雄 て足で徳兵衛の覚悟を問うと、男はうなずいて コ足首取って咽 ﹁曾根崎心中﹂と辰松の手妻人形 ヨ釜 ﹁曽根崎心中﹂の観音廻りでお初の人形を遣ったのは辰松 八郎兵 喉笛撫でJ自害に同意する。なおもつのる九年次の悪態 に堪え 徳兵衛に足で意中をただすと、男は涙を流し、コ足を取って押 有名なため かねたお初は﹁徳兵衛と 一しよに死ぬ﹂と言い放ち、縁 の下の に、漫然と﹁曽根崎﹂全段を通して突込みで遣ったものと考え、辰 お初と徳兵衛が追い詰められて行く心理の動きを、足を使って縁 しいただき、膝に抱きつきヒ こがれ泣きに泣いて、た がいに@ 心 突込み人形は、人形遣いが人形の裾から両手を突き上けて一人で の上下で巧みに表現するこの場は、一瞬の気を抜くことも許 きれな 中を決意する。 一つの人形を遣う のを言うが、この遣い万では、﹁曽根崎﹂の大浦 い肝所である。ここに盛り上がる劇的感動の度合いが ﹁曽根崎﹂の 松は手妻遣いと縁が薄いものとされているが、一概にそうは舌口えな 屋の場にある次の場面をどう 遣ったか、という疑問に突き営たらさ 法を用いたのは新しい試みであるが、これは人形のために創案した かかる効果を奉げるために、あやつり浄瑠璃に縁の上下を使う手 松の創意工夫が伺われるところである。 評債を左右すると言っても過言でないほど重要な場面であって、近 自分は 上り口に腰掛ける。折柄訪ねて来た九年次が徳兵衛をさんぎん 掛けの下へ忍ばせて、沓脱ぎから縁の下屋へ連れ込み、 徳兵衛は自殺を覚悟してお初に遭いに来る。お初は徳兵衛を打 るを得ない。 いのである。 ﹁牟藝古雅志﹂や﹁尚古道紙挿﹂に載っていて鎗りにも 衛 である。涙子張りの手摺でお初の突込み人形を遣っている模様が なだめながら、九字次に食ってかかる。お初が猫舌に 口なぞらえ 罵倒する。縁の下で聞いて無念がる徳兵衛を、お初は足の先で 祐田 四 とは舌え ロなハリハ ネリ あ ヒる。 遣いにとっては誠に遣い勝手の悪いもので、人形の柄に合った趣 向 ではない。歌舞伎で生身の人間が演じたのを流用したから、人 ままではいろいろの所作を遣う ことが出来ない。﹁浄 るりは人形に 廻りの場で遣った突込み人形には足がないし、縁に腰掛けた姿勢の ことの二棟件 に適う人形でなければならない。しかるに辰松が観音 と、 使った経験がある。﹁近松歌舞伎狂言葉﹂から引用する 近松は既にこの趣向を歌舞伎狂言﹁一心二河白道﹂︵元 禄十一年︶ 験十分な型を人形に嘗てはめて浄瑠璃化した時、辰松が上述の二儀 かかるを第一﹂と考えて作文した近松であるから、歌舞伎で舞台網 同 形 趣 下へ入。源正 はゑんへ腰 かくるを、足を取てさんムⅠ に助は、 前 へ源五尊来り、紙帳を取て見れば、某陰 にお竹附添 ひゑんの びぬる。 お竹は兄弟の子をほしりの下へ隠し、ながたな持、しの や つり浄瑠璃猜縛め、生身の人間では出し得ない舞台効果を出そう からこそこの場の趣向に取り入れたのであって、彼の意中には、あ 件 に適う人形を遣い乙なすことは承知していたに違いない。それだ 辰松は観音廻りと違った遣い万をしたことが想像される。緑の上下 9ると、この場で とのねらいが潜んでいたのではあるまいか。そうム 縁の下屋へ導き入れる段取りといい、緑の上下で所作するところ 鎗り 隔たらぬころの文献、 り万で遣ったかを突きとめたいように思う。 を使う間 たけでも突込みでない遣い万をしたとすれば、どう したや では随所に使われたから、歌舞伎作者として活躍した近松が意気 んで浄瑠璃を書く時、流用するのに不思議はない。 この趣向を浄瑠璃化した時に突き営る問題は、歌舞伎で演じられ ﹁曽根崎心中﹂の上演年代と らお初に適切な人形を捜すわけであるが、問題を簡革 にするため う 形式は愛ら ないと思 う 一五 ら、機械装置で人形を自在に操作するからくり人形、糸であやつ と 初の人形は足附きの人形であること、縁に腰掛けた姿勢の遣える か お初の人形を一人遣いの手遣いに絞って考えたい。 観音廻りのお初を基準にして﹁曽根崎﹂全段の遣い万 を 考える に て 意 同意したり、足を押しいただいてひせび泣きに感動し て心中を決 したりするなど、徳兵衛のあらゆる所作はお初の足を道具に使 っ 、 一つの人形を一人の人形遣いが手で遣 か 所作が人形で十分表現出来たかどうかの吟味である。