武器としての日本史 センター3 センター3 Pain is inevitable Suffering is optional 立憲国家の 立憲国家の成立と 成立と発展 【近代 04】(2010 年・本) 1.西南戦争のさなか,立志社の片岡健吉らが,国会開設を求める建白書を提出した。 2.選挙人資格を,直接国税 15 円以上を納入する満 25 歳以上の男性とする法律が制定された。 3.明治十四年政変が起こり,国会開設の勅諭が発せられた。 答➡ 【近代 04 解答】[1→3→2] 1 西南戦争と同年の立志社建白(1877)提出以降,豪農層などにも自由民権運動は広がった。それ に対し,政府は 2 明治十四年の政変(1881)で国会開設の勅諭を出した。そして 3 衆議院議員選挙 法が憲法発布と同時に公布された(1889)。 【近代 05】(2002 年・本)明治期の地方制度。 1.政府は,ドイツ人学者の助言を得て市制・町村制を制定した。 2.政府は,それまでの大区・小区制を改めて,郡区町村編制法を制定した。 3.政府は,地方民情を政治に反映させるため,最初の地方官会議を開催した。 答➡ 【近代 05 解答】[3→2→1] 政府は大阪会議により 3 地方官会議を設置(1875 年)し,2 郡区町村編成法・府県会規則・地方税 規則の三新法を制定した(1878 年)。その後,憲法制定にともないドイツ人モッセの助言で 1 市制・ 町村制(1888 年),府県制・郡制(1890 年)を制定した。 【模試進研 2009】 明治政府による民権派に対する弾圧法規について述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて古いものから年 代順に正しく配列せよ。 Ⅰ 集会条例を出して、民権派の集会・結社を制限した。 Ⅱ 保安条例を出して、民権派を東京から追放した。 Ⅲ 讒謗律を出して、文書などで官僚を批判することを禁止した。 ●自由民権運動 自由民権運動の 自由民権運動の開始 ➡士族中心 ✱自由民権と政府の弾圧法は、民権派の動きに対応させ て覚えよう!2007、2008 本試で出題 1874【 愛国公党 】の結成➡板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣ら 1874 【 民撰議院設立の 民撰議院設立の建白書 】の提出➡【 有司 】専制批判、国会開設要求 ➾ 「上流の民権論」…士族と豪農に政治参加を求める 民権論争の口火…「 日新真事誌 」に掲載、政府は無視 片岡健吉、植木枝盛 1874【 立志社 】設立➡板垣、片岡健吉 片岡健吉 植木枝盛らと高知で 植木枝盛 ↓ 1875【 愛国社 】結成➡…全国的な政治結社。板垣が参議復帰で解散 ↑ 政府の対応 1875【 】➡板 板垣退助・木戸孝允 垣退助 木戸孝允と大久保利通 木戸孝允 大久保利通・伊藤博文 大久保利通 伊藤博文 ➡板垣・木戸が参議復帰 1875【 漸次立憲政体樹立 漸次立憲政体樹立の 立憲政体樹立の詔 】制定 ➡【 元老院 】(立法)【 大審院 】(司法)【 地方官会議 】設置 1875【 讒謗律 】・【 新聞紙条例 】制定…新聞・言論などによる政府攻撃を弾圧 郡区町村編制法 】…郡制の復活、3府には区の設置 1878 三新法制定➡【 三新法 ➡【 府県会規則 】…府県会の制度化 ➡【 地方税規則 】…府県税や民費を地方税に統合 ●自由民権運動 自由民権運動の 自由民権運動の広がり ➡豪農層の参加 1877【 立志社 】建白➡西南戦争の最中、片岡健吉ら。