解答例 近年、子どもを犯罪被害から守るための取り組みが強化されている。確かに 子どもが犠牲になるような痛ましい事件を見聞きし、見知らぬ他者に過敏にな る心情は理解できる。だが、何の悪意もなく声をかけた人をも不審者扱いする 現状は、行き過ぎだと言わざるをえない。これでは、誰もが不審者と見なされ かねないからだ。不審者扱いを怖れ、子どもに危機が迫ったときに手をさしの べられないのでは、本末転倒だろう。 こうした過剰な防衛に陥っている要因には、まず、地域社会が変容し、かつ ての共同体が崩壊したことがあげられる。共同体の構成員は、互いに生活を支 え合うことを通して、信頼関係を築いてきた。だが、急速な個人化が進んだ結 果、私たちは隣人のことすら何一つ知らないことが多い。それゆえ、常に周囲 の人間を疑い、警戒しなくてはならないのである。また、記事にあるような防 犯情報の配信や、メディアによる犯罪事件の報道がこの過剰な防衛意識を助長 している。毎日こうした情報を受信することで、常に子どもに危険が忍び寄っ てくるかのような危機感を覚えることになる。そのため、他者に不審者という 負のレッテルを貼ることでしか、「安心」できなくなっているのだろう。 だが、このように「不安」の芽を全て摘み取ったところに成り立つ「安心」 に私は危惧を覚える。なぜなら、この「安心」は見せかけにすぎないからだ。 他者を不審者と見なすことは、コミュニケーションを通して相手を理解する努 力を放棄することである。互いが互いを疑い、相手と深く関わることなくやり 過ごすのでは、豊かな人間関係に基づく社会を築くことはできないだろう。さ らに言えば、「不安」を予め取り除いた社会で子どもを育てることが、必ずし も子どものためになるとは限らない。「不安」に対峙した経験がなければ、子 どもは自分で危険を判断することができなくなってしまう。 では、どうするべきなのか。残念ながら、子どもを狙った犯罪は今も後を絶 たない。それゆえ、子どもが犯罪から身を守るための教育を行う必要はある。 だが、その教育は、声をかけられただけで不審者だと決めつけ、始めから相手 との関わりを絶つものである必要はないはずだ。ここで重要なのは、相手の挙 動を見極め、自分が取るべき行動を考える自律的な力を子どもに身につけさせ ることである。ただ闇雲に相手を怖れるのではなく、「正しく警戒する」姿勢 こそが大切なのではないだろうか。 1
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