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丘 開発 に伴 い宅地造成 に転用す るに当た り、農林省 (地
主 )は 旧地主に土地 を返還 しなければならなかった。
そ こで 旧地主には藤田観光へ の売却 を条件 に土地が戻
された。 これを整理す ると
開発前 の旭 ケ丘
(元 地主
:
(1)山 主は昭和 開発 ヘ
(2)大 隆寺 は藤 田観光へ
(3)旧 不在地主か ら農林省 へ 、
大塚美行様 との対談 より
)
そ して旧地主か ら藤田観光ヘ
開発 前 の旭 ケ丘及び周辺 の風景
(4)そ の他農家か ら藤 田観光ヘ
昭和 17年 税務署作成 の公 図を参考 に対談か ら連想 され
る風 景 とは。
と所有権が移 った事 になる。
もともと松 を主体 とした 山林であ った大塚家所有 の余
なだ らかな起伏 に満ち、整然 とした山林 。
地 1546、 余地 1541の 2筆 (現 在 の 4∼ 5丁 目の一部か ?)
そ こには松 ・サ ワラ・ヒバ・ 山武杉 、そ して雑木林が
は上記
連な っていた。山梨 の農家 の方 々が本の下枝 を切 り、落
ち葉 をか き集めて燃料や肥料 にされる一方、山を管理 し
(3)の 代表例 と云 える。
団地各区画毎の植木他
て下 さってい るので、林の中は遊び場で もあ った。勿論
戦後 山林の値段 は安か ったが 、復興期 の為木材 は高 く
人家 は一軒 も無 く、そ こに定住 してい た人は居 なかった
売れ たので、親の代 に山林 を沢山伐採 して税金 を払 って
ので 、さして遺跡 も発見 されてい ない 。
いた。
この様 な山林 は約80%を 占めてい たであろ うか、一方
自分 の代 になって、川崎迄通勤 しなが ら一生懸命植林
畑 には麦・さつ まい もが主 として植 えられていた。また東
をして来た苗木が育 っていたのを藤 田観光が 目をつけて、
小武多 ・西小武多 (現 在 の 1∼ 3丁 目)辺 りには、旧堀 田
これを団地の各区画 に植 えるか らと云 って売却す る様要
藩 の武士か ら預かった軍馬の馬放 し場所があ って 、周囲
請があ つた。その本はサ ワラ・ ヒバ ・山武杉や檜や松 も
には土手が まわ っていた。そ の 中には 1∼ 2ケ 所馬 の水
あ った。
飲み場があ って、そ こには 1年 中セ リが生 えてい た。 こ
一 方 で藤田観光 は藤栄 ス トア をつ くる頃、大塚家 ヘ
の土手や水飲み場 は藤 田観光が開発 した時に残っていた。
300坪 を戻すか ら幼稚 園の経営 をやって くれ な い か との
この水飲み場 の辺 りはほんの少 しであったが水 田がつ く
られてい た。 もっとも水 田の主力 は定住地 であった鹿 島
話があ ったが 、教育関係者が身内に居 ないか らと断 つた
′
事 を 隠えてい る。
川 と小名木川の合流地点辺 りであつた。 この小名木川 を
余談 ではあるが 、昔村毎 に小 学校 をつ くらね ばならな
渡 ると蛍がす ご く飛 び交 う光景 は本当に懐か しい。小名
かったが、旭村 には資金がな く、上むな く大隆寺 の本堂
││で はタニ シ・シジ ミ・サ ンカイ・シャレブナ
木り
を開放 して開校 したが、子供達のいたず らが余 りに もひ
(タ
ナゴ
)・
ドジ ヨウが沢山捕れた。誠に静かで美 しい風景であつた。
どいので 、大隆寺 の土地 を一部寄付 して現在の旭小学校
となった。
土 地所 有権 の移 転
旭 ケ丘 の地 主 は小 数 の 山主 に よる山林所 有 の他 、小 数
今振 り返 ってみて
の地主 、そ してそ の他 には旧堀 田藩 や 明治維新 を経 て払
美 しか った 山林 を切 り開い て出来 た造成地、そ の 区画
い 下 げ を受 け た 山梨 の 農民地 主 で構 成 され て い た と思 わ
の中に高 さ 1∼ 1.5mの 本が 5∼ 6本 づ つ植 え られたの
れ る。