受取拒否 国会開設・地租軽減・条約改正など要求 印刷して公に→運動再燃 1878 愛国社再興➡豪農・地主層、商工業者も加わり活発に 1880【 国会期成同盟 】と改称←第4回愛国社大会➡建白・請願相次ぐも政府は不受理 ・政府の対応 1880【 集会条例 】で民権派の言論・集会・結社を抑える ➾維新の三傑の死…木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛 ↓ 【 伊藤博文 】と【 大隈重信 】の対立➡不換紙幣の整理、国会開設問題 大隈…即時開設→【 イギリス 】流の政党内閣、1883 年の国会開設 伊藤…漸進論、岩倉具視と同調 1881【 開拓使官有物払い 開拓使官有物払い下げ事件 】 ➾開拓使長官【 黒田清隆 】が、【 五代友厚 】らの関西貿易社に法外な条件で払い 下げようとした。国会開設運動と重なり、世論沸騰。 1881【 明治十四年の 明治十四年の政変 】➡民権派とつながる大隈の追放 ➾1881【 国会開設の 国会開設の勅諭 】(1890 年に国会開設を公約) 結果…欽定憲法の方針で意思統一、薩長藩閥による権力体制を固める 政党の 政党の結成 【 自由党 】(板垣退助)【 立憲改進党 】(大隈重信)【 立憲帝政党 】(福地源一郎) ●自由民権運動 自由民権運動の 自由民権運動の激化 松方財政の影響 ✱激化事件は事件名とその内容が問われる 1882✖【 福島事件 】➡県令【 三島通庸 】の圧政➜県会議長【 河野広中 】ら逮捕 1884✖加波山 加波山事件➡自由党員ら三島通庸の暗殺に失敗(爆弾使用) 加波山 1884 自由党の解党…大隈の立憲改進党離党➜運動の停滞 1884✖【 秩父事件 】➡旧自由党左派の指導、貧農ら【 困民党 】の蜂起 1885✖【 大阪事件 】➡旧自由党員の【 大井憲太郎 】らが、朝鮮の保守政権打倒を計画した が検挙された。 1 武器としての日本史 Pain is inevitable Suffering is optional ●自由民権運動 自由民権運動の 自由民権運動の再燃 国会開設を目前に再結集 1887【 大同団結 】の提唱➡後藤象二郎ら、旧自由党と改進党の団結を呼びかける 1887【 三大事件建白運動 】➡「 地租軽減 」「言論周回 言論周回の 言論周回の自由 」「 外交失策の 外交失策の挽回 」 政府の 政府の動き 1887【 保安条例 】制定➡東京から民権派の追放(【 第1次伊藤博文 】内閣) 諸制度のののの整備 頻出ポイント 頻出ポイント 自由民権運動の 自由民権運動の弾圧法に 弾圧法に尽きる 2007 本、2008 本 民撰議院設立の建白書1874 立志社結成 愛国社結成 ★憲法の 憲法の制定 1881【 国会開設の 国会開設の勅諭 】➡1890 年の国会開設を公約 憲法制定の本格化…ドイツ流・欽定憲法の方針 ※ 私擬憲法…【 東洋大日本国国憲按 】(植木枝盛)【 私擬憲法 】(交詢社)など 1882~83 伊藤博文の渡欧➜【 グナイスト 】(ベルリン大)、【 シュタイン 】(ウィーン大) ➾君主権の強いドイツ流憲法を学ぶ 1884 制度取調局設置…局長、伊藤博文 制度取調局 1884【 華族令 】制定➡公・候・伯・子・男爵位、上院議員の準備 1885【 内閣制度 】制定➡太政官の廃止、初代内閣総理大臣➾【 伊藤博文 】 宮中・府中の別…【 内大臣 】(初代➜【 三条実美 】、宮内大臣は内閣外 地方制度の 地方制度の整備 ➡【 山県有朋 】内相・【 モッセ 】(独)中心 1888 市制・町村制 1890 府県制・郡制 憲法の 憲法の制定 1886 から草案作成…【 伊藤博文 】【 井上毅 】 【 伊東巳代治 】【 金子堅太郎 】 ➾ドイツ人顧問【 ロエスレル 】助言 1888【 枢密院 】設置➡初代議長【 伊藤博文 】、天皇の諮問機関➡憲法草案の審議 1889.2.11【 大日本帝国憲法 】発布(2.11 紀元節)➡【 黒田清隆 】内閣のとき 大阪会議1875 (① 立憲政体樹立 )の詔 讒謗律・新聞紙条例 国会既成同盟1880 【 集会条例 】1880 大同団結運動1886~ 三大事件建白運動1887~ 【 保安条例 】1887 三大事件とは①【 地租 地租の の軽減 】 【 言論集会の 言論集会の自由 】 【 外交失策の 外交失策の回復 】 【近代 06】2008 本 大日本帝国憲法の発布に関して述べた次の文 X・Y について、その正誤の組合せとして正しいもの を、下の①~④のうちから一つ選べ。