気づきあう - 社会福祉法人恵泉福祉会 光の子保育園

2014年度 1月
社会福祉法人 恵泉福祉会
光の子保育園
園長 長島 博樹
気づきあう
○ 冬の生活習慣を身につける。
○ 友達と協力し、アイディアを出し合い工夫して遊びを充実させる。
○ お互いの違いを認めつつ、助け合える喜びを感じる。
互いに忍び合い、責めるべき事があっても赦し合い、
主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも
同じようにしなさい。
(コロサイの信徒への手紙3章13節)
1月
05日(月) 保育始め
06日(火) お茶会
07日(水) 書き初め
17日(土) マラソン大会 1・2月生まれ誕生会
30日(金) おすもうさん来園
31日(土) 保育参観
2月
13日(金) 自主遠足(5歳児のみ)
20日(金) お別れ遠足・ランチデー
26日(木)16:30~3月3日(火)11:30 作品展
28日(土) 卒園写真撮影(5歳児のみ) 2・3月生まれ誕生日会
新年あけましておめでとうございます。
今年は少し長めのお休み明け、子ども達はご家族との時間をゆったりと過ごし、三学期を迎えられた
ことを神様に感謝いたします。
年末の光の子には16年前に卒園して、今大学生になっている女の子と、お父様お母様が訪問してくだ
さいました。幼い頃のぽっちゃり顔から想像できない美しいレディになった女の子と、昔のようにハグ
して再会を喜びました。お母様は、今も光の子のブログを見ては、そこに載せられている園便りを読ん
で
くださり、昔と変わらない子どもの姿や、日常や保護者の方々の思いを喜んでくださっていました。
この卒園生も、台登りが苦手で、毎朝泣いて登園し、お父様は後ろ髪を引かれながらも、担任を信頼
し送迎した日々を懐かしんでいました。また、教会の道路側2階のステンドグラスは、彼女たちが年長
の時に、自分たちがページェントで行った其々の役を、千切った折り紙で描いたものを下に作成された
ものです。そのステンドグラスを見たり、各部屋を回り懐かしんで時間を過ごしました。お父様お母様
にも思い出が多く、私も若い頃の自分の保育を振り返る有意義な時間でした。
このように、卒園生たちが自分の進路が決まり、報告に来てくれる中で、思い出として止めておくに
は難しい幼い時代を、振り返り思い出してくれる事、また、会いに来て私より大きくなった体でハグし
てくれるぬくもりが、この幼児期の時代が価値あるものだったことを伝えてくれるように感じられ、10
年以上離れていた時間と心を、まるで昨日のことのように昨日のことのように呼び戻させてくれます。
2015年1月1日、職員朝礼のテキストになっているアパルームには、「小さな努力はない」という
題から始まっています。
主はわたしのためにすべてを成し遂げてくださいます。
主よ、あなたの慈しみがとこしえにありますように。
(詩編138編 8節)
私はしばしば自分を他人と比較するという罠に陥ります。人が社会に与えているように思える影響力
に目を向けると、自分はそれにはかなわないと感じます。ある日劣等感を感じていた時、よく知られる
パンと魚の物語について、神が私に新しい見方を示してくださいました。奇跡そのものや昼食を差し出
した少年に注目するのではなく、私はその昼食を作ったであろう婦人のことを思いました。荒れた手で
パンの生地をこね、丁寧に焼きたてのパンと魚を布に包み、その少年の頬にキスをしながら包みを渡し
ている婦人を思い浮かべたのでした。おそらく彼女にとって、これは小さな日常の仕事に過ぎなかった
でしょう。その日、息子の為に準備したその食事がこんなにも永遠に意味のあることになるなどと、果
たして彼女は予想できたでしょうか。
このことは、神が私たちの小さな苦労を受け取ってくださり、肉体的、精神的、そして霊的に人々を
満たすためにその労苦を使ってくださっている、さまざまな方法を思い起こさせてくれました。ですか
