日さらに芝の田村邸に駆けつけて見れば、主君から特に自分と磯貝宛の遺言であ
る。源五右衛門は情迫り、胸塞がり、田村家に頼んで当日の検使へ主従最後の訣別の許可を哀願した。
検使の一人多門伝八郎の情誼(じょうぎ)によって、涙眼の裏(うち)に主君の今わのご容顔を拝することが
できた。彼はその夜磯貝十郎左衛門とともに亡主の遺骸を泉岳寺に送り葬った。彼らの亡主の非命に対
する感慨は、一般の同僚に比べ一層痛切である。その夜両人が言い合わせたように髻(もとどり)を断ち切
ったのも実に理(ことわり)である。
この時から両人は復讐の大志を起したが、讐は大敵、微力の能くするところではないので、城代の内蔵
助に助けを求めた。亡君一七日の喪に服した後、三月二十日に江戸を発し、とも赤穂に下向した。内蔵助
に会って復讐の挙を促した。だが、この地では籠城論の真最中で、内蔵助も容易に二人の提議に同意し
ない。両人はその他の諸士に繰り返し訴えたが、藩の志士はおおむね内蔵助に同意であって、事を共に
するという者がいない。二人はいずれも新進の士であるから、在国の士は彼らの志操の堅固を疑い、容易
に耳を貸さなかったのである。それで両人は大いに失望し「城に籠って討死するも、敵に向って切死するも、
君国に殉ずる義は一つである。この上は各々その志を遂げるまででござる」と言い切って、すごすごと江戸
へ引き返した。それで当初の同盟には入らなかったのである。
一八四 同
片岡、磯貝の両士は赤穂最初の同盟に加わらず、ともに江戸へ帰って来た。そして在府の堀部、奥田ら
とも肌合いはまた別で、同志からは久しく別働隊のように見なされていた。しかし金鉄の志は同一であった。
この年十一月二十三日のこと、源五右衛門は国産の赤穂塩の進物を持って、幕府の目付多門伝八郎の
宅を訪れ「当春主人切腹の節は、貴殿の一存の取計らいにより、主人への暇乞いを許され、一期の仕合
せ、身に沁みて有難く存じます。その際主人の仕置きぶりにつき、荘田下総守様がお役御免となり、貴殿
にはご安泰にお勤めであること、恐悦に存じます」などと挨拶した。伝八郎も当時から彼をゆかしい士と見
てしていたので、快く迎えて四方山の話をした。後に彼は当時の談話を筆述して「立派な男でさすが五万
石の用人と見えた。もはや主にはつかえず、来春より町人になると言って帰った」と記している。その悠揚
(ゆうよう)迫らない態度といい、忠臣は二君に仕えない志操といい、彼の人格はこの間によく表れている。
すでに十五年の春となった。吉田忠左衛門は江戸へと下向して来る。内蔵助の本旨は漸く諸同人の間
に反響して来た。ここに至って片岡、磯貝は早くから内蔵助の節度に従わなかったのを悔恨し、忠左衛門
を介して内蔵助に申請し、始めて同盟に加わることになった。
この前後における彼の行動には、注目するものがある。彼は当初から復讐の志一図であったので、磯貝
とともに一党から離れ、別働隊として働いていたうちに、内蔵助の志も復讐にあることを知り得たので、吉田
忠左衛門にこれまでの誤りを詫び、同氏の紹介を得て、自身京都に赴いたものと見える。それは討入りの
前月に小野寺十内が寺井玄渓に寄せて、同志の行動を批評した書中に、片岡らについて言及しているの
でわかる。「中ごろに帰参して人並に連らなった者」といっているのがその第一証である。ただし十内は片
岡、磯貝の当初からの意志を知らない。それで遅れて同盟に加わったのをよく思わなかったのである。しか
し内蔵助はよく彼らの誠意を洞察し、彼が来るのを待ったのである。そして源五右衛門は恐らくこの上洛の
際に妻子をも携えて行き、それらを京洛に残して来たのであろうと思われる節がある。
それから源五右衛門らが一挙後、細川邸にお預け中、親身に世話をした堀内伝右衛門は、義徒切腹の
年の十月、江戸から肥後へ帰国の道すがら、源五右衛門の遺族を見舞った顛末を、『堀内覚書』の中に
記した。「伏見両替町筋銀座二丁目に片岡源五右衛門の妻子が借宅しているのを尋ねた。……後室は病
ひどく……新六は遠方へ手習に行っているので、しばらくお待ちくだされば、呼びにやります……と申され
た」とあるがその第二証である。つまり源五右衛門は山科に行って身を内蔵助に委ねて彼の指揮に従うと
同時に、しばらく伏見に一家を構え、妻子をここに落ち着かせたものと見える。
一八五 同 父子の訣別
快挙の期も追々に近づいた。源五右衛門は妻子を振り棄てて単身伏見の寓居を立ち出で、東海道を
下った。この道すがらのことと思われる。彼は余所ながら訣別の意を表しようとて、尾州名古屋の生家に立
ち寄った。実父熊井重次郎はなお壮健である。兄の藤兵衛も折よく居合せた。源五右衛門はつと入って、
父の居間に通り、
「源五右衛門が伺いました」
「これは久々振り、よく参った」
「父上には何時もご健勝で……」
「そちも無事か。おお、よく参った」
「実は折々ご気嫌を伺いするはずのところ、昨年以来の浪々に尾羽打ち枯らした有様を、ご覧に入れる
のが心憂く、無音がちに過ぎましたが、幸いこのたびは江戸表で仕官の途につくことになりましたので、
下向の途すがらお暇請いかたがた参上した次第です」
「何!」
と重次郎の目は耀いた。
「馬鹿を申せ。侍が貧乏するのが何の恥か。そちも熊井の家に生れ、片岡家を相続し、ことに故内匠頭
殿からは並々ならず目を掛けられた者ではないか。主が辱しめられる時は臣死すとの大義ぐらいは弁え
ているはずであるのに、二君に仕えて利禄を貪(むさぼ)ろうとは、見下げ果てた根性、目通りならぬ。そ
こを立て!」
と言い棄てて、そのまま奥へ入った。源五右衛門は悲懐胸に充ち、はっと平伏して目をしばたき、しばらく
父の後を拝しつつ、悄然としてこの家を立ち去った。兄の藤兵衛も父と同意ではあるが、兄弟愛の情はま
た格別で、彼はひそかに後を追い、一里ばかり送った。
「千里もまた一別の期ありじゃ。さらばここで手を分かとう」
という兄を顧みて、
「父上の怒りに触れ、面目次第もありません。しかし他日お詫びのかなう時節もありましょう。それにしても、
人は老少不常とやら、私がこのまま再びお目に掛らないこととなりましたら、兄上から宜しくおとりなしを願
います」
といいさして、
「これは私の浪々の記念、ご受納下さい」
と懐(ふところ)の小柄を取って、藤兵衛に贈った。こうして両人は別れを告げた。藤兵衛やがて家に帰るが、
父の怒りはなお収まらない。
「父が追う者を、兄が送るとは何事か。藤兵衛も源五右衛門に同意と見える。それなら二人とも勘当する」
と息まいた。藤兵衛はこれを慰め、
「お腹立ちはごもっともですが、仕官のために東下するとしては、源五右衛門の行動、何としても腑(ふ)
に落ちないところがあります。しばらく憤りを抑え、今後の彼の行方をお待ち下さい」
とかつ諌(いさ)め、かつ慰めた。快挙が発し、情報は紫電のように熊井の家にも達した。父兄の歓びは想
うにも余りある。源五右衛門が贈った小柄は後世紛失したが、彼の手紙は今も熊井家に保存されていると
のことである。
一八六 同
源五右衛門は江戸に出てから、尾州浪人吉岡勝兵衛と称し、南八町堀湊町に居を構え、同志と一致の
行動を開始した。かの大石無人の警告を受けて堀部、大石に伝達したなど、皆東下後のことと思われる。
一挙が近づくにしたがい、彼の家には矢頭(やとう)、大高、貝賀、田中等を同居させ、ともに敵情の偵察に
従事した。
附言 この人に関してもまた妄説がある。『義人録』に彼は細川邸での切腹の際「自分は元来亡君の馬
の口取りであったのを、お眼鏡にかなって、士分に取り立てられ、今日名誉ある同藩の諸士と一列に
切腹を命じられた。一期の面目これに過ぎたものはない。それについても亡君の海山のご恩に対し、
万分の一も報じ奉らず……」といいさして、目をしばだたいたと記し、『四十七士伝』もこれを踏襲した。
しかし彼の生家は尾張藩の熊井氏で、養家は聞えた片岡備前の後裔であるから、馬前(ばぜん)の
卒であった訳がない。彼が事実そう言ったとすれば、堀内伝右衛門の『覚書』に書き記してあるはずで
ある。これは『窓のすさみ』に載っている、神崎与五郎が切腹に臨み「自分は町人の子であるから、別
けて切腹に意を用いねばならぬ」といったというのと、同一の製造談である。さすがの鳩巣もうかうかと
これに乗り、佩弦斎も不用意にそのまま受け売ったものと見える。
それから『義人録』には彼の僕(しもべ)の元助が復讐当夜蜜柑箱を用意して門外に待ち、義徒の引
揚げに際し、これを人々に贈ったと書く。源五右衛門は細川邸にお預けとなった時、元助のことを語り
出すごとに暗涙(あんるい)を催した。細川侯がこれを聞いて感心し、家臣を四方に出して捜索したが、
遂に行方不明であったと、さも事実らしく記載した。これはまったく近松勘六の忠僕甚三郎の誤りであ
る。だが他の俗書に至っては、更に今一人を増やし、片岡源五右衛門の僕平助、磯貝十郎左衛門の
僕文内の両人が共に吉良邸内まで入って働き、蜜柑を配ったなどと、一層製造の手を加えた。それば
かりかこの製造者は片岡、磯貝が凶変当時から別働隊として働いたとあるのを見て、始終同居してい
たものと速断し、二人の僕の談を捏造したから、いよいよ真実に遠ざかった。何時もながら世に忌まわ
しいのは、嘘つきの偽作者である。『一夕話』などにもこれをまことしやかに載せている。止せばいいの
に。
一八七 磯貝十郎左衛門
磯貝十郎左衛門正久は江戸の産である。兄の内藤万右衛門は旗本中の名家松平与右衛門に仕えて、
家老を勤めていた。十郎左衛門は生れつき眉目秀麗で、そのうえ人性は明敏利発であった。幼少から書
を学び、能を学んだが、皆その技に達し、ことに鼓(つづみ)の妙手として称せられた。彼の父権右衛門と
懇意であった堀部弥兵衛は、彼が十四歳の時内匠頭に小姓として推挙した。愛宕の山坊教学院において
始めて拝謁した十郎左衛門は、直ちに児小姓に召し出され、以後常に君侯の左右に侍(はべ)り、寵愛さ
れた。内匠頭は日常読書を好んだが、十郎左衛門が楷書をよくするところから、絶えず写本を命ぜられた。
十郎左衛門はその命を大切にし、以後一切鼓を打つことを止めたとのことである。彼の細心もまた察すべ
