求めなさい、探しなさい、門をたたき なさい

先週講壇
求めなさい、探しなさい、門をたたき
なさい
2015年11月22日
松本雅弘牧師
申命記10章12~22節
マタイによる福音書7章7~12節
Ⅰ.主よ、わたしたちにも祈りを教えてください
今日も山上の説教からイエスさまが教えてく
ださる祈りの姿勢について考えてみましょう。
Ⅱ.私たちの神は天の父
新聞などを見ますと、子どもの虐待とかネグレ
クトなどを扱った記事が目につきます。先日は、
我が子にタバコを喫わせ、動画に撮った父親のこ
とが話題になっていました。イエスさまの言葉を
使えば、パンを欲しがる子どもに石をやり、魚を
求める子どもに平気で蛇をやるような親が多く
出てきている時代です。
こうした出来事の背景や状況を知れば知るほ
ど、少し間違えれば、これらは誰にでも起こりう
る出来事であることも知らされます。何故なら誰
もが不完全な親に育てられ、そして私たちも不完
全な中で子どもたちと共に生活をしているから
です。私たちは、まさにそうしたマイナスの連鎖
の中に身を置いているのです。
イエスさまは、そうした人間の抱え持つ問題性
に対しても、共感を持って受け止めた上で、私た
ちに向かって語ります。
「天の神さまは、まこと
の親であり、無条件に信頼してもよい、決して裏
切ることのないお方なんだ」と。そして、決して
諦めず忍耐強く、そのお方に求め、探し、門をた
たくようにと勧めるのです。
Ⅲ.一番ふさわしい時に、一番ふさわしい仕方で
祈りに応えてくださる神
ここで注意すべき点があります。イエスさまが
「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言わ
れた意味とは、求めれば欲しい物が思い通りに何
でも手に入るということを約束しているのでは
ないという点です。時々、私は願ったことが全部
叶ったら大変なことになっていたかもしれない
と思うことがあります。
フランスで起こった同時多発テロのことが報
道され、そのことでさまざまな祈りが捧げられて
いると思います。そうした祈りの中には、時に首
をかしげるような短絡的な祈りもあるかもしれ
ません。仮に神さまというお方が、それぞれの理
解の中で「よかれ」と判断して祈る祈りを、場合
によっては感情的な祈りに対しても、全て応えて
くださったならば世界は混乱すると思います。
イエスさまは、「あなたがたのだれが、パンを
欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」と言っ
て、神さまと私たちの関係を親子にたとえて語り
ます。願ったような結果にならなかった時に、よ
く口を突いて出てくる言葉に「そういうつもりで
はなかった・・」という言葉があります。私の思
いではパンを求めているつもりなのに、実は石を
求めていることだってあるかもしれません。魚だ
と思って、蛇を求めているかもしれない。そのよ
うな時には、石や蛇が与えられないことの方が幸
いです。また、ここでイエスさまは真剣な祈りは
必ず聞かれますと約束してくださっています。但
し、心に留めておかなければならないことがあり
ます。それは求めたものとは違った形で祈りが応
えられることもあり得るということです。何故な
ら父なる神さまは、子である私のベストを願って
おられるからです。これは祈りの中身だけではな
く、応えられるタイミングについても当てはまり
ます。
創世記に登場するヨセフのことを思い出しま
しょう。彼はエジプトの高官ポティファルの妻に
濡れ衣を着せられ投獄されます。その同じ牢屋の
中で、王に仕えていた給仕役の長と出会い、彼の
夢の解き明かしをするのです。そして、給仕役の
長は夢の解き明かしの通りに釈放されます。
その際ヨセフは、彼が釈放された時にヨセフの
身の潔白を責任者に執り成して欲しいと願った
のです。しかし、給仕役の長はそのことを忘れて
しまうのです。その結果、ヨセフの獄中生活は続
きます。それからちょうど2年後、王が不思議な
夢を見ました。ところが、その夢の解き明かしの
出来る人が見つからず困っていたのです。
例の給仕役の長が、その時、突然ヨセフのこと
を思い出し、王に伝えました。その結果、ヨセフ
は王に謁見を許され、その場で夢の解き明かしを
することになり、ヨセフが解き明かした通りの出
来事が起こるのです。王は満足し、夢を解き明か
したヨセフを、国を治める総理大臣に抜擢したの
です。ヨセフは食料備蓄の国家政策を打ち出し、
飢饉を乗り切り、エジプトの民はもとより、隣国
の人々、その中にはヨセフ自身の家族も含まれて
いましたが、実に多くの人々を救うという壮大な
