1/2 ページ かつての地域医療のお手本は今…:日経メディカル REPORT 地域医療のルーツを歩く◎沢内病院(岩手県西和賀町)【前編】 かつての地域医療のお手本は今… 2015/7/28 千田敏之=医療局編集委員 1963年から99年まで沢内病院に勤め(75~99年は 院長)、94年までは村の健康管理課長も兼務した増田 進氏は「病院の医療と保健婦活動の一体化こそが沢内 方式の要であり、地域医療を実践する上での必須条件 だった」と振り返る。医療と保健活動の両方を展開し つつ、「越冬入院」の名の下で冬季に高齢者を病院が 預かるなど、福祉・介護の役割も担っていたのが「沢 内の医療」だった。 厚労省は今、重い要介護状態となっても住み慣れた 地域で最後まで自分らしい暮らしを続けることができ るよう、「地域包括ケアシステム」構築を推し進めよ うとしている。国が画一的なシステムを押し付けるの ではなく、保険者である市町村や都道府県が、主体性 を持って各地域の特性に応じたシステムを作ることを 元沢内病院院長の増田進氏 1963年に沢内病院に赴任、75 年から99年まで院長を務めた。 現在は西和賀町にある銀河高原 ホテル内で自由診療の診療所を 開いている。 求めている。 地域包括ケアシステムは元々、広島県御調町(現尾道市)の公立みつぎ総合病院 院長(当時)の山口昇氏が、「寝たきりゼロ作戦」を実践する中で「保健・医療・ 介護・福祉」の連携・統合の必要性を痛感し、1970年代から提唱し始めた概念だ。 その基本的な考え方は、遠く北の地、沢内病院でも既に60~70年代に芽生えてい た。 1960~70年代に沢内病院が実践した、医療費を抑えつつ保健活動などによって村 民の健康状態を向上さる施策の一部は、「ヘルス事業」として国の老人保健事業に も組み入れられた。日本医師会の武見太郎会長(当時)も幾度となく沢内村を訪 れ、沢内病院の実践や西和賀地域保健調査会の活動を視察。それが日医の地域医療 の定義のベースにもなったという。 病院長が村の健康管理課長を兼任 また、病院長が村の健康管理課長を兼任し、病院機能と保健医療行政を一体化さ せる方式は、全国各地の国保直営診療施設(国保直診)の運営スタイルにも大きな 影響を与えた。宮城県の涌谷町町民医療福祉センターや、新潟県大和町(現、南魚 沼市)のゆきぐに大和病院などはその影響を受けた医療機関だ。 しかし、80年代に入り、医療費抑制策が国策として進められるようになると、沢 内病院への風当たりは強くなる。81年の診療報酬改定以降、国は医療費削減へと舵 を切り、それと呼応するように病院の累積赤字も膨張していく。また、81年には第 二次臨時行政調査会(いわゆる土光臨調)が発足、3K(国鉄、国民健康保険、米= 食管会計)の赤字解消に乗り出す。沢内村も行政改革委員会を設置、村民に健康を もたらした医療システムは、一転、財政面から厳しい批判を受けるようになる。 1992年4月には「保健・医療・福祉を考える村民大会」が開催され、当時の村 長・太田祖電氏と院長の増田氏の対論が行われ、その模様はNHKの『プライム10』 という番組で全国放送された。病院単体の赤字(当時で累積赤字約2億円)を問題視 する太田氏に対し、村民が健康になり村全体の医療費が節約できていれば病院の機 能は果たしていると主張する増田氏との対論は平行線をたどり、決着には至らな かった。しかし、病院運営を巡って村の行政と増田院長の間に生まれた溝は深く、 村は最終的に医療と保健を統合したシステムを捨て、「病院は医療に特化」の方針 を打ち出す。 http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/s002/201507/542976_2.html 2015/07/28 かつての地域医療のお手本は今…:日経メディカル 2/2 ページ 国が進める老人病院改革や、介護保険創設に向けての議論が活発化する中、医 療、老人介護、ヘルス事業を制度の枠組みを超えて提供していた沢内病院は、医師 不足に悩む「普通の僻地病院」に姿を変えた。増田氏が沢内を去った1999年以降、 地域医療のけん引役としての存在意義もなくなった。2005年に沢内村と湯田町が合 併し西和賀町になると、45年続いた老人医療費無料化も終了した。 © 2006‐2015 Nikkei Business Publications, Inc. All Rights Reserved. http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/s002/201507/542976_2.html 2015/07/28
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