ら、私の人生の中でより大きなことを成し遂げなければならないと感じた時は、このパンと魚を思い出
します。私の仕事は私の目の前にある仕事をなすことです。世の人々の糧となるようそれを使ってくだ
さるのは神の仕事であり、それは神がお喜びになることです。
サラ・マトソン(アメリカ ミネソタ州)
祈
祷: 愛する主よ、あなたがご自分の目的の為に私たちを使ってくださることを信頼する
よう助けてください。 アーメン。
今日の黙想:今日、私はどんな小さな仕事を神の前に差し出すことができるでしょうか。
祈祷の焦点:食事を準備する人たちのために
上記アパルームの中の話は、聖書の中で有名な「5つのパンと2匹の魚」の場面です。(別ページ参照)
この記事には、5,000人の食を満たされたイエス様の奇跡の裏の、子どもの為に昼食を作ったお母さん
に光を当てています。これは日常の慌ただしい生活の一部だったのかもしれません。
私も幼い頃からこの話は何度も聞いてきましたが、このパンと魚を焼いた母親に想像を膨らませた
ことはありませんでした。想像する力は人生を豊かに広げます。
倉橋惣三は「想像」も「創造」も「心の自由な飛躍」とし、子どもは「想像を惹き起こしてくる
ところの活動力に実に盛んなる創造性が働いている。すなわち子どもは、その創造性によって内的に
絶えず新しい世界を造っているということが出来る」と言っています。
モンテッソーリは、「現実の世界についての知識の獲得は、発達の第1段階中続き、自らの探求や
運動によって得られます。しかし、発達の第2段階になると、知識は現実的な体感だけでなく、理論、
推測力や想像力によって得られます。
」と言っています。
今、大人の世界では、国内外で様々な事件が起こっています。人と人との関係には理解しがたい内面
や状況が数多く、
「人を殺してみたかった」と言う若者の存在に心を痛めます。
これからの子どもたちは、社会に向かって自立し飛躍してゆく時、この社会の荒波の中で、創造性・
想像力が新しい世界を造って行くことが、いかに重要となるかと考えます。倉橋惣三はこの想像力を
「はるけさ」と表現し、子どもには「小さくていいという理屈から、庭の池の傍らにのみ立たせたので
は、子どもの想像の視野も広げられて行く機会がない」と述べ、本物の体験の重要性を上げています。
(今、保育会には「心育プリント」というプリントで子どもの心を育む活動もあるようですが)
その本物の体験は、
「いわば影のよぎるが如く淡いものしか子どもには残らないのであろうが、その
淡さの中からも、知らず織らずに養われてゆく想像性が、子どもの性格の上に、どれだけの奥深さを
つくるものか計り知れないものである。今ここに生きて働くということ以上の人間らしさは、人間が
ただ想像性を持つためであると言っても良い」と述べています。言い換えれば、現実の世界に生き、
体験し得た感性に裏打ちされた想像力が、人間らしさに繋がるということなのでしょう。
ここに戦時中、東大病院精神科を支えた医師たちの一人でもあり、戦後に GHQ との文部省の折衝を
一手に引受けていた、美智子皇后の相談役などの逸話でも知られる、神谷美智子さんを紹介いたします。
「愛するとは、お互いにかけがえのないものとして相手をいとおしみ、
相手の生命をその最も本来的な使命に向かって伸ばそうと願う心なのだ」
この愛の定義を自分に当てはめてみると、私はだれかひとりでも真実に愛していると言えるのだろう
か、と心もとなくなります。
このような愛が最も自然に湧き上がるのは、親の子に対する愛であることは誰もが認めることだと
思いますが、多くの親がその子の「本来的な使命」というよりも、自分の願う使命へと押し出し、生命
をささげさせようとしてしまうものです。相手をいとおしむつもりで、自分の手の中で守ろうとして、
使命に伸びようとする若芽を妨げていることに気づかないのです。
家族や友人たちの(そして対立している人たちの)使命を認めることができますように。