しだ。こうして次第に重用され、ついに百五十石を賜って、物頭並にまで立身した。
彼が児小姓であった時、片岡源五右衛門はすでに児小姓頭であったが、両人は仲が良く親しく交わり
を結んだ。彼は新進の少年にしては珍らしい抜擢(ばってき)を受け、また主君切腹の際には片岡と共に
特に主君から名指しされて遺命を受け、さらに亡君葬儀のお供まで勤めたので、即夜髻(もとどり)を切っ
て、殉死の意を表した。しかもその殉死はいたずらには死なず、亡君の仇を取って泉下に報告しようと誓っ
たのである。それで両人は一旦赤穂に赴いて、これを内蔵助に議(はか)ったが、同地はまさに籠城論の
最中であったから、淋しく江戸に帰り、いわば一党中の別派として独自に計画を練っていた。したがって同
志の義徒には久しくその真意を知られなかった。吉田忠左衛門が江戸に下向して来たとき、内蔵助の本
心がようやく同志の間に分って来た。「さては左様であったか。それとも覚らず、今まで小者の我々が力を
かえりみず、個々に大望を達しようとしたのは、まことに恥かしい」と悔やみ、翌十五年の夏、二人は忠左衛
門に会って素志を明かした。彼のとりなしで内蔵助に請願し、始めて同盟の一員となった。こういう次第で
あるから、義徒の豪傑連は「あの少年果して義について死ぬことができるだろうか」と疑う者もあったが、彼
らの志は堅固不動、一難を経るごとに倍加した。
彼の決心が当初からいかに堅固であったかは次の一事でわかる。凶変後彼が赤穂に赴く際であった。
家を出発するとき、母堂に別れを告げながら「このたび赤穂へ下向するについては、自然滞在が長びくこと
と存じます。だが城中へ女性の文通は禁物ですから、たとえ便があっても、必ず必ず手紙など下されない
よう、くれぐれお願いしておきます」と言い残して出発した。彼の心中は明白である。彼の希望は復讐にあ
るが「赤穂に達した際に、もしも一藩が籠城し戦争の最中ともなれば、武士の意地、身は菊池七郎左衛門
となって、ともに討死するまでである」との覚悟を決めたのである。私は毎度これを言う「志士は溝に落ちる
ことを忘れない。勇士は頭(こうべ)を失うことを忘れない」だ。この談は十郎左衛門が細川邸にお預けの日、
例の堀内伝右衛門が内藤万右衛門の家を訪れ、十郎左衛門の消息を伝えた際、母堂が喜んで話した実
話である。この母堂の名はお柳、当時は剃髪して貞柳(ていりゅう)と称していた。
一八八 同
十郎左衛門は主家退転後、生家の姓に因んで内藤十郎左衛門と称し、芝の源助町に一戸を構え、一
僕を使って生活した。やがて一挙が近づくにしたがい、村松三太夫、茅野和助が来て同宿し、共に敵情偵
察に心力を傾倒した。彼は母に仕えて至孝であった。鉄砲洲の藩邸にいたときは、母を長屋に引き取って
奉侍したが、凶変以後は兄の許に帰らせた。今年十二月、まさに快挙実行の間際、母はたまたま重病に
かかり、朝夕も測れない状態であったが、十郎左衛門は涙をぬぐい、決然として義に赴いた。ああ「今朝生
別死別を兼ねる。ただ天上天下が知るばかり」だ。
彼は幼い時から有能かつ天性優雅で、弓馬の技を磨く一方、余暇には音楽の嗜好を棄てなかった。得
意の鼓は主君のため図書浄写の手を損なわないように捨てたが、弾琴の楽しみは死に至るまで休まなか
った。死後、彼の所持品を調べたところ、紫縮緬の袱紗(ふくさ)から琴の爪が一つ転がり出たので、並いる
細川の藩士たちは皆彼の優美な心掛けを感嘆した。昔、最後の戦場まで青葉の笛を手にした敦盛があり、
今、快挙の暁まで玉琴(たまごと)の爪を携(たずさ)えた正久がある。この美談は後世まで伝わった。
なおこの所持品調べの際であったが、同人の着用した衣類の裏から、また一つの香袋のような物が出た。
しかし何の薫(かおり)もないので、ついに判断がつかなかった。後に堀内伝右衛門は磯貝家の菩提院の
清久寺(せいきゅうじ)に詣でた時、このことを住職に話した。すると住職は「それは血脈(けちみゃく)つまり
血統書です。十郎左衛門は存生のうち寺へ詣り、人の命は朝も夕べも測れない。自分もやがて遠国に赴く
はず、何時何処で果てるかもしれないといって、それを請い受けられた」とのこと。さてはと主客ともにそぞ
ろ涙を催した。彼が死を決したのは主君切腹の当初からであった。
彼が義に赴いたとき年齢は二十四歳であった。他の諸同志十六名と共に細川邸に預けられた後、同志
の一人堀部弥兵衛は接伴の堀内氏に向い「このたび吉良殿に討ち入ったのは、大概浅野家重恩の者ど
もであるが、十郎左衛門は一代の新知、彼が十四歳の時、拙者の推薦で児小姓に召し出されたのが初め
であった。しかし最後まで累代承恩の同志に劣らず、忠勤を励んだその健気さ、老人ども別して不憫に思
う」と目をしばだたいた。伝右衛門は感嘆し、次の間にいる十郎左衛門にこの話を伝えると、彼は打ちほほ
えみ「老人は良いようにお話しされたとみえます。いかにも私は一代の新知ではありますが、幼少より召し
抱えられ、段々のお取立て、下された長屋なども広く、老母もゆるゆる同居することを得ました。重恩の者
に少しも違わない扱いを受けました」と答えた。彼が芳名を後世に流したのも、偶然ではない。
附言 文学者はとかく佳字を用いたがる。彼の姓は礒貝であるのを、多くの書に何時か磯貝に書き改め
た。要らない文字いじり、礒貝は礒貝で良いではないか。
一八九 富森(とみのもり)助右衛門
最後に富森助右衛門正因(まさより)の経歴に触れよう。彼の父助太夫は赤穂侯に仕えて、御留守居を
勤めた。御留守居は藩中においても重要な職である。助太夫がこれに任じていた一事をみても、その人が
凡庸でなかったと知れる。助右衛門はその後を受けて、内匠頭長矩に仕え、二百石を食して馬廻に列し、
御使役(おつかいやく)を兼ねた。彼は人となり豪健で才気は衆に超えた。ことに言語明晰で、事理を論ず
れば必ず相手を納得させた。それでこの点においては先輩では吉田忠左衛門、後輩では富森助右衛門
と並び称された。彼が始めて御使役となったのは、十九歳の時であったが、彼はその職責を果たすため、
その日から乗馬一頭を蓄えた。その志はすでに尋常ではなかったのである。元禄六年十二月、備中松山
の水谷(みずのや)家断絶の際、内匠頭長矩は水谷家の居城松山城の受取りを命ぜられた。直ちにこのこ
とを赤穂城代内蔵助に報じ、城受取りの準備をしなければならない。助右衛門はその報告使に立てられた。
彼は命を受けると我が家にも立ち寄らず、駅伝の早駕を飛ばし、百五十余里の道程を昼夜追い通し、六
日目に赤穂に達したので、人は皆驚き、飛ぶ鳥も及ばないと嘆賞した。
彼は平生からいつも二十両の金を懐にし、離すことがなかった。彼はいう「侍は何時いかなる事変に会
い、いかなる御用を命じられるか知れない。その時あらかじめ用意がなければ、必ず遅れを取る」と。この
一事で彼の不断の心掛けを察することが出来る。主家の凶変が発した時、彼の母堂は助右衛門と共に鉄
砲洲邸内の長屋にいたが、深くこれを悲しみ憤り「内匠頭様には切腹を仰せ付けられながら、上野介様は
そのままにおかれるとは、近頃片手打のお仕置、この上は是非もありません……」と助右衛門に暗示した。
この母あってこの助右衛門、これを聞いて感奮しないわけがない。この時から彼は復讐の志を決めた。
彼はやがて母方の祖父に因(ちな)み、山本長左衛門と変称し、ある伝手(つて)にまかせ、川崎在の平
間村に一屋を新築した。討入りの当年までここに住み、折々出府しては同志と語らい、讐家を偵察した。時
機が切迫して来ると、ここでは何かと不便であるから、新麹町五丁目に一戸を借り受け、妻子と共に移った。
統領内蔵助の下向のとき、この人が突然江戸に乗り込むと、一時に市中の評判となるおそれがある。そこ
で吉田忠右衛門は助右衛門と相談し、助右衛門の平間村の宅を修繕して、先ずここに内蔵助を迎えるこ
とにした。いわゆる内蔵助の平間村の寓居とは、この新宅のことであった。
こうして助右衛門は新麹町五丁目の借宅にいて、同志と共に夜々上野介の本庄邸の光景をうかがった。
後に彼は細川邸にお預けとなった時、宿直の士に「吉良邸は総体平長屋で、竹の腰板を打ち、壁も中塗り
ぐらいであった。それで屋内の火が透いて見える。その火影からうかがえば、いかにも堅固な用心をしてお
り、こちらの槍などは短いものが利であろうと相談し、大体九尺ばかりに切り縮めた」といった。その用意もま
た実に周到ではないか。
彼の忠烈と勇武とは、大要このとおりであるが、「武備ある者はまた文事あり」といった孔子は嘘を言わな
い。助右衛門は文学を楽しみ、和歌にも指を染め、俳句はもっとも彼の得意とするところであった。快挙の
日子葉(しよう)が沾徳(せんとく)に与えた手紙に「春帆(しゅんぱん)、竹平(ちくへい)も同じ道、涓泉(け
んせん)はご存じのとおりであります」とある。子葉は大高源五、竹平は神崎与五郎、涓泉は萱野三平、春
帆は富森助右衛門である。
一九〇 四十七烈士 役職と俸禄
主家の変報が始めて赤穂に達したとき、城中に来会した者は三百人を超えたが、籠城、続いて殉死の
神盟になるとたちまち六十一人に減った。中頃主家再興の希望がやや見えると、同盟者は百二十四人に
増えた。そのうち橋本、菅野、矢頭、岡野の四烈士が一挙に先だって死亡したのを除いても、なお百二十
人の同盟者がいた。しかし一党東下の日には急転直下五十五人となった。これだけは大丈夫かと思いの
ほか、いざ討入りという場になると、残り留まった鉄心石腸の義徒の数は、以上に述べた諸士と、統領大石
父子を合わせ、僅かに四十七人となった。人心の頼み難さ、古今同嘆のほかはない。しかしながらたかが
五万三千五百石の一小藩から、その誠忠、日月と光を争うほどの忠臣義士が四十七人も出たのは、さす
がに代々の浅野侯が賢者に礼し、士を愛し、名節を奨励した結果である。名教節義がもたらしたものはま
ことに貴い。ここに当時藩籍の地位により、四十七烈士を列挙すれば、次のとおりである。
大石内蔵助良雄
家老
千五百石
同 主税良金
片岡源五右衛門高房 内証用人兼児小姓頭 三百五十石
原惣右衛門元辰
堀部弥兵衛金丸
近松勘六行重
吉田忠左衛門兼亮
同 沢右衛門兼貞
間瀬久太夫正明
