3]主な合戦の概要 三方ヶ原の合戦 ・元亀三年(1572)武田信玄と徳川家康が、遠江国三方ヶ原の台 地(浜松市)で合戦し、信玄が大勝した合戦。 ・信玄は九月二九日、山県昌景を先鋒として甲府を立たせ、伊那郡 から三河東部に侵入させた。信玄自らは十月三日に北条氏政の援軍 を伴って甲府を発ち、遠江国に侵入した。 ・家康は、信玄の二万七千の兵を見て信長に援軍を求め、籠城作戦 を取らず決戦することにした。信玄は天竜川上流に移動し、勝頼、 穴山信君らに二俣城を攻撃させ、十二月十九日に城をおとし、十二 月二十二日、三方ヶ原の台地に集結した。同日、家康は手勢八千に 信長の援軍三千を加え浜松城を出た。 ・合戦は同日午後五時頃から始まる。信玄の攻撃部隊は先陣に小山 田信茂・山県昌景、二陣に武田勝頼・馬場信春、三陣は本陣で信玄 が率い、後備は穴山信君という布陣をとった。兵力の差と地形の不 利のまま徳川軍の完敗となり、家康は辛うじて浜松城にのがれ、信 長の援軍も総崩れとなり、平手汎秀は戦死した。信玄は浜松城の攻 撃はせず西に進み刑部で越年した。 長篠の合戦 ・天正三年(1575)織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼軍が 三河国長篠(愛知県新城市長篠)で合戦し、武田軍が大敗した合戦。 設楽原の合戦とも言う。 ・信長は五月十七日三河国野田で家康軍と合流し、十八日、設楽の 極楽寺に陣を布いた。武田勝頼はこれ以前の五月八日、長篠城を攻 撃していたが、守将奥平貞昌は数百の兵でよく守っていた。 ・武田遠征軍一万五千に対し、織田・徳川の連合軍は三万八千の大 軍であった。戦場の設楽原は連子川をはさむ山峡の盆地であった。 五月二十一日早朝、勝頼は長篠城の陣を払い、ここに出陣してき た。この狭地に信長は馬防柵を築き、鉄砲三千挺を三段に分け、突 進してくる武田軍の騎馬隊を迎え撃つ間、二段目が点火して備え、 三段目が弾込めをするという戦法をとった。敵に切れ目なく発砲 し、反撃する余裕を与えないためである。 ・五月二十一日午前六時から午後二時まで合戦が続いたが、武田軍 の名だたる武将たちは馬防柵に阻まれ、鉄砲隊に次々に討たれ、つ いに織田・徳川軍の大勝に終わった。鉄砲が組織的に利用された合 戦として画期的なものであり、武田氏はこれをさかいに衰退し、天 正十年三月に滅亡した。 『戦国史事典』より 3
© Copyright 2024 ExpyDoc