みの殺伐 とした風景 であ った。 しか し、 この旭 ケ丘は駅
この 山梨 の個 人農家 は約 200軒 あ った と云 わ れ るが 、
方面へ の道路が良 くなれば利便性 も高 くな り、多 くの新
旭 ケ丘 の地 主 は どの程 度 か定 か で は な い 。戦後 自作 農創
住民が住 まい を求 めるわ けで必ず良 い 団地 になるだろ う。
設特 別措 置法 に よ り農地 開放 が実施 されたが 、 この旭 ケ
藤田観光 に安 く売 りす ぎた と皆 で話 し合ったものである。
当時 の思 い 出 と対応
(元 四街道市長
斉藤悌市様 との対談 より)
団地 開発 前 の旭 ケ丘周辺 の 思 い 出
蛇行 していた小名木川の淵で泳 ぎ、体が冷えて くる と
田んぼに入って泥んこになり乍 ら、暖かい水 で体をあっ
ためた り、フナやシヤレブナ、ネガリ、 ドジ ヨウ、うな
ぎを取 つて遊んだのは小学校 4∼ 5年 であったと記憶 し
対談中の斉藤元市長
ている。
うなぎを取 るのは松の ヒデ (油 )で カ ンテラを照 らし
て取 るのである。また現在の旭 ケ丘の向 こう側 (鹿 渡側 )
展 に伴 い 、勤務す る人達が安 い土地 を求め、大 日や三才
の現在 ピーナツ畑がある一角 では灌木 を切 つて埋めて木
に移 り住 んでい た状 況があ ったので、藤田観光 もきっと
炭 をつ くり、そ の木炭 でカルメ焼 きをつ くって遊んだの
需要が出て くる と判断 した と考 える。
もその頃か と思 う。そ んなの どかな時代 もあった。
やがて市長 になる人物の幼 い 頃の姿 を想像す るだけで
楽 しい ものが ある。
また旭 ケ丘は松 の本が多 くハ ツタケが よ く採れ春蝉が
鳴 いていたのが思 い 出される。
旭 ケ丘 グ リーンタウン誕生前の四街道
四街道町の とった対応策
町当局 としては、 とにか く受け身であ り、財政 の負担
増 を極力抑 えねばならない と考 えた。そ こで経験 のある
八千代や佐倉 に調査人 を派遣 し研究 した。周辺道路 の整
備等色 々あ ったが 、将来 の人口増 のため小 学校 の建設 は
必要 と考 え、藤田観光 に用地の提供 を永野町長 と共 々交
当時人口抑制策 をとってい たわけではないが、昭和 25
渉 に行 った。然 しなかなか了承 されず、困惑 した事が記
年 か ら30年 にかけて18,000人 前後 の人口動態 であったが、
憶 に新 しい。その後 の情勢 では建築指導要綱 があって市
昭和 32年 1月 に住民投票 の結果、旧千代 田町の一部 (羽
や県 の 同意が必要 であるが 、受け身の中で諸問題 を解決
鳥 ・飯重 ・吉見 ・生谷 ・畔田の一部 )、 面積 に して7.4k遥 、
して行かね ばな らなかった。
2,002人 が佐倉市 に編入 された事 もあ って 、昭和 35年 に
は16,623人 と人口 も減少 してい た。一方 で昭和40年 総 武
線が千葉 ・佐倉 間複線開通 となって交通が便利 になって
い た。
その後 の対応
東京 の通勤圏都市 として快速電車 の運転が開始 される
見通 しとな ったので、 これを何 として も四街道に停車 さ
千葉県住宅供給 公社が八千代 (勝 田台 )を つ くった。
せ るべ く、 しば しば上京 した事があ った 。当時佐原 の伊
これが千葉県団地づ くりの始めだ った と思 う。佐倉 (志
能忠敬 の子孫 で 、伊能繁次郎代議士 の子息が東京鉄道管
津 )に 角栄団地 の入居が始 まった頃、即 ち昭和 40年 過 ぎ
理局 の施設局長 をしてい たので 、陳情 に行 く為 であった。
陸軍士官学校 出の長島さんが、旭 ケ丘に限をつ けて地上
げ屋 を始めた。 この会社が昭和 開発 であ り、 この地上げ
屋が、同 じく陸軍士官学校 出身の井上 さんが居た藤田観
光 に話 を持 ち込んだ と想像出来 る。
藤田観光 は箱根小涌園な どを開発 して来たが、住宅地
開発 は初めてであったので興味 を持 ったに違 い ない。