同 孫九郎正辰
堀部安兵衛武庸
潮田又之丞高教
富森助右衛門正因
赤垣源蔵重賢
不破数右衛門正種
岡野金右衛門包秀
小野寺十内秀和
足軽頭
(元江戸留守居)
馬廻
足軽頭兼郡代
三百石
三百石
二百五十石
二百石
大目付
二百石
馬廻
二百石
馬廻兼国図絵奉行 二百石
馬廻兼使役
馬廻
(元馬廻)
(物頭並)
京都留守居
二百石
二百石
百石
二百石
百五十石
同 幸右衛門秀富
奥田孫太夫重盛
同 貞右衛門行高
大石瀬左衛門信清
木村岡右衛門貞行
矢田五郎右衛門助武
早水藤左衛門満尭
磯貝十郎左衛門正久
間喜兵衛光延
同 十次郎光興
同 新六光風
馬廻兼武具奉行
百五十石
馬廻
馬廻
馬廻
馬廻
物頭並
馬廻
百五十石
百五十石
百五十石
百五十石
百五十石
百石
馬廻
馬廻兼代官
馬廻
中小姓兼扶持奉行
百石
百石
百石
二十石五人扶持
中村勘助正辰
菅谷半之丞政利
千馬三郎兵衛光忠
村松喜兵衛秀直
同 三太夫高直
岡島八十右衛門常樹
大高源五忠雄
倉橋伝介武幸
中小姓兼勘定方
二十石五人扶持
中小姓兼膳番元、金奉行、腰物方 二十石五人扶持
中小姓
二十石五人扶持
矢頭右衛門七教兼
勝田新左衛門武尭
前原伊助宗房
貝賀弥左衛門友信
武林唯七隆重
杉野十平次次房
神崎与五郎則休
茅野和助常成
横川勘平宗利
児小姓
中小姓
中小姓兼金奉行
中小姓兼蔵奉行
中小姓
中小姓
横目
横目
歩行
二十五石五人扶持
十五石五人扶持
十石三人扶持
金十両米二石三人扶持
金十両三人扶持
金八両三人扶持
金五両三人扶持
金五両三人扶持
金五両三人扶持
三村次郎左衛門包常 台所役
七石二人扶持
寺坂吉右衛門信行
足軽
計 四十七人
附言 父子は相続者だから並べておいた。職、禄、共に諸書に異同がある。ここでは『赤穂分限帳』によ
った。
一九一 ピラミッド論
義徒四十七人を赤穂藩籍の地位から並べてみると、自分は非常な興味を感ずる。つまり政治学上から
尽きない興味を感ずる。というのは、赤穂藩は僅か五万三千五百石の一小藩である。このような小藩の百
石以上の士といえば、加賀や薩摩などの大藩の五百石以上の役職に匹敵するのだが、これら一挙の義徒
は、四十七人中の二十九人までは、百石以上、もしくはそれと同格の士である。つまり一党の約三分の二
までは、藩歴々の上士であった。これによって知ることが出来るのは、当時の風潮はいかに尚武とはいえ
万事が華奢風流な元禄時代である。その中にあって戦国時代の余韻は、なお社会のどこかに残り「高禄
の士は一国の大事に当る責務を持つ」という崇高な連帯責任が、まだまだ上流の社会を制約していたので
ある。
これと同時に喜ばしい新現象が中流以下の社会に発生した。義徒の三分の一以上すなわち十八人ま
では、二十石、十石、はなはだしいのは五両三人扶持の徒行(かち)横目までを含めた下士の層であつた。
たとえ一人二人とはいえ、台所の味噌用人三村次郎左衛門や、袴の裾を上げて駕籠先を走った足軽の寺
坂吉右衛門までがこれに参加した一事である。思うにこれは徳川氏が八十余年間の太平を開いて、教育
を広く一般にまで及ぼした結果である。なかでも浅野家三代が名節をもって一藩を訓育した結果である。と
にもかくにも、少数とはいえ、共同体意識が下流の士人まで行き渡ったのは、実に国民の一進歩といわね
ばならない。
すでに月日は事変から百五十余年が流れ去った。この一世紀半の間に、肉食者流はおおむね腐敗し
た。諸侯は飾り物、卿太夫は木偶(でく)の坊、多くは物の用にも立たない禄盗みとなり終わった。代りに名
教の範囲は拡大して、国家の保持は中流以下、下流の士人の双肩にまで落ちて来た。これを嘉永および
安政以降に見よ。西郷吉之助は茶坊主より起り、大村益次郎は藪医者から奮い、真木和泉は神主から立
ち、月照法師は寺から飛び出す。今これを思えば、半島帝国の副王殿下も、元をただせば桂小五郎の家
来の者ではないか。すなわち明治維新を形作ったのは、元禄の義徒とは反対に、百石以下の沈竹(ちん
ちく)侍が七、八分で、残る二、三分が上士であった。
それからまたまた四、五十年、我らが生息する現代を思え。国民護国は義務となった。立憲政体まで作
り出した。政治は平民の社会にまで拡大した。ではこの辺が行き止りか。いやまだまだ前途に広野(こうや)
がある。現代は同じ平民中でも富豪社会がこそこそと政治に参与するばかりであり、今一息の拡大を要す
る。国民すべてが国家の保持に関心を持って、熊公蜂公が双肩に分担するあたりまで行って、始めて帝
国の富強を論ずることが出来る。同時に日本の隆昌は実現するのだ。
それで私は常に言う。歴史的に、政治的に、政治体制は厳然としたピラミッド形である。君主専制がその
頂辺、寡人政治が八合目、封建政治が五合目、立憲君主制で二合目となり、富豪や官僚が主体の立憲
政治が一合目、もう一息でピラミッド塔の麓(ふもと)の平坦な四民政治となる。明治の現代の忠臣義士は
お互いにこの地に向って邁進(まいしん)しなければならない。
一九二 名士の同情 寺井玄渓、同玄達、内蔵助の書、内海道億
義徒はすべて江戸に集中した。ここまでの一党の苦心とその経歴の大要も、すでに述べた。次にこの一
挙に関し、あるいは直接に、あるいは間接に、蔭ながら同情を寄せ援助した人々について触れよう。その
随一としては、寺井玄渓父子を推さねばならない。
玄渓の父は本多出雲守政利に仕えていたが、政利は一旦解任されたから、玄渓は父と共に浪人となっ
た。が、玄渓は医道に詳しいので、京都に隠れて町医となった。内匠頭長矩はその名を聞き、元禄十三年、
三百石十五人扶持の高禄で彼を迎えた。かれが尋常の士でないのは、この一事で察することができる。彼
は鉄砲洲の邸にいたが、仕えて二年にもならないうちに、主家の凶変が起きたのである。軽薄の徒なら、そ
のままこの藩を去るところ。しかし彼はこの変に出会うと、深くこれに憤慨し、ただちに赤穂に赴いて、内蔵
助と進退を共にした。一藩退転が決まると、内蔵助と前後して京都に出、再び町医を開業して、よそ目を繕
(つくろ)いながら、ひそかに復讐の議に参画した。彼の才識は優に人に超え、志操もまた堅固である。内
蔵助は大いに彼を尊重し、事ごとに相談を重ねた。彼は一挙のすべての面で参画したのであった。
元禄十五年七月二十八日の円山会議によって、一党総討入りが決まり、内蔵助も近々江戸に下向しよ
うとする。玄渓はこれを見て、自分も一緒にと主張する。内蔵助は種々にこれを止めたが、彼は容易に承
知しない。やがて彼に次の手紙を送った。
一筆啓上。かねてたびたび聞いた貴殿の意向は、誠にもっともなことで感心しております。しかし貴殿東
下の件は、私を始め同志の主だった衆は、それには及ばないと考えております。お志を曲げて残念と
思われましょうが、元来勤め方の違う貴殿が同道されると、何事かを備えてのことかと人の口にかかり、
お互いに立場を失います。戦場へ医役を務めるはずのものが、戦場に出られなくなります。ここは留まり
なさるのが道理と存じます。貴殿の命を嫌ってこう申すのでは神もってありません。皆がどのような始末
になっても、定めて世間は取々の毀誉褒貶(きよほうへん)をするでしょう。我々の年月の寸志をよくご存
知の貴殿ですから、その時相応の対応をして下さることが、第一のご芳志とお頼みします。この段を聞き
届け、ぜひともお留りなさるよう願います。奥野将監もこの頃上京し、貴殿のお噂をしながら、私から同
様に伝えてくれと申しております。なお惣右衛門、伝兵衛、源五左衛門、源四郎、十内等からも面談し
てこの件をお願いする予定であります。
八月六日
大石内蔵助 印
寺井玄渓様
情を尽し理を尽した上に、後事までも托されたので、玄渓も今は力なく、「では一挙が終るまで、せめて
伜だけでも召し連れて下され。御一同の病気または負傷の治療だけでもさせたい」と申し出た。内蔵助始
めそこまで反対できず、これだけは同意した。
やがて義徒は追々に京畿を出発した。玄渓の子息玄達はその後を追って江戸に着府し、本町一丁目
七文字屋に別宿を取り、ひそかに同志の間を周旋し、見事復讐の成功を見届けた後、十二月二十六日京
都に帰り、顛末を父に報告した。
* * * * *
同じく赤穂の藩籍にあって、医官として内匠頭長矩に仕え、その気節おさおさ義徒に劣らなかった者は、
内海道億(うつみどうおく)である。彼は今でも東京の丸の内に道三橋の名を留めた有名な幕府の御典医
曲直瀬道三(まなせどうさん)に医術を学んで、医の道を立てた。道億の名は師の道三から得たのであろう。
業成って浅野家に召し出され、十五人扶持を食していた。主家の凶変以来、彼は深く感ずるところがあっ
て、まったく医業を廃した。京橋の三輪町八官町裏に隠棲して義徒と往来し、絶えず復讐の謀議に参与し
た。彼はすでに医業を断ったので何人が治療を頼んで来ても応じない。しかしながら同志が病気といえば、
心を尽して救護した。思うに義徒が江戸に隠れて讐家をうかがう間、世間の手前またその日の生計のため
に、医者の真似をした者が多い。これらは大概道億の事実的代診であったろう。当時彼にこれを問うたなら、
イヤ新米の医者どもの下手さ加減には閉口すると笑ったであろう。いよいよ討入りとなった際、彼はぜひと
も衆と共に義に赴こうと主張した。しかし内蔵助始め寄ってたかって、百方これを止めたので、やむをえず、
一挙の列には加わらなかったが、後に残って、同志の遺族などのために、大いに力を尽した。彼がいかに
毅然たる一丈夫であったかということは、一党の副統領吉田忠左衛門が細川邸にお預け中、しばしば彼の
節義を称し、また諸士が切腹前、内蔵助が原惣右衛門に命じて、長文の手紙を書かせ、彼に送ったので
も知れる。
一九三 同 大石無人、同三平、堀部九十郎、佐藤条右衛門
以上は直接に浅野家に被官した人々であるが、このほかにも義徒に熱い同情を寄せ、間接に一挙を賛
助した人が少なくない。その第一は大石無人ら父子三人である。この三人に関してはさきに述べたとおりで
あるが、なお不足分を補おう。
大石無人は内蔵助の同族、ことに瀬左衛門にとっては伯父であった。この人は名誉の士であり、故采女