緑 の下の徳 一 - 心理を表現するが、お初は始終縁の上で坐っている。この場ムロに 衛がお初の足を取って腹を立てたり、足首を咽喉笛に嘗 てて自害 特に書 澄 いい、﹁曽根崎﹂と同じ趣向と考えられるが、かかる趣向は歌舞 ちんぽを引て逃行ける。 に と 込 伎 た に 兵 お る南京糸あやつり、﹁米朝 三闘志﹂五段目の小人形、﹁ 役 者檜毒し﹂ えない。 掛けたお初の人形を遣うという第二儀件 には必すしも 妥嘗だとほ言 一、ノ にある江戸孫 四郎芝居の三人掛りの類は省略して、専ら手遣いのあ 演の ﹁大内水上御遊﹂で山木飛騨嫁が遣った三つ人形 は、第五国に ないわけではない。﹁曽根崎﹂と同じ元禄十六年に伊 藤出羽操座上 足附き 0人形が 一人遣いの手遣いと言えば突込み形式になるが、 足附きの有無も自在であったよう である。しかもこの人形が手妻入 が背後からも裾からもどちらからでも手を入れて遣え るのであり、 遣っている。これを前の圓と併せ考えると、政万の人 形は人形遣い 遣った宇治太郎左衛門が同じ政方の人形を背後から甫 手を差込んで ﹁愛染明王影向 松﹂の他の場面を見ると、 足附きの突 込み人形を ある如く、突込みの足附きである。しかし、これほ後 に述べる如く 形なのである。同じ書面には、足附き人形を背後から 差込み遣いを や つり人形だけを問題にしたい。 手妻人形である。元禄末年に宇治加賀操座上演の﹁愛染 明王影向松﹂ している村上裁兵衛も描かれている。 もし宇治太郎左衛門や村上武兵衛の遣い万をお初に適 用 出来た で宇治太郎左衛門が遣った政万の人形は、絶入木の見返しの圓によ ると、突込みの足附きであるが、これには手づま人形 と 書いてあ ら、﹁曽根崎﹂の問題は解決するが、そのためには手 義人形にっ い 一- て知ることと辰松が手妻を遣ったかどうかの吟味が必要 である。 る。それ故足附きの突込み人形は手妻と聞係があるに違 いない。 一籠、人形に足が附いたのは、﹁外題年鑑﹂によれば松 、水油大夫 座の ﹁源氏烏帽子折﹂や宇治加賀操座 の ﹁世纏曽我﹂に 始まるが、 ︵ただし初演の時とは限らない︶、後者の註 附によればそれが流行し 江戸板の浄瑠璃本がある。それについて東大と京大の一一寧生が石割 大阪府立国書館に﹁八百屋おセ江戸紫﹂という辰松八郎兵衛座の みならず端役の坊主にまで足附きが出るようになったのは ﹁ム﹁日 お侮体 松太郎氏に質問したのに勤して、懇切に答えられた研 尭成果が﹁院 て ﹁諸流共に立物人形に足をつけ﹂ るよう になったらし い。立物の 年代記﹂に掲げる﹁用明天皇職人鑑﹂鐘入の段の挿檜 によって知ら 太八百屋 おセ江戸紫の存在﹂宍近世演劇雑考ヒ所収︶ という論文に 従来﹁手妻﹂といふ言葉に、一種の常識的の意義を持 つた考へ なっている。その申で手妻の解程を次のように記していられる。 れるが、これは檜空事かもしれない。 かかる足附き人形の貫例をお初に嘗てはめる時、徳兵 衛がお初の 足 で所作するという第一條件はこれで解決出来るとし ても、緑に腰 方 をした。﹁手妻﹂の言葉に﹁品玉﹂といつた風な想像 な例として片手人形や手妻人形を考えると、その遣い万や種類など で、わたくしも賛成するが、それを一歩進めてあやつ9人形の特殊 を 加へて 考へて るた 0 そして手妻人形、或は手輝人形などいつ て、 主と 0% 際面は ついては必ずしも氏の説と同じ結果にならないのであ 手妻人形にはどんな仕掛け細工があったかを述べる順序 として、 四 る。そこでわたくしが考えている手妻人形について述べてみたい。 して 或は 限って、山本飛騨塚の人形を﹁手妻人形﹂と棚 へて来 つの名稔を博 へる。解する者は、片手人形とほ背後から手をき し 入れて 追 ふ 手遣 ひの人形であり、手妻人形とほゼ ノ マイ 仕掛 ここに挿入した鳥貝各国と 諸文献の言燈を参考にして、 第二は 、 同じ突込み人形でありながら﹁御前義経記﹂ ︵元禄十三 や つり人形であるが、書面の上では特殊な遣い万とは思われない。 第一 は、第一国﹁傾城卵子酒 ﹂︵ 實永 六年︶に見られる 突込みのあ 座敷あやつ りに用いられた人形を分類し、手妻人形との闘係 を調 べたい。 