近代、論語、日本人の「信」 守屋 淳(作家) 江戸時代以降、 『論語』や儒学は、日本人に大きな影響を及ぼし、今に至る日本人の無意識の 好悪、価値観、行動様式を形作ってきた。当然、そこには「社会において人は何を信じ、何を 信じないのか」 「そもそも『信』とは何か」といった内実も含まれている。 一方、明治維新以降、日本は近代化を進めるなかで、金融や証券、会社などを端的な例とし て、 「信」を基盤としたシステムを作り出し、社会インフラとして機能させてきた。その過程に おいては、当然、近代のシステムやその価値観に則った「信」の集め方や、その維持が行われ てもきた。たとえば、それはイギリスの社会学者であるアンソニー・ギデンズの以下のような 指摘に端的だ。 「確信が、相手の誠実さや好意、あるいは抽象的原理(専門技術的知識)の正しさにたいす る信仰を示すとすれば、信頼とは、所与の一連の結果や出来事に関して人やシステムを頼りに することができるという確信と、定義づけることができよう」 「 《信頼》関係は、モダニティと関係する、時空間の広範囲に及ぶ拡大化の基盤となっている。 《システムにたいする信頼》か《顔の見えないコミットメント》のかたちをとり、そうした《顔 の見えないコミットメント》のなかで、一般の人々が自分の不案内な知識に対していだく信仰 は支えられていく」 『近代とはいかなる時代か? モダニティの帰結――』アンソニー・ギデン ズ 松尾精文 小幡正敏訳 而立書房 では、このような近代の「信」の集め方は、『論語』をベースとした日本人の価値観と、完全 に重なり合うものか、当然ではあるが、重なり合う部分と重なり合わない部分が、そこにはあ る。その重なり合わない部分が、現代でも「日本的」と呼ばれる特徴――たとえば、諸外国に 比べて株による資産運用の比率が少ない、銀行への預け入れ率が高い、土地への信仰が根強く 残るなど――を作り上げている一面があると考えられる。 そもそも、日本の近代における金融や証券などのインフラを整備したのが渋沢栄一であった。 彼は、 「論語と算盤」 「道徳経済合一説」 「義利両全」と唱えたことで知られるように、日本人の 道徳や「信」のもととなるのは、 『論語』や儒学の価値観であり、それと近代や資本主義を結び つけることで、よりよい経済活動が行えると考えていた。「論語と算盤」に代表されるモットー は、日本人の「信」には、伝統的側面と近代的な側面との、二面あることが端的に示されてい るのだ。 『論語』における、 ・ 人間はしょせん死を免れない。それにひきかえ、国民の信頼が失われたのでは、政治その ものが成り立たなくなる(古より皆死あり。民、信なくんば立たず」 )顔淵篇 ・ 立派な人間は、正しい道理を守って、約束には義理立てしない(君子は貞にして諒ならず) 衛霊公篇 ・ 為政者と国民の関係は、風と草のようなもの。風が吹けば、草は必ずなびく(君子の徳は 風なり。小人の徳は草なり。草、これに風を尚うれば、必ず偃す」)顔淵篇 ・ 人の上に立つ者は、足りないことよりは不公平になっていないかを心配し、貧しいことよ りは安心感のなさを心配する(国を有ち家を有つ者は、寡なきを患えずして均しからざる を患え、貧しきを患えずして安からざるを患う)季氏篇 といった言葉に準拠しつつ、そもそも『論語』や日本人は、「信」をどのように捉えていたの か。また、その「信」の形は、近代の「信」とどう重なり合い、重なり合わなかったのか。そ して、そのズレから起きる現代への影響を考察していく。
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