「慶長遣欧使節団」,スペイン・ローマ渡航の真の目的

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世界史のなかの日本
「慶長遣欧使節団」
,スペイン・ローマ渡航の真の目的
青森中央学院大学大学院教授 大泉光一
慶長・元和年間に伊達政宗がメキシコとヨー
ている。またさらに,家康は,メキシコから銀鉱
ロッパに派遣した支倉六右衛門長経(通称常長,
石の水銀アマルガム精錬法の技術導入を望み,メ
以下,常長)らの「慶長遣欧使節」の渡航目的に
キシコとの直接通商を行うことを熱望していた。
関する定説は,従来,濃毘数般(ヌエバエスパー
政宗,出帆直前に「訪欧使節団」派遣を決める
ニャ,現在のメキシコ。以下,メキシコ)との直
幕府は,日墨直接通商開始のため,政宗の使節
接通商交易の開始と,カトリック教の宣教師の派
団派遣を容認した。そして常長およびフランシス
遣をスペイン国王とローマ教皇へ要請することで
コ会士ルイス=ソテロ神父ならびに総勢150余名の
あった。しかしながら,それには,いくつかの疑
日本人は,1613年10月28日,月の浦港からアカプ
問がつきまとう。1つは,異教徒であった政宗が
ルコ港に向けて出帆した。政宗が幕府と合同で「訪
幕府のキリシタン禁制下において,ローマ教皇の
墨使節団」を派遣した目的は,まず,メキシコ副
もとに公然と使節団を派遣し,
「服従と忠誠」を
王の答礼大使S・ヴィスカイノ一行40名余りをア
誓ったこと。もう1つは,政宗が徳川家康の「政
カプルコ港まで送還すること。次に,家康の特使
教分離主義」の政策に公然と違反し,領内におい
としてメキシコへ派遣されたアロンソ=ムニョス
てキリシタンの布教を許可し,スペイン国王と
神父に託した日墨通商交易に関する親書の返書を
ローマ教皇に対し宣教師の派遣要請を行ったこと
受け取ることであった。
である。
ところが,政宗は,使節船が艤装されて出帆す
ノ ビ
ス パン
17世紀初期の世界情勢と日本の対外政策
ぎ そう
る直前にソテロと計略して,常長とソテロのほか
ところで,新大陸の発見以来世界の覇者として
に日本のキリシタンの代表者3人を加えて伊達藩
君臨していたスペインは,1588年に無敵艦隊(ア
単独の「訪欧使節団」の派遣を決めたのである1。
ルマダ)が,イギリスに敗れ,没落の一途をたど
政宗が突然,メキシコまでの渡航計画をヨーロッ
り始めていた。それとともに,カトリック教会と
パまでに変更した背景には,1613年8月の江戸に
断絶してプロテスタント(新教)に妥協したイギ
おけるキリシタン迫害の影響があった。教皇パウ
リスが,海上の勇者になってきた。またプロテス
ルス5世あて日本のキリシタンの書簡(1613年10
タントを受け入れたオランダは,スペインから独
月1日付)および同「畿内キリシタン連署状」
(勢
立し,アジア貿易を国家的規模で行うために,
数多講,1613年9月29日付)2によると,ソテロは,
せ
す
た こう
1602年に連合東インド会社(VOC)を
設立した。
一方,家康は,外国人をたくみに利用
して貿易を営み,アジアだけでなくヨー
ロッパ諸国との通商交易に力を入れよう
としていた。家康は対外貿易政策として
開国主義をとったが,キリスト教は禁止
し,キリシタンと関係のない日蘭通商
(1609年)と日英通商(1613年)を開始し
世界史のしおり 2015②
伊達政宗がセビーリャ市にあてた書状(セビーリャ市文書館所蔵,筆者撮影)
禁教令で自分が洗礼を授けた28人のキリシタンが
1615年2月17日,国王の臨席のもとで洗礼を受
処刑され,またソテロ自身も捕縛されて,火刑に
けた常長は,受洗式直後に国王とレルマ公に対し,
処せられる直前に政宗による助命嘆願によって許
「サンティアゴ騎士団」の騎士に任命してくれる
された経験から,日本におけるキリスト教の布教
よう,請願書を提出して強く要請した。しかしな
活動に対し強い危機感を抱いたのである。
がら,スペイン側から何か特別な目的(野望)が
