ヨーロッパの主権国家体制の成立と世界商業の進展 5

節
ヨーロッパの主権国家体制の成立と世界商業の進展
0
ストックホルム
500km
スコットランド王国
北 海
デンマーク王国
アムステルダム
バル
パリ
洋
ベーメン
ウィーン
アウクスブルク
リ
ナント
フランス王国
スイス
共和国
マドリード
スペイン王国
ー
王国
ヴェ
ネ
ツィ
ア
共
和
国
黒 海
教皇領
リスボン
ポルト
ガル王
国
ジ
ェ
ノ
ヴ
ァ
共
和
国
オーストリア
ロシア帝国
ワルシャワ
ベルリン
ネー
スト
デル
ウェ
ラン
神 聖 ロ ー マ 帝 国
ト
ガ
西
プロ
ポ ー ラ ン ド 王 国
ブランデンブルク
ハン
ロンドン
大
ハプスブルク家
(オーストリア)の領域
神聖ローマ帝国の境界
ト海
イングランド王国
オランダ共和国
フ
ァリ
ア
アイルランド
ハプスブルク家 モスクワ
(スペイン)の領域
スウェーデン
王国
イ
セン
5
イスタンブル
オ
ローマ
ナポリ
地 中 海
ス
マ
ン
帝
国
レパント
ナポリ王国
け おりもの
[左上]①オランダの大商人たち(レンブラント作「毛織物商組合会員」
)
[左下]
②ヴェルサイユ宮殿 [右]
③ 17 世紀のヨーロッパ オランダの独立
絶対王政と
1 重商主義
じゅう しょう
た いと う
こ うえ き
16 世紀,ネーデルラント
(低地地方)
南部では,
ブリュージュについでアントウェルペンが急
よう ち
速に台頭し,交易の要地として栄えていた。しかし大西洋をこえ
る航路がひらけ,アフリカやアジアに交易の可能性が広がると,
あらたにネーデルラント北部のアムステルダムが,造船業や国際
絶対王政とはどのような
特色をもつ政治体制なの
だろうか。
き んゆ う
5
は いけ い
的な商業,金融の中心地として発展した。こうした力を背景に,
カルヴァン派新教徒の多いネーデルラントの北部7州が連合して,
せ んげ ん
1581 年にスペインからの独立を宣言した。そして東インド会社を
④
1609年,北部7州
設立し,アジアにも進出していった。
ホラント州
絶対王政
アムステルダム
ユトレヒト州
ロッテルダム
ブレダ
ブリュージュ アントウェルペン
フランドル ブリュッセル
アーヘン
ルクセンブルク
フランス王国
0
ラ
イ
ン
川
神聖ローマ帝国
の支配地域
1648年国際的に
承認されたオラ
ンダ国境
同じくスペイン
領境界
毛織物工業地域
100km
④ネーデルラント北部7州の独
立 独立戦争の中心がホラント州
であり,ホラント州人が当時の国
イギリス,フランスの海外進出は,はじめは
スペインに対抗し,国王の特許状を得てスペ
ざい か
オランダ(現在の正式国名はネー
デルラント王国)
が通り名となった。
62
し りゃく
か いぞ く
インの船や植民地をおそい財貨をうばう私掠活動とよばれる海賊
行為によっていた。しかし,両国の政治体制はこの時期に大きく
変化し,それにしたがい海外進出も新しい形をとるようになって
いった。16 世紀にイギリスでは王権の強化が進み,エリザベス
む て きか んた い
15
⑤在位 1558 − 1603
1世のもと,1588 年にはスペインの無敵艦隊
(アルマダ)
をやぶり,
ひ やく
きゅう
飛躍的な海外進出の時代をむかえた。フランスでは,新旧両教徒
が争う宗教戦争の混乱のなかからブルボン朝がひらかれ,17 世
1589 − 1792,1814 − 30
にな
際商業の担い手でもあったため,
10
と っ き ょじょう
紀にはいってルイ 14 世の時代,国王による中央集権的な政治体
在位 1643 − 1715
制がととのえられた。こうした体制は絶対王政とよばれている。
第3章 アジア諸帝国の繁栄とヨーロッパ
20
中世身分制議会から近代議会へ