正(うねめのしょう)長友に仕えていたが、故あって浅野家を去り、忠臣二君に仕えない掟(おきて)を守っ
て、浪人した。その子は二人、長は郷右衛門、次は三平という。兄弟ともにまた英物であったとみえ、郷右
衛門は津軽越中守に抱えられ、御側用人の顕職となって本庄の邸にいた。父の無人は次男の三平ととも
にそこに同棲していたのである。「同気相求め同心相照す」のとおり、無人は堀部弥兵衛と日頃から親しく
交わった。浅野家凶変の際弥兵衛は七十五歳、無人も七十五歳であった。ある日無人は弥兵衛に会って、
「自分はただいま浪人してはいるが、浅野家のご恩を蒙った者、『君父の讐とはともに天を戴くことができ
ない』のは、貴殿と同じである。自分も是非に一同の中に加えて下され」
と申し出た。弥兵衛はこれを聴いて頭を振り、
「ご芳志はかたじけないが、それは無分別と申すもの。以前はそうであっても、浅野家を離れてからもは
や久しいこと、ましてただいまは子掛りのお身分でござろう。平に思い止まり下され」
と諌(いさ)めた。
「そういわれればそれも道理、しかしいかにも心外にたえない。よろしい、この上は一同に加わらなくても、
拙者の働く余地がないでもない。幸い二男の三平はまだ部屋住みだから……」
といい、これより無人と三平とは、心を合わせて、吉良家の動静を偵察し、一々これを義徒に通知した。彼
が片岡、磯貝の両士に激しく語って、内蔵助の猛断速発を促したのも、この間のことであった。そして一党
の討入り当夜、三平は吉良邸までついていった。これは討入りの場面で述べよう。
附言 三宅観瀾は『烈士報讐録』を著すのに、江戸の出来事は内蔵助の親類の大石庄司良丸に聞いて
書いたという。その人は現に津軽氏に仕えると付記している。これは当然郷右衛門のこと、郷右衛門は
後に名を庄司と改めたものとみえる。
* * * * *
また堀部弥兵衛の甥に、一人は堀部九十郎、一人は佐藤条右衛門という義勇の士がいた。いずれも当
時浪人していたが、復讐の快挙に賛成し、ひそかに義徒のため大いに尽力した。なかでも条右衛門は安
兵衛の従弟で、彼は往年長崎奉行の諏訪明石という人に頼まれ、浪人のまま客分となって、同じく長崎に
在番中であった。その時、ならず者の足軽どもが結托して貨物の盗奪を企てた。条右衛門はこれを見て
「おのれ憎き奴ばら!」と叫びながら、単身これに向い、頭立つ者三人を引き捕え、一々これに縄打って奉
行の前に突き出した。それほどの剛の者であった。義徒総討入りの当夜、この条右衛門と九十郎は伯父の
弥兵衛老人を助けて、吉良邸まで行き、大石三平と出会って間接に快挙を手伝った。
一九四 同 堀内源太左衛門、細井広沢
この時代の江戸の剣客はといえば、堀内源太左衛門正春が第一人者であった。打物取っては、実に天
下無双の豪傑であった。したがって天下の勇士は雲のように彼の門下に集まった。義徒の中でも堀部安兵
衛、奥田孫太夫ら七人までその門人であった。源太左衛門の人となりはすぐれて義を好み、義徒に復讐の
志があることを知り、外から私に一挙を援助した。義徒が目的を達するまでに、彼の助力を得たことは、多
大なものであったらしい。
* * * * *
彼の剣術の門人に細井広沢(こうたく)という傑物があった。名は知慎(ちしん)、通称は次郎太夫、広沢
は号である。世には広沢として知られた。彼は昔の杜武庫(とぶこ)のように学問武芸万般に通じ、しかも皆
その道に熟達していた。業成って柳沢出羽守吉保に仕え、大いに信任を得た。世に批難の多い吉保が一
生の間に、この細井広沢と荻生徂徠の二人の名家を重用したことは、美談として伝えられたほどである。広
沢がいかに識見が高かったかは次の一事に表われている。当時の社会は世を挙げて、江戸に将軍あるこ
とを知って、天皇があることを知らない有様であった。その間に立ちながら、彼はつとに尊王の志を抱いた。
代々の山陵の荒廃を深く嘆き、『山陵記』を著わして、主人出羽守に献言した。元禄十六年つまり赤穂の
義徒が切腹した年から、幕府が歴代御陵の修繕を始めたのは、広沢の建議の力が預って大きかったので
ある。それで今の陛下の御代となった明治三十年、彼に従四位を追贈されたほどである。彼の著述は多方
にわたり極めて多い。それだけ彼が多趣味かつ博識、多技であったことが分る。中でも彼は書法に精しく、
彼の書と書法に関する著書は後世まで伝承されている。それで細井広沢といえば、世人一般には書家と
して記憶されていて、彼が文武兼備の名士であったことはよく知られていない。これは余りに能書家であっ
たために、他の面がおおわれてしまったのである。
以上で彼の学識才芸の一端は分るが、武芸にかけても、また一代の剛の者であった。全体に彼の人と
なりは方正剛直であり、容貌(ようぼう)は魁岸雄偉(かいがんゆうい)、一見して尋常の士ではないことが知
れた。また彼は談論を好みよく人と議論した。酒の場で節義の話題になると、頭髪を逆(さか)しまに立てて
激論する感があった。彼は剣法を堀内源太左衛門に学んで奥を極め、堀部安兵衛と並んで、両人ともに
堀内門下の四天王中に数えられた。これらの縁故から彼と安兵衛とは何時か親密な友人となった。快挙の
数日前、内蔵助の意で一党討入りの趣意書が作られたが、その冒頭に「君父の讐とは共に天を戴かず」と
あるのを、安兵衛が見て、ひそかに懸念し『礼記にはただ父の讐は……』とあるを、君父の讐と改めては、
後世に笑われる恐れはないだろうか」と相談した相手は、この広沢であった。こんな秘密まで打ち明けるく
らいの間柄であった。したがって広沢が義徒のために骨を折ったのも、また尋常ではなかった。
* * * * *
このほか隠れた豪傑が間接に義徒を助けたのも少なくはなかったろう。あの千馬(ちば)三郎兵衛に頼ま
れ、ある便宜によって敵情を偵察し、有力な報告を与えた名誉の一浪士、あるいは堀部安兵衛に四方庵
宗遍が吉良家に出入りすることを教え、かつこれに接近するのを紹介し、十二月十四日の茶会を探知する
緒を開いた浪人羽倉斎は、たまたまその一、二例である。
一九五 義僕甚三郎
以上義人志士を列挙したついでに、近松勘六の家来甚三郎の忠節を述べよう。
甚三郎は主人と同じく近江の蛭田(ひるた)出身である。彼は近松家譜代の者とみえる。勘六が最後に
東行したとき同行し、主人と同じく石町二丁目の本営にいて、骨身を惜しまず主人のために働いた。討入り
の期が切迫して来たので、勘六は甚三郎に暇を取らせて郷里に帰そうと思い、彼に向ってこの意を伝えた。
すると甚三郎は恨めしそうに主人を見上げ、
「それは情ないお言葉です。私つくづく皆様の様子をうかがいますと、思い立った一挙も近々のことと見
受けます。私が旦那のお供をして故郷を出発したとき、父は私に向い、このたびのご主人の関東下向は、
並々ならぬ大事の御用だ、精を出し身命をなげうって奉公せよと、懇々と訓戒してくれました。父の訓戒
は片時も忘れません。今日、永のお暇を下さるとのお話、これはもはや甚三郎はよくよく物の役に立たな
いから見限るということでしょうか。」
と言いさして、すすり上げ、
「旦那に見限られたのでは、是非もありません。私は退いて覚悟をいたします」
と、彼の切腹の決心が顔色にはっきり出ていた。
ああ「三軍は帥を奪うこともできる。しかし匹夫の志を奪うことはできない」と孔子は言った。勘六はこれを
見て深く感嘆し、
「これほどまでに自分に忠を尽してくれるか。ではお前に話しておくことがある。実は太夫から、今回の一
挙は故内匠頭様に奉公した赤穂の藩士のみに限り、その他はいかなる縁故の者であっても、参加して
はならないとの厳命である。それゆえ事に托してそれとなく瑕を取らせようとしたので、必らず悪く取ってく
れるな」
と、かつ慰め、かつ諭(さと)した。甚三郎はこれを聴いて、始めて理解し、
「そういう趣意でしたか。不肖ではあるがこの甚三郎、かねては討入りの夜には、一分の勇気をふるって
戦おうと、心に期しておりましたが、軍令であればかえって旦那の首尾にも関わりますから、せめて討入り
当夜の途中までなりとも、お供をお許し下さいますよう、私一期のお願いでございます」
と申し出た。勘六ますます感嘆し、そのまま彼の希望に委せた。
十二月十四日の夜となった。甚三郎は甲斐甲斐しく扮装して、吉良邸の表門前まで主人勘六の後に付
き添った。一党は討ち入る。戦闘は開始する。打物の響、矢叫(やさけび)の声、それがようやく衰え微かに
なった頃、凱歌の声は天地を動かして、どっと邸の中からどよめいた。さては大勝利かという間もなく、一党
の衣甲は血痕まだら、人々は満面の喜色を湛えて、偉風堂々門外へと出て来る。甚三郎は何時の間に買
い調えたか、両方の袂(たもと)に溢れるほど蜜柑と餅を入れて、門前に待ち受けていた。
「皆さまおめでとうございます。さぞお渇(かわ)き、空腹でございましょう」
と言いながら、蜜柑と餅を配る。「ありがとうよ!」「かたじけない!」の声は、あたりに響いた。甚三郎の心配
りは褒めるにも余りある。
彼は主人の手傷をいたわって、泉岳寺にも従い、仙石邸から細川邸へと主人が護送されるときも、前後
に見え隠れしながら付き添った。その後彼は、当時谷中の長福寺に僧の弟子となっている勘六の弟文良
の許に身を寄せた。しばらく滞在して主人の動静を聞き合わせたあと、淋しく故郷に帰った。
後に勘六は細川邸で同志と四方山話をしたとき、甚三郎について
「彼の心情を思い返れば、実に不憫(ふびん)であった。今となって考えれば、彼に苗字を与えて武士と
し、太夫に願って一党中に加えてやればよかった。残念に思う」
と語り、涙を流したということである。
附言 以上は義徒に熱烈の同情を有し、しかも忠実でかつ誠実な堀内伝右衛門が近松勘六その人から
直接に聞き取り、かつ自身谷中の文良師をも訪うて、甚三郎の去就までを突止めて筆記したものであ
るから、疑いを入れない。しかるに鳩巣は風聞に誤り、これを片岡源五右衛門の僕(しもべ)元助として
記述した。そのため後世の作者はいずれもそれを事実と信じてしまった。ともすれば古人は事に粗漏
な面がある。鳩巣すら時にこのとおりであるから、他は推して知るべしだ。『一夕話』のように片岡、磯
