第十一章 始まりと終わりの境界線の考察 仏教では、自己とこの世界への

■第十一章 始まりと終わりの境界線の考察
仏教では、自己とこの世界への執着が原因となってカルマ(業)の因果法則が働き、人
間は輪廻に閉じ込められると説明している。ਈ生と老化と死は相互に原因と結果の連続で
あり、自己がఏ実体であることから成立してくるのであって、そのサイクルの絶対的な始
まりの時点は問えないものである。この章でナーガールジュナは、主体である人間と世界
のఏ実体性という問題を、こうした始まりや終わりという観点から主張している。
1. 始まりについて尋ねられたとき
偉大な賢者は、それについては何も知られていないと‫׼‬った1
輪廻する存在は終わることなく、始まることがない
したがって始まりも終わりもないのである
1.意訳
世界の始まりについて問われたとき、シャーキャムニ・ブッダは、それについては回答
不能だと‫׼‬った。輪廻の環には始まりも終わりもないのである。(それは問えない問題で
ある。)
ガーフィールドもϺ説で触れているが、ここでブッダが回答不能だと‫׼‬った問題は、カ
ントが純粋理性批判の中で「純粋理性にとってアンチノミー」だと‫׼‬った問題と同じであ
る。ブッダは世界に始まりがあるのかどうか、無限なのかどうかについては回答できない
として弟子の問いを退けたのであるが、カントも、「世界は時間的な始まりをもち、また
1.経典にあるこの౮分は以下の通りである:
教えて下さい。世界は永遠ですか? それのみが真実で、その反対は間違いなのです
か? ポッタパーダよ、私は世界が永遠で、その逆のϺ釈が間違いだとは‫׼‬っていませ
ん。ああ師よ、世界は永遠ではないのですか? 私は世界が永遠ではないとは‫׼‬っていま
せん...ああ師よ、世界は無限ですか、...無限ではないのですか...? 私は世
界が無限ではなく、そしてその逆のϺ釈が間違いだとは‫׼‬っていません。(Potthapada
Sutra25,Walshtrans.,1987,p.164/Garfieldp.197)
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空間的にも限界がある」という命題の正誤は決定不能であると述べており2、絶対的に必
然的な存在者(神)が実在するかどうかという判断と同様、理性にとってはアンチノミー
(二律背反)に陥る問題だとしている。ただし、カントは晩年になって、神の存在などの
形而上の問題は、問えないながらも人間が問わねばならないものだとして積極的な思索を
行っており、研究者の間でも評価が分かれている。純粋理性批判までの著作を評価し、晩
年の思索を、いわば「退化」だととらえる者も多いのである。そして晩年の著作をも視野
に入れてϺ釈する場合は、ナーガールジュナとカントについてのここでのะ似が制限付き
のものとなるようなϺ釈もあり得るだろう。ガーフィールドはそうした観点からカントを
読んでいるようであり、ะ似は認めるものの本‫ݵ‬的な違いを強੘したがっているようであ
る。3しかしこの݃では違うにせよ、ブッダもナーガールジュナも輪廻と救済という形而
上学を認めているのであり、実はカントの二重性と同じ種ะの問題をはらんでいるのであ
る。
2. 始まりも終わりもない場合
その間というものはどうやって存在できるのだろうか
もし先の、後の、という問題についてもこうした考えに従うなら
同時であるということも‫׼‬えないことになる
2.意訳
(しかし反論者はこう‫׼‬うかもしれない。)始まりも終わりも、それが存在するというこ
とを主張できない場合、その中間というものの存在を主張できるだろうか。(中間という
ものは、始まりと終わりを想定してこそ、その「中間」として考えられるものであるはず
だ。)これと同じ論法で考えてみると、「先」とか「後」とかいうものが存在しないの
で、「同時」という考えも成り立たない、ということになってしまうのではないか。(し
たがって、始まり〔ਈ生〕と終わり〔死〕の中間状態である輪廻の生〔老化する状態〕が
確実に存在し、何か物事に関して「先」だとか「同時」だとか「後」だとか‫׼‬えるのなら
ば、始まりも終わりも本‫ݵ‬的に存在しているのではないか。)
2.純粋理性批判1787೤訳 岩波文庫(中)p.106(原版p.454)
3. Garfieldp.198
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3. もしਈ生が最初に来て
そして後に老化と死が来るなら
ਈ生は不老不死のものであり
不死の者が生まれ得ることになるだろう
3.意訳
