私立大学横山助教授 連載 1 横山喬は、都内にある私立黎明学園大学の人文社会学部人文社会学科の助教 授である。名前は「よこやまたかし」と読む。 英語らしきものを教えている。三十七歳になるが、恥ずかしながら、この歳 になって、ようやく勉強が面白くなり、学生に対する講義にも工夫を凝らし始 めた。誇れる業績はないが、学生には結構人気がある。 横山の父は、大学教授である。横山が、都内にある私立大学の文学部の大学 院を出て、非常勤講師をしながら、ぶらぶらしているところを、いまの大学に 紹介してくれたのが父の中村泰三である。 中村は有名な国際政治学者で、ちょくちょくテレビにも出演している。マス コミ受けのする洗練された容姿と、年齢相応の貫禄に併せて、視聴者を飽きさ せない語り口から、テレビの解説者として結構、重宝されている。 横山と苗字が違うのは、横山が妾の子だからである。中村の正妻は、現民自 党の幹事長野中雄二の娘で、いずれ中村も選挙に出馬するものと噂されてきた。 しかし、すでに中村は六〇歳を超えている。実は、中村は、義父の野中から出 馬を再三再四要請されていたが、断ってきたのである。 「自分は学者であって、政治家ではない」 それが中村の持論であった。政治家になったら、利権の中に埋もれてしまう。 自分のいいたいことが言えなくなる。それが、中村が躊躇する理由である。 一方、野中は中村の煮え切らない態度に気が気ではない。いくら政治家が高 齢化しているとはいえ、そろそろ出馬をしないと党での存在感がなくなってし まう。 横山にとって幸いなことは、中村の正妻に子供が生まれなかったことである。 このため、中村は横山のことをとても可愛がってくれた。横山の母は、銀座の ホステスをしていて中村の目に留まった。本来ならば、いずれは捨てられる運 命であったかもしれないが、横山が生まれたおかげで、母もずっと中村の世話 になっている。 横山は、小さい頃から何不自由なく育てられた。中村は、政治家や企業関係 者との親交も篤く財を成していた。大学教授としての報酬だけではなく、講演 やテレビ出演も多かったので、横山親子を養うのに十分すぎるほどの収入を得 ていたのである。 実は、何不自由なく育ったということが、横山の人格形成にマイナスに作用 している面もある。とにかく、ハングリー精神や競争心というのがないのだ。 何しろ、競争などしなくとも、欲しいものは何でも手に入る。一人っ子だか ら母親も独り占めである。これで、兄弟がいたら、少しは競争心も養われたの かもしれないが、一人っ子ではしかたがない。 横山は、小さい頃は、よく友達から小遣いをせびられた。体のいいカツ上げ であるが、横山には、金は父にせがめばもらえるものだという感覚しかなかっ たので、有り金を全部盗られても、痛痒を感じなかったのである。 甘いとは言っても、母の怜子は、教育熱心であった。父の庇護があるとはい え、いずれはひとり立ちしなければならない。母は、横山が将来ひとりで生き ていけるように、しっかりとした教育を受けさせようとやっきになっていた。 自分が高校しか出ていなくて、水商売出身ということに負い目があったのかも しれない。 それだけに息子には、立派な大学を出て、それなりの就職先について欲しい という願望が強かったのである。できれば、理系の大学への進学が母の希望で あった。 しかし、当の横山には向上心というものが全くない。理系に進むためには、 数学や物理の勉強をしなければならない。横山は、高校でこれらの授業を受け た最初の日に挫折してしまった。そして、私立文系へと勝手に志望を変えてし まったのである。 これには、母の怜子もがっかりしたが、本人にやる気がないのではどうしよ うもない。せめて、語学を学ばせたいと思い、家庭教師をつけて英語の勉強も させたが、これも無駄だった。 横山は、勉強には、まったく興味がなかった。そのかわり、テニスには一生 懸命取り組んだ。とは言っても、本格的な大会に出て優勝を狙うというような 体育会系ではなく、みんなで和気藹々と楽しむサークル系が好きだった。 そこで、学校のクラブには入らず、もっぱら、有料のテニススクールで汗を 流した。年配の女性とダブルスを組んで、横山が住んでいる区の親善試合で優 勝したこともある。身長も一八〇センチと高く、運動神経にも優れているので、 本格的に練習したら相当のレベルまでいくと思われるが、何しろ本人に向上心 や野心がない。みんなと楽しくテニスができればいい。それで満足なのである。 実は、横山は小さい頃からピアノ教室にも通わされていた。これは、母の希 望である。横山の母は、高校時代、ピアノのプロを目指して本格的な練習をし ていたが、ある事情でその夢を断念せざるをえなかった。自分の夢を息子に託 したのかもしれない。 ピアノ教師は、横山の才能を高く評価し 「本格的にピアノを習ったらどうかな」 と言って、コンクールへの参加を進めたが、横山は、ピアノは楽しく弾くもの で他人と競うものではないと割り切っていた。だから、ピアノのプロになるこ となど、本人の選択肢にはまったくなかった。 