貝両氏の僕平助、文内のことだとするに至っては、例の江戸製造の講釈師の談に過ぎず、余り製造し
過ぎると、折角の美談も厭(いや)になる。
一九六 七十四醜夫 その名と俸禄
この一挙に関し、忠臣、孝子、節婦、賢母、侠士、義僕の人々が払った苦心算段は、以上に述べたとお
りであるが、その傍(かたわら)から出も出た、背盟忘義の七十四名の醜夫が出た。それは次の奴(やつ)ば
らであった。
奥野将監
千石
進藤源四郎
四百石
河村伝兵衛
四百石
河村太郎右衛門 伝兵衛伜
長沢六郎左衛門 三百五十石
長沢幾右衛門 六郎左衛門伜
小山源五左衛門 三百石
小山弥六
源五左衛門倅
佐藤伊右衛門 三百石
佐藤兵右衛門 伊右衛門伜
大石孫四郎
三百石
渡辺角兵衛
二百五十石
糟谷勘左衛門 二百五十石
井口忠兵衛
二百五十石
稲川十郎右衛門 二百二十二石
月岡治右衛門 三百石
渡辺佐野右衛門 角兵衛伜
糟谷五左衛門 勘左衛門伜
木村伝左衛門 禄高不詳
山上安左衛門 二百二石
佐々小左衛門 二百石
岡本次郎左衛門 二百石
佐々三左衛門
岡本喜八郎
小左衛門伜
次郎左衛門伜
多芸太郎左衛門 二百石
高田郡兵衛
二百石
高久長右衛門 二百石
灰方藤兵衛
百五十石
田中権右衛門 百五十石
里村津右衛門 百五十石
塩谷武右衛門 百五十石
酒寄作右衛門 百五十石
高谷儀左衛門 百石
平野半平
二百石
井口半蔵
二百石
木村孫右衛門 二百石
上島弥助
百五十石
幸田与惣右衛門 百五十石
田中貞四郎
百五十石
前野新蔵
百五十石
中村清右衛門 百石
仁平郷右衛門 百石
榎戸新介
百石
河田八兵衛
百石
嶺善左衛門
百石
田中代右衛門 百石
杉浦順左衛門 百石
近松貞六
百石
小幡弥右衛門 百石
松本新五左衛門 百石
山羽理左衛門 百石
中田理平次
百石
小山田庄左衛門 百石
田中序右衛門 八十石
近藤新五
三十石六人扶持
鈴田重八
三十石
久下織右衛門 二十五石五人扶持 田中六郎左衛門 二十五石三人扶持
豊田八太夫
二十石三人扶持
生瀬十左衛門 二十石三人扶持
毛利小平太
二十石三人扶持
大塚藤兵衛
十五石五人扶持
各務八右衛門 十石五人扶持
吉田貞右衛門 九石三人扶持
陰山惣兵衛
金十五両三人扶持 猪子理兵衛
金九両三人扶持
三輪喜兵衛
金六両三人扶持
三輪弥九郎
喜兵衛伜
土田三郎右衛門 金七両三人扶持 梶半左衛門
金五両三人扶持
橋本次兵衛
金五両三人扶持
倉橋八太夫
不詳
矢野伊助
足軽
瀬尾孫左衛門 内蔵助家来
これらは皆最初の連盟以来、今十五年の春にかけ、内蔵助の手許に神文の盟書を入れた者である。こ
れらの無恥無羞(むしゅう)漢の相互関係をみると、河村伝兵衛、同太郎右衛門、長沢六郎左衛門、同幾
右衛門、小山源五左衛門、同弥六、佐藤伊右衛門、同兵右衛門、渡辺角兵衛、同佐野右衛門、糟谷勘
左衛門、同五左衛門、佐々小左衛門、同三左衛門、岡本次郎左衛門、同喜八郎、三輪喜兵衛、同弥九
郎は、揃いも揃って父子ともに腰を抜かし、その他同族の者も少なくない。真誠の義臣に父子兄弟が多い
ように、腰抜けの背盟漢もまた一家親類を集めている。古くから「磁石は鉄を吸い、琥珀(こはく)は芥(あく
た)を拾う」という。牛は牛連れ、馬は馬連れ、争われないものである。これについても人としての名誉を思う
家庭は、平素から義を尊ばなければならない。父子の親も、君国の愛も、結局は皆家庭にある。
これについて神崎与五郎の書『憤論』中の一節を意訳してみる。
かの奴らが一時義盟についたのは、ひとえに亡君の弟が世に出るとの浮説に頼ったからである。赤穂
にあって、世々君禄を食(は)みながら、侯家の滅亡に会し不善をなす者は、山のようにまた淵のよう
にあったが、これらはもとより論ずるに足らない。当初より義盟に入らなかった者は、軟弱の徒ばかりで
ある。しかし一たび同盟に加わり、同志と意見を同じくしながら、その後に逃れた者の罪悪は前者に倍
増する。彼らが頭を下げても宇宙の神霊はこれを許さないだろう。天下後世はこれを思い、これを戒め
てもらいたい。
と言った。義徒の憤慨を目のあたり見る心地がする。横川勘平の書中にもこれを論じて、
去夏籠城の覚悟の節に臆病を働いた先非を悔い、大学殿の去就をうかがって様々言訳をし、手立て
を求めて山科の内蔵助に縋(すが)り、首を下げ手を束(つか)ねて同志の人数に入りながら、またこの
たびの首尾を恐れ、すみやかに逃げる大臆病者。
と非難した。とにもかくにも誠忠日を貫ぬく四十七烈士の前に、その数を転倒して、義なく恥ない七十四醜
夫を出したのは、まことに奇怪な対照であった。
附言 以上列挙した背盟者の人名が普通の成書にあるものより多いのは、横川勘平、神崎与五郎が筆
で非難した書中に見える奴らを始め、最初の義盟に列しながら、行方の知れない輩までを、すべて収
めたからである。私はこれがもっとも正確であると自信を持つ。
一九七 醜類一束 高田郡兵衛
以上七十四醜夫の中で誰よりも早く逃げ出したのは、高田郡兵衛であった。「進むこと早い者は、退くこ
とも早い」という。古人は人を騙(だま)さない。彼は元来江戸の士で、内匠頭長矩に召し抱えられ、二百石
を食して近侍(きんじ)を勤めた。文武にわたって才気のある男であり、日頃奥田孫太夫、堀部安兵衛らと
親交した。去年三月の凶変以来、孫太夫、安兵衛と共に讐家の動静を偵察し、三人打ち揃って赤穂に下
った際には、盛んに内蔵助の開城論に反対し、死を決して籠城しようと一藩の志士を勧誘するなど、いか
にも忠誠無二の士と見えた。その後江戸に帰府してからも、原惣右衛門、大高源五らと息を通じ、むしろ内
蔵助の漸進主義を手温(ぬる)いと罵り、いかにも急進派中の領袖らしく見えた。しかし根が虚勇を示す軽
薄者であるから、内蔵助は最初から彼に信を置かなかったのである。
果して時日が経過するにしたがい、彼の虚勇、彼の偽忠は剥(は)げて来た。彼は浪人となってから兄の
高田弥五兵衛と同宿していた。その頃彼の伯父で旗本の内田三郎右衛門という者が、高田兄弟と交際し、
深く郡兵衛の才気に惚れ込んで、養子にしたいと申し込んだ。郡兵衛は辞し兄の弥五兵衛もまた辞する
が、三郎右衛門はなかなか承知せず、是非にと迫るので、弥五兵衛は「実は弟は亡君のために同志と誓
い、復讐の大望を抱いている様子で、折角の仰せではあるが応じ兼ねる」と告げた。すると三郎右衛門は
目を丸くし「それはまた筋違いの企て、内匠頭殿は公儀から御仕置を命じられ、公の法にしたがったので
ある。しかるに郡兵衛らが徒党を結び、復讐を唱えるとは、まさしくお上への反抗にほかならない。それが
本当なら、我ら公儀に立つ者は聞き棄てできない」と訴え出かねない権幕となった。郡兵衛これを立ち聞き
して、あわてて入り「そんな話は毛頭ありません。根も葉もない世上の風評に惑わされ兄の邪推、迷惑至極
です。私が辞退するのは全くもって身の不肖を省みた上のこと、ほかに理由はない。なおよく熟考してご返
事申す」と、僅かにその場を切り抜けたということである。
郡兵衛は悄然として堀部安兵衛を尋ね、以上の出来事の始終を語った。
「兄が粗忽なことで取り返しのできない事態となった。養子を断れば、大事の発覚となり、養子となれば、
一分の忠義はすたる。進退ここに極まった。この上は方々の面前で切腹いたし、私の志を明かにするよ
りほかない」
と申し出た。これは最初から脚色して来た狂言である。昔から他人に切腹の相談をする奴に限り、腹を切っ
た例がない。安兵衛これを聴いて、彼の日頃の気象からさぞ心中では憤慨しただろうが、口実が口実であ
るから無いこととも断じられない。万一このことから大事が破綻でもしようなら、同志の一年の苦心はまったく
水泡に帰する。それでやっと憤懣を押え
「事すでにそこまで来ておれば、切腹しても意味がない。かえって先方に疑念を持たせる結果になろう。
暫く忍んで先方の望みに従うのも、忠義のためとなる」
と慰めた。郡兵衛は腹の内に「図星が当った」と喜んだであろうが、いかにも心外らしい顔色をして帰った。
今年正月の頃から全く脱盟の一人となった。彼の狡猾実に憎むべきだ。
追々このことは同志に知れた。年少の人々は切歯扼腕(せっしやくわん)し「畜生、斬って棄てよう」と息
まいたのを、領袖たちがねんごろに諭(さと)し「小を忍ばなければ、大謀を乱す。しばらくは棄ておいて、
彼に秘密を保たせほうがよい」と止めたので、郡兵衛は首をまっとうすることができた。命冥加(みょうが)な
獣(けだもの)ではないか。
一九八 同 奥野将監と河村伝兵衛
高田郡兵衛はまだいうに足らない。背盟不義の親方として罪を許せない者は、奥野将監である。彼の祖
先山城半右衛門の武功は藩中に隠れなく、藩祖はことに彼を重用した。その余沢を得て、将監は禄一千
石を食し、番頭を勤めた。つとに山鹿素行にも師事して兵学の一端を学び、名誉の士の一人と称せられた。
凶変以来盛んに正義を主張し、大野九郎兵衛の出奔以後は内蔵助と並んで藩政に当り、本城引渡しにも
参与すれば、内蔵助と同行して江戸に出、ともに荒木十左衛門にも答礼に出かけた。内蔵助からも多少
重んぜられ、同志の諸士からも崇(あが)められたが、時日の経過するにしたがって、命が惜しくなって来た。
しかし多年名誉の士と称せられた者が命が惜しくて同盟を脱したでは、世間に対して後ろめたい。それで
彼は口実を案じ出した。「一党の統領である内蔵助が放蕩乱行のあのざまでは、とても大事を果たせない、
自分は彼に愛想が尽きた」と同志の前を繕って、あらかじめ遁走の素地を作った。狡猾もはなはだしい。し
かし八月頃までは依然同志の体裁を装っていた形跡は、内蔵助が同月六日付で寺井玄渓の同行出府を
諌(いさ)めた手紙の中に「奥野将監もこの頃京に登られ、貴殿の噂を申され」とあるので分明である。しか
しいよいよ出発となり、いざ同行をと促されるとまったく背盟の本色を現わした。この点においては河村伝兵
衛も同様であった。彼も同じく前年末には内蔵助の東下に随行し、領袖顔を振りまいた奴であったが、ここ
に至って尾を引いた。横川勘平は当時両人の醜態を書き付けて、
「奥野将監、河村伝兵衛、この両人は、人に犬といわれても、死はかなしいことなので、江戸へは行けな