(正か誤を判断) X 憲法の起草作業は、法律顧問ロエスレルの助言も得て進められた。 Y 憲法は、国民の代表による会議の議決を経て発布された。 ●大日本帝国憲法 大日本帝国憲法の 大日本帝国憲法の内容 ✐制定に関わった人物と内容が問われる 【 欽定憲法 】(天皇が制定)、三権分立体制、輔弼内閣制 ・臣民…国民のこと。法律の範囲内で義務・権利認める ・天皇大権…統帥大権・国務大権・皇帝大権、【 緊急勅令 】・陸海軍の【 統帥権 統帥権 】など ・帝国議会…【 衆議院 】と【 貴族院 】、衆議院の予算先議を除いて対等 ・内閣…行政機関、各国務大臣が天皇の輔弼 ●諸法典 諸法典の 諸法典の編纂 1880【 刑法 】【 治罪法 】…【 ボアソナード 】起草 ➡罪刑法定主義、拷問の禁止、大逆罪など 1890 刑事訴訟法、民事訴訟法 商法…【 ロエスレル 】起草。法典調査会で修正、施行。 民法…【 ボアソナード 】(仏)起草。民法典論争で施行は延期 民法典論争…反対派【 穂積八束 穂積八束 】ら)と断行派【 梅謙次郎 】ら) | 「民法出デテ忠孝亡ブ」(穂積八束) ↓ 1898 新民法施行➡ドイツ流 戸主権の 戸主権の絶対化、家督相続、妻は権利能力を欠く 絶対化 2 武器としての日本史 Pain is inevitable Suffering is optional 【近代 05】(2007 年・本)初期議会。 1.政府は詔勅により,民党の反対を抑え,予算を成立させた。 2.第1回帝国議会では,自由党の一部が予算成立に協力した。 3.民権派の再結集に対して,政府は超然主義の立場を声明した。 【近代 06 解答】[1→2→3] 1.岩倉使節団は,廃藩置県(1871 年)直後に派遣され,条約改正の予 備交渉とともに欧米を視察した。2.東京大学は開成学校と医学校を併合して設立され(1877 年),西 洋の知識を学んだ。3.鹿鳴館は井上外相の欧化政策の中で建設された(1880 年代)。 答➡ 【近代 05 解答】[3→2→1] 3.大日本帝国憲法発布(1889 年)の翌日,超然主義演説を行ったのは 黒田清隆首相。2.第1帝国議会のときの内閣総理大臣は山県有朋(第 1 次)。1.建艦詔勅により軍 事費増に成功したのは第 2 次伊藤博文内閣。 【近代 07】(2001 年・本・改)明治期のアジア外交。 1.天津条約が結ばれ,日清両軍の朝鮮からの撤兵などが定められた。 2.日本は江華島事件を機に朝鮮との間で日朝修好条規を結んだ。 3.朝鮮で国王の父大院君が閔氏一族から政権を奪おうとし反乱を起こしたが失敗した。 初期議会 ➾第一議会、第二議会、第 2 回総選挙の内容が問われるぞ! 議会 首相 事項 衆議院議員選挙法制定 1889 【 25 歳 】以上男子・直接国税【 15 円 】以上納入者に選挙権 黒田清隆 【 超然主義 】…政府の政策は政党の意向に左右されない 第 1 回総選挙 1890…民党 民党(反政府系)が過半数以上 民党 山県首相は軍事費の拡大を要求 山県有朋 民党側は「【 民力休養 】・【 政費削減 】主張して反発 第一議会 ➜政府が民党 民党の一部を買収し、一部予算案を可決 民党 民党は軍艦建造費の予算削減を主張 政府は軍艦建造費を含む予算案を主張 第二議会 ➜対立…【 樺山資紀 】海相の蛮勇演説→予算削減 →政府 政府が民党 政府 民党の予算削減に同意せず、衆議院解散 民党 松方正義 【 品川弥二郎 】内相らの選挙干渉→民党勢力は覆せず 第三臨時議会も予算案対立、選挙干渉非難で総辞職 第三議会 松方内閣の退陣 第四議会 予算削減→【 建造詔勅 】で予算成立 条約改正交渉で対立構図が変わる 政府・自由党(条約調印賛成派) 第五議会 伊藤博文 改進党・国民協会など(条約調印反対派) →【 対外硬派連合 】 解散に次ぐ解散 第六議会 日清戦争勃発により政争中止 答➡ 【近代 07 解答】[2→3→1] 2 日朝修好条規(1876)の締結により朝鮮を開国させた。