皇太子ご成婚にわく列島 「異例」のお妃選び

(94)皇太子ご成婚にわく列島 「異例」のお妃選び、国民は親近感
2015.2.8
昭和33(1958)年11月27日午前10時、皇居内の仮宮殿東の間で皇室会議が開
かれた。
会議は皇室典範に基づき、皇族男子の婚姻や皇籍離脱などについてはかるもので、
皇族2人と首相、衆参の議長、副議長ら10人で構成される。22年5月、新憲法と同時
に新皇室典範が施行され、同年10月、初の皇室会議で11宮家51人の皇籍離脱が
決まった。
だが今度の会議の議題は皇太子殿下(現天皇陛下)のご婚姻という国民にとっても
うれしい慶事だった。皇太子妃に選ばれたのは日清製粉社長、正田英三郎氏夫妻の
長女、美智子さん(現皇后陛下)である。宮内庁側から説明を受けた岸信介議長(首
相)ら議員は全員一致で承認した。
午前11時半に宇佐美毅宮内庁長官がご婚約を発表するや、各新聞は手回しよく
号外を発行、夕刊では美智子さんの人柄やお二人のなれそめまで大々的に報じ、日
本中が興奮のるつぼと化した。
実は日本新聞協会に属する報道各社はこの年の7月、「正式発表があるまで皇太
子妃選考については報道しない」という「協定」を結び、日本雑誌協会所属の各誌もこ
れに同調していた。
過剰な取材競争から皇太子ご自身やお妃(きさき)候補となる女性のプライバシーを
守るという理由からだ。長年皇太子さまの「教育係」をつとめ、お妃選びでも中心的役
割を担っていた東宮教育参与、小泉信三の強い要請を受け入れたものでもあった。
それだけに国民の多くは、発表後初めて正田美智子さんの名前や婚約までのいきさ
つを知らされたのだが、それは二重の意味で極めて衝撃的だった。
ひとつは美智子さんが旧皇族でも旧華族でもない「一般市民」であることだった。今
でこそ何の不思議もないが、当時皇族に嫁ぐのは旧皇族や旧華族出身者だと信じら
れていた。皇太子妃選びが始まった当初、担当する記者たちもそうした旧皇族・華族
の名簿からふさわしそうな「令嬢」を見つけ出すのに必死だったという。
だが小泉や宇佐美らは早い段階から「30年先を考えたら一般市民の出身であるこ
とは大して問題にならない」との考えで一致、昭和天皇のご了解も得ていたという。皇
族や保守派から異議が出ないよう、皇室会議では宇佐美がわざわざ「民間から選ばれ
たことは前例があり必ずしも異例ではない」と釈明までしている。
もうひとつは婚約が皇太子さまの強いご意志で整った、いわゆる「恋愛結婚」である
ことを知らされたことだ。当時の報道によればお二人は前年の夏、軽井沢のテニス場
で、たまたま対戦して知り合われた。
その後もテニスなどを通じて交際、一度断られた皇太子さまが電話攻勢で、美智子さ
んの心を射止められたという。そのことが伝えられると、戦後の自由な空気を満喫しつ
つあった国民、特に若い層は快哉を叫んだ。
加えてご婚約発表後の記者会見での美智子さんの聡明な受け答えもあり、日本中
にいわゆる「ミッチーブーム」が起きる。東京・銀座にはお二人の大きな写真が飾られ、
ミッチー音頭やミッチーつむぎまで現れるほどだった。
結婚の儀は翌34年4月10日、皇居の賢所大前で行われ、美智子さんは正式に皇
太子妃美智子殿下となられた。お二人はこの後、午後2時半から馬車列によるパレー
ドに臨まれる。
パレードは二重橋を出て、四谷見附-信濃町-青山三丁目から渋谷の常磐松にあ
った東宮仮御所まで約1時間にわたり、沿道にはお二人を一目見ようと約53万人がつ
めかけた。テレビ中継も大々的に行われ、地方でもこの一大セレモニーを見守った。
自由で民主的な戦後社会を象徴するようなご成婚は、一部の左翼陣営などによる
皇室批判を吹き飛ばし、国民にとって皇室を身近なものとしたのは事実だ。
半面「親しまれる」皇室となったことで、その歴史的意義が国民の意識の中で薄れて
いったことも否めない。(皿木喜久)
【用語解説】ご成婚とテレビ
ご成婚は国民の関心の高さをバックに、本格的放送開始からまだ6年というテレビに
とっては普及のための絶好の機会となった。
特に馬車列によるパレードは、NHKと民放計30局が機材や人員を融通しあい、3
班に分かれて中継を競った。皇居前から渋谷の東宮仮御所までのコースに12カ所の
中継所を設け、合計108台のカメラが配置された。カメラが馬車を追うためのレールも
設置された。
当日は心配された雨も上がり、中継は成功、全国で約1500万人が放送を見たとさ
れる。昭和33年5月にはまだ100万台だった受信契約数がご成婚により一気に200
万台に乗ったとされる。