ウエストミンスター小教理問答 84「罪への報い」 罪への報い 罪は、この世でも来るべき世でも神の怒りと呪いに相当します。 1、この世での神の怒りと呪い:罪にはこの世で神からの罰が下ります。自業自得と いう言葉があるように、人はこの世で自分の蒔いたものを刈りとらなければならない 事があります。人を愛さなかった人は人に愛されない生涯を刈り取ることがあります し、不摂生な人は病気を刈り取ることがあります。そのように因果関係が鮮明でない 場合でも、罪に対してこの世で神からの罰が下ることがあります。 また、 明白な罰がなくても、 罪人はこの世で神の怒りと呪いの下に置かれています。 ただし、人の罪と不幸とはいつも因果関係にあるわけではありません。 ①神は恵みと忍耐により、 人の罪を罰せず悔い改めを待って下さることがあります。 ②神はわが子を訓練する父として試練を与えられる場合もあります。 2、来るべき世での神の怒りと呪い:この世では、悪が栄えて罰せられない場合もあ ります。けれども、悪人の生き方が得な生き方なのではありません。この世で罰せら れない悪も、神は来るべき世では罰せられます。永遠までを見通すならば、全ての罪 は神の罰を受けるのです。 人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。 (ヘブライ 9:27) 信仰生活の必要 1、私たちは皆、日ごとに罪を犯します(問 82) 。その罪には軽重の差があります(問 83) が、 どれほどに軽い罪であっても、 「罪はみな」 神の怒りとのろいに相当します。 しかも、この世ばかりではなく、 「来るべき世」(永遠に続く世)でも神の怒りと呪 いに相当します。 従って、私たちはみな、この世ばかりではなく、あの世でも神の怒りを受けるは ずの人間たちです。 2、問 82~問 84 は、私たちに信仰生活の必要性を教える問答です。罰を教えて人を 脅かしたり絶望させたりするための問答ではなく、罪からの救いを求めさせるための 問答です。その信仰生活の内容は続く問 85~107 で教えられます。 3、人は皆、罪人であり、どの罪も神の怒りとのろいにあたいしますが、イエス・キリ ストによって、神は全ての罪を許して下さるのです。信仰生活(その中心はキリスト への信仰と悔い改め)は、その恵みを得るための道なのです。 4、 「永久刑罰に価しないほどに小さな罪がないように、真に悔い改めている者にも永 久刑罰をきたらせることができるほど大きな罪はない」 (ウエストミンスタ-信仰告 白 15:4 ) 。私たちは各自が自分の罪の重さを認めながら、どのような罪をも許して 下さる神様の許しの大きさに頼るべきなのです。
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