その後,親日開 化派の台頭から攘夷派の大院君が壬午軍乱(1882)を起こした。朝鮮の独立党による甲申事変 (1884 年)に日清両国が介入し,日清関係が悪化したが天津条約(1885 年)で調整した。 【近代 06】(2004 年・追)欧米文化の摂取。 1.岩倉具視を全権大使とする遣外使節団が,欧米に向けて出発した。 2.多くの外国人教師を指導者として招き,東京大学が開設された。 3.鹿鳴館が,外国要人接待の社交場として使用された。 ●条約改正 担当者 【 岩倉具視 】 首相 【 寺島宗則 】 【 井上馨 】 伊藤博文 【 大隈重信 】 黒田清隆 【 青木周蔵 】 山県有朋 松方正義 【 陸奥宗光 】 伊藤博文 【 小村寿太郎 】 桂太郎 答➡ 交渉内容など 1871~73【 岩倉使節団 】 【 関税自主権 】回復を主眼 アメリカ賛成、イギリス・ドイツ反対で失敗 【 欧化主義 】政策➡鹿鳴館の建設、政府部内の反対 領事裁判権の回復、関税自主権の一部回復を主眼 外国人 改正草案…回復後、内地雑居 内地雑居・法典整備・過半数の外国人 内地雑居 裁判官任用 1866✖【 ノルマントン号事件 ノルマントン号事件 】➡条約への不満拡大 国内の反発➡ボアソナード ボアソナード・谷千城 ボアソナード 谷千城農商務省 谷千城 【 三大事件建白運動 】→井上、外相辞任 領事裁判権の回復、関税自主権の一部回復を主眼 米・独・露と条約調印 「 外国人裁判官の 外国人裁判官の任用を 任用を大審院に 大審院に限る 」がスクープ 大隈暗殺未遂で片足を失う→黒田内閣総辞職 領事裁判権の回復と関税自主権の一部回復を主眼 方針転換-外国人裁判官を大審院に任用しない など イギリスと交渉妥結…ロシアの東アジア進出に警戒 【 大津事件 】で辞任 ➡犯人の津田三蔵は法律に基づき無期徒刑 1894【 日英通商航海条約締結 】…自由党の支持を受ける 領事裁判権撤廃、関税自主権 領事裁判権撤廃 関税自主権の 関税自主権の一部回復、居留地の廃止、 一部回復 相互対等の最恵国待遇、1899 年発効で有効期間は 12 年 1911【 日米通商航海条約 】締結 ➡関税自主権 関税自主権の 関税自主権の回復に成功 回復 3 武器としての日本史 Pain is inevitable Suffering is optional 【近代】2009 追 日清戦争の講和条約に関して述べた文として誤っているものを、次の①~④のうちから一つ選べ。 ① 条約交渉の日本全権は伊藤博文・陸奥宗光であった。 ② 日本は台湾と澎湖諸島を割譲させた。 ③ 日本は遼東半島を割譲させたが、のちに返還した。 ④ 日本は清からの賠償金をもとに官営富岡製糸場を設立した。 ●日清戦争 1880 年代 朝鮮問題 1890 年代 日清戦争 朝鮮問題 開国後の朝鮮…貿易は日本の輸出超過、米の買い付けで朝鮮国内は米 不足 1882✖【 壬午軍乱 】 大院君を担いでクーデター ➾親日派の閔妃一族 閔妃一族に対し、守旧派兵士が大院君 大院君 閔妃一族 【 済物浦 】条約後、閔妃派は清とのつながりを強める 1884✖【 甲申事変 】 ➾閔氏親日派から親清派に転じたことに注目 独立党 】(親日派、【 金玉均 】ら)の対立 閔妃政権(親清派)と【 閔妃政権 清仏戦争後にクーデター、清の干渉で失敗 漢城条約(1885、朝鮮) 1885【 天津条約 】…伊藤博文と李鴻章 日清両軍の朝鮮撤退、将来 将来の 将来の出兵時は 出兵時は相互通告 日本国内の世論の転換…福沢諭吉の【 脱亜論 】 1889【 防穀令 】事件-朝鮮で凶作、大豆・米の対日輸出禁止で打撃 ➡賠償金支払いで承認 1894✖【 甲午農民戦争 】(朝鮮) ➡東学が農民を率いて大規模な反乱に発展 清が救援出兵、日本も対抗して出兵 ↓終了後も両軍が対峙 1894✖【 日清戦争 】…豊島沖海戦などで開戦→宣戦布告 平壌の戦い、黄海海戦、大連・旅順占領、威海衛占領 