≪3 月 4 日祈祷会から≫ イザヤ書 43 章 1~7 節 ※( )の数字は節を示す。 「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛する」(4)。それはイス ラエルについて述べた主ご自身の告白です。直前のところで主が「わたしの僕ほど目の 見えない、耳の聞こえない者はあろうか」と嘆かれるほどに、イスラエルは主の僕とし て絶望的な姿をさらしていました。しかし、それとは全く矛盾するような慈愛に満ちた 言葉が主の口から聞かれます。 イスラエルに向けられる主の容赦のない厳しい言葉とその同じ主が口になさる愛と 慈しみの言葉とは、 主がイスラエルとの間に築かれた契約の関係に立つときに決して矛 盾したものではないことに気づかされます。主はかつてイスラエルに、 「わたしはあな たたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」(レビ記 26:12)と告げてください ました。そして、その約束を誠実に守ってきてくださいました。それゆえ、イスラエル が主の民であることを忘れたり、そのような者として歩まなくなることに主は耐えられ ないのです。主が望まれるのは、ご自身がイスラエルを愛しイスラエルによってご自身 が愛されることでした。その主の心からいつも離れなかったものこそ、 「わたしの目に あなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛する」という言葉でした。主がご自身の民 との間に築かれた契約に深く思いを至らせるところで、厳しい主の怒りとイスラエルの 苦難をよく理解することができます。そして、その厳しい怒りと苦難を正しく受けとめ るところで、慈愛に満ちた主の言葉を理解することができるのです。 その言葉を中心に、1~7 節は主がご自身の栄光のためにイスラエルを創造なさった こと(1a,7)、そのご自身の栄光をイスラエルが覆い隠す失敗を重ね続けてきたにもかか わらず、主は苦難と恥の中にある彼らを導き出し、連れ帰られること(1b-3,5-6)を告げ ています。 バビロン捕囚によってイスラエルの民が打ちのめされる経験を味わったとき、安易な 慰めと希望を語る者が民の間に現れたと言います。 その言葉は苦境にあった人々に一時 受け入れられたにせよ、やがて信頼を得ることはありませんでした。その言葉は、本当 の意味で民の前に将来を開き、 苦難と恥の向こうに希望があることを確信させるもので はなかったからです。その中で預言者は人々の罪と主の怒りを告げました。その厳しさ を伴った言葉は、彼らとの間に愛と慈しみの関係を築かれた主に人々をもう一度向かわ せるものでした。そして、彼らの目にもはや閉ざされているように見えていた未来を開 き示すことができるのはその主御自身であることを新しく自覚させるものでありまし た。 (藤井和弘)
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