イ仕掛 である。 この手妻人形を碁盤に載せて使ふ 場合に碁盤人形といふ 夙 に、 で、外形は片手人形と同一である。胎内はゼンマ 吾れ人 共に解して るた 。が 、 私はこの日江戸紫しの辰 松 八郎 兵 仕掛 とか いふ 意味 衛 座の頭に司手妻大夫ヒの 四字を見て、﹁手妻﹂の持っ 概念に愛 、例へば| ゼンマイ 年︶には遣い手の役人 附に ﹁野郎山伏 手づま人形﹂と 書いてある。 そして﹁手妻﹂に特種な 更を来たさねばならぬと考へる。 があるのでなく、﹁手妻﹂とは﹁操る﹂といふ位の概怠 しか 認 外見上は第一との国別はつかないけれども手妻人形であって 、草な ≦のは外見 る突込みではない。この事から考えると、手妻人形とい, められないのが 眞實に 近いのではあるまいか。 上 の厘別 ではなくて人形の機能から名附けられた名縛 なのだろう。 いのである。 一セ か分らず、その意味からすれば第一の突込みも手妻入形 かもしれな あろうとどちらでも手妻であるから、遣ってみなければ手妻かどう 前にも述べた如く、裾からの突込みであろうと背後からの差込みで あやつり浄瑠璃の人形研究において、石割氏の理論が明快で 具籠 と 言ってよい。上述の東大生は吉永孝雄氏であり、 なく、あやつり人形の一種で手遣いだとする氏の解程 は合理的 ばいた趣旨もこのようなものであった。手妻がゼンマィからくり しであって、東京の菊富士ホテルで氏から手妻について 教えてい 京大主はわた なことは定評のあるところであり、その軍恩を蒙らな いものはな い 的 く た で 万緑十六年︶ うのを碁盤人形という。﹁今 風平 流家﹂︵ 一 碁盤を台に使 と呼ぶが、 第三に碁盤人形がある。台の上で人形う をの 遣を古事 筒井理兵衛の遣う碁盤人形の遣い万と似たものかもしれない。 ま遣っている。もしこれが一人で三膿を自由に遣うのであったら、 ぃが、せんだん女、小むっ、大海童子の三膣の人形を船 に乗せたま 第五は台事の片手人形である。人形遣いが片手で遣う 手妻人形 や ﹁世間子息気質﹂︵正徳五年︶には、碁盤のを 上据 にえ 人て 形人形 た人形である。第四% めよう に左手だけで人形を自由自在に遣 っ で、辰松八郎兵衛が京都嚢屋歴 に出演した際、幕開き0口上で遣 っ んることが出 て、勇人形・鬼 ・観音、はてはおやま人形と次々と 愛, 足で 附き人形を遣ってい圓 るがあるが、 遣いが背後から手を差込ん きの口上などに碁盤人形を遣った例が若干ある。磯 ﹁稀 如親 露木孜 舞居 台の でも幕開 座敷用たから人形は小さい。お座敷のみならず芝 覧﹂にょれば、﹁ 輔紀追善女舞﹂︵元禄末年ご ろの見返しに、 ?︶ 筒 来る人形で、右手を使わないところが片手と名附けるれた所以であ 不明たが、若月氏の﹁古浄瑠璃の前研究﹂によれば、延實五年 っ圓のあ づか法楽舞﹂の見返しに、筒井理兵衛が碁盤人形を遣, ることを書いていられる。何年記入の正本によられたかどうか は末年ごろの上演と考える。 ︵ 註 二︶﹁演藝月刊﹂第二十輯 ﹁藤 四郎の二一人掛り﹂三頁 三田村鳶魚氏は、延實 五年正月山本丸兵衛板の加賀塚正本 ﹁し らく 年 十二月以前と推定しているが、これは元禄十年以降、恐, ﹂を延費五 ︵ 註 一︶﹁稀親木孜覧﹂三十一・二頁に﹁義絶追善女舞 て手妻の實睡に般れてみに い0 ころにあったよう に思われるので、辰松が遣った片手人形を説明し ばすべて手妻人形である。座敷あやつりの興味は手妻人形を遣うと 以上の座敷あやつり五種の中、書燈で判別し難い第一第四を除け る。これは舞台遣いだが、座敷人形を流用したことは後に述べる。 介おどりの 人 弁理兵衛が三面の碁盤の上に養老の嵐 翁六 ・法・禰の 形を遣う圓があり、 手づま人形だ穏㍉潮狂は軋檸め配臥 る。 とあって、碁盤人形が手妻人形であることを示し てこ いれと同 ある。柄書に じ圓が加賀 像正本掩はヂか 法楽舞﹂の見返しに貼って 吻として、 狂 同じ圓柄があることは、幕開きの口上浄瑠璃又は 間 の 九利 八︵ 理︶ 言と無鞠係に差し加えたことによるらしい。第の 二筒 国 兵衛が遣う碁盤人形は、﹁雁金 セ文 三年忌﹂實 ︵木元年︶0幕開きに の座 み敷 ならず 舞 遣ったものと思われる。