福音のヒント 待降節第 2 主日 (2015/12/6 ルカ 3 章 1-6 節) 教会暦と聖書の流れ 待降節第 2、第 3 主日の福音は、毎年洗礼者ヨハネについての箇所が読まれます。今年 はルカ福音書から採られた箇所です。ルカ福音書の 1~2 章で、洗礼者ヨハネとイエスの誕 生・成長の話が伝えられていますが、そこでヨハネはイエスの先駆者として描かれていま した。きょうの箇所でもヨハネはイエスの到来を準備する人として描かれています。ただ し、もちろん、わたしたちが本当に見つめるべきなのは、洗礼者ヨハネの姿ではなく、や がて来られるイエスのほうです。 福音のヒント (1) 「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」(1 節)。ティベ リウスは第 2 代ローマ皇帝で、紀元 14 年に即位していますから、 これは紀元 28 年ごろのことだということになります。「神の言 葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降(くだ)った」(2 節)は、旧約 聖書に見られる典型的な預言者の紹介の仕方です。たとえば、 「ダレイオスの第二年八月に、イドの孫でベレクヤの子である 預言者ゼカリヤに主の言葉が臨んだ」(ゼカリヤ 1 章 1 節)。 「預言者」はギリシア語では「プロフェーテース prophetes」 で、もともと「プロ(予め)」と「フェーミ(言う)」という語の合 成語ですから、ギリシア語の訳としては「予言者」のほうが正 確でしょう。しかし、この背景にあるヘブライ語の「ナービー」 という言葉には単に「予言する人」ではなく「神の言葉を告げ る人」という意味が強いので「預言者」という漢字を当てたほ うが内容的には適切だと言えそうです。ちなみに、中国語では 「豫」(「予」の正字体)と「預」の間に意味の差はないそうです。 (2) イスラエルの歴史の中では、王国時代から捕囚後まで数多くの預言者が活動しま したが、洗礼者ヨハネやイエスの時代は、最後の預言者が去ってからかなりの時がたって いました。神はもはや預言者の口をとおして民に語りかけることはない、と感じられてい た時代だったのです。その時代に「預言者」として登場したのが洗礼者ヨハネでした。神 はこの世界に対して、今まさに決定的なことをなさろうとしている、その神の言葉を伝え るのが預言者としての洗礼者ヨハネの使命でした。 「罪の赦(ゆる)しを得させるために悔い改めの洗礼を」(3 節)とありますが、「洗礼」はギ リシア語で「バプティスマ baptisma」です。この言葉は元々「水に沈めること、浸すこと」 を意味しています。ヨハネが行なっていたバプティスマとは、ヨルダン川に人間の全身を 沈めるものでした。一度水の中に沈み、そこから立ち上がることは、古い自分に死んで新 たないのちに生きることを表します。「悔い改め」と訳された語は「メタノイア metanoia」 で、元の意味は「心を変えること」です。旧約聖書では「主に立ち返る」と言われている ことです。「心を神に向け、神に立ち返る」という意味で「回心」という漢字が当てられ るようになりました。古い自分に死んで、新たに神とともに生きる、と言ったらよいでし ょうか。この目的は「罪のゆるし」です。罪とは神と断絶することですから、回心とその しるしであるバプティスマは、「罪のゆるし=神との和解」をもたらすものなのです。 もちろん、このことは本当の意味ではイエスによって実現することになります。 (3) 4-6 節はイザヤ書 40 章の引用です。この箇所の少し前から見てみましょう。 「1 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。2 エルサレムの心に語 りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役(くえき)の時は今や満ち、彼女の咎(とが)は償われた、と。 罪のすべてに倍する報いを/主の御手(みて)から受けた、と。 3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ 地に広い道を通せ。4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、 狭い道は広い谷となれ。5 主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る」 イザヤ 40~55 章は「第二イザヤ」と呼ばれています。1~39 章とは別の、バビロン捕囚 時代(紀元前 6 世紀)の無名の預言者の言葉と考えられています。この捕囚の苦しみは自分 たちの罪の結果だから仕方ない、と考えていた当時のイスラエルの民に向かって、神によ るゆるしと解放を告げるのが第二イザヤのメッセージでした。 上のイザヤ書本文では、 「荒れ野に道を備え…と呼びかける声」となっています。荒れ野 の道とは捕囚の地バビロンからイスラエルの民が神とともに帰国する道でした。 「道を備え よ」と「呼びかける声」は本来、天から預言者に向かって呼びかける声のことでした。福 音書は、七十人訳聖書(古代のギリシア語訳旧約聖書)に基づいてこの箇所を「荒れ野で叫 ぶ者の声」と読んで、これを洗礼者ヨハネに当てはめています。また、イザヤ書本文では 「主」は「わたしたちの神」のことですが、福音書の引用では「わたしたちの神のために」 が省かれ、「主」をイエスのことと受け取っています。 (4) ルカはマタイやマルコよりも長い引用をしています。それは「人は皆、神の救い を仰ぎ見る」という言葉を伝えたかったからでしょう。翻訳を比べてみるとイザヤ 40 章 5 節とルカ 3 章 6 節は少し違っています。「人は皆」は直訳では「すべての肉」です。「主の 栄光がこうして現れる」を「神の救い」としたのは七十人訳の影響です。いずれにせよ、 ルカはイエスによってもたらされる救いがすべての人に及ぶことを強調するためにこの言 葉を引用しています。新約聖書は洗礼者ヨハネを、イエスの先駆者、イエスの到来を準備 した人として描きます。わたしたちが見つめるべきなのは、洗礼者ヨハネではなく、すべ ての人の救い主として来られる「主」イエスのほうなのです。 待降節はただ単にクリスマスを準備する季節ではありません。12 月 24 日までイエスの 誕生を待って、25 日には誕生を祝うというだけではなく、待降節から降誕節までの期間を とおして、「イエスが来られる」ことの意味を味わうのだと考えたらよいでしょう。 イエスの到来には 3 重の意味があります。「2千年前に来られたイエス」「世の終わりに 再び来られるイエス」「今わたしたちの生活の中に来てくださるイエス」。わたしたちにと って特にこの 3 番目の意味は大切でしょう。だとすれば、 「主の道」とはただ主が来られる 道ではなく、わたしたちが主とともに歩んでいく道でもあるはずです。
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