高校時代は、ほとんど勉強らしい勉強はしなかったが、それでも、何とか、 都内にある中堅私立大学の文学部に合格することができた。ただし、英文学科 には失敗して、到底日本では役に立ちそうもない言語学科に、やっとのことで 合格したのだった。入学後に、父の力で、英文学科への転科が認められたので ある。 大学に入ると、横山は人気者となった。母の甘いマスクを受け継ぎ、上背も ある。しかも、金に困っていないとなると、女子学生が放っておくはずがない。 横山は遊びに遊んだ。テニス同好会でも大いに活躍した。同好会の顧問は、こ れだけテニスが上手いのならば、体育会系のクラブに入ったらどうかと薦めて くれたが、横山は、まったく興味を示さなかった。 大学では、授業はほとんど受けずに、毎日遊び暮らした。たまに講義にでか けるのは、遊び相手を探すためである。 実は、最初のうちは、横山も講義に出ていたのだが、一時間もたたないうち に頭痛がして我慢ができなくなったのである。お経のようなちんぷんかんぷん の講義を聴かされていると嫌気がさす。次第に、講義に出ただけで体調がおか しくなり、最後は、講義に出ようと思っただけで体調を壊すようになった。当 然、二年生から三年生に進級するところで単位不足で留年した。 これに心配した母が、父の中村に相談し、横山をアメリカの大学に留学させ ることにした。英語を身につけさせれば将来何とかなるだろうと考えたようだ。 アメリカの大学は厳しいと聞いていた母は、そんな環境に送り込めば、横山も 少しは勉強すると期待していたのだ。横山を溺愛している中村は、アメリカ行 きを最初は渋ったが、母があまりにも強硬に懇願するので、最後は折れた。 アメリカの大学をまともに卒業しようとすると並大抵の努力では適わない。 ところが、横山は、最初から単位を取ろうなどという気がない。そういう人間 にとって、アメリカという地は天国である。 横山は、通学が不便という理由で、日本製の新車を父に購入してもらい、遊 びに走った。いままでは、口うるさい母親がそばにいて、いくらか歯止めがか かっていたのだが、それが無くなったのである。大学生とは名ばかりで、ほと んど講義には顔を出さなかった。 唯一の成果と言えば、英語が堪能になったことだろう。何しろ、アメリカで 友達と会話するには、英語の能力が要求される。ひとづきあいの好きな横山は 必死になって英会話を勉強した。これだけ必死に勉強したのは生まれて始めて ではなかろうか。その甲斐あって、渡米して三ヶ月もすると、普段の会話には まったく不自由しなくなった。 そのうち、横山の放蕩ぶりは、大学でも有名になった。 "Tak! You are lazier than lazy Americans." 「タクは、怠け者で有名なアメリカ人よりもレージーだ」 といわれるようになった。 しかし、天国はそう長くは続かなかった。留学から二年ほどして、心配した 母が、アメリカに調査員を送ってきたのだ。そうとは知らずに遊びほうけてい た横山のすべての行状が日本に報告された。 母は大いに慌てた。自分の計算違いである。てっきり勉強に励んでいると思 った息子が、日本にいる時よりももっと遊んでいたのだ。すぐに横山は帰国さ せられた。日本の大学に復帰しても、勉強には身が入らなかった。 しかし、日本の大学の単位は、講義に出ていなくとも、試験さえ受ければ何 とかなるものである。特に授業料の高い私立大学は、あまり単位を落としすぎ ると、学生の親から非難されるので、親身になって学生が単位を取れるように 指導してくれる。ほとんどの科目は可、つまり六〇点以上七〇点未満のぎりぎ りの成績ではあったものの、横山は何とか卒業にこぎつけた。 大学院進学 横山は二十四歳で大学を卒業したが、就職する気はまったくなかった。そし て、大学院に進むことにした。もちろん、大学院に進学するには入学試験に通 らなければならない。 しかし、横山はアメリカの大学に二年間留学したという経験が買われて特待 生扱いとなり、推薦で合格したのである。大学としても、大学院に進学してく れれば、その分の授業料が大学の収入になる。双方に損はなかったということ であろう。 大学院に入ってはじめて横山は机に向かった。というのも、横山が所属して いるゼミでは週に一回、教授と学生との輪講会があるからだ。この場で、自分 に課せられた課題を発表しなくてはならない。 教授は、シェークスピアの専門家であったが、それを英文でやったのでは誰 も学生がついてこないことを十分承知していた。そこで、輪講に選んだのが、 ハリウッド映画のシナリオであった。何とか学生に興味を持たせようという涙 ぐましい努力の結果である。 この輪講で横山はスターになった。何しろ、本場仕込みの発音である。しか も、ハリウッド映画とくれば御手の物であった。一度も、まともに勉強したこ とのない横山が、勉強でまわりから尊敬を集める。横山には、はじめて経験す る快感であった。 横山は修士論文で 「ハリウッド映画における特殊な英語表現」 と題する論文を書いた。実は、ハリウッド映画には、英文科の教授には意味不 明のスラングが数多く登場する。