いという。笑止かな笑止かな」
と嘲(あざけ)った。思うにこの時内蔵助は彼の偽忠にあきれ果て、唾棄(だき)したのであろう。だが若手の
連中は憤懣にたえず、憎さも憎いと迫りつけ、大いに彼を詰責(きっせき)したらしい。ここで彼はついに化
の皮を現わし、犬と言われても命が惜しいと本音を吐き出したとみえる。どこまで下等な動物であろう。
後に内蔵助は、細川家にお預けとなった時、接伴の士堀内伝右衛門に向い、彼の変心について語った。
「将監は千石を領して、番頭をも勤めた。拙者と彼と両人宛に御目付より御書さえ賜わり、その後返礼の
ために、両人同行して出府したこともあった。その名は老中方のお耳にまでも達していながら、ついに料
簡を変え、一列を脱したのは、まことに心外千万でござる」
と憤慨した。将監の没義背徳は、これによってもはっきりする。
附言 彼の墓は現に出羽街道の板谷峠にあると伝える者がある。もしあれば、彼もまた大野九郎兵衛ら
と同様、義徒一挙の後、関係のある地に居たたまれず、これらの地方に逃げ込んで、身を隠したので
あろう。それを例の二の備え説に欺かれ、内蔵助と内約して、米沢への逃げ道を防ごうとしたのだ、な
どと註を付ける輩(やから)がある。馬鹿に着ける薬がないとは、これらに対するたとえであろう。たとえ
内約があったとしても、敵をすでに江戸で討ち取ったのに、終身板谷峠の上に、敵を待ち構える阿呆
があろうか。なお二の備え説が取るに足らないことは、次の章で述べよう。
一九九 同 進藤源四郎と小山源五衛門
進藤源四郎、小山源五左衛門の両人も、凶変の際から同盟に列し、衆に抜きんでて正義を主張した輩
であった。ことに進藤源四郎は内蔵助の従弟であり、小山源五左衛門も内蔵助の伯父であるから、赤穂退
去後も源四郎は内蔵助とともに山科に来たし、源五左衛門はここからほど近い伏見に住み、絶えず内蔵助
を助けていた。源四郎は去年九月にいわば内蔵助の名代として江戸に赴いたくらいであった。しかし時日
の立つにしたがい、復讐のために一命を棄てるのが恐ろしくなって来た。それで両人は相談して、何とかし
て内蔵助の初志を翻えさせようと工夫した。かの美人お軽をすすめて側室に取り持ったのも、太夫の精神
を蕩(とろ)かすためであったという説もある。あるいはそうであったかもしれない。ところが太夫の精神は厳
として動かず、大学の左遷を耳にするとただちに堀部安兵衛らの説を容れて、江戸下向を決定した。両人
は内心に恐怖を生じ、引止め策の口実を案出したが、さすがに直接内蔵助にいうことはできないと見え、
寺井玄渓に托して内蔵助に忠告を入れた。「人臣として君家の讐を返すことは、もちろんの義であるから、
これまでも真先に同盟して忠誠を励んだ次第である。しかし彼を知り已を知ることもまた武門の道であると
思う。つらつら彼我の情勢を察すると、敵の勢力はいかにも強大であり、警戒おさおさ怠らないのに反し、
我が方は同志の心も一致していない。こんな状態であの強大な敵に当っても、容易に本意が達せるとは思
えない。我が党の若輩どもがしきりに騒ぎ立てるのは、今日の生活の苦しまぎれに、餓死するより狂い死に
して、せめて義名を得たいとの窮策から出ている。我らは正しく貴殿の親族だから、もとより存亡を共にする
覚悟であるが、願わくば太夫、若輩どもに惑わされることなく、今しばらく時機を見るよう、ひとえに希望する
次第でござる」と言った。
内蔵助はこれを聴いたとき、日頃の温厚に似ず、断々乎としてその説を排した。さきに円山会議の席上
に示した堂々の正論を繰り返した後「敵の状況はしっかり見据えてある。時機はまさにこの時である。これよ
りのちは奮闘決戦、倒れて後やむのみである」と、泰山のように微動もしない。玄渓はもとより正義の士であ
るから、深く内蔵助の決心に感服し、急ぎ帰ってこれを両人に伝え、併せて同行を促した。両人に忠義の
心があったなら、これに感奮しなければならないが、もともと容れられないのを承知の上で、仕組んだ偽の
忠告であるから、これを聴いて心外らしく装い「内蔵助の思慮はいかにも浅薄である。これでは必ず大事を
仕損ずる。この上はやむをえない。親族のよしみもこれ限りだ。我々は後に残り、再挙の準備をするほかな
い」と同志間に言い触らし、一党の京都出発の間際になって、変節漢となり果てた。
二〇〇 同 再挙説の出どころ
進藤源四郎と小山源五左衛門の言動には、義士らももはや蔑視(べっし)するほかなかった。神崎与五
郎は次のように記した。
小山、進藤は大石君に縁あって、死を共にしなくてはならない者である。しかるに彼は、今事を果さんと
欲する者は餓死をおそれて、忠臣の真似をする者だという。これは何ということか。彼らこそ忠義を棄
てて、飢餓を待つ者だ。
横川勘平もまた彼らを評し「この両人、いくら死ぬのがいやだといっても、内蔵助を見捨てて逃げる法は
ない。さてさて困ったことだ」と言った。当時両人の変節は誰にも意外であったと見え、一挙の翌年瑞光院
の海首座が江戸に出府して、瑶泉院殿に伺候した時、未亡人は海首座に向い、「大石が京で乱行してい
るとほのかに聞いた時は、女心に疑い惑い、浅ましいことにも存じました。でも進藤、小山があれば、たとえ
大石が不義に落ちても、両人はよもや御家の恥辱を余所にはしまいと、頼んでおりましたのに、このたびの
始末、実に呆れ果てました。帰京なされましたら、私の気持を両人に伝え、何ゆえ一挙に外れたか、その
訳を詳しく教えてくれるようお伝え下さい」と頼んだ。首座は早速これを両人に取次いだ。両人はこれを聴
いた時、はっしと胸に答えたであろうが、根が横着であるから「私どもは内蔵助の無謀無策を危ぶみました
から、彼らがもし失敗した時には、再挙して目的を達する覚悟で、後に残った次第です」と誠しやかに言上
した。
これらが再挙説の出どころであって、今に至るまで奥野将監、進藤源四郎、小山源五左衛門らは第二
の備えとして残ったのであるとの俗説が存在する理由である。この頃も何とやらいう半可通が、いかにも当
時の真相に通じているかの面をして、賊臣らを熱心に弁護するのを耳にする。孟子ではないが「よく言って
賊臣を非難する者は、賊臣の徒である」といいたくなる。この輩は史眼に釘をうち、このような場合に表われ
る忠と不忠、勇気とおじけの分れを透見する明識がないのである。
人には誰でも天性がある。忠を嘉(よ)みして、不忠を斥(しりぞ)ける。義を尊んで、不義を悪む。四十七
士の快挙が一たび起ると、天下の人は挙(こぞ)って感動し、大石は偉い、原は偉い、吉田は偉い、小野寺
は偉い。それにしても奥野はどうだ、進藤はどうだ、小山はどうだと罵倒する。大野九郎兵衛になれば、あ
れが売国党の大野だそうだと、往来の摺れ違い話にも非難される。はなはだしいのは、彼奴の面に唾する
者も何人かあった。大野は京都に居たたまれず、諸方に流浪したほどである。世間の制裁がここまで強く
なったので、日頃強がり忠義がった奥野、進藤、小山はこの制裁に耐えきれず、自家生存の必要上「実は
自分らは再挙のために、二の備えとして控えていた」と言い触らし、非難を避けようとしたのである。このよう
な事案は古今にわたっていくつもある。もっとも近いのは、明治十年九州の諸豪が結んで革命軍を起した
時、最初盟約につきながら、いざという場合になると逃げ隠れた連中が続出した。この連中は乱の収まった
時、旧盟に対する面目なさに「実はその折再挙を謀る積りで、あれをした、これをした」と口を極めて弁解し
た。これらが第二第三の奥野、進藤、小山である。それを真実だと受け止める間抜けがあれば、彼らは土
佐の高知の播磨屋橋の何とか様を、西郷、桐野、篠原、村田らより百倍の英雄と崇拝するであろう。
ここである。愚人は巧言により騙されようが、具眼の士は騙されない。奥野、進藤らの再挙談、二の備え
の談を聞いて、「義臣伝」の作者深淵子は次のように述べた。
もし良雄がたちあがったのを見て、時はまだ熟さないといって、しばらくの生命を保ち、良雄が過って
仕損じたとき再び立って必らず事をなし遂げるというのが真の忠であれば、四十余人が復讐に成功し
た時、速やかに殉死して、その志を顕わすはずである。そうしなければ、寺井玄渓を使って良雄の東
行を止め、諌争した主意は立たない。彼らの言い分は偽りであった。武人は死所を得ることをもって道
とする。後人それを恐れてはならない。
武士道の本意は実にここにある。神崎、横川らの義人諸子、幸いに地下に安心したまえ。具眼の士は万
世欺かれない。
二〇一 同 一束中の一束
奥野、進藤、河村、小山についで憎い人物は、佐藤伊右衛門、佐々小左衛門、岡本次郎左衛門らであ
る。なかでも岡本次郎左衛門は当初から盛んに正義を主張して、内蔵助の左右にあり、去年十月内蔵助
出府の際には、河村伝兵衛と共に一行に加わり、近くは最後の円山会議にまで出席して、忠義顔を仮装
していたが、内蔵助出発間際に至って、進藤、小山らと同じ口実を作り、河村、小山がその子と共に変節し
たように、岡本もその子喜八郎と同じく背盟した。
横川勘平がこれを叱って「この父子は奸人(かんじん)」と非難したのは無理もない。そして佐藤、佐々も
父子ともに蔭に隠れた。
それから内蔵助が山科隠棲後になって神文を入れたものの、たちまち変節した者の随一は、糟谷(かす
や)勘左衛門であった。彼は凶変の当時江戸にいて、安井彦右衛門にくみし、籠城殉死論にも反対した奴
である。それが一旦主家復興の望みがみえたとき、先非を後悔し忠義の魂を据えたと称え、内蔵助に懇願
して同盟に入った。しかし再興が絶望となるや否や、ただちに逃げ去った。杉浦順左衛門、井口忠兵衛ら
も勘左衛門と同類である。その表裏は実にはなはだしい。これに対して横川勘平は藩士外の一志士竜田
某に書を寄せて「この者どもはきたない奴だ。この春斬って捨てるはずのところ、手のびして取り逃してしま
い、残念無念。もし彼らに会うことあれば、この旨とくとお心得下され」と申し送った。この他多芸(たぎ)太郎
左衛門、田中権右衛門の両人も勘左衛門と同じ行動をとったので、神崎与五郎から筆責を受けた。
次に灰方藤兵衛は小野寺十内の妻の丹女の兄であったが、背盟のために妹からも義絶されて、器量を