ごう ぎ たい
みんかい
政治決定を合議体でおこなうという歴史は古く,部族社会の民会にまでさか
のぼる。しかし近代議会の成立に直接かかわってくるのは中世の身分制議会で
ちょうてん
はんえい
せいしょくしゃ
ある。身分制議会は国王を頂点とする身分制社会の構造を反映し,聖職者,貴
り えき
族,自治市代表(市民)など,それぞれの利益を代表する議員によって構成され,
しょうにん
国王の課税要求の承認がおもな役割であった。13 ∼ 16 世紀にかけてヨーロッ
パのほとんどの国で成立した(
けいがい か
が,絶対王政期には形骸化し,イギリスなど
p.36)
一部の国をのぞいてひらかれなくなった。イギリスでは 17 世紀の二つの革命
たんじょう
をへて,身分制議会の発展という形で近代議会が誕生する。
宗教改革によりローマ教会か
国教会が生まれ,エリザベス 1
かくりつ
絶対王政は,王権をささえる官僚機構や常備
世のもとで確立された。いっぽ
ぐん
う,カルヴァン派などの人々は
軍を整備し,増大する支出のため,新しい財
そ ぜい
きゅうら い
政政策をとった。その一つは租税で,旧来なかった税が農民など
に課せられた。そのいっぽう,海外での商業活動も,植民地をひ
5
イギリスでは,16 世紀なかば,
ら独立し国王を長とする英国
じょう び
重商主義
⑤エリザベス1世
らき,その交易を独占して本国の産業育成や市場拡大に結びつけ
てってい
より徹底した改革を求め,ピュ
せいきょう と
ーリタン(清教徒)とよばれた。
しんこう
新興の市民層が多く,その後,
国王と対立し,ピューリタン革
命の中心となった。
てゆくなど,いわゆる重商主義政策のもとにおかれるようになっ
は いじ ょ
た。イギリスで植民地からオランダ船を排除しようとしてだされ
た航海法や,フランスのルイ 14 世の財政長官の名をとってコル
1651
ベール主義とよばれる財政政策は,その代表的なものである。他
10
方,バルト海方面でもスウェーデンやデンマークが力をのばし,
その海域と大西洋方面との貿易の支配権や植民地活動をめぐって,
⑥議会を解散するクロムウェル
国際的な対抗がはげしくなっていった。
(左)
エリザベス1世の死後ひらかれたステュアー
イギリスの
二つの革命
1603 − 49,1660 − 1714
せ んせ い
ト朝のもと,国王の専制が進んだイギリスで
お うと う
15
は,台頭する市民層の力を背景に議会が対立し,議会派と王党派
のあいだで内乱が始まった。1649 年,勝利した議会派は国王チ
しょけい
きょう わ せ い
じゅりつ
(ピューリタン革命)
。
ャールズ1世を処刑して共和政を樹立した
在位 1625 − 49
1642 − 49
革命の指導者となったクロムウェルは,アイルランドを征服し,
⑥ 1599 − 1658
えいらん
1651 年には航海法を定めてオランダと戦った
(第1次英蘭戦争)
。
20
しかしその独裁政治は国民の不満をよび,彼の死後,議会により
ふ っか つ
ふっ こ
王政が復活した。その後,復古王政がふたたび専制を強めると,
議会は 1688 年,国王ジェームズ2世の娘メアリの夫であるオラ
と うりょう
在位 1685 − 88
え んじ ょ
つ いほ う
ンダの統領ウィレムの援助を得て国王を追放し,翌年,二人を共
とう ち
英王在位 1689 − 1702
(名誉革命)
。このとき同意された
同統治者として王位にむかえた
1688 − 89
げ んろ ん
25
そ んちょう
権利の章典は,国王が議会の権利や言論の自由を尊重することを
く んし ゅせ い
き
そ
定め,イギリスに立憲君主政が成立する基礎となった。
⑦ホッブズ著『リヴァイアサン』
とびら
(1651 年)の扉 イギリスのホッ
ブズ
