1 小さな労働者 2 郷 暮 らし 3 異郷の戦争

目 次
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目 次
リ
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はじめに
機織りを覚え始めた頃、日本の工場へ/ことばも分からんのに子守、よ
小さな労働者
うやったもんや/在日の子どもにとっての工場法と就学政策/不就学の
サ
理由は「貧困」と「女児故」
/学びたい
タヒャン
「あひる長屋」での新婚生活/家族四人が他界した年/担ぎ屋、麹造り、
他郷暮らし
飲み屋……/
「目が点になるような」生活/疎開先のブドウを東京に運
ぶ/事件を機にどぶろく摘発が強化/酒を飲んだ姑と飲まなかった夫
いっぺん防空壕入らんと、寝てみたい/ええ加減に埋めて、死んだら死
異郷の戦争
んだまま/女学校一年で海軍工廠へ動員/内鮮協和会の末端の仕事を押
しつけられた父/白いチョゴリに行き先を墨書されて日本へ/雇い主の
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/肩を組み、体を温めあった裸の被災者/お腹空いて死んじゃうよ
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「憲兵みたいな仕事」
/空襲の炎熱下、川で体温調整してくれた兄ちゃん
た原爆の影響
ために勧められた結婚
子どもの頃、母の笑顔を見たことがない/玄米の搗き場で友だちがうた
ハンセン病療養所で
/渡航証明書と戦後の法的地位/学校に行きたくて日本へ/永住許可の
ミシン二台を積んで済州島へ/自分が産んだ子はいっしょに連れて行く
「闇の舟」 からの起業
地で聞いた夫の嘘八百/飯場で七〇人分の飯を炊く/中古のオート三輪
教室の「ションベンババア」
/夫は博打場に入り浸り、ひとりで出産/窮
苦労自慢
一週間、家族を待つ/どういう病気が原爆病か/六〇年以上経って顕れ
広島の街が消えた/父は「解放」と喜んだけれど/河川敷に作った畑で
ヒロシマ
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った唄/赤い紙のお薬ちょうだい/再婚した正直者の夫の嘘/在日コリ
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アンの高い罹患率
へその緒も思い出の写真も全部ないん/四〇番地小史/ともに闘うて勝
鴨川・高瀬川沿いの家々
ち得た家/おのれが怖いで、ひとりで住めると思うてんのか!/人生の
中で一番の勉強になった/四〇番地時代のコミュニティは健在
おらげのマリコ、土まで食ったんだべば/
「慰安婦一一〇番」に届いた情
戦争も津波も生き抜いて
報/帯剣して慰安所に来た兵隊/冬はいやだよ、さねが凍ってくるよう
だ/裁判負けても、俺は錆びはせぬ
一枚の写真/子どもをたくさん産んで親孝行しました/父の再婚相手と
離 散
祖母と日本へ/シジプサリ
(嫁暮らし)
/一六歳の長女はひとりで北朝鮮
へ/医者になったが、病死した長男/ニュースを聞くたび胸が痛くなる
警官隊に教室からつまみ出された子どもたち/写真の中のもうひとりの
窓ガラスのない教室
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少女/チンジュラ先生が教えてくれたのは恋歌/アボジというあだ名の、
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妻も子もいる中学生/紅一点で始まった教師生活
おわりに
んなんかに貸す人、いねえよ
のもとへ/借金がなければ働く気しないといっていた夫/韓国人の婆さ
浪江町の在日韓国・朝鮮人は一二人/避難所となった朝鮮学校から息子
原発事故後、沈み込んでいった孫/父は朝鮮人、母は日本人/震災時、
フクシマ
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はじめに
はじめに
『世界』の二〇一二年六月号で連載「ハルモニの唄」の開始にあたって「連載のはじめに ――ふた
りの在日女性との貴重な出会い」と題するこんな文章を記した。
ペ ポン ギ
一九七七年一二月、「慰安婦」被害の最初の証言者裴奉奇さんにはじめて会った時、強い衝撃を
受けた。幼い頃、家が貧しかったことから、私は貧困と性奴隷制に関わる問題に関心を抱くように
なったが、奉奇さんが経験した植民地朝鮮の貧困は次元を異にしていた。戦時の記憶によるPTS