下げた一人であった。
次に月岡治右衛門は主家再興嘆願の特使にまで選ばれた一人であるから、その名誉を思えば変節の
出来る義理ではないが、同盟に入ったのも遅く、また逃げ出すのは人より早かった。これらを遅入早逃とで
もいおうか。
附言 横川勘平の書には、月岡の姓名がなく、多川九左衛門を収めている。しかし多川の加盟について
はどこにもみえず、月岡独り神崎の筆先に上っているから、私も神崎の書に随い同人物とした。
* * * * *
次に呆れて評にも上らないのは、平野半平である。彼は故主の在世中には二百石を食し、最初の連盟
から一員に加わり、内蔵助東下の間際まで追随した。統領は追々に軍費の窮乏を告げて来るので、家
代々の什器を売却するため半平に売却を頼んだ。半平は了承して、熱心に周旋すると見えたが、やがて
売上金三十両を着服して、そのまま跡をくらました。下等な動物もあればあるものよ。
* * * * *
これらの同輩でもっとも滑稽な奴らは、生瀬(いくせ)十左衛門と土田三郎右衛門の二人である。去る七
月に大学氏左遷の報が届き、内蔵助がいよいよ快挙の断行を決定した際、同盟の真意を試験するために、
大高、貝賀の両士に盟約書を一たん返還して回らせた。何分百余名の士が遠近に散在しているので、
一々手の及ばないところもあったと見える。生瀬、土田もその一人である。そのうちに内蔵助関東下向が決
まったと漏れ聞いたから「いよいよ主家の再興であろう。この時が忠義の見せどころだ」と、両人は申し合せ、
昼夜兼行で上京し内蔵助の許を尋ねた。
「国許で太夫が江戸へ出府されると聞き、取る物も取りあえず上京した次第です」
と、いかにも忠義顔に述べたから、内蔵助は深く感服し、
「それはいかにも大義であった。実は大学殿はかくかくの次第、この上は猶予できない。それゆえ最後
の手段に出るほかないと考え、出府しようとする次第である」
と告げた。それを聴いて、両人は見る見る土のように顔色を変え、身震いしてわななき恐れ、
「さては……さては……大事……それでは、一旦国元に帰り、女房どもともよくよく相談し、重ねてやっ
てまいります」
と言い棄てて、一目散に逃げ帰った。これを見て内蔵助も笑えば、同志もあざ笑う。横川勘平はこれを親
友に報じ、筆を取って再び「アラ笑止かな、笑止かな」と繰り返した。
二〇二 同 大石孫四郎
続々と輩出した背盟者中にあってただ一人、酌量宥恕を加える必要がある者は、大石瀬左衛門の兄の
孫四郎である。兄弟は赤穂退去の後、老母姉妹らと共に京都に出て、河原町に居を定めた。東行が切迫
して来るにしたがい、孝子の心情を悩ますのは老母の身の上である。ある日孫四郎は瀬左衛門に向い「我
ら兄弟が忠義を奉ずるのは同様であるが、両人共に出発したら、その日からお年を召した母上は路頭に
迷うであろう。一人は出て君国に殉じ、一人は留まって孝養を尽すことにしてはどうであろう」と相談した。
老母を思う情は同一である。瀬左衛門はつくづく思案し「兄上の考えも一理ある。さらば兄上が留まり下さ
れ。私一人関東に下向いたしましょう」といえば、孫四郎はこれを遮り「いや。自分は当家の嫡男、浅野家
世々の御恩に浴された父祖の跡目を相続する者である。討入りの方は自分が当るから、お前は居残って、
孝養を尽してもらいたい」という。「いや、それは私には……」「いや討入りは自分が……」と互いに相争った
が、果てしがつかない。「ではくじを引いて決めよう」とて、両人はいずれも丹誠を凝らし、我に勝くじを授け
給えと、神明に祈ってくじを引いた。瀬左衛門の精神が天に通じたのか、討入りのくじはその手に帰した。
瀬左衛門の満足、想うべしである。それで孫四郎はついに脱盟中の一人となったとのことである。
私が今これを判断すれば、孫四郎の脱盟は酌量してやりたい。しかしながら老父母のあった人は、四十
七人中この大石兄弟に止まらない。いずれも「大義親を忘れる」の理義に照して振り棄てて来たのである。
この点において孫四郎は道に暗いといわねばならない。のみならず、赤穂における最初の連盟の際にも、
瀬左衛門は奮ってこれに加盟したが、孫四郎の名は見えない。彼の志操が果して世に伝えるほど堅固で
あったかどうか疑問である。いずれの場合でも、いずれの時でも、後に残った者は、自家防衛上種々の細
工をする。孫四郎もことさら「したがってこのための辞を作る」一人ではなかったか。現に弟の瀬左衛門が他
の同志十六人とともに細川邸にお預けとなった際、磯貝十郎右衛門、富森助右衛門と三人寄って四方山
話の中で、助右衛門が瀬左衛門に向い、
「この三人のうちで、磯貝殿は大出頭人であり、拙者は総領であったから、ここまで来たのは当然である
が、大石殿は次男ではござらぬか。一列に加わらなければ、加わらないで済んだであろうに。むしろ量
見を変えられた兄上の分別の方がましではなかったか」
と笑いだした。すると瀬左衛門は真赤になり、
「それは銘々の意見であるから、拙者の力ではどうにもならない」
と極めて迷惑そうに答えた。この話によっても、そのうちの消息がうかがえる。
とはいえ、孫四郎の心情が他の背盟者と同一でなかった証拠には、彼は一挙の後に、義士の事跡を顕
彰することに努めた跡がある。彼は以後依然とし京都に住み、その名を大石帯刀と改め、享保年中には
『赤穂分限帳』などを訂正し、史家の参考に供するなど、多少の誠意を示している。
二〇三 同 中村清右衛門、鈴田重八、中田理平次、小山田庄左衛門
こうして一党の東下前後までに、六十余名の背盟者を出した。だが、まだ十余名は残っていた。八月頃
までは、それぞれ先着した義徒を訪れていたが、田中六郎左衛門、木村伝左衛門、酒寄作右衛門らは、
九月に入ってまた消え失せた。これらは義徒から信用を置けない連中であったから、言うにも足らない。た
だ中村清右衛門以下の八人は、内蔵助東下後、再応の神盟にも列したから、諸領袖は五十五人の義徒と
して計算していたのである。ここに此奴どもの行動を見ておこう。
* * * * *
中村清右衛門は故内匠頭の近習として、凶変の際には鉄砲洲の邸にあり、磯貝十郎左衛門らと亡主の
遺骸を田村邸から引取って泉岳寺に送り、同夜殉死の意を表して、断髪した一人である。身を先んじて赤
穂に行き、最初の盟約から加わり、今秋円山会議の決定後も、内蔵助に先だち、鈴田重八と相伴って、東
下した。両人ともに日夜吉田忠左衛門の寓居に出入し、いかにも忠義の士らしく見えた。しかし一挙の近
づくにしたがい、市中の取り沙汰を聞いて、にわかに怯気(おじけ)づき、清右衛門も重八も何時かその姿
をくらましてしまった。
また中田理平次は中頃から義盟に加わったが、八月下旬千馬三郎兵衛、間十次郎と同行し、九月七日
に江戸に着いた。以後これらの勇士と同居し、中田藤内などと変称して、どこまでも諸士と死生を共にする
かに見えたが、そのうちに命が惜しくなり、これもドロンを極め込んだ。
もっとも下劣な奴は、小山田庄左衛門である。彼は百石を領して、江戸定府の一人であった。彼の父一
閑は八十過ぎの高齢でこそあれ、名誉の老人であるから、庄左衛門を励まして、義盟につかせた。それで
一時は諸士と忠義を競うかに見えたが、これも一挙の近づくにしたがい、中村清右衛門らと同様、臆病風
に誘われ、一日老父を見舞って来ると称して、同志の合宿を出、片岡源五右衛門の南八町堀湊町の住居
に立ち寄り、折から源五右衛門の不在に付け込み、金子と小袖を盗み取り、そのままどこかに逃げ去った。
附言 俗伝によれば、小山田庄左衛門は快挙の当夜まで諸士と共に吉良邸に討ち入る志で家を出たが、
一旗亭に立ち寄って一杯傾けたのが、一期の誤り。春を売る酌婦に心を引かされ、一杯、一杯、また
一杯、ついに大酔して前後を忘れ、酌婦の手を枕にして一睡し、目覚めて頭をもたげたときにはすで
に太陽が昇り、ついに永く不義の人となったという。講談や浪花節などでは得意の演題であるが、彼
が早く同志の金品を窃取して逃げ失せた事実は、横川勘平が友人に寄せた手紙の中に見える。これ
が何よりの証拠である。とにもかくにも言語に絶する動物ではないか。
二〇四 同 田中貞四郎、瀬尾孫左衛門、矢野伊助、毛利小平太
田中貞四郎もまた近習から進み、故内匠頭に気に入られて二百五十石を食し、手回頭(てまわりがしら)
にまで登用された出世人である。主君切腹の当夜には、中村清右衛門と同様に、片岡源五右衛門と磯貝
十郎左衛門の真似をして頭髪を断ち、以後常に片岡、磯貝両士に従い、別働隊として殊勝げに行動して
いたが、時期の切迫につれて怯気(おじけ)づき、ある朝同志の合宿を出たまま行方知れずとなった。
* * * * *
次に瀬尾(せのお)孫左衛門は、大石家の家長として人に知られ、内蔵助赤穂退去後も、随(つ)いて山
科に来た。まめまめしく一党のために働いていたが、いざ出発というとき、進藤、小山の徒が種々の口実を
設けて、内蔵助の東行を阻止しようとした。その際に孫左衛門もその尾について、「ご両所の分別は至極も
っともかと存じます」などと申し出たことがある。これを聴いた内蔵助は早くも彼の心情を察し「その方は浅
野家に仕えたのでもなし。今日限り暇を取らせる」と申し渡した。すると孫左衛門は、この場合に暇を取るの
は余りに現金過ぎて、面目ないと思ったか、「それは情ない。余人はともかくも、私は譜代の郎党として家中
に知られた者、是非に殿のご先途までお伴申し上げとう存じます」と再三懇願した。それで内蔵助も仕方な
く「それほどまでに言うなら」とて、やがて東下の一人に加えられた男である。
次に矢野伊助は足軽の身分ながら同盟に加わり、内蔵助のために忠実らしく働くので一党からは寺坂
吉右衛門と並び称され、主税東下の際は一行に従って江戸に来た。内蔵助は前の孫左衛門とこの伊助と
に命じ、平間村の隠家に留守居をさせた。以来両人は誠実にこの家を守っているかに見受けられたが、小
人閑居して不善をなすの古言に漏れず、素養のない輩の常として、閑居のつれづれに「自分は足軽、お
前は陪臣、二つとない命を棄てて、一党に加わらなくても、さまで不忠にもなるまい」と語り合い.一挙に先
だつこと僅々数日前に両人は上方へと逃げ帰った.
