彼が負ったのはわたしたちの 痛みであったのに、わたしたちは思っていた

2016年第4期12課 12月17日
担った
わたしたち
私たち 痛み
思っていた 神の手
苦しんでいるのだ
病
負った
わたしたち
打たれた
イザヤ
4
「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負った
のは私たちの痛みであったのに わたしたちは
思っていた 神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と」 (イザヤ52:4)
ヨブの物語の最後に、神様はご自分を偉大な創造主として
現わし、ヨブの苦しみを終わらせます。しかし、この 問題の
原因となった神様とサタンの争闘は終わっていませんでした。
しかしヨブはこの争闘の解決を予見 しました。彼は贖い主
こそ罪の唯一の解決策であることを理解しました。
 生ける贖い主
 贖い主が人をつくられた
 模範を示された贖い主
 十字架にかかられた贖い主
 苦しまれる贖い主
 勝利される贖い主
「わたしは知っている、わたしを購う方はいきておられ、ついには塵の上に
立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、
わたしは神を仰ぎ見るであろう。」 (ヨブ 19:25-26)
ヨブは生ける贖い主が将来自分を死 か
ら救ってくださると心から信じていました。
しかし、彼は贖い主を知ることをそう長く
待たなくてもよかったのです。神様が
ご自分を創造主としてお現しになったか
らです。(ヨブ 38-41)
贖いと創造はイエスキリストによって同じ
時にに始められました。「始めに言が
あった、、、万物は言によって成った、、、
言は、自分を受け入れた人、、、には
神の子となる資格を与えた。」
(ヨハネ1:1-12)
私たちの創造主は素晴らしいお方です。
彼はご自分の被造物を死から救う為に
ご自分の命を与えられました。
「あなたも肉の目を持ち、人間と同じ見方をなさるのですか。人間同様
に一生を送り、男の一生に似た歳月を送られるのですか。」
(ヨブ 10:4-5)
ヨブは心から創造主と贖い主を信頼
していました。しかし神様は天に
おられ、彼は地上にいました。神様
はすべての苦しみから解放されて
いましたが、ヨブは苦しんでいました。
「神様は人ではないので、私のこと
を理解できない。神様は私たちの
ように苦しむことはできない。」
このつぶやきはイエス様によって
解決されました。「言は肉となって、
わたしたちの間に宿られた。」
(ヨハネ 1:14) 神様は私たちを購う
為に完全に人となられました。
「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、
試練を受けている人たちを助けることがおできに
なるのです。」 (ヘブライ 2:18)
「神の内にいつもいると言う人は、イエス
が歩まれたように自らも歩まなければ
なりません。」 (1 ヨハネ 2:6)
贖い主は私たちと同じように苦しまれ、
私たちと同じように生活なさいましたが、
罪のない生活を送られました。
イエス様は、神様が私たちを召しておられる
ような生活をどのようにして送ったら良いか、
完全な模範を示された唯一のお方です。
ですから、私たちはすべての点でイエス様
を模範とするように勧められています。
イエス様は完全な生活を送ったから私たち
の贖い主になられたのではありません。
イエス様は私たちの身代わりになる決心を
なさったので、私たちを購うことができるの
です。
イエス様はただ単に模範となられ私たちを
哀れむために来られたのではありません。
彼は私たちの死を味わわれるために
来られたのです。
「それからイエスは、人の子は、長老、祭司長、律法学者たちから排斥
されて殺され、三日の後は復活することになっている、と弟子たちに
教え始められた。」 (マルコ 8:31)
贖いの計画にはメシヤが十字架で死なれること
が必ず含まれています。イエスさまは私たちの
代わりに永遠の死を味わわれたのです。イエス
様はそれをしなければならなかったのです。
私たち一人一人は神の子羊に身代わりになって
いただいたのです。子羊がイサクの身代わりに
なったように。
イエス様は罪のために唯一のいけにえをささげ
られたのです。 (ヘブル 10:12)
命が「キリストと共に神のうちに
隠されている」私たちは永遠に死を免
れているのです。 (コロサイ 3:3)
信仰によってこの身代わりを受け
入れ、十字架の架けられた贖い主に
すがっていきましょう。
「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの
痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、
打たれたから、彼は苦しんででいるのだ、と。」 (イザヤ53:4)
ヨブの物語は人間の苦しみにつ
いて書いていますが、解決はし
ていません。キリストのみが
わたしたちの問題の解決です。
彼は「悲しみの人」です。
キリストは人類すべての苦しみ、一人
一人の苦しみを負って十字架にかか
られました。
誰も神様に苦しみについて教えなくて
も良いのです。なぜならキリストはわ
たしたちのすべての過去と現在と未来
の苦しみを人として経験されたから
です。十字架上のイエス様の苦しみは、
痛みと罪にかこまれた私たちの望みで
あり、私たちの救いの確証なのです。
サタンは神様の御品性を疑いました。ヨブの
勝利は悪魔にとって小さな敗北にすぎ
ませんが、イエスさまは悪魔を完全に打ち負
かされました。サタンの偽りは明らかに
されました。
サタンは神様は暴君で尊大であると述べ
ましたが、神様は罪人を救うために死に
いたるまでご自分を低くされました。(フィリピ
2:5-8) それはイエス様だけではありません。
「神(父)はキリストによって世をご自分を
和解させ」「永遠の霊によってご自身を、、、
神に献げられた、、、」 (2 コリント 5:19;
ヘブライ 9:14)
神性と人性を持たれたイエス様は私たちの
ために勝利されました。私たちは信仰に
よってイエス様において永遠の命を確証
できるのです。
「イエス様、尊い救い主!堕落した世界のために
愛する御子をお与えになった父なる神様の愛を、私た
ちが学ぶことができますように。カルバリーの十字架の
光のうちに、この言いつくせぬ愛を学ぶ時に私たちは
不思議さと驚きに満たされます。私たちは憐れみと、
優しさと赦しが、正義と威厳と力としっくりと調和する
のを見るのです。イエス様は罪人にご自分を見上げて
生きるように命じられました。イエス様は言われます。
「私は身代金を支払った。」と。罪によって開いた破滅
の淵はカルバリーの十字架によって埋められました。
悔い改めて信仰を持った魂は、赦しの父なる神様がそ
のカルバリーの十字架によってご自身と和解してくださ
るのを見ることができるのです。」
E.G.W. (This Day with God, June 16)