このように碁盤人形はお の面 碁盤の上 第四、筒井 理兵衛が遣う碁盤人形は三世の人形を三 白でも歓迎された。 と似たものに で鮮やかに遣い分ける早替り藝 ミが ソであるが、これ 第三国の ﹁ 國佳節御前軍談﹂︵享保元年︶がある万 。は 遣明 い瞭でな 図一策 膨大船若 図二節 図の二の分三下の「萬年姉ヒ 文金雁 」 (蔵館 吉岡正応阪大) 第四図片手人形 部分国︵天理図書館 蔵- 図 分部の @進御上水四大- の船乗でり つ やあ救座 図三第 図ぅ 造を形入っ三 (蔵庫文和孝) (るよに供提氏秋季布近は鼻用) (蔵袈) 「 談車前脚爺性回」 図 分部の「粧化人じ髪出玉」 「玉成都 姥 Ⅲ 城故」 (蔵僻言図 理人) (蔵餌言国立竹沢大) (蔵餌富岡理人) (蔵氏一純芳信@ 図き 聞見の公平L の「筆両金」 図き開兄の万平ドの 「 申将尼六% 閉 開の目の形人 」 い迫み込差 るとは書いてない。三田村氏が引用された正本は刊年が 扶 けて いるのではあるまいかり﹁しづか法楽舞 ﹂の 刊年は 別問 題 とし 板は 亮太夫の正本で加賀塚 ではないし、同書にはかかる 圓があ 昔の佛力也﹂と・ いへぱ ・はたあらはれ 矢 あまたとび出る・ となし さき L と ノⅡ景観 成手 づま 辰松が第四国めよう に左手片方だけで白人形を遣い、 その 愛 化が 謡 曲 ﹁田村﹂ こゑ を 揃 てほめ のキリに合わせて次々と愛 化する人形の所作を見せた。 阿濃の松原 矢 をはめて、 一 ミソ であ る 。その上に 一・ 耳 ノロ 兵衛 殿 とはこなたか・ 身か 主人か聞およばれ・人形を 所望いた 前 へ大小さしたる若衆ぶたいへ上りあみ が き ぬぎ・﹁ 辰松八郎 まだ 績 きがある。 青 ・勇人形と三愛するところが手妻であり、 済めば勇人形に戻る。このように同じ人形が男人形から鬼神・観世 で来て鬼神を退治すると、人形は清水観世音に愛 る 。 そ してキリが 度放せば千の矢先、雨露とふりかⅠ って﹂と謡えば、 矢 が多く飛ん 端 に立つ。﹁千の御手どとに・大悲の弓には、智恵の 手 観音の光をはなって虚空に飛行し﹂と謡えば、第四圓の旗が台の 作を道 ぅ。﹁あれを見よや不思議やな、味方の軍兵の旗の上に 、千 ぅ間に、勇人形が 鬼耐の顔に舞り、繕 いて謡曲に合わ せて鬼肺 の 所 ひらだち 来 つて、鬼神は黒雲︵こくりに︶銀人をふらし っ Ⅰ﹂と 謡 手妻なのである。謡曲﹁ふりさけ見れば伊勢の海 、 にける 0種・諸見物一ど う に﹁ 大 あたりお名人﹂と・ 其 まち観世音 と成 ・又もとの人形と コ有がたし コはたの上に大ひの 弓 ,一だびはなせば千の矢 て、この圓は元禄末年どろか ? した。その 狂 @ 出 ・﹁皆様 へお断を申 け ふと存 ゑ。に 云は ・﹁然らば是 で田村請 人形 取 あのⅠ松原 むら立衆 づて ・ 鬼祠 はこ くうにてつくはをふら せロと ・ 其 まち 鬼 のかほ 出し・ 司ふりさ け みればいせの うみ の 切を・ かた 手人形につかいます﹂と・上下きたる男 諸見物は,﹁所望 ノⅠ﹂とこ お膿に籠山ました・後程おやまをつかいますてどぎり ませ ふ 二 まして・大坂よりおやまつかい辰松八郎兵衛をよび上 し・是迄 止 まする・此度はなんぞ 替 つた狂言をいたしねめにか 山田甚 八 ・辰松八郎兵衛をつれぶたいへ が開くと山田甚六 が 紹介して辰松の片手人形を見せる。 とあって、辰松のおやま人形の手妻細工が呼び物にな って いた。 幕 高本を見ると、内題は 松 ﹂は新しい趣向として辰松の人形入りの狂言口を上演 賛永二年京都 嚢屋 条文 垂座 で上演した歌舞伎狂言 口 ﹁和 %日神影向 五 し参れと中村・大坂へ下りたれば ・京へ 上り 比 しばい へ御出 育 ているが、これも引き線を用いるあやつりで、碁盤の上で人形に人 ﹁和漢三才圓禽﹂に手妻遣いの名手山本飛騨塚の碁盤 人形を説明し 手妻人形は膿内に細工した仕掛けの糸を引いて遣うの である。 二O は ﹁ロロロ に上り人形のよけいを持て参りませなんだ ﹂ 甚 爪甲 形を舞わせることが出来た。 l まいかⅠ﹁ 急 と中のへ見物に参った・どうぞ所望させ て 下 wれ ふ 於 ,秤 後人細工篤二人目 用 。