戦局…日本の圧倒的優位、政党の政府批判中止、戦費は約2億円 1895【 下関条約 】 ➡日本側全権-伊藤博文 伊藤博文首相、陸奥宗光 陸奥宗光外相 伊藤博文 陸奥宗光 清国側全権-【 李鴻章 】 内容 清国は 遼東半島 】・【 台湾 】・澎湖諸島 清国は朝鮮独立の 朝鮮独立の承認、【 承認 の割譲、賠償金【 2 億両 】(3 億 1 千万)支払 沙市、重慶、蘇州、杭州の開港 ●日清戦争後 日清戦争後の 日清戦争後の議会 【 自由党 】と提携、【 板垣退助 】内務大臣 第 2 次【 伊藤 】 ➾軍備拡張をめざす政府は政党を無視できなくなったのだ。 第 2 次【 松方 】 【 進歩党 】と提携、【 大隈重信 】外務大臣 地租増徴案提出➡自由・進歩両党の反発➡【 憲政党 】の結成 地租増徴案 第 3 次【 伊藤 】 ➾地租を払っているのは地主たちのみ 第 1 次【 大隈 】 初の政党内閣、憲政党与党、大隈外相兼任・板垣内相( 隈板内閣 ) 政党内閣 1898 地租増徴案可決➡2.5%➾【 3.3% 地租増徴案可決 3.3% 】へ 第 2 次【 山県 】 1899【 文官任用令 】改正➡政党員が官僚に進出するのを防ぐ 1900【 軍部大臣現役武官制 】➡陸海軍大臣は 【近代 08】(2001 年・本・改)綿糸紡績業。 1. 紡績女工などを保護するため,工場法が,さまざまな例外規定を持ちつつも実施された。 2. 綿糸紡績業は,朝 2. 鮮・中国への輸出を伸ばし,その結果綿糸輸出量は輸入量を上回った。 3.綿糸生産の増大 をはかるため臥雲辰致がガラ紡を発明した。 答➡ 【近代 08 解答】[3→2→1] 3.ガラ紡は,殖産興業政策の一環として行われた内国勧業博覧会 (1877 年)に出品された。2.綿糸輸出量が輸入量を上回った(1897 年)のは日清戦争後である。工場 法制定(1911 年)は第 2 次桂太郎内閣のこと。 ●産業革命 産業革命 【近代 09】(2008 年・本)第一次世界大戦。 1.シベリア出兵を行った。 2.中国政府に二十一カ条の要求を行った。 3.日英同盟を理由にドイツに宣戦布告した。 【近代 09 解答】[3→2→1]第一次世界大戦がはじまると,第 2 次大隈内閣は 3 日英同盟を理由に 参戦した。その後,これを中国権益確立の好機とみて 2 二十一カ条の要求を中国政府に突き付け た(1915)。次の寺内内閣はロシア革命への干渉に乗り出し,1 シベリア出兵を断行(1918)した。 【近代 10】(2009 年・本)普選運動の展開。 1.日本初の社会主義政党が結成され,普通選挙の実 現をかかげた。 2.第二次護憲運動が展開された。 3.選挙権の納税資格が直接国税3円以上に 引き下げられた。 4 武器としての日本史 Pain is inevitable Suffering is optional 【近代 11】(2011 年・本)昭和初期の経済。 1.浜口雄幸内閣によって金解禁が断行されたが,同じ ころ世界恐慌が日本にも波及した。 2.片岡直温蔵相の失言をきっかけに,金融恐慌が起こった。 3.関東大震災により,決済不能になったとみなされる震災手形が現れた。 【近代 11 解答】[3→2→1] 3 第 2 次山本内閣は関東大震災の処理を進めたが震災手形問題が残 存し,2 第 1 次若槻内閣の片岡蔵相の失言により取り付け騒ぎがおこった(金融恐慌)。1 浜口内閣 は為替相場を安定させ,貿易振興をはかり,金解禁を断行した(1930)が,世界恐慌に巻き込まれ た。 【近代 12】(2009 年・本)軍縮の展開。 1.国策の手段としての戦争の放棄を約した不戦条約に調印 した。 2.補助艦の総保有量(トン数)を英・米の約7割とすることに合意した。 3.主力艦保有量(トン 数)を英・米の5分の3に制限することに合意した。 【近代 12 解答】[3→1→2] 3.高橋是清内閣の時,ワシントン海軍軍縮条約(1922)で主力艦の保有 制限に合意した。1.田中義一内閣の時,パリで不戦条約に調印した(1927)。