Dの症状が強く、沖縄で人を避けて暮らしていた奉奇さんが数年に及ぶ取材に応じてくれたのは理
ソンシン ド
不尽な被害を他者に訴えたかったからだろう。一九九二年一月、市民グループが主催した情報収集
のための「慰安婦一一〇番」に宋神道さんの情報が寄せられた時、他のメンバーが再調査を逡巡す
る中、私は奉奇さんに背を押されるように宮城県女川に神道さんを訪ねた。神道さんが提訴したの
はその一年後である。まぎれもなく奉奇さんと神道さんとの出会いによって、日本軍の性暴力問題
は私のライフワークになった。
ふたりの在日女性と貴重な出会いをしながら、私は他の多くの在日女性がどのような人生を歩ん
でこられたのか、触れずにきた。漠然と在日女性が記録した方がよい結果が残されると思っていた。
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けれど、ふと、遅ればせながらそれは日本人こそが見過ごしてはならない歴史であることに気づい
た。
いま、在日のハルモニに会うたびに、はじめて奉奇さんに会った時に受けた衝撃と似た衝撃を受
けている。ひとりひとりのハルモニを訪ねるたび、日本社会で起こっていたのに気づかずにいた出
来事が展開される。そうしたことがらを記していこう。
たちの間には「苦労自慢」
「貧乏自慢」ということばがあるそうだ。日
在日のハルモニ(おばあさん)
本語では「苦労」や「貧乏」に「自慢」ということばは結びつかない。韓国・朝鮮にもともとあった
ことばなのだろうか。いや、きっと違う。故郷を離れて日本で、日本語を使って暮らすハルモニたち
の造語に違いない。どれほど苦労したか、どれほど貧乏したか、自慢しあう、あるいは、苦労や貧乏
を愚痴る徒労を揶揄したものか、このふたつのことばの真意を正確には捉えていないのだが、
「苦労」
シンセタリョン
や「貧乏」を自慢しあって吹き飛ばすハルモニたちの笑い声が聞こえてきそうで小気味よい。
また、身世打令ということばがあるそうだ。辞書には「身の上話。自分の不幸な運命を物語風に唱
えること」とある。打令には音曲の一種、囃子詞、何々節などの意味がある。
いろんなバランバランの毛糸をつないで
編んだパンツ
なに色やいわれても答えられへん色やった
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はじめに
はじめは子供のセエタアで
それが古うなってやぶれてきたら
ほどいてほかの毛糸をたして
また子供のセエタアを編む
そんなことばっかししているあいだに
ボロンボロンになってしもうて
もうどうにもでけへんようになったら
最後にパンツになる
十いろではきけへんかった(以下略)
リ ミョンスク
こ ん な「か あ ち ゃ ん の パ ン ツ 色」と 題 し た 詩 を 冒 頭 に 掲 載 し た 詩 集『望 郷』
(天 理 時 報 社、二 〇 〇 五
年)
の 著 者 李 明 淑 さ ん の 母 は、空 腹 を 紛 ら わ す た め 紐 で お 腹 を き つ く 締 め て リ ヤ カ ー を 曳 い て ぼ ろ 布
や屑鉄を買い集めて子どもたちを育てた。日々の出来事を即興歌にして歌う母の身世打令を明淑さん
は子どもの頃、しばしば聞いた。生前の母の身世打令を弟が録音していた。それを聞いた時、明淑さ
んはテープレコーダーを抱いて、胸をかきむしったという。
「その録音テープを聞かせてもらえます
か」そんなことばが喉もとまでせりあがったが、私はこらえた。他者には触れてほしくない、どれほ
ど大切なものか……それが痛いほど伝わって来たからだ。
宋神道さんは歌が好きだ。集会や交流会など、人が集うとしばしば歌う。
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忘れられない宋さんの身世打令がある。「慰安婦」の被害事実と国際法違反は認定されたものの請
求は棄却された高裁判決後の報告集会で、これ以上なく沈痛な面持の多数の参加者を前にして、その
会場にいる誰よりも落胆しているに違いない宋さんはマイクをもぎ取り、
「歌っこひとつ歌うから」
と突然歌いだした。
あたしゃー えー 負けた裁判 よろしくよかばってん
いくら負けても オレは錆びはせぬ
ここに集まったお客様 よく聞いて 二度と戦争はしないでおくれよ ああ
は今でも 一〇〇年生きても 明日くたばっても
としこ(宋さんの通名)
やるときゃ やる お金がなくても きものがなくても 飾りがなくても