線者網 芸文操 - 知人﹁山本飛騨 塚 - 大坂へひき やくをやったら・あすのしば いの間にはあいませ 程に・それをしんぜ給へ 二 ﹁くはぶんにどぎるが・それは 男 八 , 上, 使 三, 木人 舞" サ 巾木人 ,, ア形 qサ 勢マ 絶, 世修練也 ナ@ とあって 、確かに手妻人形は引き線によって遣ったのであるが、 人 形 ・主人が望はおやま人形でどざる﹂八 郎兵衛 聞 ﹁是はざしき 人形ゆへ・一つでいかやうにも成ます﹂と・おやま人形にして よい。特に男人形・鬼神・観世音と三愛したりおやま人形になった んだりするのは、からくりを併用して舞台効果をあげたのであ っ 辰松が田村の謡で片手人形を遣っている時、旗が立つたり矢が飛 ばと言って、突込みの手妻人形があっても決して不思議 ではない。 りする複雑な手妻では、自然と後者の遣い万が多くな つたが、され 形の裾の万から手を突込むよりは背後から差 込んだ 万 が 遣 い勝手が 渡せは・﹁でけました﹂と・若衆は 人形もらふて立かへれ より ば ・甚八は ﹁足ロロ別三番っざきの初りでどぎります﹂と・八 郎兵衛もろ共おくへ入 これによっても判る如く、辰松は幕開きの口上のために座敷人形 を遣ったのである。座敷あやつりは少数の人影しか遣えないので、 憂 えることの出来る小 手妻も複雑だつたであ て、これは手妻とは違う。からくりと手妻はよく混同されるが、 嚴 からくり 密 に言えば、﹁竹豊 故事﹂に﹁山水 飛雙塚手妻人形の所作緑林政雄 へ 見せられし 故﹂とある如く、両者 は藝の種類を異にす るものであ っ の原 理細 には ろう。そうした相違はあるにしても、手 妻 工愛 りはな く、糸を引くと人形の顔る が装 愛置になってた い。上述の辰松の口 た。﹁和漢三才圃曾﹂では、前述の如く、あやつりの手妻は引き 線 別法力で男に成・ 用。 線巧機也 ﹂として、線の有無で遣い万の厘別 をし ている。 を遣うのに謝し、からくりは﹁如臣竹田近江塚 驚飛球 老翁 -者不ゾ からくりは細工物を見せる藝であって、機巧・巧機 ・機 開 ,窩戻 とを 引は其ま Ⅰ勇人 是 てに いる。 上が終り 水狂言に入ったところで、次の書 よいう 形と成・ があり、大仕掛けな大からくり、水を使う水からくり、水車やゼ ノ の類が機械仕掛けで自然と動き愛幻奇妙なことをするところに興味 屋台、道具 ,唐綾,絡繰・閲鍵 ・磯 ・侮などの字を嘗てる。人形、 曲解するから、現在の文楽人形と封臆しながら研究したい。 形を考察するのであるが、書燈 には檜空事が多く、うつかりすると 手人形の手妻である。この二つの遣い万を参考にして舞台の手妻入 爺御前軍談﹂の遣い万で、他は引き糸で顔面を次次と愛化させる片 山本飛騨縁が遣った手妻。 前者のように数値の人形を同時に遣う早業藝 には次の例がある。 マイからくりなど種種あるが、物理血用の機械力を人形 に使った細 エがからくり人形である。水銀、水、砂などの座方を利用してとん ふたつつがひの手妻 近松の﹁心中重井筒﹂︵賢木四年末︶に﹁つつむたもとの ぼがえりをさせたり、鷺が軽 じて老翁になったり、ゼ シ マイ仕掛け や種種の細工によって自由に動作したりする人形で、装置 によって ひだのぜう、ふた つつがひの手づまにも﹂とある。 山木飛騨嫁 辰松八郎兵衛 三升平四郎 山木飛騨橡は手妻遣い0代表と言われる名手であった。﹁重井筒﹂ つて行った。 時代が下るにつれて人形の数が増し、早替りの藝が細かく派手にな 遣う三膿の碁盤人形早道いと同じ性質のものであると思う。しかも 人形を遣う早業藝が歓迎 されたことが判るが、これは筒井理兵衛の 以上の害燈と片手人形 の遣い万によって手妻を考えると、数個の ﹁玉黒髪セ入札粧﹂︵享保年間、 ︶第セ圓参照。 セ人げし ゃりを遣う ﹁傾城山姥 都歳玉﹂︵享保年間︶、第六国参照。 五つ人形 ﹁大内水上御遊 ﹂︵元禄十六年︶、第五国参照。 三 つ人形片手づかい 自ら動くところが特長であるが、手妻人形のように人形遣 いが直接 遣う のでないから、その所作はぎどちない。