⑩飛鳥の寺院は四天王寺式

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飛鳥の寺院は四天王寺式?
四天王寺式
法隆寺式
薬師寺式
南大門:南大門は薄緑
ちゅ中門回廊は赤回廊
塔
塔は緑
金堂
金堂は黄色
講堂
講堂は青
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*伽藍配置とは?
寺院を構成する主要な建築物は南大門、中門、回廊、塔、金堂、講堂、僧坊等で構成さ
れており、その配置型式を伽藍配置(がらんはいち)とよばれそのお寺の造営目的を表現
するものとされています。
六世紀に仏教が我国に伝えられ7世紀に本格的な寺院が多く建設されていますが殆ど
が被災で消失して、建物の礎石からしか伽藍配置は推定できない。
そんな古代寺院の中で四天王寺も幾多の火災や天災に遭っているが、その都度復興し今
日まで法灯を守ってきており、再建に当り常に創建時の伽藍配置を忠実に踏襲してきたこ
とと配置がシンプルで最も早い時期の寺院だからこの伽藍配置を「四天王寺式」と呼んで
基本形としている。
この四天王寺は聖徳太子が物部守屋追討戦で四天王に戦勝祈願して建立したとされ、大
陸文化を導入して基本的な伽藍配置を採用して、南大門―中門―塔―金堂―講堂を南北に
一直線に並べた。
飛鳥の寺院はこの基本形を踏襲しているが
・ 「法隆寺式」は基本形の変形で塔-金堂を東西に並べかえて他は同じ。
・ 「薬師寺式」は塔を二塔にして東西に並べ他は基本形に同じ
この三形式が代表的で殆どの寺院はこれで識別されますが飛鳥寺のような特殊(一塔三金
堂)な配置もあります。
法隆寺の前身とされる若草伽藍(わかくさがらん)は法隆寺式と考えられていましたが
近年になってようやく四天王寺式であることが解明されたもので、再建法隆寺は変形で東
金堂-西塔が東西に並び、東塔-西金堂が東西に並ぶのを法起寺式と呼ばれています。
七堂伽藍と云う言葉が在りますが中国では使用されておらず我国独自の呼び名で、寺院
は七つの堂塔を備えることが不可欠とされ宗派により構成が異なるとされている。
宗派が特定されるまでは塔・金堂・講堂・鐘楼・経蔵・僧坊・食堂の七つの建築物で、
塔は仏舎利(釈迦の遺骨)を納める目的、金堂は本尊を安置する目的、講堂は仏法を説く
目的の三つが主要で、その寺院の造営目的で何に重点を置くかによって配置が異なるとさ
れている。
*最初の寺・飛鳥寺がなぜ四天王寺式でないの?
昭和 31 年の発掘調査までは当然四天王寺式と考えられておりましたが、塔の東西線上
に東金堂、西金堂が発見され話題をよびました。
調査結果、四天王寺式に二金堂を加えて塔を中心に中金堂、東金堂、西金堂を配する一
塔三金堂形式で当時先進の大陸・半島寺院でも稀有の伽藍配置であることが判明しました。
我国に仏教を伝えたのは百済で当時倭には寺院建築技術は無く、百済から造寺工も送り
込まれており当時の百済寺院の主流は四天王寺式のため予想外の展開となりました。
この一塔三金堂形式は高句麗・清岩里廃寺(せいがんりはいじ)の伽藍配置に類似して
いると見なされており、飛鳥寺建立当時隋の煬帝(ようだい)が高句麗征討の出兵をした
ため高句麗は倭国に支援を求めて交流して来て、高句麗僧・慧慈(えじ)が派遣され聖徳
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太子の師となり飛鳥寺に居住していること、飛鳥大仏の塗金用黄金三百両が高句麗王から
贈られていることからも高句麗の技術が入っていても不思議はなく、飛鳥寺造営に際して
は仏教先進国である半島三国の最先端技術を導入したのではなかろうか。
更には飛鳥寺の本尊として金銅製と刺繍の丈六仏を造らせており、馬子が石川精舎で本
尊としていた百済伝来の石造弥勒をそれぞれ三金堂の本尊とするためとも考えられます。
*その他の飛鳥のお寺はどうなの?
山田寺や橘寺のように四天王寺式に類似の寺院はありますが回廊の位置が異なり必ず
しも一致しません。全般的に飛鳥のお寺の伽藍様式は独創的で個性的であるといえます。
飛鳥における伽藍様式の多様化は各寺院がどのような仏教世界を体現するか伽藍配置
に求めたのではないかと考えられ、仏教後進国である我国としては従来の半島三国からの
導入だけでなく、学問僧を送り込んで直接中国から最新の仏教教理を採りこんで摂取しょ
うとした姿勢の現われではないでしょうか?
更には寺院の造営立地条件に左右されることもあり、橘寺のように南北ではなく東西に
四天王寺式配置をしている例や渡来人・倭漢(やまとあや)の氏寺とされる檜隈寺(ひの
くまでら)のように南北に金堂-塔-講堂を並べて塔の西面を正面として中門を設置する
ものもあります。
官寺として最初に完成したと考えられる川原寺は飛鳥寺とはまた異なった特異な伽藍
配置を採用しており一塔二金堂形式で東金堂が無く、その位置に塔を置く配置である。
また大官大寺(たいかんたいじ)は薬師寺式と考えられ西塔が無く東塔のみで建設が終
わっているが、これは伽藍の変形ではなく平城遷都で大安寺に移転したため造営が打ち切
られたものと予想される。
<註>
若草伽藍:現存する法隆寺は再建/非再建で長年論争されていましたがこの伽藍跡の調査
で再建と決定され、法隆寺の隣接地に四天王寺式で先に建設されていたことが
判明し日本書紀が記す天智9年(670)の法隆寺全焼の謎が解けた。
檜隈寺:明日香村檜隈の地にあり渡来人・倭漢氏の氏寺として建立されたが現在は礎石の
みで寺域に於美阿志神社がある。
川原寺:斉明天皇川原宮を天智天皇が造り替えて母・斉明のため寺とした説が有力
文献では天武2年(673)には寺院が存在したことが初めてみえる。
山田寺:蘇我山田石川麻呂の発願ですが謀叛の嫌疑で謀殺され中断したが天武・持統朝で
完成した、回廊の塀がそのまま出土して話題を呼んだ。興福寺の白鳳仏頭は山田寺
の本尊の頭部です
大官大寺:前身は舒明の百済大寺とされ、天武朝で高市大寺として再建されたが未完で持
統朝で藤原京に建設された
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