たとえ伸びる未来が私の意に染まぬものであったとしても、愛の心で慈しむことができますように。
使命に向かって飛び去ってしまうように見えても、永遠という光の中では決して失うことはないの
だと、信じることができますように。
――「 ひと言でいいのです」
吉川直美 編著 より――
子どもの持つ「本来的な使命に向かって伸びる生命」は大人の願う未来ではなく、子どもが今、様々
な本物の体験に触れ、これから伸ばそうとする可能性に、自由に羽を広げることが出来る力を願う心持
ちによって、強められるのではないでしょうか。
マラソン大会の時、いつも後ろの方で並んでいる子どもを、「〇〇ちゃん ○○ちゃん」と前に呼び
寄せ、自信を持ってスタートを切れるようにと願いを込めた先生の眼差し。担任の先生が体調を崩され
淋しく思っている子ども達を、方々背負い歩く先生方の背中。絵本を読んでいる時に、そっと腰を下ろ
す先生の膝。お散歩の時繋ぎたかったピンクちゃんと繋げなかった手をとる先生の手。絵や文字の鉛筆
の線が、か細く弱々しかった子どもが、力強い線で自分を表現できた太線に感動する心持ち。日常の中
には言葉では無い先生方の愛情が、背中・膝・手・眼差し・心を通して、子ども達に伝えられます。
そこに、子どもたちの成長を願い信じる先生方の心持ちがあります。
子ども達の成長の中では、淡く薄れていく様な日常の中にある、暖かな愛情と信頼に、大人も想像を
豊かにし、創り上げる子供たちとの生活を大切に、この一年を過ごして参りたいと思います。
《 「五つのパンと二匹の魚」のおはなし 》
イエス様が大勢の人たちを前にお話をされたり、病気やケガを治したりしているうちに、夕方になり、
お弟子さんたちは、
「時間も遅くなってきたので、人々を家や宿に帰らせ、何か食べものをとるように
させたいのですが」と言いました。(聖書には、大人の男の人たちだけでも5,000人と書いてあるので、
女の人や子どもたちを合わせたら10,000~12,000人位いたのではないかと言われています)
その時、弟子のアンデレさんが、一人の男の子を連れてきました。イエス様に「ここに大麦のパン
5つと魚2匹を持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人に、これっぽっちの量では何の
役にも立たないでしょう。」と言いました。
イエス様はわざと、お弟子さんたちに人の力では「できない」「無理」だってことを分からせた上で、
「あなた方が彼らに食べるものを与えなさい。
」と言いました。お弟子さん達は、イエス様の出された
難しい問題にどうやって答えを出したらいいかわからず、困ってしまいました。
イエス様はお弟子さんたちに、「人々を50人づつ組にして座らせなさい」と言い、5つのパンと2匹の
魚を手に取り、天を仰ぎ讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお弟子さんたちに渡し配らせました。そして、
「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を拾い集めなさい」と命じました。お弟子さんたちが
集めてみると、両手で抱えられるくらいの籠12杯になりました。
これは、丁度お弟子さんの数と一緒です。聖書に出てくる12という数字は、”全ての民族”を象徴する
数でもあり、
「命を与えるのは命の神である私である。あなたがた人間に命を作ることはできない。
だから、命の神である私が与える命のパンを、まだいただいていない、すべての者に残らず分け与えな
さい。溢れたパンくずを捨てたり腐らせてはならない。」体を養う為の食べ物のことだけを指すのでは
なく、心を養う食べ物としての神様の「愛」も示しています。
このことを通してイエス様は、神様が地球に住むすべての人に、国や地域、肌の色や目の色、障害の
あるなしに関係なく、すべての命を愛していてくださっていること、溢れるほどの恵みを与えて
くださっていることを伝えようとされたと思います。