「平安農場の記録」を閲覧ください

新篠津村の総務課より送付いただいた「新篠津村百年史」(平成 8 年発行の PDF 文章)の
資料の中の『平安農場」が記述された個所を摘録したものです。
平安農場(現・平安地区、沼之端地区、菫ユ野地区)
明治 27 年(1894 年)9 月、京都市の膳平兵衛が 41 線から 45 線の北 2 号から北 5 号にまたが
る土地 151 町歩の貸下げを受け、4 年後の明治 31 年(1898 年)12 月に無償付与となり、京
都市の田中利兵衛と酒井重綱に譲渡した。
これが平安農場のはじまりである。貸下げを受けたのは膳平兵衛だが、実際の農場主は当
初から田中利兵衛と酒井重綱だった。
田中と酒井は同じようにして、京都市の灰方五右衛門が明治 30 年(1897 年)に貸下げられた
篠津原野の土地二五町歩を二年後に譲り受け、さらに京都市の松尾ス工が同じ年に貸下げ
られた土地 40 町歩を 2 年後に譲ヶ受けている。灰方五右衛門の当時の住所が札幌市の田中
利兵衛の出ていた店になっていることからも、膳や灰方や松尾が単なる名義人だったこと
がわかる。おそらく、同じ名義で大地積の貸下げをつづけて受けるのは、難しかったので
あろう。田中利兵衛の名は、上芦別に農場を開いた「京都殖民協會」の合同出資者 5 人の
なかにもみえる。
また、当別の平安農場の場合は田中利兵衛が明治 36 年(1903 年)に付与を受け、3 年後に酒
井重綱に譲っている。
田中利兵衛は京都の東本願寺の前に、
「丸油田中」という僧衣仏具の店を出す豪商だった。
札幌市の南一条にも丸油の支店があった。田中は 30 歳ころに来道して石狩、厚田、札幌と
回ったとき、開墾に取り組むことを決意したと伝えられる。田中など京都出身者が北海道
でこのように多くの土地を得ることができたのは、当時の北海道庁長官の北垣國道が京都
市の出身であったことと、幕末の鳥羽伏見の戦いに何らかの功があったからであろう。
水田造成
平安農場の東側には小沼があり、その水が南西に流れて一帯を湿地とし、純粋な泥炭地だ
った。田中利兵衛がこのような川筋の低湿地を選んだのは、するときの水利を考えたから
である。
明治 28 年(1895 年)に田中は小作人の小屋を 57 棟作り、翌年春に石川県に人を派遣して、
小作人 32 戸を募集して移住させた。その次の年には、さらに 24 戸を移住させている。小
作人には渡航費用のほかに米や味噌、農具、種子料などを貸し与えて、定着を図った。
しかし、明治 31 年(1898 年)に大水害が起きたため、緊急の手当を出してしのいだが、翌年
には小作人 34 戸が相次いで農場から去った。
平安農場は当初より水田造成を目標としており、灌漑溝を開いたり、総延長 6 キロの大中
の排水溝を掘ったり、総延長 24 キロに及ぶ小排水溝を掘ったが、雨が降ると沼がすぐに溢
1
れるため、十分な効果は得られなかった。
平安農場は開拓当初、
「丸油農場」とよばれた。農場の支配人は、初代が川村某で、そのあ
と七里駒一、足立宗太郎の父親、荒木米二郎、泉亭俊広、足立宗太郎と代わっている。
事務所ははじめ四線北 3 号に置かれていたが、農地が奥へ広がるにつれ移動した。
平安農場は巨額の経費を投入したが、それに見合う成果は得られなかったとみて
いい。土地が悪く、水がつきやすいため、開いた田はおおかたが荒れてしまい、小
豆、大豆、とうもろこし、ソバなどの畑作物も反当たり収量が他より少なかった。
新篠津村年表
1897 年 明治 30 年 3 月 2 日・墓地予定地 16,000 坪を出願
3 月 2 日・市街予定地(40 線南 7 号と 8 号の間、41 線南 7 号の一部)24,000 坪を出願
3 月 27 日・北海道国有未開地処分法公布大地主の占有が始まる
3月
・小学校新築について補助申請
4 月 1 日・真宗本願寺派布教所で寺小屋式教育を始める(浄楽寺)
4 月 22 日・石狩川が氾濫 5 月 12 日まで
5月
・篠津説教所が 42 線北 2 番地に移転(浄楽寺)
6 月 17 日・北海道 1、2 級町村制公布
7 月 18 日・石狩川が氾濫 20 日まで
8 月 20 日・2 代目戸長として石日常理が就任
9 月 1 日・新篠津郵便局が開局
11 月 1 日・道内 19 地区に道庁の支庁を設置
11 月 1 日・石狩など 5 郡の郡役所廃止札幌支庁の設置
・石川県からの団体移住者 24 戸が平安農場事務所に到着
・戸数割税完納者 327 戸
・篠津原野の排水運河工事が始まる
・現・新篠津神社向いに 2 階建ての校舎が完成
・篠津川で浅瀬浚渫と流木除去の工事
・平安神社青年会発足
・熊田治之助と松浦家が天塩に転居
2
3