そこでソテロは,
政宗の保護のもと,
司教となっ
隠されているのではないかと疑われ,かなわな
て仙台領内で宣教活動を行うことをもくろみ,政
かった5。常長が「サンティアゴ騎士団」の騎士
宗に日本全国のキリシタンの指導者になるように
になるということは,政宗の臣下であると同時に,
勧説したと推察される。
そのためには,
政宗がロー
スペイン国王直属の臣下になることを意味する。
マ教皇に「服従と忠誠」を誓い,日本におけるキ
そうなれば,政宗が「キリシタン王」になったと
リシタンの指導者として認証してもらう必要が
きに,ローマ教皇とスペイン国王から物心両面の
あった。そのために政宗にスペイン国王とローマ
支援を受けられると考えたのであろう。
教皇のもとへ,
「日本のキリシタン」の代表者を
1615年11月3日,使節一行は教皇パウルス5世
極秘に派遣することを持ちかけたのである。つま
に公式に謁見し,政宗の親書を奉呈した。この親
りソテロは,政宗が30万人以上のキリシタンと手
書で政宗は,①宣教師の派遣,②司教の任命,③
を結び,領内に「キリシタン帝国」を築き,スペ
メキシコとの通商交易開始の支援を請願した。こ
インの強大な軍事力の支援を受け,倒幕して将軍
れら以外に常長らは,政宗の日本における「キリ
の座について「キリシタン王」となることをもく
シタン王」の叙任および「キリシタンの騎士団」
3
ろんだのである 。
果たせなかった野望
の創設許可などの機密事項を口頭で請願した。し
かし,①と②以外は,政宗が洗礼を受けていない
「訪欧使節団」一行は,1614年10月21日,ソテ
という理由ですべて拒否されてしまう6。
ロの出身地セビーリャ(セビリア)に到着した。
使節一行は,1616年1月7日ローマを出発し,
常長らはセビーリャ市庁を訪れ,サルバティエラ
同年4月,困窮状態でマドリードにたどりついた。
市長に政宗の親書と進物の日本刀を手渡した。こ
常長とソテロはなんとか国王からの返書を受け取
こで常長とソテロはスペイン政府が派遣した通商
ろうと手段を講じたが,そのかいもなく,1617年
院院長ドン・フランシスコ=ウアルテの事情聴取
6月13日,スペイン政府はついに常長に強制的な
を受けた。このとき二人は「キリシタン帝国」を
国外退去を命じたのである。
築く計画について何も語らず,宣教師派遣の要請
結局,使節一行は目的を果たせないで帰国を余
は日本の皇帝
(将軍)
の認証を得たものであると説
儀なくされた。しかし,常長らは政宗からの使命
明したのである。これに対してスペイン側は,幕
を果たすため7年余の間辛酸をなめながら懸命に
府の政策との矛盾を突き,使節団に対し強い疑念
努力した。その日本人の勇敢さと不撓不屈の精神
を抱いた4。
力は当時のヨーロッパ人に驚異と感銘を与えた。
1615年1月30日,常長はスペイン国王に謁見し,
もうし あわせ じょう じょう
政宗の親書と「申合条々」
(平和協定案)を手渡
した。この「申合条々」は幕府の認証を得たもの
であるという説があるが,キリシタン禁制下にお
ける宣教師の派遣要請,幕府が友好関係を保って
いたオランダ人およびイギリス人の国外追放など
の条項が,幕府の対外政策に反することから,伊
達藩が単独でスペイン政府と同盟関係を結ぼうと
したと考えられる。
ふ とう ふ くつ
註
1 イエズス会ローマ文書館
(A.R.S.I.)
, Jap. Sin 34. Documento,
No.15. f.31
2 ヴァティカン機密文書館
(A.S.V.)
, I-XVIII, 1838
(Barberini
Orientale)
3 スペイン・インディアス総文書館(A.G.I.),México, 299
4 スペイン・シマンカス総文書館(A.G.S.),Estado Legal
2644,37
5 A.G.I., Filipinas 1, No.158
6 A.S.V., Fondo Borghese, Serie IV. No.63, Lettere
Dicerse, 1615
世界史のしおり 2015②