(1588 − 1679)
は,人間が
「自
然状態」から脱するために本来の
権利をゆだねた結果として,強大
な国家権力の出現を理論づけた。
その後,ロック(1632 − 1704)が,
ゆうせん
人民の意志が統治の権力に優先す
るとして,民主政治を論じ,その
けい やく
社会契約説はルソー(
p.68)
などに
影響を与えた。
5 ヨーロッパの主権国家体制の成立と世界商業の進展
63
毛皮・木材
食料・タバコ
西ヨーロッパ
西アフリカ
奴隷
金・
銀・
コ
ー
ヒ
ー
西インド諸島
糖
・砂
ヒー
ー
コ
奴
蜜・
隷
糖
火器・
綿布・雑貨
とうみつ
糖蜜
食料・木材
ラム 製造品
酒
品
造
製
製
造
品
北アメリカ
隷
奴
南アメリカ
① 18 世紀の三角貿易 大西洋世
界では,西ヨーロッパからの火器,イ
めん ぷ
ざっ か
ど
ンド産綿布,雑貨を西アフリカで奴
れい
隷にかえ,これを西インド諸島,ア
メリカ大陸の植民地でその地の産物
と交換してヨーロッパにおくる三角
貿易がおこなわれた。
②ウェストファリア条約の調印
世界商業と
主権国家体制
2
17 世紀前半,ポルトガルやスペインに対抗
世界商業と
三角貿易
き んゆ う
してオランダが世界の商業と金融の中心とし
た いと う
て台頭し,イギリスとフランスも有力な海洋国家としてあらわれ
と っき ょ
た。これらの国は競いあいながら,東インド会社など特許会社を
じゅう じ
18 世紀の三角貿易とは,
どのようなものかみてみ
よう。
設立して貿易や植民地経営に従事させた。こうした国際的な商業
5
p.84,115,117
は いけ い
の展開を背景に,西ヨーロッパでは資本主義経済が発達していっ
た。そして 17 世紀後半には,大西洋を中心に世界の各地に新し
さ
い関係が生まれてきた。なかでも西インド諸島では,植民地に砂
とう
糖をはじめココアやコーヒーなどのプランテーションがひらかれ,
p.42 ⑤
ど れい
労働力としてアフリカから奴隷が導入された。西ヨーロッパと西
10
アフリカ,カリブ海域を結んだ三角貿易は,大西洋世界市場とい
①
じく
うべき経済活動の軸になった。しかし 19 世紀までつづいた奴隷
さまた
貿易は,アフリカ社会の内部に深い傷をのこしその発展を妨げた。
p.80 − 81
ロ シ
ア
帝
国
バ ル
ト
海
プ
ロ
イ
セ
ン
東プロ
イセン
リトアニア
17 世紀には,ヨーロッパ東西の貿易も拡大
した。ポーランドをはじめ,東ヨーロッパで
15
こ くも つ
は西方の市場にむけての穀物や鉱物資源の供給が進んだ。その労
れ いぞ く
働力確保のため,領主たちは農民の身分的隷属を強めていった。
シ
ュ
レ
ジ
さ いは んの う ど せ い
ワルシャワ
エ
ン
キエフ ウクライナ
0
東ヨーロッパの
領主と農民
分割前のポーランド
1772年の分割
1793年の分割
1795年の分割
オーストリア
300km
ぶんかつ
③ポーランド分割
64
この動きは再版農奴制とよばれ,これにより東ヨーロッパでは西
よ うそ う
じゅうぞ く
ヨーロッパと異なる社会の様相が強まり,政治的,経済的従属が
進んだ。ポーランドは,18 世紀末にロシア,オーストリア,プ
ぶ んか つ
しょうめ つ
ロイセンによりあいついで分割され,国家として消滅した。
第3章 アジア諸帝国の繁栄とヨーロッパ
③
20
さ こく
17 世紀の世界商業と
「鎖国」
16 世紀,西ヨーロッパ勢力が,大西洋,太平洋に進出し,大西
こうえき
洋,インド洋,太平洋を結ぶ交易ルートが成立した。スペインが
りゅうにゅう
アメリカ大陸で得た大量の銀が流入し,地域をこえた経済活動が拡大した。16
き
ぼ
∼ 17 世紀は,地球規模の大交易の時代である。日本でも,17 世紀初頭,江戸
ばく ふ