神戸 よ り進出 した川鉄 を中心 とす る京葉工 業地帯 の発
34
か くして昭和 47年 7月 15日 、快速停車駅 とな り通勤 ・
通学 の便 は飛躍的に向上 した。
その後 10年 後 には人口62,116人 とな り、10年 間 の 人 口
増 は2.16倍 となって東京圏 の衛星都市へ と変貌 して い っ
た。
(49頁 グラフ「四街道の人口の移 り変 わ り」参照 )
藤 田観光 として の
思 い出
IT役
賢
層
層
[世l'鼻 璽
・
田
産
藤
物
は社
)前
]
藤田観光 が旭 ケ丘 へ進出決定 の背景
二葉商事 (東 京 ガス )に よるガスの供給 も実施 された。
そ して旭 ケ丘 グリー ンタウンの名 の通 り、周囲 を緑の里
山で囲まれた街 の原図が完成 したわけである。
旭 ケ丘分譲地 その他販売推進策
当時土地購入者 は農地転用許可 に伴 い、 2ケ 年以内 に
住宅建設 をしなければな らなかったが、それを促進す る
為一部建売住宅販売 (36戸 )も 併用 した。店舗がなけれ
開発前 の四街道 は、の どかな農村地帯 であつたが、一
ば生活 に不 自由 と、藤田物産が 「藤栄 ス トア」 として43
方では数年後 の昭和 46年 に一番機が飛 び立 つ予定 の成田
年 3月 に進出 し、また椿 山荘 に勤務 した事のある石原洋
新国際空港 を北方に臨み、北西部には習志野 ・八千代 ・
様に「寿司大」 として進出 して貰 った 。
佐倉等 の内陸工業地帯 が広が り、空港 の東部には鹿島工
業地帯が展開 してい た。また南の京葉臨海工 業地帯には、
自治会 との関係
昭和 25年 進出の川鉄他 を擁 し、輸出入全国一の千葉港が
分譲が継続 して い る間に、居住者 も多 くな るにつ れて
日本の玄関 としてあ り、東京湾横断橋建設が発 表 されて
街路燈 が切れた、バ スの便が悪 い とか 、泥棒 に入 られた
い た。
とか 、生活へ の不安 ・不便が持 ち込 まれる様 にな った。
四街道 は躍進する千葉のまさにそんな意味で の踏 ・中
藤田 としては四街道町へ移管 までの責任 は持 つが 、住民
心 に立地 していた。当時国土総合開発審議員 を してい た
か らの苦情受付 の窓口が必要 と考 え、管理事務所 へ皆様
藤 田観光の小川栄 一社長は、そ う した四街道を地域工業
に集合 して頂 いて 自治会 の発足 を要請 した事 もあ った。
地帯 と東京 のベ ッ ドタウ ンとすべ く開発 を考 えてい た。
また小川社長は太陽 と緑 と水 をこよな く愛 し、大衆 に
振 り返 っ て 旭 ケ 丘 の 現 状 に つ い て
憩 の場所 を提供す る ことを経営哲学 としてお り、箱根小
全区画 (2050)に 対 して75%は 建築完了 してお り、街
涌園や東京椿 山荘 の経営 に当る一 方、大沼湖畔緑 の村や
並 も緑や花 に包 まれて満足 出来るが、高齢化 と商店会 の
鳥羽小涌園緑 の村 な ど、リゾー ト土地の開発 を手がけて
衰退が一番気 にかかるところである。 どうか今後熟成 し
いた。
た旭 ケ丘 として発展 を心か らお祈 りしたい 。
四街道 における宅地開発 もそ うした経営哲学 の一環 と
して、当時旭 ケ丘の開発 を手がけてい た昭和開発 (株 )
か ら15万 ピの用地 を譲 り受け、更 に周辺土地を買増 しし、
当時にお いては千葉県最大の宅地開発 に着手 した もので
ある。
旭 ケ丘開発に当 たっての構想
旭 ケ丘の開発構想 は、当初和良比 山梨 2号 線 の南側迄
含 んでいたが 、工業用水路や ガス管な ど他 の埋 設 の計画
が されてい る事で縮小 されたが、それで も50万 ピ以上の
大型団地 となった。
緑 に包 まれた別荘や別荘地販売 の経験 を持 つ藤田 は、
旭 ケ丘に於 いて公共施設 としての道路整備の他公民館 ・
交番 ・小学校等 の用地 も確保、商店53区 画 も整備 。近代
的な汚水処理場 の建設、将来 の都市 ガス供給 に関連 し、