その8 ラストシーン(pdf) ※新規ページとして開きます。

ラストシーン
菜穂:今回、私達の台本のラストシーンで、イライザは「私はフレディと一緒になりま
す。…さようなら…ヒギンズ先生。もうお会いすることはないと思います。」と
こ
言って去って行くでしょう? でもヒギンズが「あの娘が忘れられない」と一曲
歌ってから、イライザの発音練習の録音を聞いていると、再びイライザが戻って
きて「二人は微笑んで見つめあい幕…」となるのよね。ねぇ博士、これ、どうい
うことなの。この後、二人はどうなるわけ?
博士:やはり「二人は結ばれる。
」ということが暗喩されているのさ。主人公同士が最後
には結ばれて、ハッピーエンドになるのが、アメリカのブロードウェイ的という
か、ハリウッド映画の物語上の「型」というものなんだろうね。でも皮肉屋のバ
ーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」では、最後にイライザは出て行きっぱ
なし。自分を対等な人間として見てくれず、喜びや悲しみを分かち合おうとしな
いヒギンズに愛想をつかすんだ。
菜穂:ふーん、ヒギンズは慌てて、後を追ったりするの?
博士:とーんでもない。ヒギンズの人物設定は、そんな情緒的なものじゃない。最後は
「馬鹿め!」とばかりに高笑いするんだ。少しは負け惜しみもあったようだが…。
菜穂:物語はなんでもハッピーエンドだと思ったら「大間違い」というわけね。
博士:そう。当時イプセンの「人形の家」という戯曲が大ヒットしていたんだ。夫が自
分を一人前の人間としてみず、価値観の共有もできないことに絶望したヒロイ
ン・ノラが、夫と決別して自立の道を歩み始めるという粗筋だよ。
菜穂:あぁ、知ってるわ。読んだことはないけど、学校で習った。
博士:ショーは、イプセンの影響をかなり受けたようだね。イライザにもノラの影が見
える。
やっ
菜穂:日本では松井須磨子がノラを演たのよね。新劇って難しそう。大衆演劇とは全く
違うんだろうな。
博士:ショーも既成社会への揶揄を通して、新時代の女性の生き方を示したかったんだ
ろうね。ところがロンドン初演の舞台では、ヒギンズを演じた俳優が作者の意図
に反して出て行くイライザに追いすがったり、花を贈ったりしたんだ。この俳優
は劇場経営者でもあって、客が入る芝居にしたかったんだろうね。
菜穂:ショーは怒ったでしょうね。
博士:そうだよ。だから初演後、台本のあとにかなり長い「後日譚」を付け加えて、
「イ
ライザはフレディと結婚し、ピッカリング大佐の援助を受けて花屋を経営する。
ヒギンズ家に出入りもするが、ヒギンズは相変わらず言語学に熱中し、人を人と
も思っていない…。」などと述べている。でもマイフェアをミュージカル化した
アラン・ジェイ・ラーナーはその台本の冒頭で「ショーよ、私はあなたに謝るが、
あなたは間違っている(ハッピーエンドは重要ですよ)。」と述べているんだ。菜
穂ちゃんはどっちの結末が好きかね?
菜穂:そりゃ、お芝居として楽しんで見るなら、ハッピーエンドのほうがいいわよ。で
も現実的には無理があると思うな…。ヒギンズってそもそもマザコンでしょう。
だから独身なのよ。あのヒギンズ夫人は、イライザが困ったとき相談に行ったこ
とでもわかるように、とても立派な人みたい。あんな母親がついていたら、ヒギ
ンズンは何時までも子供から成長できないわね。
博士:ほほぅ、菜穂ちゃんは結構きびしいね。
菜穂:イライザは最後には一旦戻ってくるけれど、それは「仕方がないわねぇ。」とい
う感情で、愛しているからではないと思うの。台詞でも「大切には思うけれど、
愛して欲しいわけではない。
」ってはっきり言っているでしょう。これって、私、
ピアス夫人の感情も同じだと思うの。彼女だって「ヒギンズ先生って強引で、滅
いとま
茶苦茶。とてもやっていられないからお 暇 をいただきたいんだけれど、お許し
いただけないから…。」とずるずる居続けてしまっている。ヒギンズはこういう
う
ま
のにつけこむのが上手いんだわ。このままじゃ、イライザも独身主義のヒギンズ
やピッカリングと一緒に住んで、オールドミスの家政婦になってしまうのがオチ
じゃないかしら。
博士:じゃ、フレディと結婚すれば上手くいくと思うかい?
菜穂:フレディは、今ならストーカー行為で訴えられかねないヘンな人よ。でもとにか
くイライザのことを一途に大事に思っているのは間違いないわ。「私はフレディ
と一緒になります。彼は私を心から愛してくれているから。」というイライザの
選択肢はそれほど間違っていないと思うの。たしかに貧乏貴族のボンボンで、実
生活の苦労は何一つ知らない人だけれど、イライザなら花屋の売り子をしながら
でも、フレディを養って行くくらいの生活力はありそうだな……。
博士:たしかにフレディはイライザのことを支配しようとか、粗末に扱うということは
ないだろうね。でもイライザは、上品な所作・喋り方は身につけたけれど、こち
らも実務的な勉強ができているわけではない。本当の貴族と結婚するのならそれ
でもいいけれど、アインスフォード=ヒル家は没落貴族で召使いもいない。とな
ると花を仕入れたり、帳簿をつけたり……。花屋をうまく経営できるか心配にな
るね。
菜穂:頭のいいイライザは、ピッカリング大佐が自分のファンであることを知っている
から、きっと援助を頼むのよ。大佐は喜んでパトロンになってくれそうよ。そし
て若い二人は裕福ではないにしても、愛情溢れる生活をしましたと。これでメデ
タシ・メデタシね。
博士:そうかなぁ……!?