しゅいんじょう
幕府がオランダとイギリスに貿易許可証(朱印状)を与えた。ポルトガルは中国
こうなん
きぬ
しゅいんせん
しょうれい
と
江南の絹織物を日本に運んだ。東南アジアとの朱印船貿易が奨励され,海外渡
こう
航がさかんになり,各地に日本町が出現した。しかし,17 世紀なかごろには,
しゅうそく
ミン
シン
アジアにおし寄せた価格革命が収束し,明末清初の社会不安もあり,南シナ海,
すいたい
てってい
しんでん
東シナ海交易が衰退し始めた。幕府は 1641 年に
「鎖国」
政策を徹底するが,
新田
せいじゅく
い そん
開発による農村経済の進展,都市経済の成熟により,対外貿易への依存度は大
きくなかった。やがて日本は,国内自給体制をつくっていくことになる。
しん せい
ヨーロッパ国際
社会の成立
宮廷外交
絶対王政期のヨーロッパ諸国
じょうちゅう
は,常駐外交使節を交換して
こうじょう
恒常的な外交関係をひらいた。
しょうあく
外交権を国王が掌握していた
ことから,この時期の外交は
宮廷外交とよばれる。諸国の
こんいん
王や貴族は婚姻などで密接に
結びついており,宮廷は共通
の言語(フランス語)や生活様
しゃこうかい
式をもった国際的な社交界を
形づくった。
きゅう
17 世紀前半,神聖ローマ帝国内の新教と旧
教の対立に諸国の争いがからみ,三十年戦争
1618 − 1648
とよばれる長い戦乱がおこった。戦争は 1648 年にウェストファ
②
しゅうけ つ
主権国家体制とは,どの
ようなものなのだろうか。
りょうほ う
リア条約が結ばれて終結した。これにより帝国内の諸領邦に独立
5
した国家としての地位がみとめられ,またオランダとスイスの独
しょうに ん
立も承認された。こうして,独立した領土と主権をもつ国家がた
た いと う
ち つじ ょ
がいに対等な関係を結ぶという,新しい国際秩序の形式がヨーロ
ッパに生みだされた。その意味で,この条約は最初の近代国際条
約といわれ,こうした体制は主権国家体制とよばれている。
く んし ゅ
10
強大化する
国家主権
しかし,現実には国家主権は君主のものであ
そ うだ つ
は けん
り,権力争奪や覇権をめぐり,ヨーロッパで
こ うは い
は戦乱があいついだ。三十年戦争で荒廃したドイツの地には,諸
ぶ んり つ
け いしょう
君主の領邦国家が分立した。神聖ローマ帝国の皇帝位を継承する
④工場を視察するフリードリヒ
2世 大王とよばれたフリードリ
けいもうせんせいくんしゅ
ヒ2世は,啓蒙専制君主(
の一
p.69)
人に数えられる。
オーストリアのハプスブルク家では,18 世紀にマリア・テレジア
在位 1740 − 80
p.36
15
そ うぞ く
が国の中央集権的な改革をはかった。しかし,皇帝位の相続をめ
ぐる争いにフランスやプロイセンが介入し,オーストリア継承戦
1740 − 48
争,ついで七年戦争がおこった。北方の一領邦から 1701 年に王国
1756 − 63
p.68,70,72
として成立したプロイセンは,フリードリヒ2世のもと七年戦争
④在位 1740 − 86
か くり つ
でオーストリアをやぶり,軍事大国としての地位を確立した。ロ
20
シアはピョートル1世の西欧化改革と積極的な対外政策により,
在位 1682 − 1725
⑤
スウェーデンとの北方戦争に勝利して,ヨーロッパの大国として
1700 − 21
の姿をあらわした。イギリスとフランス両国は,スペイン継承戦争,
へ いこ う
1701 − 13
七年戦争などヨーロッパの覇権争いと並行して,世界各地で植民
てん き
地戦争をくり広げ,世界史に重大な転機をもたらすことになる。
⑤ピョートル1世の西欧化政策
でひげをきられるロシア貴族
5 ヨーロッパの主権国家体制の成立と世界商業の進展
65