年間第 29 主日(Lectio Divina B 年) 10 月 21 日 年間第 29 主日 奉仕の姿勢 マルコによる福音書 10 章 35 〜 45 節 ³5 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえて いただきたいのですが。」³6 イエスが、 「何をしてほしいのか」と言われると、³7 二人は言った。「栄 光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」³8 イ エスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯 を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」³9 彼らが、「できます」と言うと、イエ スは言われた。 「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることに なる。40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定めら れた人々に許されるのだ。」4¹ ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始 めた。4² そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の 間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。4³ しかし、 あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44 い ちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45 人の子は仕えられるためではなく仕える ために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 他の朗読:イザヤ 53:10, 11 詩編 33:4, 5, 18 ∼ 20, 22 ヘブライ 4:14 ∼ 16 Lectio …読む イエスは善い教師として、どんな機会も逃がさず弟子とは何であるか、について教えようとします。 ヨハネとヤコブの質問は、権力と指導力について質問をします。この二人の弟子は、神の国の到来の 時、イエスが座る玉座の左右という重要な地位を願います。 これは愚かな要求であり、彼らの未熟な考え方を示しています。神の国と無縁な、権力に対する間 違った理解を示していたため、イエスはこの質問をとても深刻に受け止めました。 イエスはご自分がこれから直面する苦しみに耐える覚悟ができているか、と二人に聞きます。彼ら はすぐに「できます」と答えます。イエスはご自分が直面する苦しみを表現するためにふたつのイメ ージを使います。ひとつは杯で、もうひとつは洗礼です。イエスは、彼らが確かに自分が受けようと している苦しみを受けることになる、と述べます。しかし、それは彼らの要求が叶うという意味では ありません。イエスの隣りに誰が座るのかを決めることが出来るのは、ただ父なる神だけなのです。 他の弟子たちは憤慨し、ねたみが爆発します。そこでイエスが一同に話をします。神の国における 権力は人を支配するという意味ではない、と説明するのです。そこでの権力とは、共同体や個人への 奉仕によって現されるものだ、と。私たちの行いは、人々がイエスに出会い、イエスが彼らを救うた めの助けにならなければなりません。 キリスト教の共同体の中において権力を持っている人々は、自分たちの権力を委ねられている人々 への奉仕に用いるために、知恵と霊的な成熟を必要とします。家族や仕事、社会やどのような生活の 分野においても何かしらの権力を持っているキリスト者は、イエスの模範に従って奉仕の姿勢をとる べきでしょう。 Meditatio …黙想する この兄弟はどのような動機で一番良い地位をイエスに願ったのでしょうか。どうして他の弟子は彼 年間第 29 主日(Lectio Divina B 年) らに対して嫉妬したのでしょうか。 イエスの奉仕についての教えについてどう思いますか。あなたはどのような姿勢で人に奉仕してい ますか。奉仕することは自然に出てくる態度ですか。または、奉仕することは難しい、と感じますか。 人に仕えるために私たちが犠牲にしなければならないものは何でしょうか。 Oratio …祈る イエスのように人に仕える姿勢をもてるように神に願いましょう。 祈りの内に詩編 33 編を読んでみましょう。毎日 1、2 節を選んで、それについて黙想し、祈りの中 で神に捧げましょう。 Contemplatio …観想する イザヤ 53 章 10、11 節は、神の僕でメシアであるイエスと、私たちの罪がゆるされるために彼が受 けることになる苦しみについての詩です。 ヘブライ 4 章 14 ∼ 16 節では、私たちに素晴らしい約束が与えられます。イエスのお陰で私たちは 神の座に近づき「時宜にかなった」恵みと憐れみを受けることが出来るのです。
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