2.浜口雄幸内閣の時, ロンドン海軍軍縮条約(1930)で補助艦の保有制限に合意した。 【近代 13】(2010 年・本)政商の成長。 1.開拓使官有物払下げが批判を招き,中止された。 2.前蔵 相と三井財閥の幹部が,血盟団員に殺害された。 3.三菱の岩崎弥太郎が,台湾出兵の際に軍事 輸送を請け負った。 【近代 13 解答】[3→1→2] 3.岩崎弥太郎は明治初期の台湾出兵(1874)の軍事輸送で三菱の基礎 を築いた。1.開拓使長官黒田清隆の政商五代友厚への官有物払い下げが問題となり,明治十四 年の政変につながった。2.血盟団事件(1932 は昭和初期で犬養毅内閣の時。 【近代 14】(2008 年・本)軍部の台頭。 1.関東軍が,柳条湖で満鉄の線路を爆破した。 2.陸軍の 青年将校らが,部隊を率いて政府要人や重要施設を襲撃した。 3.海軍の青年将校らが,犬養毅 首相を射殺した。 【近代 14 解答】[1→3→2] 1.第 2 次若槻内閣(民政党)の時,柳条湖事件(1931)から満州事変が始 まった。3.五・一五事件(1932)で犬養毅首相が暗殺されて,戦前の政党内閣は最後となった。2.岡 田内閣の時,陸軍皇道派の青年将校らにより二・二六事件(1936)が起こった。 【近代 15】(2009 年・本) 1.日本軍が中国の南京を占領するに際して,捕虜や非戦闘員を殺害する 事件が起きた。 2.中国東北部での日本軍の活動に対して国際連盟からリットン調査団が派遣され た。 3.関東軍参謀河本大作らが,中国軍閥の一人である張作霖を,奉天郊外において爆殺した。 【近代 15 解答】[3→2→1] 3.田中義一内閣の時,張作霖爆殺事件が起こった(1928)。2.満州事 変の際,中国の提訴により国際連盟はリットン調査団を派遣した。1.日中戦争の際に起こった南京 大虐殺(1937)のこと。 【近代 16】(2002 年・本)日中戦争以降。 1.日本は,援蔣ルートを断ち切るため,フランス領インドシ ナ北部に進駐した。 2.近衛首相は,「国民政府を対手とせず」との声明を発表した。 3.アメリカが, 石油の対日輸出を禁止した 【近代 16 解答】[2→1→3] 2.近衛声明で日中戦争の和平交渉の道は閉ざされた(第 1 次近衛内 閣)。1.第 2 次近衛内閣,南進策を進め北部仏印へ進駐(1940)した。3.第 3 次近衛内閣,日米交 渉を進める一方で日本が南部仏印へ進駐(1941)したため,アメリカは石油の輸出禁止をした。 【近代 17】(2004 年・追)日中・太平洋戦争。 1.日本軍が,マレー半島に奇襲上陸した。 2.大都市 では戦局の悪化にともなって集団で学童疎開が行われた。 3.北京郊外で日本軍と中国軍の衝突 事件が起こり,日中戦争がはじまった。 【近代 17 解答】[3→1→2] 3.第 1 次近衛内閣,盧溝橋事件(1937)より日中戦争が始まった。1.東 条英機内閣,真珠湾攻撃とほぼ同時に始まったマレー半島上陸により,太平洋戦争が始まった (1941)。2.サイパン島陥落(1944)後,本土空襲が本格化し,学童疎開が始まった。 【近代 18】(2004 年・本)近代の教育。 1.大学令が公布され,公立・私立大学の設立が認められた。 2.宇垣一成陸相の下で,中等学校以上に軍事教練が導入された。 3.義務教育の年限が4年から 6年に延長された。 【近代 18 解答】[3→1→2] 3.明治末期に小学校の義務教育が 6 年となり,義務教育が普及した。 1.大正時代には,新中間層の台頭から,原内閣が高等教育機関の拡充をはかり大学令を公布 (1918)した。2.加藤高明内閣の宇垣陸相の下,軍縮が行われ,軍事教練が始まった。 【近代 19】(2006 年・本)西洋の建築。 1.日本初のビザンティン様式建築の,ニコライ堂が建設され た。 2.ガラス戸や応接間などを備えた,文化住宅が建設された。 3.和風土蔵造りに洋風の八角 の塔を上げた,開智学校(長野県松本市)が建設された。 