ラストシーン 菜穂:今回、私達の台本のラストシーンで、イライザは「私はフレディと一緒になりま す。…さようなら…ヒギンズ先生。もうお会いすることはないと思います。」と こ 言って去って行くでしょう? でもヒギンズが「あの娘が忘れられない」と一曲 歌ってから、イライザの発音練習の録音を聞いていると、再びイライザが戻って きて「二人は微笑んで見つめあい幕…」となるのよね。ねぇ博士、これ、どうい うことなの。この後、二人はどうなるわけ? 博士:やはり「二人は結ばれる。 」ということが暗喩されているのさ。主人公同士が最後 には結ばれて、ハッピーエンドになるのが、アメリカのブロードウェイ的という か、ハリウッド映画の物語上の「型」というものなんだろうね。でも皮肉屋のバ ーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」では、最後にイライザは出て行きっぱ なし。自分を対等な人間として見てくれず、喜びや悲しみを分かち合おうとしな いヒギンズに愛想をつかすんだ。 菜穂:ふーん、ヒギンズは慌てて、後を追ったりするの? 博士:とーんでもない。ヒギンズの人物設定は、そんな情緒的なものじゃない。最後は 「馬鹿め!」とばかりに高笑いするんだ。少しは負け惜しみもあったようだが…。 菜穂:物語はなんでもハッピーエンドだと思ったら「大間違い」というわけね。 博士:そう。当時イプセンの「人形の家」という戯曲が大ヒットしていたんだ。夫が自 分を一人前の人間としてみず、価値観の共有もできないことに絶望したヒロイ ン・ノラが、夫と決別して自立の道を歩み始めるという粗筋だよ。 菜穂:あぁ、知ってるわ。読んだことはないけど、学校で習った。 博士:ショーは、イプセンの影響をかなり受けたようだね。イライザにもノラの影が見 える。 やっ 菜穂:日本では松井須磨子がノラを演たのよね。新劇って難しそう。大衆演劇とは全く 違うんだろうな。 博士:ショーも既成社会への揶揄を通して、新時代の女性の生き方を示したかったんだ ろうね。ところがロンドン初演の舞台では、ヒギンズを演じた俳優が作者の意図 に反して出て行くイライザに追いすがったり、花を贈ったりしたんだ。この俳優 は劇場経営者でもあって、客が入る芝居にしたかったんだろうね。 菜穂:ショーは怒ったでしょうね。 博士:そうだよ。だから初演後、台本のあとにかなり長い「後日譚」を付け加えて、 「イ ライザはフレディと結婚し、ピッカリング大佐の援助を受けて花屋を経営する。 ヒギンズ家に出入りもするが、ヒギンズは相変わらず言語学に熱中し、人を人と も思っていない…。」などと述べている。でもマイフェアをミュージカル化した アラン・ジェイ・ラーナーはその台本の冒頭で「ショーよ、私はあなたに謝るが、 あなたは間違っている(ハッピーエンドは重要ですよ)。」と述べているんだ。菜 穂ちゃんはどっちの結末が好きかね? 菜穂:そりゃ、お芝居として楽しんで見るなら、ハッピーエンドのほうがいいわよ。で も現実的には無理があると思うな…。ヒギンズってそもそもマザコンでしょう。 だから独身なのよ。あのヒギンズ夫人は、イライザが困ったとき相談に行ったこ とでもわかるように、とても立派な人みたい。あんな母親がついていたら、ヒギ ンズンは何時までも子供から成長できないわね。 博士:ほほぅ、菜穂ちゃんは結構きびしいね。 菜穂:イライザは最後には一旦戻ってくるけれど、それは「仕方がないわねぇ。」とい う感情で、愛しているからではないと思うの。台詞でも「大切には思うけれど、 愛して欲しいわけではない。 」ってはっきり言っているでしょう。これって、私、 ピアス夫人の感情も同じだと思うの。彼女だって「ヒギンズ先生って強引で、滅 いとま 茶苦茶。とてもやっていられないからお 暇 をいただきたいんだけれど、お許し いただけないから…。」とずるずる居続けてしまっている。ヒギンズはこういう う ま のにつけこむのが上手いんだわ。このままじゃ、イライザも独身主義のヒギンズ やピッカリングと一緒に住んで、オールドミスの家政婦になってしまうのがオチ じゃないかしら。 博士:じゃ、フレディと結婚すれば上手くいくと思うかい? 菜穂:フレディは、今ならストーカー行為で訴えられかねないヘンな人よ。でもとにか くイライザのことを一途に大事に思っているのは間違いないわ。「私はフレディ と一緒になります。彼は私を心から愛してくれているから。」というイライザの 選択肢はそれほど間違っていないと思うの。たしかに貧乏貴族のボンボンで、実 生活の苦労は何一つ知らない人だけれど、イライザなら花屋の売り子をしながら でも、フレディを養って行くくらいの生活力はありそうだな……。 博士:たしかにフレディはイライザのことを支配しようとか、粗末に扱うということは ないだろうね。でもイライザは、上品な所作・喋り方は身につけたけれど、こち らも実務的な勉強ができているわけではない。本当の貴族と結婚するのならそれ でもいいけれど、アインスフォード=ヒル家は没落貴族で召使いもいない。とな ると花を仕入れたり、帳簿をつけたり……。花屋をうまく経営できるか心配にな るね。 菜穂:頭のいいイライザは、ピッカリング大佐が自分のファンであることを知っている から、きっと援助を頼むのよ。大佐は喜んでパトロンになってくれそうよ。そし て若い二人は裕福ではないにしても、愛情溢れる生活をしましたと。これでメデ タシ・メデタシね。 博士:そうかなぁ……!?
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