からくりは細工人の頭 で新案を工夫するところに妙味があり、手妻は人形に引笘糸などの 仕掛けをして普通の手遣い以上の早業をする妙技がミ ソであるが、 元来手妻の仕掛けはからくりを手遣いに蕪屈したものであるから、 両者の厘別は礎昧になりやすい。両者を併用して、人形を手妻で遣 い道具や装置にからくりを用いる、手妻からくりが歓迎されて、か らくりと手妻の混同が激しくなったり 4 Ⅰ ト" 座敷あやつり及びそれに準ずる手妻人形について述べたが、以上 の中から手妻の遣い万を知る上に参考となるのが二例ある。 一は筒 國性 弁理兵衛が三膿の碁盤人形を自在に早追いした手妻や第三圓 ﹁ 一一 に ﹁ふたつつがひの手妻﹂とあるだけでは飛鱗縁 の道 い方は判らな も替える離れ業で手が込んでいるけれども、その源を糾 せばかかる 網 で呼ばれたのかもしれない。現在の文楽でやる早替りは衣裳まで 一一 いが、手妻とある以上、雌雄のつがい、すなむち二個の人形を遣う 次に片手人形の引き糸による手妻の類例を拳げる。 手妻藝 の博統を経示したものと言えるだろう。 に ﹁ふたりつか ひ﹂とあるのによって﹁ふたり遣ひ﹂ の意味に解程 辰松が遣ったように引き糸で顔面を愛化させる仕掛け人形は、あ だけではなく、特別の仕掛けある遣い方だつたに違いない。六行木 して片手人形を両手に遣うふたり遣いとする説があるが、この文だ 第五圓は飛騨嫁が突込みで三つ人形を遣う圃であるが、本文を誼 又は一役かしらと呼んで特別扱いしているかしらに多 ぃが、これが た適営な書燈が尻宮らない。この種のかしらは文楽では特殊かしら や つり浄瑠璃の舞台で頻繁に遣われたに違いないが、遣い万を示し n ま立 一損 い 丁けト むと﹁三 つ人形片手づかい﹂とあって、雨手の突込みをト 手妻人形の纏承だと気附くものはほとんどない。﹁和歌三神﹂の片 けではどう にでも取ることが出来る。 持ち替えて舌風・紫姫 ・さなの三つ人形を次次と早替りに遣ったこ 鬼女に急愛する役などは鮮やかなものである。この方沃 によれば片 手人形が男人形・鬼 ・観世音と愛化するのは、文楽のがぶ ,両落ち 第六圓は辰松の手妻人形で年代は少し下るが、それだけ藝が複雑 手遣いの男人形から鬼神に愛化させることは出来る。面落ちは被せ とが判る。この場合に片手人形を両手に一つずつ遣うやり万を交え になった。若殿を駕籠に乗せ、六尺二人、供の女中二人の五つ人形 てある張り子の面を外して演技中に顔面を愛化させるかしらであ っ ・梨割りなどのかしらと似ている。がぶはかしらの引き糸を引くと を辰松一人で遣い、その上に六尺の肩を替える離れ業きゃつたのだ て、一瞬にして顔の形相が愛る仕掛け人形であるが、こ0万法を使 たかもしれないが、﹁和漢三才圓禽﹂に述べている如く、人形が人 から、手品にもまがぅ手練の藝であった。人形は小さ いものを遣う る万法を考案したかもしれない。がぶにせよ、両落ちにせよ、文楽 えば鬼から観世音に憂 えることは出来る。或いは張り子の面を被せ 即坐 に口が裂け、目がひっくり返り、角の出る仕掛け人形で、娘が にしてもなかなか見事な早業藝 であったに違いない。その貼は第セ つ。 形を遣り仕掛けになっていたことも考えられるであろ, 圓の七人化生の人形も同様だと思う。 三人遣いの精巧な顔面の愛化がそのまま片手人形に装冒してあると は考え難いが、その意味からは一人遣いの梨割りが参者 になる。梨 十六頁第十直参照︶。 以上 、早業費や引き糸の手妻が現在の文楽かしらと多少輔係 があ ヨ すとかしらが真二つに割れて中が血で真赤に染まり百玉がグルグル ること を述べたが、現在もなお富時のものをそのまま使用し ている したも のと思う。 廻るグロテスクな仕掛けのかしらである。辰松が遣ったかしらは、 ︵正徳 人形文 ての如きは昔の名残として興味深い。﹁世間子息気質﹂ 割りはつめかしらの一種で、軍兵捕手などが切られた時、引栓を外 がぶ ・両落ち・梨割りなどの機能をムロ せて顔の愛化が出来る簡軍な 五年︶ の挿紳に 次に引き糸で目の開閉をする仕掛け人形の例に第八圓を示す。 第十一 圃参照︶。この人形立て及びその使用法は現在の文築 と 全く 突きさした姿で人形箱の傍に立ち並んでいる圓がある。︵二 十六頁 、男女三胆の人形が人形立ての竹にかしらの胴串を 一人遣い形式の人形ではあるまいか。 