【近代 19 解答】[3→1→2] 3.開智学校は明治初期の小学校建築の代表的遺構。1.ニコライ堂は イギリス人コンドルの設計により明治中期に建設された。2.文化住宅は大正時代の中間層の住宅。 【現代 01】(2011 年・追)吉田内閣。 1.朝鮮戦争勃発前後,共産主義者やその支持者を職場から追放するレッド=パージが行われた。 2.MSA 協定締結と同年,防衛庁が設置され,保安隊が自衛隊に改組された。 3.教育基本法制定と同年,地方自治法が制定され,都道府県知事が公選された。 答➡ 【現代 01 解答】[3→1→2] 3.五大改革-教育基本法(1947 年)は第 1 次吉田内閣。1.朝鮮戦争 (1950~53 年)にともなうレッドパージは第 3 次吉田内閣。2.講和後の自衛隊創設(1954 年)は第 5 次吉田内閣。※基本的に第 1 次吉田内閣と第 2~5 次吉田内閣の区別ができればよい。 5 武器としての日本史 Pain is inevitable Suffering is optional 【現代 02】(2012 年・本) 1.米航空機の売り込みをめぐる収賄容疑により,前首相が逮捕された。 2.昭和電工事件が発覚して,片山哲内閣から 2 代続いた 3 党連立内閣が倒れた。 3.造船疑獄事件をめぐって首相への批判が高まり,戦後初の長期政権が崩壊した。 答➡ 【現代 02 解答】[2→3→1] 2.昭和電工事件により芦田均内閣は総辞職。3.造船疑獄事件は(第 5 次)吉田茂内閣(戦後初の長期政権より)のとき。1.ロッキード事件(米航空機の売り込みをめぐる収 賄容疑)は三木武夫内閣(前首相は田中角栄) 【現代 03】(2004 年・本) 1.日ソ共同宣言によってソ連との国交が正常化された。 2.最初の先進国首脳会議(サミット)が開かれ,日本もこれに参加した。 3.IMF8条国に移行し,いっそうの貿易と資本の自由化を進めた。 答➡ 【現代 03 解答】[1→3→2] 1.日ソ共同宣言(1956)は鳩山一郎内閣の時。3.高度経済成長の中で, IMF8 条国に移行(1964)したのは池田勇人内閣の時。2.オイルショックによる世界的不況を背景に フランスでサミットが行われた。三木武夫内閣の時。 【現代 04】(2012 年・追) 1.世界不況への対応を協議するため,先進国首脳会議(サミット)がはじめて開催された。 2.沖縄返還協定が調印され,翌年の協定発効をもって沖縄の日本復帰が実現した。 3.東京オリンピックの開会にあわせて,東海道新幹線が東京・新大阪間で開通した。 答➡ 【現代 04 解答】[3→2→1] 3.東京オリンピック(1964 年)・東海道新幹線の開通は 1960 年代半ば池 田勇人内閣。2.沖縄返還協定が締結(1971 年)は佐藤栄作内閣。1.オイルショックへの対応を協議 する第 1 回のサミット(1975 年)は三木武夫内閣。 【現代 05】(2010 年・本)戦後の社会。 1.東海道新幹線の開通により,東京・大阪間の移動時間が大幅に短縮された。 2.「列島改造」政策が打ち出され,東京・大阪と全国の地方都市とを結ぶ高速道路網の整備が提 唱された。 3.テレビ放送が開始され,白黒テレビの販売が始まった。 答➡ 【現代 05 解答】[3→1→2] 3.テレビ放送の開始は 1953 年。白黒テレビは「三種の神器」の一つで 高度経済成長の前半に普及。1.東海道新幹線は,東京オリンピックと同年(1964 年)で池田隼人内 閣。高度経済成長のさなか。2.「列島改造」政策は,高度経済成長が終わる田中角栄内閣。 【現代 06】(2001 年・追)高度経済成長後。 1.円の変動相場制への移行 2.国鉄の分割・民営化 3.第二次石油ショック 答➡ 【現代 06 解答】[1→3→2] 1.ドル=ショック(1971 年)の後,1873 年に変動相場制に移行した。第一 次石油ショックと同年で田中角栄内閣のとき。3.第二次石油ショック(1978 年)は大平正芳内閣のと き。2.