以前,全校朝会で,岸 成真さんの『自分以下を求める気持ち』という詩を

以前,全校朝会で,岸 成真さんの『自分以下を求める気持ち』という詩を朗読しまし
た。その詩の中に,“自分以下の人の存在を求め,自分がその人より優位(上)にいると
感じることで自分をなぐさめている人がいる”という内容の文が出てきます。私自身も,
よく考えてみると,そういう心的傾向があるなと思うことがあります。「○○さんよりは
ましだ」というような気持ちをもつことで,無意識に自分の心の安定を図ろとしていると
いうことです。しかし,“自分の中で,勝手に自分以下の人間を作り出し,その存在を笑
うことは,自分の弱さの証しであり,差別やいじめの芽なのだ”と,その詩では警鐘を鳴
らしています。さらに,そう思うこと自体,自らが進歩することを放棄していることでも
あります。
また,人は【かわいそう】という言葉をよく使います。この感情自体は否定されるべき
ものではありません。しかし,ともするとその言葉が,同情という名を借りた〝上から目
線〟になってしまうことがしばしばあります。実際に,相手から「かわいそう」と言われ
た人が,「あなたは,私を下に見ているってこと?」と感じ,憤慨したり惨めな気持ちに
なってしまったりすることは意外に多いのです。
【自分以下の存在を求めて,自分の気持ちの安定を図ること】…それは,人を表面的に
しか見ることができないことであり,自分の未熟さを認めていることでもあります。自分
以下の存在と思っているその相手の方が,むしろ自分自身にまじめに向き合い,少しでも
自分を高めようと,周囲が気付かなくても誠実に努力してるということが案外多いのでは
ないかとも思います。そう考えると,進歩という面で,人間としての上下関係はむしろ逆
なのではないかとさえ思えてきます。もちろん,そもそも人間の存在に上下という考えを
持ち込むこと自体,危険で間違ったことなのです。
(ここから先は,全校朝会では話をしなかったことですが)
一方では,時としてこんなふうに考える人もいるでしょう。例えば,借金などで生活が
苦しい時,「確かに,今,自分はお金に困っているけれど,世の中には,内戦などで食べ
物も食べられずに亡くなっていく人や,寒くても衣服や毛布さえ手に入らずに凍えている
人もいる。それに比べたら,今の自分はまだ幸せなんだ。」と…。確かに,こういった考
え方をすることも【自分以下の存在を求めて、自分の気持ちの安定を図る】ということに
なるのかもしれません。ただし,この場合は,〝対象にしている人を慈悲の心で見ている
こと〟,そして,〝自分の現状に満足するのではなく,あくまでもその状況から少しでも
這い上がろうと自分自身を奮い立たせる際の気持ちの置き所として,そのような考え方を
するということ〟ではないかと思います。そういう面では,自分以下の存在を見つけ,そ
の存在を嘲(あざ)笑い,自分自身が成長しようとすることから目をそらしている姿勢(前
者)とは,根本的に違うことと思えるのです。