元禄三年京都郡萬太夫座上演の歌舞伎狂言﹁金岡筆﹂ の挿檜 であ こう した事情を考えると、手妻人形が螢えたころを境とし て、か 同じで 、昔の博 統をそのまま 受 縫いでいると言ってよい。 屋安兵衛が左手で掘串を握り、右手で糸を引き﹁ 是見よめをめくは﹂ しらは 現在の文楽風なものに近づこうと鱒進し始めた気配が感ぜら るが、これは座敷人形で、左圓を見ると突込みで遣 っている。人形 る﹂と言う。 と言う のに謝し、女房が﹁こなたの下からいとを引しや れるの ではあるまいか。 七 これは﹁和歌三神﹂の片手人形が引き糸で顔面を愛化させるのと金 く同じ仕掛けである。元禄ビろは目を開閉するだけでも驚異をもつ て迎えられたが、次第に目の開閉という機能がかしらにとって重要 手妻人形が何時どろから始まったかは判らないが、﹁ 曽根崎心中﹂ のころは三都にわたって手妻を遣う人形遣いが多くいた。手妻を表 なことが認識されると、かしらの部分に同化して特殊扱いをしなく 看板にしたもの乙璃桂や巻附類から拾うと、大阪では伊藤出羽操座 衛、京都では宇治加賀操座の宇治太郎左衛門・大蔵書右衛門・おや なった。手妻という特殊意識が消えて、引き糸で目の開閉する仕掛 ま別右衛門・筒井理兵衛・辰松幸介 ・清水三郎兵衛、松末治太夫座 けが基本的なかしらの動きと考えられた。文築からしらでは目の開 實永二年︶の三段目で室君が蛇身に簗化 次に﹁用明天皇職人鑑﹂︵ の大蔵書右衛門などがある。手妻という肩書を掲げずに遣った拮の の辰松八郎兵 の山本飛騨塚 ・山本四郎五郎・山本五郎三郎、竹本座 する場面の書がある。辰松八郎兵衛が遣う人形で、角や尾の出る装 閉だけでは特殊な細工人形として屋則することはない。 置があって、手妻人形という註が附いている。これも引き糸で操作 営多くめったに違いないから、立物と縛される遣い手はほとん て、互にその長所を取った。元来手妻はからくりを人 % に庵用 らくりとして・人形を手妻で、舞台装置その他にからくりを臆 つり浄瑠璃の舞台でやる時には、手妻だけを遣う ︶ Jとなく、手 妻の藝はからくりと併用した時にその舞台効果が大きいから、 引縄き遣われていたと思う。 つただけであって、實質は人形かしらとして残されたから、手 がなくなったよう に理解されるかもしれないが、手妻と呼はな 支えない。このように手妻という名目を掲げなくなると、手妻 遣いとして著名な人であり、正徳初年なれば手妻人形であって 遣いである。これは手妻かどうか判らないが、大蔵書右衛門は 右衛門・大蔵六郎次,竹中次郎八の三人が遣う人形はすべて差 九圃は宇治加賀操座の﹁鎌倉尼将軍﹂︵正徳初年︶でる あが、大 重だつた者が遣うようになり、差込みを遣う者の敦が増した。 その上、最初は最有力の立物のみが手妻を遣っていたのが、 一 いを崖道するようになり、人形の遣い万に新しい様式が指頭し も背後からの差込みが遣い易かつた。かくして手妻の藝が突込 の時期であるが、手妻の引き糸を遣う便宜上、裾からの突込み れらの人人が手妻遣いとして活躍したのは元禄未から享保 へか 部分手妻を遣ったと見てよいかもしれない。 も ど 二四 目新しさが人気の的として歓迎されたけれども、あやつり浄瑠璃 たものであるから、最初の間はからくりや手妻細工の面白さ、藝 し 、同じものを繰り返えすだけでは魅力が薄れて飽きられた。から 舞台で上演出来る種類は多くないし、次第に細工のネタが割れる の の りや手妻の細工よりも藝本位の手遣い人形が喜ばれるようになっ と 。人形も適者生存の理により手妻の機能である見世物的な要素が く ﹂ない場 を友に掲げる。手妻遣いと推察出来ても手妻と記載レ- ︵ 註 三︶正本・ 番附類の文献や書燈で手妻遣いと記載した者のみ である。 と移り簗る過程があったが、その時に手妻人形が一役買っていた 三人遣いが生まれるためにほ、一人遣いの間に突込みから差込み 承された。これに左手と足が附けば現在の三人遣いになる。文楽 享保十一年︶の藤井小三郎・中村彦三郎・追水九八郎の遣い万に られる差込み遣いほ﹁ム﹁ 昔操年代記﹂前掲の挿給 ﹁北條時頼記﹂ が勢力を占めて終には突込みを凌駕する勢いとなった。第九周 に 妻 と呼ぶものもなかつた。