やってみせる この政治家のホイトども あ ドッコイ あ ドッコイドッコイ
文字に直せばハチャメチャだが、参加者の間の通路を踊りながら歌う宋さんの即興歌に会場の空気
は一変し、沸き立った。会場の参加者を笑わせずには帰せない。会場を盛り上げることで自分自身を
も鼓舞する、そんな宋さんの渾身の身世打令だった。
思い起こせば、若い頃から高齢な女性の話を聞いてきた。きっかけがある。
女性向けの雑誌の編集部にいた頃、木曽路への旅のページを企画した。取材中、開田に麻を織るお
ばあさんがいると聞いて訪ねた。
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はじめに
「麻を織るのは糸を紡ぐことから始まるんですか」
「いんや。種を蒔くことからだ」
家族の衣類を調える作業が種を蒔くことから始まるというそのおばあさんの話を聞いて以来、私は
老女の人生譚に耳を傾ける愉しみを覚えた。男性ではなく「老女」である。なぜ、
「老女」か。老女
たちは文字に記されることのなかった世界を私に見せてくれたからだ。
(冬樹社、一九七九年『
)女たちの子守唄』
(第三文
フリーになって最初に手掛けた『つい昨日の女たち』
明社、一九八二年『
)琉球弧の女たち』
(冬樹社、一九八三年)
は、明治生まれの女性たちの聞き書きである。
村々を訪ね、沖縄通いをしている頃、裴奉奇さんに出会った。
ここ数年、川崎、大阪、東京、埼玉、京都、名古屋などを中心に在日のハルモニの話を聞き歩いた。
老女たちの話を聞いていた若い頃の記憶がふと蘇った。無論、日本の老女たちと在日のハルモニたち
とは生活の基盤が異なる。まぎれもなく在日のハルモニたちは日本が朝鮮を植民地支配した結果とし
て現在日本で暮らしている。それは大前提だ。が、ごく私的な経験からいうと、三十数年の年月の時
間差はあるが、明治生まれの日本の老女たちと現在の在日のハルモニたちとの間に共通項があった。
文字を読めない人が多いということだ。
戦後民主主義教育の洗礼を受けた私には文字を読めない老女たちの人生譚は新鮮に映った。極論す
れば文字文化に触れずに生きてきた人ほど私の知らない世界観を示してくれた。それは例えば、家族
の衣類を調達するのに麻の種を蒔くことから始める総合的な労働で培われた力、生活に必要なすべて
の物資を自力で生み出す力を反映した世界観といえようか。
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在日のハルモニからも同様の感慨を受けた。文字を知らないハルモニほど新鮮なことばを発した。
が、教育を受けられなかった日本の老女たちが小作地であったとしても土や自然と格闘して生きてき
たのに対し、ハルモニたちは故郷を離れた時点から定着できる所さえままならず、その多くは同胞が
集住し始めた都会で暮らした。食べ物を与えられる程度、賃金が支給された場合でもきわめて低賃金
で子どもの頃から働き始めたハルモニたちは戦前から女子労働者の先駆者だった。ハルモニたちは常
に働き続けてきた。労働組合に組織される機会などごく稀で、パートなど身分の不安定な状態で働く
か、あるいは、自営した。労働に従事した経験のないハルモニは皆無に近いだろう。
「日 本 人 こ そ が 知 ら な く て は な ら な い 歴 史」と ハ ル モ ニ た ち の 人 生 譚 を 聞 く 作 業 を 肩 肘 張 っ て 始 め
たが、若い頃、老女たちの話を聞いた頃と同じようにいま、じんわりとした感動を覚えている。想像
を絶する貧困から派生するさまざまな困難に向き合った時のひとりひとりのハルモニたちの意地 ――
ハルモニたちの「苦労自慢」「貧乏自慢」に立場は異なるのに、ちゃっかり元気づけられている。知
らなくてはならない歴史を繙く、第一歩は踏み出せたような気がする。
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小さな労働者
子どもの頃働いた工場も,結婚後住ん
だ地域も周囲は日本人ばかりだったと
いう金淑良さん.右は自宅で
「子どもの授業参観、行ったら名前書くやろ。自分の名前もよう書けん。それで怖くてな、行きと
うても、いつも嘘ついて用事作って〝行けたら行くわな〟こないいうて、子ども学校に送り出した
わ」
の き り か え の 時 な、役 所 に 行 っ た ら 窓 口 で〝日 本 語 の 書 け る 人 と い っ し ょ に 来
「登 録(外 国 人 登 録)
い〟、こういわれて追い返されたわ」
「道聞いたら、目の前に探してる店の看板があるねん。看板あっても読めんもんやから、分からん
