なぜ「女の平和」なのか 横湯園子 いつの間にか、政治が戦争への道へと

なぜ「女の平和」なのか
横湯園子
いつの間にか、政治が戦争への道へと動き出していた。集団的自衛権の閣議決定に続
き、衆院選で政権継続が決まった途端に憲法改正への言明である。平和憲法のもとで7
0年間、生命、生活、生存を守られてきた日本をアメリカといっしょに海外で「戦争が
できる国」に変えようとするとは何ごとか。
なぜ、殺し合いをさせるのか。なぜ、緑の地球を壊すのか。なぜ、命を愛おしむ声が
届かないのか。どうしたら平和を願う声が届くのか。
それはまだ、晩夏の頃の夜明け前のことであった。空けやらぬ夜気窓部目覚めて悩み、
問い続ける日が続いた。ふっと気がつくと、「女の平和」という文字が浮びあがってき
た、と言うとオカルトチックに聞こえるかも知れないが、何とはっきりとした文字であ
ったことか。
なぜ、「女の平和」なのか。まず私の戦争の記憶を記したい。父は治安維持法下で幾
度か逮捕され、獄中で結核に冒され、仮保釈中に死亡。二九歳という若過ぎる死であっ
た。私が一歳の時である。母は活動家ではなかったが獄中の父の身元引受け人になるた
めに新聞紙上で結婚宣言をして一族から勘当。その後、母の実家は没落、両親も死亡。
思想犯の未亡人として辛酸を嘗めながら終戦をむかえている。
幼い頃の私は母の手を決して離さない泣き虫だったそうだが、母子をねらうグラマン
機のパイロットの笑っている目、累々とした焼死体の中にいるかもしれない母親を探し
歩く少年、終戦直後の食糧難などを覚えている。焦土と化した国土と戦争孤児。母親の
いた私は幸せだったのだと今にして思う。
私のような、否、私よりもっと、底なしの地獄を見てきた人は多いはずである。今、
その絶望を語る時ではないか。戦争を知らない世代も憎しみより愛を、戦争より平和を
願っている。その願いを共に声にしたい。それが平和憲法に守られてきた私たち、日本
人の声なのだから。
憎しみによる愛国心を煽って戦争をする為政者たちの手段は今も昔も変わらない。集
団的自衛権の名によって日本が「戦争ができる国」になるなんてとんでもない。どうし
たらよいのかと眠れない夜を過ごす人も多いのではないか。死者もまた、平和を願って
いるはずで、時に風の音となり雲間の光となって、時に「女の平和」の文字となって、
私たちに語りかけているのではないか。
そう思った時、即、パソコンの前に身を移し、ウィキペディアで調べてみると、古代
ギリシャのアリストパネスの戯曲『女の平和』とアイスランドのレッドストッキングの
二つがあった。戯曲は教養書として聞いたことがあった。早速、書店で入手。アテネと
スパルタの戦争を終わらせるために女たちが手を結び、セックスストライキを行なうと
いう内容であった。セックスストライキを呼びかけるわけにはいかないと、レッドスト
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キングに目を移した。
アイスランドでは1970年に古い因習を打ち破る運動がはじまり、国際婦人年の7
5年に女性の90%がレッド•ストキングを身につけて休暇をとり、家事を放棄して女
性の役割がいかに重要であるのかを訴え、大統領府前の中央広場を女性たちがうめ尽く
すという歴史的な大集会があったことを知った。80年、民選による初の女性のヴィグ
ディス大統領が誕生。86年にレーガン、ゴルバチョフ両大統領の呼びかけにより平和
会談がレイキャビークでもたれ冷戦終結のきっかけとなるが、それを主宰したのが彼女
であった。(ウィキペディア、前田 朗『軍隊のない国
27の国々の人々』による)
二人の女性に相談。賛同者が三人、四人と集まり実行委員会もでき、1 月17日には
赤いものを身につけて、国会をヒューマンチェーンで囲みましょうとなった。
「女の平和」殺し殺されるのはイヤ!
ッド•ストッキングの戦い
アイスランドで女性たちが立ち上がった レ
の史実に思いを重ねて、女たちからのレッドカードを」で
ある。
呼びかけはさざ波のように広がってきたとは言え、アイスランドにはほど遠いが、1
月17日が歴史を変えるターニングポイントとなるように、赤いコートやベレー、スカ
ーフ、ストッキングなどを身につけて国会議事堂前に集まりましょう。
国会議事堂前に集まれない人はそれぞれの地域で、赤いものを身に着けて、「殺し殺
されるのはイヤ」の声を響かせましょう。
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