「自立した生徒を育てる」~生かして「挑戦」,生かされて「感謝」 ,学ぶ喜びと「感動」の創出~ 【職員版】 校長だより №9 平成 27 年 6 月 24 日(水) 安芸太田町立筒賀中学校 校 長 近藤 毅 【 「学ぶこと」と「生きること」のつながりを求めて!(その2) 】 「なぜ教えるのか」は,生徒の「なぜ学ぶのか」に応えること! ●今号は, 「学ぶこと」と「生きること」のつながりを求めて!という前回テーマの続編です。 「なぜ教えるのか」を追究することは, 「なぜ学ぶのか」という生徒からの教師への問いかけに応 えることだということを,私は初任時代の生徒から学びました。 ●私の初任校は九州のある中学校でした。当時,生徒数 1500 名を超えるマンモス校で,ピアス,化 粧,パーマ,剃り込み,変形服,喫煙に暴力,器物損壊等。こうした生徒指導上の課題を抱えた 状況下で,数学担当,2年担任である私の教師生活は始まりました。 チャイムが鳴り,授業が始まっても,いつまでも廊下で騒いでいる。 教室に入ったら入ったで,追いかけっこをしたり,他の生徒の物を投 げ合ったりと,ほとんどの生徒がわいわい騒ぎ,授業道具も出してい ない状況でした。初めは私が新米教師だからと思っていましたが,こ のような状況は私の学級や授業だけではありませんでした。 この教育困難な状況は,当時の教師たちに, 「なぜ教えるのか」 「教 育とは何か」 「教師とは」 「学校とは」という本質的な問いを,強烈に ぶつけてきました。 ●ある日,授業中に注意をしても前を向かず,私語をやめようとしない生徒たちに向って, 「授業を聞かんけえ,ますます分からんようになるんじゃ。ちゃんと聞け!」と,たまらず語気 を強めて私が言うと,生徒たちからの発言がどっと返ってきました。 「それなら,うちらにわかるごと,ぴしゃーっと教えんね!」 「数学の授業,わからんごとなったっち,皆ゆうとっと」 「それに,どげん聞いたっちゃ,うちらにゃ,わからんばってんが…」 「数学なんちいらん。こげな一次関数知ったっち,なにんなる!」 教科書が床に激しく投げつけられました。私がそれを拾い,もとの机上に戻そうとすると, 「うるさいっち言うなら,でていくわ!必要んなか授業ば,聞いても,しょんなかし!」 目を吊り上げて,睨みつけてきた金髪の女子生徒の言葉が強く心に突き刺さりました。 情けなくもあり,悔しくもありました。 「なぜ一次関数を学ぶ必要があるのか」その生徒にわか るように語りかける言葉すら,私は持っていなかったからです。 職員室で,ある教師が言いました。「先生の担当は数学やろう。そげんこつ,悩むことなかよ。 『試験に出るんじゃ』と言えばよか。 『数学は入試科目や!』とね」 私は,高校受験を諦めていた,あの金髪の女子生徒のことを思い浮かべ, 「わかる授業をしたい」 と思いながらも,ただちにそれができないジレンマの中にいました。 ●数学の授業を通して学ぶ,数学的アイディアや,数学的な見方や考え方などは人類の知恵の結 晶です。それらの数学的価値と生徒たちが出会い, 「すごい発想!人間ってすごい」とか「自分も できた!わかった!」と,心から「実感できる授業」をしていかなければ,彼らは本当に学ぶ目 的を失ったまま,大切な時を費やしてしまうことになる。 「勉強する意味がわかった」, 「以前より 自分はここが進歩した」 , 「自分にもこんなことができるんだ」といった,学ぶ意義や自らの可能 性を実感できる授業をつくり出していかなければ,彼らの真の声に応えることはできないのでは ないか。そう考えると,当時の生徒たちも「先生!わかる授業をしてくれよ!」 「なぜこの数学を 勉強するのか答えてくれよ!」と切望していたに違いないと思えてくるのです。彼らは,学ぶ喜 びの実感できる,本物のわかる授業を求めていたのだと思います。 そして,それは筒賀中学校の生徒たちも,きっと同じ願いなのだと思うのです。 ●人間は生涯学び続ける存在。生きることは学ぶこととも言われます。だから「この学びが,未 来に生きる生徒たちにとって,社会にとってどんな意味を持つのか」,「個々の生徒にとって,ど んな成長につながり,どんな可能性を開くのか」といった「学ぶこと」と「生きること」とのつ ながりを志向し, 「教える意義」を追究したいのです。そのことが,いつか生徒たちが自らに問う ことになる「なぜ自分は学ぶのか」という問いに自ら応えていく教育につながると思うからです。
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