[B]初期議会 内 閣 やま がた あり とも 1892 年 第二回衆議院議員総選挙 →品川弥二郎〔内相〕の選挙干渉 1892 年 内閣総辞職 しかし,吏党は再び過半数の議席をえられず 品川弥二郎の選挙干渉責任追及 →辞任後,西郷従道らと国民協会を結成 や ばんゆうえんぜつ じ けん かん しょう しょ ろう わ ちゅうきょうどう じ ろう しょう しょ 1893 年 建艦詔書(和衷協同の詔書) 議会も建艦に協力せよとの天皇からの詔勅 →ようやく海軍軍事費拡張に成功 第 4 議会から自由党は政府に接近 立憲改進党は与党化した自由党と対立 →対外硬派連合に自由党は入っていない 今までの貿易は,開港場に設けられた 居留地(外国人居住地域)でしか行えない 陸奥宗光→不平等条約改正のために国内 どこでもOKにしよう(内地雑居) 対外硬派連合→そのままでいい(現行条約励行) 対外硬派連合(中心=立憲改進党・国民協会) 現行条約励行を主張して陸奥宗光〔外相〕の 条約改正交渉を攻撃(→政府は衆議院解散) たい がい こう は れん ごう ない かく だん がい じょう そう あん 内閣弾劾上奏案可決(→政府は衆議院解散) 進歩党 えん ぜつ じ けん ぶん かん ぶん げん れい ぐん だい じん げん えき ぶ かん せい あん けい さつ ほう よろずちょうほう 伊藤博文④ 1901 年 内閣総辞職(増税案を貴族院で反対され閣内不統一) 〔立憲政友会総裁〕 後,山県・伊藤は第一線から退き, 山県有朋→桂太郎(官僚・軍部などの藩閥を支持基盤とする) 元老として裏から政治を動かす 伊藤博文→西園寺公望(立憲政友会を支持基盤とする) - 67 - 立憲政友会 ち ぶ 帝 国党 ぶん かん ちょう かい れい 旧進歩党系 官僚になるための文官高等試験をクソ 難しくして政党員の官僚進出を防ぐ 内閣が代わっても官僚をクビにできない 恣意的に官僚をクビにできない (板垣は立憲政友会創設とともに政界引退) 1900 年 軍部大臣現役武官制 ★憲政党は山県との提携を断絶→伊藤博文に接近 陸・海軍大臣は現役の大将・中将からのみ任用 星亨が伊藤博文に憲政党を無条件献上 1900 年 治安警察法(社会運動・労働運動を抑える法令) 1900 年 立憲政友会結成(総裁=伊藤博文) 1900 年 衆議院議員選挙法改正 ★幸徳秋水は「自由党を祭る文」を 直接国税 10 円以上納入者(有権者=全人口の 2.2%) 『万朝報』に発表し,これを批判 ぶん かん にん よう れい 旧自由党系 中 心=星亨 やま がた あり とも 山県有朋② 1898 年 地租増徴案可決(2.5%→3.3%) 〔提携=憲政党〕 [政党進出防止策(1899)] ①文官任用令改正(文官の任用資格の規定) ②文官分限令(文官の身分と職務を保障) ③文官懲戒令(文官に対する懲戒の理由を限定) 憲政本党 きょう わ 憲政党 総選挙で圧勝後, 1898 年 最初の政党内閣(陸相・海相以外は憲政党員) 伊藤の強い推薦で組閣 大隈重信〔首相〕・板垣退助〔内相〕 1898 年 共和演説事件(尾崎行雄〔文相〕が辞任) 1898 年 憲政党分裂(後任人事で内部対立) 結局旧進歩党系の犬養毅が就任 ) わいはんないかく ( おお くま しげ のぶ 大隈重信① 〔隈板内閣〕 1898 年 地租増徴案否決(戦後経営の財源確保のため) 自由党と進歩党が否決→政府は衆議院解散 1898 年 憲政党結成(自由党と進歩党が合同) 憲政党 げんくんないかく 小政党を 吸収したた め政党名改称 自由党 おお くま しげ のぶ 松方正義② 1896 年 大隈重信が外務大臣に入閣(松隈内閣) 1 円金貨=金 0.75gを含む 1 ドル=2 円 〔提携=進歩党〕 1897 年 貨幣法(日清戦争の賠償金を元手に金本位制を確立) 1 ドル金貨=金 1.5gを含む 伊藤博文③ 〔元勲内閣〕 国民協会 立憲改進党 対外硬派連合 むつむねみつ ★日清戦争開戦後,大本営のあった広島で 臨時議会が開かれ臨時軍事費が全会可決 〔提携=自由党〕 1896 年 板垣退助が内務大臣に入閣 まさ よし や 国民協会 民党が反対 議会紛糾(→政府は衆議院解散) かばやますけのり 大成会 1891 年 海軍軍事費増額要求 樺山資紀〔海相〕の「蛮勇演説」 立憲改進党 第 五 ・第 六議会 日清戦争後 正式に提携 第 四議会 げんくんないかく やまがたありとも 自由党 第 三 議 会 伊藤博文② 〔元勲内閣〕 後の元老ら大物 ばかりで大臣を 構成した内閣 立憲自由党 第 二議会 まさ よし 松方正義① 〔藩閥内閣〕 第 一議 会 山県有朋① 〔藩閥内閣〕 政 府…日清戦争・日露戦争に備えて軍備拡大→軍拡予算成立には民党との妥協が必要 明治時代⑤[立憲国家の形成] 自由党…支持基盤の地方農村はインフラを求める→公共事業誘致には政府の協力が必要 政 府 民党(反政府勢力) 政党の変遷 「超然主義」(政府の方針) 「政費節減・民力休養」(民党の方針) 民 党 吏党 「予算削れ」・「地租を下げろ」 1890 年 陸海軍軍事費増額要求 民党が反対 山県有朋〔首相〕の「主権線・利益線演説」 立憲自由党土佐派を買収し軍拡予算を成立 土佐派が買収されたため政党名変更 →これに激怒し中江兆民は議員辞職 →のち,土佐派の奴等も復帰
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