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一橋大学【世界史】解答例
Ⅰ
アリストテレスは古代ギリシアのポリスを前提とした。アテネに代表されるポリスは,市民
が軍役を通じて貧富によらない政治的平等を達成し,
民会による直接民主政を行ったことで,
独立した政治的共同体の性格を強めた。経済面では商工業や貿易も活発だったが農業の比重
が高く,市民は労働の多くを奴隷に委ね,経済活動を副次的なものとして政治参加に注力で
きた。一方聖トマスは中世封建社会の都市を前提とした。中世都市は商工業や交易の発達を
背景に,経済の中心として発展した。やがて自治獲得が進むがそれも経済力によるものであ
る。政治面ではツンフト闘争を通じた手工業者の政治参加拡大はあったが,ギルドを結成す
る大商人や親方が市参事会を独占して,経済的に豊かな者のみが政治に参加でき,自治にお
いても経済の論理が中心となった。このような違いから,都市国家を市民の政治的統合体と
捉えるか経済的統合体と捉えるかという両者の相違が生じた。
Ⅱ
フランスのルイ 14 世は 1685 年にナントの王令を廃止しユグノーは信仰の自由を失った。こ
のためプロイセンを支配するホーエンツォレルン家は,新教国という立場と産業振興の観点
から商工業者の多いユグノーの亡命を受け入れ,フランス大聖堂を建設した。同家は 1701 年
に王号を得てプロイセン王国を形成し,フリードリヒ=ヴィルヘルム 1 世が領主層のユンカ
ーを基盤に官僚制や軍隊を整備して,絶対王政の基礎を固めた。1740 年に即位したフリード
リヒ 2 世はオーストリア継承戦争と七年戦争でオーストリアに勝利して,ポーランド系のカ
トリックが多い鉱工業地帯のシュレジエンを獲得した。彼は新領土からの移住者のために聖
ヘートヴィヒ聖堂を建設し,宗教寛容令を発した啓蒙専制君主としての思想をそのデザイン
に反映させた。両聖堂は共に,プロイセンが宗教に固執せずに国家建設を進め,首都ベルリ
ンが内外から移民を受け入れて発展する過程で建設されたものだった。
Ⅲ
日本降伏後,北緯 38 度線を境に朝鮮は北部をソ連,南部をアメリカが分割統治した。48 年
に南部で李承晩を大統領として大韓民国が建てられると北部でも金日成を首相として朝鮮民
主主義人民共和国が成立した。一方中国では 49 年に国共内戦に勝利した共産党が中華人民
共和国を建設して 50 年に中ソ友好同盟相互援助条約を結び,敗れた国民党は台湾に政権を
建て中華民国とした。50 年に北朝鮮が韓国に侵攻して朝鮮戦争が始まるとアメリカは朝鮮半
島や台湾を防衛する意志を表明し,
国連軍を組織して北朝鮮軍を撃退して中国国境に迫った。
そこで中国は人民義勇軍を派遣して北朝鮮を支援したため戦況は膠着し,53 年に休戦した。
中国では毛沢東の権威が高まった一方で国力不足を痛感し,第一次五カ年計画を進める要因
となった。アメリカは台湾との米華相互防衛条約を結ぶなど韓国・日本・台湾を軍事上の拠
点として反共包囲網を形成し,中国と台湾の分断は固定化した。