(もしਈ生、老化、死というものを、実体として独立して存在するような絶対的なものだ
とϺ釈するなら、ਈ生は老化や死とは関係なく独立しているのである。すると、)最初に
ਈ生が来て、その後に老化や死が別のものとして来るなら、ਈ生自体は老化もせず、死ぬ
こともない。そうなると、不死の者がਈ生してくる、などということになってしまうだろ
う。
ਈ生も老化も死も、それ自体を他から切り離して主張することはできない。相互に依存
し合って成立する概念なのであり、ਈ生だとか老化だとか死だとかいう分け方自体が、自
然の側に存在しているのではなくて、人間が意‫ݥ‬的に切り分けて(恣意的に)与えた区分
なのである。種と芽、幹と葉、木と材木などのような個々の概念も、その間に固定的な境
界が初めから存在しているわけではない。
4. もしਈ生が後から来ることがあるなら
そして老齢と死が最初に来ることがあるというなら
生まれてない人間についての
原因のない老化と死が、いったいどのようにして成り立つというのだろうか
4.意訳
(そしてਈ生、老化、死がそれぞれ独立した実体であるならば、それらは必然的な順番に
よって関連し合って存在しているわけではないので、お互いに自由であり、ਈ生が老化や
死の前に来なければならない必然性もない。そうなるとਈ生が老化や死よりも後にくると
‫׼‬っても構わないことになる。)もしਈ生が老化や死よりも後から来ると‫׼‬ってもよいの
であれば、生まれてない人間が老化して死ぬことがあるということであり、生まれるとい
う原因がなくても、老化と死という結果がӑきることになるが、そんなことがいったいど
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うして成立するだろうか。
5. ਈ生と老いと死が
一度にӑこることはできない
そうならば生まれつつあるものが死につつあるわけであり
また両者は原因なく生じることになるだろう
5.意訳
(ਈ生も老化も死も実体であるならば、それぞれが常に永遠に存在しているものであるた
め、同じときに三つが同時に存在していることにもなる。しかし)ਈ生と老いと死が、同
時に一度にӑこることはできない。同時にӑきているならば、今生まれてこようとしてい
る者は、同時に死のうとしている者なのであり、また、生まれるということも死ぬという
ことも原因なく生じることになるだろう。(実体は原因に「依存」して成立したりしない
からである。そうなると仏教の基本的教義である、カルマの法則により、執着と迷妄によ
ってこの世に生まれてきてしまうという因果関係も成り立たず、生まれてきたので必ず死
ぬという因果関係も否定してしまうことになる。)
6. 先行するものと同時のもの、および後続するものの連続が
あり得ない場合
このਈ生、老化、そして死とを
どうして主張し得るというのだろうか
6.意訳
何かが何かよりも先であるとか、同時であるとか、後に来るとかいうような時間的な連
続関係が成立しない場合、人間がਈ生し、老化し、そして死ぬということも主張できない
ことになるのではないか。
ਈ生、老化、死という概念は、時間的に相互に依存し合っているのである。独立した実
体ではあり得ない。もちろん、その瞬間だけの、時間幅を持たない存在であるとか、時間
をਗ਼΅した存在であるなどということは、時間の中でしか認‫ݥ‬活動を行えない人間には認
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‫ݥ‬不能である(少なくとも悟りの世界を除けば)。時間幅を持たないのならば、死に時間
的に先立つਈ生という概念は最初から成立しない。
7. 輪廻する存在それのみが始まりを持たないのではない
どんな存在も始まりを持たないのである:
原因と結果も持たず;
性‫ݵ‬も、そして性‫ݵ‬を持ったものも...
7.意訳
輪廻の中に生きる生命だけが始まりを持たないというわけではない。事物も含めてあら
ゆる存在について、始まりは問えないのである。因果関係というものの始まりも問えず、
あるものが持つ何らかの性‫ݵ‬自体についても、その性‫ݵ‬を持った事物についても始まりは
問えず...
8. 感жも感ж器官feeler(触手)も;
存在するものは何であれ;
すべての存在は
始まりを持たない
8.意訳
感ж知жそのものの始まりも、それを担う感ж器官の始まりも、存在するものは何であ
れ、すべての存在について始まりというものは問えず、したがってすべてのものが(絶対
的な)始まりを持たないのである。
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