高度経済成長とともに施設拡充

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VISION
長崎大学病院
2016 . 7
長崎の医療の未来を描く
再開発物語《2》
高度経済成長とともに施設拡充
戦後復興の象徴とされた東京オリンピックを機に、日本は高度経済成長を遂げた。経済発展ととも
に国民皆保険制度も確立し、社会保障の充実に向けて国は歩みを進めた。その影響で、医療需要に応
えるべく医療機関の「人」
「物」の整備が急務になった。長崎大学病院もその波に乗り、大きく飛躍
する時代を迎えた。
国民皆保険
出した。研究棟が不足し、現在の山手の方へと病院
の敷地を拡大していった。病床数は 1961 年に 540
床だった病床数も 1977 年には 796 床にまで拡充
1964 年 10 月 10 日、日本が沸いた。93 の国や
した。また診療科も 13 科から 20 科へと社会のニー
地域から東京に選手が集い、スポーツの祭典、第
ズに合わせて規模を拡大していった。
18 回夏季オリンピックが開幕。世界中の目が東京
32 万 5569 人だった 1962 年度の患者数は毎年
に注がれた。
2万人ずつ増加し、新病棟が完成する前年の 1975
戦後の復興の象徴とされた東京オリンピックを境
年度には 46 万 4624 人と過去最高を記録した。こ
に、日本は急激な経済成長を遂げる。同時に豊かな
うした社会背景を反映し、経済成長とともに医療が
生活を求めて、社会保障も手厚くなった。1961 年
膨れ上がった時代でもあった。
に改正した国民健康保険法により、国民皆保険制度
が確立し、国民が医療機関を受診しやすくなった。
昭和 40 年代の経済成長に伴う物価上昇、価格高騰
高層の病棟の完成
も相まって、医療費が前年比 20%以上、上がった
病院機能が拡大の一途をたどる一方で、手狭と
年もあった。
なった本院では改築問題に直面していた。長年の協
社会保障が充実するにつれて、全国的に医師不足
議を経て、1972 年、文科省の建築計画協議会で本
が叫ばれるようになった。国は医療需要の増大に
院の新設工事が決定した。翌年には着工し、1976
応えるため、1961 年当時 2840 人だった医師を増
年に 12 階建ての病棟(本館)が完成した。その後、
やそうと、全国各地に次々と医大を新設する動き
精神科神経科病棟、中央診療棟、管理棟、高エネル
を見せ始めた。1973 年には医師を養成する医科大
ギー治療室などが次々と竣工した。
学、医学部が存在しない県を解消する目的で「一県
1982 年に完成した中央診療棟は延面積 2888㎡の
一医大構想」が閣議決定され、その動きは加速し
近代的な設備の全国屈指の手術部を備えた。手術室
た。1984 年の全国の医学部入学定員は 8280 人に
9室、X 線手術室2室、バイオクリーン室1室、準
も上った。さらに老人医療費の無料化に伴い、全国
バイオクリーン室1室、RI が使用できる手術室1
各地の病院には急激な増床が求められた。
室の計 14 室。高気圧酸素治療室も整備し、当時と
国のこうした動きを受けて、長崎大学病院も診療
しては先端の手術環境を整えた。
科や中央診療部門の充実、ハード面の整備へと動き
手術部の歴史をたどると、中央診療部門として集
1976 年に完成した病棟。診療科ごとにフロアが区切られている。写真は 1983 年当時。
「厚生労働省白書 平成 19 年度」より転載
約化されたのは 1959 年。それ以前は各診療科が小
から 12 階までに診察室と医局を備え、患者さんに
さな手術室を持ち、
それぞれに手術を実施していた。
とって不便な造りだった。
検査部、放射線部に先立って中央化された最初の部
そこで 21 世紀の病院のあり方を模索する中で、
門でもあった。
再び開発事業が検討され始めた。そのコンセプトに
病棟も中央診療棟も機能を充実させて新たにス
は患者さんの動線に配慮した病院建設が掲げられ
タートした昭和 50 年代。しかし、病棟は診療科ご
た。
とにフロアが区切られていたため、各診療科が1階