国鉄の分割民営化は中曽根康弘内閣のとき。 【その他 07】(2012 年・本)文化財の保護。 1.法隆寺金堂壁画が焼損したことを契機に,文化財保 護法が制定された。 2.原爆の惨禍を伝える原爆ドームが,全人類の文化遺産として,世界遺産に 登録された。 3.フェノロサが,日本の伝統美術の保存と復興を説いた。 【その他 07 解答】[3→1→2] 3.アメリカ人のフェノロサ東京大学の講師をつとめたのは明治時代。1. 太平洋戦争後,間もなく,法隆寺金堂壁画焼損(1949)を契機に,文化財保護法(1950)が制定される。 2.原爆ドームが世界遺産に登録されたのは 1996 年のこと。 【その他 06 解答】[2→1→3] 2.東京府は江戸を改称した明治初期(1868)に置かれる。1.市制・町 村制(1888)制定は明治憲法の制定過程で,府県制・郡制(1890)制定とともに進められた。3.美濃部 亮吉が東京都知事に当選した(1967)のは高度経済成長のころ。 【その他 06】(2006 年・本)東京について。 1.市制・町村制が制定され,東京市が設置された。 2. 東京府が置かれ,その長として新たに東京府知事が任命された。 3.美濃部亮吉が東京都知事に 当選した。 【その他 05】(2007 年・本)日本の伝統文化。 1.塙保己一は,日本の古典史料の刊行を進めた。 2. 柳田国男は,民間伝承を研究し,日本民俗学の基礎をすえた。 3.岡倉天心らは,日本美術院を 結成して伝統美術の発展をはかった。 【その他 05 解答】[1→3→2] 1.江戸時代のこと。国学者塙保己一は『群書類従』を編纂した。3.岡 倉天心は,明治中期,東京美術学校設立(1887)に尽力し,日本美術院を結成(1898)した。2.柳田 国男は,明治末から大正時代にかけて『遠野物語』を出すなど民俗学の基礎を築いた。 【その他 04】(2006 年・追)京都の自治組織。 1.町年寄などの代表が,町法にもとづいて町を運営し た。 2.町内会・隣組が設置された。 3.『耶蘇会士日本通信』に町衆の自治の具体像が描かれ た。 【その他 04 解答】[3→1→2] 3.戦国時代のこと。『耶蘇会士日本通信』で有名なのは堺の町を紹 介したガスパル=ヴィレラの書簡。1.江戸時代のこと。2.隣組は大政翼賛会(1940 年に組織)の末端 組織。 【その他 03】(2011 年・追・改)室町以降の宗教。 1.本願寺の顕如が諸国の門徒に織田信長への反 抗をよびかけ,各地で一向一揆が展開した。 2.神道や南学などの影響を受けた山崎闇斎が,垂 加神道を唱えた。 3.日蓮宗の信者と,延暦寺が衝突する天文法華の乱が起こった。 【その他 03 解答】[3→1→2] 3.天文法華の乱(1532)は 16 世紀前半。1.織田信長と本願寺の戦い である石山合戦(1570~80)は 16 世紀後半。2.山崎闇斎が垂加神道を唱えたのは江戸時代(17 世 紀)。 6 武器としての日本史 Pain is inevitable Suffering is optional 【その他 02】(2011 年・本)動物の作品。 1.動物を擬人化して当時の社会を風刺した『鳥獣戯画』が 描かれた。 2.「見ざる言わざる聞かざる」の三猿などで知られる日光東照宮が造られた。 3.狩野 永徳が,障壁画の代表作『唐獅子図屏風』を描いた。 【その他 02 解答】[1→3→2] 1.『鳥獣戯画』は平安末期文化の作品。3.『唐獅子図屏風』は桃山 文化の作品。2.日光東照宮は寛永文化の作品。 【その他 01】(2008 年・本)農業技術の歴史。 1.脱穀用の千歯扱や選別用の唐箕が広く用いられた。 2.石包丁による穂首刈りが広く行われた。 3.肥料として草木灰が普及しはじめた。 【その他 01 解答】[2→3→1] 2.弥生時代のこと。3.中世(鎌倉時代)のこと。1.江戸時代のこと。 7
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