* * * * *
終りに毛利小平太はどうか。彼は二十石三人扶持を食して先君に仕えた。凶変後中頃からとはいえ、一
党に入って忠義を競い、快挙の議決とともに衆に先だって、岡野金右衛門、武林唯七と同行し、閏八月に
東下した。姓名を水原武右衛門と変称して.目覚しく敵情の偵察に従事した。その一端を挙げれば、一党
の東下後、市中の評判によれば、吉良家の防備は非常に厳重で、惣長屋の内部には一帯に大竹を用い
て、堅固な障壁を結い廻した。たとえ長屋を破って乱入しても、容易に奥へは進めないなどと噂した。こう
なっては一大事と、一党の本部は伝手を求めて、ある方面から吉良家の家老に宛てた手紙を貰い受け、こ
れを届けるよう使いを小平太に命じた。小平太は心得て、やがて下男の扮装をし、敵営の虎穴に飛び込ん
で、返書が出来るのを待つ間に、隈なく邸内を見廻し、世上に伝えるような防備のないことを確かめ、詳細
にこれを報告した。ここまで力を尽しながら、一挙の前日いかなる天魔に魅せられたか、たちまちその志を
変え、この歳月の功績を水泡に帰してしまった。
二〇五 同
逃亡者がこのように続出したのについて、思い当ることがある。一党の東下後、諸士を方々の寓居に分
配したうち、中村清右衛門、鈴田重八、小山田庄左衛門、田中貞四郎の四人までを、堀部安兵衛の本庄
林町の借宅に合宿させたことである。彼らは同盟に列して、ここまでは同じ行動をとってきたものの、どこか
に堅固でないところがあったらしい。それで大石、吉田らの領袖は相談し、これを一党中の豪の者堀部安
兵衛に托し、かつは監督させ、かつは激励させたものとみえる。諸領袖の用意もまた到れり尽せりだ。
ただし堀部の林町の寓居には、このほかに横川勘平、木村岡右衛門も同居した。しかし二人はもっとも
早く東下し、気の合う者を求めて、安兵衛の許に自から投じたのである。先の四人がこの家に分配されて
来たのとは、全然その動機が違う。勘平が一挙の前に故郷の知友に与えた書中に、当時臆病風が一党内
に吹き込んだ一因を論じて「内蔵助のやり方は延々し、方々へ洩れた。良いとはいえない」といっている。
そして同じ書中に「拙者の考えはご存じのとおりであり、先きだって切腹することもあります」と嘆いている。
思うに同宿から四人も揃って、逸脱者を出したくらいであるから、一時党中の状態は、義烈このうえない安
兵衛に、他の腰抜け連を激励しようとまで決意させたものとみえる。志士の苦心もまた汲んでやらねばなら
ない。
ここまで述べてきて、私は実に嘆かずにはいられない。この八人の逃亡連も、ここに至るまでには、他の
尊敬すべき忠義の諸士と異ならない幾多の辛酸を嘗(な)めて来たに相違ない。ことに毛利小平太などは、
一挙の前日までも、同志と労苦を分って来たのである。そしていざ討入りという場に臨んで節を失い、つい
に永く不忠不義の人となった。彼らはこれによって五年か十年かは生き延びたであろう。しかしながらその
ために長く歴史上に光輝ある生命を失い、しかもその五年か十年の残生の憂苦、襖悩(おうのう)、悔恨、
残愧(ざんき)のうちに悶(もだ)え、この世の焦熱地獄に陥った。『元禄快拳録』を読んで、人間のもっとも
留意すべきところは、実にこの辺(あた)りにある。自からを一人の「人間」だと思う者は、猛省するところがな
くてはならない。ああ、真に猛省しなくてはならないのだ。
附言 以上の背盟者八人の逃脱について、小野寺十内の書、横川勘平の書、寺坂吉右衛門の覚書な
どを読むと、ことごとく時日に相違がある。兵馬動員の際には、ありうることで、いずれも記憶の誤りと思
われる。要するに彼らの逃脱は、内蔵助の東下後、一挙直前の十一月から十二月の間である。そのう
ち毛利小平太が最も遅く、十二月十三日の討入りの前日まで残っていたことだけは、同日付で内蔵
助が恵光、良雪両師に与えた書に「申し合せた者共四十八人」とあるので、明瞭である。それで毛利
だけはその逃脱日をはっきりと掲げておく。
* * * * *
最後に疑問の一人は倉橋八太夫である。彼は最初の同盟にその名を呼び出されたままで、諸書に一つ
もその後の消息を記したものがない。そして『分限帳』にはこの人の名はあるが、倉橋伝介の姓名がない。
おまけに伝介の名は最初の同盟にはない。これによって察すれば、八太夫はあるいは伝介と同一人では
あるまいか。ここに付言して。後考を待つ。
二〇六 大野父子の末路
ここで大野九郎兵衛の末路を述べておこう。彼が藩の仕置家老でありながら初回の同盟にすら加わらず、
当初から姑息(こそく)論を主張し、会議の席上では原惣右衛門から叱責され、配当金受取りの夜には岡
島八十右衛門から詰め寄られ、父子共に命からがら赤穂を逐天(ちくてん)したことは、すでに述べたとお
りである。その後九郎兵衛は伜の郡右衛門と落ち合い、処々を流浪した後、しばらく京都に隠れ住んでい
た。だが今年の八月になって預けておいた財産を取り戻す頃合いと思い、郡右衛門と二人で赤穂に戻っ
てみた。一つには彼が多年過酷な政で人民を苦しめたのと、国難以来不義不忠の挙を働いたこと。二つ
には内蔵助が藩の離散に際しながらも、藩債を還し藩札を引き換え、また心身を忘れて君国に尽したこと
を感嘆している町民は、内蔵助の命令を今も厳しく守り、なかなか渡しそうもない。そこで九郎兵衛はこの
地に残っている俗論党の仲間近藤源八、渡辺嘉兵衛と示し合せ、かねて荷物を預けておいた両家のうち
の大津屋を訪れて、自分の財産を受け取りたいと申し込んだ。すると大津屋では「大石様から、封印して町
内一同で固くこれを保管致し、お許しあるまでは、貴殿へ渡してはならないと厳命されていますので、お気
の毒ながらさよう承知下されたい」と挨拶した。九郎兵衛らは業(ごう)を煮やし「自分の預り品を自分が受け
取るのに、内蔵助などは関係がない」と争ってはみたが、なかなか聴き入れない。その間に大野らが忍ん
で来たと聞いて、近隣から大勢集まって来る。事は面倒だと見て取ったから「ともかく今晩だけは世話にな
りたい」とさり気なく頼み込んだ。賊臣とはいえ、昔のお得意先であったから、それもならぬとは断りかね、い
やいやながら一宿させた。すると人々の寝静まるころ、案内知った土蔵の中に忍び入り、見覚えある箱を
開いて、金三百両をつかみ出し、表の方へと逃げ出した。それと悟った大津屋は近所町内に合図する。
「こいつ逃がしてなるものか」と、総起ちになって追い掛け、ついに後ろから追い着いた。「サアその金を出
すか出さぬか。出さなければそのままでは帰さぬ」と前後左右から取り巻く。九郎兵衛父子は震え上り、あ
きらめて三百両を投げ出したが、町民はそれでも容赦しない。父子ともにその場から連れ帰り、翌日赤穂
の町中を引き廻して、見世物にした。
父子ともにこんな侮辱を加えられ、ほうほうの体で一旦京都まで逃げたが、彼らの生命はただ金のみで
ある。それで今度は手を替えて、ひたすら江戸にいる瑶泉院に向って、何とぞ内蔵助に命じて、私の家財
の封印を解くようご指示のほどを願うとの嘆願書を差し出した。また一方には京都の室町二条に住む赤穂
の商人綿屋善右衛門が内蔵助の浪宅に出入するのに頼り、鉄面皮にも直接に内蔵助にも哀願させた。そ
のうちたびたびの嘆願に瑶泉院殿も多少のあわれを催されたか、事のついでに九郎兵衛がしかじか申し
出たということを、内蔵助に通知された。内蔵助の寛大な度量はこれによってまた動き出した。大高源五ら
の壮年輩はこれを聞いて「あいつの財物を還付することはない。この際一切没収してお仕舞いなされ」と切
に勧告してみたが、内蔵助は受け付けない。大津屋十右衛門と木屋庄兵衛宛に、大野の財物は同人へ
渡せとの一札を書いて綿屋に渡した。内蔵助の胸中には、これぐらいの懲戒を与えたから、もうくれてやっ
ても良かろう」というのであったろうが、また一つには「彼の千両か二千両かの財物を長く差し押え、そのた
め謀略が妨害されては困る」との用意もあったのであろう。この財物を彼に返し与えたことは、後に内蔵助
が浅野大学に報告した書中にもある。当時の九郎兵衛の喜びは大きかったであろう。
およそ内蔵助の広量大度(こうりょうだいど)はこの類である。それで九郎兵衛を始め俗論党の輩らも、内
蔵助の一挙に同意はしなくても、義挙を妨げ、その人の徳に背くには忍びないとの良心が、なお彼らを支
配していたのであろう。内蔵助がこのような大事を企て、しかも二年の長期にわたったにもかかわらず、藩
の士民中誰一人も敵によしみを通じ、密告する者がなかったのは、いかに彼の人物が優れていたかを示
す。ああ「徳にあって、力にあらず」だ。力はそもそも二の次である。大業を成さんと欲する者は、深く内蔵
助の徳量を鑑(かんが)みなければならない。
附言 世間の俗書には、九郎兵衛らが吉良家の走狗となったことを、まことしやかに伝えている。しかしこ
れまた内蔵助に贔屓(ひいき)する極みである。無根の美談を製造するのと同じで、九郎兵衛憎さの
余りに作った空談に過ぎない。「天下の悪は皆、身を下流に置く者に帰す」とは、孟子の名言、そのと
おりである。
二〇七 同 その遺跡
九郎兵衛父子は内蔵助の雅量によって、自家の財物を受け取ることが出来たので、安堵(あんど)して
当分は京都に隠れ住んだ。そのうちに復讐の挙が発し、この報せが四方に伝わると、内蔵助は偉い、四十
七士も偉いとの評判は、京の街にも満ちあふれた。それにつけてもあれが大野よ、あれが国賊よと、往来の
行きずりにも指(ゆび)さされ、気力ある連中からは、啖唾(たんつば)の一しぶきや拳骨(げんこつ)の一発
ぐらいはくらう。さすがの破廉恥漢もこれではたまらぬと、またもこの地を迷い出て、吾妻の空へと行く悲しさ。
浄瑠璃さわりに流浪して、ここに三年あそこに五年と不本意な余生を送り、ついに上州磯部の辺に落ちつ
いた。寺小屋の師匠をして、寛延四年九月に歿したということである。今も磯部鉱泉の東十町ばかり、松岸
寺という古寺のうちに 「慈望遊謙(じぼうゆうけん)墓」と題する一基の石塔があるのは、彼の墓だと伝えて
いる。また一説には奥州の端、青森の在蟹田の辺に隠れ、やはり寺小屋をしていたとの説もある。いずれ
にしても憐れにはかない最後を遂げたものとみえる。「死すべき時に死なないのは、死に勝る恥」との語は、
彼らのことをいうのであろう。
○大野九郎兵衛の末路
陸奥の東津軽郡今別村(蟹田の北数里の地)の本覚寺は、浄土宗に属し、津軽外ヶ浜の有名な寺であ
る。享保年間には貞得、天明の頃には民栄と称する名僧が出たことで世に知られている。いつの頃からか
同寺に大野九郎兵衛が流れて来た。多年ここに滞留したという。したがってこの地方に九郎兵衛の遺墨を
伝えるものが数多い。現に今別村より北三里ばかりの三厩(みうまや)村郵便局長山田亀治氏の家には庭
園に『見山亭』があり、「見山亭記」の一篇を残す。九郎兵衛が作りかつ書いたものだという。
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思うに奥野将監の板谷峠の遺跡と称するものも、この磯部、今別の類であろう。不義にして著名な奴原
は、人の知らない地方に逃げ込み、その辺で窮死したのであろう。
「甲山逸史報」はいう。
この村は西行法師が「陸奥(みちのく)は奥床しくぞ思われる 壷の石碑(いしぶみ)外が浜風」と詠ん
だ外が浜の地である。付近には野田の玉川(外ヶ浜人は仙台の伊達政宗に名所を盗まれたという)が
あって、風景は絶妙である。風流人でなくても自然に足を停める所である。また一つには不忠者の標
本として、どこでも排斥された結果、廻り廻って遂に極北の僻地に身を潜めたものとも思われる。実際
はどうであったか。