でしょ。それで、変な顔されて……」
取材中、日本社会で文字を知らずに生活することの困難をたびたび耳にした。読み書きできないこ
とを知られるのは羞恥の極み、恐怖でさえある。視力検査表の仮名を上から下まで全部暗記した、と
いう苦肉の策も聞いた。
たちは教育を受ける機会に恵まれなかった。
ここに登場する在日コリアンのハルモニ(おばあさん)
早い時期に日本に来たハルモニの多くは学校に通った経験がない。一九三〇年代以降、在日の子ども
たちの就学率は上昇するが、それでも小学校を卒業できたハルモニは少数だ。
子どもの頃から家事手伝いだけではなく、きわめて低い賃金で家内工業的な工場に吸収された。あ
るいは子守奉公や農家の手伝いに行くこともあった。
七〇歳を過ぎてから夜間学校に通ったあるハルモニは、
「子どもの時覚えた勉強と違うからね、す
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1 小さな労働者
ぐ忘れる。私、よう忘れる脳持ってるみたいや。いやいや、よう忘れまっせ」と、嘆く。長年、文字
を覚えたいと強い願望を抱き続けてきて、ようやくその機会を得られたハルモニなのだが。
機織りを覚え始めた頃、日本の工場へ
ソ メンスン
「若い時、いくらか分かったんだけどね、年とるとみんな忘れちゃって、日本のことば、ちんぷん
かんぷん」
は、あいさつを交わすと、開口一番、こういった。
川崎市在住の徐孟順さん(一九一八年 慶尚南道)
七〇年以上、日本で暮らしてきたが、孟順さんにとって日本語は異国のことばだ。子どもの頃、東
京・大井町の電球工場で三年働き、一度故郷に帰り、数え一六歳で結婚して再び日本に来た。
「アオはね、真鍮で、アカは銅だって。それつなぐとね、夕方、目がちらちらちらちらして、いく
らこすっても見えないんですよ。あっちもピーピー、こっちもピーピー、泣いてる人いっぱい」
孟順さんが働いた工場では歓楽街を彩る小さな電球を作っていた。孟順さんは、銅の導入線に白金
のフィラメントをつなぐ仕事をした。アオ、アカは業界用語だろう、電球の口金には真鍮が使われた。
その工場では朝鮮の少女や若い女性が約三〇人働いており、雇い主も朝鮮から来た人だった。
「私と同じくらいの友だちも半分、大人も半分。大人っていったって、結婚したのに旦那さんが日
本に来ちゃって、旦那さん探しに来たところが、そういう工場へ入ったんですよ」
一二、三歳前後の少女たちと、一五、六歳になれば結婚した幼い既婚者だ。そうした既婚者は、生活
に窮し日本に出稼ぎに来たまま連絡が途絶えてしまった夫を探しに来た。彼女らは工場の寮で寝起き
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して自分の居所を故郷に知らせ、連絡がとれた夫が迎えに来るのを待っていた。
朝は五時に起こされた。一日の仕事を終えると、必ず床に落ちた材料を全部拾い掃除をする。顔を
洗って、寝るのは深夜になった。日中眠くて、仕事中、あちこちで居眠りしていた。それを戒める怒
号が始終飛んだ。
思わぬきっかけで孟順さんは日本に来ることになった。
孟順さんが生まれる前、上の兄三人が相次いで亡くなった。そのため両親は、孟順さんが生まれた
とき強い子になるようにと願い、女の子なのに男の子の誕生を祝う慣習である松と竹を立てて村の人
の顰蹙をかった。けれど、孟順さんは乳を飲まず、始終、頭におできができ、たびたび危篤状態に陥
るような病気にかかった。周囲の人が、何度も埋葬の準備をしたほどだ。
が来た。両親は
まもなく数え九歳になろうという時、家々をまわって行く末を占う占い師(拝み屋)
孟順さんの病弱を心配して占ってもらうと、この子は九歳になったらよその国に出さないと命が短い
と告げられた。
その後まもなく日本から帰って来た従兄は、品川の工場から適当な働き手がいたら連れて来てほし
いと頼まれていた。拝み屋がいったことを気にしていた両親は、兄三人を失った上、孟順さんの命ま
で奪われてはと、手放すことを決意した。孟順さんが母から機織りを教わり、覚え始めた頃だ。
生活が苦しかったわけではない。漢学の素養のある父は村の人からさまざまな相談を受け、耕地の
ない人に小作地を借りられるように地主と交渉したり、貧しい人が借金をする際も口添えするなどし
て、信望が篤かった。家には父が手助けした人からたびたび餅や酒などが届けられていた。孟順さん
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