救済のドラマの主人公として用いられていくこ
ととなりました。
私はいつも思います。仮にヨセフが願った通り
のタイミングで釈放されていたとしたら、王はま
だあの不思議な夢を見ていないのです。ですから、
王との劇的な出会いもなければ、総理大臣になる
ことも、そして、神さまの救済の御業にヨセフが
用いられることもなかったことでしょう。
神さまの御業が起こるタイミングは、本当に絶
妙なタイミングなのです! 私たちは今すぐに
でも祈りが叶えられることを願いますが、そう考
える「私の願うタイミング」と、神さまが最善と
思われる「タイミング」とは必ずしも同じではな
いのです。
「ニューヨーク大学リハビリテーション研究所
の壁に書かれた詩」というものがあります。
力を与えて欲しいと神に祈ったのに、謙虚さを
学ぶようにと弱さを授かった
より偉大なことが出来るようにと健康を求め
たのに、よりよきことが出来るようにと病弱を
与えられた
幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であ
るようにと貧困を授かった
世の中の人々から賞賛を得ようとして成功を
求めたのに、得意にならないようにと失敗を授
かった
人生を享受しようとあらゆるものを求めたの
に、あらゆることを喜べるようにと命を授かっ
た
求めたものは1つとして与えられなかったが、
願いは全て聞き届けられた
神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、心の
中で言い表せないものは全てかなえられた
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されて
いたのだ
「天の下の出来事にはすべて定められた時があ
る」(コヘレトの言葉3:1)。すべての神の業
には時があるとコヘレトは語ります。すべての神
の業には時があると共に、それにふさわしい形も
あるのです。神さまは私たちの思いを超えて一番
ふさわしい時に一番ふさわしい仕方で祈りに応
えてくださる。そのことをイエスさまは私たちに
教えておられるのです。
Ⅳ.他者の必要を執り成す者へと成長するために
さて、最後に12節に触れて終わりましょう。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何で
も、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と
預言者である」とあります。
この12節を読む時、それまでの教えとどのよ
うに関係しているのか、繋がりがよく分からずに
戸惑いを覚えてしまうことがあります。ここまで
神さまとの関係、しかも祈りの姿勢について説い
て来たのに、ここに来て急に人間関係の方に焦点
が向かっていくように読めるからです。それを解
く鍵が、
「これこそ律法と預言者である」という
言葉にあるように思います。この「律法と預言者」
という表現は、私たちが手にしている旧約聖書全
体を表わす時に使われる言い回しでした。つまり
この時代の人が「律法と預言者」と言ったら、そ
れは聖書全体を指す言葉、「聖書全体の教え」と
言い換えてもよい言葉なのです。つまりここでイ
エスさまは、「人にしてもらいたいと思うことは
何でも、あなたがたも人にしなさい、これこそが
『聖書全体の教え』ですよ」
、と語られたことに
なります。
人間の根本的ニーズとは愛されることです。イ
エスさまは、私たちがそう願う時に、まずあなた
がそれを始めなさいと教えておられます。
けれども、この言葉を実行に移すとなると難し
さを覚えるのではないでしょうか。その私たちの
心のモヤモヤに対して、聖書にはこんな御言葉が
あるのです。「わたしたちが愛するのは、神がま
ずわたしたちを愛してくださったからです」
(Ⅰヨハネ4:19)
。
愛を実践する上で大事なことは、まず神によっ
て愛されているという実感です。十字架に表され
た神の愛です。ガリラヤ湖も、まず北から流れて
くる水を豊かに受けた上で、ヨルダン川から死海
へと恵みの水を流せるように、私たちもまず神の
愛で充電され、その上で恵みを他者と分かち合う
ことが出来るのです。そのことを通して私たちは、
自分のために、人々のために、何をどう執り成し
たらよいのでしょうか。
いや、
「まずわたしたちを愛してくださった」
という、神さまの御心が最善ですから、私自身に
関わる神さまの御心、家族に関わる神さまの願い、
隣人や、私が働いている職場、この社会に関わる
神さまの愛の御心は何なのか、それを、神さまに
訊ねながら生きる私たちへと変えられていくこ
とです。 お祈りいたします。