例えば “You are foxy.” というと、英文学者であれば 「あなたは(きつねのように)ずるいひと」 と訳すであろうが、現代米語のスラングでは 「あなたはかっこいいひと」 となる。 また、映画には shit や fuck、bitch など、英文学者であれば顔をひそめるよ うな four letter words が頻出する。これら単語は、そのままの意味ではなく、 臨機応変に使われる。これは、学者には分からない。 さらに、アメリカの若者どうしでなければ通じないスラングも多い。つまり、 ネイティブの大人にも分からないような隠語がある。横山は、まさに現役しか も若者のスラングの使い手である。何も苦労することがなかった。 そして、スラングを映画のシナリオから集めて日本語に訳したのである。驚 くことに、それが古典英語しか読んだことのない教授たちには、とても新鮮に 映ったようだ。横山の論文は、高い評価を受けた。 横山が博士課程に進みたいと申し出たとき、母はとても喜んでくれた。よう やく息子が勉強する気になったのだ。指導教授からも、素晴らしい論文をもの にしてくれたとほめられたらしい。 しかし、当の横山は、何も勉強が続けたくて博士課程に進もうしたのではな い。学生の身分が欲しいだけなのである。就職せずに、もっとモラトリアムな 生活を続けたい。これが本心であった。 博士課程に進むと、横山の自由時間は急に多くなった。なにしろ、授業がな いし、修士課程の時のような教授との輪講会が無くなったからである。もちろ ん、ゼミの輪講に自主的に参加するのは自由であるが、横山には、その気はな かった。せっかくの自由時間を拘束されたくはない。 博士課程で指導教授が手取り足取り指導しないのは、博士を目指すくらいの 学生ならば、自分でテーマを見つけて、研究するのが当たり前と考えられてい るからである。 理系の場合には、指導教授と共同研究を行うのが通例で、論文も連名で発表 するため徹底した指導体制をとるが、文系では、個人の研究が中心となる。向 学心をもって進学した学生なら、それでも良いのであろうが、横山は遊びたく て博士課程まで進学したのである。 ただし、横山にも進歩がなかったわけではない。最初は半強制的にはじめた ものの、横山は、いつのまにかハリウッド映画のシナリオから普通の日本人に は意味不明のスラングを選んで訳す作業が好きになっていた。 実は、外国映画の台詞を日本語に訳す商売をしている会社の下請けで、スラ ングチェックを頼まれるようになっていたのである。横山は、金には不自由し ていないので、アルバイトをする気はなかったが、まさに趣味と実益を兼ねた 仕事である。 横山は、アルバイトで稼いだ金で、父と母に生まれて始めてプレゼントを買 った。大した金額の品物ではなかったが、両親ともいたく感激してくれた。母 などは、一生の宝物だと言って、大事にしまってある。 横山は、五年をかけて博士課程を終えた。といっても満期退学というもので、 博士号はとらなかった。通常、博士課程は三年であるが、横山にとっては、社 会人にならずに学生の身分で遊ぶのが主目的であったから、大学に学生として いれるだけいたのである。 かつての日本の文系大学では、博士課程に進学しても博士号をとらないのが 当たり前であった。というのも、博士の称号は功なり名を遂げた研究者にごほ うびとして与えられるものと考えられていたからである。このため、日本の大 学の文系学科では、教授の多くは博士号を持っていない。 この結果、モラルハザートも起きている。というのも、高校までの学校の先 生には資格が必要となるが、大学教授になるためには、資格が何もいらないか らだ。 学問的研究をしたことのないテレビタレントがいきなり大学教授になれるの も、このような日本独特の制度による。ある私立大学では、経営者一家が全員 教授というところもある。三十歳まで渋谷で女子高生相手に遊んでいた金髪に 鼻ピアスのおにいちゃんが、いとも簡単に大学教授になってしまう。もちろん 講義などしない。できるわけがないのである。嘆かわしいことであるが、すべ て、教授になるためには何の資格もいらないという日本独特の制度のかなしき 結果である。 横山が困ったのは、博士課程を修了したことで、学生として過ごす術がなく なってしまったことである。いまさら、一般社会でサラリーマンとして働くこ とはできない。すると、父の中村が複数の大学の非常勤講師の職を見つけてき てくれた。 実は、大学から助手にならないかと誘われたのであるが、横山はそれを断っ た。助手に採用されるということは名誉なことであり、将来の教授へのステッ プとなる。多くの博士課程修了者は、助手として採用されることを望みながら、 それが適わないのが普通である。 そのチャンスを横山はいとも簡単に自分から手放したのである。 というのも、それなりの理由がある。いままでは、英語のスラングを訳して 年老いた教授連中をごまかしてきたが、助手になって、まともな研究などをは じめたら、化けの皮がはがれてしまう。何しろ、学問らしい学問をしたことが ないのだ。
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