村山 実

「永久欠番 11」の震災体験
村山 実
Minoru Murayama
元阪神タイガース投手、監督
一九九八年八月二十二日没(六十一歳)、直腸がん
元阪神タイガース投手で、一九七〇年に年間防御率〇・九八、すなわ
ち九イニング投げて自責点一以下という空前絶後の記録を打ちたてた村
山実は、七二年のシーズン後引退し、ときに監督をつとめながら、おお
むね野球解説者を兼ねた野球用品会社の社長として過ごした。
九五年一月十七日午前五時四十六分、芦屋の自宅マンションで寝てい
た五十八歳の村山実は、尋常ではない揺れに驚いた。三十四インチのテ
レビが脚の上に落ちた。だが冬の厚い布団をかけていたので骨折せずに
すんだ。ドカーンという轟音が二度聞こえた。最初の轟音は、自宅近く
を走る阪神高速道路が五百メートルにわたって倒壊した音であった。二
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番目は、その高速道路の監視カメラが村山実の住む「マンション
落ちた音であった。
」は一九六四年、村山がまだ二十七歳、背番号「
」に
」
村山実がそう週刊誌記者に語ったのは、神戸と阪神間が壊滅し、六千
五センチずれとるんやで」
「ウチだって、見かけはなんでもなさそうやけど、北側(六甲山側)
に十
なっていたが、きわどく倒壊をまぬがれた。
が経営する会社の事務所、二階に村山夫妻が住み、三、四階は社員寮に
の現役投手だった頃芦屋市精道町に建てた四階建てのビルで、一階は彼
「マンション
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人以上が亡くなった大震災から二ヵ月あまりのち、九五年三月二十四日
であった(「週刊宝石」九五年四月十三日号)
。
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「わしも一週間、クルマのなかで寝たけど、まだ家があるゆう安心感
があるんやな。でも、家や家族がなくなってしもた人たちは、これから
どないしろいうんや」
余震で阪神高速の崩壊が進む恐れがあったので、村山と家族は震災後
八日間、精道小学校校庭に駐車したオペルの中で眠った。友人が奈良県
から運んでくれたガソリンでエンジンをかけ、暖をとった。
しゅく がわ
「ひもじかった、わびしかったの言葉につきますなァ」
村山は西宮市 夙 川公園近くにもマンションを持っていた。長男夫婦
と生後六ヵ月の男の子の孫が住んでいたそこも被害を受けたが全員無事
だった。
やがて神戸市の深江浜にあった倉庫に事務所を移し、不完全ながら営
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業を再開した。
「 あ れ か ら 一 ヵ 月 く ら い は 気 が 張 っ て て よ か っ た。 辛 い の は い ま で す
よ」
み
かげ
翌三月二十五日から甲子園で選抜高校野球大会が開催されることが決
まっていた。だが阪神電鉄は大阪・梅田から御影までだけが通じ、道路
はまだ瓦礫でふさがっている。自宅から四キロほどの甲子園球場での開
催に村山実は異を唱えた。
「(大会開催を)
悪いとはいわん。でもな、なんで甲子園でやらないかん
と思うんや。どないなるか想像つくわ」
「甲子園に来たひとがそのまま、大阪に帰ると思いますか? ようけ
見物客が出てくるで。いまでもいるんやけど、メチャメチャになった家
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の前で、Vサインされて写真とられてみ、たまらんで」
「長嶋には負けられない」とルーキーの年に沢村賞
村山実は関西大学野球部時代、後年阪急、日本ハムの監督となった上
田利治とバッテリーを組んだ。五九年、阪神タイガースに入団、契約金
は五百万円だった。
巨人からも二千万円でオファーがあったが、蹴った。一七五センチと
いう投手として小柄な体でプロとしてやっていく自信が百パーセントな
かったからだが、長嶋茂雄と同チームになることを避けたかったのでも
ある。いずれにせよ村山は、阪神電鉄からの出向社員という身分上の保
証をつけてくれるという阪神との契約を選んだ。
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村山は高校三年生のとき、立教大学のセレクションを受けたが体の小
ささから落されていた。村山の手は大きく、手首から中指の先まで二十
二センチもあって杉下茂の手とおなじだった。ということはフォークボ
ールが武器になるのだが、それは考慮されなかった。
/
を投げて
五九年、ルーキーシーズンの村山の活躍は目覚ましかった。五十四試
合に登板して完投十九、完封七、十八勝十敗、二九五回
防御率一・一九。最優秀防御率と沢村賞を得た。
分強はリリーフ登板という、現代では考えられない酷使に村山は耐えた。
て三〇〇イニングス近くを投げ、しかるに先発は二十六試合、つまり半
一三〇試合制の時代である。全試合の四割以上、五十四試合に登板し
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この年六月二十五日、後楽園球場での「天覧試合」巨人・阪神戦で、
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村山は長嶋茂雄にサヨナラホームランを打たれて負けた。左翼ポールぎ
とともに「悲劇性」を背負って生きることにな
りぎりの長嶋のホームランを、のちのちまで、あれはファールといいつ
づけた村山は、背番号
った。また長嶋には負けられないという闘志を彼が燃やしつづけたのは、
全国的な人気者となった長嶋が、自分を受け入れなかった立教大野球部
の出身だからであった。
投手生命を危ぶませるまでに全身を使って投げ、たとえ九回まで十対
〇でリードしていても手を抜かず完封をめざす、そんな愚直な闘志に満
ちた村山のピッチングスタイルは、当時「ザトペック投法」と呼ばれた。
エミール・ザトペックはチェコの長距離走者であった。四八年ロンド
ン五輪で一万メートル優勝、五千メートルで二位となり、すでに二十九
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歳となっていた五二年ヘルシンキ五輪では、五千、一万、それにマラソ
ンの三種目で金メダルを得た。弱小国の選手ザトペックが、息も絶え絶