かくして手遣いのかしらでは差込み遣 のである。そうなると、手妻と呼ぶ必要がなくなったし、もはや 替りや顔面変化などの引き来の手妻が手遣いのかしらに吸収され 除されて、手遣いの藝を助ける種類の手妻だけが残った。即ち、 の へ の 纏 ( 見 い 手 た 早 桃 だ 大相 。 宰 ㌔僧す 券 巴課零 , 訂窪 勤皇 襄賛薯 " 國竹野手柄日記・傾城勝尾寺開帳 ︵大阪口伊藤出羽操座 ・大内水上御遊・雁金文セ 一周忌 本 五郎三郎 動若高麗陣 ︵ 番附︶ 山本四郎五郎 山・ 大阪口竹本座 ハ 辰松八郎兵衛 高名大福帳・和歌三神影向松 ・用 明天皇職人鑑 薩摩歌 ・天湖神明氷の朔日 ハ 京都 ロ 宇治加賀操座 宇治太郎左衛門 愛染明王影向松 ・源氏六十帖 やま利右衛門源氏六十 帖 大蔵書右衛門 ぉ・ 筒井 理 兵衛 講経追善女舞・しづか法楽舞 辰松 幸介 八百屋おセ榊群棲 帯︵正本及ぴ蕃附︶ 八百屋おセ江戸紫・西行法師墨染 櫻 ・傾城山姥都蔵王・心中二つ腹 江戸へ行くに及んで、江戸でも手 清水三郎兵衛 鳥羽螢 採物語︵番附︶ ︵京都口松本清 座太夫 人形遣い不明 大伽藍質物鏡 大蔵書右衛門﹁保古帳﹂に貼付けの通り札 竹田次郎五郎 ﹁江戸u 竹本富 世大夫 座 二五 辰松が遣った手口ほこうしたやり方だと思うが、この場合の劇的 同じ仕掛けである。 附けるのは﹁用明天皇職人鑑﹂で室君が蛇身となって尾を出すのと 突込みから差込みに替え、足を出すことをや ったに違いない。足を に打掛けを使うが、これが追具 であって、打掛けに隠れて遣い手を ると、きっかけが問題である。お初が徳兵衛を縁の下へ連れ込むの 差込みの併用であるから、後者の遣い万のように思われる。そうす 松﹂を見ると突込みと したのか判らないけれども、 ﹁愛染明王影向 も最初は突込みで途中から差込みに替えたのか、どちらの遣い万を お初徳兵衛の人形を最初から背後の差込みで遣ったのか、それと いには決して無理な注文ではなかつたのである。 近松が天満屋の場で緑の上下を使う趣向を立てても、両人の人形遣 田三郎兵衛は山木飛騨塚 に人形の奥儀を睾んだ遣い手であるから、 から、お初の人形を手妻で遣ぅ ことは出来たし、徳兵衛を遣った吉 頑影向松﹂﹁用明天皇職人 鑑﹂をと、毎年手妻人形を遣っていたのだ 三 辰松は﹁曽根崎﹂の翌年に ﹁高名大福帳﹂を、翌翌年に﹁和歌 けたままで遣える足附き人形 の問題を取り上げてみる。 ここで最初に戻って、辰松の手妻遣いとお初の人形の條件、腰掛 八 伊勢古市の芝居で﹁曽根崎心中﹂のあやつり浄瑠璃をやった時に 、 効果について﹁美景薄給の松 ﹂︵實永 五年︶は次の如く 述べている ゥ な感受性が伺われる。長年その道で苦労して人形が表現出来る美の 嘗てはめるだけの努力に過ぎないが、そこには人形美 に謝する鋭敏 に ﹁曽根崎﹂が成功した原因の一があった。歌舞伎的趣向を人形に 一 、ノ 芝居はおはつが徳兵衛を、沓ぬぎ迄忍ばせ、上り口に 腰かけ 居 上歌舞伎よりも誇張が効くから、十分な表現が出来て観客を喜ばせ Ⅲ @ ︶。 たに違いない。︵三田村鳶魚著 ﹁自由懸 愛の復活﹂ 参 腰 近松は人形でなければ表現出来ない 狡白の藝が人形に あることを 信じていた。それを浄瑠璃に書くためには人形向きの趣向と演技 効 果 に対する絶えぎる研究が必要であった。緑の上下を使 う やり万は 生まれたのである。 の 一端に過ぎないが、かかる努力の積み重ねによって 近松の傑作が 限界を十分膿験した者にして始めて出来る試みであった。これはそ も てどこやらいろかするりまい最中、諸見物はう つⅠ を ぬかし、 の したら、生身の人間とは違った、人形 濁自の効果が現われた。ここ 画分部の「買気息子間性」 裏手 る 出の尾や角 (藏館書画理天) 画分部の「鑑入職皇天明用」 Ⅰもしらぬ 折 ふし つ 歌舞伎で発案された役者向きの趣向であったが、これを人形に流用 嵐十第 画一十集 と 形 の そ た 役 き 折 と 者 ぶ 要 内 な 陣 そ だ 身 た こ 内 陣 こ 、 て 書 た が て 重 し に 誇 持 と お 初
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