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えの気配で走りつづける姿は、急勾配に苦しむ蒸気機関車になぞらえて
エミール・ザトペック
「人間機関車」と呼ばれ、絶大な人気を博した。日本人はそのザトペッ
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クを、全身の力をふりしぼる村山に重ねた。
偉大な投手も監督としては振るわず
/
という破天荒な回数を投げた。酷使による
六二年には五十七試合に登板、二十五勝十四敗で最優秀選手となった
が、その年は三六六回
が村山の全盛期であった。
右腕の血行障害に苦しんだが、その二十八、九歳の一九六五、六六年頃
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投げて防御率一・九六。六六年は登板
六 五 年 は 登 板 三 十 九 試 合(うち先発三十七)
、 完 投 二 十 六、 完 封 十 一 で
二十五勝十三敗。三〇七回
/
投げて防御率一・五五。
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三十八試合(先発三十二)
、完投二十四、完封八で二十四勝九敗。二九〇
回
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両年ともに最多勝、六五年の奪三振二〇五、六六年の二〇七もセ・リ
ーグのトップだったが、当時奪三振に連盟表彰はなかった。村山はボー
ルコントロールが抜群によく、フォーク投手につきもののワイルドピッ
チは六五年ゼロ、六六年に一個のみで、稼働十四年間を通じてわずか一
六個にすぎなかった。
七〇年、村山は阪神の選手兼監督に就任した。十四勝三敗で勝率第一
位、空前絶後の防御率〇・九八を記録したのはこの年である。
しかし阪神タイガース自体の成績は振るわず、七〇年こそリーグ二位
だったが、七一年は五位に転落した。七二年シーズンの開始から八試合
は村山が指揮をとったが、二勝六敗となった四月二十一日、指揮権を金
田正泰ヘッドコーチに譲り、シーズン終了後に引退した。村山の生涯成
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績は二二二勝一四七敗、三〇五〇回
目の監督に就任した。
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を投げて通算防御率二・〇九。
掛布、岡田の強力打線で優勝した。吉田退任直後の八八年、村山が二度
田監督の二回目は八五年から八七年のシーズンで、八五年に、バース、
七五年、阪神の監督に就任、七七年までつとめた。それが第一回目、吉
その吉田義男は、村山から監督を引き継いだ金田正泰のあとを襲って、
閣」にコーチとして「入閣」しなかった。
田義男は、村山が選手兼監督となる前年、六九年に引退したが「村山内
村山より三歳年長、軽快な内野守備で阪神の「牛若丸」と呼ばれた吉
大学出としてはじめての名球会会員となり、九三年、野球殿堂入りした。
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マンガ家のいしいひさいちは、村山─吉田─村山─吉田と不仲のふた
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りが交替で監督をつとめた阪神タイガースに日本的人事の典型を見る皮
肉なマンガをたびたびかいたが、実際には直接交代は八八年の一度きり
であった。
吉田は九七年から九八年まで三度目の監督をつとめ、それが阪神史上
最多の監督登板である。吉田義男の合計八年の監督戦績は四八四勝五一
一敗五十六分け、勝率四割八分六厘。対して村山監督はまる四年と八試
合で二四一勝二七一敗十六分け、勝率四割七分一厘。どちらも成功した
監督とはいえなかった。
闘病も「ザトペック投法」だった「永久欠番 」
村山は引退翌年の七三年から八七年まで、会社経営のかたわら日本テ
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レビ系の野球解説者をつとめた。八八年から二年間の阪神監督のあと、
」と書いた村山は、現役時代の「悲劇的」なたたずまいか
九 〇 年 に は 朝 日 放 送 の 解 説 者 と な っ た。 サ イ ン を も と め ら れ れ ば 必 ず
「永久欠番
らは想像しにくいが、腰の低い堅実な経営者で、会社を年商約四十億円、
社員二十人あまりまでじわじわと成長させた。阪神大震災に見舞われた
のはそんなときであった。
北側に十五センチずれた芦屋のビルは、六十本の杭を地中に打ち込ん
で安定させた。深江浜の倉庫で仮営業していた会社は、九五年六月、芦
屋に戻って本格的に再開した。復旧への道筋が見えたこの頃、村山は健
診を受けた。すると進行した直腸がんが見つかり、九五年八月、神戸大
病院で手術を受けた。長男は医師から、父親の命は「あと半年か一年」
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と告げられた。
長男・村山真司は語る。
「商売も野球解説の仕事もやっていましたよ。外見は特に変わりませ
んでした。が、肝臓にも転移していて……。一年前(九七年)
父に知らせ
ま し た。 前 向 き な 人 で す か ら、 特 別、 悲 観 せ ず、“ 治 せ ば え え や な い
か”と言っていたんです」
(「週刊新潮」九八年九月三日号)
入院しての厳しい治療にも村山は音を上げなかった。週末には自宅に
戻って家族でくつろぎ、二台のテレビで阪神戦と巨人戦を同時に見てい
た。「阪神愛」のみならず、解説の仕事に戻るための準備であった。
「半年か一年」といわれたにもかかわらず、
「医学の常識を覆す記録的
な患者さんだ」と医者に驚かれながら三年延命した。しかし九八年八月
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二十二日、ついに力尽きた。六十一歳であった。
一九六八年「プラハの春」で「二千語宣言」に署名して以来、社会主
義政権ににらまれて長い不遇をかこったエミール・ザトペックは、東西
冷戦の終了とともにようやく自由を得た。一九二二年生まれ、この典型
的な戦中派ランナーが亡くなったのは村山に遅れること二年の二〇〇〇
年十一月二十二日、七十八歳であった。
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